根本明『海神の、います処』(思潮社、2014年05月01日発行)
根本明『海神の、います処』を読みながら、私は、「土着」ということばを思い出す。ことばが土着している感じがする。「土地」がある感じがする。ことばというのは、いろいろなところを通って出てくるものだが、根本のことばは「土地」から出てくる。で、そのことが非常に気になる(私の「気持ち」を不安定にさせる)のは、私がその「土地」を知らないからだ。「土地」が書かれていることがわかる、その「土地」抜きにしては根本の詩が成り立たないことがわかるが、……私はその「土地」を知らない。そのためにかえって、強く「土地」を感じる。「知らない」ということが、「事実」の見えなさとして、どんと立ちはだかる感じだ。
「潮干のつと」という作品。
「潮干のつと」ということばがわからない。「潮干」は「干潮」ということばを思い起こさせるが、引き潮のことがどうか、わからない。「つと」はまったくわからない。
そういうわからないことがあるのだけれど、歌麿の絵本「潮干のつと」のなかの風景は根本のことばから、ぼんやりとわかる。海辺。海辺に貝が散らばっている。海藻も打ち上げられている。(あるいは、引き潮でできた「浅い潮溜り」の様子かもしれないが、まあ、海辺である。)それを人々がとっている。「掌」に載せている(手で持っている)。人はうれしそうだ。その人のよろこびが、絵からつたわってくる。
朝の風景かなあ。枕草子「冬はつとめて」の「つと」。でも、あれは「つとめ+て」というような感じの響きだったなあ。よくわからない。「つとめて」ということばが現実につかわれるのを聞いたことがないので、見当のつけようがない。(私は頭がぼんくらにできているのか、実際にそのことばが誰かの口から出るのを聞いたものでないと、何のことかわからない。その状況が身の回りにないと、「意味」にならない。)
私は海の近くで育ったわけではない。実際の海の早朝を知っているわけではない。けれど、海が荒れて、その荒れがおさまって、潮が引いた翌朝の海辺の汚れの明るさは見たことがある。(昼に近いから、「つとめて」ではないのだけれど……。)その匂い、その輝きに、肉体が酔っぱらうように感じたことがある。
そういう感じと、根本の書いている「私をひろびろとはずませる」が重なる。「浜の香が粗くしぶく」がぴったりに感じられる。--で、そういう「感じ」が私の「誤読」なのかもしれないけれど、「誤読」ということを棚に上げて、私は「この詩はいい詩だなあ」と思う。私はわがままな人間なので、自分の感じにぴったりなものがあれば、それが「いい詩」、なければ「悪い詩」という具合に思ってしまう。
そして、「いい詩」だなあと思いながら、何か不透明なものも感じる。私がたどりつけない何かを感じる。それが、
「つと」って何?
たぶん、歌麿の描いた絵の海辺、東京湾(?)の近くの海辺で、人が貝や藻を拾い集めながら「つと」ということばをつかう瞬間に出会えれば、「あ、これが『つと』か」とわかるのだと思う。そのぼんやりした感じで「つと」をつかうと、あ、何か勘違いしているという顔をして地元の人からみられる。「まあ、よその土地の人だから、はっきりわからなくもいいことにしておこう(くすくす)」くらいな感じで受け入れられ、それが何度も繰り返されて私の「つと」解釈が訂正されていく--そういう「時間」を含めて存在する「土地」が「つと」ということばを育てている。「つと」は「土着」しないと、ほんとうはわからない何かだ。
根本は、「潮干のつと」を「海神に下賜された恩寵の謂い/あまねく潮干のつとでないものはなかった」と説明しているけれど、うーん、これ、日本語? 「日本語で言いなおしてくれない」と言いたいくらい「意味」がわからない。英語やスペイン語に翻訳しなおしてくれた方が「意味」がわかるかもしれない。あまりにも根本の「頭」のなかのことばが強すぎて、この二行からは「海辺」も「人々」も消えてしまっている。
これは根本も感じているのかな? 反省(?)するように、二連目のことばは「海辺」という「土地」へかえっていく。「土地(の風景)」と一緒に動いている。
静かでのどかな、光溢れる海辺の風景がみえる。そういう風景といっしょにあるのが「しおひのつと」なのだ。漢字を割り振りされる前の、「音」としてのことば。まだ「意味」がわからないまま、そのことばを聞いたこどものように、私は風景の「全部」と「しおひのつと」を結びつける。それから「つと」に向かって、焦点が絞り込まれるようにことばが動いているのを待つ。
そうすると……。
あ、海が荒れていたとき、することがないから(?)、男と女は夜中猥雑なことをしていたんだな。そして翌朝(つとめて)、荒らしがおさまり潮が引いた浜辺で、荒らしの海が運んできたものをかき集めている。きのうの夜の猥雑なことを貝だとか昆布だとかに託しながら。ほのめかしながら。あるいは歌いながら、大きな声で笑いながら。
「わざ歌」とは「わいせつな歌」(猥歌)だろうか。やっと静まった海辺(でも、まだ荒れた海の名残はある海辺で)で大人がきのうの夜のことを歌っている。笑っている。「意味」がわからないまま、そのことばをなぞって歌う「小さなものら(子ども)」。ことばはいつも「意味」よりまえに、「音」があり、その「音」といっしょに動いている「場/土地/土着の人間」がある。
同じ「音」を何度も何度も繰り返しているうちに、それが「肉体」のなかで「説明を必要としない意味」にかわる。「おぼえていること」になる。
その「おぼえていること」が、歌麿の「潮干のつと」を見たとき、根本の「肉体」のなかでぱっと広がったんだな、と思った。その広がるときの動きが、躍動したまま、この詩のなかにはあると思った。
根本明『海神の、います処』を読みながら、私は、「土着」ということばを思い出す。ことばが土着している感じがする。「土地」がある感じがする。ことばというのは、いろいろなところを通って出てくるものだが、根本のことばは「土地」から出てくる。で、そのことが非常に気になる(私の「気持ち」を不安定にさせる)のは、私がその「土地」を知らないからだ。「土地」が書かれていることがわかる、その「土地」抜きにしては根本の詩が成り立たないことがわかるが、……私はその「土地」を知らない。そのためにかえって、強く「土地」を感じる。「知らない」ということが、「事実」の見えなさとして、どんと立ちはだかる感じだ。
「潮干のつと」という作品。
東京湾東岸の美術館に
浜の香が粗くしぶく
歌麿の絵本「潮干のつと」がめくられてあるのだ
赤青の小さな巻貝やら二枚貝
緑藻類に昆布の大墨痕が
柔らかな筆で配されて
潮濡れた可憐な生き物たちを
掌上にする人々のよろこびを伝え
私をひろびろとはずませる
潮干のつととは
海神に下賜された恩寵の謂い
あまねく潮干のつとでないものはなかった
「潮干のつと」ということばがわからない。「潮干」は「干潮」ということばを思い起こさせるが、引き潮のことがどうか、わからない。「つと」はまったくわからない。
そういうわからないことがあるのだけれど、歌麿の絵本「潮干のつと」のなかの風景は根本のことばから、ぼんやりとわかる。海辺。海辺に貝が散らばっている。海藻も打ち上げられている。(あるいは、引き潮でできた「浅い潮溜り」の様子かもしれないが、まあ、海辺である。)それを人々がとっている。「掌」に載せている(手で持っている)。人はうれしそうだ。その人のよろこびが、絵からつたわってくる。
朝の風景かなあ。枕草子「冬はつとめて」の「つと」。でも、あれは「つとめ+て」というような感じの響きだったなあ。よくわからない。「つとめて」ということばが現実につかわれるのを聞いたことがないので、見当のつけようがない。(私は頭がぼんくらにできているのか、実際にそのことばが誰かの口から出るのを聞いたものでないと、何のことかわからない。その状況が身の回りにないと、「意味」にならない。)
私は海の近くで育ったわけではない。実際の海の早朝を知っているわけではない。けれど、海が荒れて、その荒れがおさまって、潮が引いた翌朝の海辺の汚れの明るさは見たことがある。(昼に近いから、「つとめて」ではないのだけれど……。)その匂い、その輝きに、肉体が酔っぱらうように感じたことがある。
そういう感じと、根本の書いている「私をひろびろとはずませる」が重なる。「浜の香が粗くしぶく」がぴったりに感じられる。--で、そういう「感じ」が私の「誤読」なのかもしれないけれど、「誤読」ということを棚に上げて、私は「この詩はいい詩だなあ」と思う。私はわがままな人間なので、自分の感じにぴったりなものがあれば、それが「いい詩」、なければ「悪い詩」という具合に思ってしまう。
そして、「いい詩」だなあと思いながら、何か不透明なものも感じる。私がたどりつけない何かを感じる。それが、
つと
「つと」って何?
たぶん、歌麿の描いた絵の海辺、東京湾(?)の近くの海辺で、人が貝や藻を拾い集めながら「つと」ということばをつかう瞬間に出会えれば、「あ、これが『つと』か」とわかるのだと思う。そのぼんやりした感じで「つと」をつかうと、あ、何か勘違いしているという顔をして地元の人からみられる。「まあ、よその土地の人だから、はっきりわからなくもいいことにしておこう(くすくす)」くらいな感じで受け入れられ、それが何度も繰り返されて私の「つと」解釈が訂正されていく--そういう「時間」を含めて存在する「土地」が「つと」ということばを育てている。「つと」は「土着」しないと、ほんとうはわからない何かだ。
根本は、「潮干のつと」を「海神に下賜された恩寵の謂い/あまねく潮干のつとでないものはなかった」と説明しているけれど、うーん、これ、日本語? 「日本語で言いなおしてくれない」と言いたいくらい「意味」がわからない。英語やスペイン語に翻訳しなおしてくれた方が「意味」がわかるかもしれない。あまりにも根本の「頭」のなかのことばが強すぎて、この二行からは「海辺」も「人々」も消えてしまっている。
これは根本も感じているのかな? 反省(?)するように、二連目のことばは「海辺」という「土地」へかえっていく。「土地(の風景)」と一緒に動いている。
しおひのつと、と
祈りのように口ずさむ言葉は
弦月のように東岸の潮をひきしぼり
舟溜まりの舟を打ち合わせ軒々に干物を吊るし
沖の洲の千鳥たちに無数の小笛を吹かしめる
静かでのどかな、光溢れる海辺の風景がみえる。そういう風景といっしょにあるのが「しおひのつと」なのだ。漢字を割り振りされる前の、「音」としてのことば。まだ「意味」がわからないまま、そのことばを聞いたこどものように、私は風景の「全部」と「しおひのつと」を結びつける。それから「つと」に向かって、焦点が絞り込まれるようにことばが動いているのを待つ。
そうすると……。
私は聴く
はだかの海人の男女が一列にかがみ
はるかな時の影に滲みながらすなどっていく
あの猥雑な哄笑を
あ、海が荒れていたとき、することがないから(?)、男と女は夜中猥雑なことをしていたんだな。そして翌朝(つとめて)、荒らしがおさまり潮が引いた浜辺で、荒らしの海が運んできたものをかき集めている。きのうの夜の猥雑なことを貝だとか昆布だとかに託しながら。ほのめかしながら。あるいは歌いながら、大きな声で笑いながら。
さらに聴く
海崖の松林で小さなものなら
草書のように乱した歌をうたうのを
幼い私もその中にあり
わざ歌を
海神の御告げをうたっていたのではないか
「わざ歌」とは「わいせつな歌」(猥歌)だろうか。やっと静まった海辺(でも、まだ荒れた海の名残はある海辺で)で大人がきのうの夜のことを歌っている。笑っている。「意味」がわからないまま、そのことばをなぞって歌う「小さなものら(子ども)」。ことばはいつも「意味」よりまえに、「音」があり、その「音」といっしょに動いている「場/土地/土着の人間」がある。
同じ「音」を何度も何度も繰り返しているうちに、それが「肉体」のなかで「説明を必要としない意味」にかわる。「おぼえていること」になる。
その「おぼえていること」が、歌麿の「潮干のつと」を見たとき、根本の「肉体」のなかでぱっと広がったんだな、と思った。その広がるときの動きが、躍動したまま、この詩のなかにはあると思った。
海神のいます処 | |
根本 明 | |
思潮社 |