詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

椅子を持ってきてほしい、

2016-03-23 00:00:00 | 
椅子を持ってきてほしい、

「椅子を持ってきてほしい」と言ったのは、隣に座ってほしかったからだ。このことばは、たいていの場合、誤解された。「隣」ということば、その書かれていない「距離」が誤解を生むのである。けれど「座る」の方が、願望である。座って、通りすぎるものを見つめていたい。

思い出せるだろうか。「秋には葡萄を買った」と言った理由を。いつも通りすぎるだけの店で立ち止まった。古くさい紙に一房つつんでもらった。やわらかく皺を抱いているが葡萄の匂いにそまった。あのときわかったのだ。「私は、もう匂いを食べるだけで十分満足だ。」

窓から見える空には、羽の生えた雲が。

それは、ほんとうにあったことなのか。あるいは思い出したいと思っているだけのことなのか。いまは、どの季節にも葡萄が売られている。そして、どの月日にも、そのひとはいないのに、だれも座っていない椅子を見るたびに「椅子を持ってきてほしい」ということばがやってくる。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

石毛拓郎「ウラン、人形峠」

2016-03-22 09:54:26 | 詩(雑誌・同人誌)
石毛拓郎「ウラン、人形峠」(「飛脚」14、2016年03月11日発行)

 石毛拓郎「ウラン、人形峠」には注釈がついている。私はめんどくさいので注釈などは読まない。注釈は活字が小さいのは嫌いだ。石毛の注釈は、活字が偏平になっているのでなおさら読みにくいから、絶対に読まない。
 つもりだったが、なぜか目に入ってきてしまった。「構成した」という文字が。で、その注釈を端折って引用すると、

ジャーナリスト土井淑平氏の『原子力マフィア』等の著述を、参考に構成した。

 この「構成した(構成する)」という「動詞」が、なかなか、おもしろい。
 きのう和田まさ子の作品に触れて、和田は「他人」に触れることで、自分のなかに見落としていたものを発見する。「他人」に誘われるままに、自分ではなく「なる」、何かになってしまうという「特技」がある、と書いた。
 石毛は、和田とはまったく逆だ。
 「他人」に触れる。そして「他人/自分とは違う人間」を発見すると、その「他人」のなかに、自分の肉体が押さえこんでいたもの、「うさんくさいもの」をぶちこんでしまう。さらに別の「他人」の肉体が抱え込んでいる直接的な生理さえも投げ込む。ある原子と別の原子を組み合わせて(構成して)、新しい「物質」をつくりだすように。それはもう「他人」であって「他人」ではない。見たこともない「新しいだれか」である。「新しい人間/そこにいるのだけれど隠れている人間」だ。
 で、この「自分のなかにあるもの/しかし自分では背負いこみたくないもの/うさんくさいもの」、あるいは「自分が背負いこんでいたかもしれないもの」を「他人」にまかせてしまい、「他人」を「社会」として「構成」しながら「現実」を描く。
 だから石毛の詩は「私詩」というか「抒情詩」というセンチメンタルなものにはなりえない。
 
 乱暴を承知で言えば、そういう感じ。

 そういう感じと書いてしまえば、それで「感想」は終りなのだが、あまりにもいいかげんに、急いだ文章だなあと思い、少し言い直してみる。
 人形峠(鳥取県)ではウランが取れる。(社会科の教科書に書いてあったし、テストには必ずその問題が出た。)ウラン鉱が何かよくわからないが、まあ、貴重なもの、大事なものである、というのが、そのころの社会の教科書を読む子供の「知識」である。これは、たいがいの、そのあたりの大人の「知識」とかわりがない。
 そこで、どういうことが起きるか。

だれが、触れ歩いたか?
「ウラン鉱泉」
霊験、あらたか!
効能、バッチリとは
まったく、どうかしている。
ウラン鉱石を、湯の花に……
袋に詰めて、観光みやげの名物に
拍手喝采!
村おこし。
鉱石のクズを、ビニール袋につめこんで
売り出そう。
まったく、どうかしている。
鉱石ひとかけら、風呂湯のなかへ
「病、ふっとぶウランちゃん」
どうだ、このキャッチフレーズ!
「厄災魔を払う、ウランちゃん」
どうだ、このフレーズは!

 「まったく、どうかしている。」というのは、「いま」から言えることであって、はじめて「ウラン鉱石」というものに出会ったときは、そんなことは言えないなあ。「ともかく貴重なものらしい」「貴重なら、きっとクズでも金になる」。そんなことを考えるのが人間である。
 「正しい知識」というのは、何が金になり、何が金にならないか。つまり、何が「生活」の役に立つか、何が役に立たないか。役に立てるためには、そこにあるものをどうすればいいか。そういうことを「つくり出していく」のが「正しい知識」である。

「病、ふっとぶウランちゃん」
どうだ、このキャッチフレーズ!
「厄災魔を払う、ウランちゃん」
どうだ、このフレーズは!

 これは、「正しい知識」なのである。「科学的」には間違っている、危険な知識であるが、「生活的」には「正しい」を通り越して、「それしかない」絶対的な知識である。「欲望の知識/本能の知識」と言ってもいいかもしれない。
 こういうものは、人間ならだれでも持っている。
 石毛は、「他人」を見つけると、「他人」に自分の「過去の間違い」を押しつけ、どうしようもなさを「客観化」する。自分も昔はウラン鉱石が危険なものとは知らなかった。原子力(放射能)がどれくらい危険なものか知らなかった、と書いても、それは何だか味気ない。いきいきとしない。間違っているときの方が、変な言い方だがいきいきしている。
 で、こういうことを書いて、どうなるのか。
 論理的に説明するのはむずかしいが、「感覚の意見」として書いておけば、「いきいきした間違い」の方が、「間違い」がくっきり見える。「間違い」を否定するには、それを「鎮静化した間違い/整理された間違い」ではなく、増殖していく力をもった間違いとして描きださないと効果がないのだ。
 「暮らしの知識」は往々にして「無知の知識」である。その「無知」を批判するには、「整理された無知」ではなく、「未整理の無知/無秩序の無知」としていきいきと動かさないかぎり、「危険」が浮かび上がらないのだ。「危険」が「生理反応」としてひびいてこないかぎり、ひとは危険に気がつかない。批判は「論理」だけでは力にならない。「生理反応」にならないと力にならない。
 そういう「生理反応」としての「批判」を育てるためには、「未整理の無知/無秩序の無知/無知な生理反応」のレベルで向き合う必要があるのだ。「危険」を「生理反応」にまで近づけなければ、批判は力にならない。
 「うさんくささ」がもっている「いきいき」をさらに「いきいき」させるために、石毛は「他人」を「構成する」。「隠れている人間」を浮かび上がらせる。これは「現実」を「うさんくささ/生理のレベル」で再現することと言い直していいかもしれない。自分の持っている「うさんくささ」を武器にして、その「うさんくささ」を批判させることによって、「権力の論理」を「うさんくささ」のレベルにひきおろし、それを不意打ちするようにたたきはじめる作戦と言えるかもしれない。

 ここで、とんでもない「飛躍」をすれば……。

 東京電力福島第一原発の事故があり、その問題が何一つ解決しないのに、原発が再稼働しはじめている。良識あるひとが、その危険性を指摘している。しかし、それは「論理的」すぎて、力にならない。「いきいき」した感じが欠けている。だから、おもしろくない。「批判/他人への攻撃」というのは、鬱憤晴らしとしてとてもおもしろいものであるはずなのに、「いきいき」がないと、おもしろくない。理屈をこえて、「生理的」に「こっちがいい」という判断につながらない。
 国が(安倍が)安全だと言っている。国の検査機関が「安全」を「論理的に証明している」という「論理」の前で、いま流通している批判は半分「無力化」している。
 「論理」なんて、どうにでもなる。「論理」はいつでも「自己完結」する。「危険だ」という「論理」は「危険」というなかで「自己完結」し、「安全」という「論理」は「安全」のなかで「自己完結」する。
 それは矛盾するにもかかわらず、衝突しない。ぶつかりあわない。離れて、並列して存在してしまう。
 「安全」という「論理」には、経済活動のためには電力がいる、という論理がぶら下がり、豊かな暮らしをするためには経済活動を優先しなければならないという論理がぶら下がり、ぶら下がりながら、「安全」を補強する。
 「頭の論理」に対して「頭の論理」で闘うのは大切なことだが、同時に「頭の論理」に対して「生理の論理」で闘うことも必要なのだ。「安全」と主張する「論理」を「生理のレベル」にまでひきおろし、「生理」と「生理」をぶつけあわないと、状況は「権力の論理」に押し切られてしまう。
 押し切られないようにするためには、「無知の力/生理の力/本能の力」を引き出さなければならない。「無知のなまなましさ」をさらけだし、それの「なまなましい」という場へ「権力の論理」をひきおろさなければならない。「権力(安倍)なんて、結局、自分さえ金がもうかれば他人なんかどうだっていいと思って原発を動かしている」という「なまの感じ/自己本位の欲望」にまでひきおろして、そこから反撃するしかない。「安倍がやっていることは、ウラン鉱石の危険性を知らずにおみやげをつくろうとした人間のやっていることと、同じ」ということを、「生理的」に感じさせ、それとぶつかりあわないといけない。
 しかし、そういうことはむずかしい。
 だから、開き直って、「暮らしの無知」をさらけだし、この無知に対して「権力の論理」はどう修正を施すことができるか、それを問いかける必要がある。
 ウラン鉱石の残土さえ危険なら、それをおみやげにできないくらい危険なら、どうして原子力発電が安全だといえるのか、そういう「ばかげた」質問から生まれてる「答え」もあるはずだ。「生理の正しい力」が何かを引き出すだろう。

 どうも、ごちゃごちゃするばかりで、うまくことばが動かない。
 また、「感覚の意見」で「飛躍」してしまおう。
 石毛は、書くこと(見聞きしたことばを「構成すること」)で、現実との向き合い方をととのえている。どこに現実と向き合える「場」があるか探している。その場がどういうものかわからないが、「論理」を「生理」にひきおろした場というのが、石毛のめざしている場なのだと思う。
 石毛の「他人」の書き方をみると、「まったく、どうかしている」と言いながらも、その「どうかしている」もののなかに動いている「力」に寄り添っている感じがする。「どうかしている」から否定するというのではなく、「どうかしている」からととのえなおせないかと、そこへ近付いていく感じがする。「生理」を信じる力を感じる。「まったく、どうかしている」ということばには、俗なことばで言えば(うさんくさいことばで言えば)、「愛」がある。

石毛拓郎詩集レプリカ―屑の叙事詩 (1985年) (詩・生成〈6〉)
石毛 拓郎
思潮社

*

谷内修三詩集「注釈」発売中

谷内修三詩集「注釈」(象形文字編集室)を発行しました。
2014年秋から2015年春にかけて書いた約300編から選んだ20篇。
「ことば」が主役の詩篇です。
B5版、50ページのムックタイプの詩集です。
非売品ですが、1000円(送料込み)で発売しています。
ご希望の方は、
yachisyuso@gmail.com
へメールしてください。

なお、「谷川俊太郎の『こころ』を読む」(思潮社、1800円)と同時購入の場合は2000円(送料込)、「リッツォス詩選集――附:谷内修三 中井久夫の訳詩を読む」(作品社、4200円)と同時購入の場合は4300円(送料込)、上記2冊と詩集の場合は6000円(送料込)になります。

支払方法は、発送の際お知らせします。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

和田まさ子「理想的な目覚め方」

2016-03-21 11:10:03 | 詩(雑誌・同人誌)
和田まさ子「理想的な目覚め方」(「地上十センチ」11、2016年02月28日発行)

 和田まさ子「理想的な目覚め方」にはおもしろい部分と、つまらない部分がある。

眠っているあいだに
いくつもの物語の主人公になり
忙しかった

疲れて目覚めると
わたしというかたちだけがあって
なかみがない生き物になっている
という理想的な目覚め方がしたい

 これは書き出し。快調である。特に「なかみがない生き物になっている」がいい。「なる」は和田の特技だ。それより前に「いくつもの物語の主人公になり」にも「なる」があるが、これはいままでと同じ「なる」。今回の「なる」は「なかみがない生き物」。どんなものか、すぐにはわらかないが、なんとなく「わかる」。それいいなあ、と思ってしまう。
 ところが、このあと、

帰ってくるときに
いつも新しくなりたい
もう
充溢ということは
いらない
わたしはからっぽで

 ここは、「説明」がしつこい。
 「新しくなりたい」にも「なる」が隠れているが「なりたい」と「願望」のままで、「なる」にはなっていない。
 この「新しくなりたい」の「新しく」は「なかみがない」ということと重なるのだが、それを「説明」しているから退屈。
 ほかの読者はどうか知らないが、私は、和田の「なる」をとおして、私も何かになってみたい。そのとき私が「なる」ものは、和田が書いているものと違うかもしれない。つまり、私は和田を「誤読」しているかもしれないが、「誤読」という批判を、私は気にしない。読んでしまえば、詩は作者のものではなく読者のもの。作者が何を考えていようが、そんなことは関係がない。
 たぶん、和田は、「なかみがない生き物」というのが何のことかわからないと言われるのを恐れて「説明」している。私は「説明」なんか聞きたくない。むしろ、和田のことばを「誤読」したいのである。
 和田は「なかみがない」を「充溢」ということばと対比させている。さらに「からっぽ」ということばで補足しなおしている。「なかみがない」を「虚無」だとか「空虚」と言ってしまうと、その「なかみ」が「意味」になってしまう。だから「なかみ」を「充溢ではない」と否定形で語りなおしているのだが、この否定形で語りなおすというのは、ことばを「論理」にしてしまう。「論理」というのは、どれだけ「無意味」を書こうとしても「論理」というの「意味」を持ってしまう。これが、つまらない。
 「論理」にも詩はあるかもしれないが、詩は「論理」ではない。
 たぶん、そういうことをうすうす感じるから「からっぽ」という軽い(?)ことばで「充溢」の否定を言い直すのだが……。
 ああ、うるさいなあ、としか私には感じられない。

 私が和田のことばにおもしろさを感じるのは、「他人」との出合い方が独特だからである。「他人」に出会うと、「他人」に影響を受ける。影響を受けると、自分のなかに見落としていたもの(ことばにしてこなかったもの)が動き出す。それは、「いま」の和田を突き破って動く。それが「なる」という瞬間の動きだった。
 私は、そんなふうに和田を読んできた。
 でも、この詩では「他人」がいないのだ。「他人」が登場しないから、「わたし」は何かになろうにも、「なれない」。「なる」ということばが何度か書かれるが、ほんとうは「なる」になっていない。
 途中を省略して三連目。

帰ってきたら
この町が一変していた
梟を肩に止まらせて
自転車に乗っていた人が見えない
大学通りに夕暮れがすとんときて
飲み屋のまっちゃんは移転するという

 「梟を肩に止まらせて/自転車に乗っていた人」が現実にいるかどうか知らないが、「物語の主人公」のようなものだろう。「背景/過去の時間」は、その登場人物にはあっても、「ない」。「物語」に従属してしまっていて、「物語」を突き破って動かない。「飲み屋のまっちゃん」は「物語」の登場人物というよりは「現実」の人間として書かれているのだろうが「移転する」という「未来」は書かれていても、肝心の「過去の時間」がそこには「ない」。「意味」が書かれているだけで、「他人」が和田の肉体を突き破って内部に侵入し、突き動かし、突き動かされるままに、和田が「他人」になって動いてくという運動がない。
 「他人」の「過去の時間」が「ない」、和田の「いま」に噴出してきていない。だから和田はその「他人」に影響を受けることがない。だから、和田は何かに「なる」ということができない。

いつか消える
きっと滅びる
それまでの冬を
つま先で
やさしく踏んで、

 この最終連の、それっぽい終わり方が、いやだなあ。嫌いだなあ。「それまでの」という「過去」の出し方、それをひっくりかえすようにして「つま先」と「先」へ時間を動かすやり方、「踏んで、」という読点で終わる呼吸の形。
 「現代詩」の「癖」(現代詩として評価される語法、スタイル/論理)で締めくくられても、おもしろくない。「現代詩」には「なる」だろうけれど、「詩」にはならないなあ、と思う。
 「上手」と「詩」は共存できないものなのだ。
なりたいわたし
和田 まさ子
思潮社

*

谷内修三詩集「注釈」発売中

谷内修三詩集「注釈」(象形文字編集室)を発行しました。
2014年秋から2015年春にかけて書いた約300編から選んだ20篇。
「ことば」が主役の詩篇です。
B5版、50ページのムックタイプの詩集です。
非売品ですが、1000円(送料込み)で発売しています。
ご希望の方は、
yachisyuso@gmail.com
へメールしてください。

なお、「谷川俊太郎の『こころ』を読む」(思潮社、1800円)と同時購入の場合は2000円(送料込)、「リッツォス詩選集――附:谷内修三 中井久夫の訳詩を読む」(作品社、4200円)と同時購入の場合は4300円(送料込)、上記2冊と詩集の場合は6000円(送料込)になります。

支払方法は、発送の際お知らせします。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

トム・フーパー監督「リリーのすべて」(★★★★)

2016-03-21 09:35:08 | 映画
監督 トム・フーパー 出演 エディ・レッドメイン、アリシア・ビカンダー

 男と女は、どこが違うか。
 触覚が違う。これは、ジェーン・カンピオンの映画から私が感じたことであって、ほんとうにそうなのかどうかはわからないのだが。
 ジェーン・カンピオンは「ピアノレッスン」「ある貴婦人の肖像」で触覚を官能の入口として描いていた。「ピアノレッスン」はピアノそのものが指で触れるものだが、ハーヴェイ・カイテルがピアノの下にもぐりこみ、ホリー・ハンターのストッキングの穴から足に触れるシーンがなんとも魅惑的だ。穴から触れられてホリー・ハンターが一瞬動揺する。それはセックスの始まりというよりも、エクスタシーに近い。何か、自分自身でストッキングの穴を探して、自分で触っている感じだ。穴があることを知っているから、触られている感じが強まる。触られているのに、触っている感じ。自分の発見。そこを触ってほしい。ほしくない。いや、触ってほしい。それが、そのまま、ピアノを弾く指の動きになる。「ある貴婦人の肖像」では冒頭、ニコール・キッドマンがベッドの飾り房に顔を触れさせ恍惚とした表情を見せる。これもセックスの始まりというよりエクスタシーである。
 ふたつの映画で私が感じたことは、「触る」感覚が、男と女では違うということ。男は何かに触るとき、触られているとは感じない。あくまで触っているのだが、女は触りながら、同時に触られていると感じるのだろう。「ある貴婦人の肖像」のシーンで特に感じたのだが、顔に飾り房が触れるとき、その飾り房はニコール・キッドマンの指そのものなのである。男の指というよりも、その指の動きを思い出し、もっと理想的な指そのものになっている感じだ。
 で、この映画。エディ・レッドメインが、妻のアリシア・ビカンダーの絵のモデルのバレリーナを訪ねるシーン。楽屋(?)裏を通る。衣装がたくさんぶら下がっている。それにエディ・レッドメインが指で触れながら歩いていく。これを見た瞬間、私は、カンピオンのふたつの映画を思い出したのだった。このとき、エディ・レッドメインはまだ自分のなかに存在する女に気がついていないのだが、指の方が先に気がついている。衣装に触りながら、指が衣装に触られる。その官能から離れられない。それが、おもしろい。この「指」の目覚め(?)は、そのあとストッキングに触るシーン、さらにバレエの衣装の感触に引き込まれていくシーンと繰り返される。衣装は、女にとっては「肌(肉体)」そのものであり、衣装に触れることは肌に触れることであり、衣装に触れながら女は衣装が自分の肉体を愛撫してくるのを感じている。触れること/触れられることが一体になっている。触れる/触れられるが女のなかで「完結」している。
 このときのエディ・レッドメインの指の演技が、とてもおもしろい。目やからだ全体も演技するのだけれど、特に手が演技する。その手の演技は、最初は過剰である。女を発見し、女をなぞっている。学んでいる。手本を「他人」にもとめているところがある。モデルを探している。そのために、覗き窓へ行って、女がどんなポーズをとるのか、手はどんなふうに動かして男を誘うのかを研究(?)したりする。目で女を盗み、手で女を生きる。
 しかし、だんだん女そのものになると、(自分の「ほんとう」が女であるとわかってくると)、不思議なことに、過剰な手の動き(手の演技)は影をひそめる。手は女であることを強調しなくなる。これが、この映画のいちばんおもしろいところかもしれないなあ。からだは痩せて、弱い女のようになるのだが、演技そのものは女を強調しなくなる。わざとらしさがなくなる。女になろうとするのではなく、女になってしまった感じなのだ。
 最初の方では、エディ・レッドメインは男物のスーツを着ているときの方が全体が女っぽい感じ。ドレスを着ると肩の大きさ、手の大きさが目につき、男っぽさが目につく。だから、手で女を演じる必要があったのだろう。けれど、ストーリーが進むに連れて、手の演技をしなくなるにしたがって、ドレスがからだになじんで、男っぽさがなくなる。女を見ている感じになる。演技を見ている感じがなくなる。違和感がなくなる。
 これは、不思議。いやあ、おもしろいなあ。
 アリシア・ビカンダーは、対照的に、「演技」をもっぱら「内面」に集中させている。「肉体」の変かは「目」だけである。最初から最後まで、女の肉体である。まあ、あたりまえなのだけれど、エディ・レッドメインがどんなふうに変わろうが、アリシア・ビカンダーはエディ・レッドメインを愛したときのままの女である、というのが、女の強さをあらわしていて、おっ、すごいと思う。
 男は動揺するが、女は動揺しない、と言い切ってしまうと、いろいろな反論が押し寄せてきそうだが、女はかわらないのだ、きっと。この映画のなかでは、アリシア・ビカンダーは変わらないことによって、エディ・レッドメインを支えつづける。エディ・レッドメインがどんどん変わっていくが、アリシア・ビカンダーは最後まで変わらない。変わらないまま、空に舞うスカーフにエディ・レッドメインが見た「凧」を見たりする。
 この「かわらない」ことを演じつづける演技力というのは、すごい。
 最後になって、リシア・ビカンダーはエディ・レッドメイン(夫)を支えつづけただけではなく、この映画そのものを支えつづけていたのだと気がつく。リシア・ビカンダーはこの演技でアカデミー賞(助演女優賞)を取っているが、なるほどなあ、と感心した。
                       (2016年03月20日、天神東宝4)





「映画館に行こう」にご参加下さい。
映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
https://www.facebook.com/groups/1512173462358822/
英国王のスピーチ コレクターズ・エディション(2枚組) [DVD]
クリエーター情報なし
Happinet(SB)(D)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

豊原清明「三枚シナリオ『雀、ポツンと。』」

2016-03-20 09:50:30 | 詩(雑誌・同人誌)
豊原清明「三枚シナリオ『雀、ポツンと。』」(「白黒目」60、2016年03月発行)

 豊原清明「三枚シナリオ『雀、ポツンと。』」の、最初のシーン。

○ まさおの日常「公園」(朝)
  まさおが、公園に来る。鳩が群れて来る。
  両手をあげて、おっぱらう、まさお。
  雀にだけ餌をやる男。
まさおの独白「恋なんて遠き街へと去ってゆく鳩みたいなもの我は雀だ!」

○ まさお、ぼうっと、口を開けて、立っている

 「恋なんて……」は短歌。その前に書かれている「情景」が、ぴったりと重なる。いや、ぴったり重なるというのは変か。鳩を追っ払い雀に餌をやる男(まさお)が何を感じているかが、「情景(描写された過去)」にもどって、それを「いま」に引き返させて、その「いま」のなかに「心情」を噴出させるといえばいいのか。
 「情景(見たもの)」が短歌(ことば)のなかで、もう一度動く。しかも、そこに「自己主張」がある。それも、とても奇妙な「自己主張」だ。雀に餌をやっているはずなのに、短歌のなかでは餌を食べている雀になっている。餌をやりながら/餌を食べる雀になっている。この接続と切断の間に「恋」が割り込んでいる。恋が餌をやる/餌を食べる/ここにいるということのなかに割り込み、「情景」を切断しながら、接続させる。
 男(まさお)を、情景のなかに埋め込み、同時に浮かび上がらせる。
 しかも、その男(まさお)の「描写」が「センチメンタル(恋)」に染まっていない。孤独/悲しみがあるはずなのだけれど、「悲しい」という「意味」に染まっていない。うつむいたり、肩を落としたり、自分の影を見つめたりしていない。
 「ぼうっと、口を開けて、立っている」
 無。
 何もない。その何もない男のなかで、「恋なんて遠き街へと去ってゆく鳩みたいなもの我は雀だ!」が過激に動いている。その過激さが、男を、そこに立たせている。
 情景と男は、共存しているけれど、「意味」を通い合わせない。通い合わせないことによって、そこに、いままでの「情景(文学)」の「定型」を破り、「事実」として、過激に(過剰なものとして)生まれて来る。
 豊原のシナリオは、いつでも「事実」を生み出している。

 次のシーンは教会で洗礼を受け、キリスト教徒になったあとのことを描いている。やはりまさおの独白がある。

何処からかやってきたりし君が群れ聖徒になれどひと恐ろしき

 たぶん、ひとが恐ろしいからキリスト教徒になったのだろうけれど、救われることはなく、逆に恐ろしさが増して来る。
 この矛盾。
 「君」は「ひとり」なのに「群れ」になる。その「恐ろしさ」。「群れ」のなかで男(まさお)は、さらに「ひとり」になる。

 三つ目のシーンは再び公園。

○ 公園(夕)
  まさおが雀に餌をあげる。
まさお「マルコポーロポーン、マルコポーロポーン。」
  じつにうれしそうに食べる雀と、笑顔満面のまさお。
  まりなが通りかかる。
  まりな、じっと見て、プイとして、家に帰る。
  春夕焼け
まさお「(雀に言う)見てみい、きれいやぞ!」

 ここでも男(まさお)は男でありながら雀であり、雀でありながら男である。そのとき「雀」は「比喩」ではなく、何かもっと違ったものだ。「比喩」が成立するとき、そこには「自/他」の区別がある。ここには区別がない。区別がないけれど、雀と人間という「ふたつ」の存在としてあらわれている。
 この「ふたつ(まさおと雀)」が「ひとつ」であるとは、どういうことか。
 「場」が「ひとつ」なのだ。「場」のなかに「まさおと雀」という「ふたつ」が存在する。(ほかにも、まりなが通りすぎる形で存在する。)しかし、その「ふたつ」は「ふたつ」のまま離れて存在するのではなく、超越的なスピードで入れ替わり、往復する。
 ふいに、私は「遠心/求心」という俳句のことばを思い出す。
 何かが「自己」を突き破り、一気に外へ出ていく。何かが「自己」を突き破り、一気に内に入り込む。それが同時に起きる。すると、そこに「自己」ではない何かが「場」そのものとして生まれる。「場」が「事実」になる。
 そんな感じかなあ。
 そのとき「恋(ひと恋しき)」だとか「ひと恐ろしき」という「心情(自己主張)」とは無関係に、ただ「場」が「非情」として、生まれる。その「非情」がとても美しい。
「見てみい、きれいやぞ!」としか言いようなのない「場」。「見る」ときのみ、そこに生まれて来る「場(夕焼け)」。
 このときのことばは「独白」に見えるかもしれないが、独白ではない。「雀に言う」ときちんと書かれている。そして、矛盾を承知で書くのだが、「雀に言う」からこそ、「独白」にもなる。「矛盾」のなかで、詩が、瞬間的に生まれる。
 「マルコポーロポーン、マルコポーロポーン。」も、無意味な音が美しい。
 
夜の人工の木
豊原 清明
青土社
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

谷川俊太郎『女に』再読

2016-03-19 10:54:18 | 詩集
谷川俊太郎『女に』再読

 詩をどんなふうに読んでいるか、ということを話してみたいと思います。谷川俊太郎に「女に」という詩集があります。佐野洋子の絵といっしょになった詩集です。谷川は佐野と出会い、結婚し、やがて離婚します。「女に」は佐野と出会い、結婚したことを書いています。生まれる以前「未生」から「誕生」し、出会い、死ぬまでを男と女の生涯という形で書いています。

未生

あなたがまだこの世にいなかったころ
私もまだこの世にいなかったけれど
私たちはいっしょに嗅いだ
曇り空を稲妻が走ったときの空気の匂いを
そして知ったのだ
いつか突然私たちの出会う日がくると
この世の何の変哲もない街角で

 説明の必要のない、わかりやすい詩だと思います。この詩集で谷川は丸山豊賞を受賞しています。でも、私は、こんな簡単な、わかりやすい詩が好きではない。けなしたいなあ、文句をつけないなあ、と思いました。そして、最初は否定的な感想を書きました。しかし途中で、奇妙なことに気づきました。

会う

始まりは一冊の絵本とぼやけた写真
やがてある日ふたつの大きな目と
そっけないこんにちは
それからのびのびとしたペン書きの文字
私は少しずつあなたに会っていった
あなたの手に触れる前に
魂に触れた

 谷川が佐野と出会う詩です。「あなたの手に触れる前に/魂に触れた」というのは「サビ」、泣かせどころです。かっこいいですね。
 でも、私がびっくりしたのは、その直前の「私は少しずつあなたに会っていった」
という一行。ちょっと変なことば。「会っていった」というのが変。「出会いを深めていった」くらいの意味になると思います。「少しずつ」出会いを深めていった、なら、自然な日本語になるかなあ、と思います。そういうことを考えながら、もういっぺん読み返したとき、「少しずつ」は何気なく書かれているけれど、とても重要なことばだと気がつきました。
 「少しずつ」は「少しずつ、何かをする」というつかい方をしますね。谷川は、ここでは「少しずつ、していった」という形でつかっています。しかし、この「少しずつ」と「いった」はなくても「意味」は通じる。「私はあなたに会った」「私はあなたとの出会いを深めた」。
 でも、谷川は「少しずつ」と書かずにはいられなかった。書かないと、谷川の気持ちにあわないと感じたんだと思います。谷川は佐野と会ったということよりも、その出会いが「少しずつ」愛に変わっていったということを書きたかったんだ。そう気づいたのです。
 そうか、少しずつということが書きたかったのか」。そう思って詩集を読み返すと、
「少しずつ」はいたるところに隠れています。「少しずつ」ということばは書かれていないけれど、「少しずつ」を補うとよりわかりやすくなる詩があります。

指先

指先はなおも冒険をやめない
ドン・キホーテのように
おなかの平野をおへその盆地まで遠征し
森林限界をこえて火口へと突き進む

 これはセックスの詩。セックスというのははげしいのが魅力的だと思うのですが、この詩にははげしさがない。むしろ「少しずつ」を補って、おなかの平野をおへその盆地まで「少しずつ」遠征し/森林限界をこえて火口へと「少しずつ」突き進む、という感じ。

 「少しずつ」は別なことばで言い換えられているときもあります。

心臓

それはちいさなポンプにすぎないのだが
未来へと絶え間なく時を刻み始めた
それはワルツでもボレロでもなかったが
一拍ごとに私の喜びへと近づいてくる

 「一拍ごと」は「少しずつ」ですね。谷川は、佐野と出会い、少しずつ愛を発見し、少しずつ変わっていった。そういう「少しずつ」を「未生」から「死ぬ」までの、いくつもの瞬間に区切って、「少しずつ」書いたのか、と気づいたのです。
 そしてこの「少しずつ」が、この詩集の「キーワード」、思想の核心をあらわすことばだと思いました。
 「少しずつ、何かをする」というのが谷川の「思想」なんですね。
 思想とか、キーワードというと難解なことばを思い浮かべることが多い。けれど、私は逆に、身近で、わかりやすすぎることば、ついつい省略してしまうことば、そういうものこそ、その人の身に付いた考え方の根本だと思っています。
 自分にとって大事なことばは、大事すぎて、大事という感覚もなくなります。忘れてしまうくらい、からだにしみついてしまっている。たいていの場合、ほんとうに忘れてしまって、作品に書かれることはありません。
 それがときどき、書きたいことがうまく書けなくなると、突然、ことばを突き破って出てくる。先に紹介した詩のように。「少しずつ会っていった」というような、
ちょっと奇妙な形のことばになって、出てきます。
 こういうことばを探し当てると、詩がとても身近になります。ことばではなく、そこにその人がいるような感じがしてきます。
 私は「女に」で「少しずつ」ということばに出会うまでは谷川の詩は好きではありませんでした。でも、その後、谷川がことばのなかで動いている様子が見えるようになり、好きになりました。
 私は、そういう、好きになるきっかけのことばを探しながら詩を読んでいます。





女に―谷川俊太郎詩集
谷川 俊太郎
マガジンハウス
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

吉田文憲「滞留」

2016-03-18 10:20:46 | 詩(雑誌・同人誌)
吉田文憲「滞留」(「イリプスⅡ」18、2016年03月10日発行)

 吉田文憲「滞留」の書き出しの一行。

たどれない道をたどっている。わたしはだれの呼吸のなかを歩いているのだろう。

 うーん、かっこいい。魅力的だ。でも、かっこのよさに見とれてしまって、何が書いてあるかわからない。わからなくてもいいのが詩。かっこいいと感じれば、それだけで詩なのだけれど……。
 「たどれない」道を「たどっている」という矛盾が、まずかっこいい。その「道」が「だれかの呼吸」というのもかっこいい。「道」は「呼吸」なのか。「呼吸」が比喩かな? 道が比喩かな? 道というのは「ことば」かもしれないなあ、などと思ったりもする。「言ったこと」を「道」といういい方をするんじゃなかったっけ、とぼんやり思い出したりする。
 かっこいい、とだけ書いていたのでは感想にならないので、ゆっくり読んでみる。

たどれない道をたどっている。わたしはだれの呼吸のなかを歩いているのだろう。
りんごの匂いのなかを流れていた。その下に白く川あかりが見えていた。
その死後の生の残余の照り返しがなければ、その川からの遠い光がなければ、
ここには、おまえからの歌も、その声のどんな呼びかけも届かないだろう。

紙のように薄くなってしまった呼吸について。
あなたが姿を消したあともずうっと残りつづけるものについて。
その人がいなくなったことであらわになるものについて。

               わたしはなおもかんがえつづけなければいけない。

そこで生まれ、そこでたえず生まれつづけているものについて。

 二連目にも「呼吸」が出てくる。「死後/生の残余」(一連目)と「姿を消した/ずうっと残りつづける」(二連目)が重なり合う。「いなくなったことであらわになる」というのは「死んでしまったひとのことば/語ったこと/声」のようなものかなあ。「遺言」のようなものかなあ。「あれは、ああいう意味だったのか」と死んでからわかることもあるね。死んだあと「生まれ/生まれつづける」あれこれの思いか。
 そういう「あれこれ」を、まあ、特定しないまま、ぼんやりと考える。
 それから「わたし/おまえ/あなた/その人」と複数の人称が登場していることも気に留める。「だれ」という特定を避けた人称も登場している。
 「わたし」以外は「わたしとは別の人」の、複数の呼称だろうか。「おまえ/あなた/その人」は「ひとり」かもしれない。そのときどきの向き合い方で呼称がかわっているだけかもしれない。
 大切な人の残したことばを読んでいる。うまくたどれない。けれど、たどろうとしている。そのひとといっしょに体験したこと、りんごの匂いや、川明かりを思い出したりしている。生きているときは思い出さなかったけれど、死んでしまって思い出す(いなくなったことであらわになる)ということかなあ。
 わからないけれど、ともかく、そこには「複数」の人称が登場しているということだけは、間違いない。
 これが、後半、変化する。(私がかってに「後半」と読んでいるだけで、ほんとうは区別がないかもしれないのだが。)

わたしたちの声が届かない、べつのことばのささやかれる場所について。

呼び出された。隔たりを呼吸している。

葦の葉さきで、黒い帽子が動いている。
わたしたちは石切場の、赤土の崖の下を通り過ぎた。
わたしは浄水場跡の、真昼の暗がりに坐っていた。
見ていても見えないもの、目には生暖かい雨が煙るように降っていた。

ここにいて、ここを通り抜けて、
消えてもまだそこで息づいているもの。

労災病院の窓が照り返しに赤く光っている。川原に人影はない。
立つとめまいがした。

ここにはまだ来ないものの姿がある。

 後半は「わたし/わたしたち」という呼称しかない。「わたしたち」は「わたし」が存在しないことにはありえない「呼称」である。「わたし」が「わたしたち」という呼称を成立させている。そのとき「わたし」以外の「わたしたち」とはだれか。きっと「おまえ/あなた/その人」だろう。前半では状況に応じて別の呼称で呼んでいたが、後半では「わたしたち」と「ひとつ」の呼称で呼んでいる。
 「一体感」が強調されている。それは「かんがえつづけ」た結果なのかもしれない。考えるということは、対象と一体になること。
 そう考えると、「わたしはなおもかんがえつづけなければいけない。」を中心にして、前半/後半にわかれるのかもしれない。前半を後半で、考え直している。言い直していると読むことができるかもしれない。
 「そこで生まれ、そこでたえず生まれつづけているもの」は「その人がいなくなったことであらわになるもの」だろう。これは最後の方で再び「消えてもまだそこで息づいているもの」と言い直されている。
 「ここにいて、ここを通り抜け」「見ていても見えないもの」という矛盾は、「たどれない道をたどっている」という矛盾と重なる。「息づいているもの」は「呼吸」。「呼吸」のなかには「息」がある。
 「照り返し」ということばが一連目にあるが、前半と後半は、違いに照り返しながら何かを浮かび上がらせようとしているように思える。その浮かびあがってくる「核心」が、たぶん「呼称」の変化なのだ。「わたし/おまえ/あなた/そのひと」が「わたしたち」になる関係が、吉田が書こうとしているもののように感じられる。
 「わたしたち」は「一体」であるけれど、そこには「隔たり」がほんとうは存在している。「隔たり」は、「おまえ/あなた/その人」が死んでしまうと「肉体的/物理的」には「確定的」になる。しかし、その絶対的(確定的)な「隔たり」、けっして触れることのできない切断としての「隔たり」は、逆に、考える(想像する)ときにあらゆる「物理的障害」を「無」にしてしまう。消してしまう。「隔たり」というのは「おまえ/あなり/その人」と「わたし」が存在するときに「物理的」に生まれるが、一方がいないから「物理的」制約(条件)はなくなるから、考える(想像する)とき、それはないものとして考えることができる。
 この関係を「呼吸」ということばで「象徴」しているのかもしれない。「吸う」「吐く」という矛盾した動きのなかで成立する「呼吸」。
 「隔たり」は「ある」、同時に「ない」。そういうことは、「おまえ/あなた/その人」がいたときも、いなくなってからも、同じようにあったり、なかったりする。
 「おまえ/あなた」の「ことば」、その「意味」だけではなく、その「ことば」のなかの「呼吸」のようなもの、微妙なニュアンス。それは、「おまえ/あなた」の不在(死/姿を消す)によって、いっしょにいたときよりも鮮烈にひびいてくる。「隔たり」として、目の前にあらわれてくる。そして「隔たり」を感じれば感じるほど、逆に何かが「密着」を強くする。
 以前も「隔たり」はあった、「ことば/道」のすべてをたどれたわけではないのだが、その不可能な部分を「おまえ/あなた」の存在が隠していた。独りになってみると、その「隠されていたもの」が「隔たり」として見えてくる、ということかもしれない。
 「見えてくる」けれど、その「見える」は「わたしのなか」でおきていること。考える(想像する)ときの「見える」。「不在」が「見える」を可能にする。「隔たり」が「隔たり」を消す。「隔たり」は「ある」けれど「ない」。そこにある「こと」は「見える」けれど「見えない」、「見えない」けれど「見える」。
 そういうことを「呼吸(吸う/吐くという矛盾)」ということばのなかで語ろうとしているのかもしれない。

 そういうものを最後で、

ここにはまだ来ないものの姿がある。

 言っている。「わたし」がたどりきれない何か。「まだ来ない」の「ない」は「たどれない」の「ない」である。「たどる」ことができたとき、それは「来た」にかわる。ほんとうは「来ている」、けれど「姿をあらわしていない」が「滞留」ということだろう。そういうものが「ある」と「わたし」は「かんがえつづけている」ということなのかもしれない。
 何かしら、強い愛のようなものを感じさせる詩である。
生誕
吉田 文憲
思潮社
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

北川透「スーピ礁」

2016-03-17 09:12:18 | 詩(雑誌・同人誌)
北川透「スーピ礁」(「KYO峡」10、2016年03月01日発行)

 北川透「スーピ礁」は「海の配分(3)」のなかの一篇。

波間に見えたり……渦を巻いて
 見えなかったり……深く沈み込み
烈風や潮流にも……やかましくさわぐ
 夢想や政治にも……ねじくれた影になって
動かない位置が……粉微塵に炸裂し
 暗闇に吸収され……逆巻く
人工の暴力浴び……すべての記憶を漂白され
 消滅する日迫る……何の証しもなく

 詩はたいてい何が書いてあるかわからないものである。何が書いてあるかわからなくてもわかることがある。というか、「勘違い」し「わかる」と思うこと、できることがある。つまり、「誤読」できることが、ある。
 この詩で、私は何を「誤読」できるか。
 「スーピ礁」とは何か。「珊瑚礁」のようなものか。海のなかにあり、なおかつ隠れているもの。
 「波間に見えたり」「見えなかったり」するもの。一行目と二行目の前半に、そう書かれている。北川はつづけて書いていないのだが、私は、途中を省いて、そう「誤読」する。そして、「波間に見えたり」「見えなかったり」という定義(?)は「礁」に合致するなあ、と思う。
 このとき、私がしていることは、北川のことばを正確に読む、あるいは北川のことばに込めた意味を探るということではなくて、実は私が知っていること(覚えていること)を思い出しているだけである。北川のことばに、私の覚えていることを結びつけ、「わかった」と思っているにすぎない。
 言い換えると、私は北川のことばを読むふりをしながら、私の知っていることを語っているにすぎない。だから「誤読」。「誤読」だけれど(あるいは「誤読」だからこそ)、それは私の「認識」のなかでは「整合性」がとれてしまう。
 一度、こういう「整合性」ができあがると、「論理」はその「整合性」を守ろうとする。「論理」はかってに「論理」自体でひとつの世界をつくろうとする。
 北川は、この詩で「スーピ礁」を描写(説明)している、と私の「論理」は思い込む。「わからない」ところを無視して、「わかる」ことを都合よく組み合わせ、「論理」自体をもごまかしていく。「わからない」のに「わかった」ふり、つまり「嘘」をつみかさねていく。
 こんな具合に。
 一行目「波間に見えたり……渦を巻いて」は、「……」をはさんで、上に書いたことを下のことばで言い直している。「渦を巻いて」は「波」が「渦を巻いて」ということであり、「渦を巻く」ことで「波間」をつくり、その「間」に何かを「見える」ようにする、と読むことができる。上の部分(ことば)と下の部分(ことば)は、「補足」、違いに補い合う関係にある。
 あるいは「……」そのものが「スーピ礁」の「波(海/水)」と「隠れている礁」の接点であり、上に見える「波」の下には、そのことばでは描写できない別な存在が隠れているということをあらわしているのかもしれない。そのとき下のことばは「隠れているスーピ礁の岩」に密着した「海」の部分ということになる。
 二行目「見えなかったり」の「見えない」は「スーピ礁」が「深く沈み込」んでいるからである。あるいは「スーピ礁」ではなく、海中の波の動きそのものが「深く沈み込」んでいるからである。
 三行目。「烈風や潮流」は「やかましくさわぐ」ものである。
 四行目。ここで、詩は飛躍する。「スーピ礁」とは無関係に思われる「政治」ということばが出てくる。「夢想」は、まだ、嵐の海(「烈風/潮流/はげしくさわぐ」からの連想)や、「座礁」ということばとなって、「スーピ礁」と結びつくが、「政治」とは結びつかない。
 しかし。
 「渦を巻いて/深く沈み込み/やかましくさわぐ/ねじくれた影になって」ということばだけを取り出すと、「政治」をめぐる「運動」のように見えてこないか。「権力」への闘争の内部の動きに見えてこないか。
 「政治」が「比喩」なのか、「スーピ礁」、あるいは、その「海」そのものが「政治(社会/運動)」の「比喩」なのか。
 五行目。「動かない位置が……粉微塵に炸裂し」というのは、そのまま「権力闘争」の描写(比喩)に見えてこないか。「動かない位置」というのは「権力の構図」である。それが「闘争」のなかで、「粉微塵」に「解体(炸裂)」する。「動かない位置」にあったものが、その「位置」を固定化するものといっしょに「関係/結びつき」を失い、ばらばらに、「粉微塵」になる。
 それが六行目で「暗闇に吸収され」、吸収されながらも、その暗闇のなかで「逆巻く」。なおも「闘争」を繰り返し、乱れていく。ちょうど「礁」の見えない部分、海中で、波が「渦を巻いて/深く沈み込み/やかましくさわぎ/ねじくれ」るように。
 「政治」や「(権力の)夢想」は、このとき「スーピ礁」の比喩か、「スーピ礁」が「政治」や「(権力の)夢想」の比喩か。区別はできないが、ここでは、そういうものが互いの「比喩」になり、あるいは「現実」になり、相互に「他者」を刺戟して動いている。そういう「世界」が見える。「見える」と、私は「誤読」する。
 ここで繰り広げられる「闘争」は、七行目で「暴力」と言い直されている。「人工の」という修飾語がついているのは、それが「自然の」ではないことを「意味」するだろう。つまり、「人間の闘争=政治/夢想」を「象徴」していることになる。
 どこかの海に実在する「礁」ではなく、人間の意識のなかにある「礁」、「礁」が存在する「場/時間」をめぐることが、ここには書かれているのである。その「場」を、私は、北川が書いている「夢想/政治」ということばを手がかかりに書いてきたが、もちろん「夢想/政治」そのものが、もうすでに何かの比喩/象徴であるかもしれない。北川は私とは別のことを考えているかもしれない。しかし、そういう作者の思いとは無関係に、ただ、私は私が思い出せることを書いているのである。私自身の「記憶」が呼び出されている。
 私が思い出しているのは、いわば、私自身の「座礁」の「記憶」である。私自身は「政治的人間」ではなかったが。
 そういう「記憶」のあれこれは、やがて「漂白され」、八行目に書かれているように「消滅する」。そんなものがあったということを証明する「証し」もなくなる。はげしい波のなかで「礁」が消滅するように。
 あるいは、これは「過去の記憶」ではなく、「未来の記憶」かもしれない。いま起きている「渦を巻いて/深く沈み込み/やかましくさわぎ/ねじくれ」ている「動き」、その「動き」の中心にある「礁」も、「人工の暴力」によって破壊され、漂白され(漂白ということばのなかにある暴力!)、そういうものが「あった」ということさえ否定されるかもしれない。

 こういうことが、書いてあるのか。書いていないのか。

 それは、わからない。
 「わかる」のは「波間に見えたり/見えなかったり」を「渦を巻いて/深く沈み込み」と言い直すことで、「波間に見えたり/見えなかったり」だけでは言えないことを北川は書こうとしている。ひとことでは言えないことを別のことばで言い直すとき、そのことばの運動のなかに、言い直すという運動がほかのもの、たとえば夢想/政治という最初に描写していたものとは無関係なものが「比喩」のように重なり、いったん「比喩」が動きはじめると、こんどは「比喩」が主導権(?)を握ってことばを動かしていく。その結果、何が「現実」で何が「比喩」なのかわからないまま、ことばはかってにことば自身の「世界」をつくることがある、ということ。
 そういう「無軌道」というか、「ことばの暴走」に、私は「ことばの肉体」そのものを感じ、同時に「詩」を感じる。北川は単純に「風景」を描写するということを詩にはできない詩人であり、その、どうしても「風景」を逸脱してほかのものを書いてしまうということろに北川が詩人である「根拠/理由/肉体/思想」のようなものを感じる。
 で、「詩」なので、私は、これはどんなふうに自分勝手に読もうがいいのだ、とも思う。「誤読」を楽しむ。
北川透 現代詩論集成1 鮎川信夫と「荒地」の世界
北川透
思潮社
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

田中郁子「雨の影」

2016-03-16 08:33:09 | 詩(雑誌・同人誌)
田中郁子「雨の影」(「緑」35、2016年02月15日発行)

 田中郁子「雨の影」の書き出し。

部屋の暗さからのがれて外へ向かった
それは自分の暗さからのがれることであった
雨足がはげしく路上をたたいてはねかえっていた
誰だろうこんな日に
ためらうことなく水を踏んで歩かせていくものは

 ここで、私は立ち止まった。
 「歩かせていく」をどう読むか。
 「歩いていく」ではなく「歩かせていく」。
 ぼんやり読むと、「自分」(田中)は、部屋から外へ出た。外ははげしい雨。誰かが歩いている。その「誰か」を見て、こんなはげしい雨の日に「歩いていくのは誰だろう」と思った、という意味になるかもしれない。
 しかし、違うだろう。
 「部屋の暗さからのがれて」を「自分の暗さからのがれる」と言い直している。そこに誰かがいるとしても、田中はその誰かを気にしていない。「自分」だけをしっかりと見つめている。
 一行目と二行目は、ことばを入れ替えて、

自分の暗さからのがれて外へ向かった
それは部屋の暗さからのがれることであった

 と言っても、たぶん、同じなのだ。「部屋」は「自分」の「比喩」である。「自分の暗さ」は「部屋の暗さ」と同格である。「自分の暗さ」がなければ、「のがれる」という「動詞」も動かなかったはずだ。
 「自分」というもののなかに「暗さ」がある。その「暗さ」は「自分」からはみだして「部屋」に満ちている。「自分の内部」と「部屋の内部(室内)」が「等価/比喩」になり、入れ替わっている。そこから「のがれる」。
 このとき田中には「のがれる自分」とは別に「自分を描写する自分」がいる。どこかに「自分」を「客観視」する人間がいることになる。
 さらには「のがれる自分」のほかに「のがれる」ことを「勧める自分」というものがいるかもしれない。さらには「のがれさせる」という具合に田中に「強いる/強制する自分」がいるかもしれない。
 「自分」が「ふたり」、あるいは「三人」いるなら、何人いてもいいだろう。
 その「何人目かの自分」が、田中を、

ためらうことなく水を踏んで歩かせていく

 のである。
 「ためらう自分」がどこかにいる。はげしい雨だから。しかし、その「ためらう」という「動詞」を否定して、「歩かせていく誰か」がいる。そこには田中しかいないのだから、それは田中でしかない。
 この「歩かせていく田中」は「暗さに気づいた田中」である。「暗さに気づいた田中」は、

自分の暗さからのがれる/のがれて外へ向かった

 のだけれど、これは

自分のくらさからのがれさせる/のがれて外へ向かわかせた

 でもある。
 「のがれる」「外に向かう」は「自発」の行為であると同時に、「のがれさせる」「外に向かわせる」という「使役」の行為でもある。
 「のがれる/外へ向かう」も「意思」だろうが、「のがれさせる/外に向かわせる」という「使役」の方が「意思」を強調しているように思える。
 ここでは「意思」が動いている。その「意思の動き」の「強さ」が「歩かせていく」という「動詞」にこもっている。

 このあと、田中は石材店のガラス越しに店員(老人)と会釈を交わす。そのあと、

すると傘をもった路上のわたしが
同時にわたしに会釈している

 これは店のなかが暗いためにガラスが鏡になり、その鏡に「会釈するわたし」が映っているので、「わたしが/わたしに会釈する」という形になっている。
 これは偶然起きたできごとのようにもみえるが、最初から、そうなるようにことばは動いているだ。
 「暗さ」に映った「わたし」を、田中は最初から見つめている。「暗さ」が背後(奥)にあって、はじめてみえてくる「わたし」。それは「暗さ」に比べると「明るい」が、それは「見かけ」にすぎないだろう。

あいまいな苦痛をかくした貌だった
光と闇はわたしの生存にも
ほんとうの貌を与える時があるだろうか
わたしは外へ向かったのだが
傘をもったまま闇の奥に立っている
一刻もはやくその影からのがれて
外に向かわなければならない気がした

 「傘をもったまま闇の奥に立っている」はガラスに映った「わたし」。それは「物理的」にはガラスの表面に存在している「影」なのだが、「わたし」にはガラスの向こう側、部屋のなかにいるように見える。「像/イメージ」なのだが、「実在」のように見える。
 これは、いわば書き出しの反復。
 「暗さからのがれて」は「影からのがれて」と言い直されている。「影/イメージ」には「暗さ」がつきまとう。その「暗さ」を自分を限定する「枠」ととらえなおし、その「枠」を突き破って「外」へ行こうとしている。
 「影/イメージ」を「自分の内部(の問題)」と把握し、「外部」ヘ向かおうとしている。

 とは言っても。
 ほんとうに「外部」に向かう、自己の「枠」を破壊することを田中が願ってるかどうかは、わからない。
 むしろ、そういう「内/外」という構造のなかに生きている自分を発見したということが書かれているのだと思う。
 「歩かせていくもの」という「動詞」のなかにある「強い意思」の確認が、この詩のことばを動かしているように思える。

田中郁子詩集 (現代詩文庫)
田中郁子
思潮社

*

谷内修三詩集「注釈」発売中

谷内修三詩集「注釈」(象形文字編集室)を発行しました。
2014年秋から2015年春にかけて書いた約300編から選んだ20篇。
「ことば」が主役の詩篇です。
B5版、50ページのムックタイプの詩集です。
非売品ですが、1000円(送料込み)で発売しています。
ご希望の方は、
yachisyuso@gmail.com
へメールしてください。

なお、「谷川俊太郎の『こころ』を読む」(思潮社、1800円)と同時購入の場合は2000円(送料込)、「リッツォス詩選集――附:谷内修三 中井久夫の訳詩を読む」(作品社、4200円)と同時購入の場合は4300円(送料込)、上記2冊と詩集の場合は6000円(送料込)になります。

支払方法は、発送の際お知らせします。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大橋政人「名札」ほか

2016-03-15 09:40:08 | 詩(雑誌・同人誌)
大橋政人「名札」ほか(「ガーネット」78、2016年03月発行)

 大橋政人「名札」の全行。

休日が続くので
さすがに
人影もない

うちの奥さんは
道端の花壇で
小さな草花の前に
小さな園芸ラベルをさし込んでいる

プルネラ
ルイシア
ハナトラノオ

(みんな覚える気もないのに
(花の名前を訊いてくるんだから

作業の訳をぶつぶつ言いながら
次々とラベルをさしていく

公園に行けば
どの木にも吊るされ
昔々は制服の胸に縫いつけられ
本体を指し示し続けてきた名札

ヒソップ
レティマントル
バルンフラワー

本体の前に置かれた名前を見ると
いつも胸が騒いで苦しくなる

道行く人は
花を見てから名札を見るのだろうか
名札を見てから花を見るのだろうか

 どのことば、どの行が印象に残りました?
 私は、最初「(みんな覚える気もないのに/(花の名前を訊いてくるんだから」で笑った。こういうことって、あるね。それがそのまま「ことば」になっているから、おかしい。
 でも、これって、花の名前が知りたいから(名前を覚えたいから)聞くわけでもないよなあ。なんとなく聞く。きっと、「挨拶」みたいなものだと思う。「こんにちは」と言ったついでだね。そこに「奥さん」がいなかったら、聞かない。聞かなくても(知らなくても)困らない。
 と、いうようなことはどうでもいいのだけれど。大橋が書いているので、私も、書いてみただけ。
 次に、あれっと思ったのが「本体の前に置かれた名前を見ると/いつも胸が騒いで苦しくなる」。どうして、胸が苦しくなる? 最終連が大橋の答えなのかな? 「花を見てから名札を見るのだろうか/名札を見てから花を見るのだろうか」ということが気になり、「胸が苦しくなる」? なんだか、そういうことで苦しんでいる大橋がおかしい。
 それとも、「ぶつぶつ言いながら」作業をしている「奥さん」の苦労がむくわれるのか、むくわれないのか、それを気にしてこころを痛めている(胸が苦しくなる)のかなあ。よくわからないが、なんとなく、大橋のことを「おかしい」と感じる。
 くすぐったいような、おかしさ。大笑いではなく、くすっと漏れてしまうおかしさがある。
 たぶん、この「なんとなくおかしい」という感じだけで、この詩を読んだかいがあるというものなのだろうけれど……。

 私は、ちょっとほかのことばも気になった。

本体を指し示し続けてきた名札

本体の前に置かれた名前を見ると

 二回出てくる「本体」。「意味」は「わかる」けれど、うーん、こんなとき「本体」って言う? 私は言わない。私なら何と言うか。「本体」を読んでしまったあとなので、すぐには思いつかないが、こんなふうには言わないなあ。この、ことばで説明できない「ずれ」のような部分に、詩のはじまりがある、と思う。でも、これは、書きつづけるのがむずかしい……。
 中断して。
 「本体」って、何? 私は再び考える。ほんとうの体。広辞苑には「正体」と書いてあったが、「正体」はおおげさだなあ。「花の正体」などという言い方は私はしないからなあ。
 「指し示す」という「動詞」も気になる。
 「名札(名前)」って「本体」を「指し示す」もの?
 私は、そんなふうには考えたことはない。
 私は自分の名前が正確に、つまり親が呼んでいる通りに読まれる(呼ばれる)ことが少ないので、特にそういう感覚なのかもしれないが、「名前」は「便宜上」のものという感じがする。自分の「本体/正体」を「あらわしている」とは考えていない。
 で、ここ。
 私は「指し示す」を「あらわす」と無意識に書き換えたのだけれど、「指し示す/あらわす」という「動詞」が「名前/名札」で「交錯する」(入れ替わる)ということも、もしかすると、私がこの詩につまずいた理由があるのかもしれない。「つまずく」というとおおげさで、何か気になるなあという感じなのだけれど。
 「あらわす」は「指し示す」には少し違いがある。「あらわす」は「あらわれる」という形とどこかでつながっている。「指し示す」はもっぱら「他人」が「指し示す」。ところが「あらわす/あらわれる」は、「おのずと」あらわれる、という感じがある。「自発的」なものがある。「正体をあらわす/正体があらわれる」。
 私は、そういうところでつまずいている。「正体」と「指し示す」とは違う何かを感じながら、大橋の書いたことばの前を行ったり来たりしている。
 花の名前は、花を育てる人が自分で直接つけるわけではない。花は「奥さん」が「直接」育てている。けれど「名前」は少し違う。すでに誰かがつけたものである。つけたひとは「正体/本体」を「あらわす/指し示す」ことを願ってつけたのだろうけれど、なんらかの「意味」をこめてつけたのだろうけれど、「奥さん」は違うね。そのように「指し示す」ことを受け継いでいるだけだ。その「正体」をそのまま受け継いでいる。「あらわそうとしたもの/こと」を受け継いでいる。
 世界(世の中)には、こういう「受け継ぎ」がたくさんあるだろうなあ。
 それがきちんと「受け継がれていく」かどうか、ということも、もしかすると大橋は気にかけてるのかもしれない。それが気になり「いつも胸が騒いで苦しくなる」のかなあ。
 「騒ぐ」という「動詞」も、じっくりと見つめなおしてみないといけないかも。「騒ぐ」から「苦しくなる」のだから、大橋にとっては「騒ぐ」という「動詞」の方が大事かもしれない。
 さらっと読んで、くすっと笑って、あ、楽しい、ということで通りすぎてもいい詩なのだけれど、ちょっと考えてみたい問題がある、ということなのかなあ。

 もう一篇「天衣無縫」は「天人の衣には縫い目がない」ということから、ネコをみつめなおしている。ネコにも縫い目がないなあ。「ネコは/天衣無縫だから/天衣無縫である」という「同義反復(禅問答?)」があって

本体と動作
静態と動態
オソロシイことに
二つの間には
どんな縫い目もない

ネコの歩行のオソロシイほどの静かさ
ネコの跳躍のオソロシイほどの自由さ

 という具合に進んでいく。
 ここにも「本体」ということばが出てくるから、きっと、いまの大橋には「本体」がとても重要なテーマなんだろうけれど、それはそれとして置いておいて。
 「縫い目がない」なんて言ってしまえば、人間の肉体にも「縫い目がない」はないよなあ。「臍」が「縫い目」というのなら、ネコにもあるよ。少なくともネコの手足に縫い目がないというのなら、人間の手足にも縫い目はない。
 うーん、なぜ、「ネコ」を書いたのかな? なぜ、人間ではなかったのかな?
 ここにも、大橋の詩の「おかしさ」があるね。「おもしろさ」があるね。
26個の風船―大橋政人詩集
大橋 政人
榛名まほろば出版
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

高橋秀明「浸水する家族」

2016-03-14 10:33:06 | 詩(雑誌・同人誌)
高橋秀明「浸水する家族」(「LEIDEN雷電」9、2016年03月05日発行)

 高橋秀明「浸水する家族」を読みながら「比喩」について考えた。

幼年の僕は古びた木造アパートで母と二人で暮らしていた いや
父もいた いつも何かに怯える存在として その意味では三人で
暮らしていた アパートは二階建で暗い一階に便所と台所があっ
た 汲み取り式便所の深い便槽にはよく大きな溝鼠が出没した 
鼠はどこにでもいた 無知で必死な労働者のようにどこにでもい


 ここに出てくる「比喩」は「労働者のように」。直喩。「鼠」を「労働者のように」と言い換えていることになる。
 「文法(?)」上ではそうなるのだが、読んだ瞬間、違うことを考えてしまう。いや、感じてしまう。書かれていることとは逆に「溝鼠/鼠」の方が「労働者」の「比喩/直喩」なのではないだろうか。
 対象/比喩の関係を入れ替えて読んでみることも必要なのではないか。

きみは薔薇のように美しい/きみは薔薇だ

 こういう「比喩」も、「実感」をそのまま「共有」するためには対象/比喩を入れ替える、読み替えることが必要なのだと思う。入れ替え/読み替える瞬間、対象/比喩が「ひとつ」に結びつき、区別がなくなる。とけあう。どっちがどっちでもいい。

薔薇はきみのように美しい/薔薇はきみだ

 ほら、同じだ。
 だから(というのは、強引なのだが)、高橋の書いている後半部分は、

汲み取り式便所(の深い便槽)にはよく大きな「労働者」が出没した 「労働者」はどこにでもいた 無知で必死な「鼠」のようにどこにでもいた 

 と読み替えてみることも必要なのだ。
 そして、そう読み替えた瞬間、何が見える? 私には「父」が「労働者」に、しかも「無知な労働者」と書かれているように見えてくる。「父」を「無知な労働者/溝鼠」と呼ぶとき、「父」は「人間」ではない。だからこそ、「僕・母・父」の三人暮らしなのに、最初は「父」が除外されてしまう。否定したあとで「いや」と言い直される。

 二連目。

 昨夜どこを捜しても僕はいなかった 僕は昔の父の年齢を超え
ていたのに 二階にも一階にもいなかった 濡れた板張りの手水
場でその関係の蓋を持ち上げると そこから何が躍り出てくるか
わからない恐怖に僕は襲われるが その蓋を開けた空間には 地
下への階段があり 鼠の棲息を知らない無心の僕が 鬼ごっこの
つもりでその中段に隠れている筈だった

 「僕」が「何人」か登場する。「昨夜どこを捜しても僕はいなかった」と書かれるとき「主語」は書かれていない「僕」であり、そこに書かれている「僕」は捜している「対象」である。そして、それは何かの「比喩」である。
 何の「比喩」だろう。
 「僕は昔の父の年齢を超えていたのに」と書かれているので、「いまの僕」であるが、「いまの僕」とは何? 捜している「主語」としての「僕」こそが「いまの僕」ではないのか、という一種の「混乱」を感じるが、書かれている「いまの僕」は「比喩」なのだから、「比喩」を誘い出したもの(対象)を探さなければならない。
 「対象」そのものは「捜している僕」なのだから、「捜す」という「動詞」を基本にして、もっと別なものを見つけ出さないといけない。
 で、詩を読み直すと、「捜す」ということばは「鬼ごっこ」という「比喩」のなかに動いていることがわかる。「鬼ごっこ」は「捜す」と同時に「逃げる」を含む。「逃げる」には「隠れる」という「動詞」も含まれるかもしれない。
 そう思って読むと……。
 「鼠の棲息を知らない無心の僕」が「隠れている」ということばにぶつかる。
 「鼠の棲息を知らない無心の僕」は「地下への階段の途中(中段)」に「隠れている筈だった」。しかし、そこには「いない」。つまり、「どこを捜しても僕はいなかった」ということになる。
 捜している対象の「僕」は「幼年期の僕/鼠の棲息を知らない僕」である。
 ここから一連目戻ると、「父」は「鼠/無知な労働者」であるけれど、「幼年期の僕」には「父=無知な労働者/鼠」という認識はなかった、ということになるだろうか。そういう認識のないときの方が「幸福な家族」である。
 成長するに連れて、「社会/世界」が見えてきた。そこには「母」のことば、「母」が「父」に対してどう向き合っているかということも影響しているかもしれない。「母」の「父」への蔑視が(「父」を「溝鼠」と呼んでいたのかもしれない)影響しているかもしれない。
 「母」の視線で「家族」を見ていた。「母」は「父」を除外して「母と息子(僕)」の「ふたり」を基本にして「家族」を見ていた。それが「母と二人で暮らしていた」という書き出しに感じられる。

 途中を省略して、五連目。

                どこを捜しても僕はいなかっ
た 僕は誰とも見分けのつかない労働者の水死体だった 働きづ
めに働いて僕は繁殖したが 昨夜どこを捜しても 僕はいなかっ
た 古びた木造アパートは二階建で 一階の便所近くの手水場の
床蓋を持ち上げると 地下室では慰楽と苦痛それぞれの棚に 鼠
が走りまわっていた 幼年の僕は母と二人で いや父をふくめる
なら三人で そのアパートの二階で寝起きしていた

 「労働者」が再び登場する。「僕」は「労働者」になっていた。つまり「父」と同じ存在になっていた。「父」は「鼠」という「比喩」で語られたが、「僕」は「水死体」という「比喩」で語られている。
 一連目で「無知で必死な労働者」の「必死な」は、ここでは「働きづめに働いて」と言い直されていることになる。
 きっと「父」は「働きづめに働いた」人間なのである。その「父」と「僕」が重なる。だから、「どこを捜しても僕はいない」。いるのは「父/働きづめに働いた労働者/無知で必死な労働者」がいるだけなのだ。「僕」は「父」なのだ。
 でも、その「無知で必死な労働者」は、ただ「無知で必死な労働者」であるだけなのか。単なる「鼠」か。
 そうではない。

地下室では慰楽と苦痛それぞれの棚に 鼠が走りまわっていた

 そこには「慰楽と苦痛」が「棚」をつくっている。「鼠/父/僕/労働者/人間」が、そこを右往左往している。これは「幼年期の僕」には見えなかった世界である。「父」になることで見えてきた世界である。
 このときの「家族」は「僕」の家族であると同時に、全ての「家族」の「比喩」でもある。
 そんなふうに読んでみた。

言葉の河―高橋秀明詩集
高橋 秀明
共同文化社
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

四方田犬彦「石」

2016-03-13 16:05:35 | 詩(雑誌・同人誌)
四方田犬彦「石」(「LEIDEN」9、2016年03月05日発行)

 四方田犬彦「石」は、何が書いてあるのか。「動詞」(肉体)は、どう動いているのか。

お母さん
どうして石を投げてくれないのですか
あなたが遲(ためら)っているので
あの人たちはなにもできないのです
お母さん
あなたが僕に石を投げてくれたら
あの人たちも安心して
石を投げることができるでしょうに
遠くから僕たちの方を窺い
何やらひそひそ話をしている人たち
後悔も希望もなく
ただ罪なき命数が尽きることだけを待っている人たちも

 「お母さん(あなた)」と「ぼく」と「あの人たち(罪なき人たち)」がいる。
 「石を投げる」は「非難する/断罪する」ということだろうか。「比喩」だろうか。「僕」は何かしらの「罪」を犯した。それは「非難/断罪」にあたいする。けれど「お母さん」が「非難しない/断罪しない」ので、ほかの人は「非難したい」のに「できない」ということだろうか。
 具体的にどんな行為(罪)が問われているのか、ここからはわからないが、ある行為をめぐる非難/断罪と、非難するという「動詞」が「石を投げる」という形で書かれているということだけは、なんとなく、わかる。そして、「あの人たち」が、その「動詞」が実際に動くかどうか、「お母さん」が「石を投げる」かどうかを「窺っている」ということが、なんとなく、わかる。
 で、この「窺う」という「動詞」。これが、ちょっとおもしろい。「窺う」という漢字のなかには「のぞいて見る/隠れて見る」の「見る」がひそんでいる。その「窺う」の直前の「僕たちの方を」の「方」ということばも、とてもおもしろい。「方」は「ぼんやりしている」。「僕たち」を「見ている」のに「僕たちを」と「限定」せずに、ぼかしている。「窺う」も「見ている」のに「見ている」とはっきりいわずに、ぼかしている。
 「見ていただろう」と問われたら、「いや、見ていません」と答える用意をしている。それが「窺う」であり、「……の方を窺う」ということだろう。「ほかのものを見ていました」という「方便」のために、「方を」というのだ。
 関心があるのに、かかわりたくない。
 なぜ?
 「安心」ということばが、出てくる。「あなたが僕に石を投げてくれたら/あの人たちも安心して/石を投げることができるでしょうに」。この「安心」は「不安」の裏返しである。自分で「石を投げる」こと、それを実行することに対する「不安」がある。だから、石を投げられない。
 「安心/不安」はこころの「動き」。その「こころの動き」をあらわすことばが、「後悔」「希望」という「名詞」で言い直されている。「安心/不安」は同じ意味ではないし、「後悔」「希望」とも違うものだが、こころが「動く」という点では同じ。あるときは「安心」になり、あるときは「不安」になり、また「後悔」にもなれば「希望」にもなる。この、「こころの動き/動詞」の「不安定さ」はどこから来ているのか。
 「待っている/待つ」という「動詞」が、「こころの動き」を不安定にしている。自分で「動かさない」。自分からは「動かない」。これが「待つ」。どこかで「他人まかせ」である。だから「安定させる」ということができない。

 人を非難する/断罪するというのは、人の罪を「特定する」ということである。「決める」ということである。「特定する/決定する」。その「動詞」のなかに「定める」がある。「安心」と結びつけると「安定する」ということばになる。
 「あの人たち」は「こころの動き」を「安定させたがっている」。「こころの動き」が「安定する」。そうすると、きっと「後悔」も「希望」も無関係になるんだろうなあ。

 でも、そういうことを四方田は書きたいのではないような感じがする。
 こうやって、ことばをあれこれ動かしていると、「直観の意見」が「それは、何か間違っている」と、これ以上書くことを、さえぎる。「何か、大事なものを見落としているぞ」と「直観」が言うのである。
 一連目を読み返す。
 そうすると、

どうして石を投げてくれないのですか

 と、この一行だけ「疑問文」になっていることに気がつく。「か」の音が、胸にぐいと突き刺さってくる。
 これは、いったい、何なのだろう。
 ぐいと胸に刺さったのは何なのだろう、と思いながら、詩を読み進む。
 そうすると、三連目で「石を投げる」という動詞が、疑問形ではなく「事実」として出てくる。「事実」の形で「反芻」されているのに出合う。
 人は大事なことは繰り返す(反芻する)。きっと、ここに四方田の書きたかったことの「核心」がある、と「直観の意見」が言う。
 どう書かれているか。

子供のときからずっと黙っていましたが
僕は (お母さん ごめんなさい)
ちゃんと知っているのです
あなたは僕のせいで 石を投げられた

 ここから一連目へ引き返すと、お母さんが僕に石を投げないかぎり、こんどは再び、あの人たちがお母さんに石を投げることがわかる。そういうことは、すでにあったのだ。「僕のせいで石を投げられる」ということは、起きる。
 それを「知っている」。
 これだな、この詩のキーワードは。
 「知っている」は「覚えている」でもある。過去に、そういうことがあった。それを「僕」は「覚えている/忘れられない」。「忘れられない」から、それはあるときは「後悔する」という形でよみがえることもあれば、「希望する」というこころの動きになるのだが……。
 で、いちばん問題なのは。「知っている」がキーワードだ、と感じた理由……。
 知っているのに、なぜ「どうして石を投げてくれないのですか」と「疑問形」にしたか、ということ。なぜ、質問したのか、ということ、これが問題なのだ。
 「どうして石を投げてくれないのですか」は、文章の形は疑問形だが、疑問ではないのだ。「文法」では「疑問形」と呼ぶが、むしろ「確信」である。
 「石を投げない」と「知っている/わかっている」。「知っている/わかっている」けれど、そういう形でことばを動かすしかないことが書かれているのだ。
 最終連で、「疑問形」が再び出てくる。

どうして石を投げてくれないのですか
僕たちをこわごわ眺めている あの人たちを笑うことができるのは
お母さん あなただけなのです
あなたを押し留めているものは いったい何なのですか

 「どうして石を投げてくれないのですか」は繰り返し。それがさらに「あなたを押し留めているものは いったい何なのですか」という形で言い直される。
 この「答え」も、「僕」は、ほんとうは「知っている/わかっている」。
 そして、この詩を読む人もまた、きっと「知っている/わかっている」。「おかあさん」というのは、そういうものなのだ。それは「どうして石を投げてくれないのですか」「あなたを押し留めているものは いったい何なのですか」という「問い」の形でしか言うことのできない「答え」なのだ。
 そして、唐突に気づくのだが、ここで繰り返されている「どうして石を投げてくれないのですか」という「問い」、「あなたを押し留めているものは いったい何なのですか」という「問い」は、別の形で言い直すと「お母さんとは何ですか/お母さんとは何者ですか」ということである。「理由」など、ほんとうは問われていない。問われているのは「お母さん」という「生き方」そのものである。
 「どうして石を投げてくれないのですか」という「問い」は、「お母さんとは何ですか/何者ですか」という「問い」にぶつかると、「石を投げないのがお母さんです」という「答え」になるはずだ。
 この「答え」は「ことば」にはならない。「ことば」にならないのは、「ことば」にする必要がないくらい、はっきりと「知っている/わかっている」からである。つまり「確信している」からである。この「確信」はけっしてゆらがない。あるいは、「問う」ことで、その「問い」そのものが「確信」になるのだとも言えるかもしれない。

 「問い(疑問/……か)」ではじまり、それを繰り返すことで終わる。その「繰り返し」のなかに「確信」がある。「お母さんは、そういう存在である」という「確信」がある。
 こういう「感想」では抽象になってしまうが……。
 一連目について最初に書いた「窺う」とか「安心(する)/後悔(する)/希望(する)」「待つ」というような「動詞(名詞)」のなかで、いつも「問い」が繰り返されているのだろう。つまり、「お母さん」とは「窺う」「安心する」「後悔する」「希望する」「待つ」という「動詞」で「僕/息子」には接しない「生き方」をする存在なのだ。そういうことがことばにならないまま、そこに書かれている。隠されている。
 そういうことを浮かび上がらせるために、「どうして石を投げてくれないのですか」という「問い」と、二人を見つめる「あの人たち」の「動詞」が、そこに書かれているのだ。そこに書かれているのは、ある意味では、私たちがすでに知っている/わかっていることである。
 しかし「わかっている/知っている」からといって、それがすでに「ことば」になっているわけではない。このことがいちばん大事なのだと思う。
 四方田が「ことば」にすることによって、私たちは、はじめて、そういうことを「わかっている/知っている」と気づく。それは、四方田が「ことば」にすることによって「わかっている/知っている」こととして、そこに「あらわれてきた/生み出された」。四方田が「ことば」にするまでは、それは「ことば」ではなかった。四方田が「ことば」にしたから、「ことば」になった。つまり、「詩」になった、ということである。

 「……か」と問うことが、「……である」という「答え」として反復される。その「問い」と「答え」の「同義反復」の間に、「知っている/わかっている」ことが「ことば」として書かれ、それが「詩」になる。そういう「ことばの運動」が、ここにある。


母の母、その彼方に
四方田 犬彦
新潮社


*

谷内修三詩集「注釈」発売中

谷内修三詩集「注釈」(象形文字編集室)を発行しました。
2014年秋から2015年春にかけて書いた約300編から選んだ20篇。
「ことば」が主役の詩篇です。
B5版、50ページのムックタイプの詩集です。
非売品ですが、1000円(送料込み)で発売しています。
ご希望の方は、
yachisyuso@gmail.com
へメールしてください。

なお、「谷川俊太郎の『こころ』を読む」(思潮社、1800円)と同時購入の場合は2000円(送料込)、「リッツォス詩選集――附:谷内修三 中井久夫の訳詩を読む」(作品社、4200円)と同時購入の場合は4300円(送料込)、上記2冊と詩集の場合は6000円(送料込)になります。

支払方法は、発送の際お知らせします。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大野直子「ポパイ」

2016-03-12 09:42:09 | 詩(雑誌・同人誌)
大野直子「ポパイ」(「クレソンスープ」7、2016年01月10日発行)

 大野直子「ポパイ」は「動詞」で読もうとすると、むずかしい。

ムイシキの落下

青いカリンが
46億才の地球をうがった
ものおじもせず
堂々と
ミミズのはらわたにもひびいた

 「ムイシキ」が「青いカリン」と言い換えられているのか、「青いカリン」が「ムイシキ」と呼ばれているのか。どちらが「比喩」なのか、よくわからない。どちらであると断定せずに、どちらでもある、ということなのだろう。
 「落下」は「落下する」という「動詞」と結びつく。「落下した」もの(ムイシキ/青いカリン」が「地球をうがつ」、「地球に穴をうがつ」。これは、「動詞」の連鎖としてよくわかる。
 この詩を活気づかせているのは、しかし、そういう「動詞」の連鎖、関係ではない。「動詞」で何かを確かめようとすることをあざ笑うように対比される「名詞」が、この詩を活気づかせている。
 「青いカリン」と「46億才の地球」の「対比」。カリンは「小さく」、地球は「大きい」。その「小さい」ものが「大きい」ものに「穴をうがつ」。「うがつ」という「動詞」のなかで、「小さい」ものと「大きい」ものが、入れ替わったような感じがする。さらに「青い/若い」と「46億才/老い」の「対比」がそれに加わる。
 「落下する→穴をうがつ」という「動詞」のなかで、「小さい/若い」「大きい/老い」が「はじめて」のもののようにして、出合う。「うがつ」という「動詞」がかけ離れたものを出合わせる。
 手術台の上のミシンとこうもり傘の「出合い」のように。
 このかけ離れたものの「力関係」が、「常識」とは逆であるところが、詩を生み出している。「小さい/若い」が「大きい/老い」に打ち勝つ、「穴をうがつ」。ちょっと楽しい。
 この楽しさ、愉快を「ものおじもせず/堂々と」と言い直しているのもいいなあ。「ものおじもせず/堂々と」は「若い(小さい)」ものの「特権」である。
 この楽しさは「衝撃」ということばでも言い直されている。「衝撃」のなかには、やはり「若い」何かが弾けている。
 で、それが、そのまま「暴走する」のではなく、なんと、

ミミズのはらわたにもひびいた

 と、ぜんぜん違う「名詞」をひっぱり出して、さらに活気づく。
 「ミミズ」は「卑小なもの」。「青いカリン」の対極にある。「ミミズ」は「小さい」に通じるけれど、「青い/清潔」には通じない。「清潔」とは逆のもの、「はらわた」の生々しい「汚さ」に通じる。その「はらわた」は「ムイシキ」かもしれない。どろどろして、とらえられないもの。それはまた「マグマ」、つまり「地球のはらわた」にも重なる。「ミミズのはらわた」と書かれているにもかかわらず「地球のはらわた」にひびいたと感じてしまう。イメージ、連想が掻き回され、「書かれている名詞」が入れ替わってしまう。
 これはどうしてだろう。
 「ミミズ」が「大地/地球」のなか(内部/内臓/はらわた)にいるからだろうか。
 そういうこともあるだろうけれど、「ひびく」という「動詞」が重要な働きをしていると思う。
 「落下する→音をたてる」。この「音をたてる」が「音を出す/音がひびく」へとつながっているのだ。
 詩では「ひびく」は「音をたてる/音を出す」ではなく「衝撃がひびく」という「文脈」でつかわれているのだが、書き出しの「ムイシキの落下/青いカリンの落下/地球への落下」が「衝撃」よりも前に「音」を感じさせるから、「ひびく」という「動詞」のなかで「音をたてる」と「衝撃がひろがる」が交錯するのである。

 「動詞」のなかで「肉体」がひとつのことを確かめる(ひとつの方向に進む)というのとは逆に、「動詞」をとおって、「ひとつ」のものが複数に炸裂して拡散していくという「運動」がこの詩のなかにある。
 「意味/意識」を「統一する」というのではなく、むしろ「意味/意識」を破壊し、拡散させる。「青いカリン」が大地に落下する、と書いているが、まるで打ち上げ花火が夜空に炸裂する感じだ。
 「青いカリン」と「46億才の地球」がぶつかり、あざやかな花火に変わるのだ。

雑草はすっぽ抜け
地球の裏側が吸いこまれて
アマゾンが
両腕に
みなぎる

 雑草を抜いた「穴」と「青いカリン」が「46億才の地球」に「うがった穴」を言い換えたものというか、「同じもの」なのだが、こんな「意味」など「特定」しても、おもしろくもなんともない。
 「意味」の「特定」は拡散しているものを「集約」すること、「ひとつ」にしてしまうこと。
 大野がやろうとしていることは、まったく逆のことだ。
 「ひとつ」のことを、どこまでもどこまでも「拡散する」。
 「青いカリン」が「落下」したのは、金沢のどこか(石川県のどこか/大野は金沢に住んでいるので、とりあえずそう仮定するのだが)。しかし、その金沢の「土地」にとらわれずに、「穴」は一気に「地球の裏側」の「アマゾン」へと飛躍する。金沢の地面に穴が空いたら、その穴の「空白(?)」に向けて、地球の裏側のアマゾンが「吸い込まれて」くる。
 とてつもなく「大きい」空想/妄想(?)なのだが、それを「両腕」の「大きさ」でとらえてしまう。「両腕」のなかに、そういう「運動」が「みなぎる」。「みなぎらせてしまう」。
 「動詞」をとおりながら、「名詞」がビッグバンのように爆発する。
 「無意識」とは、大野にとっては、そういう「ビッグバン」の爆発を引き起こすエネルギーの「場」ということなのだろう。
化け野―詩集
大野直子
澪標
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

近藤久也「ゴムの木」、小川三郎「噴水」

2016-03-11 11:51:40 | 詩(雑誌・同人誌)
近藤久也「ゴムの木」、小川三郎「噴水」(「ぶーわー」36、2016年03月10日発行)

 詩は、よくわからない。「わかった」つもりのことを自分のことばでは言い直せない。まあ、自分のことばでは言い直せないから、そこに書かれていることばをそのまま丸飲みにするしかないから、それを「詩」と呼ぶのかもしれないけれど。

 近藤久也「ゴムの木」は「なんにもしない」詩。

窓辺に
ゴムの木
毎日ながめてる
幹には触れない
葉にも触れない
水もあげない
ながめてる

おんなが
葉っぱのぶつぶつ、病気だから
とってあげなよって
黙ってきいていると
みここともない馬来(マレー)のおんなが
目のまえに
嫋嫋(しなしな)やってきて
幹に小刀
傷つけた
どこかへ運ばれていく白い器の樹液

いやだなあ役に立つのは
(終わりの時に焼かれてしまったゴムの匂い)
窓の日に向かってのびる枝葉
意志のように尖った芽
(いやだなあ)

なんにもしないで
来る日を
ながめてる
窓辺の
ゴムの木

 「どこかへ……」と「いやだなあ……」の間は、一行空きかどうかよくわからないのだが、四連構成と思って引用した。(「ぶーわー」では上段から下段へと行が動いている。)
 私がいいなあ、と感じるのは、その三連目。
 「いやだなあ役に立つのは」というのは、まあ、自堕落な人間が考えることであって、建設的な人は「役に立つのはいいことだ。うれしいなあ役に立つのは」と考えるのかもしれないが、「いやだなあ」の方が、いまの私にはぴったり来る。
 ただ何もしたくないだけのことなのかもしれないけれど。
 そういうことは、脇に置いておいて……。

 この三連目、ちょっと変だよねえ。
 最初の「いやだなあ役に立つのは」というのは近藤の思い。
 では、最終行の(いやだなあ)は何?
 やっぱり近藤の思い?
 かっこ( )のなかに入れたのはなぜ?
 わからないねえ。
 わからないけれど、この「いやだなあ」が繰り返されているところがいちばん私の気持ちに迫ってくる。ゴムの木は見たことがないから葉っぱも幹もよくわからない。幹に傷をつけて白い樹液をとり、それからゴムがつくられるというのは「知識」として知っているが実際に触れたこともないので、身近には感じられない。それなのに「いやだなあ」はわかる。
 そうかな?
 私は疑り深い人間なので、自分の考えたことをあまり信じない。
 ほんとうに「いやだなあ」が、わかったのか。
 近藤が「いやだなあ」と感じていること、「役に立つこと」が「いやだなあ」というときの「役に立つ」が何の役に立つのかわからないし、それがどうして「いや」なのかも実はわからない。
 わかるのは、

いやだなあ役に立つのは

(いやだなあ)
 
 繰り返していることだ。繰り返すというのは、それだけ、「いやだなあ」が近藤にとって重要なことだからだ。それが、わかる。
 そして、その繰り返しは単純な繰り返しではない。一回目は「いやだなあ」とはっきり声に出している。二回目は(いやだなあ)とかっこのなかに隠している。隠しながら繰り返している。
 こういうものの言い方はしたことがある。ほんとうは何度も何度も口に出して言いたいけれど、隠してしまう。声に出さずに、自分にだけ、言ってしまう。それ(不満を隠していること)は他人にわかってしまうものかもしれないけれど、とりあえず、言わない。
 こういうことは「肉体」のなかで蓄積される。そして、そういう「肉体」のなかの蓄積があるから、誰かが「声に出さずに、肉体のなかだけで言っていることば」というものが聞こえたりする。

 そういうことがあって、四連目。
 これは、とってもおもしろい。
 「見かけ」は一連目と同じ。
 主語は書かれていないが、日本語は主語(特に「私」)が省略されることが多いから、「私=近藤」がゴムの木をながめているのだと思って読んでしまうが。
 一連目は「幹には触れない/葉にも触れない/水もあげない」と書かれているので、人間(私)が「主語」だとわかる。近藤(私)はゴムの木の「幹には触れない/葉にも触れない」し、また「水もあげない」。
 けれど四連目は?
 近藤(私)が「ながめてる」という意味に取るのが自然なのかもしれないが、これが倒置法で書かれているのだとしたらどうなるか。
 「窓辺の/ゴムの木」は「なんにもしないで/来る日を/ながめてる」にならないか。
 もちろん「木」が「来る日をながめてる」というのは「比喩」になってしまう。「比喩」だけれど、「木」を「主語」にしてそういう文章がなりたつ。そして、そのとき近藤は「比喩」をつかうことで「近藤/私/人間」ではなく、「木」そのものになっている。木になって声を発している。
 というようなことを思うのは。
 実は三連目と関係している。
 「いやだなあ」繰り返している。一度は声に出して言っている。二回目は声を隠している。この繰り返しと隠すということに、「比喩」として何かを語るという行為が重なる。
 「比喩」というのは、ある「対象」を言い直したもの。繰り返したもの。ただし、同じことばではなく別のことばで、ほんとうに言いたいことを隠しながら言うこと。隠すことで、よりいっそう「意味」を強めること。
 そうすると、ほら。
 「いやだなあ」と一度は口にして、そのあとは無言で「いやだなあ」と思いながら仕事をしていると、その言わなかった「いやだなあ」が言ったときよりも露骨に人に知られてしまうことってあるでしょ? そういうふうに仕事をしている人っているなあ、と思い出すでしょ?
 うーん、近藤がゴムの木になのか、ゴムの木がこんどうなのか、と考えながら、そういうことを思うのだった。



 小川三郎「噴水」にも、近藤の作品と通じる「繰り返し」がある。「あなた」と二人で公園へ噴水を見に行ったときのことを書いている。

あなたは微笑もうとして
それができないでいた。

私も微笑もうとして
ふいに押し寄せてきた気持ちの流れに
とまどう。

 この二連も、上下二段に分かれているので、ほんとうは一連かもしれない。近藤の作品のとき連にわけて引用したので、小川の作品も連にわけて引用しておく。
 ここでは「微笑もうとする」という「動詞」が繰り返されている。「微笑もうとして/できない」という「動詞」が繰り返されている。
 繰り返すから「わかる」のである。あるいは、繰り返してみて、そうかもしれないと思っていたことが「確信」にかわる。
 この変化を、近藤も小川もことばにしている。二篇あわせて読むと、そのことがよくわかる。二人はほんとうは違うことを書いているのかもしれないが、二篇あわせて読むと、そう感じてしまう。


オープン・ザ・ドア
近藤久也
思潮社
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

秋亜綺羅「十二歳の少年は十七歳になった」(2)

2016-03-11 10:34:46 | 詩(雑誌・同人誌)
秋亜綺羅「十二歳の少年は十七歳になった」(2)(「朝日新聞」2016年03月08日夕刊)

 秋亜綺羅「十二歳の少年は十七歳になった」について、少しだけ補足。
 私は詩を読むとき、動詞に注目しながら読む。「名詞」には、それぞれの思いがある。人によって「イメージ」が違うことがある。「水」なら、「冷たい」「透明」とか。ところが、「水を飲む」「水で洗う」と「動詞」といっしょに見つめなおすと「イメージ」は「共有」されることが多い。
 コップに入っている液体。「水かな? 飲めるかな? 飲んで大丈夫かな?」わからない。けれど、誰かがそれを飲む。「肉体」で「水」そのものとの関係をつくりだすと、安心して、それを「肉体」で「真似る」ことができる。同じ「動詞」を生きることができる。
 「水で手を洗う」も同じだね。
 「肉体」を動かして、「もの」との関係を生きる。そのときの「動詞」は何語であろうが、「共有される」。
 これが、私の、詩を読むときの「基本」。詩にかぎらず、ことばを読むときの基本。「動詞」がないときは、「名詞」を「動詞」にしてみる、というのも、他人が書いたことを理解するのに役だつ。
 「挨拶」だったら「挨拶する」。「わかれ」だったら「わかれる」。

 で、そんなふうに読んでいくとき、たとえば次の連。

どんな鳥だって
想像力より高く飛ぶことはできない
と寺山修司はいった

 ここには「飛ぶ」(二行目)という「動詞」と「言う(いった)」(三行目)という「動詞」がある。「鳥だって」(一行目)のなかに「鳥で/ある」の「ある」という動詞もあるが、この三行の「意味」の核心は「飛ぶ」という「動詞」といっしょに動いているようにみえる。「飛ぶ」ということばを中心に、詩が動いているなあ、と感じ、ここに書かれていることも、簡単に「わかる」感じがするのだが……。
 でも、「飛ぶ」というのは、人間にはできない。「動詞」として「肉体」で確かめるわけにはいかない。「水を飲む」という具合にはいかない。
 それこそ鳥が飛んでいるのを見ながら、「想像力」で何かを感じているのだが。
 その「ぼんやり」と感じること、そこに詩があるのかもしれないのだが。

 これをどうやって「肉体」で確かめなおすか、自分の「肉体」に組み込んでつかみとることができるか、ここから、私は、少し考え直すのである。「こころ」とか「精神」を信じていないように、私は「想像力」というものも、簡単に「存在している」とは考えないのである。「想像力」って何? それは、どこにある? 簡単に「定義」できないから、そういうものが、どこかに「ある」とは簡単に判断できないと思うのである。
 「想像力」というものがあったにしろ、その「想像力」は私と秋亜綺羅ではまったく違っているだろう。宇宙工学をやっているひとの「想像力」とマラソンを走っているひとの「想像力」が違うように、東日本大震災を体験した人の「想像力」と体験していないひとの「想像力」はきっと違う。だから「想像力」という「ことば」を安易に、共有できるキーワードとはできないと、私は考える。
 私が、どのことばに「反応」しているのか、確かめなおす。

高く

 ということばに気がつく。「高く」は「副詞」。原形(?)は「高い」という「形容詞」かもしれない。
 「高い」は「形容詞」だから「用言」。つまり、「活用」する。「変化」する。「動詞」の一種と考えてみる。
 「高い」という「状態」はどういうことか。「低い」があって、「高い」がある。「低い」から「高い」への変化は「高くなる」。ここに、先日みた「なる」という「動詞」が隠れている。

高く飛ぶ

 これは、「高い(ところを)飛ぶ」であり、「飛ぶことによって/高くなる」ということでもある。「飛ぶ」という「動詞」は人間の「肉体」そのものでは反復できないが、「高くなる」なら「肉体」で反復できる。「高くなる」は「高くする」という形で「高く」を「肉体」にしっかりと組み込むことができる。
 箱を積む。箱が「高くなる」。ここには「高くする」が「積む」という「動詞」の形で隠れている。箱の上に立つ。そのとき自分の背が「高くなる」。(もちろん、これは見かけだが。)箱をふたつ積む。さらに「高くなる」。
 木に登る。屋根に登る。地上にいるひとよりも「高いところにいる」。それは、地上から木や屋根に登ることによって、自分の「位置(いるところ)」を「高くする」ということである。
 「する/なる」は、そういう形で結びついている。

 前回、この詩を読んだとき、書かれている「なる(なった)」という「動詞」だけに焦点をあてたのだが、

高く飛ぶ

 という短いことばのなかに「なる」が隠れていると思って読むと、秋亜綺羅が、この詩で寺山修司のことばを引用している「必然性」のようなものもわかってくる。
 寺山が隠す形で書いている「なる」と秋亜綺羅の書いている「なる」は呼応しているのである。響きあっているのである。



透明海岸から鳥の島まで
秋 亜綺羅
思潮社
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする