詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

嵯峨信之『土地の名-人間の名』(1986)(57)

2019-07-15 21:52:11 | 嵯峨信之/動詞
* (死は通過する)

そのとき子供が鋭い叫びごえをあげた
無垢な呪いのきびしさにひとびとは竦然とする

 「死は通過する」。そのことに大人は気づいたか。あるいは逆に、そのことを知っていたか。知っていて、その瞬間を待っていたと読みたい。
 子供には、その認識はない。認識するのではなく、子供は「直感」する。何かしらないことが起きる、と。そして「叫びごえをあげる」。泣きだすのかもしれない。
 これを嵯峨は死への「呪い」と受け止め、「きびしさ」と受け止める。怒り、抗議を通り越して、「呪い」にまで達してしまった「感情」。
 「呪い」は「呪う」と動詞にして読むと、もっと生々しくなる。子供は(赤ん坊は、と読みたい)、死を呪う。それが、やがて自分にもやってくることを「認識」ではなく、直接的な「事実」としてつかみ取っていることになる。





*

詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
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高橋玖未子『呼ばれるまで』

2019-07-14 10:45:46 | 詩集
呼ばれるまで
高橋 玖未子
思潮社



高橋玖未子『呼ばれるまで』(思潮社、2019年06月21日発行)

 高橋玖未子『呼ばれるまで』には「意味」の強いことばが多い。伝えたいという思いが強すぎて「意味」が「説明」になってしまっている。
 「くさのしごと」は草を抜くということを書いている。

草のしごと
黙って耐える
踏まれても立ち上がる
抜かれて全滅はしない
生き延びて
子孫を増やして
好機と見るや繁茂する

くさの仕事
不条理に耐える
理不尽に懲りない
生き延びて
子孫を絶やさず
いつか不条理や理不尽の正体を暴き
繁茂するまで生き延びる

 「意味」とは、結局、「自分」と「他者」を同一視すること、「自己」と「他者」の間に「通路」をつくることと定義できるかもしれない。「通路」は「比喩」というかたちで形成される。
 その「比喩」が「不条理」とか「理不尽」ということばにすりかえられてしまっては、それは「説明」になる。もちろん「説明」したっていいのだが、「本」で読んだことばで説明されると味気ない。
 「不条理」は「踏まれても立ち上がる」とどう違うのか。「理不尽」は「抜かれて全滅はしない」とどう違うのか。「踏まれても立ち上がる」「抜かれて全滅はしない」を「不条理」「理不尽」と言いなおしたのはなぜなのか。それを書かないと、詩にはならない。「借り物のことばをつかった要約」になってしまう。
 最終連。

くさのしごと
くさのしごと
ああ だが 抜いているわたしも
そのくさの一部かもしれない

 ほんとうにそう感じるなら「不条理」「理不尽」というようなことばは、どうも不自然である。「くさの一部」の「一部」も、「要約」が強すぎる。「正確」に言おうとして要約してしまうのだと思うが、詩は正確である必要はない。むしろあいまいな方が想像力を刺戟されて楽しい。
 たとえば「袋」。

何でも放り込んでおけばいい袋がある
中がどんな風になっているのか
放り込んだものがどんな具合か
一度も覗いたことはない
ふいに必要なものがあると
手探りでかき回し掘り返すので
放り込んだもの同士がくっついたり
大事な部分が欠けたりして
時には
とんでもないものが出てくることもある

 「袋」は「袋」としか書かれていない。説明がない。説明は読んだ人がかってに考える。その「考える(想像する)」という動きのなかで、読者と書き手は重なる。

夕べ取り出したのは
嘘をつき通した若かった日の一こま
あのハンカチは自分のものだ
となぜ言えなかったのか
どうして貧しさを恥じたのか
本当に自分のものではないと
自分に信じ込ませたあの時の弱さ
ずっと忘れていた小さな悔恨なのに
袋の中で
じっと取り出されるのを待っていたのだ

 「悔恨」がもっとふつうにつかうことばなら、この詩はさらに強くなると思う。「悔恨」でわかるけれど、わかりすぎるからおもしろくない。
 なくしてもいいハンカチなら「自分のものではない」という嘘もいい。けれど、それはなくしてはいけないハンカチだった。大切なものだったはずだ。その大切な「理由」を書かずに「悔恨」と言いなおしては、ほんとうが伝わらない。「悔恨」と書いているから大切さがわかるはずだと思うのかもしれないが、そのとき「大切」は単なることばであって「事実」ではない。

何でも放り込んでおけばいい袋がある
その中に自分がすっぽりと収まるまで
誰もが一つは持っている

 とても大事なことを書いているのに、その「正直」を「肉体」とは無縁のことばが傷つけている。こわしている、とさえ言えるかもしれない。





*

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嵯峨信之『土地の名-人間の名』(1986)(56)

2019-07-14 08:46:06 | 嵯峨信之/動詞
* (誰の言葉もそこへ届かない)

死はどこからでも入ることができるが入口を知るものはない

 私は「アフォリズム」になじめない。アフォリズムにならないものが詩だと思っている。
 この一行は、

死の入口を知るものはないが、誰でも死ぬことはできる(死の世界へ入ることはできる)

 と言いなおすことができるだろう。
 しかし「誰でも死ぬことはできる」は「現実」とは違う。「現実」は「誰でも死ぬ」である。「できる」「できない」の問題ではない。さらに言うと「死ぬことができない」というひとはいない。
 嵯峨の書いた「できる」と「知る」の関係は、アフォリズムのなかでのみ成立することばの運動である。
 ことばのなかでのみ成立する「世界」という点で、アフォリズムと詩は共通するものを持っているのかもしれないが、私はなじめない。





*

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林嗣夫『洗面器』(2)

2019-07-13 09:50:35 | アルメ時代
洗面器
林嗣夫
土曜美術社出版販売



林嗣夫『洗面器』(2)(土曜美術社出版販売、2019年06月30日発行)

 「朝」については、すでに書いたことがあるかもしれない。この詩にも「音」が登場する。

いつものように
暗い四時ごろ目が覚めて
布団の中でじっとしていたら

牛乳や 新聞配達の
バイクの音 庭を来る足音
そして去っていく

やがて外の暗闇に
何か かすかな……
響きのようなものが満ちはじめる

吹くともない風の始まりだろうか
生きものたちのささやきかもしれない
静かな律動に耳を澄ませる

夜が明けると まず気になって
近くの畑に降りてみた
目も覚める鮮やかなカボチャの花!

用意されていたいくつものつぼみが
羽化するように割れ
天に向かって開いている

遠いものの声を聴こうと
震えながら受粉を待っていた

 誰にでも聞こえる「バイクの音」「足音」。それが「去っていく」。その新しい静寂のなかに「満ちはじめる」「響き」。
 でも、それはすぐには動き出さない。
 「吹くともない風」と「ない」という否定形が動きを貯める。「満ちる」は、「内部」が「満ちる」のだ。外にあふれるのは、内部が満ちたあとなのだ。
 この書かれなかった「貯める」、内部に「満ちる」は「用意する」という動詞に変わっていく。「用意した」ものが内部に「満ちる」、内部が「満ちた」ものは内部から「割れる」。これを「開く」という。
 林の「聴覚」(聞く力)も「満ちて」、あふれる。

遠いものの声を聴こうと
震えながら受粉を待っていた

 これはカボチャの花の描写だが、林の姿そのものに見える。林はカボチャを追い越して、「遠い」声を聞き取り、ことばにする。詩が生まれる。この瞬間が、林にとっての「受粉」だ。
 林(人間)からカボチャへの変身。そして、それをことばにすることで、再び人間に帰ってくる。生まれ変わる。
 林のことばは、人間が再生する運動をしっかりとおさえて動いていく。

 詩集のタイトルになっている「洗面器」。

夏は
朝食前の涼しいときに
畑仕事を一つ済ませる
それからシャワーを浴びると
毎回のように
洗面器に浮かぶ 白い垢!

分子生物学によると
わたしたちの体は
絶えまない分解と合成のさなかにあり
組織は交替し
自分は自分からずれながら
ようやく平衡を保っている、と

危ういような うれしいような
からっぽのような
希望のような

おぬしは見るべし
朝の洗面器に漂う花筏
そこから立ち上がって よろける
一つの影を

 二連目は、いかにも「教師」らしい「論理」。
 これが三連目で、くずれる。「論理」では追えないものがあふれてくる。「ような」という直喩が繰り返される。「論理」は「ひとつ」の結論を目指すが、詩(比喩)は結論を拒んで分裂していく。
 そして「ような」という「直喩」から、「ような」を言っている暇がない「暗喩」の「花筏」へと結晶する。そのとき、「論理」を拒み続けた三連目の「直喩」が「喩」の運動だったことがわかる。「直喩」は林にとって「暗喩(絶対的な比喩)を生み出す運動」なのだ。
 このあと林は「一つの影」と自分自身を描写するが。
 この「一つ」。
 一連目の三行目に出てくる「一つ」と関係があるだろうか。ないだろうか。
 あるとも、ないとも言えないが、私は一連目の「一つ」ということばのつかい方が好きだ。「済ます」という動詞で林は「一つ」を補足しているが、「一つ」には何か「完結」したイメージがある。「完成」といっていもいい。それだけで存在する力だ。
 「畑仕事を一つ済ませる」と畑が「一つ」完成する。その「完成」のなかから、何かがはじまる。
 その「完結」「完成」と同時に、これから「はじまる」という感じが、最終行の「一つ」のなかに隠れているように私は感じる。
 「一つ」(ひとり)ではあるけれど、「遠い何か」とつながっている。

 説明というか、註釈というか、解説(?)にはならないのだが、どう語ればいいのかわからないのだが、この静かなことばに私は「古典」を感じた。
 私は「古典」ということばをつかいながら、「百人一首」を思い出している。「百人一首」の歌は、ほんとうに優れた歌かどうかわからない。和泉式部には「あらざらむ」よりももっといい歌があると思う。でも、ひとに伝わっていくのは「あらざらむ」なのだ。そういう「不思議」が「古典」にある。
 林の「洗面器」は、何か、そういう「ありきたりの強さ」を持っている。
 朝飯の前に「仕事を一つ済ませる」という「ありきたりの暮らし」。それが「ひとりの人間」を「一つのいのち」に育てる。
 林のいちばん書きたかったことばは「一つ」ではないかもしれない。でも、私は、「慣用句」のようにして書かれた「一つ」がこの詩をおさえていると思う。落ち着かせていると思う。

*

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嵯峨信之『土地の名-人間の名』(1986)(55)

2019-07-13 08:02:42 | 嵯峨信之/動詞
* (この夕暮れにぼくは記憶を失つた)

われにかえると
薄暗くなつたところから灯のはいつた二階家が現われる

 この詩には、ここだけ「過去形」ではなく「現在形」があらわれる。「出来事」(起きたこと)と認識しているのではなく、いま「起きている」と認識している。
 さらに一歩進んで、嵯峨はいま「生きている」。一軒の家として生きている。その家と一体化しているとわたしは「誤読」する。家を見ているのではなく、家になっている。
 「薄暗くなつたところから」「灯のはいつた二階家が現われる」ではなく「薄暗くなつたところから灯のはいつた」「二階家が現われる」と私は読む。嵯峨の「肉体」のなかの「薄暗くなったところに灯がともる」、そして嵯峨自身が「二階家」になる。二階家に生まれ変わる。--その瞬間の「心象」がことばになって動いている。
 そんなふうにして嵯峨は「心象」の「家」へと帰る。




*

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林嗣夫『洗面器』

2019-07-12 15:48:15 | 詩集
洗面器
林嗣夫
土曜美術社出版販売


林嗣夫『洗面器』(土曜美術社出版販売、2019年06月30日発行)

 林嗣夫『洗面器』は、いままでの林の詩とは違っている。私だけの勘違い(印象)かもしれないが、「林嗣夫」という名前がなかったら、別のひとの詩集と思ったかもしれない。もちろんいままでの林の詩を思い出させる作品もあるが、あ、林はこんな詩も書くのかと驚かされる作品がある。

 「菜の花」は菜の花を部屋に飾る詩である。飾ったあと、「火曜サスペンス劇場」の主題歌を聴く。すると、

出会った言葉はやがてすれ違い
欲望となり
土の中に埋められた白い女の手首となる

出会った愛はやがてからまり
早春の夜明けの橋を渡りきれずに
突き落とされた男の血よりも赤い血となる

 この「火曜サスペンス劇場」の「要約」の仕方に、私は驚いた。こういう「要約」が林のなかで動いているとは知らなかった。
 出会ったのは「男と女」ではなく「言葉」。「すれ違う」というのは、林の詩の作り方を思わせるが、その「言葉」が「欲望となり」「女の手首となる」が私の記憶に残っている林とは違う。「言葉」がことば以外のものに「なる」ところまでは同じなのだが、変化した先のものがいままでとは違う。
 「出会った言葉」は「愛」に「なる」。そして「からまる」。そして「突き落とされた男の血よりも赤い血」と「なる」。書かれていない「なる」と書かれている「なる」。そのなかに、いままで書かなかった林が動いている。

 「乾いた音」には詩と版画のコラボレーション展「愛ひととき」に寄せてという註釈がついている。版画に触発されて書いたものだろうか。

女は蛇のように脱皮するのだ

やさしく抱き 髪をなで
愛しい思いで見つめていると
おもむろに自分の皮膚を脱ぎはじめる
すこし疲れたからだでベッドに並んで横たわり
ほとんど意味もない言葉を交わしているとき

私とは反対側の手
(おそらく無意識に--)
女は脱ぎ捨てた自分の半透明の皮膚をもてあそぶ
そのセロファンのような
乾いた音を聴くのが好きだ

 「セロファンのような」という直喩が、直前の「半透明の皮膚」ではなく「乾いた音」へと飛躍していくときの超越性。詩の特権的暗喩。暗喩でしか聞き取れない「音」があり、林はそれをことばにしている。
 林は「耳の人」だったのか、と私は驚いたのだ。
 「ことばの人」だから、もちろん「耳の人」でもあったのだろうけれど、私はどちらかというと「論理の人」と思い込んでいたので、「肉耳」とでもいいたくなるような「絶対感」に驚いたのだ。

 「ペットボトル」は「耳の人」と「論理の人」をつなぐ作品といえるかも。庭に落ちていたペットボトルが「カコン カラコロ コロン コロ」と転がっていく様子を描いている。

空っぽ、をため込んで
ため込んで
その重さにうんざりしていたところを
思いがけなく
新しい風と光の中に解き放たれた
転がるごとに
空っぽ、を振りこぼし
空っぽ、をまき散らしていく
かるく跳ね 震え
そして止まって横になっても
ペットボトルはゆっくりと
呼吸をつづけた

 「空っぽ、を振りこぼし/空っぽ、をまき散らしていく」の「空っぽ」が「カコン カラコロ コロン コロ」よりももっと透明に、私の耳には聞こえる。
 「呼吸をつづけた」という「暗喩」は「論理的暗喩」である。

 記憶に刻まれている林の姿にいちばん近いのは「紙のことが」という作品。

わたしがいちばん好きな形は
髪飛行機
小さな思いを乗せて
少し前へ飛んでいく

〔追記〕昔、祖父母が紙の原料となる楮やミツマタを採
って暮らしを立てていた。肌寒い早春、山奥の作業小屋
でミツマタの大きな束を釜で蒸し、むしろを敷いた土間
に引き下ろす。湯気の立つ中で一本一本皮を剥ぐ。わた
しも、飛び散った黄金色の花の香りの中で、仕事のまね
ごとなどしながら遊んだものである。その頃の祖父母の
思いは、きっと、幼いわたしを少し前へ飛ばすこと。

 紙飛行機が「少し前へ飛んでいく」と「幼いわたしを少し前へ飛ばす」が重なり、胸が熱くなる「比喩」の世界が浮かび上がる。「論理」が「比喩」になる。「比喩」が「論理」になる。ことばと、そういう世界が結晶する「少し前」を飛んで行く。
 「追記」と林は書いているが、むしろ、前半が「前書き」と読める構造になっている。こういう「しかけ」も「論理の人」につながる。




*

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パベウ・パブリコフスキ監督「COLD WARあの歌、2 つの心」(★★★)

2019-07-12 10:37:16 | 映画
パベウ・パブリコフスキ監督「COLD WARあの歌、2 つの心」(★★★)

監督 パベウ・パブリコフスキ 出演 ヨアンナ・クーリグ、トマシュ・コット

 恋愛の描き方は、会話の仕方に似ている。日本人(同士)の会話は、相手の反応を見ながら少しずつ進む。ときには話していることばを相手が引き継いで語り始める。ふたりの共同作業といえば共同作業だけれど。外国人の会話というのは、話し始めたら話は最後まで言ってしまう。言い終わってから、相手が話し始める。恋愛も「私はこんな風にあなたを愛している」「私はこう愛している」と語り終わってからセックスがはじまる。「ことば」ではなく「しぐさ」も含めてだけれど。
 で、こういう「恋愛」を見ると。私なんかは「恋愛」を見ている感じがしない。独立した「個人」と「個人」が、たまたま出合い、ひとつの時代を生きたという印象の方が強い。こんなに「個人」として「独立」したまま、自分の思いを語るだけで、それが「恋愛」なのか、という、なんというか「圧力(重さ)」のようなものを感じてしまう。「恋愛」というよりも「思想劇」だなあ。
 この映画の主人公(女性)はポーランドの「いなか舞踊団(歌劇団?)」の一員であり、やがて歌手として成功するが、やっぱりポーランドのいなか(?)へ帰っていく。そういうストーリーのなかで、私は、ふたつのセリフに驚いた。「個人」というものの「自覚」の強さにうならされた。
 ひとつは主人公自身のことばではない。公演でスターリンを讃える歌を歌わせる計画が持ち上がる。舞踊団の女性指導者は「いなかの人間は指導者を讃える歌なんか歌わない」と主張する。結局、押し切られて歌うことにはなるのだが、このときの「いなかの人間」の「定義」が私には非常に納得がいった。私もいなか育ちである。「偉い人」なんか関係ないと、いつも思う。自分の生活があるだけ。誰が偉かろうが、そのひとを讃えたくらいで苦しい生活は変わらない。そんな他人のことなんか知ったことではない、と思う。
 もうひとつは、男が女に亡命を持ちかける。しかし主人公はついていかない。再開したとき男は「どうして来なかったのか」と質問する。女は「自分に自信がなかった」と答える。「男の方が自分よりはるかに優れていて、対等ではない。だからついていくことができなかった」。これは「恋愛」よりも「個人」を重視した生きたかである。「恋愛」というのは自分がどうなってもかまわないと覚悟して相手についていくことだと私は思っていたが、この女はそうは考えていない。あくまで「自分」が存在し、「自分」をどう生きるかを考えて動いている。「恋愛」もその「一部」である。「自分の生き方」は自分で決める。「自分を自分に語る」。そのあとで相手と話す。そのときの「ことば」は完結している。
 こういう「まず自分がいる(自分を完結させる)」という生き方だから、二人は別れ、それぞれの恋人(夫や妻)との暮らしの一方、それとは別に昔からの「恋愛」も平行させて生きる。「恋愛」は出合っているふたりの間で動くものであって、それぞれの「背後」は関係がない。「背景」とは関係なく「個別の恋愛」として「完結」させることができる。「いなか」の、「土着のいのち」そのものの恋愛を見る思いがする。
 そうか、「中欧(東欧)」というのは、こういう文化なのか、とも。
 映画の最初の方に、「いなかの歌」を集めているシーンがある。テープを聞きながら、「まるで酔っぱらいががなりたたている」という感想を舞踊団を計画しているひとりがもらすが、その「酔っぱらいのがなりたて」の歌がとてもいい。歌は人に聞かせる前に、まず自分で歌うもの。その人が「完結」させるもの。つまり「聴衆」を必要としていない。その歌い方にも、会話や恋愛に通じるものを感じた。
 映画は、最後は、ふたりが「恋愛」を成就させるのだけれど、成就した恋愛よりも、そこへ至るまでの「自己主張(自己完結)」のぶつかり合いの方が、強くて、とてもいい。モノクロのスクリーンが、この映画に、独特の強さを与えているのもいい。
 (KBCシネマ、スクリーン2、2019年07月11日)
 


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嵯峨信之『土地の名-人間の名』(1986)(54)

2019-07-12 09:25:45 | 嵯峨信之/動詞
* (子供が聞いた)

--ゼロと一との間には
数がいくつあるか

 不思議な「祝祭」がある。
 この質問にであったとき、ひとは子供に帰る。こういう質問がありうることを、ひとははじめて知る。そして思い出すのだ。もしかすると「私は、この子供だったかもしれない」と。
 まるで「子供」と「私」の間には、「私」がいくつあるのか、と考えるように。

 「間」はひとつ。しかし「間」にある何かは、いくつかわからない。「ある」という動詞の不思議な「祝祭」。




*

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清岳こう『眠る男』

2019-07-11 10:51:32 | 詩集
眠る男
清岳 こう
思潮社



清岳こう『眠る男』(思潮社、2019年07月20日発行)

 清岳こう『眠る男』には「こうたろう」という名前が文字(表記)を変えながら何度も出てくる。ひとりなのか、複数なのか。ひとは毎日姿を変えるものである。だからひとりであっても、複数であるとも言える。
 いわゆる「引きこもり」の息子と母との日々を描いている、と読むことができる作品群だが、「枠」をつくってしまうとおもしろくない。そうではなくて、ただ単に自分の思う通りにならない人間との共同生活くらいに、どこかを「開けておいて」読むと楽しい。
 「犬も喰わぬ親子げんか」には「こうたろう」は出てこないが、「こうたろう」を書いているのだろう。「死にたい、死にたい」という息子と、「生きぬいてほしい」と願う「私」がドライブしながらけんかしている。その最後の四行。

山路の曲がりくねりドライブのはて
刈りたて挽きたて打ちたて茹でたての新蕎麦のかおりにやっと停戦になり
二人前3024円也は運転手の私から出撃していき二度と戻っては来なかった
ちなみに 生きていてほしいは盛り並 死にたいは山女魚山菜の天ざる大盛り

 蕎麦を食う。「二人前3024円也」とあるから、ひとり「1500円」消費税込みで「1512円」か、と思うと、そうではない。値段の詳細はわからないが、二人の食べたものが違う。「生きていてほしい(と思う私)は盛り並」「死にたい(と言っている息子)は山女魚山菜の天ざる大盛り」。この対比がおもしろい。書いてはないのだが、私は「死にたい」というくらいなら「山女魚山菜の天ざる大盛り」なんか食うな。盛りそばの並にしておけ、とこころのなかで毒づいているだろうなあ。
 いやいや、親だから、そんな冷酷なことは思わない。「山女魚山菜の天ざる大盛り」で「死にたい」を忘れられるのなら、こんなに安上がりのことはない。そう思うのかもしれないが。
 息子は息子で「死ぬんだから、最後くらい食いたいものを食わせろ、親だろう」と毒づくかもしれない。「盛りの並では、三途の川を渡ろうにも、力尽きて溺れ死んでしまう」とさえ言うかもしれない。
 こんなことは「後出しジャンケン」のようなもので、なんとでも言える。
 で、書かれていないことを勝手に「捏造」しながら思うのだが、ひとは誰でもいつでも「後出しジャンケン」を生きている。つまり「ずるい」。そこがね、たぶん「思想」なんだなと思う。どんなときでも「自己正当化」する。

 この詩集の最後は「行太郎 聖黙修行中」。

黙って食事をする
黙って掃除をする

黙って谷川のささやきと響きあう
黙って時雨の匂いで全身を満たす
黙ってたあいもない日常を旅する

口を開かないと罵詈雑言誹謗中傷も出歩かない
口を開かないと不平不満不安も立ち枯れとなる

行太郎はずいぶんと真面目に生きてきたもんだ

 最終行の「真面目」がいいなあ。「人間と自然との対立のうち最も重大なものは『死』である」と書いたのは三木清(「手記」)だが、「対立」はいつでも「真面目」によって成り立つ。「真面目」をつらぬいた果てに「死」がある。これを「倫理」と呼ぶ。
 親から見ればこどもはみんな「真面目」に見える、といえば「親バカ」になるのかもしれないが、親がバカだから、こどもは真剣(真面目)に生きるしかないと思うのである。そういう「支えあい方(助け合い方)」がある。ひとは「助けて」と言える相手が必要なのだ。「助けて」と言うとき、ひとは「真面目」なのだ。
 「真面目」に出合うと、人のなかから「真面目」が出てくる。
 読みながら、清岳は「真面目だなあ」と思うのである。





*

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嵯峨信之『土地の名-人間の名』(1986)(53)

2019-07-11 09:38:00 | 嵯峨信之/動詞
* (彼は)

鳥のように 洋傘のように 枝にぶらさがつて死んだ

 「鳥のように」「洋傘のように」と比喩が繰り返される。しかし「鳥」と「洋傘」は似ているだろうか。
 翼を閉じて、傘を閉じて。あるいは、翼を開いて、傘を開いて。
 その「形」もわからない。
 たぶん、「わからない」ということが重要なのだ。判断できない、ということが。
 自殺の理由は、誰にもわからない。
 この詩のなかには、次の行もある。

小さな鉦叩きがその下を横切つた

 なぜ? 理由はいらない。それが「自然」だ。--と書くとき、私は三木清を思い出している。嵯峨が三木清を読んでいたかどうかはわからないが。
 「手記」のなかに、こんな一行がある。

人間と自然との対立のうち最も重大なものは「死」である。

 いまは、それを結びつけて「結論」を書きたいとは思わない。ただ、そういう行があったということを思い出したと書いておく。




*

詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
オンデマンドで販売しています。100ページ。1500円(送料250円)
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嵯峨信之『土地の名-人間の名』(1986)(52)

2019-07-10 10:11:45 | 嵯峨信之/動詞
* (狂気にはきまつて方向がない)

狂気にはきまつて方向がない
小さな庭をよこぎる蝮でも何かに向つている

 私はこの詩を「空気は……」と読み違えていた。「空気には方向がない」、けれど「蝮は自分で方向を決めて動いている」。「方向がない」はすべての方向に開かれているということ。だからどんな生き物でも「方向」を作り出す(生み出す)ことができる、と。
 ということを書こうとして、引用し始めて、あっ「狂気」だと気づいた。

 うーん。

 「狂気」に「方向」はないのだろうか。むしろ「絶対的な方向」にとらわれ、その「方向」以外を選ぶことができない状態が「狂気」ではないのか。
 私の考えでは、「方向」をもたない「空気」が「正気」になる。
 「向かう」というのは、「いま/ここ」から違うところへ行くということだろう。「向かう」というのは「狂っていてもかまわないから、それを選ぶ」という覚悟のことである。「正気」を捨てるということである。

 嵯峨の書こうとしているのは、私の感想とは別のことだと思うが、私は私が「いま」思っていることを書く。ことばを、その方向へ向かわせる。動かしていく。


















*

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柴田千晶「差出人」

2019-07-09 21:09:42 | 詩(雑誌・同人誌)
柴田千晶「差出人」(「Down Beat」14、2019年07月07日発行)

 柴田千晶「差出人」を読み、恐怖に襲われた。詩は「事実」である必要はないし、柴田は「事実」を書いているのではないかもしれないが、ことばがこんなふうに動くところまで「社会」が変わってしまったのか、と驚いた。
 出したはずのない封書が「受取拒否」郵便として「わたし」に届く。それで「わたし」は「受取拒否」をしたひとのことを調べ始める。

霜村さんの住所をgoogleマップで調べてみる。茶畑の
真ん中に赤い気球が浮かんでいる。ストリートビューの小さ
な人をドラッグして、赤い気球が示す家の前に立ってみる。
特長のない二階建ての民家だ。玄関脇に紫と黄色のパンジー
を植えたプランターが二つ並んでいる。ここが霜村さんの家
だろうか。画面を拡大しても表札の文字はぼやけて見えない。
駐車場に止まった軽トラックのナンバープレートの数字なら
読める。
45-19……死後行く。

 「45-19……死後行く」が「事実」ではなく「虚構」だと告げているのだが、その「虚構」以前に書かれている「虚構」が不気味である。
 何といえばいいのか。
 「わたし」が「霜村さん」と名づけた「受取人」への興味のあり方が、怖い。「人」を理解するとき、何で理解するか。「ことば」で理解すると同時に、私は「文字」「声」でも理解する。「ことば」の「意味」(内容)と同時に、私の「肉体」が受け止める「感じ」から何かを理解する。それは、「私の肉体」が集めたものである。
 でも、この詩の「わたし」は、他人が集めてきたものを、そのまま「霜村さん」と結びつけている。これって、危険じゃない? 私は、どうも、そういうものを信じる気持ちになれないのである。

 で、これは、こんなことにもつながる。
 柴田の作品とは関係がないのだが、海外の思想家の思想(ことば)を取り込んで書かれた詩がある。その「ことば」は、私の「肉体感覚」で言うと、ちょうどgoogleが集めてきた「情報」のように見える。「他人の視点であつめられた情報」。
 私は、こういうものに接すると、落ち着かなくなる。
 「海外著名人の思想」の場合、その「情報」は、すでに確立されている。でも、個人の「思想」とはけっして確立されることのないものだと思う。常に揺らぐ。毎日点検し、これからどうしようかと思いめぐらす「家計簿」みたいなものだ。「確立された形式」にあわせようとしても、あわせられるはずがない。それが「暮らし」というものであり、「暮らし」から生まれてくる「事実」ことが「思想」だ。

 脱線したが。
 柴田が書いていることばにも、そういうものがある。
 「特長のない二階建ての民家だ。」
 他人が集めた「情報」だから、こういう表現になる。自分が集めると、絶対に「特長」がことばに出てしまう。「特長」づけないと、自分で見たことにはならないし、自分で見たものならどうしても「視線」がどこに動いたかが「ことば」として残る。
 後出しジャンケンのように「玄関脇に紫と黄色のパンジーを植えたプランターが二つ並んでいる」と追加されても、「他人の集めた情報」が自分で集めたものに変わってくれそうもない。






*

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嵯峨信之『土地の名-人間の名』(1986)(51)

2019-07-09 09:41:25 | 嵯峨信之/動詞
* (空間のどこかが少し歪んでいる)

 抽象的に始まる詩の最後の二行。

部屋から出てきた片手のない男が
ベコニアの花に水をやつている

 「ベコニアの花」は「空間のどこかが少し歪んでいる」ことを知っているか。知らないだろう。知らないことがあるが、それでもベコニアの花は完全である。そして、その完全さは「水をやる」男によって、いっそう完全なものになる。
 この完全は「非情」かもしれない。「情け」を考慮しないという意味である。
 私たちの「情」は、こんな具合に、ときどききれいさっぱり洗い流される方がいい。絶対的な「美」に出合うために。

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選挙報道の罠

2019-07-08 19:27:31 | 自民党憲法改正草案を読む
選挙報道の罠
             自民党憲法改正草案を読む/番外277(情報の読み方)

 読売新聞2019年07月08日朝刊(西部版・14版)の一面。

参院選 日曜の舌戦

 という見出しで07日の各党党首の遊説を紹介している。安倍については、こう書いている。(丸数字は私がつけた。)

年金問題について、①「野党は財源の裏打ちのある議論をせず、不安をあおっている」と批判した。政権奪還以降の約6年半の経済成長の実績を強調し、②「政策次第で年金を増やせる。しっかりした年金財政をつくるため、強い経済をつくっていく」と訴えた。

 ①については、読売新聞の2面には、こう書いてある。

財源確保について、立憲民主や国民民主、共産、社民党は、企業や高所得者への課税強化を優先すべきだとして、企業の内部保留や企業向けの税制優遇措置、金融資産への課税の見直しなどを提案している。

 野党は、ちゃんと「財源」をどうするか提案している。しかし、安倍は「野党は財源の裏打ちのある議論をせず」と言っている。間違った主張をしている。それを読売新聞はそのまま伝えている。もちろん、読売新聞は安倍の「声」をそのまま伝えているのであって、「声」そのものは間違っていない。
 ②も同じことが言える。読売新聞は安倍の「声」をそのまま正確に伝えている。しかし、そこで語られているのは「強い経済をつくっていく」という主張だけであり、「財源」については具体的には語っていない。「強い経済」がつくれないときは、年金は確実に減る。「財源の裏打ち」については何も語っていない。2面を読んでも、消費税のうちいくらを年金にあてるかは言っていない。
 代わりに、こう書いてある。

 政府は消費税による負担増を約5・7兆円と想定し、軽減税率で約1・1兆円、10月に始まる幼児教育の無償化などで約3・2兆円分の負担を減らした上で、ポイント還元制度やプレミアム付き商品券の発行、減税など約2・3兆円の経済対策を行うことにしている。

 「年金」にいくらまわすのか。1円もまわさないようだ。これは「5・7兆円」の「増収」に対して「支出」はどうなっているか、みることでわかる。「支出」は「1・1+3・2+2・3=6・7」兆円。つまり、「消費税増税」からは、「年金」にまわすことを考えていないということだ。
 それどころではない。ここに書かれている試算では、消費税を増税しても「1兆円」もの赤字になる。どう言うことか。何が起きるのか。
 さらりと書かれている「減税」に注目しないといけない。「何税」を減税するか明記していない。住民税? 所得税? 違うだろうなあ。それならば、きちんと明記するはずである。きっと「法人税」である。「法人税」を減税することで、企業の経済活動をうながす。それによって経済を活性化させる。これは、「ものはいいよう」の類である。消費税で法人税を減らすという企業優先策に他ならない。企業も「消費税」を払わないといけない。その分を「減税」で相殺どころか、穴埋めしようとしている。
 安倍の考えている「消費税増税」の「財源」について書かれた「数字」から、そういうことが「裏打ち」できる。
 さらに「将来」についても考えてみよう。安倍の政策のうち、消費者が恩恵を受けるものに「プレミアム付き商品券」というものがある。これはプレミアムという具合だから、今回かぎり。つまり「将来的」にはなくなる。安倍がプレミアム商品券の「国家負担」をいくらと想定しているのかしらないが1兆円と仮定すると、来年度からは「1兆円」の赤字がなくなる。でも、それは「企業に対する減税」をやめるからではなく、あくまでもプレミアム商品券をやめるからだ。消費者には一回かぎりのプレミアム商品券で「恩恵があります」とごまかし、他方で企業への減税をつづける財源のために消費税がつかわれる。
 こういうテクニックで、安倍は企業を囲い込み、国民を貧困に追いやる。これがアベノミクスの「政策」なのだ。
 こういうことを、新聞はきちんと書かないといけない。だれそれが、こうこう言っている。それを「正確」にコピーするだけではなく、それはどういう「意味」なのかを分析しながら伝えないといけない。(私の「分析」は間違っているかもしれないが、そういう「分析」は成り立つ。)

 この日の報道でもうひとつ問題がある。他紙もそうかもしれないが、「党首」として紹介しているのは安倍・自民、山口・公明、枝野・立憲民主、玉木・国民民主、志井・共産、松井・日本維新、吉川・社民であり、「れいわ」や「おりーぶの木」などについては触れていない。参議院での「党」の要件を満たしていないからだろう。
 それは、ある意味では仕方がないことなのかもしれないが、ここから別の問題が生まれる。こういう報道の仕方では、既成政党の主張は伝わるが、「党」として認定されていない新しい団体、いわば「少数意見」は紹介されない。「少数意見」は存在しないことになる。
 少数意見を紹介しない「ルール」は、民主主義の否定につながる。少数意見を紹介する方法を考えないといけない。
 先日書いたことだが、「政党」を横断する形で、個性的な活動をしているひとを紹介するという方法もあっていいのではないか。以前、女性候補者が「マドンナ」と定義された時代には、各党の女性候補を紹介するということがあったと記憶している。既成の議員とは違う活動をしてきたひと、タレント候補の比較から始まり、多様な性を生きている候補、障害児をかかえる候補、認知症の老人を抱える候補、さらには本人が障害者であるという候補……。彼らの「声」を、党を横断する形で紹介するという報道があっていいはずだ。具体的な生活から政治をみつめるとどうなるのか、議員になることで何をしたいのか。彼らの声は、何よりも「自分が何をしたいか、自分にとって何が必要か」を明確にあらわしている。「国家」ではなく「個人」にとって問題なのは何かを具体的に語っている。その「声」からしかわからないことがたくさんあるはずだ。
 「政策次第で年金を増やせる」というのは「政策次第で年金を減らせる(その分を企業の減税にあてることができる)」という意味でもある。安倍自身は、自分の生活で「苦難」に直面していないから、個人の問題をテーマに政治を語ることができない。けれど国民はそれぞれ「個人の困難」を抱えている。同じ困難、苦難を抱えているひとが「政治」をどうかえたいと言っているか、その「声」を聞きたい。彼らが議員になれなかったとしても、その「声」から日々の暮らしを建て直すヒントが聞けるかもしれない。

 投票に行こう。もし、どこに投票していいか判断に迷ったら、「少数意見」を主張者に投票しよう。少数者が大多数のひとと同じように、しっかり生きていけるように、投票しよう。多様なひとが自由に生きられる社会のために。
 迷ったら、「れいわ」「山本太郎」と投票しよう。れいわから立候補しているひとは、それぞれが「自分の声」で語っている。だから彼らが語る「ことば」は「個別的」である。直接、「私」の生活にはつながらないものもある。でも、世の中はたいていが「私の生活」そのものではない。ひとはそれぞれが「私の生活」を生きている。自分の生活でせいいっぱいである。せいいっぱい生きているひとといっしょに生きていきたい、と私は思う。


#安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位 
 


*

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嵯峨信之『土地の名-人間の名』(1986)(50)

2019-07-08 09:01:03 | 嵯峨信之/動詞
* (余白の村にある未完の寺)

丘の上は一日中青空がひろがつていた
その他物音ひとつしない

 青空があるだけ。物音がしない。時間が止まったような世界。
 でも「その他」というのは何?
 「物音ひとつしない」というのは、静寂、あるいは沈黙。嵯峨は、その絶対的な沈黙を「音」として聞いており、それ以外の音は聞こえないと言うのだ。
 この沈黙は「余白」か、あるいは「未完」か。どちらでもない。完成した絶対的な充実である。

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