詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

嵯峨信之を読む(11)

2015-02-12 09:40:50 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
18 女を愛するとは

女を愛するとは
ひとりの女のすがたを描きかえることだ
また葡萄のひと房のなかに閉じ込めることだ
死からも水晶からも解き放つことだ

 一連目。女の姿をどう「描きかえる」のか。「描きかえる」が「葡萄のひと房のなかに閉じ込める」と言いなおされているが、よくわからない。ただ「葡萄のひと房」が思い浮かぶ。いまは巨峰のような大きな葡萄を思い浮かべてしまうが、この詩が書かれた当時はデラウエアのような小さな粒の葡萄が主流だったかもしれない。「房」は「乳房」を連想させる。ふいに浮かんだイメージを書いただけかもしれない。書くことで、ことばを探しているのかもしれない。
 「死から」解放するは、女を愛しつづけたいということだろうから、なんとなくわかる気がするが、「水晶から」解き放つは、またわからない。硬く、透明なもの。純粋なもの。そういうものに閉じ込めないというのが愛することか。
 葡萄の紫の皮のなかの半透明の果肉、ぬれた果肉のやわらかさと、水晶の透明な硬い輝きが衝突している。
 「意味」(論理)としてはわからないが、葡萄や水晶のイメージが女の何かを感じさせる。詩は、こんなふうにしてイメージが先に動いて、それから意味を誘うのかもしれない。詩は知っていること(わかっていること)を書くのではなく、まだことばになっていないことをことばにすることなのだから。
 この一連目は最終連で、

女を愛するとは
ほんとうの姿にたえず女を近づけることだ
神の姿を追つていくたびとなく描きかえることだ

 と言いなおされている。ただ「描きかえる」のではなく、「ほんとうの姿に」「神の姿に」描きかえる。それも「いくたびも」と、ことばが追加されている。--これは「意味」としては、とてもわかりやすい。
 わかりやすいけれど、わからなかった一連目の方が私には魅力的に感じられる。最終連では、「もの」が見えてこない。「神の姿」といわれても、私は「神」を見たことがない。西洋絵画の「女神」を連想するけれど、それは、女とは違うなあ。目の前の女とは違うとしか言えない。
 一連目の「すがた」が最後で「姿」と漢字に書き直されているのは、思いが整理された結果だろうか。「意味」を明確にするために漢字にしたのかもしれない。
 嵯峨の書きたいのは「意味」かもしれないが、それよりもわけのわからない「葡萄」や「水晶」の方が、いろいろと楽しそう。
 二連目の、

階段に立つていい知れぬ遥かなものを感じておもいにふける

 という女の姿も魅力的だ。
 「意味」がわからなくても、その瞬間に、「見えた」と感じるものの方が詩なのだと思う。

19 招客

 現実と幻想(記憶)が交錯する詩だ。

小さな時を
むかいあつて持ち合う
くぐりぬけられぬ言葉の繁みの奥に
遠い沼が薄くひかつている

むかしそこでわたしは溺死しそうになつた
快い重さでぐんぐん沈んでいつた
しかし沼の底は大きなやわらかい掌で
わたしをふたたび水の上に浮かびあがらせた

あの沼が消えてから年ひさしい
わたしをとりまいてきた無韻のながい日日を
その上をしずかに記憶がさかのぼる

皿の上に匂う林檎は
そのときの水の中の遠い酔いを感じさせる
眠りたい めざめることなく眠りたい

 二人で向き合っているとき、ちょっとしたいさかいが起きたのか。ことばの繁みがからみあう。その奥にある沼は心象風景かもしれない。沼を思い出したのだ。
 沼でおぼれそうになったというのはほんとうの体験か。イメージか。いさかいで、どうにもならぬ深みにはまっていく。しかし、深みのそこにたどりつくと、そこから何かで押されるように浮かび上がる。和解は、そういうイメージかもしれない。
 そういういさかいはしなくなったのだが、いま、ふいに訪れたことばの繁み、絡み合って、ことばがあるのに沈黙してしまったようなとき、そういうことを思い出したのかもしれない。いさかいは詩からは遠い。だから無韻の日日、かな。
 そういうことを考えて読んだあとの、

皿の上に匂う林檎は
そのときの水の中の遠い酔いを感じさせる

 この二行が、とても美しい。突然、自分が林檎になって水のなかに沈み、それから浮かんでくるように感じる。林檎は人間のように水の匂いをかいで、その匂いに酔っている。いったん沈み、それから浮かび上がるときの浮力に酔っている。
 女といさかいをしたときの、こころの感じは、そんなふうになるかもしれない。
 女と向き合っているテーブル。その上に皿があって、林檎がある。だから思いついたことばなのかもしれないが、林檎のリアリティーが心象風景を現実にかえる。この林檎は丸いままの林檎だと思う。皮をむかれて、割られた林檎なら、こんなことは思わないなあ、とも思う。
 「意味」ではなく、そこで起きていること、「わたし(作者)」がいる「場」を想像し、その「わたし」になってみる--それを楽しむのが詩だ。

嵯峨信之詩集 (現代詩文庫)
クリエーター情報なし
思潮社
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野村喜和夫「眩暈原論(12)」、福田拓也「パリの燕通りにある安ホテルの螺旋状の……」

2015-02-12 09:19:21 | 詩(雑誌・同人誌)
野村喜和夫「眩暈原論(12)」、福田拓也「パリの燕通りにある安ホテルの螺旋状の……」(「hotel 第2章」73、2015年01月15日発行)

 野村喜和夫「眩暈原論(12)」は連載の完結。連載期間中、何度か感想を書いてきたが、何を書いたかおぼえていない。何が書いてあったかも、おぼえていない。いいかげんな話だが、たしかに読んだぞということだけはおぼえている。
 詩にかぎらないが、あらゆることは、だいたいそういうものだろう。
 私は、昔は野村の作品は好きではなかった。ことばのリズムがあわなかった。しかし、いまは好きである。ことばが読みやすい。リズムがあう。

だがリズムだ、リズムこそは眩暈とその固定という矛盾しきった欲望の運動の
特権的な反映である。テンポある織物のなかで、結論は拒まれている、構造は
循環的である、中心紋がひらく、きれいごとは脱臼する。またがったり、切り
刻んだりするものがふえる。

 何が書いてあるか--ということは重要かもしれないが、「意味」というのはたいていの場合、他人を動かすための勝手なものだから、私は気にしない。この詩でおもしろいのは、「矛盾」と「特権」を強引に結びつけて、それを加速させていくところである。
 「矛盾」しているから「結論」なんてどうでもいい。「結論」を「拒絶」して、逆に「構造」を見ていく。しかし、それは「解体」というよりも(解体ということばは野村は書いていない)、「脱臼」である。
 というような感じで、私は気に入ったことばをつないで、なんとなく「意味」をつくるのだが、それが野村の「意図」と合致しているかどうかは気にしない、という意味である。--意味を気にしない、ということを言いなおすと。
 だいたい作者の「意図」を正確に把握しないと作品を批評したことにならない、評価したことにならないという意見を私は信じていない。作者の言い分を正確に理解した上で、その作品が「つまらない」というようなことは、ありえない。作者の言い分を完全に理解するということは、その作者に成り代わることであって、作者に成り代わったのになおかつ共感しないというようなことは私にはできない。
 私は作者の「意図」など無視する。これはこういう意味なんだと自分の思っていること、考えていることを暴走させる。どんなに「誤読」を暴走させても、作者の「意図」を無視しても、作者の「熱意(書きたい気持ち/ことばにしたい気持ち)」が伝わってくるのがいい作品なのだ。作者の思っていることなんか私とは関係がないのに、読むと驚かされて、そこにひっぱられていってしまうのがいい作品、そして作品のなかで自由気ままにあれこれ遊べるのがいい作品である。私の「理解」が「誤読」であっても、そんなことは関係がない。私がどんなに「誤読」を書きつらねても、その「誤読」を突き破って動いてくる、私を動かしつづける作品が、私は好きだ。
 野村の「眩暈原論」が読みやすいのは、ここに書かれていることばの暴走が、暴走でありながら「日本語」を引き継いでいるからである。「脱臼」ということばがでてきたが、「脱臼」させながら、完全な解体(ばらばら)ではなく接続を感じさせるからである。

喪だし藻だしね、沈黙の吃水が迫っているのだ。

 「喪/藻」の反復は那珂太郎(もももももももも……)を思い出させるが、「もだし」「もだす(黙す)」「沈黙」という具合にことばが変化していく部分に触れると「日本語が共有されている」という感じになる。それは野村の「限界」であるという見方もあるかもしれないが、私は、「共有」をふくまないものにはついていけない保守的な人間なので、そういうものをしっかりとつかんでいる日本語を「いいなあ」と思う。楽しいと思う。「限界」とは感じない。



 福田拓也「パリの燕通りにある安ホテルの螺旋状の……」は、

パリの燕通りにある安ホテルの螺旋状の階段を、あれは右回りだったか
左回りだったか、確か左回りに旋回しつつ上り最上段の炉床に身を横た
えるとガラス張りの青空が見える、その青空がむくむく盛り上がったか
と思うと見る見るうちに青空の記号として分解され炉床の灰となって青
灰色に静まる、

 とはじまる。何が書いてあるのかは、野村の「眩暈原論」とは違って部分部分が具体的であるだけに、よけいにわけがわからない。「むくむく盛り上がった」「見る見るうちに」というような古くさい常套句を「日本語が共有されている」と言っていいかどうか、私は、まあ、悩むね。そういうことばを捨て去って、それでも「共有」を感じさせるものが詩なのだと思うけれど。
 この詩は「パリの安ホテル」からはじまり、「江戸川台の家」へ移り、さらに「頭蓋」骨や「亡霊」の世界へと行ってしまうのだが、その切断と接続の部分に、

記号として分解され

 というような「抽象(論理)」が強引に割り込んでくる。

記号の森

文字を構成する

痕跡の図式

 前後を省略して「キーワード」だけを抜き出すと、そんな感じ。ここでは世界を「記号」として把握し直すという「論理」が「共有」されている。これは新しそうに見えて、そうではないかもしれない。
 野村の「喪だし藻だしね、沈黙の吃水」はだじゃれの無意味さが日本語の「肉体」を浮かび上がらせるのに対し、福田の「意味」は輸入物の「頭」を浮かび上がらせる。この「頭」をどうやって「肉体」にまで育て上げるか--育て上げてしまえばおもしろいのだと思うが。この詩では「頭」が分離して見える。頭の悪い私には。

まだ言葉のない朝
福田 拓也
思潮社
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小野正嗣「九年前の祈り」

2015-02-11 21:22:29 | その他(音楽、小説etc)
小野正嗣「九年前の祈り」(「文藝春秋」2015年03月号)

 小野正嗣「九年前の祈り」は第百五十二回芥川賞受賞作。
  420ページ(「文藝春秋」03月号のページ)まで読んできて、小野が書きたいのは「詩」なのかと思った。ある瞬間に人間の本質のようなものが人間から分離して、いままでとは違った人間に見えてくる--その瞬間を描きたいのか、と思った。

窓を背にしたみっちゃん姉のすぐ後ろに悲しみが立っていた。それはみっちゃん姉のそばにずっといたのだけれど、日の光の下では見えなかったのだ。悲しみはいま薄暗がりのなかで初めてその姿を現わし、みっちゃん姉の肩を優しくさすっていた。しかし悲しみが行なうそんな慰めの仕草は、さすられる者とそれに気づいてしまった者の心の痛みを増すだけだった。

 「悲しみ」を人格化している。「現代詩」なら、もう少し「悲しみ」を整理して、文体を凝縮させるが、小説なのでその手間を省いているような、ラフな感じがする。
 「悲しみが立っていた」は初めて登場する文章なので、それでいい。次の「悲しみはいま薄暗がりのなかで初めてその姿を現わし」は「立っていた」の言い直し。人は大事なことはくりかえす。くりかえすことで、それが「事実」になっていく。ここも、書かなければならない理由がある。しかし、そのあとの「しかし悲しみが行なうそんな慰めの仕草は」という文章はどうだろうか。作者が「悲しみ」ということばに酔ってしまっている。詩ではなくなっている。「悲しみ」が「主語」から「歌」のリフレインになってしまっている。
 ここで、私は、最初につまずいた。もう一度同じことを別な形でくりかえすために、わざとラフに書いているの加登も思った。
 そして、小説の最後( 447ページ)で、私はがっかりしてしまった。

 いま悲しみはさなえのなかになかった。それはさなえの背後に立っていた。振り返ったところで日の光の下では見えないのはわかっている悲しみが身じろぎするのを感じた。それは身をかがめると、さなえの手の上にその手を重ね、愛撫するようにさすった。

  420ページの「悲しみ」がくりかえされている。そっくりそのまま。まるで歌謡曲のさびのメロディーのように、少しだけ変奏されて。これでは小説ではない。詩でもない。「歌」でしかない。歌謡曲、ど演歌だ。(演歌が悪いというわけではないのだが。)
 起きたことを「歌」にして、反復し、伝えたいというのならそれはそれでいいかのもしれないが、「悲しみ」の安売りのようで、こんなふうに作者一人が酔ってしまっているのではなあ、とげんなりする。結末が小説を壊してしまっている。
  425ページの「子供っちゅうもんは泣くもんじゃ。」から「みっちゃん姉が希敏を連れていってくれた。」を経て 426ページ「みっちゃん姉が連れ去ってくれたのだ。」の反復までのように凝縮した部分もあるが、たいていはリフレインが目障りである。反復によって、その反復されるものの「本質」を明確にしたいということはわかるが、反復が反復のままでは、小説のおもしろさに欠ける。
 結論(?)がこんな具合に、あからさまな反復の形で閉じられると、小説の構造があまりにもあらわになって、興ざめしてしまう。現在(子供をかかえてふるさとに帰って来て、母のふるさとである島へ行くという小さな旅)と過去(カナダへみっちゃん姉たちと旅行した旅)、そのなかで「手をつなぐ/手をはなさない」が反復されるが、それは「伏線」というよりも、「既視感」の方が強くなる。「結論」がはじめにあって、それをことばで飾っているという印象になってしまう。
 そのために、せっかく方言をつかって生活感あふれるおばさん集団を描きながら、そのおばさんたちから「個性」が消えてしまう。(おばさんのカナダ旅行、カナダ旅行のおばさんの行動はとてもおもしろいのに、それが「歌」の「枠」に乗っ取られてしまっている。)さらに主人公に影響を与えたはずの男たちの描写の「手抜き」も気になる。「悲しみ」のリフレインの邪魔をしないように、非常に弱い調子でしか描かれていない。具体的に見えてこない。いちばん重要な希敏が何度も「引きちぎられたミミズ」と簡単に反復されるのも、信じられない。もっと、そのときそのときの個別の「泣き叫び」を書かないと、希敏がかわいそうすぎる。ストーリーの「狂言回し」になってしまっている。母親がたいへんなのはわかるが、子供だってたいへんなのに、と言いたくなってしまう。



 小野のふるさとの描写では、

二つの島は、陸地を振り切って大海原に飛び出そうとしているように見えた。逃がしてたまるものかといくつもの岬が、たがいの邪魔をしながら、島々に執拗に追いすがり伸びていく--( 391ページ)

このむさくるしい男が誰だか知らないが、男のほうは明らかにさなえを知っていた。さなえがカナダ人と結婚したことも、そのカナダ人とのあいたに男の子が生まれたことも、そしてさなえがカナダ人に捨てられ、男の子を連れて実家に戻ってきたこともすでに知っていた。( 402ページ) 
 
 が簡潔で印象に残った。風景描写の人格化と、集落のひとの生き方が濃密に交差し、溶け合っている。



 作品ではないのだが、受賞のことばの「三歳年上の兄、史敬(ふみたか)が昨年十月亡くなりました。」という文章の「亡くなる」という動詞のつかい方に、私は違和感をおぼえた。こういうとき「亡くなる」というのだろうか。「死んだ」ではないのだろうか。「亡くなる」なら「史敬」ではなく「史敬さん」と敬称をつけそうなものだけれど……。

九年前の祈り
小野 正嗣
講談社
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嵯峨信之を読む(10)

2015-02-11 09:49:24 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
16 エデンの妻

 「エデンの妻」からは「愛の唄」という章になっている。「ノアの方舟」にも女は描かれていたが、接近の仕方が微妙に違う。

妻よ
今日わたしはさるすべりの木を植えよう
ふたりでエデンに近づくために
雨とふる理性にも
けつしてSEXを失わないように
わたしの手のとどくところに
いつもほのぼのと桃いろの花がさいているように
妻よ
エデンの妻よ

 女は「妻」になっている。「エデンの妻よ」と言いかえられている。「エデン」は「SEX」と言いかえられている。
 このエデンの特徴は、しかしSEXというよりも「ふたりで近づく」にある。
 ふつうに読めば、どこかにあるエデンに近づく、エデンの園へゆくということになるのかもしれないが、エデンはどこかにあるのではなく「ふたりで」同じことをするときに、その行為の先にあらわれてくるものかもしれない。「同じこと」というのはSEXをすることだが、それだけを意味するわけではないと思う。
 たとえば「さるすべりの木を植える」。「植える」の文法上の「主語」は「わたし」であるけれど、気持ちは妻といっしょに植えている。「ふたりで」植えている。「ふたりのために」植えている。だから、たとえそれが一人でしたことであっても、「同じこと」をふたりでしたことになる。
 エデンはSEXだけで成り立っているのではない。それ以前からはじまっている。そういう思いがあるから、「さるすべりの木を植える」という、SEXとは無関係なところから詩がはじまる。

 途中に出てくる

雨とふる理性にも

 この一行は何だろうか。
 私には、よくわからない。なぜこの行を嵯峨が書いたのか、見当がつかないが、この一行があるために「さるすべりの木」が見えてくる。「桃いろの花」が見えてくる。SEXということばは「肉体」を浮かび上がらせるが、その「肉体」とは別の何かがあるということを「理性」ということばが思い出させる。そして、その「肉体(欲望)」と向き合い、「肉体」をととのえるものとして「さるすべり」「桃いろの花」というものがあるように感じられる
 ことばが愛欲一色に染まらず、愛欲が洗い清められ、その底から落ち着いた肉体があらわれ、静かに呼吸するような感じ。

17 水辺

 「エデンの妻」のつづきとして読むことができる。「エデンの妻」では「わたし」は「さるすべりの木」を植えたが、それだけでエデンが完成するわけではない。

わたしは水を通わせようとおもう
愛する女の方へひとすじの流れをつくつて
多くのひとの心のそばを通らせながら
そのときは透明な小きざみで流れるようにしよう

 「多くのひとの心のそばを通らせ」が、ちょっと複雑である。「愛する女」とは「エデンの妻」だろう。妻なのだけれど、ほかの人(男)を遮断してしまうのではない。ほかの人にも存在を知ってもらいたい。ここには、自分には妻がいるのだという喜び(自慢)が反映している。
 その喜びが、ほかの行動をも誘う。

うねうねとのぼつてゆく仔鰻のむれを水に浮かべよう
その縁で蛙はやさしくとび跳ね
その岸で翡翠(かわせみ)は嘴を水に浸すようにしよう

 のどかな自然。エデンという西洋の楽園ではなく、どことなく東洋の楽園(桃源郷)を想像してしまう。「うねうねとのぼつてゆく仔鰻のむれ」というのは精子の群れを想像させる。「桃源郷」の住民もセックスに夢中になっているかどうかわからないが、こういう不思議なイメージが世界を攪乱するのも詩なのだと思う。
 ひとつの読み方を強いるのではなく、逆に、かってきままに自分の好きなふうに読める要素、矛盾した(?)何かを含んでいる方が、何度でも読み直す楽しみがある。

嵯峨信之全詩集
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新聞を読んだ後、

2015-02-11 01:23:47 | 
新聞を読んだ後、

新聞を読んだ後、
残った金で買うのにふさわしいのは
終わらない恋愛小説か
一人一人が別の方向へ散らばり消えていく推理小説か、

新聞を読んだ後、
プラスチックの椅子に座ってキオスクの遠い棚を見つめ、
あるいは立ち上がって壁の鏡をのぞく
ような詩がいいのか考える。
新聞はうまくたためない。

新聞を読んだ後、ふりかえると
女が電話をかけているヒースロー空港。
ハイヒールをぬいで足裏を左手でもみながら、
無言を受話器にあずけているが

新聞を読んだ後、
ふいに訪れる空白は砂糖入りのコーヒーを飲んだよう。
体の底からこみあげてくる退屈と
何も起きない小説はどちらが破壊的か。





*

谷川俊太郎の『こころ』を読む
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根本明「塩の刻」

2015-02-10 10:42:29 | 詩(雑誌・同人誌)
根本明「塩の刻」(「hotel 第2章」73、2015年01月15日発行)

 根本明「塩の刻」は人間の思考の動きの強さ、人間の思考はいかに強いものであるかを教えてくれる。

かつて海の家小島家や見晴亭がならび
貝を焼く匂いがただようなかを
千葉街道の護岸を登るとき
子供たちは髪に塩の結晶を光らせて
潮の満ちてくる海をふりかえった

 海水浴の後、シャワーも浴びずに帰る。塩の結晶が髪にこびりつく。そういう野蛮な、というか、元気な時代があった。家へ帰って髪を洗う、体を洗う。そういう近さに海があったということでもある。海と子供は共存していた。大人ももちろん共存していた。無力子供が共存できるというのは、すばらしいことである。
 この髪にあらわれた「塩」の結晶からギリシャ神話、「振り返る者を塩の柱とせん」という話と重ね合わせる。そして、

私のなかの幼い者は
失われた黄金色の夕暮れを前に
白濁したオブジェのように硬直する
失われた干潟に累々とひろげられた
海藻や貝、甲殻類たちの惨劇をかぶって
くりかえし、くずれる

 と過去を振り返る。こんな気取った言い方をしなくてもいいのかもしれないけれど、「神話」のことを思ったので、ことばが緊迫したのだ。「神話」に拮抗するようにことばが結晶したのだ。
 このあと、ことばがさらに変化する。過去でも神話でもなく「現実」(いま/ここ)を描写するのだが、それがそのまま「いまの神話」にかわっていく。「もの」が精神性をかかえて動く。「もの」が書いてあるのか、「精神」が書いてあるのか、「もの」を突き破って「精神」が動いてくようにことばが不思議な強靱さを感じさせる。
 「幼い者」が「くりかえし、すぐれる」は、次のように語り直される。それはそのまま「幼い者」の姿ではないが、そのままではないからこそ、「神話」になっている。

埋立地の木の根は地面をのたくって這い伸びる
植樹から半世紀のマテバシイやプラタナスが
地表を争い幾重にもからみあう
根を地下におろすことを畏れるからだ
すぐ下の塩の層にあやまって根の先が触れたとたん
ばりばりと塩を吸い上げることになる

バラ科、マメ科、モクレン科
どのような樹木が最も美しく処断されるか
来光を前に一本の木が原風景に名指されると
まず花に白い結晶が噴き上がり
次々に枝葉が、幹が塩基に染め上げられていく

 これは根本が子供のときには見ることのできなかった風景である。「埋立地」をつくる、そこに暮らす。そのとき人は何をしたのか。その反作用はどんな形で現実になっているか。それは海との共存と言えるのか。
 ひとつの生が別の新しい死と向き合っている。生と死がぶつかりあい、そこに「真実」が語られる。死の塩(塩の死)を避けながら、不自然に地表を這い伸びる樹木の根。その姿と海を埋め立て、そこに生きる人間の姿が重なる。かりそめの征服。いつかは自然からしっぺ返しを食うにちがいない人間の暴挙。
 そういうものを見据えたことばの運動だ。

 海を語るとき、根本のことばはとても強い。海が好きなのだと感じる。海を破壊して生きるいまの社会に対して根本は怒っている。怒りを埋立地の木の悲劇を借りて、神話にして語っている。ことばは、こんなふうに思考を強靱にすることができる。


海神のいます処
根本 明
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嵯峨信之を読む(9)

2015-02-10 09:54:39 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
14 小雀
 
 詩を感じるのは、知らなかったことばのつかい方にふれたときだ。

ぼくは見えないものを好む
たとえば夜の砂 腕の中を通る愛 雨に打たれていく歌
魂の川を下る船
それらの上に空は幾たび来て また去つたことだろう

 四行目で私ははっとする。「空」は動かない。空が来て、去るという動きをしない。それなのに、この行はいいなあ、と思ってしまう。ここに書かれていることが「でたらめ」とは感じない。
 空は動かないのに、なぜ空が動いてやって来て、また去っていくと感じるのだろう。何かをするとき、空はそこにある。いつも、そこにある。その空はいつも違っている。晴れていたり、雨が降っていたり、雲の形が違うし、真昼だったり、夕焼けだったり、真夜中だったりする。そして、何かをするときの気持ちと一致したり、反対だったり、無関係だったりする。
  楽しいことをするときは、空も楽しい。哀しいときは、空も哀しい。もちろん、反対のときもある。楽しいのに、空は不機嫌で雨が降っている、とか。そういうときは、きょうの空は、きょうの楽しみにふさわしくない、と思う。
 でも、無関係のときの方が多いかもしれない。哀しいのに、そんなことはまったく感じないというように星が輝いていたりする。起こっているのに、真っ青な青空だったりする。空は、人間の思いとは関係なしに、いっしょに存在している。無関係という感じで、私に跳ね返ってくる。
 鏡のように無表情だ。無表情だから、そこに気持ちが映りもする。
 空はこころを映す鏡かもしれない。うれしいときうれしいこころを映すだけではなく、うれしいときに、うれしいの陰に隠れている何かを映すということもある。
 こころを映して、空はこころになるのだ。そして、そのこころは「私」の感情を超えてひろがっていく。こころなんて、もともと区切りがない。
 だから、「空」をこころ(気持ち)と置き換えて読んでみる。

それらの上にこころは幾たび来て また去つたことだろう

 私は、無意識のうちに、そんなふうに読んでいるのだ。いままで私が見てきたいくつもの空、その色、雲の形や輝きを思い浮かべながら、ああ、あのときはあんな空だったなあ。私と無関係に、空を見上げてあんなことを思ったなあ、と思い出している。
 「空」を「こころ」と「誤読」して、この一行はいいなあ、と感じている。
 そんな空の下、

五月の爽やかな太陽のかがやきの下に
小雀が一羽
飛沫をはね散らして水浴している

 その雀を見るとき、詩人は雀になっている。詩人が雀になる、というのも、一種の「誤読」だが、「誤読」が楽しい。「誤読」がこころを豊かにしてくれる。どんなに「誤読」したって、空も雀も文句を言わない。

15 利根川 

 利根川を舟が下っていく。それを見ながら詩人は考える。

一日一日色あせていくおもいを
そのはての茫茫とかすんでいる中流を一艘の舟が下つている
それをとどめようとしたのは間違いだつたかも知れない
とどめようとしたぼくたちが
その舟で遠く運ばれているのだろう

 このとき「舟」は現実の舟であると同時に「一日(時間)」の象徴である。日々が流れていく。毎日が過ぎ去っていく。それをとどめることはできない。「一日」はまた「ぼくたち」と言いかえられている。毎日はただの時間ではなく「ぼくたち」そのものである。さまざまな思いが、遠く運ばれていく。そのとき、その「運ぶ」という仕事をするもの「利根川」ではなく「一日一日」である。
 「川」「舟」「一日」「ぼくたち」が交錯しながら、互いの象徴(比喩)になっている。厳密に分析すれば厳密に定義できるかもしれないが、ややこしいことはしないで、全体を「ひとつ」としてつかみ取ればいいのだろう。

川しもへ遠ざかつた舟は罌粟粒ほどに小さくなつている
やがて空へ消えようと
心に消えようと
その上を利根川は流れつづけるだろう

 この最後は不思議。そして、美しい。遠くなった舟が消えるのは川の向こう、海か。でも、水平線までゆくと、それから先は海か空かわからない。だから空へ消えるも、あ、そうなんだと思ってしまう。空を心と呼び変えているのも、そのときの風景は、もう現実というよりも「こころの風景(心象風景)」だからだ。
 でも、最後の、「その上を利根川は流れつづける」は?
 空の上を川が流れる? 川は空の下を流れる。
 「心象風景」だから「空の下」でもいいのだ。「空」は「心」と言いかえられている。「心」は「空」になって、「空」から利根川が流れるのを見ている。
 ここでも、一つのことばが一つの「もの」をあらわすのではなく、交錯しながら意味交換している。これが詩だ。一つの「意味」に縛られないことばが詩だ。


嵯峨信之全詩集
嵯峨 信之
思潮社
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別のところで

2015-02-10 00:47:30 | 
別のところで、

別のところで、ことばは、女をこんなふう書いていた。
「傘立てのところで傘を入れようかどうしようか迷っている。
いったん何本か傘を引き抜いて閉じ直さないと入りきれないだろう。
手間をかけることは嫌いではないのだが、
他人の傘をたたんでいるところを見られると思うと躊躇するのだ。」
その女がいまコーヒー店を出るところである。
本を一冊読んでいる間に雨があがった。
舗道に西日が射してきていて入り口のガラスが明るい。
傘立てのところで、傘を手に取ろうとして、時間がねじれる。
女は店に入るとき壷に無造作に傘を放り込んだ。
それがていねいにまきたたまれて美しい角度で立っている。

ことばは、いま、そんなふうに女を描写しながら、
これを詩にするならこれ以上書いてはいけないと思っている。



*

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嵯峨信之を読む(8)

2015-02-09 14:40:30 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
12 洪水

 「洪水」は「愛」の対極にあるもの。愛を破壊するものの比喩(象徴)である。「不幸」と、この詩では言いかえられている。不幸が愛を破壊する。「愛」は「魂」と呼び変えられている。不幸が魂を破壊し、その結果、愛が消える。愛が不幸に呑み込まれ、不幸が荒れくるう。

時時刻刻に不幸の水嵩が増した
渦巻く濁流はもうとつくに魂の堤防を越えている
はるかな町の方へつづいているコンクリートの堤防は
昨日までふたりの愛に沿うて延びていた
ある時はそこへ遠回りしてその日が豊かになつた

 「遠回りしてその日が豊かになつた」が、とても美しい。
 この詩は「ふたりの姿は/大きな波のひと呑みになつて見えなくなつた」と終わるのだが、そういう「結末」とは関係なく、「遠回りしてその日が豊かになつた」が美しい。
 愛を守るために、対立点を回避する。いつもとは違う何かをすることが、その日を「豊か」にする。回避することを「無駄」ではなく、自分たちを「豊か」にするととらえ直すこころが美しい。
 詩はストーリーや結末ではない。どこかに、はっとすることば、あ、そうなのだと納得できることばがあれば、それが詩なのだ。そのときの「理解」が「誤解(誤読)」であってもかまわない。読者のこころの反応のなかに詩はあるのだから。
 この詩のふたりが不幸になったとしても、そのことによって、この詩が「悪く」なるわけではない。この詩のように、読者の愛が不幸な結果を迎えたとしても、「あの日、私たちは豊かな感情を生きていた」ということを思い出す力になるなら、それは「いい詩」なのである。
 詩は、きっと、自分の読みたいところだけを読み取ればそれでいいのだ。つかみどころを押さえれば、それでいいのだと思う。

13 寓話

 「寓話」はピラミッドを築くために労役を強いられた「おまえ」を主役とした詩である。詩人を主役にした「私詩」ではないから「寓話(虚構)」というのかもしれない。そこには「地平線」が「自由」の象徴(比喩)として登場している。

地平線の話をするな
おまえは遠い旅から帰つて来たものではない
永いあいだピラミッドを築いていて
苦しい労役の時をすごしたにちがいない
どのくらい永い時がたつたか
おまえの歪んだ大きな肩とふしぎな言葉づかいでそれはよくわかる
もう偽りをいうのを止めよ
いまおまえの口を縛るものはなく
おまえをはげしく鞭打つものはいないのだ
どこまでも砂漠の果を歩いてゆけ
おまえが喘ぎ求めた自由のふるさとへ帰つてゆけ

 「地平線」にはふたつある。現実の「砂漠の果」と「苦しい労役の時」に夢見た「地平線」。「地平線の話をするな」というときの地平線は夢の地平線である。遠い旅に出た人間が見てきた「果」ではない。
 いますべきなのは、現実の地平線の果へ歩いてゆくこと。実際の行動である。「自由」を肉体でつかみ取れ、ということなのだろう。実際に歩いてゆくことで、労役のときに思い描いた幻の「地平線」は精神の「ふるさと」ではなく、現実の「ふるさと」になる。そこが「おまえ」の「自由の場所」になる。
 「寓話」なので、ことばが二重三重になり、イメージを交錯させる。虚構の中で交錯することばの奥から「現実」かいま見える。
 しかし、私はこの現実と幻の交錯よりも、その「意味」よりも

どのくらい永い時がたつたか
おまえの歪んだ大きな肩とふしぎな言葉づかいでそれはよくわかる

 この二行に詩を感じる。ふいにあらわれる「現実」にはっとする。
 「肉体」に刻まれた「肉体」の変化(筋肉のつき方や骨格の歪み)と「永い時(時間)」との関係、「言葉づかい」と「時間」の関係を語った二行。
 たしかに、ひとは特別な状況を長い間すごすと、「肉体」や「ことば」に変化が起きる。肉体労働をしている人の体は、厳しい肉体労働をしていない人に比べると筋肉がついている。また歪みもある。かぎられた状況だけで話している人のことばは世間で話されていることばとは違う。そういう「肉体」(具体)を書いた部分が、「寓話」を「現実」に近づける。私の両親が百姓だったので、クワやカマで米をつくってごつごつになった体(姿)を重ね合わせ、肉体と労働、時間を理解した。肉体の変化を追体験した。(ピラミッドを築く人の肉体を私は実際には見たことがないので……。)
 「肉体」を追体験することで、ことばは「現実」のものとなる。「肉体」をとおしてしか、人はことばを共有できないのかもしれないとも思う。
 リアルだから、詩を感じる。こころにことばが入り込んでくる。
                           2015年02月08日(日曜日)
嵯峨信之詩集 (現代詩文庫)
嵯峨 信之
思潮社
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大橋政人「空の人」、金井雄二「おごそかに慎重に、探すのである」

2015-02-09 10:42:42 | 詩(雑誌・同人誌)
大橋政人「空の人」、金井雄二「おごそかに慎重に、探すのである」(「独合点」121 、2015年02月01日発行)

 大橋政人「空の人」は「今年最後の犬の散歩で/田んぼのまん中で空を見上げ」る詩である。「大晦日」と言わずに「今年最後の犬の散歩」と書き出すところに、大橋の暮らしが見えて楽しい。(ほんとうに犬を飼っていて、散歩させているかどうかは別にして、大晦日が具体的でいいあな、と思う)。空を見上げると、メダカのような線が動いている。飛行機である。「初めて飛行機に乗ったときのことを思い出して/しばらく見上げて」いる。乗っている人のことを思う。

もう窓の外は暗いから
北関東のこの辺を
見下ろす人もいないだろう
中には自分の足の下の
その下の空間を意識しながら
空しく足を踏ん張っている人も
いるかもしれない
家に帰って
今年最後の風呂につかりながら
空高く行く人の
足の下のムズムズについて
考えた

 奇妙におかしい。「空高く行く人の/足の下のムズムズについて/考えた」のは、初めて飛行機に乗ったとき、大橋も「空しく足を踏ん張っ」たからだろうか。「肉体」がおぼえていることを思い出し、自分の「肉体」と他人の「肉体」を重ねる。「肉体」が重なってしまうと、そのとき、もう大橋は大橋ではなく、「空高く行く人」になっている。「空高く行く人の/足の下のムズムズについて/考えた」と書いてあるのだけれど、

空高く行く人になって
足の下のムズムズを
感じた

 が「実感」かもしれない。
 おもしろいなあ。
 「他人」になって、「肉体」が感じていることを感じて、それが昔の「私(大橋)」にもなる。「他人」と「大橋」の区別がなくなる。
 詩というのは、これだね。「他人」と「私」の区別がなくなって、そこに書かれていることは全部自分のことになる。
 で、その「象徴」のようなものが

足の下のムズムズ

 これは、おかしいねえ。
 何がって……。
 「ムズムズ」をほかのことばで言いなおせる? 私は、月一回数人の仲間と詩を読みあっている。そのとき、時々そこに出てくる表現を別のことばで言いなおすとどうなる? 自分のことばで言いなおすとどうなる? という意地悪な質問をする。
 この詩の「ムズムズ」についても、そういう質問をしてみたい。いまは一人で感想を書いているので、質問できないのだが……。そうすると、きっとみんな、答えられない。「ムズムズ」がわかるのに、ほかにどう言いなおせばいいのかわからない。
 このとき、大橋と私たちの「肉体」が重なってしまっている。「ムズムズ」ということばで区別がなくなってしまっている。区別できないから、言いなおせない。「ムズムズ」を足で感じるから、言いなおす必要がない。
 「肉体」でことばが共有され、ことばを通して「肉体」が「ひとつ」になっている。「ひとつ」になって、動いている。
 大橋が「足のムズムズ」を通して「空行く人」と「ひとつ」になるとき、読者も大橋、「空行く人」と「ひとつ」になる。三人が「ひとつ」になる。(こうやって人間はことばをおぼえる。)

 そういうことを感じた後、もう一度、書き出しの「今年最後の犬の散歩で」に戻る。そうすると、「大晦日」と書かなかった「理由」のようなものもわかる。「大晦日」と書いた方が「ことばの経済学(意味の伝達)」には「合理的」なのだが、詩で書きたいものは「意味」なんかじゃないね。
 大橋の書きたかったのは「足の感覚」から「他人」と「ひとつ」になること。「犬の散歩」はたいていは「歩いて」する。つまり「足」をつかって動く。最初から「足」が主役だったのだ。
 うまいね。



 金井雄二「おごそかに慎重に、探すのである」はタイトルはおおげさだけれど、「内容」は夜中に冷蔵庫を開けてビールを探すというもの。要約してしまうと、おもしろくもおかしくもないのだけれど……。

佃煮
漬物
残り物

 いやあ、笑ってしまうなあ。「残り物」ということばの「生活感」がとてもいい。「残り物」には捨てるものと捨てないものがある。また後で食べるものは冷蔵庫にしまう。どこの家庭でもやっていることなのだが、「あ、同じ」という感じが金井と私を「ひとり」にしてしまう。金井は金井のしたことを書いているのに、金井のしていることに私が重なってしまう。そこからは、もう「金井」が主人公ではなく、「私(読者/谷内)」が主人公。「私(谷内)」の「肉体」が金井のことばをとおって動いていく。

真冬のこごえた部屋の片隅の
そのまた寒い台所の
暗い闇の中に居座る冷たい箱の奥深く

見つけた

ぼくはドアを閉める
眠っている人を起こさぬよう
プルリングを起こす

 「起こさぬよう/起こす」というのはだじゃれみたいなものだけれど、最後の「起こす」で「肉体」がしっかり重なる。そこで「肉体」が重なるから、その直前の「起こさぬよう」という「配慮」も重なる。
 「配慮」というは「気持ち」。つまり、この詩を読み終わると、私(谷内)は「肉体」も「気持ち」も金井になってしまう。
 そこに何か「意味」があるか、「価値」があるか、と問われると困るけれど、「意味/価値」とは関係ない「肉体」の無意味さの方が「思想」だと私は感じている。いつも、少しずつととのえながら、人間をささえる力になっているからね。そのときのととのえ方のなかに知らず知らず入ってくることばが詩や小説(文学)のことばだと私は信じている。

26個の風船―大橋政人詩集
大橋 政人
榛名まほろば出版
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「詩は全部を、

2015-02-09 00:51:57 | 
「詩は全部を、

「詩は全部を、全部のことばを理解する必要はない。
--ことばは、これから語ることを頭のなかで反芻してみた。
「どこか気に入ったところがあったら、そこをしっかりつかむ。
(つかみどころを押さえる--と言いなおした方がいいかな?

「そして何度もくりかえしておぼえる。
ここぞというときに
いまひらめいた!という具合に言ってみせればいい。
(流暢でなければ、借り物だとばれてしまうぞ。

「頭のなかに浮かんだことを、
本に書いてあるみたいにことばにできれば楽しいが
そんなことは誰にもできない。
これは知っている、と百回にいっぺんくらい言うのがコツだ。

(世の中のことが全部わかる人間はどこにもいない。
--ことばは、あ、これでは種明かしになってしまうぞ、と思う。
「これは、きのう読んだ本に書いてあったことです。
(言ってしまった方が、自分で考えたことに聞こえるかもしれない。






*

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嵯峨信之を読む(7)

2015-02-08 10:44:28 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
10 声

大凪の海で知りあったのだから
ふたりは
どこの港からも遠い

 海は凪いでいる。嵐ではない。港へ帰る必要はない。この書き出しは、そういうことを語っているのだろうか。明るい静かな恋を感じさせる。同時に、「理性」を感じさせる。「静けさ(穏やかさ)」は「理性」にささえられているとも。
 恋というのは「理性」とは反対の衝動かもしれないが、感情を理性でととのえ、持続させる、持続させたいという思いが働いているのかもしれない。
 「理性」ということばを思いついてしまうのは、「……だから」ということばの影響である。「……だから……である」という「論理」の動きを感じ、そこに「理性」を感じる。
 しかし、「理性」とはいっても、あるいは「論理」とはいっても、その「……だから……である」の「……である」は、詩の場合、予測がつかない。予測がつかないから、詩であるとも言える。
 大嵐なのだから船は出航できない、というような「常識的結論」とは無縁のところへ詩のことばは動いていく。
 私は最初、この三行について「海は凪いでいる。嵐ではない。だから港へ帰る必要はない。」と書いたが、「海は凪いでいる。風がない。だから帆船は港へ帰れない。」とも読むことはできる。「論理」のはずなのに、それは「予測」できる論理ではなく、結論に達したときに「論理」になってしまうというような、不確定の「論理」である。そこに、詩のおもしろさがある。
 港へ「帰れない」ではなく、「帰る必要はない」と感じてしまうのは、ここに書かれている「大凪」が幸福の瞬間のように感じられるからである。
 この幸福は三連目で、次のように語られる。

ふたりは話し合うのに
はじめて自分の声をつかつた
うまれたときのままの真裸の声を

 読みながら、思わず傍線を引いてしまう。ここが好き。「はじめて」が輝いている。この「はじめて」に私は何を言えるだろう。
 「はじめて」の声は「うまれたときのままの」「真裸の」と言いなおされている。無防備で、純真で、正直な声。そういう声を受け入れてくれるとわかって、どんどん正直になっていく声。
 それだけではない。
 いままでつかってきた声を捨てて、新しい声をつかっている。いま、目の前にいるひとのためにだけの声を自分のなかからつくり出している。「はじめて」の声なのに、とても豊かに響いてくるのは、それがあふれてくるからだろう。輝きながら、あふれてくる。真昼まぶしい明るさ--そういうものを感じる。
 この幸福を「はじめて」という静かで論理的なことばで語っているのが、嵯峨の詩の特徴だと思う。

11 ある島

 「声」と対になった作品かもしれない。対ではなくても、どこかでつながっている。「海」が出てくるので、そう思うのかもしれない。

ただどこにいても ぼくを優しくとらえる広い海が
その島へ ぼくをつれて行つたのだ

 この詩は「島」について書いているのだが、私を最初に夢中にさせるのは、「どこにいても ぼくを優しくとらえる広い海」ということばだ。海の近くにいなくても、街の真ん中にいても、海がぼく(嵯峨)を誘っている。海に誘われる。どこかへ行くとき、ぼく(嵯峨)は海をわたってどこかへ行くのだ。「広い海」は「広い」が形容詞で「海」は名詞、そして名詞が「主語(主役)」であると考えるのが一般的なのだろうけれど、嵯峨の詩を読んでいると「広い」ということこそ書きたくて「海」ということばを借りているようにも思える。「広い」が主語であると考えたくなる。
 「広い(広さ/無限)」こそが、ぼくを動かす。「広い」がその対極にある「狭さ(ある限定された広がり/個)」としての「島」を引き出す。「広い陸地」ではなく「個としての島」。

ぼくは その島の全貌をうまく話すことができるが
どうしたことか 話しているうちに
ぼくの姿は 薄い雲のように いつとなく消えてしまう

 「意味」が特定しにくい三行だが、私は読みながら「ぼく」と「島」は同じもの、「島」は「ぼく」の比喩なのだと感じる。
 いま、ここにいる陸を離れ、広い海の広さのなかに、それまでの陸の習慣を捨てる。「声」に出てきた表現をつかえば「はじめて」の自分になる、「生まれたときのままの真裸」の自分になる。その古いけれど新しい自分が「島」。それを発見するために、航海へ出る。
 話しているうちにぼくの姿が消えてしまうというのは、古いぼくが消えて、新しいぼくに生まれ変わるということだろう。
 ことばの海へ出て行き、古いことばを捨て、新しいことばで語る。そのとき新しいぼくは誕生し、古いぼくは消える。新しいことば(島/詩)そのものにぼくはなってしまう。そういう印象がする。
 この島(新しいことば/詩)を「声」のときのように「恋人」と考えることもできる。

嵯峨信之全詩集
嵯峨 信之
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有働薫「繻子の熾たち」

2015-02-08 10:42:29 | 詩(雑誌・同人誌)
有働薫「繻子の熾たち」(「東京新聞」2015年01月31日夕刊)

 有働薫「繻子の熾たち」はある日の教室の風景。

年取って教壇に立つと
教室の後ろのほうの席で
ぱらぱらと座っている生徒の肩先に
鳥の羽先が突き出ているのが見える
本人たちは気付かないで
神妙な顔で小さな肩をいからせている

 天使の生徒。生徒の天使。「本人たちは気付かないで/神妙な顔で小さな肩をいからせている」は有働にはそう見えるということ。「本人たちは気付かないで」と書くと、まるで生徒たちを客観的に描写しているようにみえるが、あくまで有働の「意識」がそこに反映されている。「本人たちは気付かない」のではなく、有働がそこに有働の「気(意識)」をつけくわえているのである。

ずうずうしく座っているよ
まるで人間の子供のつもりで あるいは
あの孤独で凶暴な少年詩人が
行き場がなくてやむなく舞い戻ったという顔付で

 「あの孤独で凶暴な詩人」とはランボーだろう。フランス語に親しんでいる有働は、フランスの詩人ランボーを思い出してしまう。有働が英語圏の詩人、あるいはドイツ語圏の詩人、その他の言語の詩人に親しんでいるのだとしたら、ここにはまた別の「少年詩人」が登場したかもしれない。
 ランボーを「孤独で凶暴」ととらえるのも有働の意識(気)をつけくわえたもの、有働の「批評(評価)」から見たもの。
 これを最後の方で、もう一度言いなおしている。

ともかく今日は灰色のエンゼルが
おまえに教わることなんてなんにもないよと
偉そうに三羽とまっていたよ
奇跡って起こるよ
天使って居るよ
いくら凶暴だって天使は天使
背中の羽根が肩先から突き出ているよ

 「凶暴だって天使は天使」は「凶暴」の受け入れ。詩は論理ではないから、また凶暴であってもかまわない。他人に危害を与えてもかまわない。傷つけられ、痛みを感じることで、自分がまだあざやかな血を流すことができると知ることもあるだろう。
 こういう経験を「覚醒」の経験と呼ぶのかもしれない。教壇から生徒を見ながら「これは詩になる」と有働はひらめいた(覚醒した)のである。


雪柳さん―有働薫詩集
有働 薫
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きのうと同じ道を通って、

2015-02-08 01:17:24 | 
きのうと同じ道を通って、

きのうと同じ道を通って眼鏡屋で度をあわせ直した後、
道の反対側のうどん屋に入り、同じテーブル、同じ椅子にすわる。
テーブルはこぼれた汁を引き延ばしたためにべたついている。
きのうと同じうどんは葱が煮えすぎて甘く形をなくしている。
待ち合わせをしているのだが、待たずに食べおわると、
遅れてきた人は「死ぬのに三か月かかった」と言って、黙った。
ノートを取り出し、細かい数字を書いている。
(人間は死ぬときまっているのに、そんなに時間をかけてもったいない)
(三か月しか持たなかった。金を払って手術までしたのに)
こころの声が聞こえたので、ことばには、その人が自分であるか
他人であるのかよくわからなくなって、うつぶせになっ泣いた。
それから顔を上げて、窓を通して遠い病院の角の部屋を見たが、
下から見上げる格好なので新しい眼鏡でも中までは見えなかった。


*

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粒来哲蔵「うまぐねぇ蛙(げえる)」

2015-02-07 11:44:21 | 詩(雑誌・同人誌)
粒来哲蔵「うまぐねぇ蛙(げえる)」(「二人」309 、2015年02月05日発行)

 粒来哲蔵「うまぐねぇ蛙(げえる)」はタイトルからわかるように方言で書かれている。私は目が悪く、きちんと作品を引用できるかどうかわからないが、引用してみる。

 おれ、うまぐねぇんだとさ。蛇がそうゆってだ。うまぐねぇって……。
 初めパクンと呑まれたばい。そしたらペッと吐(く)ん出されちまった。蛇はゆってだな、うまぐねぇって。蛇の奴、唾(つばき)吐(く)ん出して頭振り振りいっちまった。

 目が悪いことと、引用を正確にできるかどうかわからないということの間にどんな関係があるのか--そう疑問に思う人もいるかもしれない。
 ことばには、なじんだことばとなじんでいないことばがある。どんなことばに対しても、私の場合は「なじんだことば」が優先してしまう。一字一句そのとおりに読んだり聞いたりしているわけではなく、半分以上自分のなじんだことばで先を想像しながら読んでいる。「雨がぽつりぽつり」ということばに出会えば「降る」「降りはじめる」ということばを想像してしまう。「雨がきらきら」なら「輝いている」と想像してしまう。「雨がぽつりぽつり」走り抜けていく、とは想像しない。「雨がザーッと」走り抜けていくとは想像する。想像通りだと「わかった」気持ちになる。想像と違っていると「えっ、いま、何と言った(何と書いてあった)?」とつまずく。詩は、その「つまずき」といっしょにあらわれてくるものけれど、それを読み落とすことも多い。自分のなじんでいる「文体」でことばを受け止めて読みとばすことも多い。
 これは「標準語」だけに起きることではなくて、「方言」でも起きる。「方言」であっても日本語の文法が基本だから、その基本(と私が信じているもの)にしたがって、私は読んでしまう。そして、「方言」だからこそ、よく聞きとれない部分を私の「文体」で読んでしまうということがある。そういうものが増えると思う。だから、私の引用ではなく、かならず粒来の「原典」を読んでもらいたいと願っている。

 長い前置きになったが……。

 引用部分を読んで、蛇に呑まれた蛙が、「うまくない」と吐き出されたということが書いてあると「わかる」。そこに書かれていることばを、その書かれているままではなく、私は無意識に「標準語」にして(いや、私のことばにして)読み直している。同時通訳みたいに、同時進行的に、そういうことをしている。
 そして、そのとき「意味」とは別に、「音」にも反応している。「うまくない」「うまぐねぇ」がぶつかりあいながら、「うまぐねぇ」という「音」に「標準語」にはない「強さ」を感じる。「ことばの肉体」を感じる。私の喉や口蓋、舌とは違った動きをする「肉体」をそのまま「ことばの肉体」として感じてしまう。この「音(声)」で語りつづけてきたものがあるのだということが、不思議な感じで迫ってくる。
 粒来の詩は散文詩。そこには論理がある。事実をつみかさねて動いていく。この詩のなかにも「論理」はあるだろうけれど、それをたたき壊すくらいの強さで、「音」がある。私が口にしない「音」が動いている。その音といっしょに「肉体」がくっきりと見えるように感じてしまう。私とは別の、けれども同じ「いのち」を生きている「肉体」というものを感じてしまう。蛇に呑まれ、吐き出された蛙のストーリー以上のものを感じる。
 その「肉体」の感じのなまなましさが、「蛙」の体験を、まるで「私とは別の人間の体験」のように感じてしまう。蛙のことを書いているのに、私は蛙ではないのに、蛙になったみたい……。
 この詩を「標準語」で読んでもそう感じるかもしれないけれど、「方言」の方が、より強く感じると思う。「方言」の音が、これは私ではないと印象づける。「私」を引き剥がしてしまうのかもしれない。「私」が引き剥がされて、「私」以前の何か(いのち?)になって、その何か(いのち)が蛙につながるのかなあ……。

 蛇の喉朱(あげ)ぇがった。咥(くわ)え込まれだ時、眼(めだま)開げだらば、蛇の喉の朱(あげ)ぇトンネルの奥で、先に呑まれた誰かがおいでおいでしていだ。こっちさござってなぃ。おれの躰奥の方さどんどんずれ込んで、もう一寸(ちょっと)だんたんだ、あそこさ届ぐの--。もういいんだべがなと思って眼(めだま)開げだら、急にペッと吐(く)ん出されちまった。おれはよぐよぐうまぐねぇみでぇだなぃ。
 蛇がくり返(けえ)しゆってだ。おめえうまぐねぇぞって。知ってるわぃとおれはゆった。おれは肩を怒らせて蛇を睨(にら)んだげんちょ、だめだったんだわぃ。おれってばそん時蛇の消化液で躰が溶(とろ)けて、緑色の体色がもう斑(ぶち)ていだんだ。--ペンキの剥げた犬小屋みでぃで、おれ寂しかった。蛇はゆった。おめえうまぐねぇぞって。そしてニヤリとした。蛇の笑い寒(さぶ)かったぞぃ。

 喉の朱色、消化液でとけて緑色がぶちになっている、というような蛇の肉体、蛙の肉体の表現がなまなましい。野性のむき出しのいのちの形を思う。「ペンキの剥げた犬小屋みでぃで、おれ寂しかった」の、突然の「犬小屋」の描写が蛙と人間をごちゃ混ぜにする。蛙なのに、蛇になったり、人間になったりする。非論理的なのだが、その非論理的な動きの底に「いのち」が動いている。「方言」の「音」がそれを強くしていると感じる。ストーリーではなく(論理でもなく/意味でもなく)、その語り口に何か「いのち」を感じる。

 「音」そのものについても、こんなことを考えた。濁音が多い。「か行」はその音が後ろにくると濁る。「うまく」→「ぐ」、「朱(あかい)(あけぇ)」→「げぇ」。先頭の「は」は消えてしまう。「吐き出す」「はきんだす」→「くん」。子音のHとKは音の出し方に似通ったところがある。無声音だ。GとHも、ある外国語では似ている。Gは有声音で、発音しやすいということがあるのかもしれない。TがDになるのも有声音の方がエネルギーをあまりつかわずに発音できるからかもしれない。口を大きく開けなくても発音できる--というのが、粒来の書いている方言の音の特徴かもしれない。口先で音を区別するのではなく、喉の奥で音を豊かに響かせるのがこの方言の特徴かもしれない。
 そういうことを思いながら、

 寂(さぶ)しかったな、おれ……。んだっておれ軽蔑(ばか)にされちゃったんだぞぃ。一度呑まれで吐んだされるなんて恥辱(はじ)だばい。

 という部分を読むと、「ばか」「はじ」という音が「特別」であることがわかる。「ばか」「はじ」を強く意識している。そのことばを明瞭に語ろうとしていることが、わかる。強い反発心が「ばか」「はじ」と言わせている。黙読で読んでも、異様に感じるが、この方言になじんでいるひとの朗読でこの詩を聞けば、「ばか」「はじ」という部分で、私はどきっとしてしまうかもしれない。ほかのことばとは違った響きが稲妻のように光って聞こえるかもしれない。
 こういうことは「意味」ではない。「論理」でもない。
 ことばを聞いて(読んで)、感じる「ことばの肉体」そのものの印象である。
 「方言」で書かなければならない必然がそこにある。「標準語」が覆い隠している「肉体」を浮かび上がらせる力--それをこの詩に感じた。
蛾を吐く―詩集
粒来哲蔵
花神社

谷川俊太郎の『こころ』を読む
クリエーター情報なし
思潮社

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