詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

根本明『海神の、います処』

2014-05-19 11:08:19 | 詩集
根本明『海神の、います処』(思潮社、2014年05月01日発行)

 根本明『海神の、います処』を読みながら、私は、「土着」ということばを思い出す。ことばが土着している感じがする。「土地」がある感じがする。ことばというのは、いろいろなところを通って出てくるものだが、根本のことばは「土地」から出てくる。で、そのことが非常に気になる(私の「気持ち」を不安定にさせる)のは、私がその「土地」を知らないからだ。「土地」が書かれていることがわかる、その「土地」抜きにしては根本の詩が成り立たないことがわかるが、……私はその「土地」を知らない。そのためにかえって、強く「土地」を感じる。「知らない」ということが、「事実」の見えなさとして、どんと立ちはだかる感じだ。
 「潮干のつと」という作品。

東京湾東岸の美術館に
浜の香が粗くしぶく
歌麿の絵本「潮干のつと」がめくられてあるのだ
赤青の小さな巻貝やら二枚貝
緑藻類に昆布の大墨痕が
柔らかな筆で配されて
潮濡れた可憐な生き物たちを
掌上にする人々のよろこびを伝え
私をひろびろとはずませる
潮干のつととは
海神に下賜された恩寵の謂い
あまねく潮干のつとでないものはなかった

 「潮干のつと」ということばがわからない。「潮干」は「干潮」ということばを思い起こさせるが、引き潮のことがどうか、わからない。「つと」はまったくわからない。
 そういうわからないことがあるのだけれど、歌麿の絵本「潮干のつと」のなかの風景は根本のことばから、ぼんやりとわかる。海辺。海辺に貝が散らばっている。海藻も打ち上げられている。(あるいは、引き潮でできた「浅い潮溜り」の様子かもしれないが、まあ、海辺である。)それを人々がとっている。「掌」に載せている(手で持っている)。人はうれしそうだ。その人のよろこびが、絵からつたわってくる。
 朝の風景かなあ。枕草子「冬はつとめて」の「つと」。でも、あれは「つとめ+て」というような感じの響きだったなあ。よくわからない。「つとめて」ということばが現実につかわれるのを聞いたことがないので、見当のつけようがない。(私は頭がぼんくらにできているのか、実際にそのことばが誰かの口から出るのを聞いたものでないと、何のことかわからない。その状況が身の回りにないと、「意味」にならない。)
 私は海の近くで育ったわけではない。実際の海の早朝を知っているわけではない。けれど、海が荒れて、その荒れがおさまって、潮が引いた翌朝の海辺の汚れの明るさは見たことがある。(昼に近いから、「つとめて」ではないのだけれど……。)その匂い、その輝きに、肉体が酔っぱらうように感じたことがある。
 そういう感じと、根本の書いている「私をひろびろとはずませる」が重なる。「浜の香が粗くしぶく」がぴったりに感じられる。--で、そういう「感じ」が私の「誤読」なのかもしれないけれど、「誤読」ということを棚に上げて、私は「この詩はいい詩だなあ」と思う。私はわがままな人間なので、自分の感じにぴったりなものがあれば、それが「いい詩」、なければ「悪い詩」という具合に思ってしまう。
 そして、「いい詩」だなあと思いながら、何か不透明なものも感じる。私がたどりつけない何かを感じる。それが、

つと

 「つと」って何?
 たぶん、歌麿の描いた絵の海辺、東京湾(?)の近くの海辺で、人が貝や藻を拾い集めながら「つと」ということばをつかう瞬間に出会えれば、「あ、これが『つと』か」とわかるのだと思う。そのぼんやりした感じで「つと」をつかうと、あ、何か勘違いしているという顔をして地元の人からみられる。「まあ、よその土地の人だから、はっきりわからなくもいいことにしておこう(くすくす)」くらいな感じで受け入れられ、それが何度も繰り返されて私の「つと」解釈が訂正されていく--そういう「時間」を含めて存在する「土地」が「つと」ということばを育てている。「つと」は「土着」しないと、ほんとうはわからない何かだ。
 根本は、「潮干のつと」を「海神に下賜された恩寵の謂い/あまねく潮干のつとでないものはなかった」と説明しているけれど、うーん、これ、日本語? 「日本語で言いなおしてくれない」と言いたいくらい「意味」がわからない。英語やスペイン語に翻訳しなおしてくれた方が「意味」がわかるかもしれない。あまりにも根本の「頭」のなかのことばが強すぎて、この二行からは「海辺」も「人々」も消えてしまっている。
 これは根本も感じているのかな? 反省(?)するように、二連目のことばは「海辺」という「土地」へかえっていく。「土地(の風景)」と一緒に動いている。

しおひのつと、と
祈りのように口ずさむ言葉は
弦月のように東岸の潮をひきしぼり
舟溜まりの舟を打ち合わせ軒々に干物を吊るし
沖の洲の千鳥たちに無数の小笛を吹かしめる

 静かでのどかな、光溢れる海辺の風景がみえる。そういう風景といっしょにあるのが「しおひのつと」なのだ。漢字を割り振りされる前の、「音」としてのことば。まだ「意味」がわからないまま、そのことばを聞いたこどものように、私は風景の「全部」と「しおひのつと」を結びつける。それから「つと」に向かって、焦点が絞り込まれるようにことばが動いているのを待つ。
 そうすると……。

私は聴く
はだかの海人の男女が一列にかがみ
はるかな時の影に滲みながらすなどっていく
あの猥雑な哄笑を

 あ、海が荒れていたとき、することがないから(?)、男と女は夜中猥雑なことをしていたんだな。そして翌朝(つとめて)、荒らしがおさまり潮が引いた浜辺で、荒らしの海が運んできたものをかき集めている。きのうの夜の猥雑なことを貝だとか昆布だとかに託しながら。ほのめかしながら。あるいは歌いながら、大きな声で笑いながら。

さらに聴く
海崖の松林で小さなものなら
草書のように乱した歌をうたうのを
幼い私もその中にあり
わざ歌を
海神の御告げをうたっていたのではないか

 「わざ歌」とは「わいせつな歌」(猥歌)だろうか。やっと静まった海辺(でも、まだ荒れた海の名残はある海辺で)で大人がきのうの夜のことを歌っている。笑っている。「意味」がわからないまま、そのことばをなぞって歌う「小さなものら(子ども)」。ことばはいつも「意味」よりまえに、「音」があり、その「音」といっしょに動いている「場/土地/土着の人間」がある。
 同じ「音」を何度も何度も繰り返しているうちに、それが「肉体」のなかで「説明を必要としない意味」にかわる。「おぼえていること」になる。
 その「おぼえていること」が、歌麿の「潮干のつと」を見たとき、根本の「肉体」のなかでぱっと広がったんだな、と思った。その広がるときの動きが、躍動したまま、この詩のなかにはあると思った。

海神のいます処
根本 明
思潮社
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中井久夫訳カヴァフィスを読む(58)

2014-05-19 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(58)          

 「街路にて」は二通りの読み方ができると思う。カヴァフィスと「禁断の快楽」を味わった若者が去っていくときの様子を描いているという読み方と、誰かと密会してきた若者とカヴァフィス街路ですれ違ったときの様子を描いているという読み方。後者の方で読み進めてみることにする。

その魅惑の顔はやや蒼かった。
鳶色の眼が疲れをみせつつ宙を見つめていた。

 「眼が疲れをみせつつ(みせている)」という表現はだれもがするけれど、これは考えてみるとなかなかおもしろい表現である。「みせつつ」といいながら、「疲れ」を眼自身が見せるわけではない。見る側が読み取る。たとえばカヴァフィス以外の誰かが、この詩の主人公である若者とすれ違ったとしても、「眼が疲れをみせ」ているとは思わないかもしれない。眼に注目しないかもしれない。カヴァフィスが眼に注目し、眼に疲れを読み取った。そして、そこに「疲れ」を読み取るとき、単に「疲れ」だけを読み取るわけではない。「なぜ疲れたのか」。その「なぜ」を読み取る。
 ここから「男色」がはじまる。見知らぬ誰かが疲れていたとしても、そんなことはふつうの人間にとっては関係がない。なぜ疲れたのかということは、もっと関係がない。それを読み取ってしまうのは、カヴァフィス自身がその「疲れ」に関与したいからである。
 すでに関与した結果であるなら、詩は、少し違っていた形になるだろう。「疲れをみせつつ宙を見つめていた」とはならないだろう。「宙を見つめている」はカヴァフィスを見つめていないということである。カヴァフィスに気づいていないということである。彼は、余韻のなかにいる。そのこともカヴァフィスは、読み取っている。

その子は漂って行く、街路を、あてどなく、
たった今味わった禁断の快楽の
麻酔がまだ切れないかのように--。

 こういう「漂い」を読み取ってしまうのは、カヴァフィス自身がそういうことをしてきたからだろう。それも同じ「街路」で、繰り返し。あのときは、「麻酔がまだ切れないかのように」漂っていた。それは裏返せば、いまは、その「麻酔」が切れてしまっている。「禁断の快楽」はカヴァフィスからは遠いということかもしれない。
 カヴァフィスは街路ですれ違った若者を見つめながら、遠い昔の自分になっている。「若者」になっている。彼もまた「魅惑の横顔」を持っているのだろう。
 「禁断の快楽」というのは、少し露骨な言い方かもしれない。「流通言語」に過ぎなくて味気ないかもしれない。しかし、こういう「みえすいた」ことばをばらまきながら、「疲れをみせつつ」の「みせる」という表現のなかに、自分をそっと隠しておくところがカヴァフィスの不思議な魔法だ。「禁断の快楽」がもっと個性的な表現だった場合、きっと「みせつつ」ということばのなかにあるものが見えなくなる。

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樋口武二『異譚集Ⅱ』

2014-05-18 11:02:27 | 詩集
樋口武二『異譚集Ⅱ』(「詩的現代叢書」4)(書肆山住、2014年05月05日)

 樋口武二『異譚集Ⅱ』の「石を投げる」という作品は、樋口の意識のなかでどんな位置を占めているのかわからないが、「譚」になるまえの一瞬が描かれていて、私は、気に入っている。

誰かが
裏の河原で
石を投げている

ゆうぐれの
薄暗がりの風景のなかで
向こう岸にむかって
力一杯に
誰かが
石を投げている

投げても
投げても
石は届かない
それでも
投げやすい石をさがし
思い切り力を入れて
投げつづけている

そんな姿をみていると
私も外に出て
一緒に投げてみたくなる
向こう岸にむかって
届かなかもしれない石を
力一杯に
投げてみたいのだ
夜あけまで

 3連目の「投げやすい石をさがして」の「投げやすい」が、なんとも不思議で、そこにふっつまずき、すいと引き込まれた。
 石を投げているのは「誰か」であって「私(樋口)」ではない。その誰かが向こう岸へ石を投げるのだが、その石が投げやすいかどうか、どうして樋口にわかるのか。ほんとうに「投げやすい」石をさがしたのか。「投げやすい」と感じるのは大きさゆえなのか。重さゆえなのか。--それが「わかる」のは投げている「誰か」だけであって、樋口ではない。樋口にとって「投げやすい」石であっても、誰かにとって「投げやすい」とは限らない。それなのに、樋口は「投げやすい」ということばをつかっている。
 で、そういうことが気になって、ふっと「つまずいた」感じになるのだが、すぐに、すいと「吸い込まれていく」。
 「投げやすい」ということばをつかった瞬間、樋口は「誰か」になってしまっている。あるいは樋口が「誰か」になってしまった瞬間「投げやすい」ということばが肉体のなかからあらわれてきた。--どっちが先か、というのは、わからない。きっと「同時」にそういうことは起きたのだと思うが、この「私(樋口)」と「誰か」が突然「一体」になってしまう感じが、とてもいいと思った。
 難しいことばではなく「投げやすい」という簡単なことばのなかで、まったく違う人間が一瞬のうちに重なり、「ひとり」になる。
 こういうことが起きるのは、石には「投げやすい」石と「投げにくい」石があることを樋口は(あるいは私たちは、といった方がいいのかもしれない)おぼえていて、他人(誰か)のことなのに、自分の「肉体」で「他人」の思い(感覚/感情/精神)をわかってしまうからだ。
 これは道に誰かがうずくまっていて、腹を抱えて唸っているのを見ると、「あ、この人は腹が痛いのだ」とわかるのに似ている。自分の痛みでもないのに、その人が「腹が痛い」といったのでもないのに「腹が痛い」とわかる。そのわかるは、もしかすると実は腹ではなく心筋梗塞で苦しんでいるのを誤解しているかもしれないけれど、そういう「間違い」を超越して「わかる」ということ。自分の「肉体」のなかに、何か、自分が体験しておぼえていることがあって、それが蘇ってきて、自分の「感覚(こころ/ことば)」になってあらわれるということ。
 こういうことは、あるときは「共感」というような表現で呼ばれるのだけれど。
 こういう「共感(自他の混同)」が起きるということは、私は、とてもおもしろいことだと感じている。
 で、詩にもどると。
 そんなふうにして「投げやすい」ということばのなかで「誰か」と「樋口」が重なって「ひとり」になってしまうと、自然に、

そんな姿をみていると
私も外に出て
一緒に投げてみたくなる

 と、思うのでである。
 3連目に「投げやすい」ということばがなかったら、きっと4連目はぎくしゃくする。なんとなく、しっくりこない。3連目の「投げやすい」が、「誰か」というまったく知らない人をとても身近な存在に変える。
 「投げやすい」という「肉体」をとおったことばで「誰か」と「一体」になったために、「私」は「誰か」の思いを正確につかみとる。なぜ、向こう岸に石を投げているかが、「わかる」。

届かなかもしれない石を
力一杯に
投げてみたいのだ
夜あけまで

 届かなくてもいいのだ。「力一杯」に投げること、肉体を動かすこと、動かしつづけること--そうしないではいられない何か、ことばにならない何かをしてみたいのだ。



 この作品の「誰か」(あるいは巻頭の「創世記」の握り拳をみている「人」)が「誰か」ではなく「少年」とか「男」になってことばが動くと、それは「譚」になろうとして、ことばを統一しはじめるが--うーん、そうなると、ことばが窮屈になる。「物語」の論理が優先し、自他の感覚(肉体)の融合が仕組まれてしまうので、私は、おもしろみを感じることができなくなってしまう。
 樋口のやりたいこととは違うかもしれないけれど、私は「譚」になる前の一瞬の方が詩の不思議に触れていると感じる。



異譚集―詩集 (詩的現代叢書)
樋口武二
書肆山住
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中井久夫訳カヴァフィスを読む(57)

2014-05-18 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(57)          

 「それらが生きて訪れてくれる時は」は、カヴァフィスが自分自身に向けて書いたことばである。

詩人よ、きみのエロス的な幻影を
取っておこうとしろよ。
いくら数が少なくてもいい。まだやれるか。やってみろよ。
そっと詩の行間に隠しておけよ。
残そうとしろよ、詩人よ、
生きてきみのこころを訪れるまぼろしを、
その時が夜であろうと、真昼のまぶしい陽ざかりであろうと--。

 二行目の「取っておこうとしろよ。」が少し曲折している。歪んだことば運びではないだろうか。ふつうは「取っておけよ。」と言ってしまいそうである。「おこうとしろよ」には何か「未来」というものが含まれている。いま、取っておくのではなく、そういう機会が未来に訪れた時は取っておけるように準備(こころがけ)しておけよ、と言っているように聞こえる。
 なぜ、こういう言い方をするのだろう。「いま」それがないからだ。
 「いま」詩的エロスがない。欠如している。そのことを自覚している--そう読んでみると、次の「まだやれるか。やってみろよ。」が肉体に生々しく跳ね返ってくる。まだやれるか、不安である。やってみろよ、とこころの奥底でもうひとりの自分がけしかけている。でも、やれなかったら? そういう不安は直接書いてはいないが、「まだやれるか。やってみろよ。」の間髪をおかないことばの掛け合いが、それを感じさせる。

 終わりから二行目の「生きてきみのこころを訪れるまぼろしを、」の「生きて」が、やはりことばとしてねじまがっていて、そこに不思議な何かがある。
 「きみのこころを訪れるまぼろしを、」なら自然に読めるが、わざわざ「生きて」書いているのはなぜか。多くの「まぼろし」が死んでしまったからなのか。たとえば、その「まぼろし」を恋人と考えるなら、恋人の多くが死んでしまったということはなかなか考えにくい。想像しにくい。「死んでしまった」のではなく、「去ってしまった」のだろう。だから、去るのではなく、いまからやってくる「未来の」恋人については、彼が完全に去ってしまわないようにしろよ、ということなのかもしれない。
 どんなふうに? 「行間に隠しておけよ。」ということばが教えてくれる。何もかもすべてを書くのではなく、あるものを行間に隠しておく。わからないようにしておく。生き延びさせておく。もし恋人が去ってしまっても、その隠しておいた幻影を呼び出し、そっと思い出のなかで出会うことができるように。行間から「生きて」動きだすように。
 行間は、読みたいひとだけが読む。読みたいものだけを読む。そのために、存在する。
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中神瑛子『群青のうた』

2014-05-17 12:29:23 | 詩集
中神瑛子『群青のうた』(思潮社、2014年05月01日発行)

 中神瑛子『群青のうた』は、物語のような詩が多い。そして、長い。中神が書きたいことは、その詩群のなかにあるのかもしれないけれど、私がひかれたのは「顛末」。

そのとき、どうしても伝えておかなければならないことがあった
しかし、相手はそこには不在だった
いつ会いに行っても不在だった
不在の相手の影を
私は私のどれだけの現実で埋めたことか
そのとき、どうしても伝えておかなければならないことがあった
しかし、相手はそこには不在だった
だから私は一転、きりもむようにかたちを変えた
どうしても伝えておかなければならないこと
柘榴のように赤く凝って……

 ここには「どうしても伝えておかなければならないこと」が具体的には何かが書いてない。だから、わからない。わからないけれど、この伝えたいものがあるのに伝える相手がいない、そのために伝えたいことが「どうしても」にかわる感覚は、わかる。
 同じ行が1行目と6行目に繰り返されるが、繰り返されることで「どうしても」というどうにもならない感じが強くなる。「どうしても」はさらに9行目にも出てくる。
 中神は「どうしても」が書きたかったんだな、とわかる。

 で、この「どうしても」。私は詩の講座でときどき意地悪な質問を受講生にする。この詩がテキストだったら、たぶん、

<質問> 3回出てくる「どうしても」を、もし言い換えるとするとどうなる?
     自分のことばで言いなおしてみて。

 きっと誰も答えられない。質問した私にも答えられないのだけれど。「どうしても」ということばがわからないわけではない。「どうしても」をつかって、「どうしてもわからない」というような文だってつくれる。どういうときにつかうかもわかっている。それなのに、中神の「どうして」をどう言い換えていいのか、わからない。
 これは、しかしどう言い換えていいのかわからないのであって、何もわからないというのとは違う。
 もしかすると、言い換える必要がないくらい「どうしても」がわかっている。わかりすぎていて、そんなことを言いなおす必要がないのだ。
 これはどういうことかというと。
 同じ経験をしたことがある、それをおぼえている、ということだ。
 言いたくて言いたくてしようがない。言わないと気がすまない。それは怒りか、不満か、よろこびか、そのときによって違うが、たぶん「どうしても伝えておかなければならないこと」というのは、「怒り」の類だろうなあ。我慢して言わなかったこと、言わないためにこころのなかでどんどんふくらんで行って抑えきれなくなって……。それをついに言ってしまおうとして相手を探す、しかし、その人がいない。(あるいは、その人がいたとしても、ほかの人もいっしょにいるので、言えない。)
 そういうことが、きっと誰にでもあって、それを思い出してしまうために「どうしても」ということばを説明しきれない。「どうしても」のなかに「自分」がまるごと入ってきて、「どうしても」の意味を邪魔する。「どうしても」を正確に言おうとすると、あのときの「怒り」のようなものがまじってきて、「どうしても」の説明にはならない。「怒り」の説明になってしまう。

 言いたいのに言えない、伝える相手がいない。そうするとき、ひとはどうするのだろう。

私は私のどれだけの現実で埋めたことか

 この1行は、……うーん。難しい。
 「どうしても」に比べると、まだ言い換えがききそうだが、やっぱり難しい。
 「私の現実」というのは「怒り」だね。その「怒り」を反芻する。自分のなかで繰り返す。怒りが生まれた瞬間のことを思い出し、ことばにしてみる。自分の「主張」をくりかえしてみる。「現実」というより「主張/主観」だね。「私の現実」であって、「相手の現実」ではない、ね。
 そういうものがたまりすぎると、とても苦しい。
 そういうとき、どうするのだろう。
 中神は、とても変わっている。
 自分自身を「柘榴」に変身させてしまう。
 「怒り」によって変身してしまうのだが、これを「怒り」による作用ではなく、あくまで「私は」を主語にする。つまり「怒り(主語)」が私を柘榴に変えたのではなく、

私(主語)は一転、きりもむように「怒りの」かたちを「柘榴に」変えた

 「怒り」を、そういう具合に別のもの(比喩?)にしてしまう。そのとき「主観」が「客観」にかわる。(まあ、これはこんなに簡単には言えないのかもしれないけれど、言ってしまってはいけないのかもしれないけれど、そんな感じがする。)客観にかわるから、それをもちこたえることができる。もちつづけることができる。

半年が経ち、一年が経ち、五年……
そのとき、どうしても伝えておかなければならないことが、あった
不在に

 この12行目にあらわれた突然の読点「、」は「伝えておかなければならないこと」が「あった」から独立して「もの(比喩のようなもの)」にかわったことを意味している。

 で、こうやって、伝えたいこと(怒り)が「もの」に変わってしまうと、何か「世界」全体も変わってしまう。1連目の「どうしても」は2連目になると、希薄になる。2連目にも一回「どうしても伝えておかなければならなかったこと」ということばが出てくるが、よく見ると、それは「ならなかったこと」であって「ならないこと」ではない。「過去」になってしまっている。「現在」ではなくなっている。
 1連目では、何度会いに行っても相手は不在で「伝えておかなければならないこと」は、そのたびに「いま(現在)」として噴出していたのに、「もの(比喩)」にしたとたんに、「過去」になってしまう。
 「いま」というのは、これから先、どうなるかわからないもの。予測のつかないものである。
 それに対して「過去」は、もうかわらない。起きてしまったこと。「主観」ではなく「客観」になってしまう。

 これはこれでおもしろいのかもしれないけれど、私は、あまり関心がもてない。人の「過去」なんか、どうでもいい。起きてしまったことではなく、これからどうするかがスリルに満ちていておもしろいのだ。
 「どうしても伝えたいこと」も、伝えることによってどうなるかが楽しみなのであって、「過去」になってしまうと、わくわくしない。

 たぶん、このことと関係がある。
 私は中神の「物語詩」に引きつけられなかったのは、書かれていることが「客観」になっている。「物語」のなかにおさまって、「過去」として結晶はするけれど、「いま」を突き破って「未来」を動かしていくという感じがしないからだと思う。
 「どうしても」はずーっと「どうしても」であるからおもしろいのに、それが「柘榴」にかわってしまうと、何と言えばいいのだろう、なんだ比喩かと昔なじみの詩を読んでいるような気持ち、「現代詩」という感じがしなくなる。



詩を読む詩をつかむ
谷内 修三
思潮社
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中井久夫訳カヴァフィスを読む(56)

2014-05-17 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(56)          

 「セレウキデスの不機嫌」も態度と声、衣裳と声がテーマだといえる。

デメトリオス・セレウキデスはいたくご不快。
イタリアに着いたプトレマイオス家の者が
とてもむさくるしいなりで、しかも徒歩だという知らせ。
お伴の奴隷も三人か四人。これじゃ
奴の王朝 早晩なめられ、
ローマの笑いものとなり果てようぞ。

 このセレウキデスのことばは「なめられ」という肉体と直接むすびつく口語があって、主観の強さがあるが、それはあくまでセレウキデスのこと。その口調のままの、なれ親しい感じで、王にふさわしい身なりを、……「せめて身なりなりとも--。/どこか威厳が欲しいじゃないか。」と衣裳や王冠、馬をおくろうとする。「わしらもまだ王。/まだ(あし!)王という名だけはあるんだぞ。」と「主観」を繰り返すが、もう一方の登場人物、プトレマイオス家の者は……。

話を聞いてことごとく辞退。
そういう贅沢な品はこれっぽっちも要らない。
ぼろを着て、みすぼらしい様子でローマに行って
二流の職人の店で身なりを整え、
不運な貧相な奴だと元老院に思ってもらわなくちゃ、
嘆願の効果を一層大にするためには。

 ここで衣裳、身なりが、やはり「声」だということがはっきりする。
 一方に、権力、地位が高いことを象徴する衣裳、好運な人間をあらわす衣裳があり、他方に不運を象徴する衣裳がある。この衣裳の「声」とことばと同様に「意味」をつたえる。「意味」だけではなく、口語の口調のようなものもつたえる。「二流」というのは衣裳における「口語」である。「眼(肉体)」で直接感じ取ることができる。
 鷹揚な口調は、嘆願にはふさわしくない。つつましい口調は嘆願にふさわしい。同様に、豪華な衣裳は嘆願にはふさわしくない。つましい衣服は嘆願にふさわしい。「嘆願」は「意味(内容)」をつたえるだけではなく、嘆願しないことには生きていけないという「気持ち」(こころの調子)が必要。あわれみを引き出さなければならない。
 「嘆願の効果を一層大にする」とカヴァフィスは明確に書いている。「効果」を生み出す力が、話す「声」にあるのと同様、身なりにもある。豪華なものでは「あわれみ」を引き出すことができない。「意味」ではなく「主観(感情/あわれみ)」を引き出せるかどうかが、嘆願が通じるかどうかの境目なのだ。
 カヴァフィスはそれをはっきりと意識している。
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谷川俊太郎「午後」

2014-05-16 12:02:17 | 詩(雑誌・同人誌)
谷川俊太郎「午後」(「谷川俊太郎のポエメールデジタル」26、2014年05月09日発行)

 谷川俊太郎「午後」は、書き出しのスピードがとてつもなく速い。

誰も来ないのに
言葉が来た
玄関の南天が風に揺れている

 「言葉が来た」は、ちょっと観念的(抽象的)である。「言葉」ということばを知っているので、わかったような気持ちになるが、何がわかったのか言いなおしてみようとすると言いなおせない。
 「言葉が来た」というのは、どういうこと? 「言葉」が家のドアを叩いた? それとも谷川の「頭」をノックした? そのとき「言葉」は「言葉」ということばだったのか、それとも別の何かを言い表すことばだったのか。
 「言葉が来た」は、インスピレーションが突然湧いたということ? 何かがことばになってあらわれたということ? それは、では、どこから来たのか。谷川の外から? あるいは谷川の内部から?
 ひとつひとつ考えていくと、どうも、わからない。わからないけれど、いま私が書いたような面倒くさいことは「間違っている」ということだけはわかる。
 「言葉が来た」は、あれこれ厳密に考えてはいけないことなのだ。
 言いなおすと、ゆっくり読み直してはいけないのだ。ゆっくり読み返したために、そのスピードのなかにある何かが見えなくなり、そのためにさらに「わからない」が増えて混乱している。ぱっと読みとばして何が書いてあるのか考えるのをやめると、ことばが私の論理では追いきれないスピードで駆け抜けていったということがわかる。そのスピードが切り開くものをただびっくりしながら見ていればいいのだ。意味を考えるからつまずく。意味なんか考えなくていい。わからなくていい。

 変?
 わからないまま先へ進むとか、意味なんか考えなくていい、というのは変かな? 変かもしれないけれど、変でもいい。

 3行目。

玄関の南天が風に揺れている

 これは、何だろう。その前の2行に向き合い「わからない」と言っていたことをわすれて、この行は「わかる」。風景が見える。
 もしかしたら、「来た」のは「言葉」ではなくて、風? 風がやって来て、その証拠(?)に南天を揺らしている。風は見えないけれど、葉っぱが(葉っぱだろうと思う)揺れていることで、風がそこに「ある」(そこへ来た)ということが「わかる」。
 「言葉が来た」というのも、これに似ているのかも。
 「言葉が来た」とき、その「言葉」自体は見えない。見えないけれど、何かがその瞬間に動いている。それで「言葉が来た」ということを感じる。わかる。
 もしかしたら「玄関の南天が風に揺れている」という「文(言葉)」がやって来て、谷川に詩を書かせはじめたのかもしれない。いや、それよりも前に「誰も来ないのに」という表現があるから、それが最初にやって来た「言葉」かもしれない。「誰も来ないのに」は中途半端。「言葉が来た」という表現そのものがやって来た。
 あ、また、何か面倒くさいことを書いているね、私は。
 こういう面倒くさいことを吹き払うために、

玄関の南天が風に揺れている

 があるんだけれどね。
 この3行目で、世界がぱっとかわる。
 「言葉が来た」という観念的なものが「具体的」な風景にかわる。見たことがある風景にかわる。そのために「言葉が来た」というのも、「あ、こういうことか」と「わからないまま」何かを感じ取る。

 「わからないこと」というのは、ほうっておくと自然になくなってしまう。きっと「わからないこと」はいうのは、そんなに大事なことではないのかもしれない。いますぐに解決しないととんでもないことになる、というようなことではないのかもしれない。
 「わからないこと」はきっと何がわからなかったのか忘れたころに、その「忘れた」というなかで解決している。「わかる」に自然にかわっているのかもしれない。

誰も来ないのに
言葉が来た
玄関の南天が風に揺れている

 3行目の「風景」が目に見えた瞬間、それをくっきりと思い出すことができた瞬間、きっと「わかる」にかわっている。それがあまりに早く「わかる」に変わってしまったために、自分の変化なのに、その変化を追いきれない。
 そういうことが私のなかで起きている。
 これは、もしかすると谷川の内部でも起きていることかもしれない。
 「言葉が来た」あと、なぜ、詩が「玄関の南天が風に揺れている」に変化したのか。その脈絡は何なのか--それを、誰かにわかるように説明することはできない。その「できない」ということ、「説明はできないけれど、そういうふうに飛躍してしまう」ということが、きっと「思想」というものなのだ。「思想」というものは、毎日毎日あれこれ考えてする何かではなく、無意識にしてしまう何か、無意識だけれどそのひとの根本を支えている何かなのだから。変えようとしても変えられない何か--そういうものが思想なのだから。--あ、脱線した。

 思想を詩にもどっていうと、次のような感じかな……。

どこか海を見下ろす絶壁に白い椅子を置いて
そこで待ちたい
何を待つのかは待っているうちに分かるだろう

 あらゆることは「……しているうちに分かるだろう」という具合にしかならないのだと思う。そうやって肉体のなかにたまっていくのが思想。人
 から何かを聞いて、教えてもらう。それは「わかる」か。思想か。
 私は、どうも違うと思う。
 教えてもらって「わかる」は「わかった気持ちになる」だけ。それは「わかる」というより「知る」に近い。
 「誰も来ないのに/言葉が来た」という2行。そこに書いてあることばで知らないことばはない。わからないことばはない。でも、考えはじめると「わからない」。そこに書いてあることは「わかる」(わかっている)のではなく、そこに書いてあることばを「知っている」だけなのだ。
 「知っている」は説明できるが、「わかる」は説明しきれないことなのだ。思想は「生き方」であって、それは教えられない。教えてもらって身につくものではない。自分が必要を感じて、肉体が知らず知らずにためこむ何かなのだと思う。

 こういうことを、谷川は、次のように言い換えている。

何世紀も前のことを憶えているような気がする
石壁の匂いと女の髪の香り
井戸のある中庭に数匹の山羊
悲しみのわけはどんなに問うても無駄だ

 「わかる」は「憶えているような気がする」こと。そして、そこには「時間」というものがはいり込まない。「何世紀も前」と谷川は書いているが、「憶えている」ことには「時間」がない。いつ憶えたのか、わからない。
「石壁の匂い」を嗅いだのはいつ? それは、どこのどの匂い? 具体的に言おうとすれば特定できるかもしれないけれど、それを特定したって何にもならない。
 いま、たとえば2014年05月16日に、1960年の夏休みに友人の家の石垣の匂いをかいだ、あの匂いを思い出したとしても、その匂いがくっきりしてくればしてくるほど、時間と場所は消えてしまう。時間の隔たり、距離の隔たりが消えてしまう。1秒前にかいだ感じ、本棚の近さでかいだ感じ--そういう「間近」な感じで思い出すこと、対象との隔たりを無視することが「憶えている」とうことなのだから。
 「憶えていること」には「何世紀前」「1週間前」「1秒前」の区別はない。区別なく「憶えていること」というのが「わかる」ということ。

 この「区別のないわかる」にむりやり「区別」をつけるのが「認識」とか「知識」とかいうもんなんだろうなあ。
 そういうものを捨ててしまえばいいのだ。

誰も来ないのに
言葉が来た
玄関の南天が風に揺れている

 という3行を読んで、「来た言葉は具体的に言いなおすとどういう言葉?」というように、強引に「区別」を持ち込もうとはせずに、それをそのまま受け止めて、それがわかるようになるまで待っていればいいのだ。そうすれば、そのちに「わかる」。
 わからないまま、忘れてしまったって、たいしたことではない。忘れてしまったら、それはそのことがそのひとにとってほんとうに大切なことではなかったというこだけのこと。ほんとうに大切なら、いつ、どこで読んだか忘れてしまっても、そういうことばがあったということを「憶えている」ものだ。「憶えている」そして、それを思い出して、いま言える--それが「わかる」ということだ。
 それ以上の「わかる」は、ない。

悲しみのわけはどんなに問うても無駄だ

 この一行を借りて言ってしまえば、「わかる」というのはどうしてそんな変な運動なのか、「そのわけはどんなに問うても無駄だ」。
 だから谷川は「わけ」には触れず、ただ「わかっていること」(わかる)だけを、何世紀も前、1秒前、はるかな宇宙の彼方、自分の家の南天、自分のなかの指し示すことのできない場所から、区別なしにつかみだしてきて、詩のなかにくっつける。
 どうして、そのことばとあることばがいっしょに動く? その「わけ」は? 「わけ」なんか聞いたって、答えられるはずがない。
 あ、谷川は「答えられます」と言うかも。そういう意地悪というか、妙にやさしいことろがあるから。
 でも、その谷ら川の答えた「わけ」を、それでは私が納得できるかどうか。
 それは、やっぱり、「わかるような気がする」(そのことは憶えているような気がする)という具合に、私がかわるまで待つしかない。

電話が鳴る
ほうっておく

 詩は読むものだけれど、同時に、「わかる」まで「ほうっておく」ものなのだとも思う。「わからない詩」を強引に「わかる」に変える必要はない。ほうっておけばいい。自分にとって必要なら、いつか「わかる」。そのことばを知らず知らずに「憶えていて/思い出し/口にする」。



■谷川俊太郎公式ホームページ『谷川俊太郎.com』:http://www.tanikawashuntaro.com/




自選 谷川俊太郎詩集 (岩波文庫)
谷川 俊太郎
岩波書店
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中井久夫訳カヴァフィスを読む(55)

2014-05-16 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(55)          

 カヴァフィスは史実に題材に詩を書くことが多い。「マヌエル・コムニノス」はビザンツ皇帝の死の間際を描いている。

蕭条たる九月。そのとある日、
マヌエル・コムニノス皇帝は
おん自らの崩御近きを感じられた。
宮廷占星術師らは--むろん給与を貰う役人だから--、
おん生命はなお何年もございますと言いつづけた。
だが彼等が言いやめぬうちに
帝は宗教の古い教えを思い出されて
教会の法衣をさる修道院から
もってこよと命じられ、
身に着けられて、目だたぬ衣裳で
司祭か僧に見ゆるをよしとされた。

 主観を口語で語らせ、その口調に人間性を浮かび上がらせるということをカヴァフィスはしばしばおこなっているが、この詩には主観が噴出していない。マヌエル・コムニノス皇帝は客観的に、第三者の目から描かれている。法衣を「もってこよ」ということばが肉声に近いかもしれないが、それも間接話法である。
 中井久夫は注釈によると「好戦的、迷信的、好色的だった」らしいが、そういう面影はそこにはない。史料によると、死の床で法衣を着させたのは神父だったらしいが、カヴァフィスは皇帝自らが法衣を選んだというふうに書き直している。
 肉声(主観)を躍動させるかわりに、カヴァフィスは、違う形の声を描くためにマヌエル・コムニノス皇帝を選んだようだ。
 「好戦的、迷信的、好色的」な人間のなかにも、死ぬ瞬間に、「宗教的」になるひともいる。そういうひとの「声」というものを、カヴァフィスは「声」ではなく、様子(態度)であらわしている。
 占星術師がいろいろ言う。その彼らが「言いやめぬうち」が、その「態度」のいちばんおもしろい部分である。占星術師らが言うのを制してと同じ意味だが、「やめろ」と言って話を中断させるよりも強い感じがする。彼が言いたいことは「やめろ」ではない。ほかのことであり、そのことについては有無を言わせない。この強さ(信念のゆるぎなさ)が、修道院の法衣へと静かにつながっていく。皇帝は、静かに宗教的な人間に進んで行ったのである。宗教的な道に進む人間には熱狂的な進み方もあるが、皇帝は熱狂とは違う方法で進んで行った。しかし、熱狂的ではないけれど、何か確信的である。教皇ではなく「司祭か僧に見ゆるをよしとされた」というのも、静かな印象を浮かび上がらせる。
 この静かな感じは、書き出しの「蕭条たる九月」の「蕭条たる」にも現れている。(これは中井の語彙の選択のたくみさとも言える。)カヴァフィスは情景の空気や人間の態度をも「声」として再現する詩人なのである。


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ウッディ・アレン監督「ブルージャスミン」( ★★★★)

2014-05-15 10:28:42 | 映画
監督 ウッディ・アレン 出演 ケイト・ブランシェット、サリー・ホーキンス、アレック・ボールドウィン、ピーター・サースガード

 この映画の感想はとても書きにくい。理由は簡単である。ケイト・ブランシェットの演じている女が、とても嫌な女だからである。共感できない。主人公が男であれ、女であれ、それを見ながら「主人公になってみたい」という気持ちを起こさせるのが映画の基本。主人公に限らずほかの登場人物でもいいのだか、あ、いまの演技(行動)を真似してやってみたいと思った瞬間、その映画が楽しく、おもしろいものになる。
 ケイト・ブランシェット、やってみたい? 
 いやあ、こんな、誰からも好かれないような役を、よく引き受けたもんだなあ。「私、こんな人間じゃありません。どうして私がこんな役をやらなければいけないんですか?」と怒り出しそうなものだけれどなあ。まあ、そういう役を引き受けて演じきる--それが役者の醍醐味なのかもしれないけれど……。
 で。
 その「役者根性」丸出しで、役と格闘するケイト・ブランシェット。これは、まあ、すごい。こんな嫌な女(登場人物のなかで、ただひとり彼女だけが、嫌な人間を演じている)と簡単に思わせ、ぜんぜん同情を引き起こさないなんて、これは、とってもすごいことだ。
 そのなかで、特に引きつけられたのが、彼女が妹の紹介で、妹の恋人の友達といっしょにデートするところ。ブラインドデート(?)の一種だね。ケイト・ブランシェットは、あらわれた男にぜんぜん関心を示さない。こんな男とデートなんかするわけがない、と露骨に顔に「思い」が出ている。そのとき、いろんな話が出るのだけれど、げんなりして意識が上の空という段階のとき、例の男が「いま、宙を見つめていなかった?」とケイト・ブランシェットに言う。
 このときのケイト・ブランシェットの「宙を見つめる」演技がすごい。顔のアップではなくて、体の力がぬけた感じを全身(上半身)で演技しているのが少し映るだけなのだが、いやあああああ、
 「おいおい、ぼんやりしていないで演技しろよ」
 と叱りたくなるような、だらしない力のぬけ方なのだが、
 そうか、人間が「宙を見つめる」ときは、こんな感じかあ。言われるまで気がつかなかったなあ、という感じ。
 映画の中の登場人物の反応によって、主人公の姿が、それまで以上にくっきりしてくるというのは、すごいことだなあ。その「脇役」になって、その映画のなかにはいり込んでしまった気持ちになる。映画ではなく、現実の場で、嫌なケイト・ブランシェットを直に見ている感じ。
 同じようなシーンが随所にある。
 冒頭の飛行機の中のお喋り、空港に着いてからのお喋りも、実は、それ。話しかけられつづけていた女が困惑している。迎えにきた夫が「あれは、だれ?」と聞く。「知らないわ。聞いてもいないのにずーっと話しかけてくる。それも自分のことばっかり」。ね、そばにいて、ケイト・ブランシェットの自己中心的なお喋りを聞かされつづけた感じ、こんな嫌な女はたしかにいるな、と感じるでしょ?
 ケイト・ブランシェットが「理想の男」に出会うパーティ。その男が見つかる前、ひとりでぶつぶつ言っている。すると、近くにいた老人が「私に話しかけているのか」と聞く。ケイト・ブランシェットは自分の思いで頭の中がいっぱいで、まわりがまるで見えていない。そういう人間を、ちょっと離れた場所で覗き見している感じ。覗き見しながら「変な女、嫌な女」と見ている感じ。
 さらに、ラストシーン。やっと手に入れることができたと思った「理想の男」を取り逃がし、息子にも、妹にも見捨てられて……。シャワーを浴びて、すっぴんのまま、街をうろつく。ベンチにおばさんが座っている。そのとなりに腰かけ、ぶつぶつ、ぶつぶつ。おばさんが、そおーっと、気づかれないようにベンチを離れる。「この女、変だ。かかわりあいになると面倒。逃げよう……」そう思っていることが、台詞もなんにもないのだけれど、つたわってくる。このとき、私は、その「おばさん」になっている。「おばさん」の視線でケイト・ブランシェットを見ている。「おばさん」になることで、映画のなかに組み込まれている。

 この映画は、ふつうの映画と違って、主人公、あるいは魅力的な脇役になることで映画に吸い込まれるのではなく、なんでもないひと(ただの通りすがり?)になって映画の世界のなかにはいり込み、「わっ、嫌なおんな、面倒な女、近づかないようにしよう、気づかれないようにしよう、話しかけられないようにしよう」と思う映画。そして、「関わり合いにはなりたくないけれど、覗き見してやろう。こんな嫌な女がどんなふうに惨めになっていくか見届けて、やっぱりね」と言ってみたいという気持ちにさせる映画。とっても意地悪な映画なのだ。
 こんな映画を考えるウディ・アレンもウディ・アレンだけれど、その意図(?)を完璧に把握して、嫌な女を「これが私です」みたいにさらけだして見せるケイト・ブランシェットもケイト・ブランシェットだなあ。偉い! 
                       (2014年05月11日、KBCシネマ2)
ザ・ウディ・アレン・コレクション(20枚組) (初回生産限定) [DVD]
クリエーター情報なし
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中井久夫訳カヴァフィスを読む(54) 

2014-05-15 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(54)          

 「マグネシアの戦い」は、「マケドニア王フィリポス五世の独白である」と中井久夫が注釈で書いている。カヴァフィスは「他人の声」を聞き取り、自分の声として動かす。ほんとうにフィリポスが言ったかどうかは問題ではない。ある状況のとき、ひとはどんな声を出すか。そのことにカヴァフィスは関心がある。

テーブル一杯にバラを撒け! アンチオコス大王が
マグネシアで負けたからって、それがどうした?

あいつの精鋭陸軍全滅というが、少し話が大きくなってるだろ。
全部が全部ほんとってこたぁない。

とにかくそう望む。敵じゃあるけど同人種だもんな。
だが望むのは一回でいい。多すぎるくらいさ。

 「望む」ということばがある。ひとは、何かを望む。そして、それを声にする。その声にカヴァフィスは共鳴しているのだが、それはカヴァフィスにそういう経験があるからだ。戦争で負けた、という経験ではなく、何か取りかえしがつかなくなったときに「それがどうした?」と開き直った経験が。あるいは、そういう具合に開き直りたいと思った経験があるのだろう。
 戦争に負けた経験がなくても、「それがどうした?」といいたい気持ちは誰もが経験する。気持ち、本音--それが動けば、それでいい。「史実」は本心を動かすための「舞台装置」である。カヴァフィスは「史実」を書きたいのではなく、その瞬間に動いただろう「こころ」を書きたい。
 開き直りたい欲望。それから「全部が全部ほんとってこたぁない。」という欲望。
 日本語の場合、「欲望」ということばのなかには「望む」がある。「欲張って/望む」のか。いや、「欲(本能)」そのものが「望む」のだろう。
 中井の訳は、口語、俗語を取り入れている。口調をふんだんに生かしている。そうすることで、その「欲望」の生々しさを表現している。生々しいというのは、誰にでもわかるということ、自分でも経験し、思わず口にしたかもしれないことばであるということだ。本能が、口語のなかで共通なのだ。本能という共通語が、口語になっている。
 ほんとうは別なことをしなければいけないのかもしれない。しかし、義務としてしなければならないことではなく、義務を放り出して、ただ自分のためだけに時間をついやしたい。無駄なことをしたい。そして、ほんとうのことを忘れたい。--これは、本能を傷つけたくない。本能を無垢のままにしておきたいという「甘え」かもしれない。
 しかし、この「甘え」が美しい。自分を甘やかすことを知っているというのは、何か、俗人を超越している。俗人は心配性で、自分を甘やかすことを知らない。

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高柳誠『月の裏側に住む』

2014-05-14 22:36:04 | 詩集
高柳誠『月の裏側に住む』(書肆山田、2014年04月30日発行)

 私は昔から苦手なことがある。語呂合わせ。よく歴史の年号をおぼえるのに、なんとかかんとか、○○年「×××」というもの。具体的な例を書こうと思ったが、何も思い出せない。だいたい○○年「×××」だけでもおぼえるのがいやなのに、なぜその前になんとかかんとかをおぼえなければならないのか。記憶にとってこんな不経済なことはない。それと似ているかもしれないが、同音異義のことば遊び、いわゆるだじゃれの類。これもぜんぜん思いつかない。私はきっと耳が悪いのだろう。(とんでもない音痴である。)
 で、高柳誠『月の裏側に住む』。これが、だじゃれと呼んでいいのか、語呂合わせと呼んでいいのか、よくわからないのだけれど--ワープロの誤変換のような「文字」が頻繁に出てくる。私は、もう、しょっぱなからつまずく。苦手だなあ。いやだなあ。感想が書けるかなあ……。
 「柔らかい梨」は、書き出しは、語呂合わせ(だじゃれ)の気配がないまま始まる。

柔らかい梨があるとする。いや、現に今、柔らかい梨がここにある。実際にあるれにかかわらず、「あるとする」という一種の仮定法で語ろうとするのは、むろんそのことに意味があるからだ。

 論理的にしつこい。あるいは、うるさい。でも、私は、こういう面倒くさい論理を追うというのはわりあいに好きである。考えなくてすむから。非論理的な文章は、飛躍やねじれのたびに、何がどうなっているのか読み返さないといけないけれど、論理的な文章ならそれを読み流せば、書いてある「意味」がわかる。さらに論理が論理でしかたどりつけないところまで進んでしまうと、何だか自分がとっても頭がよくなったような気分になり、うれししくなるから。それを考えたのは私ではないのだけれど、ことばを追うことで自分が考えたと錯覚できる。その錯覚の瞬間が好きなんだなあ。
 でも、この作品は、そういう具合には進まない。
 書き出しの「梨があるとする」のなかに存在する「なし」「ある」の対立から出発して、しばらくすると「意味がなくなってしまう」ということばが出てくる。「意味/なし」。それが、

柔らかい梨自身が存在の意味を失い、梨くずし的に崩壊していくのを私たちは見守るしかないのだ。

 という具合に、変化していく。「なしくずし」は「梨くずし」とは書かないけれど、「梨くずし」と書くことで、「意味/なし」を「無意味」を越えて「ナンセンス」(脱/意味)にしてしまう。こういうのが、私は、どうも好きになれない。
 また、高柳も、こういう語呂合わせが得意な詩人には、私には感じられない。それは「梨くずし」とすぐに書くのではなく、いったん「存在の意味を失い」と前置きしていることろにあらわれている。「論理」をていねいに書かないと気がすまないのだ。この文はもっと簡単に、「存在の意味を失い」を省略して、

柔らかい梨自身が梨くずし的に崩壊していくのを私たちは見守るしかないのだ。

 と書いた方が「語呂合わせ」の意味を読者に考えさせるからおもしろいのに、そういうことを高柳はできない。どうしても「梨くずし」の「意味」を「存在の意味を失い」という具合に説明しないと気がすまない。落ち着かない。
 私は「語呂合わせ」の類は苦手だが、こういう「論理の補強」をしないと気がすまない人間は「だじゃれ」に手を染めない方がいいだろうと思う。
 で、その「なし」が

本質の保持を梨とげる

行為に意味のある梨にかかわらず

身をもって実にかぶりつくなどまったくの梨にしてほしく、結局、やわらかい梨自体、洋梨と見なされてゴミ箱に放棄されるしかないのだ。

 となると、うーん、うるさいばっかりだなあ。
 こういう語呂合わせ(だじゃれ)遊びというのは平田俊子が得意だが、彼女は、「洋梨と見なされて」「ゴミ箱に放棄される」というような意味のくりかえしをしない。意味の透き間を残しておく。「洋梨=用なし(ゴミ箱に放棄される)」は「洋梨」と書いたところでおわっていることを知っている。
 語呂合わせ(だじゃれ)と散文的説明を組み合わせたところが高柳の「個性」なのかもしれないけれど、これは水と油のように、どうにもあわない。火に油のように、暴走していかない。
 詩はいつでも暴走しないとおもしろくない。
 詩は、ことばの暴走なのだ。

 不満をさらに。「濡れる裾」という作品の書き出し。

昨日の今日なのに、また裾が濡れた。それも、ずぶずぶにである。素人の裾が濡れるとこわい。栗とリスも濡れてしまうからである。

 「裾が濡れる」はエロチックである。「素人の裾」なら、なお、濡らしてみたい欲望をそそるだろう。けれど、それが「栗とリス」ということばで「クリトリス」をひっぱりだしてくると、あとは読む気がしなくなってしまう。「栗鳥巣」「庫裡鳥巣」「繰り鳥巣」などと言い換えてみても、単なる「迂回」(引き延ばし)に見えてしまう。「クリトリス」を出した段階で、この詩はエロチックを「流通概念」の枠にとじこめてしまった。
 これではつまらない。

 ところが。
 詩集のタイトルになっている「月の裏側に住む」。
 あ、これはおもしろい。

その男は、月の裏側に住んでいる。まさかその男にしたって、生まれたときから月の裏側に住んでいたはずはない。月の裏側に住むことになるような、どんな運のつきに男が襲われたかは知らない。

 「月」は空にある「月」。同じ音の「つき」。ひとつは「運がいい」というときの「つき」(つきがまわってきた)、さらにひとつは「運がなくなる(つきる)」というときの「つき(る)」がある。あるとき「つき」がまわってきても、あるときそれが「つきる」。ここには矛盾(?)のようなものがある。それがおもしろい。
 「どんな運のつきに男が襲われたかは知らない」を、高柳は「つき(運)がつきた」という意味でつかっているのだと思う。「襲われた」ということばが「悪いこと」を意味するから。
 でもね。
 信じられない「つき(運)」が突然やってきて(まるで、襲われたように感じる)、あまりにびっくりして「運」の「つき」と二重に言ってしまうことだってあるかもしれない。
 月の裏側に住むって、どっちだろう。悪いこと? いいこと? 「まさか男にしたって」という書き方からすると「悪いこと」になるかもしれないけれど、ひとは自分の好運を「悪いこと」のように言って一人占めすることだってあるからね。
 わからないね。
 このわからないことが、たぶん詩にとって大事なのだ。どっちに読んだって、読者の自由じゃないか、というのが楽しいのだ。

 この詩は「月の裏側に住む男」を書きながら、途中から、その男を観察(?)している「ぼく」が主役になる。そして、

つきが回ってくれば、

 月の裏側が見え、男の影が見えるのではと期待する。そして、それを待っている。毎日、男が「秘密の通信」をしてくるのを聞いている。

それは、ぼくに宛てられたものだというひそかな確信がある。

 あ、まるでギャンブルにのめりこんで、「あれがサインだ。今度こそ、自分につき(うん)が回ってきた」と思う感じだね。その感じこそ「運の尽き」かもしれないけれど、のめりこんでいるひとはぜったいにそう思わない。逆に

月の鼓動だけが夜空に響きわたる。そのとき、ぼくの心臓も、月にあわせて鼓動を打ち始めるのだ。

 これは「月」ではなく「つき(好運)」のことである。こんなふうに自分に都合よく世界(運)は動かないものだけれど、自分にだけはその「運(つき)」があると思うのがギャンブラーだ。

その男は毎夜、月の裏側からぼくに通信してくる。しかも、その内容は、日に日に過激になってくる。とてもぼく一人では抱えきれないような宇宙の神秘をつきつけられて、思わず、頭がビッグバンをおこしそうになる。そんなときは、ぼくも、月の裏側の神秘を未知の天体に向けて発信するのだ。

 キャリーオーバーで宝くじの賞金がどんどん膨れあがり、その額をみながら勝手に消費しきれない夢を見るような感じで、わくわくするなあ。
 いいなあ、この作品。

 で、振り返ってみるに。
 なぜ、この作品が成功しているのか。
 語呂合わせが「もの」と「もの」の同音異義だけではなく、そこに「こと」(動詞)が絡み合っているからだ。「梨」にも「洋梨(用なし/用がない)」という「用言」がからみあっていたけれど、その「ない」は用言の力があまり強くなかった。「ない」は動詞として動くよりも「状態」をあらわすことばで終わっていた。
 ことばあそびは、名詞と動詞を組み合わせるに限る。
 谷川俊太郎も「かっぱらっぱかっぱらった」と名詞「河童」「ラッパ」と動詞「かっぱらう」を組み合わせている。名詞と動詞が交錯すると、世界がいきいきする。名詞だけだと窮屈になるということだろう。


月の裏側に住む
高柳 誠
書肆山田
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中井久夫訳カヴァフィスを読む(53)

2014-05-14 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(53)          

 「オロフェルネス」。中井久夫の注釈に「カッパドギア王アリアラテス四世の子」とある。四ドラクマの貨幣に描かれている。「美しい、優しい美貌」であった。カッパドギアに侵入したシリア軍によって王にされたが、カッパドギア人によって追放され、シリアに幽閉され、「ぶらぶら暮らしていたそうな。」

ところが、ある日、思いもよらぬ考えが
彼の完璧に怠惰な生活に侵入した。
自分も、母のアンティオスと
祖母の老ストラトニケを辿れば
シリアの王位に繋がると気づいた。
自分もセレウコス家といってよいんだ、と。
しばらく酒色を慎んで、
おっかなびっくり陰謀を始め、
何かしでかそうと案を立ててはみたが、
あわれ、失敗。それっきり。

 人生が波乱に富んでいた。その波乱を漢語(漢字熟語)と口語(俗語)を交錯させて中井は訳出している。この、ことばの乱調が波乱の人生を不思議な音楽にしている。
 「完璧に怠惰な生活」という表現の「完璧」と「怠惰」の結びつきは、手術台の上のミシンとこうもり傘の出会いのように斬新だ。それだけで詩がある。カヴァフィス(あるいいは中井)は、それだけではなく「おっかなびっくり」と「陰謀」を結びつけることもしている。陰謀というものは周到に仕組むものだけれど、「おっかなびっくり」という陰謀にふさわしくないことばがついてまわるのは、その陰謀がひとの口にのぼったということだろう。もちろん失敗したあとでのことだが、人は「おっかなびっくり」ということばでオロフェルネスを自分たちに近い存在にしたのだ。それだけ、彼に、一種の親近感をおぼえたということだ。「あわれ、失敗、それっきり」も「歴史」を語ることばではなく、歴史からこぼれた庶民の感覚のあらわれである。
 市民が、「オロフェルネス王」を望んでいたかどうかではなく、そういう失敗をする人間に共感するという「本音」(主観)がくっきりと現れている。ある考えが「完璧な怠惰な生活に侵入した」という硬いことばとの対比で、その「主観」がいっそう際立つ。
 カヴァフィスは、どこかに消えてしまった歴史は捨てて、再び美貌にもどる。この男色という主観は、カヴァフィスの思想、肉体である。

四ドラクマ貨幣の像。
若い魅力はいまもかおる、
詩的な美は--。
このイオニアの少年の官能的な像は、
アリアラテスの子オロフェルネスだよ。
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佐々木洋一「野の長椅子」

2014-05-13 10:13:25 | 詩(雑誌・同人誌)
佐々木洋一「野の長椅子」(「この場所ici 」10、2014年04月25日)

 佐々木洋一「野の長椅子」は1行が一連の詩。つまり、1行ごとに1行の空白がある。行が独立していて、一呼吸置いてから次の行に移っていく。そのときの飛躍に、1行の空き--それは行間というものとは少し違う。呼吸のようなものだ。--でも、これはことばで言いなおすのは難しい。私のことばは、そのことを語るためのことばをまだもっていない。しかたがないので、語ることができることだけ語ってみる。

それはもう長々と寝そべった長椅子

野の中に置かれ風雨にさらされ

翅がうたた寝し頭が寝床にする

崩れるにはまだ早く保つには時おそい

射し込んだ陽射しは深部にまで食い入り

その後を闇の物の気が浸潤する

 1行目から、何か「余分」なのもが漂っている。「もう長々と」が、私のいう「余分」。そのことばがあろうとなかろうと、長椅子が野原に放置されていることにかわりはない。(野原に放置されている--というのは1行目だけではわからないのだが……。)つまり「意味」にとっては、それは「余分」だということ。でも、その「余分」が佐々木には必要だった。長椅子が放置されているということよりも「もう長々と」の方が佐々木にとっての「意味」であると言ってもいい。
 客観的事実(?)としては野原に長椅子が放置されているということなのだが、佐々木にとって重要なのは、「もう長々と」という印象が大事。客観的事実ではなくて、自分が感じていることをことばにしたい。客観的事実を「意味」と考えるのは、まあ、いわば現代の病気、合理主義流通経済のようなもの。その病気にあらがって、佐々木は佐々木の「健康」を守っている。「余分」によって。「余分」があるから、佐々木は合理主義経済からゆっくりそれいてくことができる。(逸脱していくことができる--と書くと現代病の思想用語のなかへ入っていくことができる、--と書くと私の書いていることが少しはわかりやすくなるか……。)
 「もう長々と」をさらに「寝そべった」が補強する。長椅子は、もの。ものが「寝そべる」ということはない。生き物(人間や動物)が「寝そべる」という動詞の主語になることはあっても、物は「動詞」の主語となって動くことはできない。だからこれも「余分」。つまり、逸脱。
 そこに、つまり合理主義からはみだした佐々木の「肉体」がある。野に放置された長椅子を「寝そべる」という動詞で語りはじめるとき、その「動詞」のなかに佐々木の「肉体」がはいり込んでいる。佐々木の肉体はそのとき長椅子になっている。
 長々と寝そべる長椅子--それは佐々木の願望なのか。「動詞」のなかには、何かしらの願望、欲望、本能のようなものがある。だから動くのだ。長々と、野のなかで寝そべることを夢みるくらいに佐々木は疲れているのか。
 2連目の「風雨にさらされ」は、佐々木の肉体の履歴かもしれない。仕事のなかで、風雨にさらされる長椅子みたいに、肉体を痛めつけられたのか。
 3連目は、蝶の描写かもしれない。長椅子ではなく、長椅子に寝そべる(?)蝶のように休みたいのかもしれない。
 4連目は、また長椅子にもどる。もどるのだけれど「崩れるにはまだ早く保つには時おそい」というのは佐々木の「肉体」の描写にも見えてしまう。あ、私は佐々木を知らないのだけれど、推測できる範囲でいうと佐々木は団塊の世代。いま、ちょうど仕事の最終盤か仕事から解放された年代。崩れるには早い、でもきちんと何かをするにはちょっと厳しい。そんな思いを肉体に抱え込んでいる姿が見えてくる。
 というようなことを思いながら、私は、そこまで読んできて、

射し込んだ陽射しは深部にまで食い入り

その後を闇の物の気が浸潤する

 この2連、2行に、何だかどきどきしてしまったなあ。知らない世界を見てしまった--知らないけれど、知らないのではなく、そういうふうに見るべきだったのだと「思い出す」感じ。自分で思い出すのではなく、佐々木のことばに触れることで、自分のなかにもそういうものを感じたことがあったなあと思い出す感じ。
 こんなことを書くと、佐々木から叱られそうだが……。でも、すぐれた文学(ことば)というのは、たいていがそうだね。あ、これこそ自分が感じていたこと--と思う。他人が書いたのに、その書かれていることを自分の「肉体」の思い出として感じる瞬間。自分と作者の区別がなくなる瞬間。
 実際に作者が書いていることは私が感じていることとは違うかもしれない。けれど、もう、自分の感じていることの方が暴走して、作者の思いとは関係なく、「これが自分のいいたかったこと」と思い込んでしまう。
 脱線したかな?
 この2行で、私が何を感じたか。私は「長椅子」を見ているわけではない。見たわけでもない。その「長椅子」が何でつくられているのか、佐々木は書いていないが、私は「木の長椅子」を思い出した。いや、この2行で、それは「木の長椅子」ではなく、「木」そのものになった。
 木は、生きている木にであっても、切られて加工された木であっても、ときどき深い亀裂をもっている。その亀裂は何によって生じたか。それは、問わない。その亀裂にも光が射す。陽射しが射す。光はどこまでもまっすぐに進む。角度によってはその奥部まで光は届かないけれど、角度によっては最奥部にも届く(可能性がある)。その光は亀裂をきっとさらに深く押し広げるだろう。
 そのあと、光は引き返してゆき、かわりに闇が亀裂のなかへ入ってくる。どこまでもどこまでも。光と違って、何にも邪魔されず、ほんとうに奥部まで入ってくる。
 こういう「往復」。よろこびと悲しみ、なのか。希望と落胆、なのか。正反対のものが木の内部で入れ替わりながら、さらにさらに「奥」を深めていく。--こういうことって、人間にはないだろうか。
 あるなあ。
 それを具体的にいうことは難しいけれど、そういう感じのことって、あるなあ、と心底思う。

何があったのか なかったのか

 詩は、そうつづくのだが、そう、何があったのか、なかったのか--それははっきりとは言えない。言えないけれど、あったことは「事実」なのである。何があったか言えないから、それは「客観的事実」ではない。けれど、「事実」は別に他人にいうべきことでもない。自分の「事実」は他人がどんなふうに認めようが関係がない。「主観的事実」。そういうもの、合理主義から排除された「主観的事実」というものがある。「客観」が「ない」と言っても「主観」は「ある」と言い張ることができるものがある。

 もう、ここまで来ると「長椅子」ではないね。佐々木が長椅子をみて「思ったこと」、つまり佐々木の「主観」だね。
 この「主観」を論理的に、説得力のある演説のようにではなく、ぽつんぽつんと放り出すように解き放っていく。その呼吸が一行空きのリズムだね。佐々木の肉体の呼吸のし方、肉体の運動の「主観」(付随筋のように、無意識に動いてしまう)が自然にひろがってくる。

何があったのか なかったのか

ただどーんと投げ出され

いつしか朽ちる時を待つ

それはもう長々と寝そべったまま

鳥が糞を垂れ流そうともなめくじや蟻がどのように歩き回ろうとも

こそばゆいとも痛いとも

野の中に置かれ野の中にさらされ

それはもう長々と寝そべって長々と

ひがな一日寝そべったまま

あるがまま野の中にゆだねたまま

 起きたことすべてもまた「あるがまま」だったのだ。




ここ、あそこ―詩集
佐々木 洋一
土曜美術社出版販売
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中井久夫訳カヴァフィスを読む(52)

2014-05-13 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(52)          


ここで休もう。しばらく自然を眺めさせてくれ。
朝の海のきらめく青。雲のない空の光る青。
黄土色の岸。みなすばらしい。
みな光にゆあみしてる。

 この「朝の海」に書かれている風景を見るために、人は、アレクサンドリアに行かなければならない。「アレクサンドリアの海岸は黄色の砂」と中井久夫は注釈で書いているが、その青と黄色の対比が生み出す輝きを見るために、カヴァフィスの生きたアレクサンドリアへ行かなければならない。
 そういうことはない、と私は思う。
 むしろ読者がしなければならないのは、ここには書かれていない時間、朝の前の時間、つまり夜をカヴァフィスと同じように過ごさなければならない。
 カヴァフィスは「過去」を詩のなかに書かず、「いま/ここ」だけを書く。そのために、そこで起きていることをつかみ取るのがむずかしい。「いま/ここ」があるのは、「過去」があるからであり、「いま/ここ」には過去こそが噴出してきている。
 一行目の「ここで休もう。しばらく自然をながめさせてくれ。」は単に朝の海の風景をながめて休もうと自分に言い聞かせているのではない。きのうの夜、カヴァフィスは「自然」ではないことのために体力を使い果たした。「不自然」なことをして、時間を使い果たした。そういう意識があるから「自然」を眺める、ということばが動く。

ここに立たせておいてくれ。こういうもの皆を見るふりをさせといてくれ。
(立ち止まった初めに一分間ほんとうに見たよ)
ここでもいつもと同じ白昼夢を見ているのだが、
おのれの思い出を、あれらの肉感的イメージを--。

 しかし、カヴァフィスの本能の自然は、そういう朝の風景とは違ったところにある。だから、最初の一分間は、そこにある朝の風景を見たかもしれないが、やっぱり自分自身の自然に(自然から見ると「不自然」に)返っていくしかない。
 だからこそ、言う。「こういうもの皆を見るふりをさせといてくれ。」彼のしているのは「ふり」なのだ。風景を見ているというのは嘘なのだ。アレクサンドリアの海を見るというのは嘘なのだ。
 正直な本能は、昨夜の「満足」を思い出している。見ているのは詩人の肉体が体験した「過去」である。「肉体」は満足した。その満足は、朝の海の青、空の青、そして砂浜の黄土色があざやかに輝きよりもさらに強く光を放っている。書かれていない「過去」こそがカヴァフィスの書きたいことである。
 そのことを「たたせておいてくれ」の「おいてくれ」が補強している。放置。すべてから放置され、自分の肉体のなかに残っているよろこび、その強い光に酔って、眩暈を味わいたいのだ。


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岩佐なを「指ざわり」

2014-05-12 11:35:40 | 詩(雑誌・同人誌)
岩佐なを「指ざわり」(「生き事」8、2014年春発行)

 岩佐なを「指ざわり」は鞄の取っ手に巻かれたガムステープと、それに触りつづける指のことを書いている。列車に乗って、することがないので、なんとなく触ってしまったのだ。

鞄の取っ手にはぐるぐると
ガムテープが巻かれ時を経て
端っこが幾分はがれかけている
ねばねば、ねばねば
利き手の親指のはらで
ねばねばをたしかめる
必ず何度も親指の指紋を
ガムテープにおしつける
ぬちぬち、ぬちぬち
はがれた部分は次第に汚れ
そのうちねばねばも渇いていくだろう

 テープにしろ、シールにしろ、はがれかけた部分というのは触りたくなる。触るように誘っている。でも、なぜかな? 「ねばねば、ねばねば」が好きなのかもしれない。人間というのは、何か接着してくるものが好きなのかもしれない。
 この「ねばねば、ねばねば」が「ぬちぬち、ぬちぬち」に変わってしまうところに、岩佐の触覚の「肉体」があって、あ、この微妙なものをしっかりことばにするところが岩佐の思想なんだなあ、と書きたいのだが。
 うーん、うまくことばにならない。
 「ねばねば、ねばねば」はガムテープそのものの粘着力なのかな。「ぬちぬち、ぬちぬち」はガムテープの方の感触ではなく、指の方の印象かな? 触覚というのはふたつのものが接して生まれるものだから、そのふたつに印象の違いがあってもいいのかもしれないけれど、ふつうは区別しないなあ。
 でも、ほんとうは違いがある。
 たとえばサンドペーパー。触ると「ざらざら」している。ざらざらはサンドペーパーの凹凸に原因(?)があるのだけれど、触ってわかることなので「ざらざら」と言って、それですべてがわかったつもりになるけれど。
 「じゃあ、そのとき指はどんなふうに感じる?」
 「ちくちく刺される感じ。強くこすると痛いよ」
 「でも、そっと触るとなんだかくすぐられてこそばゆい感じ」
 ほら、違いがある。
 粘着力のときは、粘着してくるものが「接点」をひろげてしまうので、「ねばねば、ねばねば」を指がどう感じるかを言いなおすのは難しいのだけれど。その難しいところを、岩佐は、何でもないかのように書いている。何でもないように書きながら、その世界へ「ぐい」とことばの全体を動かしていく。

くりかえしねばねばをたしかめながら
行き先を迷っている
今の世のなか
行き先までの切符など買わなくとも
乗車することは簡単だ
もう到着する先など
どこでもいい
(タトエアノヨデモ)
ああいいさ。

 粘着力から逸脱して、ちょっととんでもない動きなのだが、そういうとんでもない逸脱を必要とするくらいの変化が岩佐のなかで起きたのだ。「ねばねば、ねばねば」を「ぬちぬち、ぬちぬち」と書くことで。
 そういう変なことを、もう少し書いたあとで、詩は次のようになる。

また指のはらでガムテープの
ねばねばをいじくっている
行くあてはないのに
電車は勝手にどんどん進んでいく
時間に似ているね
と思いながら利き手の指を見ると
どの指先からも細かい神経が
生えだして鬚根のようだ
白い糸状の根が特にねばねばと遊んだ
親指のはらからはわさわさと生え

 指が変化している。「ぬちぬち、ぬちぬち」は指紋がほどけて白い根にかわるときの、岩佐の肉体の中の音だったのだ。
 それは、

もう到着する先など
どこでもいい
(タトエアノヨデモ)
ああいいさ。

 のように、生えたくて生えてきたというよりも、何か買いことばに売りことばみたいに、瞬間的に暴走してしまう何かなのだと思う。
 こういうことをきちんと書けるのは、とてもおもしろいことだ。

 この詩には、もうひとつ、不思議な「仕掛け」のようなものがある。最初に引用した部分に、

ガムテープに巻かれ時を経て

 という行がある。その「時を経て」が「仕掛け」。ガムテープがめくれてくる。そのとき、わざわざ「時を経て」などと書かなくてもいいと思う。なぜ「時」を岩佐は気にしているか。
 さらに、

必ず何度も親指の指紋を

 この行の「必ず」も不思議である。なぜ「必ず」と書いたのか。「必ず」と書くと「肉体」がぐいとせりだしてくる。「いま」と「かならず」が積み重なって、「時間」になっていく感じがする。「必ず」がないと、ぼんやりした「時間」が流れていく感じがする。「時間」がすぎさるあいだ、ぼんやりと何度も指を押しつける感じ。「必ず」があると、「ぼんやり」が消える。
 で、この「時間」を過ぎ去るのものとして受け入れるだけではなく、自分からつくっていくという感覚で、最後の方の

電車は勝手にどんどん進んでいく
時間に似ているね

 の「時間」の比喩を見るとどうなるだろうか。
 電車は「勝手に」進む。
 そのとき岩佐の「肉体」のなかで「勝手に」すすんだものはない?
 指紋がほどけて、白い根っこになっている。それは、やっぱり「勝手に」なったことではないだろうか。
 岩佐は指をガムテープに「必ず」押しつけていた。けれど、それは根っこを生やそうと思ってしていたことではない。肉体が「勝手に」生やしたのだ。
 何かが「勝手に」にかわってしまうことがある。そのとき、その変化のなかには、岩佐の与り知らない「時間」があって、それが「勝手に」経てしまっているということかもしれない。
 「勝手に経てしまう」時間(過ぎ去る時間)というのは、まあ、無為の時間というふうに言えるのだけれど、その「無為の時間」のなかで、人間は何をしているか。「無為」をしている。「無為」って「無意味」という意味だね。ガムテープのねばねばを指で確かめるなんてことはしなくていいことなのに、そういうことをしてしまう。そして、そういう「無意味」のなかに、いままでだれも書かなかった何かが存在している。「無意味」は「意味」がないというだけであって、人間が「いない」わけではないからね。
 岩佐は、こんなふうにして人間の謎を書いている。流行の「現代思想用語」は出て来ないけれど、とても哲学的なことを書いている。




岩佐なを詩集 (現代詩文庫)
岩佐 なを
思潮社
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