詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

松尾静明「秋の終わりに」ほか

2013-10-19 09:04:30 | 詩(雑誌・同人誌)
松尾静明「秋の終わりに」ほか(「折々の」29、2013年07月01日発行)

 詩はむずかしいなあ、と思うのは、たとえば松尾静明「秋の終わりに」のような詩を読んだとき。

木杭の先にとまってトンボが
裸木の肌をつたって薄らいでいく

 あ、だんだん消えていくトンボ。おもしろいなあ、と思ったら、

木杭の先にとまってトンボが
裸木の肌をつたって薄らいでいく
秋の終わりの陽を見ている

 なんだ、薄らいでいくのはと「秋の陽」か。そうだったのか。まあ、それは常識的なことがらだね。でも、その常識的なこと(流通イメージ)も行替えのあるかないかだけで、驚きが違う。
 そして、「そうだったのか」も単純な「そうだったのか」ではなくなる。
 「薄らいでいくトンボ(死にゆくトンボ?)」と「薄らいでいく秋の陽」が重なる。どちらでもいい。いや、松尾が書いているのは、文法的には「秋の陽」だからこそ、そうではなく、トンポに肩入れ(?)したくなる。トンボの気持ちを読みたくなる。
 というのは、松尾も同じなのだろう。松尾の場合は「読みたくなる」ではなく「書きたくなる」だけれど。そのどちらにしな、ここでは不思議な「一体化」が起きている。秋の陽のことを書いてあるけれど、それにトンボが重なる。
だから、それが自然に、

ふと
トンボは 身震いをする
--どうして ここなのか

羽に 肌寒さが纏わりついてくる
--どうして この位置なのか

 松尾がしらずしらずトンボになってしまっている。これはいいなあ。松尾がしらずしらずにトンボになるように、私も知らず知らずにトンボになって考え込んでしまう。
 ここまでは、非常によくわかる。
 詩は、たぶん、ここまででいいのだと思う。でも、書いているひとは、それではちょっと不安。自分の思っていることをほんとうに書き切ることができたのか--これで私の不安が伝わるのか……。
 で、どうしてもそれを説明してしまう。それが以下の部分。

木杭の先から
農道の降っていく老いた男の姿が見える
痩せた人参と 歪んだ牛蒡を提げて
ゆるい風のように歩いていく
ふいに
確かに 先ほどまで そこに居たのに 男は
夕暮れの村の底へ掻き消えた

トンボは
急いで そこを飛び立つ
見えない思惟を持つもののその思惟に
からまれてしまう前に

そして
見えない思惟を持つものが
己の思惟がもつ酷たらしさに気づいて
どうしようもなく身悶えて
季節を変えていく前に

 「老いた男」は松尾の自画像かもしれない。トンボだけでは何か人間を描いた感じがしないので、どうしても人間を書き加えてしまう。「痩せた」人参、「歪んだ」牛蒡--その形容詞も「老いた」と同じく自画像に重なる。
 うーん、これでは、あたりまえの抒情詩、「流通詩」になってしまう。
 さらに、そこに「思惟」という「理性」を持ち込むことで「感情」を洗い流し、抒情を洗練させたような気持ちになる。
 これが、いけない。
 「頭」が詩のなかで一人歩きをしてしまうと、せっかくの詩(ものの手触り、ものの個性)が消えて、抽象化した「意味」になってしまう。
 最後の連、もう詩の前半にいたトンボはどこにもいないし、「老いた男」もいない。そこには「思惟」という抽象的な、どこまでも「流通」していく「意味」だけが取り残される。
 こうなってしまうところに「現代詩」のむずかしさがある。
 最初の3連だけならとてもおもしろいのに。もっともっと何か言いたくなる。勝手に「誤読」してつけくわえたくなる。その「誤読」したいという私の気持ちを、そのあとのことばが奪って行ってしまう。
 いや、松尾がそういうことばを書きたい気持ちはわかるが、詩は、書いた詩人のものではないのだ。そのことばを読み、そのことばを必要としている者のものなのだ。
 なんてことは、いうのは簡単で、実際に実行するのはむずかしいんだけれど。

 少し違うのだけれど、八木真央「未来」についても、あることを思った。

テレビで 牛の群れが草を食んでいる
スーパーの店頭で 二割引かれて消滅する未来が
待っているとも知らずに
だらしなく唾液を滴らせ
平たい人生を 下顎を捻じりながら
咀嚼している

 その「人生」(人ではないのだから、「牛生」?)を思うとき、そこに八木の「人生」が二重写しになる。そしてその「二重性」のなかに「意味」が生まれる。「意味」とは違った存在を結びつける「ひとつの考え方」なのである。牛と人間は違う。けれども、生まれて働いて死んでいく--という「一生」を思い描くとき、生から死までの「共通項」が「意味」として動きはじめる。
 それはそれでいいのだけれど。働いて死んでいくだけの「人生」の悲しみというのは、それはそれで書かなければならないことなのだけれど。
 ちょっと視点を変えて、

テレビで 牛の群れが草を食んでいる
スーパーの店頭で 二割引かれて消滅する未来が
待っているとを知って(知り尽くして)

 という具合に、ほんとうはありえないかもしれないことを、ありうることとしてことばで動かしていった方がおもしろいのでは?
 「人生(牛生)」が限定されているとしたら(限定されているからこそ)、ことばでそれを突き破って、別の角度から世界をみればおもしろいのになあ、と思う。

 詩人が書きたいこと(書こうとしたこと)と、それを「誤読」したいひととの思いは違うのである。

松尾静明詩集 (日本詩人叢書 (97))
松尾 静明
近文社
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水嶋きょうこ『繭の丘。(光の泡)』

2013-10-18 11:05:34 | 詩集
水嶋きょうこ『繭の丘。(光の泡)』(土曜美術社出版販売、2013年09月20日発行)

 私はいまとても困惑している。ことばが見つからないのだ。「裂け目」ということばがどこかにあったはずだ。それは「猿飛 Ⅰ」(42ページ)以前のどこかのページ、ある別の作品にあったはずである。これが水嶋きょうこ『繭の丘。(光の泡)』の作品のキーワードである。そのことばを中心に感想を書いていきたいのだが、何度読み返してもみつからない。私は詩を読みながら思いついたことはなんでもメモするのだが、そのメモがない。どこを探してもない。
 まるで、その「裂け目」にすべてが飲み込まれて行って、縫い合わされてしまったみたい。縫い合わされた内部に閉じ込められたみたい。
 --と書くと、私の書きたかったことになってしまうのだが、これはどういうことだろうか。「裂け目」はどこへ消えてしまったのか。(北爪満喜の帯の書き出しに「郊外は裂け目そのもの」とある。北爪も「裂け目」に注目したのだろう。--帯には傍線も、書き込みもない。私の書き込んだ「裂け目」に関することばはどこへ行ってしまったのか。ほかのページの付箋と、傍線と、書き込みは残っているのに……。「夕暮れのニュータウン」には「荒れた郊外の空間を切り裂くこともあり」という1行があり、そこにも私はしっかりと傍線を引いているのに……。)
 仕方がないから、「妄想」を書く。
 水嶋の「裂け目」は別のことばで言いなおすと、

いやになっちゃう

 である。「ガラス玉の家」には2回出てくる。(もっと出てくるかもしれないが、私は26ページと27ページの「いやになっちゃう」に傍線を引いている。)
 で、この「いやになっちゃう」を別なことばで言いなおすと、

気持ちいいんだか、悪いんだか、もう、どこにいるのかわかんない。  (26ページ)

 ということになる。「気持ちいい」と「気持ち悪い」は明らかに違う。そのあいだには明確な区別(裂け目)があるはずである。けれども、それが「わからない(区別がなくなる)」というのが水嶋にとっての「裂け目」のあり方なのだ。
 あるはずのものが見えなくなる。
 これが「いやになっちゃう」ということ。
 「気持ち悪く」て「いやになる」のではない。「気持ちよく」て(よすぎて?)「いやになる」のでもない。「どっちかわからない」から「いやになる」。
 もし、「裂け目」がなかったら、
 もし、ことばに「いい」と「悪い」の違いがなかったら、
 きっと水嶋は「いやになる」ということはない。

 「わからない」を私は「区別がない(裂け目がない)」という具合に言いなおしてみたが、水嶋自身はどう言いなおしているか。「猿飛 Ⅰ」のなかに次の行がある。

生まれ 出ようとするものと
途絶え 出ようとするものの
混ざりあう皮膜の上を
わたしは 猿と 危うく 渡っているのだと念じました        (47ページ)

 「混ざりあう」が「裂け目」のない状態、「わからない」状態であり、「いやになる」状態なのだ。「裂け目」というのは、連続したもの(A)と別の連続したもの(B)が出合ったところに存在する。それが対立するときそこに「裂け目」がある。「裂け目」によってAとBに別れて対立する(向き合う)ということが生じる。そのときの特徴として、AにしろBにしろ、それには「広がり(大きい、大きさ)」がある。
 「混ざりあう」とき、AとBに広がり(連続)とか大きさというものはない。大きさを失って、それは「混ざりあう」。それは「接続」ではないのである。果てしない「断絶」(接続の否定)が「混ざりあう」なのである。
 「現実」の「連続」が否定され(切断され)、細分化される。その結果、ありえないものが「微小」の単位で接近し合う。「混ざりあう」というのが水嶋の世界なのである。
 「猿飛 Ⅰ」は台風の近づいてきた日のオフィスの一室が舞台。田口と名づけられた男が働いている。窓から見える木々は風で揺れる。それを見ていると、田口に猿になって枝にいる……という感じで「物語」がはじまる。
 台風が近づいて生きているときの「現実」が「細分化」される。それは連続しているものだけれど、ことばでひとつひとつ描いていくと、描くたびに「現実」が細分化される。
 この描写は、

留めようとすると ぎこちなく動く自分の手足から
老木と同じ暗緑の葉擦れの音がにじみでて それは
米粒のように見える真下の風景に垂直に落ちていった     (「風子」20ページ)

 という具合に、ばらばらになる。ほんとうはつながっていたものが、内部から「にじみでる」ように細分化されて独立してしまう。ことばによる「世界」の描写は、そういう「危険」を抱え込んでいる。(それは垂直に落下する。あるいは水嶋は書いていないが上昇もするし、四方に放出されることもあるだろう。問題は、「米粒」のように小さく分裂して、「混ざり」安くなるということだ。)
 それはどこかで「連続(つながっている)」はずなのだけれど、そのひとつひとつの描写は独立して動こうとする。詩になろうとする(独立したことばが詩だからね)。連続を拒んでいる。
 そのくせ、隣り合う。
 それが進むと「混ざりあう」になるのだ。

 別の言い方をしてみよう。(付箋と書き込みが「裂け目」に飲み込まれて、封じられているので--目の悪い私は、それを探すのに手間取り、結局探し出せなかったので、余白に書き込んである「メモ」をそのまま転写しておく。目の悪い私は一日当たりの書く時間を決めているのだが、もう時間がないので……。いままで書いてきたことと、なんとなくつながる、という感じのことがらなのだが。)
 水嶋の書こうとしていることは……。
 現実を見る--それは簡単なようであって、とてもむずかしい。直に肉眼で見ているようであっても、実は想像(予想)の力で現実を見ている。現実を「予想(相反することばだが記憶ということもできる)」にあわせている。「予想(既存の知識)」で現実を制御している。
 「現実」から想像(空想)が生まれるのではない。空想(想像)、つまり知っていると思っている「偏見(既成概念/流通概念)」が現実を、その「流通する意識」にあわせてつくりあげる。「流通概念」が「現実」を歪めている。
 この「歪み」はなかなか見えない。いいかえると「裂け目」はなかなか見えない。「流通概念」はあらゆる「裂け目」をすばやくふさいでしまう。
 その「流通概念」がふさごうとする「裂け目」をもういちど切り開くのが詩なのだけれど。(裂け目をもう一度つくりだすことで現実を覚醒させるのが詩なのだけれど。)
 とするなら、その「裂け目」をどうやってつくりだすか。ほんとうの「想像力」をどうやって出現させるか。
 もう一度、先の引用をくり返そう。

生まれ 出ようとするものと
途絶え 出ようとするものの
混ざりあう皮膜の上を
わたしは 猿と 危うく 渡っているのだと念じました

 「生まれ 出ようとする」「途絶え 出ようとする」--この対立。特に「途絶え 出ようとする」という1行のなかにある、もうひとつの「対立(矛盾)」が、たぶん、重要なのだ。
 「途絶える」ものはたいてい「葬り去られる」。けれど、水嶋はそれを「葬らない」。「途絶え 出ようとする」は、水嶋のことばによって「途絶え 生まれようとする」ものに変わるのだ。途絶えるもものも生まれる。途絶えるものを生み出す。そうして、生まれ出てくるものと「混ざりあう」。「混ざりあ」わせるために、水嶋は、ことばを書く。

 --というようなことを私は書きたかった。書きたいと思いながら余白にメモをとったのだが、これから先は書かない。これから先を書いてしまえば「意味」になってしまう。「意味」になってもいいのかもしれないけれど、「裂け目」ということばの存在が見つからない以上、これから先を動いていくことばは私の「思い込み」を超えてしまう。「誤読」を超えてしまう。
 それでは詩の解放にはならないと思うから。
twins
水嶋 きょうこ
思潮社
コメント (1)
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内田良介『海と書物』(2)

2013-10-17 10:54:21 | 詩集
内田良介『海と書物』(2)(思潮社、2013年10月01日発行)

 一昨日の日記で最後に引用した「傍線」はとても美しい作品だ。

埃をかぶった古い書物の
黄ばんだ頁をめくる
何度読んでも理解できなかった
そそり立つ一行の深淵に
ひと筋の光がさしている

 「光」とは「意味」かもしれない。かつては気づかなかった「意味」が見える。「意味」は「闇」ではなく、「光」。それは人間を導いてくれる。深淵(闇)から、人間が生きるべき場所へと。 「ひと筋の光がさしている」というしっかりした比喩の力がある。
 その詩のなかの火か名のように。
 書物を読んで、そういう一瞬を感じるときがある。自分ではわけのわからなかったなにかが、その筆者のことばを潜り抜けることで、あ、こういうことだったのか、といままでとは違った場所を案内してくれる。
いいね。
 そういうことは人生においては何度も起きる。しかし、それはそのまま「持続」するとはかぎらない。
 2連目。

読んだはずのない数行に
引かれていた傍線と
消え欠けた書き込み
それは確かに私の字体なのに
そのことをどうしても思い出せない

 傍線を引いたことを思い出せない。どんな「光」を見て、傍線を引いたのか、思い出せない。
 それは、どこへ行ってしまったのか。自分自身の「肉体」になってしまったのか。でも、自分自身の「肉体」になるということは、それを「おぼえる」(いつでも「つかえる」)ということだから、何か違うね。
 こういうことは、内田にかぎらず多くのひとが経験することであるかもしれない。私自身も、そういうことがよくある。あれ、この傍線、何のために引いたのかなあ。どうしてこの行に感心したのかなあ……。そういうことが。
 このあと、詩は「忘れてはならない多くのことを/きっと忘れているだろう」「そのとき(傍線を引いたとき--谷内・補註)何を感じたのだろう/もしかして我知らず/異神の声を聞いたのではないか」というようなことばを動き、
 後半。

滅ぶべきものはいつ目覚めたのだろう

 という美しい美しい美し美しい1行がある。
 あるとき傍線を引かれ、気がつけば忘れ去られている1行。それは「滅ぶべきもの」だったのだ。忘れ去られたのではない。滅んでいったのだ。しかし、そういう「滅び」を生きるものも、最初から「滅び」をめざしているわけではないだろう。「滅ぶ」ことなど知らずに、それはあるとき「目覚めた」のである。
 この「滅びる」とういことを知らずに「目覚める」という運動の「かなしさ」のなかに抒情のすべてがあるのかもしれない。その「目覚め」が滅びるという自分の運命を知らないように、その目覚めに気づいたとき、内田も「滅びの運命」などしらず、生きる何かを感じ、他からこそ「傍線」を引いた。そのとき、傍線をひかれたことばと内田は「一体」であった。そして、その「一体」のまま、ことばも、そのことばによって目覚めた内田も滅んだ……。そのことが、深淵に射し込んできたひと筋の光のようにくっきりと見える。それが「抒情」である。
 「滅びの目覚め」が、いま「目覚める」のである。
 これは「矛盾」だけれど、矛盾だから、詩。
 「滅びが目覚め」、「目覚めが滅びる」がくり返される。どちらになるか、それはそのつど比喩になってあらわれるだけである「目覚め」の喪失は「そのつど違った比喩になるしかない」ものである。

 あ、何を書いているのかなあ。ことばが上滑りしている。ことばはかってに論理(意味)をつくってしまうという危険に満ちている。

 ということは別にして。
 この詩集を読むと不思議な気持ちになる。読み進めば読み進むほど、「もの」が消えていく感じがする。そして「意味」があらわれてる感じがする。「意味」というのは「抒情」なのだけれど。内田は抒情詩を書いている、ということだけが静かに浮かび上がり、でも具体的な「もの」としては何を書いたのかなあ、ということがわからなくなる。

わたしは風と樹木と海によって
編まれた一冊の書物である

 これは「海と書物」の書き出しの連だが、内田の書いているのは「書物」ではなくて、「ことば」そのものだけという感じがする。「もの」の存在がすべて消えて抽象化し、「もの」がすべて滅びて消えてしまい、抒情だけが残る--ということをめざしたことばの運動なのかもしれないけれど。

海と書物
内田 良介
思潮社
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廿楽順治『人名』

2013-10-16 10:33:29 | 詩集
廿楽順治『人名』(思潮社、2013年09月20日発行)

 (きのう読んだ内田良介『海と書物』のつづきを書くつもりでいたのだけれど、ちょっと気分転換にと思って手をのばしてしまった詩集に、つかまってしまった。で、予定変更。--というのは、書かなくてもいいことかもしれないけれど。)

 何度か感想を書いたことのあるひと詩集の感想はむずかしい。同じことを書いてしまうか、まったく違うことを書いてしまうか。同じことをかけば、それは読んだ、と思われるし、違うことを書くと前の感想と違うと言われるし。ま、人間って、そういう自分勝手なものである。だから、私も自分勝手。同じ感想をになろうが、違う感想になろうが、感想は感想。感想なんて、その日の気分次第。
 「山本三五郎」については、読んだ記憶は鮮明にあるが、感想を書いた記憶ははっきりしない。以前に読んだときとはまったく違うことを書くことになるな(同じことを書いても、付け足す部分はまったく違うな)という予感。
 前に読んだときと、いま読んだときのあいだに、時間があって、そこで起きたことが影響するからである。そういうことを書くことになるな、と思う。
 作品は尻揃えの形をとっているが、頭揃えで引用する。正確な形は詩集で確かめてください。

さんごろうさんは
あぶないひとだ
ひだりの頬から首にかけて
ざっくり
観念というものがわれている
どうだいきれいだろう

 ふいに「観念」ということばが割り込んでくる。でも、その「観念」はすでに「肉体」になっている。つまり、すぐに「意味」を「定義」できない。「定義できない」というのは「定義する必要もない」ということといくぶん似ている。「観念」なんて「流通」しすぎていて、「意味」がなくなっている。言い換えると、「観念」というものの「定義」は人の数だけある。三五郎の「観念」と廿楽の「観念」と私の「観念」は違っている。どこかに共通項があるかもしれないが、厳密には違っている。で、人の数だけ「観念」があるからこそ、

どうだいきれいだろ

 という強引なことばがあらわれる。「きれいだろ」と呼ばれているのは「頬から首にかけて」の傷痕かもしれないが、その傷痕を三五郎は「きれい」と呼ぶとするなら、そこにはある種の「観念」(そのひとの思い込み--傷は男の勲章とかなんとか)なんていうものが入り込んでいる。そんなものは「観念」ではないというひともいるかもしれないが、「男はどうなるべきか」という思いと傷がつながっているなら、そこにはやっぱり「観念」が入っているのである。
 もし「観念」というものが「頭のいい人」がいうように、アドルノだのベンヤミンだの(デリダだったかな?)のいう「観念」という「意味(定義)」なら、こんな具合にはならない。あ、カタカナの名前が違っている?--そうだろうね。私は自分に関係ないことは他人がどんなに一生懸命説明してくれても、簡単に要約してしまう。何だか外国の人の名前を語っていたが、あれは外国の哲学を読んでいるぞと言いたかっただけなのだ--というのが私の要約。ようするに、「頭のいい人」ということを強調するために発せられたことばなのだから、「頭のいい人」なら読んでいそうな名前ならなんだっていいんだ。
 ちょっと脱線したが、「意味」のあいまいなことば、「意味」よりもその人の肉体の印象が強いことばが廿楽に押し寄せてきて、廿楽をのっとって、廿楽のことばを消していく--ようであって、消していかない。
 廿楽にとっても「観念」というのは、もう「肉体」になってしまっていて、きちんとした「定義」なんか必要ないから、あいまいな意味をあいまいなまま生きていく。「傷が美しい」ということに同調するのは「あぶない」。とっさに、そういうことばが出てくる。「あぶない」は「観念」と同じくらいに「肉体」になじんでいる。「肉体」がかってに意味をおぼえているので「あぶない」としか言えない。言い換えると、なんだか違うものになる。「定義」なんか、いらない。「あぶない」が「肉体」わからない人には、それを「頭のことば」で言い換えたところでわかりっこない。

 何が言いたいかというと。(という具合に、私はかってに説明するふりをして「飛躍」して、すべてをごまかす。)

 何が言いたいかというと……。
 どんなことばにも人の数だけ「意味」がある。つまり「定義」できない、あいまいなものを内部に抱え込んでいる。それはまるで「肉体」そのものである。人の数だけ「肉体」がある。そして、それは人の数だけ違った動きをする。
 医者にとっての「肉体」は病気があらわれる「場」であるけれど、ふつうの人間にとっては、勝手な思い(観念)があらわれ、具体化する「場」である。
 学者ではなく、庶民なら、あらゆることばの「定義」は、とっても大きい。ことばの定義なんか違っていても暮らしていけるからである。
 「観念」なんて、「考えていること」くらいの「意味」にしてしまうと、前にも書いたが「おれの傷口はかっこいいだろ」さえ「観念」である。しかも、それがややこしいことには、「うん、かっこいい。きれいだ」という思いを引っぱってしまう。聞いている人の「肉体」から「かっこいい、きれい」が表に出てくる。やくざとけんかして、その証拠が傷になって残っているなんて、どこか自慢したいなあ。私は、そんなことなんか、できないからね。
 何かが違うって? もちろん違うさ。だって、詩なのだから。詩は「現実」とは違うものなのだ。「現実」と同じなら「現実」。詩、という「名前」はいらない。

 違う言い方をしてみよう。「みよちん」。

もうだれもそのひとのことをがわからない
あつまった四五人の
記憶の土地で
雨風にさらされている
みよちんはさびた釘になってしまった
ひらべったい
あたまだったなあ
背がひくくて棒みたいにやせていたなあ

 釘(さびた釘)は比喩である。比喩というのは「具体」ということであって、それは「意味」以前である。それは「象徴」のように「意味」を生み出すのではない。「意味」をたたきこわして「意味」以前にひきもどす。平べったい頭。棒みたいな体。つまり「釘」だな。
 それは「意味(定義)」ではないから、ひとは(私は)そこにへ引っぱられていく。自分のことばをなくしてしまう。つまり、私は「釘」という比喩を読むことで「みよちん」を知るのではなく、むしろ、みよちんを知っている廿楽の「肉体」そのものになってみよちんを見てしまう。
 いやあ、他人のことばに触れることは、他人になってしまうという危険性をもっていることなんだなあ。でも、この危険は、セックスと同じで(私はむしろセックスと呼んでしまうのだが)、わくわくしてしまう。
 みよちんが釘だなんて、「わからない」。でも、その「わからないもの」の奥に「わかるもの」がある。「頭」ではなく「肉体」がおぼえているものが動く。
 この「おぼえているもの(こと)」、「おぼえている」という動詞そのものを、廿楽は「会得」と呼んでいる。(「児玉健一」の2行目に、「会得」が出てくる。)--ということを書くと、私の「感想」は「批評」になってしまうので、そういうことはしない。この詩集は批評してしまうと、廿楽の思うつぼ。いや、そのつぼにはまってしまうのもいいだろうけれど、はまらずに、その周辺で遊ぶ方が楽しいから、私はそれ以上の「意味」は書かないのだ。

 「定義」について、もうちょっと。「「いわた」さん」という作品。--これは、感想を書いた記憶がある。そのとき書いたことと少し重なることを書くと思うけれど。

「いわた」さんの下の名まえはわからない
下の人生がないままで
そのころ毎晩うちの店にやってきた
ひとはわるくないが
いい年をして所帯をもたない
知り合いの娘さんを紹介しようとすると
いつも怒るんだ
だからもう何もいわない
父は「いわた」さんの下について断定した

 この引用の最後の「下」は、「下半身」の「下」。「所帯をもたない」というのは結婚しないこと、というのはセックスしないこと。
 えっ、でも「下の名まえ」ということろから「下」ははじまっているのに、そんなふうにねじまげていいのかって?
 いいにきまっている。「定義」はゆるやか。そのゆるやかな部分をゆりうごかして、なおいっそう、だらしなくさせる。そうすると「頭」ではわからないものが「肉体」でわかるようになる。
 「定義」のずーっとずっーとずーっと奥にある、「定義」以前の「こころ」がある。
 下の名まえに関心をもつということは、そのひとを「いわた」さんと呼ぶ以上に関心をもつこと。プライバシーに関心をもつこと。だから、「所帯(セックス)」の方に関心がゆき、「下」といえば「下」のからださ。
 これは「頭」ではなく、「肉体」がおぼえていること。
 その「肉体」がおぼえていることが、ぐい、ぐい、ぐいっと、いやあるときは、こちょこちょっとくすぐる感じで「肉体」に侵入する。あ、そこじゃないのに。あ、そこ、そこをもっと……ね、ことばがセックスするんです。
 



詩集 人名
廿楽 順治
思潮社
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内田良介『海と書物』

2013-10-15 09:33:48 | 詩集
内田良介『海と書物』(思潮社、2013年10月01日発行)

 内田良介『海と書物』はとても静かで抒情的な詩集である。--と、思わず私は書いてしまうのだが、抒情とは何だろうか。
 「潮騒」の書き出し。

樫の木は風に揺れていた
堤防の向こうには海が広がっていた
空には雲が流れ
私は佇んでいた
名を失いしがらみから解き放たれて

驚きのあまり
問わずにはいられなかった
そのように在ることの意味を
世界は静まりかえり
欠けた彫像のように青ざめた

 2連目の「意味」。そのことばと抒情は関係があるように思える。
 「意味」は1連目の最後の行の「名を失い」ということばと向き合っているように思える。「名を失」っても、「もの」はある(存在する)。そのとき、その「もの」の「意味」もなくなっているような気がする。そして、意味を失った不安定な感じ(喪失感)が抒情のひとつであるような気がする。
 「名を失」うことを、内田は「しがらみから解き放たれて」と書いている。「しがらみ」を関係と言い換えてみようか。名前を失うことは関係から解き放たれること(関係を失うこと)であり、関係を失うということは自分の「位置」を失うことである。それは「意味」を失うことと同じような感じかもしれない。
 だから、抒情は「名前を失うこと」「意味を失うこと」関係がある。
 と、少し書いただけでわかることがある。
 私のことばは「意味」をもとめて動き回る。「意味」が動き回っているのかもしれない。ことばが動き回るというよりも。そして、その動き回る「意味」は「失われた意味」なのだと思う。
 --と、書くと。
 何か矛盾してしまう。堂々巡りになる。でも、この矛盾と堂々巡りがきっとこの詩の「深み」なのだ。

 内田の詩のなかでは、「私」は名前を失う。それは「私の意味」を失うということ。「私」が「関係(社会)」のなかで、孤立する。孤立しても、「意味」はなくても、内田は存在する。
 その「意味」は? 内田を他人とつなぎとめる「関係」ではなく、内田自身が孤立してもなお内田であることの意味は?
 このとき、「意味」は「関係」ではなく、「存在(存在すること)」と結びついている。「社会の関係」から切断されて、「私(内田)」がただ「存在すること」と結びつけられて思考されている。それは、なんといえばいいのだろう。一種の「存在論」と結びついているといえばいいのかな? 「存在するとは何か」を考えているのかもしれない。
 「存在するとは何か、どういうことか」ということのなかに「ほんとうの意味」(みつけなければならない意味)がある。
 あ、また堂々巡りだ。

 「意味」を探す動きが、新しい名前を探すという方向に向かうとき、あるいは失われた名前(失われた意味)を、「存在論」を基盤にして考えるとき、それは抒情になる。
 うーん、こういう書き方はよくないね。
 わたしのことばは「意味(論理)」を偽装している。ことばは書きつらねるとどんな「論理」にでもなることができる。そして、その「論理(意味)」は、「頭」で生まれるのだけれど、「頭」を裏切る。ほんとうに見つけなければならないことを隠してしまう。わかったような「論理」を補強するために動き、動いている内に、それを信じてしまう。
 失われた名前(自分の存在を示す刻印)を、行動として探すのではなく、存在論を思考することばとして探すとき、不在と存在が拮抗し、その緊迫感のなかで悲しく佇むのが抒情である--などと、でっちあげてしまう。
 いや、これは内田がそういうことをでっちあげているというのではなく、内田のことばをうまく追いきれない私(谷内)がでっちあげているだけのことなのだけれど、こういうでっち上げは論理の不十分さを隠すために、どうしてもキザでかっこよくなる。「詩」っぽくなるなあ。
 と、また脱線してしまった。

 でも、私の、この奇妙な「脱線」(論理の捏造)のなかに、何か抒情と関係するものがある。存在しないはずのものを「論理の捏造」によってつくりだしてしまうことと関係しているように思う。
 で、何をつくりだすか、というと。
 感情だね。悲しみの感情。敗北する感情がつくりだされ、それによって「頭」が動かなくなる。
 もちろんこれを、失われた感情の回路を「頭」が復元し、その回路をたどることを存在論の根拠とする--それを抒情と呼ぶ、と言いなおすこともできる。

 えっ、どこが言い直しかって?
 どこでもない。多々、そんなふうにことばをつないで、そこに「論理(意味)」を偽装してみただけなんだけれど、私は。
 そういう奇妙な動きを誘い込む力が、内田の詩にはある。私が頭が悪くて、感じていることを論理的にかたれないだけなのかもしれないけれど。

 何を書いているのかなあ。私も、よくわからない。
 だから、詩にもどる。内田が書いていることばそのものを、もう一度読んでみる。
 3連目を飛ばして、4連目。

もとめ続けていた不死は
ふり返ればどこにもない
語りによって 悲しみによって
遠く隔てられながら
かなわぬ帰郷を夢見ていた

 「不死」ということばに、私はつまずいた。そこで、はた、と考えた。
 1連目の最終行「名を失いしがらみから解き放たれて」というとき、「私」は「私」ではない。「私」をつなぎとめる「関係」は「名」ととも消えてしまっている。では、「私は私ではない」と自覚するとき、内田は何を発見するのか。
 「人間」である。むき出しの、無防備の、なまの人間。全てから切断されて、孤立して、それでも存在する「人間」。それに、どういう意味があるのか。「存在論」として、内田は自問するのである。
 その答えになるかどうかはわからないが、そのとき内田が引き寄せたのは「不死」ということば。これは生身の「人間」の対極にある。「人間」というものは「死ぬ」存在である。死ななかったら「人間」ではない。
 ここに激しい矛盾--つまり、読み解かなければならない「思想」の核がある。
 人間は死ぬ存在である。しかし、人間は同時に不死をもとめる生き物である。--このとき「不死」は「肉体」ではない。「肉体」ではない何か。これを定義することはむずかしい。ときどき、それは「精神」と呼ばれる。(私は、この肉体と精神の二元論が、どうも嘘くさく感じられて嫌なのだが……。)
 関係を否定され(しがらみから解き放たれる、追放を、そういうふうに呼ぶこともできるだろう)、孤立する「肉体」。そのとき「精神」も孤立しているのだが、「精神」は孤立したまま「肉体」を超える。もし、そのときひとりの「肉体」に限定される精神ではなく、多くの人に共有される精神になれば、精神は生き残ることができる。
 そんな、まぼろし。
 このまぼろしは、自分自身で呼んでしまって、勝手にもう一度敗北することが抒情かもしれない勝ち残る精神ではなく、敗北するという、永遠になくならない精神のとして生き残る。そういうものを目指すのが抒情詩かもしれない。
 あれっ、また、書きすぎて、私が考えていること以外が暴走し、「かっこ」をつける。「かっこいいだろう」と言い張る。 いやだね、ことばの暴走は。「頭」で考えると、どうしてもこうなってしまう。

 うーん、うまく言えないのだが。
 内田の詩を読んでいると、読み進めば読み進むほど、作品の個別性が消えて、静かな抒情という「意味」だけがあらわれてくる。それは全体が抒情によって統一されているということなのだけれど、「意味」があらわれて「もの(存在の手触り)」が消えるというのは、ちょっと困るなあ、と思う。
 何が困るのか、まだ私には言えないけれど。

何度読んでも理解できなかった
そそり立つ一行の深淵に
ひと筋の光がさしている                      (「傍線」)

 という3行も、とても美しいのだけれど、何か抒情ということばでひとくくりしてしまうと、ほかの抒情と区別がなくなるようで、こわい。
 あす、もう一度読み直してみようかな。

海と書物
内田 良介
思潮社
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小笠原茂介「吹雪」ほか

2013-10-14 10:42:39 | 詩(雑誌・同人誌)
小笠原茂介「吹雪」ほか(「午前」4、2013年10月05日発行)

 小笠原茂介「吹雪」は死んだ妻のことを(妻のまぼろし)を書いている。

眠れずにいたが
気づくと窓がしずかになっている
吹雪が止んだようだ
ベッドをでてカーテンの隙間から見おろすと
まだ未明
薄明かりの雪道より白く
なにかが うごめいている
眼を凝らすと朝子だった
夕方ぼくが道に落とした生垣の天辺の氷塊を
素手で 必死に
また乗せあげようとし
そのたびに雪の急な傾斜をともに転げ落ちる
あきらかに朝子には無理
氷塊はたくさんあるのに
まだひとつも戻されていない
---もう止めたら 風邪を引くよ
あたりは寝静まっているので
低声でも まっすぐに声はとどく
---だって さっき隣の奥さんの車が帰ってきて
   ここでつかえていたわ
それはぼくも気にしていた
だから眠れずにいた
なにもいえず茫然としていると
また激しさをました吹雪のなかに
朝子は消えた

 「それはぼくも気にしていた」の「も」がいいなあ。
 妻は死んでしまっているので、「さっき隣の奥さんの車が帰ってきて/ここでつかえていた」ということは知らない。知っているのは「ぼく」だけである。
 でも。
 そういことがあったら、妻は、それをとても気にする。自分の家の氷塊が道をふさぎ、となりのひとが家に帰るのに苦労している。自分の家の氷塊(といっても、それは自然現象なのだけれど)が原因というのは、自分が原因ということと同じなのだ。「ぼく」はそういうことは少し気になる。妻の方はもっと気になる。そしてなんとかしようとする。その姿が小笠原には見える。
 そのときの「妻の方がもっと」という感じが小笠原の「肉体」のなかにあるので、妻が先、それから「ぼく」という意識が働き、「も」になるのだ。妻は氷塊を気にする。そして、ぼく「も」。
 なんでもないことのようだけれど、ここに「生前の暮らし」がある。いっしょに生きていたときの「時間」の濃密なあたたかさがある。
 「ぼく」が少ししか気にかけないことでも、つまはとても気にしてあれこれ気を配っていた。だから、眠ってしまう「ぼく」のかわりに、わざわざ妻が帰ってきたのだ。小笠原は、妻を愛しているが、その愛は、同時に妻からも帰ってくる。夫のことを愛しているから、死んでしまったのに「いま/ここ」へ帰ってきて、「ぼく」のために体を動かしている。
 これは、気持ちのなかだけで起きること。だから、「ぼく」がそのことに気づけば、妻の仕事は終わった。消えていく。「私はいつもこんなふうに気を配っていたのよ、ひとりになったらつらいかもしれないけれど、私のしたぶんまで気を配ってね」と言い聞かせているようだ。その声を小笠原は聞いたのだと思う。
 生きているときは、そんなことを言われたら「ぼくだって(も)気を配っているさ」と反論したかもしれない。でも、いまは反論しない。「ぼくも気づいていた」んだけれど、と小さくつぶやいている。
 「も」の呼吸(声に出すときの力加減)がきっと違うね。
 そういうことを感じさせる詩である。



 尾花仙朔「秋扇霊異鈔」は、タイトルからわかるようになんだか古めかしい。現代という感じはしない。

秋の貌を見たよ
秋の霊が女人(にょにん)の姿に化身して
彼のの原にひとりひっそり佇っている
秋の扇の絵姿の
どこか侘しく憂い気な
けれど気品の備った
かすかに頸傾けた秋の貌
眸の奥は碧(あお)く澄んだ湖(うみ)の色

 で、内容もやっぱり古めかしい。ムジナが女に化けるなんて、ね。で、非現実的なのだけれど、

秋の扇の絵姿の

 これは? やっぱり非現実的? そうでもないね。
 つまり、最初の3行は、現実のムジナを描いたのか、それとも扇に描かれたムジナを描写しているのか--わからない。どっちともとれる。その「中立性(?)」のなかへことばが動いていく。そうか、「古めかしい」世界も、こんなふうに「中立性」を獲得すると、それが詩になるのだな。どっちへ進むか、それは「読者」しだい。作者にも意図はあるだろうけれど、その意図通りに読む必要はないだろう。その自分勝手に動いていこうとすることばと尾花のことばが拮抗する。勝手に読者があれこれ思わないように、ぐいとことばのリズムを整える。そのことばの落ち着きがおもしろい。

地中海の月
小笠原 茂介
思潮社
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詩と「マッチョ思想」の関係(阿部嘉昭の場合)

2013-10-13 22:37:27 | 詩集
詩と「マッチョ思想」の関係(阿部嘉昭の場合)

 私は阿部嘉昭『ふる雪のむこう』に「マッチョ思想」が感じられる、と書いた。私のいう「マッチョ思想」とは「流通概念(既成概念)」を流用し「頭」でことばを動かすという態度である。自分の肉体で考えるのではなく、他人の考えたことば(社会に流通していることば)を借りて、その「流通している考え」で「頭」を補強すること。「権威主義」にも通じる。
 これに対して、阿部は、

自己のみを基準にした前近代的批評の、救いがたい迷妄・暴力性・マチズモだ

 と定義している。
 私の考えとは正反対である。私は、「自己のみを基準とした」ことばを「詩」と定義している。それは「前近代的」であるかどうかはわからないが、個人の直接性がある。「近代/現代」というもので武装していない無防備がある。
 私は阿部の定義する「マチズモ」で阿部の詩に「マッチョ思想」が感じられると書いたのではない。むしろ逆である。「自己のみを基準」とせず、「権威(流通する概念/流通を獲得した概念)」と「頭」で判断しているものを流用し、寄りかかり、ことばを動かしているから、それを「マッチョ思想」と呼んだのである。別な言い方をすると、「流通している他人の思想」で武装することを「マッチョ思想」と呼んだのである。
 女は男に従っていれば幸福である--というような「流通概念」で女性に向き合う人間を「マッチョ思想」の持ち主という。その考え方は、その人が、ひとりの大切な人間と向き合うことで、手探りでみつけだした指針ではなく、彼が育ってきた過程で聞かされてきた「流通概念」である。そういうものが感じられるとき、私はそのひとの考えを「マッチョ思想」と呼ぶ。その人が、自分だけの肉体で、いま目の前にいる女性との関係で作り上げてきた考え方なら、それがどんな関係であれ、それを私は「マッチョ思想」とは言わない。その考えに私は与することはしないが、それが個人的なもの、個性であるかぎりは「詩」であると思う。

自己のみを基準にした、救いがたい迷妄・暴力性をもったことば--それが詩である。

 で、これから書くことは「矛盾」に見えるかもしれないけれど、阿部の詩集のことばよりも、私に対する阿部のことば・批判の方が私には「詩」に感じられる。そこには「マッチョ思想」としか呼べないものがあふれかえっている。こんなに「マッチョ思想」を書きながら、自分を少しも「マッチョ」と感じていないのは、「マッチョ」が「肉体」になってしまっているからである。「流通/権威」と自分を同一化し、そこに安住し、その「権威」を押しつける。
 これは、笑える。
 『ふる雪のむこう』を読んだときは、阿部のことばに「マッチョ思想」を予感したのだが、その後の発言は「マッチョ思想」と私が呼んでいるものそのものである。(繰り返しておくが、それは阿部が「マチズモ」と呼んでいるものとは違う。阿部は、自分の行動を「マチズモ」の対極にあると考えている。)

 私が阿部のことばから感じる「マッチョ思想」。
 笑いすぎて、阿部のことを大好きになってしまった。詩集よりも、はるかにおもしろい。阿部って、こんなに生き生きとした人間だったのだ。
 思想の定義はさまざまだから……。
 この文章を読んでいるひとが、私と阿部の「マッチョ思想(マチズム)」のどちらを自分自身の立場とするか、私は何も言わない。「スタンス」の違いは大切である。「スタンス」が違う、ということろからしか出発できないからね。
 私は阿部の文章に大笑いしたが、その笑いが不謹慎と思うひともいるかもしれないけれど、まあ、以下のようなこと。(かなり長いよ。)

(1)
「上記の欄にしめした悪意のひとは、たぶんぼくが大学の教員であることそのものが気にくわないのだとおもう。」
 阿部が大学の教員であることと、詩と関係があったのか。詩を読むとき、阿部が大学教授であることを考慮しなければいけないんだね。大学教授が書いているから、高尚で美しい世界なんだ。その高尚さを保証するのが「大学教授」という肩書。その肩書があるかぎり、詩は「正しい」。
 でも、詩の舞台は大学だっけ? 学生や教授がでてきたっけ? そこに大学に関することばが重要な位置を占めていたっけ?
 学生のことばであろうと、高校生のことばであろうと、大学以外の職場で働いているひとのことばであろうと、それは詩にとっては関係がない。肩書を取り払って「無防備」にして、そこに書かれていることばと向き合うというのが、私の方法だけれど、これは「前近代的」であり、「暴力的」なのか。
 いいなあ、この「肩書」こそがその人の価値。詩の価値は「肩書」によって保証される。「マッチョ思想」そのものだねえ。
 私は「ことば」に「肉体」を感じたとき、それを詩と呼ぶのだけれど、阿部は「肉体」を覆い隠す「肩書」を発見したときに、それを「詩」と呼ぶんだね。
 阿部にとっては「裸の肉体」は「前近代的」で「暴力的」、「肩書」が人間の「核心」、「基本」。そういう意味では、「肩書」こそが阿部の「肉体」である。阿部は、いつでも自分が「大学教授」であることを意識している。無意識に。つまり、それが意識とは思わないくらいに、「肉体」そのものとして「実感」している。
 前回引用した阿部の発言には「博士課程」のひとが登場したし、また別のことろでは、「大学の教員」が阿部の詩の雪を認めてくれたと書いているが、「大学教授」や「博士課程」のひとが言えば、それが阿部の作品を正しく評価したことになるのかな?
 大学教授の書いていることばだから、それは尊敬されるべきである--という感じの「権威主義」がそこにある。こういう「権威主義」を私は「マッチョ思想」と呼ぶ。でも、もちろん、阿部はそう呼んでいないよ。「権威主義」を「マッチョ思想」とは反対のもと信じきっている。

(2)
「「詩手帖」年鑑号の今年の収穫アンケートをみたら、谷内氏、もう回答権を剥奪されてたんですね。となるとまずは、事あるごとに、谷内に詩集・同人誌を送るな、と知り合いに親切に助言しつづける「草の根」運動をするしかありません。みなさんもご同調を。」

 現代詩手帖の「今年の収穫」のアンケートの「回答権」なんて、あったのか。知らなかった。それをもっているか「剥奪された」かは、詩を読むこと、詩への感想と関連しているのか。知らなかった。
 でもさあ、その「回答権」とやらは、どうやったら獲得できるのかな?
 阿部はたぶん、こう考える。いい詩集を出し、いい評論を書いて、「現代詩手帖」の編集部が、あるひとを詩人・批評家と認定したら、その「回答権利」を与えられる。それをもっていることは詩人・批評家のステータスなのだ。「回答権」は「大学教授」の肩書のように、詩人にとって不可欠なものなのである。
 谷内と違って、阿部は「回答権」をもっている。だから阿部の方が正しくて、権利をもたない谷内が阿部の詩に対して批判めいたことを書くのは暴力的。いわば、下克上ということになるのかな? 「現代詩手帖」編集部の認定したヒエラルキーを否定することは許されない。「現代詩手帖」編集部のつくっているヒエラルキーの、どこにだれが位置するか。それを判断して詩を読むべきである、詩集の感想の有効性を判断すべきである。すごいなあ、この「権利」に対する感覚は。「権威」に対する信望は。
 こういう「権威主義」(権威への寄りかかり)を私は「マッチョ思想」と呼ぶのだけれど、阿部は逆。そういう「権威主義」に組み込まれていない人間は「前近代的」。

 「権威」のヒエラルキーは、「今年の収穫」に収録されかどうかも関係するようだね。
 「今年の収穫」の掲載基準が何か私は知らないけれど、アンケートの回答もそのひとつなのかな? だから「回答権」を剥奪された谷内に詩集を送っても自分の作品に一票(?)が入るわけではない、だからやめよう。むだである。
 うーん、この「功利主義」はわかりやすくっていいなあ。「合理主義/資本主義」にぴったり合う。
 「合理主義/権威主義」から落ちこぼれた谷内は、「前近代的」で「暴力的」だからである。「大学教授」の肩書を持ち、「権威主義」の一員になっている阿部のいうことを聞きなさい、というのが阿部の主張のようだけれど。
 拍手,拍手,拍手。(爆笑、爆笑、爆笑)
 こんなわかりやすい「マッチョ思想」は、とても貴重だ。「マッチョ思想」が「頭」からあふれだして、全身にみなぎっている。「マッチョ思想」が「肉体」になってしまっている。「マッチョ思想」が阿部にとっての「肉体」だから、「頭」で考える「思想」はまた別なもの。「マッチョ」とは無縁の、とっても高尚なもの、ということなんだろうなあ。
 そして高尚なことを考えられない谷内こそが「マチズム」を具現化している、ということなんだね。

(3)
「詩書出版の版元のみなさま、逆パブがこわい、ということで、著者のみなさまに谷内氏への詩集送付をやめるよう、ぜひご進言していただきたいとおもいます。それで彼のネタも半減するはずなので。これまでご迷惑をお感じになられた経験があるなら、とうぜんのことだとおもいます。」「詩的浄化のための当然の対抗手段だとおもいます。だからすごく真面目な主張です。思潮社、土曜美術のかたはぼくのこのポストをご覧になるとおもいますが、その他の版元へはぜひお付き合いのある「あなた」の勇気がかかわっています。これまでの彼の記事を精査し、とりあげられたいろんなひとの苦衷を、そのひとの立場に立って顧慮していただければ。なにしろ澄んできれいな、詩の批評だけを読みたいのです」

 私の感想を読むことで、いったい、詩集の売れ行きがどうかわったのかなあ。
 私はよくわからない。だいたい、私が「この詩集にはマッチョ思想が感じられる」と書いた詩集って、阿部の詩集以外の、どの作品があるのかなあ。具体的な例を阿部が書いてないので、なんとも判断しようがないけれど。ブログをちょっと見てみたら、私は詩集の感想を1554回書いている。同人誌などの詩の感想を1241回書いている。私のブログへのコメントは非常に少ないけれど、そうか、私はのべ2千人以上のひとの作品の「逆パブ」(これって、何語?)をしてきたのか。それでみんな怒ってコメントを書き込まないのか。
 まあ、これは阿部が具体的に何人と書いていないから、よくわからない。阿部が何人のひとから「私も谷内の感想の犠牲者です」と言われたのかわからないけれど。
 それよりも、「マッチョ思想」という点で私が問題にしたいのは「詩書出版の版元のみなさま(思潮社、土曜美術のかた)」という呼び掛け、名指し。なぜ、阿部が自分自身でしないのかな? 谷内のこの発言は、この詩集の「逆パブ」になっている。だから、今後詩集を送ってはいけない、となぜ言わないんだろう。
 あ、そうか。阿部は、「私は思潮社、土曜美術社のひととも連携できる」、そういう「信頼を得ている」ということを強調したいんだね。知り合いがいる。詩集出版について「権威」をもっている会社ひとと知り合い。だから、阿部にも「権威」がある、ということをいいたいんだね。同時に、そういう「権威」の力を借りて、「権威」とは無関係に感想を書いている私を批判しようとしているんだね。
 「権威」あるものが「権威を持たない谷内(アンケートの回答権を剥奪されている)」を批判し、「権威を持たない谷内」を閉め出すことは、「権威」をもっている人間を守るために必要不可欠のことである。
 ほう。「権威を持たない谷内」のひとことが、そんなに阿部の「権威」を傷つける? 私は「権威」なんて知らないからよくわからないけれど、なんだか「権威」ってひ弱だね。だから、「権威」が集合して「権威主義」で武装し、「権威」以下のものを「前近代的、暴力的」と宣伝するのだね。
 いやあ、「マッチョ思想」の根幹がますます見えてくる。
 うれしいなあ。阿部がいらいらして怒りまくっている姿が見える。かわいいなあ。好きだなあ。こういう単純な行動は、がき大将だってしないなあ。
 他人を動員し(子分を、ではないところが、がき大将とは違うが)、行動を組織化する、組織で気に食わないものを排除する。その、あくまでも「体制(権威)」を必要とするところが、私に言わせれば「マッチョ思想」なのだけれど、阿部にとっては、そういう組織化は「近代的/現代的(前近代ではない)」という証拠であり、「現代的」だから「マチズム」とは無縁ということなんだね。
 阿部の「非・マチズム」は私からみると「マッチョ思想」そのものであり、それがどんどん肥大していっているのをみると、興奮してしまう。この「マッチョ思想」どこまで暴走するかなあ。
 どきどき、わくわく、はらはら。

 先に書いたことと関係するけれど、「彼の記事を精査し、とりあげられたいろんなひとの苦衷を、そのひとの立場に立って顧慮していただければ」というのは、--いやあ、すばらしい。私は興奮してしまった。
 私の詩に対する感想は2千篇を超えるのだけれど、全部読んでもらえたんですね。そして、私がだれそれを傷つけているということを阿部は確認してくれたんですね。私は、だれも読まない(読んでいない)と思っていたので、び、び、び、びっくり。
 でも、そうなら、具体的にここが「逆パブ」になっていると指摘して、教えてほしい。それを知り合いの「版元」の思潮社、土曜美術社のひとに送るだけではなく、私のブログに批判コメントを書いてほしいなあ。(私の読むことのできない阿部のフェイスブックのタイムラインでもいいけれど--それでは、私は読めないからね。あ、ついでに書くと、自分の発言を隠しておいて、他人を批判するというのも私の考えでは「マッチョ思想」なんだけれどね)。そうすれば、多くの読者にすぐに阿部の主張の正しさがわかるのに。どうしてしないのかな? 出し惜しみ? 「権威」は安売りしない?
 もし阿部が、私とは違って、2千人(2千篇)の作品を、それにふさわしい文章で評価しつづけるなら、そして、その結果、詩集のすばらしさに気づいた読者が詩集を次々に買うことになるなら。そして多くの詩人が阿部に感謝のコメントを寄せ、また出版社も利益が上がるだろうから阿部への尊敬が増すだろう。やっぱり、批評は阿部にかぎる。谷内なんかじゃだめ、ということになり、阿部の「権威」は一段とアップする。
 これって、とってもいい方法じゃない? 阿部にとっても、詩を書くひとにとっても、出版社にとってもいいことで、一石二鳥どころか一石三鳥だね。どうして、そうてないのかな? それとも、もうしている? 
 でも、私の見方では、阿部はそういうことはしないなあ。
 「精査」を「権威」に頼ってしまう。阿部の「精査」よりも版元の「精査」の方が「権威」があるということかな? あるいは、そんな「雑用」は版元にやらせておけばいい。阿部はもっと「権威」ある仕事に専念する、ということかな?
 自分では何もしない。他人に頼って、他人のやったことを自分の「手柄」のように語る。こういうことを「マッチョ思想」と呼ぶ。自分で、きちんと対処できないことを他人に頼ってしまう。

(4)
「ブログに好き放題に書かれた… うざったくて、スクロールで流し見しただけだけど、悪意に凝りかたまった狂人としかおもえない。これって、もしかすると、警察に訴えるべき案件かもしれない。」「狂人の某氏が、ぼくの詩の雪はアタマで書いている、と悪意をもって一方的に裁断した」
 

 「狂人」か。「アタマのわるい性格異常者」と、前には書いていたなあ。
 「狂人」だから「警察に訴える」か。ぜひ、そうしてもらいたい。「警察」を私は単純に「権力」とは思わないけれど、ここにも自分でできることはしないで、他人の力に頼る阿部の姿勢が見えるね。
 警察による「検閲」の復活、権力による言論の統制。--これは「マッチョ思想」の最大のものだね。一般的には「マッチョ思想」とは別の表現で批判していると思うけれど、私からは「マッチョ思想」に見える。「流通する概念」を利用して自分(体制)を補強すること。(体制に「人格」としてとらえて言うのだけれど。)
 それは別にして。というか、ちょっと別なことを私は思ったのだけれど。
 この言論の自由の時代に、筆者の気に入らない感想を書いたからといって警察につかまるなんてかっこよくない? そうなってみたいなあ。そして最高裁まで争って、無罪を訴えながら死んで行くなんて、かっこよくない? そういうこと、ぜひ、やってみたいなあ。私は「前近代的」な人間なので、そういう「妄想」を抱いてしまう。
 私は阿部を批判するよりも、もう一歩進んで、言論弾圧機関と闘ってみたいなあ。かっこいいだろうなあ。その闘いの場に阿部が登場してきて、「私は大学教授である。詩の出版社の思潮社、土曜美術社に知り合いがいる。現代詩手帖の年鑑の収穫のアンケートに対する回答権をもっている」ということを根拠に、私を批判するのをぜひみたい。
 私はうれしくて、法廷で大笑いするだろうなあ。「阿部さん、かっこいい。マッチョむき出しのところが、だれよりも輝いている」と自分の立場を忘れて、叫んでしまいそう。
 私は、「警察権力」まで利用しようとする「マッチョ思想」を初めて知った。まぶしくて、目がくらみそう。

 それはそれとして。
 そこまで阿部の発言が正しいのなら。
 「狂人の某氏が」云々。これは、卑怯な言い方だね。なぜ「狂人の谷内が」と書かないのだろう。「私は谷内と特定していない。某氏としか書いていない。某氏を谷内と読むのはそのひとの勝って(誤読)」とでもいうつもりなのかな? 
 そういう逃げ道をつくっておいて、批判を展開するのも「マッチョ思想」だなあ。
 私は他人を批判するときは、明確にそのひとの「名前」をあげる。ほかのひとを批判していると誤読されると困るからだ。
 阿部は大学教授である。同じ肩書(大学教)の人物が自分の詩をほめている。現代詩手帖のアンケートへの回答権をもっている。授思潮社、土曜美術社に知り合いがいる。一方、谷内はアタマのわるい性格異常者であり、狂人である。--この対比で自分の詩を擁護する姿勢。
 これは、まあ、「マッチョ思想」以外のなにものでもないね。こんな生き生きと暴走するマッチョは、ほんとうに、はじめてみる。
 初めて読む過激な詩のように、興奮してしまう。ながながと反応(ことばを射精)してしまう。

 ながながとした射精のあとでも、興奮がおさまらなくて……。
 「暴力的な決めつけブログを書いた某氏への返答に、断章型の思想家として、ベンヤミン-アガンベンの系譜をヒントとして出した。それをも無教養な彼は、アカデミズムの誇示、と意味を曲解してしまったようだ。ぼくは「敵に塩」のつもりだったのに、代わりに「ブタに真珠」の成句をおもいだす次第をしいられたのだった。」
 ということばもあったなあ、と思い出した。
 私は「大学教授」ではないので「無教養」。実は、これを私は売り物にしています。「無教養」を「無防備」と言い換えてだけれど。
 それはさておき、「敵に塩」はともかく、自分のしたこと、それに対する相手の反応を「ブタに真珠」って、いいなあ。「マッチョ思想」だなあ。ブタが谷内で真珠が阿部、ですね。さすがに教養があるなあ。
 私の感覚では、「豚に真珠」ということばは、言うとしても「第三者」が言うことであって、当事者か言うことではないのだけれど、「大学教授」の阿部が言うのだから、私の感覚が「狂人(アタマのわるい性格異常)」のせいだね。



 あ、まだ、何か漏れそう。
 よっぽど興奮して、うれしかったみたいだ。私の「肉体」は。
 「マチズム礼賛(阿部嘉昭論)」でも書きたいくらい。



 札幌の雪について。
 阿部は、

「札幌に生を享けて、いまも札幌にいらっしゃる詩作者・詩論家・大学教員のT・Kさん(わかるひとにはこの書き方でもわかるとおもう)。
《阿部さんの作品に接して、自分がどのような土地に生きているのかあらためて感じました。裸体を見つめられているような気もします。もちろんこれは、詩集が「むこう」を指向していていることを前提としたうえでの即時的な感想です》。
つまりまさに札幌「ご専門」のひとに、雪のレアリテのご承認を受けた、ということになる。」
と書いている。
「詩作者・詩論家・大学教員のT・Kさん」がそう書いたということはわかるが、それは、私が疑問を感じた部分の行をさして、そういったのだろうか。その点が不明なので、私には、何のために阿部がこの私信を引用しているのかわからない。
 阿部は阿部の書いている雪が「肉体」で体験したことの証拠にころんだことも書いてある、というが、ころべばそれが「肉体のことば」として反映されると単純に考えているのだろうか。
 
 視点を転換して、一つ例を書く。私が感じた「雪」について。阿部の作品ではない。テオ・アンゲロプロスの映画「旅芸人の記録」。ギリシャ映画である。そこには雪が出てくる。えっ、ギリシャって、プラトンの世界、エーゲ海の陽光の世界じゃないのか。雪なんか降るのか……。私はとても驚いてしまった。それが雪とは信じられなかった。
 ところが。
 雪がやんで、抜かるんだ道を旅芸人が歩くシーンで、私は雪を見た。雪は降っていない。道路がぬかるんでいて、その道路のしめった色は冬空を映している。冬空の色が地面にまで下りてきている。そして、その空と道路のあいだ、人間が歩いている「空間」に冷たくしめった空気が残っている。肌触りがある。その湿気と肌触りも、汚れた道路に映っている。
 あ、これは見たことがある。もちろんギリシャで、ではない。私はそういう道と空と空気の関係を自分の故郷で見たことがある。九州へ来てからも、似たものは見たことがある。そうか、雪というのは、単に降ってくるものだけが雪ではなく、空気全体が雪なのだ。そう把握しているテオ・アンゲロプロスを感じた。テオ・アンゲロプロスの「雪」を雪そのものの描写ではなく、空気の描写で実感し、そこで私はテオ・アンゲロプロスと「一体」になる。雪と「一体」になる。
 そういうことが、阿部のことばでは起きない。
 「詩作者・詩論家・大学教員のT・Kさん」が阿部のどの詩の、どのことばに、書いている感想を感じたのか。それがわからない。私は「詩作者・詩論家・大学教員のT・Kさん」によって反論されたとは感じない。あ、そうだね、とは感じない。もっと具体的に、どのことば、どの行というものを知りたい。
 私はいつでも、どのことば、どの行から、何を感じたか書く。
 「これまでの彼の記事を精査し、とりあげられたいろんなひとの苦衷を、そのひとの立場に立って顧慮していただければ」というような、抽象的なことばなら、逆も簡単に言える。
ふる雪のむこう
阿部 嘉昭
思潮社
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阿部嘉昭『ふる雪のむこう』(2)

2013-10-13 09:37:58 | 詩集
阿部嘉昭『ふる雪のむこう』(2)(思潮社、2013年09月20日発行)

 川島洋の詩集で「声」について触れたので……。
 もし阿部嘉昭『ふる雪のむこう』で阿部の正直について語るなら「ユ」という作品を私は取り上げる。ここには「声」というより、「耳」がある。「耳」で聞く「音」の重なり合い、「和音」の楽しみ、つまり「音楽」がある。

カンジをかたかなにするとどうなるか
ちらちらユれるとかけばユもアヤしいのだ

ユけむりのようなこのからだには
アイがならんでタホウコウをコらす

オクビョウなけむりのソコのユ
カハンシンからワくソコヒがあるらしイ

ウチュウのカオのまんなかのハナが
みることにさきがけてダンメンなのは

おもいでのなかのトオトいマルタか
ユのカワをきえながらあふれて

 「ユ」は「湯」であるか、それとも「(経)由」であるか。「ユけむり」ということばからは「湯」が具体物として見えるが、それは仮の対象物であって、何かを見る(把握する、そのためにことばをつかう、分かりやすくするために漢字で書き表す、あるいは意味以前のものをつかむとるために音に分解する方法としてひらがなをつかう、あるいははぐらかすという目先の変化のためにカタカナをつかう--という「方法」を経由する)ことは、自分から出て行き、さらに自分の中に引き込むということである。
 そういうことは自分が自分でなくなるという「危険」をともなう。あるいは喜びをともなう。それを「肉体」のどの器官でより強く味わうか。
 この作品には「耳」がある。
 1連目は「漢字」と「感じ」のだじゃれで始まり、「湯」を「揺」らすで「頭韻」を踏む程度だが、この、ちょっとがっかりするような助走のあとの2連目、3連目が、とてもいい。
 タホウコウのコが凝らすという動詞の最初の音「コ」と響き合うのだが、それは実はそのまえの、ひらがなで書かれた「このからだ」の「こ」と響きあっている。
 「こ」の音は、「ソコ」「ソコヒ」と変化するが、そのとき、そこにKとHの子音が交錯する。この子音は、発音するひとによって性質が若干異なるが、少し兄弟のようなところがあって、絶妙な「和音」のようなものを響かせる。「タホウコウ」は「多方向」(他方向)と感じで書くより、美しい。「労働問題」を「ろうどうもんだい」と書くと(読むと)美しくなるようなものである。
 「こ」からはじまった音楽に、KとHの子音の揺らぎがあるからこそ、「カハンシン」から4連目の「カオ」への動きも自然だ。「顔」は「かほ」でもある。ことばの奥にしまいこまれている「ことばの肉体」がぐいと「いま/ここ」を突き破ってくる。ことばがおとになり、音がことばになり、あわさって、ひとつになって動く。「カオ」というのは、読み方次第では「こ」になる。「こ」と聞こえる。「耳」が裏切られているのか、あるいは眠っていた「耳」が覚醒したのか、よくわからないが、そういうことが起きる。そこからはじまる「肉体」への刺戟が「音楽」である。「音楽」のなかで「意味」とは違った「意味以前」に触れる。そして動きだす。(高揚すると、舞踏、ダンスになるのだが、そこまでは書かない。書きたいことが違うので……)
 それは暴走し(つまり、「ことばの肉体」が自律して動き)、「あるらしイ」の「イ」というわけのわからないもの--阿部にはわかるのだろうけれど、私にはわからないものへと結晶する。「あるらしい」の「い」に「漢字」をわりふることは私にはできない。けれど「感じ」なら、「あ、何か変」という「感じ」、「これはなんだろう」という「感じ」はわりふることができる。
 そのとき1行目の「カンジをかたかなにするとどうなるか」は「感じをかたかなにするとどうなるか」ということばとなって襲いかかってくる。「意味」をはっきりさせる「漢字」ではなく、肉体の抱える「感じ」をかたかなにすると、どうなるのか。「湯」の「感じ」、「揺れる」の「感じ」「妖しい(怪しい? 奇しい?)の「感じ」。
 「感じ」は「あやしい」がそうであるように「形容詞」としてあらわされることが多い。「美しい」「悲しい」。「形容詞」は、そして「い」という音でおわる。その「形容詞」の「い」が--「形容詞」に通じる「い」が、「感じ」として「あるらしイ」になっている。その「感じ」を「漢字」にすれば「あるらし意」ということになるかもしれない。「意」は「意味」の「意」。「感じ」とは、ある種の「意味」なのだ。
 わっ、すごい。わっ、楽しい。わくわくするなあ。これから、さらにどんな暴走、暴発が起きるのか……。

 4連目の「カオのまんなかのハナ」はKとHにNが割り込んできて、別な音楽を誘い出す。--とほんとうは書きたいが、その4連目からは、正確に言うと4連目の2行目からは「音楽」は消えてしまって、かわりに「映像」のようなものが、つまりイメージが復讐してくる。湯煙の中にいる人間のぼわーっとした姿が「断面」とし浮かび上がり、音楽は「断念」されるのが、とても「残念」。
 「思い出」が「尊い」(阿部は「遠い」を意識したのだろうか、「トオトい」と書いている。「遠い」は「とほい」だからH音を復活させようとしているのかもしれない。けれどHがゆらぐのはKの発音に対してであって、TやMは、そこに紛れようがない。溶け込めない。
 最後には「湯の川」となって、音楽はどこにもなくなってしまう。
 少なくとも、私には、という意味だけれど。

 で、うーん、どうしてだろう、と振り返ってみると、いちばんおもしろい部分が「意」(意味)に結晶したということと関係があるかもしれないと思ってしまうのだ。「意味」を完結させないと詩にはならない。そういう「意識」が阿部のことばのなかにはないだろうか。「意味」は阿部にとっては「音」の交錯(音楽)のなかにはなくて、「映像」(イメージ)のなかにある。言い換えると、阿部は「視覚」で思考し、「意識」を動かす。阿部は「視覚型」の詩人なのである。
 そして、「視覚」を「意味」にしてしまう。「意味」が生まれてくるというより、「意味」に形成してしまう。そのとき、私は、なんとなく「頭」の「制御」(抑圧)を感じる。川の中にある温泉、湯煙が立ち(川の水で冷やされ、さらに冬なら冷気に冷やされ)、湯煙はもうもう。ぼんやりした人間の姿しか見えない。白ソコヒ(白内障)の視界に広がる世界のようだ。ぐいと近づき、顔をつきあわせれば、あ、こさはこれは阿部さんでしたかという具合に「思い出(記憶)」のひと(感情)があらわれたりする。
 うーん。
 わかるけれど、2、3連目の音楽はどこへいってしまったのだろう。なぜ音楽のまま、詩を暴走、暴発--ビッグバンさせてしまわなかったのだろうと私は疑問をもつのである。「頭」なんかたたき壊して、酔ってしまえばいいのに、と思うのである。
 「頭」の制御(頭による支配/統合)がないと世界は止揚(発展)していかない--というのが阿部の考え方なのだと、私はここでも感じる。
ふる雪のむこう
阿部 嘉昭
思潮社
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川島洋『青の成分』(3)

2013-10-12 08:43:48 | 詩集
川島洋『青の成分』(3)(花神社、2013年10月25日発行)

 「虹」という作品も美しい。

地下の喫煙場所に下りる外階段
踊り場の壁に あざやかな虹が立っている
(どこかのガラスがプリズムになっているのだ)

先月までは見なかった
冬の 昼前の陽射しとともに
虹はやって来て 少しのあいだ
壁に寄りかかるのであるらしい

 1連目で「立っている」虹が、2連目で「壁に寄りかかる」。どっちがほんとう? いや、そんな質問は、いまむりやりこさえたものであって、読んだ瞬間、「立っている」ではなく「寄りかかる」に私は惹かれたのだと思い出す。1連目に「立っている」ということばが書いてあるのは最初気づかなかった。こうやって引用して、あ、最初は立っていたのだ、と思い出した。1連目を忘れるくらい「壁に寄りかかる」が印象的なのだ。その虹を私は見たわけではないのに、まるでいま/ここでその虹を見ているように、「寄りかかる」ひ引っぱられる。
 虹、ではなく、自分自身が壁に寄りかかりたかったことを思い出すのだ。立っていたくないなあ。少しでも寄りかかっていたい。何となく、休みたい。それは(私はたばこを吸うわけではないが、吸ったことはないが)、地下の喫煙場所へ行って、しばらく休憩--というような気分にとても合う。「肉体」が、そのことばに同調してしまう。
 そのとき、私は川島なのか、あるいは虹なのか。
 --というのは、私の感想であって、川島は単純に「私は虹を見ているのか」あるいは「見られている虹が私なのか」ということになる。区別がつかない。「一体」になっている。直感的に、そう思う。
 その直感を誘うように、3連目が動いていく。

一服 という名の時間が
静かに喉を通過してゆくあいだ
煙につれて視線がわずかに仰向く
その先に立っている
一枚のタオルのようにくっきりした虹

 「一服」する。たばこを吸う、という意味もあるけれど、そこから派生しているのかもしれないけれど、休憩する(休む)という意味もある。壁に寄りかかって、たばこを吸って、だらしなく(?)、休む。そうすると、

その先に立っている

 あ、また虹が「立っている」。元気に回復している。元気といっても、はつらつというのではないけれどね。その、静かな「肉体」のなかにある、ことば以前の動きがとてもいいなあ。
 「ぶどうの食べ方」と「壷」もいいなあ。
 「ぶどうの食べ方」は突然ぶどうが食べたいと思った川島が「いまどこかの食卓で ぶどうを食べているひとがある」と電車のなかで思い、家に帰ってが寝静まったあともぶどうのことを考えている。

 あるいはもう 私自身がぶどうの粒になっているのかもしれない。

 この自分と対象とが「一体」になる感覚--それが川島の詩を貫いている。あの「コロッケ」(あ、タイトルは「コロッケ」ではなかったが……私は「コロッケ」と書いてしまう)の「甘い穴」のような感じだなあ。区別がつかない。「精神」がではなく「肉体」が区別がなくなる。
 そのとき、そこに「声」が虹のように立ち上がる。あざやかさに、息をのむように。
 なんて書いてしまうと、変なものになってしまうけれど。
 でも、そういう感じだなあ。
 「一体感」がいい。
 と書けば、もう「壷」について書かなくてもいい感じ。川島は「壷」を描くことで「壷」そのものになってしまう。「壷にとどかない」という悲しい「声」さえ、壷と一体になった川島の「声」に聞こえる。


外を見るひと―梅田智江・谷内修三往復詩集 (象形文字叢書)
梅田 智江/谷内 修三
書肆侃侃房
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川島洋『青の成分』(2)

2013-10-11 14:31:47 | 詩集
川島洋『青の成分』(2)(花神社、2013年10月25日発行)

 川島洋『青の成分』の終わりの方に「さがす」(96ページ)がある。それを読んで、思い出した。コロッケの詩人だ。この詩の感想を書いた記憶がある。夕暮れ、友達と別れてから精肉店でコロッケを買う。

白い割烹着のおばさんがいる
十円玉三枚
それが一個のコロッケにふくらんで
紙袋にひょいと入れられる
はい 男爵一個 熱いよ!
手をのばして受け取る僕
紙袋から手のひらに伝わってくるあったかさ
コロッケだ 揚げたての ほかほかの
こんがり かりかり 茶色のコロモの
それをひと口かじるとき
お腹の底に大きな甘い穴

 この「お腹の底に大きな甘い穴」がいいなあ。肉体がそのまま。川島は川島の体験を書いているのだが、まるで自分の体験を思い出すよう。私の肉体はコロッケの甘い味をおぼえている。それが空腹の胃の中に落ちる。胃が「甘い」と感じるわけではないのだが、ねえ、感じるよね。(変な言い方しかできないが……。)口の中にひろがる「甘さ」が体中にひろがる。胃だって「甘く」感じる。胃に「穴」があいたら大変だけれど、その「甘さ」の塊が、「穴」になって体中を吸収する。
 甘さが体中に広がる--と書いたのに、甘さの穴に体中が吸い込まれる、と書いてしまう。矛盾しているけれど、その矛盾のなかに「ほんとう」がある。「穴」、「甘い穴」しかない。体が消える。体が消えたら穴も消えるはずなんだけれど、穴だけが残る感じ。

空腹にコロッケ
それが幸福だなんて
なんだか こっけい
でも仕方がないのだ 実感だから

 前回、この部分に触れたかどうかわからない。「甘い穴」に夢中になりすぎて読み落としていたかもしれない。2回目なので、ちょっと落ち着いて読むことができる。そして、気づいた。
 「仕方がない」「実感だから」--これが、川島の「声」である。実感は仕方がない。嘘をつけない。この嘘をつけない「声」がいいんだなあ。正直がいいんだなあ。好きになってしまうなあ。
 で、その正直のまわりに、別の「声」もある。というのは、少し奇妙な言い方になるが。

はい 男爵一個 熱いよ!

 これは鍵括弧の中に入っていないけれど、おばさんの「声」。「ことば」でも「意味」でもないよ。おばさんが、少年の川島にかけた「声」。あ、昔は、「意味」を超えてひとがひとに声をかけた。その声のなかで、声が育っていく。

コロッケだ 揚げたての ほかほかの
こんがり かりかり 茶色のコロモの

 思いついたまま、声が出る。それは「意味」ではない。もちろん意味ないんだけれど、意味じゃなくて「よろこび」。コロッケ一個をこんなふうに「声」にできる。肉体の中から「ことば」ではなく「声」がわいてくる。あふれてくる。ことばをつなげれば「意味」になるけれど、描写になるけれど、関係ないね。
 それは、おばさんの「はい 男爵一個 熱いよ!」に対する返事なのだ。声に出さないけれど、返事。会話。おしゃべり。声に出さないけれど、きっと聞こえている。毎日、同じことばだけれど聞こえる。だから、毎日同じことばをくり返す「はい 男爵一個 熱いよ!」
 同じことしか言えない。仕方がない。それが実感だから。それが生活だから。くり返すことで、どんどん正直になっていく。正直が積み重なって、それが「真実」になっていく。「幸福」になっていく。

 口には出されないけれど、「声」になってしまうものがある。「ロバ」。これは10ページ、最初の方の詩。ほんとうは、きょうはこの詩から書きはじめるつもりだったのだが、詩集の残りを読んだら、コロッケから書きたくなってしまった。--で、行きつ、もどりつ、「ロバ」。

ロバの背に子供をのぼらせて
手綱を引いた
すぐにロバは立ち止まった
もっと強く引っぱって下さい と
係のひとが言う
ロバをとぼとぼあるかせるための
強い力とは これくらいか
これでいいのか ロバよ

 これは、しんみりした声だね。サラリーマンの悲哀を感じる。思わず、ロバに自分の姿を重ね合わせて、サラリーマンの悲哀なんて書いてしまうのだけれど--肉体がおぼえている何かが引き出される。
 「もっと強く引っぱって下さい」というような「声」を聞いたことを「肉体」がおぼえている。それは「状況」が違うのだけれど、そのときの「声」の調子。何かを命じられたときの声の響き。言う方も仕方がないのかもしれないけれど、聞く方も仕方がないね。そして、「これくらいか/これでいいのか」。あ、これはロバに言っているのではないね。自分に言っている。自分の肉体に言っている。ロバと自分が一体になっている。
 コロッケ屋のおばさんと「一体」になったような幸福はないけれど、ここにも正直があるね。無理をしない正直。仕方がないという正直。「仕方がない」から、しみじみ。
 「仕方がない」は「頭」でおぼえるのではなく、「肉体」でおぼえる何かだなあ、と思い出す。「肉体」の抵抗感--ロバを引っぱって動かすときの、なんというか、ある区切りを少しだけ超える感じ。それ以下でも、それ以上でもダメ。これは、ことばではなく、「肉体のコツ」だね。
 そういうものの積み重ねが川島の「声」のなかにあるなあ。
 (あすも、もう少し書くかも……。)


夜のナナフシ―川島洋詩集
川島 洋
草原舎
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川島洋『青の成分』

2013-10-10 09:37:00 | 詩集
川島洋『青の成分』(花神社、2013年10月25日発行)

 川島洋『青の成分』を読みながら、どう書いていいかわからないけれど、ぼんやりと(ふんわりと?)、感想をきちんと書けたらおもしろいだろうなあと感じた。そして、36ページからはじまる「空き地で」を読んで、思わず家人に声をかけた。
 「この部分おもしろいよ」

  行きつ 戻りつ 飛び交うトンボ
一郎 二郎 三郎
秋子 茜 翔子
たわむれに 名前をつけてみる
だがとても追いつかない
どれがどれだか判らなくなる
見分けがつかない ということは
初めから名前が要らない
ということなのだろう

 家人が笑って、私も笑った。
 私は詩の朗読というものをしないが、思わず読んで聞かせたくなって、笑った。何が書いてあるわけではない。何か重大な「意味」が、という意味だが。なんでもないこと。忘れてしまっていいこと。でも、聞いた瞬間、笑って愉快な気持ちになる。
 私は川島洋という詩人を個人的に知らない。詩を、いままで読んだことがあるかどうかも思い出せない。けれど、この詩を読んだ瞬間、川島という人間がほんとうにいるのだと感じ、とてもうれしくなったのだ。
 この作品には、いま引用した部分の前も、後ろもあるけれど、そしてそこには「笑う」だけではない何かが書かれているのだろうけれど、まあ、いいな。ここで笑って、いい意味で、わっ、ばかみたいと感じ、とても好きになったのだ。「ばかみたい」というのは、きっと「意味」を超えている、「意味」にならないということなんだなあ。「理由」なしに好きになる--そういうとき、「ばかみたい」と思う。それは、相手をばかみたいと思うということよりも、こんなところをおもしろがるなんて、自分はばかみたいということかもしれない。
 よくわからないが、ともかく好き。
 この詩集について書くなら、ここから書きはじめようと思い、さらに読み進む。46ページで「Nさん」に出会う。
 私はここでも家人に詩を読んで聞かせるのだ。(なぜだか、声に出して読みたくなってしまうのだ。)

 無類の読書好きであったNさんは 亡くなる少し前に
枕元の奥さんに尋ねたそうです。ある世にも本はあるの
かな。本がなかったら退屈で困るなあ。尋ねられた奥さ
んはうろたえました。真剣な顔でこんな子供じみた質問
をするNさんに 何と答えればいいのか。さあ どうで
しょうね 多分あるんじゃないですか。などと思わず心
細い答え方をしてしまったそうです。何しろ永遠だよ
永遠のあいだ読み続けても読みきれないほどの本なんて
なあ と彼はまた言います。

 この詩にも、引用の前とうしろがあるが、この部分がいちばんおもしろい。おもしろいといってはいけないのかもしれないけれど、Nさんが見える。奥さんも見える。知らない人なのに、好きになってしまう。
 詩のなかに「子供じみた」ということばがあるが、さっき私が書いたことばをつかえば「ばかみたい」だよね。「ばかみたい」だから、気楽に好きになるのかなあ。何かを瞬間的に忘れて、いま、ここで起きていることに引き込まれていく。その瞬間、私は私を忘れてしまう。詩集の感想を書く、ということさえ忘れて、ああ、ここはいいなあ、と思う。
 なんだろうなあ、これは。
 ちょっと考えて、あ、これは「声」なんだ、と思った。「ことば」には「意味」がある。「音」がある。そして、いま引用した部分--赤とんぼに名前をつける、あの世に行っても本はあるかなあ、という部分は「意味」として私の肉体に入ってきたというより、「声」として入ってきたんだなあと思った。
 私は川島の声を知らないし、Nさんの声も知らない。けれど「声」が聞こえたんだ。「声」が「肉体」として、いま/ここにある。ことばの細部のつらなり、あるいはそのことばにこめられた「意味」は忘れてしまっても、きっとこの「声」は忘れないなあと思った。古い友人、長い間会ったことのない友人から電話で「声」を聞いて、瞬間的に昔の友人を思い出すように、この「声」を思い出すことがなるだろうなあと思う。
 川島は「声」の詩人なんだ。「意味」ではなく、「声」の詩人。

 そこまで思って、大急ぎで「感想」を書きはじめた。思いついたら、すぐに書いておく。詩集はまだ半分くらい残っているが、こういう「思いつき」というのは大事だからね。で、詩集の前半に引き返すと、「ロバ」「ヒバリ」「虹」のページがドッグイヤーになっている。ページを端を犬の耳みたいに追ってある。感想を書く作品の候補として、印をつけている。
 そのうちの「ヒバリ」。

空の中にヒバリがいて
しきりにさえずっている
あんまり夢中でさえずるうち
空に貼りついたまま
姿は光に溶け込んでしまったのか
声だけになり だから一層躍起になって
声を張り上げているようだ

 ここに「声」があった。「声」いがいのことも書かれているし、川島は「姿は光に溶け込んでしまったのか」という美しいイメージを書きたかったのかもしれないが。
 私はきっと、その部分は忘れる。読んですぐのときは、そこがかっこいい(詩的)と思うけれど、それは思い出せなくなっても「声」ということばがつかわれていたことを思い出すだろうなあと思った。
 川島は「声」を出し、同時に「声」を聞く詩人なのだ。「声」のなかで人と(対象と)出会い、そのことを「声」にする。詩は「ことば」で書かれているけれど、そして私はもっぱら詩を黙読するのだけれど、川島の「声」を聞いて、ああ、いいなあと思う。いいなあ。好きだなあ、と感じた。
 (つづきは、あした。「声」が聞こえた、としか私は書いていないのだが、いまはそれしか書けないのだが、なんだかわくわくしている。とっても気持ちがいい。)
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園子温監督「地獄でなぜ悪い」(★★★★)

2013-10-09 19:43:03 | 映画

監督 園子温 出演 國村隼、堤真一、二階堂ふみ、友近、長谷川博己



 この映画は、もうめちゃくちゃ。ただ映画を撮りたいという欲望が、そのまま映画を撮りたいという欲望を描くことで成り立っている。
 映画は、嘘。つくりもの。それがなぜおもしろいか。映画のなかの堤真一の台詞を借りて言えば「ファンタジーがリアリティーに勝ってしまう(勝ってしまっている)」からである。
 ヤクザ同士の抗争。殺し合い。そのとき勝つのは、ほんとうはリアルな戦い方をする方だろうけれど、ファンタジー(夢/欲望)の強い方がリアルな問題点を乗り越えて勝ってしまうときがある。度胸とか、怨念とか、怒りとか。
 で、どんな映画を見るときでも、私たちは(私は?)、そこにファンタジーを見ている。スピルバーグの「フライベート・ライアン」の冒頭の長い長い戦闘シーンさえ、現実を通り越して夢を見る。海のなかを銃弾が進む。それが兵士にあたる。血が噴き出る。血が海の色にとけて、まじる。こんなシーンを、あ、すごい、すごい、すごい、と思いながら見てしまう。そうか、こんなシーンをみた人間がいるのか、見てみたい--あ、書くと、とんでもなく変な感じだねえ。実際にその戦闘の場にいたら、そんなものに感心していられない。銃弾にあたらないように祈るだけだ。感動と現実は違うのだ。
 うーん、まいるねえ。笑ってしまうねえ。
 ヤクザの親分が、出所してくる妻が娘が主演する映画がみたい(女優になった娘に会いたい)と言う。その願いのために娘を主役に映画を撮る。監督は、街で見つけた映画オタク(ちょっと違うのだけれど、めんどうだから、そう書いておく)。で、映画を撮るとき、暴力団の抗争が起きる。あ、すごい、これをそのまま映画にすればいい。「仁義なき戦い」の「実録版」。そんなこと、実際にはできないのだけれど、映画だからやってしまう。
 そのとき。
 抗争が現実? 映画を撮っていることが現実? 抗争を映画にしてしまうという映画を、さらに映画にしてしまう--それは現実? 虚構? これは、いちいち考えるとめんどうくさい。つまり、どうでもいい。
 ばかげたファンタジーに、みんなが夢中になる。映画にとられる方も、自分が死ぬか生きるかなのに、なせか映画という夢のなかで死んでいく(けっして死なない)という夢を見ている。映画を撮る方は、虚構ではとれない真剣勝負--実際に、首が飛び、銃弾で撃たれて死ぬからねえ、にわくわくする。こんなクオリティーの高い(偶然を必然に抱き込みながら)映像は二度とありえない。「映画の神様」が撮らせてくれている。
 いやあ、あほくさい思い込み。でもねえ、でもねえ。私は映画を撮ったことなんかないけれど、わくわくどきどき。むちゃくくちゃなのに、ぜんぜんむちゃくちゃに感じない。うれしくなって、「あ、國村隼。主役なのに、抗争の前半で首刎ねられて死んじゃった」と大声で笑いだしてしまう。首が切られてごろん、じゃなくて、ロケットみたいに飛び上がってしまうからねえ。こんなの、嘘だねえ。嘘だけれど、ファンタジー。リアリティーを超える。
 最後、監督ひとりが生き残り、「やった、やった、やった。生涯に一本の大傑作」と大喜びして道路を走る。撮影しながら死んでしまった仲間なんか関係ない。やちろん抗争で死んでしまったヤクザなんか知るわけがない。「映画だ、映画だ、だれも撮ったことのない映画」というはじける喜び。
 いいなあ。
 そうだよなあ、どうせなら、映画を超える現実を映画にしたい。そうすれば映画は、もう絶対的な存在になる。
 この欲望は異常? 異常という正直が駆け抜ける。
                   (2013年10月09日、t-joy 博多シアター5)



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「マッチョ思想」とは何か(阿部嘉昭と私のスタンスの違い)

2013-10-09 19:01:22 | その他(音楽、小説etc)
「マッチョ思想」とは何か(阿部嘉昭と私のスタンスの違い)

 以下の文面は知人がFBの阿部嘉昭のタイムラインにある文章を私に転写してくれたものである。阿部の発言は、私には見えない設定になっているので知らなかった。(阿部の発言にある「うえの詩篇」は転写されていなかった。)
 いくつかの疑問点を書いておく。

アタマのわるい性格異常者からのネット上の攻撃がつづいている。火に油をそそいだぼく自身がわるい。それと、いかに卑劣な誘導とラべリングがあろうとも、書かれていることの出鱈目は自明、ともはや沈黙するしかない。けれども恵贈された詩集の逆パブを平気で書いて居直るそのマチズモは、みなの恐怖の的なのではないだろうか。こういう「書
きっぱなし」のことばの暴力にはどう対処すればいいのだろう。当事者とはいえバカにみえてしまうので、おなじ土俵にあがることも控えるしかない。粘着質のそのひとは、冷笑ぎみに土俵をさしだしているけれども。ともあれ精神衛生にわるいので、FB上の友人関係を切らせていただいた。もうそのひとのサイトもみないだろう。
昨日は敬愛するおふたりから、詩集送付の礼状がきた。岩佐なをさんと柿沼徹さん。双方の文面に懇切で胸をうつ賛辞がならぶ。そこではぼくの詩集のことばのしずかさと、かれらのことばのしずかさが「似ている」。やはりこれが正常だろうと、きもちを持ち直した。FBでも励ましのメールをいろいろいだだいた。ありがとうございます。
うえの詩篇は飲み屋で博士課程のI川さんがこれまでかたったことを、ぼくなりにコラージュしたもの。そのI川さんにもなぐさめられた。」
「ちなみに、ぼくは鎌倉の「山そだち」なので、友だちと一緒にあけびをもいで、よく食べた。ひらいている箇所をさらにひらき、種のまざったやわらかくしろい部分を舌でこそげる。それから、種をはきだしつつ、果肉をのどにながす。うすいあまさに、なにか薬のような味がくわわる。整腸剤の味に似ている、とみなでかたりあったものだ。
あけびは緑がかったふかい灰色に、むらさきが不気味に兆す。割れていることは不吉だが、それが女性器に似ているとはおもわない。むろん小学生当時は女性器など知らない。
現在もあけびにもっとなにか中性的なもの--死と生の中間的なものをかんじる。あけびの実りも縊死にみえたのだった」

(1)マッチョ思想の問題。
 阿部と私では「マッチョ思想」に対する定義が違っている。前回書いた「スタンス」が違うように。どういう違いがあるかを検討せずに「マッチョ思想」について書いてもしようがない。
 阿部は「恵贈された詩集の逆パブを平気で書いて居直るそのマチズモ」と書いている。ここからわかることは、「恵贈された詩集の逆パブを平気で書」くこと、さらにそれに対する阿部からの批判に「居直る」ことを、阿部が「マチズモ」と呼んでいることがわかる。簡単に言いなおすと、非礼と感じる態度をとることを「マチズモ」と呼んでいるように見受けられる。詩集を頂いたら感謝するべき、その詩集の宣伝をすべきであって、疑問を書いてはいけないということかもしれない。もう少し言いなおすと、相手の立場(自分の立場)を考慮に入れずに自分の考えを正直に言うことをさしているように見受けられる。詩集を頂いたのなら、頂いたひとは感謝と称賛をすべきという考えが、その奥にあるのかもしれない。
 私が阿部の詩に感じた「マッチョ思想」の定義は、「非礼」とも「相手の立場を考慮せずに自分の考えを発言すること」でもない。私は、自分の「肉体」で感じたことをそのまま書くのではなく、「頭」で知っていることで、ことばを補強することを「マッチョ思想」と呼んだ。「頭」で知っていることというのは、たいていの場合「社会に流通している概念」である。自分自身の「肉体」で消化されていないままのことばを私は「頭で書いている」と言い、そこに「マッチョ思想」を感じると書いている。
 「権威の流用」を、私は「マッチョ思想」と呼ぶ。阿部は「岩佐なをさんと柿沼徹さん」から礼状がきたと書いてあるけれど、こういう書き方も私は「マッチョ思想」と感じる。岩佐なをと柿沼徹は有名な詩人だけれど、その二人がどんな感想(礼状)を書こうと、私が感じたこととは関係がない。ひとはひとそれぞれに感想を持つものである。文学というのは「物理的尺度」で「客観的」に計測できるものではない。
 二人の感想が私の発言と関係があるとすれば、二人が「あけび」をどう読んだか。「雪」をどう感じたか、ということを書いてもらわないと私への反論にはならないだろう。私は、阿部の書いている「雪」も「あけび」も「頭」で書いたことばであると感じた。「頭」で書いていると感じたから、そこに「マッチョ思想」のようなものを感じたと書いた。
 有名詩人の二人の名前(権威)を持ち出してきて、権威のある二人が称賛しているのだから谷内の読み方はまちがっている--というような論法を私は「マッチョ思想」と呼んでいる。
 阿部に阿部自身の考えがあるなら、それを阿部自身のことばで語ればいいのに、と私は思う。
 私と阿部の「マッチョ思想(マチズモ)」は、まったく正反対のものである。だから、私は阿部が私のことを「マチズモ」と呼んで批判しているけれど、私はぜんぜん批判されたとは感じない。「スタンスが違う」、話がかみあっていなと思うだけである。

(2)「知っていること」と「わかっていること」の違い。
 「あけび」について、「博士課程のI川さん」の発言が要約されている。わざわざ博士課程と書いているのも、私には「権威主義」的に感じられて、あ、「マッチョ思想」にそまっているな、と思うのだが……。
 その「博士課程のI川さん」によれば、「あけび」は「中性的なもの」ということになる。「男性的」とは書いていない。ということは、やはり、「博士課程のI川さん」も阿部の「あけびを男性の下半身」の比喩とすることには完全に同意はしていないのではないだろうか。私は「博士課程のI川さん」の意見を読んでも、それによって自分が感じたことがまちがっているとは思わない。批判されているとも思わない。そうか、「中性的か」、私とは感じ方が違うなあと思うだけである。
 一方、「博士課程のI川さん」の食感から「死と生の中間的なものをかんじる。あけびの実りも縊死にみえたのだった」という「わかっていること」をことばにしていく部分は、とても感動した。熟れた果物には、たしかに死の匂いがあるなあ、と思い出した。こういう具体的なことばの動き、「誰かが書いたことば(流通していることば)」ではなく、自分の体験を書いたことばに私は詩を感じる。
 でも、不思議なのは、どうして阿部は「博士課程のI川さん」のことばを引用するのかなあ。なぜ、阿部自身の「あけび体験」を書かないのかなあ。--これが、とても疑問。
 私が阿部の今回の詩集に対する疑問は、そこに要約されている。
 「他人のことば」で自分を補強するのではなく、自分自身の体験をなぜ書かないのか。「頭」でことばを操っていないか。(私の意見では「他人のことば」で自分を補強するのは「マッチョ思想」である。)

 で、これはちょっと余分なことかもしれないが。--と書きながら、ほんとうはこれが言いたいのだけれど。
 「博士課程のI川さん」の「小学生当時は女性器など知らない」ということば--ここに、私はとても興味をもった。私も小学生のときは女性性器は知らない。めいのおしめを替えたり、同級生と「お医者さんごっこ」をしたりで、少女の下半身は見たこともあるし、さわったこともあるけれど、大人の女性の性器は、中学生のときも知らない。
 でも、知らないからといって、それが「わからない」わけではない。中学生になってオナニーをおぼえる。そうすると、自分(男)の性器をどうすれば何が起きるか。そのとき「気持ち」はどうなるかは、「わかる」。肉体で、本能(欲望)で「わかる」。だから、本能(欲望)が肉体をそそのかす。「頭」は「オナニーばかりしていてはダメ」といっても「本能(欲望)」は、そんなことばに従いはしない。気持ちいいと「わかっている」からである。そして、その気持ちいいと同じことが「女性性器」と自分の「性器」がいっしょになったときに起きることも「わかる」。「頭」ではなく「本能(肉体)」で「わかる」。「知らない」のに「わかる」。もちろん、この「わかる」は「妄想」の類かもしれないが、人間は「妄想」で現実を切り開いていくものである。この「わかる」に目をつむって、それを「知らない」というのを、俗に「カマトト」と呼んでいるように私は思う。
 世の中には「知る」から「わかる」にかわることと、「わかる」から「知る」にかわることがある。セックスなどというのは「わかる」が先なのだ。だからこそ、「おまえまだ女を知らないのか」という表現もある。そしても、女を知った(セックスを体験した)からといって、「女がわかる」とはなかなか言えない。自分がどうしたら気持ちいいかは「わかる」が相手にどうしたら気持ちよくなるかなんて、とてもむずかしい。
 逆の「知る」と「わかる」もある。たとえば外国語。「これは本です」を英語では「This is a book」ということは知っていても、英語が「わかる」わけではない。それだけでは「つかえない」。イランで話されることばはペルシャ語、その他のアラブで話されるのはアラブ語ということを私は「知っている」が、彼らが話すのを聞いても、あるいは書かれた文字を見ても、それがどちらかは「わからない」。
 こういうことは、「流通概念」の世界でも起きる。たとえば私は、阿部が書いていたアガンベンとベンヤミンの名前は知っているが、彼らの思想は「わからない」。自分のものとして使うことができない。デリダとかドゥルーズとか脱構築ということばも「知っている」けれど、「わかっていない」。「わかっていない」のに「知っている」からといってそれを流用するのは、私には「マッチョ思想」に感じられる。

 あとは、さらに余分なことだけれど。
 阿部は「アタマのわるい性格異常者」と書いている。だれと明記していないが、文章全体から、それが私(谷内)のことであるのは「わかる」。あ、すごい言い方だなあ、と思う。私が読むことのできない阿部が管理するページで、こういう発言をする人だったのか、と初めて知った。私は対話の相手を閉め出しておいて、こういう発言をすることはしません。阿部がいつでも読めるところで発言をしています。
 私とは阿部とでは、それくらい「スタンス」が違います。

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香咲萌『私の空』

2013-10-09 12:50:54 | 詩集
香咲萌『私の空』(土曜美術社出版販売、2013年10月01日発行)

 香咲萌『私の空』の巻頭の作品は詩集のタイトルにもなっている。その書き出し。

覗き窓から 空を視る
この切り取られた空間
それ以外は全て余白

 この「余白」がとても気になる。覗き窓から空を見る。その青空(たぶん)の空間。それが「余白」ではなく、それ以外が「余白」。うーん、覗き窓を囲んでいる壁や何かがあると思うけれど……。でも、「間違い」という感じはしない。何か、私の知らないものがここに書いてある、という驚き、詩の「予感」のようなものがある。
 私の知らないものを香咲は知っている--という予感。
 何だろう。

伸ばせば手の届く 私だけの空

この空と向き合う
この空と 語り合う

私は交感する
空気の一粒一粒
雲の一粒一粒が
私の細胞と混じりあう

 空に手がとどくとは私は考えない。空と向き合う、語り合うはわかるけれど、「私は交換する/空気の一粒一粒/雲の一粒一粒が/私の細胞と混じりあう」は「意味」はわかるけれど、実感としてつたわってこない。香咲の「肉体」がつたわってこない。
 「それ以外は余白」の1行は、わからないのだけれど、わからないを超えて、何かを感じる。そこに香咲がいる、という感じがする。たぶん、空(空気/雲)と交感するということは、空気が細胞に混じりあうことだと、私はどこかで聞いたことがある(読んだことがある)からだと思う。「交感」を言いなおすと、きっとそうなる。花と交感するなら、花の美しさ、輝きが、色と匂いが自分の体のなかに入ってくる。そうして一体になる--そういう感じを「空」で言いなおしている、と私は感じる。香咲以外にもそういうことを書いてひとはいると思う。
 でも、覗き窓があり、空が見えるとき、その空以外は「空白」と書いたひとはいないのではないのか。私は、そのことに驚き、その瞬間、香咲がそこにいると感じたのだ。--その感じが、詩を読み進む内に薄まるのだけれど、ああ、でも、きっと何かあるぞという「予感」があって、次の詩を読みはじめる。「存在」という詩。
 香咲は地図をつくる仕事をしているらしい。道路や川や建物、田畑を描いていく。「地図上に存在しないものはない」と書いて、3連目。

でも ただひとつ 図面上に描かないものが在る
描けないものが在る 山は等高線で描き出し
高低をつける 建物と水がい線は陰影をつける
光は届いているのだ そこに必ず在るのに
視えないもの 暗渠は視えはしないが破線で示す

 空気だけは漂っている
 図面全体に漂っている

 「地図に描けないもの(描かないもの)」ということばから、私は瞬間的に「光」を思い浮かべたが、どうやら香咲は「光」を「描かないもの」とは感じていない。「空気」も同じ。それは「図面全体に漂っている」。私には見えないけれど、香咲には、それが見える。描き出している、という自覚がある。
 職業の力--というものを感じる。そうか、私の肉体と香咲の肉体は、「見えるもの」が違うのだと感じた瞬間。

それは空だ
図面全体は空から視た状態で描くからだ
図面全体を 空が覆っている

 あ、このことを香咲は「私の空」で書いていたのだな。
 「空」と「空気(あるいは光)」はどう違うか。「視点の位置」が違う。その「位置」のことを香咲は「肉体」で感じている。
 仕事をしているとき、香咲はいつも「空」にいる。それは、私たちが地上にいて仕事をするとき、そこが地上であると意識しないのと同じように、それを忘れている。何かを描くことは、その対象そのものになることだから、その瞬間「立ち位置」は消えてしまう。意識からなくなってしまう。

私は忘れていた 空の存在を 会社勤めの時は
残業続きで 見あげるのは 真っ暗な空だ
流れてゆく星を 空しい気持ちで見送ったが

一人で仕事を始めてからも 私は
空の存在を意識できていなかった
常に下を向き 地を見つめ 四角く狭い缶詰のなかで
這いつくばっていたから

私は仕事の手を止め 缶詰の蓋を抉じ開けて
明るい世界に飛び出した

そこに 空が在った
そして 制作者である私も ここにいる

 「空」のあり方が違う。その「空」は地図をつくっている香咲だけの空である。「伸ばせば手の届く 私だけの空」が、ここで始めてわかった。空がそこにあるというだけではなく、香咲くは空そのものなのだ。
 そして、空があるから、私もある。
 この「空」の意識があって、最初の詩の「余白」がある。何も書き込まれていない空白がある。余白のなかへ、香咲は空といっしょに広がっていく。空を広げることは、地図に描かれている領域を広げること、地図を大きくすることは空を大きくすること、そして香咲を大きくすること。
 わああ、気持ちがいいなあ。
 どんな仕事でもつらいものがあるけれど、仕事そのものになると、そこにはそれまで知らなかった「可能性」が出てくる。その「可能性」の「余白」のなかに、香咲は広がっていく。
 「存在」には「空気の一粒一粒」と「交感する」とは書いていないのだけれど、「交感する」香咲自身が別のことばで書かれている。引用しなかった第2連、

烏口・丸ペン・コンパス・回転烏口を駆使して
墨書きする地図 詩と黒の世界 測量された
道路・河川・田畑・山・建物・門柱一本・
マンホール一個・法・植生界に至るまで
地図上に存在しないものはない

 同じように、香咲が地図を描くとき、香咲と「交感」しないもの(一体にならないもの)は存在しない。香咲はあらゆるものになって存在し、地図が完成するとき、香咲自身が完成するのだ。
 具体的な仕事はなんと美しいのだろう。ひとを美しくするのだろう。



私の空
香咲 萌
土曜美術社出版販売
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阿部嘉昭と私のスタンスの違い

2013-10-08 12:27:15 | 詩集
阿部嘉昭と私のスタンスの違い

 阿部嘉昭『ふる雪のむこう』(思潮社)の感想を書いたところ、以下のコメントをもらった。facebookでも対話した。そのことを踏まえて、少し書いておく。
 
2013-10-06 14:38:34
引用される批評対象と、地の文とが、もっと「似ている」ような評論を書いてはいただけないでしょうか。これではせっかくご恵贈申し上げたのに、逆パブリシティだと著者には写りました。たとえばぼくが初期アガンベンを信頼したのは、ベンヤミンを論じればベンヤミンに似てしまう繊細な同調力からです(比較項目が大げさではありますが)。このような同調力がたぶんマチズモを排除する具体性だとぼくは信じていて、むしろ谷内さんの批評にこそ、その同調力がいちじるしく欠如しているとおもわれます。ミクロ批評をなさるのなら、こんどのぼくの一篇はトータル十行なのですから、せめて全篇は引用してもらいたいです。そうすれば批評の読者は客観軸を得ることができる。なにしろぼくは72篇収録することで、計72の詩的フィニッシュを書いたのです。あと、望めるのなら、二行五聯の定型における頻繁な「聯間」にどのような機能があたえられているか、そのときに採用されている語調がどう共謀しているのなども、やはり論じていただきたいところです。ミクロ→全体、というヴェクトルが谷内さんの批評にはいつも欠落しています。それでは批評がラクすぎてしまう

(1)取り上げる作品と感想が「似ている」「似ていない」という点について。
 私は、いつでもその作品と「一体」になろうとしている。私のブログには、しつこいくらいに「一体(一体感)」ということばが出てくると思う。私は、その「一体(感)」をことばのセックスとも読んでいるが、今回の阿部の作品には、私にとって「一体感」を感じさせることばがなかった。
 雪が何回も詩に登場するが、その雪が私にはよくわからなかった。
 私は北陸の山の中で育ったので、雪にはなじみがある。11月23日の勤労感謝の日に、学校ではストーブを取り付ける。すると雪が降りはじめる。雪は5月の連休のころまで根雪として残っている。私はそのころよく風邪をひき、背戸の根雪を氷枕につかった。
 私は北海道(札幌)の雪を知らないから、阿部の描く雪になじめないのかもしれないが、雪になじめないというのは、私の体験のなかでは初めてである。先日、トルコ映画「沈黙の夜」を見たが、ラストシーンは朝の地面につもったうっすらとした雪。その地面が透けるか透けないかの感じにも肉体は反応する。つまり、そこから「意味」が自然にわきあがってくる。春先に旅行したときダブリンとスペインで雪を見た。雪に降られた。その雪は北陸の雪とはまったく違うけれど、肉体はすぐになじんだ。--私は雪が大好きだが、阿部の描く雪には肉体が反応しない。
 なぜだろうか、と考えた。阿部は雪を肉体ではなく、「頭(知識)」でつかんでいるのではないかと思った。私は「頭」で雪を考えたことがないので、どうしても「一体感」を感じることができないのだと思った。
 それは「あけび」の比喩に出会ったとき、確信にかわった。私は山育ちなので、自分が遊んだ山のどこに、いつ、どれくらいのあけびができるかまだおぼえている。そして友人といっしょにあけびをとったことや、食べながら話したこと(猥談)なども肉体に食い込んでいる。阿部はあけびを自分でとって食べた経験はあるのだろうか。肉体で知っているのだろうか。見て知っているだけなのではないか、と疑問に思った。
 阿部は「知っている」ことを書いている。肉体がおぼえていることを書いているのではない、と私は感じだ。私は「知っている」ことを、あまり信じない。「知っている」ことがつかえるようになるには時間がかかる。でも「おぼえている」ことならいつでもつかえる。私は「おぼえている」ことを基本に、他者と向き合う。
 「おぼえている」ことと「知っている」ことは、私の考え方では、まじりあわない。融合しない。

(2)「ミクロ→全体、というヴェクトル」いう問題。
 私は、そういう視点に疑問を感じている。全体を構想し、その全体像によってなにごとかを判断するという方法に疑問をもっている。たまたま、そういう感じで感想を書くことがあるかもしれないが、それは「方便」。書き終わった瞬間、あ、嘘をついてしまったんじゃないかなと不安になる。
 私はむしろ「矛盾」に注目して、その「矛盾」を「止揚」し新たな「全体」を構築するのではなく、「矛盾」を解体し(全体を解体し)、「矛盾以前」の「混沌(カオス)」で「一体」になることを欲望している。混沌のなかにある、ことば以前のことば、それを動かす力に出会いたいと思っている。
 私は、iPS細胞のように、何にでも変化しうるエネルギーの「基本形」の場で「一体」を欲望している。それぞれのことばのなかにある「iPS細胞」を探している。
 これは、ある作品を読んで、自分の肉体をほどいていって、「肉体以前」のところまでいけたときに、偶然、あ、これだな、と感じるもの。それに出会えれば、ことばは自然に動きだす。どんな全体にでもなることができると私は信じている。4つかえる」エネルギーを探している。
 「頭」のなか、「知っていること」を探しても、そういうものは見つからない。
 アガンベンやベンヤミンのことを阿部は書いているが、それは阿部の書いた「雪」とどういう関係があるのだろうか。アガンベンとベンヤミンが雪をめぐってことばをかわし、あけびは男根の比喩であるとでも言っているのだろうか。
 私はテストを受ける「学生」ではないので、「知っている」ことなどには興味がない。「知らないのか」と批判されても(ばかにされても)、「はい、知りません」というだけ。必要ならおぼえるし、必要でないと思えばそのまま。
 だいたい「知っている」ことが「肉体」になるまでに、どれくらい時間がかかるか予想もつかない。私は「知っている」こと、「知っている」を積み上げてつくられた「全体」というものに非常に疑問をもっている。

(3)マッチョ思想について。
 私はマッチョ思想を「知っている」ことを中心にした自己補強だと感じている。
 私は西洋哲学にはなじみがないが、唯一、信じていることばがある。ボーボワール。「女は女に生まれるのではない。女につくられるのだ。」20世紀の思想で、これだけが現実を動かした。現実になった。マルクスさえ破綻したが、ボーボワールは破綻しなかった。男女平等があたりまえになった。人間存在は「概念」によって補強され、その概念が社会を構築する。ボーボワールはこれに異議を唱えた。
 男とは何か。セックスでは女をリードし(支配し)、女に快楽を与える。そうできるのが「男」。--これは実際に一対一のセックスから自然発生したもの、それぞれの肉体がその場に応じてみつけだした自分なりの答えではなく、ひとつの「概念」である。そんなものを捨てて、一対一で「一体化」すれば、それがセックスである。
 「知っている」こと(父親から、あるいは男性優位の社会から教えられたこと)を頼りに行動すること、それがマッチョ思想の始まり。
 同じように、男女関係だけではなく、あらゆることがらに対して、「知識」を自分の存在証明にして行動することを私は「マッチョ思想」と呼んでいる。「知の体系」を「マッチョ思想」と呼んでいる。そういうものを壊して、その場に応じて、そのときそのときの関係をつくっていく--そういうことを場当たり的な生き方と一般に否定的にいうけれど、その「場当たり」をこなせる力を私は信じていて、それを指向している。
 そのために「矛盾」をみつけ、その矛盾を手がかりに「混沌」へことばを掘り下げていこうとしている。
 阿部とは、基本的な立場が違うのである。

(4)宣伝について。
 宣伝というのは、基本的に不都合なことは隠し、都合のいいことだけを知らせるという嘘(方便)である。そこには「一体感」はない。私のブログはいったい何人が読んでいるかわからないが、読者が非常に少ない。というより、ある作品の感想を書くと、その筆者が読むかどうかという感じである。阿部もそういう一人ではないかと私は感じている。私は「頭」で書かれたことばは大嫌い、ことばの肉体とセックスしたい、一体になりたいといつも書いている。セックスなのだから、やりたいことがあわなければ、「それ嫌い」というだけである。ブログを読んでいて、「それ嫌い」と言われたのなら、「あ、これは嫌いか」だけじゃない? 私はこれは嫌いだけれど、どうぞ読んでくださいと宣伝するなんて、私にはできない。
 もし私のブログに取り上げた詩人以外の読者がいたと仮定しての話だけれど。
 そういうひとが私の感想を読んで、谷内がおもしろいと書いているものはつまらないものばっかり。こんなに否定するならほんとうはおもしろいんじゃない、と思うかもしれない。
 ひとのこころなんて勝手気まま。きょう好きと言っていても、明日は大嫌いというかもしれない。
 私自身の体験を言っても、ある詩人の詩が大嫌いだった。詩集を読む度に大嫌い、気持ちが悪いと書いていたのだが、知らない内に肉体が気持ち悪さになじんでしまったのか、あ、これ、気持ちいい、好きだなあと感じるようになった人がいる。肉体もこころも、つづけていけば変わる。
 「宣伝」が働きかける嘘ではなく、肉体が自分で見つけ出す本能の「ほんとう」。それに出会うまで続けることができるかどうかだけ。

*



ネットでみつけたアケビの画像。皮の色はいろいろあるが、もっと紫色っぽいものが一般的か。
食べごろになると(熟れると)、写真のように皮がぱっくりと割れ、中の実が見える。
これから男性の下半身を想像する感覚は、私にはわからない。
私は俗な人間なので、バナナなら男性の下半身を連想するが。


ふる雪のむこう
阿部 嘉昭
思潮社
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