詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

嵯峨信之『土地の名-人間の名』(1986)(49)

2019-07-07 09:44:44 | 嵯峨信之/動詞
* (水の冠をかぶろう)

水の冠をかぶろう
光りにはたどりつけなくても水の国へはたどりつけるだろう

 「水の冠」はもちろん比喩である。しかし何の比喩だろうか。
 「水」の対極にあるものは「火」。「火」は「太陽」であり、「太陽」は「光」だ。二行目の「光り」を太陽と読むと、太陽の対極に「水」があるということになる。「光りの冠」がどこかで思い描かれていて、それとは対極にある「水の冠」を嵯峨は選びとろうとしている。
 太陽と天にあり、水は地にある。地よりも低いところにある。
 そして、もし「水」と「光り」に共通項があるとすれば、それは「透明」。
 天にある透明な光ではなく、地よりも低いところ、深いところにある水の透明さを選ぶ、と嵯峨は書いているのだと思う。













*

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やまもとあつこ『つきにうたって』

2019-07-06 21:44:31 | 詩集
やまもとあつこ『つきにうたって』(空とぶキリン社、2109年06月01日発行)

 やまもとあつこ『つきにうたって』は認知症の母との交流を描いている。以前、ある作品の感想を書いたことがあるが、感想は書かずにただ全行を紹介すればいいのかもしれない。
 「お花見」という作品。

母の車椅子をおして
お花見に行く

満開の桜を見上げながら
「ここに アッコが 来てたらなあ
 なんて言うやろなあ」
と 母

「あつこ ここにいてるよ
 ずっと 後ろにおるやん」
と わたし

そう言ったあとで
気づいた

母が言ったのは「あつこ」ではなく「アッコ」
小さい頃わたしは「アッコ」と呼ばれていた

風が

吹いてきた

「ここに アッコが 来てたらなあ」

かあちゃんの声



アッコに届いたよ

花びらと

いっしょに

 「かあちゃんの声//今//アッコに届いたよ」のぼつん、ほつんと書かれた三行が好きだ。
 「アッコ」と呼ぶ声が「あつこ」を「アッコ」に生まれ変わらせる。母は「アッコ」と呼んだ時代を生きていて、「あつこ」はその時代をいまに呼び戻す。二人の時間が、新しく重なり合う。いっしょに生きる。
 「いっしょに」ということばが、最終行に宝物のように書かれている。




*

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嵯峨信之『土地の名-人間の名』(1986)(48)

2019-07-06 15:49:01 | 嵯峨信之/動詞
* (未完のぼくを慰めよ)

未完のぼくを慰めよ
きみたちは集まつて広い余白になつてくれ

 「ぼく」は嵯峨であると仮定できる。だが「きみたち」は誰か。「きみたち」も嵯峨であろう。
 「未完のぼく」とは「未完のことば」、まだ「ことば」になりきれていない「ぼくのことば」と読む。「きみたち」は「未完のことば以前のぼくのことば」。「ことば」になるための運動がはじまっていない無意識の「領域」。しかし、いったん「未完のことば」が「完成」を目指して動くとき、それをささえることばがつぎつぎにうれまてくる領域。
 「未完のことば」は「余白」というよりも「空白」を必要としている。「未完のことば」がどこまでも自由に広がっていける「空間」が必要だ。「未完のことば」が自由に動き「ことば」として生まれるためには、何も書かれていない「空白/余白」が必要だ。













*

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嵯峨信之『土地の名-人間の名』(1986)(47)

2019-07-05 09:05:17 | 嵯峨信之/動詞
* (遠い島)

ぼくの持つたこの一日を
どのような文字で記そう

 ある一日。この一日。それを「持つ」という動詞でつかみ取っている。その上で「記す」という動詞が動く。
 「持つ」は自分のものにする。所有する。それをどう「記す」かは嵯峨の自由である。
 だが「一日」は抽象的だ。「文字」も抽象的だ。
 抽象は象徴と言い換えてもいいのかもしれないが、何か「遠い島」の「遠さ」そのものを見ている気持ちになる。












*

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嵯峨信之『土地の名-人間の名』(1986)(46)

2019-07-04 10:35:49 | 嵯峨信之/動詞
* (美よ)

ひとつの中間に漂うしずけさこそ
おまえが裸身をかがやかせるところではないか

 前後を省略した二行では「意味」がわからないかもしれない。しかし前後を引用してもわかりにくいだろう。「誤読」の要素が増えるだけかもしれない。
 詩はもともとわからないことを自分勝手に解釈する瞬間、「誤読」する瞬間に生まれる。だれが、いつ読んでも同じ「答え(正解)」になってしまっては読む意味もない。
 「しずけさこそ」「かがやかせるところ」。このつながりがわかりにくいのは「しずけさ」は「ところ」(場所)なのか、という疑問とつながる。「中間」ということばがあるから「場所(ところ)」という意識がうまれるのか。
 「かがやかせる」ところではなく、「かがやかせた」ところと読むと、「ところ」は「場所」のときもあるが「時間」のときもある。……し終わった「ところ」という言い方がある。
 「時空」も「時制」もいりまじっている。ゆらいでいる。嵯峨の意識のなかでは明確かもしれないが。
 何もはっきりしないのだが、その「あいまい」のなかで、「しずけさ」と「かがやく」が重なり、それが「美」になる、と瞬間的に思う。「しずけさ」の「かがやき」が「美」なのではないのか、と。











*

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安倍の「恫喝論理」(不安あおり作戦)

2019-07-04 09:46:23 | 自民党憲法改正草案を読む
安倍の「恫喝論理」(不安あおり作戦)
             自民党憲法改正草案を読む/番外276 (情報の読み方)

 読売新聞2019年07月04日朝刊(西部版・14版)の一面。

参院選きょう公示/首相消費税「10年上げず」/10月の10%後 党首討論で表明

 という見出しの記事の最後の部分。

年金抑制策について「現役世代の負担を抑制し、将来の給付を確かにするものだ」と理解を求めた。さらに「(年金抑制を廃止すると)今40歳の人が(年金を)もらう段階になって、年金は枯渇する。本当に良いの」と訴えた。

 「論戦(論理)」というのは「後出しジャンケンゲーム」である。つまり最後に言ったもののことばが「結論」のように聞こえ、それに納得してしまうことが多い。読売新聞はこの「論理の特徴」にのっかるようにして、最後に安倍の発言を引用している。
 「年金を抑制しないと、年金は枯渇する。それでいいのか」
 この「恫喝」は、「論理的」に点検しないといけない。
 枯渇の要因として、安倍は「年金を抑制しないと」という条件をつけている。つまり、別の条件なら枯渇しないことが考えられる。たとえば、共産党が言っているように「企業にきちんと法人税を納めさせる。高所得者の税金を上げる」という条件なら、どうなるのか。枯渇しないのではないか。
 さらに「年金抑制を廃止すると(年金を抑制しないと)」を「いまの年金制度をつづけないと」ということだが、これを「いまの年金制度をつづけると(いまの年金制度のままでは)」と言いなおして、それにつづく「論理」を考えると、こういうことも言える。
 「いまの年金制度をつづけると(いまの年金制度のままでは)」、老後の暮らしを維持できない。月々5万円の赤字になる。90歳まで生きると仮定すれば、2000万円不足する。いま問題になっているのはこのことなのに、安倍の「恫喝論理」は、それを無視した「すり替え論理」ということになる。
 老後の赤字不安を解消する。さらに現役世代の年金支給も保障する。そのためには、どうすればいいのか。解消策は、どうしたって「年金制度の改革」であり、それは言い換えると年金の原資をどこから調達するかという問題になる。
 方法はいろいろある。①年金確保のための税の創設(消費税というのは、たしか福祉を充実させるための税制であったはずだ)②現在の税制制度の見直し(法人税、累進課税の税率の見直し)③予算配分の見直し(たとえば軍事予算を減らす)④年金積立額を増やす(現役世代の負担を増やす)⑥年休支給開始を遅らせる(これはすでに自民党が主導してやっている)
 ちょっと思いついただけ(すでに言われていることを書き並べただけ)で、これだけある。そういうことを検討するための「資料」を提供することもジャーナリズムの仕事だと思うが、それをせずに安倍の「恫喝論理」を「結論」として書いてしまうのは、問題が大きい。首相が言ったから、それをそのまま書けばいい、ということではないだろう。
 だいたい国民の不安をあおってどうするのだ。安倍は「政治の安定」を主張しているが、国民の不安をあおっておいて、それで国民を抑圧する。その結果として「政治の安定」があるというのでは「恐慌政治」ではないだろうか。


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藤井道人監督「新聞記者」(再追加)

2019-07-03 22:56:57 | 映画
藤井道人監督「新聞記者」(再追加)

 安倍政権の「暗部」を描いたと話題になっている映画を批判するのは、少し心苦しい。「疵」には目をつぶって、「政治映画」を撮ったことを評価した方がいいのかもしれないが、私は、やはり気になる。
 こんな映画の撮り方でいいのだろうか。
 映画の冒頭、画面が揺れる。ハンディカメラで撮っているのだろう。ドキュメンタリーではよくあることだ。カメラマンが被写体に迫っていく。そのとき自然に揺れてしまう。これは、いわば観客に対して、この映画は「フィクション」ではなく「ドキュメンタリー」ですよ、と告げることになる。ドキュメンタリーでなくても、それに近いものですよ、という「演出」である。役者というよりも、制作側の「演技」である。
 これが、たとえば「仁義なき戦い」のように、最後までつづくのならいいのだが、途中から「手振れ」がなくなる。導入部だけドキュメンタリーを装って、途中からフィクションに「鞍替え」してしまう。
 象徴的なのが最後。女性記者がスマートフォンで電話をかけながら走る。このときこそカメラは揺れないといけないのに、揺れない。カメラはフィクションであると宣言し、女優に演技をさせる。クライマックスで、内閣調査室の男が、走ってくる記者に気づき、交差点の向こうで「ごめん」と唇を動かす。このときもカメラはぜんぜん揺れない。しっかりと男の唇の動きを映し出す。しっかり映し出さないと「ごめん」が観客に伝わらないから、と言えばその通りかもしれないが、はっきり映さなくても「ごめん」とわかると思う。日本人はだいたいこういう表情を読みながらことばを理解することになれている。ここで男が「ありがとう」とか「ばかやろう」と言わないことは、わかっている。
 で、これは、結局、観客の「感情」に訴えることで決着をつけるという「抒情」映画なのだ。
 このことが、私はいちばん気に食わない。
 政治の暗部を「抒情」にしてしまっていいのだろうか。
 問題の獣医大学が、自分の息子が獣医師になりたいといったから獣医大学をつくってやるという「加計学園」のような「人情もの」なら「抒情」でも笑い話にできるが、細菌兵器をつくるための大学なら「抒情」で終わらせてはだめだろう。人間を殺す、戦争のための学問の悪用を暴くのに、「抒情」でけりをつけるというのは、私は納得がいかない。
 映画を実際につくっているひとたちは、どういう思いで、この映画を見たのだろうか。つくるとしたら、やはりこんなふうに「抒情」で終わらせるのだろうか。そのことを聞いてみたい。

 (ユナイテッドシネマ・キャナルシティ、スクリーン2、2019年06月30日)
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嵯峨信之『土地の名-人間の名』(1986)(45)

2019-07-03 08:50:36 | 嵯峨信之/動詞
* (ぼくは何も批評したことがない)

美はついになにも語らない
ただ自分をかくすだけだ

 美が何かを語るとすれば、それは「批評」になるということか。「批評」というかたちで自己表現するのではなく、「批評」しないことによって自己表現をする。そのことを「かくす」と呼んでいる。
 隠してもあらわれるものが美ということになる。

 批評しない。では、美とはどう向き合えばいいのか。
 嵯峨は、ただ、いっしょにそこに存在する、といいたいのだろう。美がある。その存在の場所に自分の身を置く。そして、美の前で自分自身を消す(かくす)。












*

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読売新聞の記事に「わくわく」

2019-07-03 08:11:48 | 自民党憲法改正草案を読む
読売新聞の記事に「わくわく」
             自民党憲法改正草案を読む/番外275(情報の読み方)

 読売新聞2019年07月02日朝刊(西部版・14版)の一面。

参院選あす公示/370人立候補予定/21日投開票

 という見出し。なんでもない「予定ニュース」。読まなくてもいい記事(でも、書いておかないといけない記事)なのだが、読んだ瞬間、私はびっくりした。
 こう書いてある。

 第25回参院選は4日、公示される。年金を含む社会保障制度のあり方が最大の争点となる見通しで、自民、公明の両与党は過半数確保による「政治の安定」も訴える。

 「老後2000万円」問題が表に出てきてから、国民の多くの関心が「年金」に向いている。だから「年金を含む社会保障制度のあり方が最大の争点となる見通し」というのは常識的な見方といえるのだが、私は読売新聞がこういう書き方をするとは思っていなかった。
 安倍は「憲法改正の議論をする党を選ぶのか、しない党を選ぶのか」というようなことを「争点」として掲げていたはずである。それを追認していない。
 記事の最後で、こう補足している。(書き直している。丸数字は私がつけた)

 争点は
①社会保障制度のほか、
②首相の経済政策「アベノミクス」の是非や
③消費増税
④北朝鮮への対応を含む外交・安全保障政策などが見込まれる。
⑤自民党は憲法改正の議論を前進させるか否かを問いたい考えだ。

 安倍のいちばんの狙いが最後に付け足されている。
 ここからわかることは、読売新聞は、今度の参院選で自民党が議席を減らすと予測しているということだ。
 議席を減らせば「敗北」なのだけれど、「自民、公明の両与党」が「過半数確保」すれば「政治の安定」を国民が選択したという論理が成り立つ。つまり安倍は「負けなかった」という主張ができる。そう読んで、「予防線(?)」をはっているのだ。「安倍は負けなかった」と言うための「記事」なのだ。
 逆に言えば、野党が「老後2000万円」と叫び続ければ、自民党は議席を減らすということになる。②の「アベノミクス」なんて、もう、安倍も言わないだろう「道半ば」は賞味期限が完全にきれている。③の消費増税は①に直結する。簡単に言えば「老後2000万円」は「老後2040万円」になる。
 選挙なので、実際どう動くかなど、シロウト読者にはわからないが、読売新聞が、「憲法改正」ではなく「社会保障(年金問題)」次第で結果が変わると予測していることだけは間違いない。きっと自民党内部で、あわただしい動きがあるのだろう。それを反映している記事だと思う。

 枝野がどれだけ「社会の動き(国民の関心)」を把握できているかわからないけれど、山本太郎は明確につかみきっている。新党が何人候補を擁立できるかわからないが、今回の選挙の「目玉」だね。
 ということで、きょうの読売新聞の記事には、ちょっとわくわくした。




#安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位 
 


*

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小柳玲子『夜明けの月が』

2019-07-02 11:35:23 | 詩集
小柳玲子『夜明けの月が』(空とぶキリン社、2109年07月20日発行)

 小柳玲子『夜明けの月が』には死んだひとがたくさん出てくる。「黒い家」シリーズ(と、私は勝手に呼ぶが)には名前が書かれていない。きっと名前など必要としないくらい小柳の肉体にしみついて、生きているひとなのだろう。
 その「黒い家」。長めの行がつづいたあと、最後の二行。

それから夜が
一面に張り付いた

 とても印象的だ。アパートを借りる。窓があって、そこから「ボク」が見える。それがある日、消える。「ボク」が消えると、窓も消える。壁になる。そこから「しばらく夕日が差し込んでいた」。しかし、つかのま、

それから夜が
一面に張り付いた

 と展開する。
 「夜」とは何か。「事実」であると同時に「象徴(比喩)」である。そして比喩であるからこそ「真実」でもある。
 それが「張り付いた」。これは窓から壁に変わった、その壁に「張り付いた」ということなのだが、小柳の「肉体(思想)」そのものに「張り付いた」と読んだ。
 ひとには、忘れられないことがある。それが「記憶」になる瞬間を「張り付いた」と小柳は書く。「肉体」から引き剥がせない。「肉体」の内部に食い込む思想もあるが、「肉体」の表面に「張り付く」思想もある。
 それはいつまでたっても「鎮まる」ということがない。生々しく、また、まがまがしい。「黒い家」と否定的な修飾語で語るしかない。

 「北村太郎さんのこと」はタイトルどおり北村太郎の思い出を書いている。いろいろ書いたあと、高校時代に読んだ詩を思い出している。

どうしてこの詩が好きで こんなに年老いるまで覚えているのか
それもよくわからない
寂しい…って この世の頁のどこにはさまれているのだろう

 「張り付く」のかわりに「はさまれている」という動詞が動いている。「はさまれている」ものは、開くと出てくる。出た拍子に落ちることもある。そして、落ちることで、あ、ここにあったのか、と気づくこともある。
 「張り付く」に比べると、すこし「間接的」な感じがしないでもないが、「肉体」が感じる「異物感/違和感」はどちらも同じかもしれない。「はさまれている」の方が「内面」を感じさせるかもしれない。内面というのは、自分でもわからないものである。

寂しい…って この世の頁のどこにはさまれているのだろう

 「この世」を「この身(小柳の肉体/いのち)」と読み替えて読んだ。「はさまれている」は「さしはさまれている」と読んだ。「張り付く」との違いが、さらに鮮明になった。




*

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嵯峨信之『土地の名-人間の名』(1986)(43)

2019-07-02 10:44:20 | 嵯峨信之/動詞
* (ここに夕が)

ここに夕が あそこに朝が
並んだ日々のなかにずり落ちそうな一日が懸かつている

 「並んだ日々」のすべてを覚えているわけではない。ある日は「朝」を、ある日は「夕」を、書かれていないが、ある日は「昼」あるいは「夜」を覚えている。一日を印づけるのは、大きな出来事もあれば小さな出来事もある。
 「ずり落ちそうな一日」というのは、どんな記憶も呼び覚まさない日のことだろうか。思い出せるけれど「ことば」にすることができない日かもしれない。「ずり落ち」そう、しかし「懸かつている」。「……いる」は「いま」もその状態である、継続しているということ。
 ほんとうに書かなければいけないのは、その「一日」である。でも、書けない。










*

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嵯峨信之『土地の名-人間の名』(1986)(42)

2019-07-01 10:07:02 | 嵯峨信之/動詞
* (失われた恋は)

眠りに刻まれた笑い顔のように
つかのまになぜ消えてしまわぬのか

 恋は失われても、消えない。記憶は消えない。「失われた」という意識が残る。
 この「抒情の論理」よりも、「眠りに刻まれた笑い顔」という比喩が生々しい。
 「笑い顔」はだれの笑い顔だろうか。恋人のか、嵯峨自身のか。恋人の顔と受け止めるのが自然なのかもしれないが、私は恋が失われたことに気づき、むりやり笑った自分の顔かもしれないと、ふと思った。
 なぜ笑ったのか。
 悲しいのに、笑った。その「矛盾」が記憶に残る。後悔よりももっと深く。









*

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