詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

金堀則夫『ひの石まつり』

2020-04-08 22:50:14 | 詩集
金堀則夫『ひの石まつり』(思潮社、2020年04月01日発行)

 金堀則夫『ひの石まつり』の巻頭の「ひまつり」。

たいまつをもって
木木に積まれた木木に
たいまつの火をなげる
木が燃える 火は燃えあがる
火の中に人間でない亡き人たちがいる
人が火になって気勢をあげている
おもわずわたしというひとをなげいれる
わたしという生身のひとが
火になった人と火炎になって
そらにむかう
燐が真っ赤になって人の霊を蘇らせる
霊力の一線がそらに牽かれていく
わたしの霊は人ではなく火にならないひと
わたしの霊はひになれないで
燻っている
わたしのひは見ることができない

 私の育った田舎では、昔は、野辺で(山の中で)火葬した。おじが死んだとき、棺桶はどんな形をしていたのか。丸い樽のような形だったのか、直方体の普通の(?)柩だったのか、よくおぼえていない。途中で何が起きたのかわからないが、土台の組んだ木が崩れたのか、上に載せた木が崩れたのか、棺桶が火の中からあらわれ、死んだおじが立ち上がった。私は、それをいまでもおぼえている。その話は、だれかの葬儀のときに、何度かいことたちと話したことがある。
 そのことを思い出した。
 その野辺の火葬場は中学校へつづく道からわきにそれて山へ登って行ったところにある。日中はいいのだが、学校で何かがあって歩いて帰るとき、それが夜だと思わずその近くを走ってしまう。そういうことも思い出した。
 金堀が書いている「まつり」には、後半「浄化」ということばが出てくるが、浄化のための「まつり」なのだろう。また、まつりはもともと「浄化」を目的とした「祝祭」なのかもしれないが。
 この詩の中には「人」と「ひと」、「火」と「ひ」という具合に漢字とひらがながつかいわけられている。そして、その書き分けの境界線に「霊」ということばがある。
 「霊」とは何なのか。

存在感を失ったひが消されていく
人間になれない妄想のひとになっていく

 この二行に「ひ」「ひと」ということばがあり、「存在感を失った」「人間になれない」という否定的なことばが組み合わされている。さらに「消されていく」「妄想」というのも肯定的というよりは否定的な印象を引き起こす。
 「ひ」「ひと」ということばは、何か「否定」を含んだものがある。だが、ほんとうに「否定」されるべきものなのかどうかは、わからない。むしろ、「否定」しようとして、「否定」できないもの、「否定」にあらがうものを感じる。それこそ、「否定」できない何かが、

燻っている

 「霊」のように、明確なことばになれば、つまり「漢字(表意文字)」になれば、それは「肯定(意味のあるもの)」になることことができるのだが、いまは、そこにたどりついていない。
 未分節の何か、としての「ひと」「ひ」。
 こういうことは深く考えないといけないのだが、深く考えすぎてもいけない。考えすぎると、どうしても「論理」になってしまう。「論理」が先に立って、ことばを整え始める。そういうことをしてしまえば、私の感じたことは「うそ」になる。
 だから、私のことばを動かすのはここまでで「保留」して、先に進んでみる。ほかの詩を読んでみる。
 「非花の花根」という作品。「非花」は「ひばな」、「花根」は「かね」。金堀は、そうルビをつけている。 

からだのなかの
魂が火あぶりにされている
はげしいふいごの風に煽られ
心の芯が悲鳴となって燃え滾っている
まっ赤になったわたしが鉄(かな)敷(し)きにのせられ
うち叩かれ 火片が飛び散っている
パチ パチとはねているのか
バチ バチと鬼が云っているのか
トンチンカンと金槌でうつ激しいひびきで聞き取れない

 「鍛冶屋」の情景を想像する。(私は、実際には見たことがない。本で知っているだけだが。)そうすると「非花」は「火花」であるだろう。「花根」は「金=鉄」のことだろう。ここでは「表意文字(漢字)」が「ひらがな」を通って、別の「漢字」に変わろうとしている。「熟語」というよりも、万葉仮名のような感じだ。
 「ひまつり」とつなげて読むと「ひ」は「非」だったのか、と思う。
 さらに「霊」は「魂」のことか、とも。
 そしてこの「魂」は「鬼」と「云」という漢字に分解されている。「鬼」とは邪悪なもの。否定されるべきものだと思うが、その「鬼」が「云うこと」が「魂」なのか。「霊」は「霊魂」とも言うが、「霊魂」から「霊」を取り除いたもの、否定的な「霊の一部」が「魂」かもしれない。
 「魂」というと、普通は、「悪」というよりも「善」のあらわしているように思う。肯定的なものをあらわしていると思うが、金堀は、これを否定的にとらえていることになる。「燻っている」ものを、感じる。
 この「鍛冶屋」の情景は、こう展開されていく。

赤火のバチは不純ぶつとして吐き出され
血のバチは祖先から受け継いでいる
どこまでもトンチンカンとうち叩かれ
口から吐き出せない叫びが否となっていく
火でない非が 非である否が 飛び散っている
バツをうけるバチあたりがわたしの人生模様

 「ひまつり」の「ひ」は「否」であり「非」なのだ。そしてそれは「叫び」である。「叫び」と「声」であって「ことば」ではない。「音」であって「意味」ではない。それは「意味」を拒絶する何か、「意味」になる前の「ことば」なのだ。
 ここでも「声」(音)は「否」という「意味」に限定されない。「非」という意味にも限定されない。「否」と「非」には通じるものがあるが、同じでもない。
 「バチ」は「撥」であると同時に「罰」(バツ)でもあり、それは「叩くもの」があってこそ成り立つものである。対立すること、矛盾することで、瞬間的に姿をあらわすものである。
 だからこそ、こうつづくのだ。

魂の破裂で美しすぎる醜さがあらわにひらく

 「美しい」と「醜い」は反対概念である。しかし、それは互いが互いを必要としているのかもしれない。「醜い」という漢字のなかには「鬼」もいる。
 私たちは既成のことば(意味のあることば)でしか語ることができない。しかし、そのことばをぶつけあうとき、既成のことばの奥から、まだことばにならないことば(未生のことば)があらわれる。生み出される。意味の衝突(矛盾)が「破裂」して、そこから新しいことばが生まれる。
 そのことばが「魂の破裂」によって起きるものならば、それは「鬼」が「云った」ことばなのだ。自分のなかの、否定されるもの、否定してきたものが、否定を否定して(否には非ず叫んで)、生まれてきたものなのだ。
 この新しい「叫び」が「花」ならば、その「花」は「花根(金=鉄)」の歴史(鍛冶屋を生きた祖先)の「声」でもあるはずだ。

心の悲が 自負の炎苦の湯玉になっている
水責めで固まる まだわずかに非の鬼が生きている
からだの鬼がまた火あぶりとなり 金槌で叩かれる

 という行をなかほどに挟んで、詩は、こう閉じられる。

わたしのしかばねの破片がいつしか花根(かね)となり
地中からも 血中からも掘り出せない
土中の鬼火が燃え出て無になっていく
永遠にひの粉のかねはあらわれない

 「ひ」「かね」とふたたび「音」にもどることば。それは次の「漢字」を探しているのだ。これは永遠に続く詩の運動である。








*

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嵯峨信之『詩集未収録詩篇』を読む(25)

2020-04-08 12:56:57 | 『嵯峨信之全詩集』を読む

言葉

そのことは誰にもしゃべらなかった
言葉とは人間からそんなにも遠いのだろう

 「人間」はだれを指しているのだろうか。
 「相手」だろうか。「自分」だろうか。
 相手にはとどかないとわかっているから、ことばを発しないのか。そしてその相手は、すべての人間なのか。

 むしろ、自分自身にとって遠い。遠くて、自分にもはっきり聞こえない。だから相手に伝えることなどできない。ことばにならない「気持ち」だけがある。





*

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嵯峨信之『詩集未収録詩篇』を読む(24)

2020-04-07 10:25:13 | 『嵯峨信之全詩集』を読む

白い雨

ゲルニカの時はアコーデオンの
      馬の白い歯にまごうゆるやかな
    怒り

 何のことが、わからない。
 「ゲルニカ」はピカソの絵で有名な「ゲルニカ」だろう。アコーデオンの白い鍵盤を馬の歯に見立てたのか、ゲルニカの絵の馬の歯からアコーデオンを連想したのか。そして、それが「怒り」ということばに結晶しているのか。
 わからないが「まごう/ゆるやかな」ということばが印象に残る。
 なにかがことばになるとき、突然ことばになるものと、ゆっくりと時間をかけてことばになるものがある。
 どちらにも、それぞれの不思議な力がある。
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どの数字がほんとう?

2020-04-07 09:53:04 | 自民党憲法改正草案を読む
どの数字がほんとう?
       自民党憲法改正草案を読む/番外335(情報の読み方)

 
 2020年04月07日の読売新聞(西部版・14版)の1面トップ。

緊急事態 7都府県/福岡など1か月程度

という大きい見出し。新型コロナの感染者が急増しているためなのだが、私には、とても気になることがある。
 新型コロナに関しては「感染しても重症化するのは2割、8割は軽症ですむ」と報道される。だから、「軽症」の人は病院ではなく、自宅などで治療して、ということになるのだろうが、これは「軽症者」を入院治療させないための「方便」である。
 感染したら8割は軽症ですむのかもしれないが(これも適切な治療を受ければ、ということだろう)、2割は重症化するのである。
 そして重症化の先を具体的報道することは少なくなったが、死んでしまう可能性もあるのだ。死者の割合と、当初は「2~3%」というふうに言われていたと思う。そして日本の死者は、最近までは感染者の2%前後ということが多かった。
 けれど、現実は、全然違う。2面に世界の感染者と死者の一覧表がある。国名前、感染者、死者という順に並べると

米国   33万7971   9654
スペイン 13万5032  1万3053
イタリア 12万8948  1万5877
ドイツ  10万0186    1590
フランス  9万3780   8078
英国   4万8451    4934

 アメリカとドイツを除けば、たいていが「1割」なのだ。感染者が増えるほど死者の割合が「1割」に近くなっている。ドイツは徹底的な検査、管理態勢が効果を上げているのだと思う。アメリカは感染者の急増に分析が追いついていないのかもしれない。感染者とは認識されずに死んだ人がいるのかもしれない。
 この「死者1割」という事実は「大きな見出し」で新聞で報道されたことはないと思う。(私は読んでいない。)
 ここから考えれば、新型コロナに感染したら、

8割は軽症ですむかもしれないが、2割は重症化し、重症化したひとの半分、つまり感染者全体の1割は死ぬ

 というのが「事実」ではないのか。
 こういう「見方(表現)」は読者に不安を与えると判断し、新聞などでは避けているのかもしれないが、正確な情報とその分析を伝えないことには、気がついたらたいへんなことが起きていたということになる。
 そのことを、つづけて書いておく。(これからが、いままで書いたことより、実は大事なこと。)

 あるサイトで、医療関係者が「緊急事態宣言が出たら、反安倍派の人も協力しよう」というような呼びかけがあった。
 私は「協力」などはしない。自分のいのちを守るために自分のできることをするだけだ。安倍が何をやってきたか、何をやろうとしているか、それを報道機関はどう伝えているか、それを読みながら自分で判断する。安倍の行動(政策)ももちろん批判し続ける。批判しないと、独裁がさらに進むだけである。「死の不安」をみせつけておいて、言うことをきかないなら死ぬ目にあうぞというような脅しの政治に、そのまま従うつもりはない。
 たとえば、1面のトップ記事のなかほどに次の文章がある。

首相は6日、(基本的対処方針等)諮問委会長の尾見茂・地域医療機能推進機構理事長と会談した。尾見氏は首相に、東京など都市部で感染者が急増し、医療現場が危機的状況になっているとして、宣言を発令するよう求めた。

 とある。私はこの文章を読みながら、いままで安倍は医療関係者(たとえば尾見)に、積極的に情報を求めたのか、ということが気になる。安倍がこれまでに尾見を呼びつけ、感染者と医療現場の状況はどうなっているか、日々把握し続けたのかが気になる。尾見が言うまで、それを待っていた、というのでは困るのだ。
 「学校休校」のときもそうだが、安倍が関係者を呼び、そこで状況を聞き取り、さらには意見を聞いて「要請」を出したのか。そのときの「状況聞き取り」の「議事録」はあるのか、というようなことが問題なのだ。
 「現場」の声を聞く、「現実」を把握する、ということをしているかどうか、それが問題なのだ。尾見に「要請」をさせておいて、尾見に要請されたから「緊急事態」を発令する(ぼくちゃんの責任じゃない)という「逃げ道」を残したまま進める政策は間違っている。尾見の報告を聞き「それで対応できるか。対応できないのではないか。もし、ここで緊急事態宣言を出し、国民の行動を規制した場合、医療現場の状況はどう改善、あるいは維持できるか」というようなことを確かめ、そのうえで安倍の判断で決定しなければいけない。尾見から要請されたからではなく、安倍が方針を示し、尾見に協力を要請しないといけない。どうも、逆に思えるのである。
 だから。(ここからが、さらに大事。安倍の「うその政策」を「数字」で明らかにしておく。)

 私の読んだ限りでは、この緊急事態宣言の発令によって、今後感染者の増加スピード、死者の増加スピードは、これくらい減速する(減速させる効果がある)ということが、政府のことば(予測)としてはどこにも書かれていない。
 2面に

外出自粛6週間/都民に呼びかけ/都医師会

 という見出しで東京都医師会の尾崎会長の、

自粛すれば最初の2週間で新規患者が激減し、続く2週間で感染した患者が治り、最後の2週間を終えると街中の感染者がほとんどいなくなると説明し、医師会としての「緊急事態宣言」と位置づけた。

 という記事があるだけだ。
 そして、思い出したいのだが、この「6週間」は1面の

福岡など1か月程度

 とは合致しない。医療関係者は最低「6週間」は必要だと見ている。(実際、イタリア、スペインでも「1か月」では間に合わず、期間を延長している。)
 安倍は、ここでも医療関係者の話を真剣には聞いていないし、外国の実情にも眼をつむっている。現場から求められている「数字」を政策に正確に反映していない。
 「緊急事態宣言」は「1か月」では終わらず、少なくとも「6週間」はつづく。つまり延長しないといけない。そのとき安倍は、どういう「口実」を付け加えるのか。安倍の「野望」がそのときより明確になるはずだ。安倍は、「非常事態宣言」を延長するために、わざと「1か月程度」と言っているのだと考える必要がある。一度延長し、それが受け入れられれば、それをずるずると延長し続けることは簡単なのだ。安倍の「狙い」は、そこにある。国民の健康、いのちよりも、安倍が独裁者になるということが大事なのだ。























#安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位 
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嵯峨信之『詩集未収録詩篇』を読む(23)

2020-04-06 09:35:48 | 『嵯峨信之全詩集』を読む

海辺抒情2

思うことのない日だ
わたしの傍らには白紙のような一日がある

 「傍ら」とは、どういうことだろうか。
 「思うことのない日」であるなら、「白紙のような一日」の真ん中にいてもいいような気がする。いや、真ん中にいるのではないか、と思う。
 でも、嵯峨は「傍ら」という。
 それはまるで「人格」のようだ。「友達」のようだ。「スタンド・バイ・ミー」という歌がある。ふと思い出した。そばにだれかがいてくれる安心感。無為の一日ととなりあわせにいて、嵯峨が「白紙の一日」になってゆく。






*

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宍戸節子『ちょっと違うだけで』

2020-04-05 22:52:52 | 詩集
宍戸節子『ちょっと違うだけで』(土曜美術社出版販売、2008年12月25日発行)

 宍戸節子『ちょっと違うだけで』を読みながら、このひとはとても頭がいいんだと思った。何かが起きると(ものが変化すると)、それには原因があると考える。そして、その原因を客観的に突き止める。それを、そのあとで説明する。結果を事実から説明し、その過程を「共有」する。このことを「理解」と考えているようだ。まあ、理解にはちがいないのだが。
 たとえば「さわし柿」。

ひいばぁちゃんは果物屋で
練り柿を売っていた
風呂桶の湯に一晩漬けて
渋を抜いた甘い柿

 とはじまる。私の田舎でも同じことをやっていた。やはり「さわし柿」と呼んでいたが、「さわす」が「標準語」だとは知らなかった。「渋抜き」のことだが、九州でも言うのだから標準語なのだろう。(私は辞書を引くことが嫌いなので、間違っているかもしれないが。だから、「だろう」と書くのだが。)
 私の両親は、ただ単に「湯に一晩漬けておくと渋が抜ける」(アルコールをヘタをとって吹きつけておくという方法もあるが、これは父親が酒がもったいないというのであまりしたことはない)と言うだけで、その原因は説明しない。「湯に漬けておけば渋が抜ける」で充分納得できる。自分たちで食べる工夫だから、それ以上説明はいらない。渋が抜けていなかったら湯がはやく冷めてしまったからだ。そういうときは藁でつつんで漬ける、と新たな工夫を教えてくれるだけだ。
 宍戸は、こういう「説明」では納得しない人である。
 だから、詩のなかに、次のような説明を書く。

いまでは
炭酸ガスやドライアイスの
ガスさわし
アルコールや焼酎を噴霧する
アルコールさわしになった

さわすとは
糖からアセトアルデヒドや
エタノールを作ること

渋い水溶性のタンニンを
これらの力をかりて ペクチン質にくっつける
溶け出さないように

 なるほどなあ、と私はうなるのだが。
 ちょっと困る。こんなふうに「説明」されると、「反論」のしようがない。認識を「共有する」というととても正しいことのような感じがすると、ここまで徹底すると「共有する」というよりも「正しさの強要」と感じる人も出てくるのではないか。
 きっと多くの人は、わかったふりをしてしまう。「アセトアルデヒド」とか「エタノール」とか「ペクチン質」を自分の知っていることばで言い直せない。「直感」として納得できない。
 私は両親が言った「お湯に漬けておくと渋が抜ける」の方が「直感」として納得できる。お湯につかっていると(風呂に入っていると)なんとなく体がゆったりしてくる感じとかが「甘くなる」気分に似ているからかもしれない。自分のなかで「トゲ」がなくなってくる。それが「甘い」ということかな、と。風呂に入っているときの「肉体の変化」をいろいろなことばで説明すれば説明できるのだろうけれど、まあ、聞いても忘れるな、私は。
 「共有」が「強要」にならなければいいのだけれど、思っていると、詩は急展開する。

だれもいない家に帰ったとき
底しれぬ静けさを感じることがある
寂しさが水溶性となって沁みてきて
だれかと話さずにはいられない

 「だれもいない家に帰ったとき/底しれぬ静けさを感じることがある」という二行には、多くの人が「共感」するだろうと思う。「共感」というのは「感じ」を「共有」すること。同じ感じを体験したことは、多くの人にあるのではないだろうか。
 この感じを宍戸は「寂しさが水溶性となって沁みてきて」と言い直す。これは不思議な「比喩」だが、その比喩は、その前の連の「渋い水溶性」「溶け出さないように」と重なり合う。「溶け出さないように」は「沁み出さないように」でもあるだろう。そう読むと、ことばはいっそう重なりを強くする。
 そして、この「重なり」(比喩)を「正確」に語るために「さわし柿」をきちんと説明したということも理解できる。でも、その説明が「きちん」としすぎているために、なんといえばいいのか「誤読」する「スキ」がない。何か感想を言うと、その感じ方は論理的ではない(さわすという現象を正確に把握していない)と批判されそうな気がするのである。
 「共感したい」という気持ちはあるのだが、身構えてしまう。
 こうなると、詩を読んでいるというよりも、何か「試験」を受けているような、説教を聞いているような気持ちがしてくる。
 最後は、どうなるのか。

電話帳を繰り
だれかれとなく電話する
さっきの友人の電話も
心をさわすためだったのだろう

 「寂しさ」は「心」と言い直され、「さわす」という動詞のなかで一つになっていく。とてもよくできている詩だと思う。でも「とてもよくできている」というのは、詩としては弱点かもしれない。読者との間に「距離」ができてしまう。「よくできている」かどうかなんか関係なく、「好き」と言ってしまうのが、たぶんいい詩なのだと思う。
 「共感」というのは、たいてい説明できないものなのだ。説明できないから「共感した」と、便利なことば頼ってしまう。これを宍戸が詩に書いているように論理的、客観的に言い直さないといけないとなると、かなりしんどい感じがする。

だれもいない家に帰ったとき
底しれぬ静けさを感じることがある

 この二行は、ついつい自分に引きつけてしまう(自分もそうしたことがあったなあと思ってしまう)けれど、その「感じ」の説明を「さわす」という動詞をつかって、渋柿を甘くするところから語りなおされると、「共感」の「感じ」が「感じ」ではなく、「論理」になってしまうようで、うーん、と言ったあとことばがつまるのだ。







*

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嵯峨信之『詩集未収録詩篇』を読む(22)

2020-04-05 19:24:28 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
「旧小詩篇」から

水溜り

水溜りに手を触れるな
水溜りは小さな楽器のように壊れてしまうだろう

 目で見ていた風景が、突然音の風景に変わる感じ。音楽が突然風景のなかに流れ込んでくる感じ。
 それは聞こえないことによって存在する沈黙の音楽。
 






*

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「戦死」ではないのか。

2020-04-05 18:53:50 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
「戦死」ではないのか。
       自民党憲法改正草案を読む/番外334(情報の読み方)

毎日新聞デジタル版(2020年4月5日 16時49分、最終更新 4月5日 18時08分、https://mainichi.jp/articles/20200405/k00/00m/040/076000c?fbclid=IwAR38Az-7OBYJ39BprVMRfP2LoAvaVpoDxU9fPrGVR7mvEFqFhbpK6ipUlUY)の見出し。


「都内感染者の増え方、ほぼ想定内」東京都、1日最多の143人感染 2日連続の100人超


その記事のなかに、こんな文章がある。


感染経路が不明の患者の中には、感染者数が増えたことによって調査が追いついていなかったり、症状が重く聞き取りができなかったりする人も隠れているだろう。

↑↑↑↑
感染者の数も脅威だが、この記事部分は非常に重大な問題点を含んでいる。
感染が判明した段階で「症状が重く聞き取りができなかった」人がいるというのは、感染が判明した段階で「重症化」していることを意味する。
言い換えると、「重症化」するまで検査を受けられなかったということだ。
「検査しない」政策が、「重症化」した感染者を増やしている。
もし、その人が亡くなった場合、それは「安倍の未必の故意」にあたるのではないか。
政府の無策によって、国民の命が奪われるのだ。
これは多くの医療事故と同じように、きっと将来、「医療訴訟」を引き起こすことになる。

安倍の「東京五輪のとき首相でいたい、ぼくちゃんが首相、いちばん偉いんだと五輪で言いたい」という欲望のために、国民が死んでいくのだ。
新型コロナとの戦いを「戦争」とメルケルは呼んでいたが、日本国民は安倍の欲望のために「戦死」するのだ。無残な「戦死者」が、すでに何人も生まれているのだ。














#安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位 
 


*

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経済対策原案?

2020-04-05 18:35:08 | 自民党憲法改正草案を読む
経済対策原案?
       自民党憲法改正草案を読む/番外334(情報の読み方)

 
 2020年04月05日の読売新聞(西部版・14版)の1面トップ。新型コロナニュース。

アビガン200万人分確保/経済対策原案 5本柱/「緊急支援」「V字回復」2段階

 という見出し。「アビガン200万人分確保」はわかるが、そのあとの「経済対策原案 5本柱」とはいったい何事か。いまは経済ではなく、国民の命を守ることだろう。
 1面には、こういう見出しもある。

東京感染 初の100人超/全国368人 福岡市26人、1日最多

 全国で感染者が増えている。みんな自分の命がどうなるか心配しているだろう。また、治療費にいくらかかるか、という心配もしている。経済が回復するかどうか、ではなく、このままで生きていけるかどうかを心配している。その不安を取り除くことが大切だろう。
 いま必要なのは、病床の確保、人工呼吸器の確保、入院中の経済補償である。それがすんだら、新型コロナのために休業せざるを得なくなった人の経済補償(休業補償)である。
 経済の「V字回復」など、なくてもかまわない。収入が減ってもかまわない。生きていければいい。そのために必要な金さえあればいい。暮らしの質を落とすことはかまわない。もともと「ぜいたく」なんかしていない。それが多くの国民の気持ちではないのか。
 死んでしまえば、経済がどうなるかなど、何の意味もないのだ。

 たしかに「経済(金)」は大事だが、それが「最優先」では困る。病気の不安があるのに、経済(金)のことを考えるというのが、おかしい。「金のことは心配しないで、自分の体、健康のことを考えて」というのが、人が病気のときにかけることばではないだろうか。そして、実際に、そう行動するのが健康な人の仕事ではないのか。

 安倍の「経済第一主義」(2012年の、自民党の改憲草案先取り=前文に「経済活動」が書かれている)が、今回の新型コロナ対策に非常に大きな影響を与えている。感染がはじまって以来、何度も何度もマスコミに「医療崩壊」ということばが出てきているが、なぜ「医療崩壊」が起きるのか。病院の数が減っている。保健所が減っている、からではないのか。健康に金をかけず、保健所や病院を削減することで浮いた金を経済対策に回すから、病院が足りない、医師が足りない、看護師が足りないということになる。
 国民の「健康崩壊」が起きて、それに対応しようとすると「医療崩壊」が起きるというのは、国民の「健康崩壊」を前提とせずに「経済対策」がつくられているからだ。つまり、「医療崩壊」が起きるとしたら、それは「経済対策」が間違っているからである。
 だいたい「医療崩壊」と騒ぎ始めてから2か月以上もたっている。「医療崩壊」を防ぐために政府は何をしたのか。マスクを6億枚提供すると「やらせ記者会見」で発表したが、市中にはマスクは出回っていない。あわてて「布マスクを1住所2枚配布する」と言ったが、そんなことで「健康崩壊」を防げるのか。布マスクの配布開始は「再来週」ということだったが、不完全な「健康崩壊防止策」の実現を待っている間にも国民は新型コロナで死んで行くのである。

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嵯峨信之『詩集未収録詩篇』を読む(21)

2020-04-04 21:32:48 | 『嵯峨信之全詩集』を読む

詩篇

稲妻が走るたびに
闇のなかに盲目の顔が浮かぶ

 この二行は、どこかの詩に組み込まれているかもしれない。はっきりとは思い出せないが、読んだ記憶がある。(もちろん、この詩で読んだという記憶かもしれないが。)
 なぜ「盲目の顔」なのか。
 「盲目」と「闇」が重なり、自分が「盲目」になって稲妻に浮かび上がっているという自画像を連想してしまう。







*

詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
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野沢啓「暗喩の暴力性」

2020-04-04 21:02:48 | 詩(雑誌・同人誌)
野沢啓「暗喩の暴力性」(「未来」599、2020年春発行)

 野沢啓「暗喩の暴力性--言語暗喩論」を読みながら、私は脱線し続ける。野沢の書いていることは理解できるといえば私なりに理解できているつもりだ。もちろん、野沢は理解していない、誤読しているというかもしれない。しかし、こういうことは、いつでも、だれに対しても起きるだろうから、私は気にせずに読んで考えたことを書くだけである。
 野沢は「詩のことばの暴力性」と書いている。私も詩のことばは暴力的だと思う。そしてそれが詩の魅力だと思う。
 しかし、

ことばが何を語り出そうとするのか、ことばの自己運動がどのように、どこまで展開していくのか、詩人はことばに憑依した運動が収束するまで自身は自動筆記装置と化すほかはない。

ことばは手の切れるような尖端が振り回されているかぎり、どこに接触し着地するかわからない。このことばの暴力性、ことばのエッジを切りつける行為こそが詩の営為であるとしたら、詩のことばは既成の世界を攻撃し、破壊し、解体しようとさえするだろう。

 という文章を読むと、それは「散文」でも同じではないだろうか、と思ってしまう。
 たとえば、私はいまこうやって「詩」ではなく「散文(感想)」を書いている。書こうと思ったとき、何かがたぶん私に「憑依」している。そして、それは私のことばにも「憑依」していると思うし、私は、その私自身理解できない「何か」に身をまかせているにすぎない。ことばが勝手に動いていくのに身をまかせている。「結論」が何かわかっていて書いているわけではない。ただ思いつくまま「自動筆記」しているにすぎない。
 このとき、私は私のことばが何と接触しているのかわからない。野沢のことば(野沢の書いていること)に接触しているつもりだが、もしかすると「接触」ではなく完全なる「乖離」かもしれない。私のことばは、「接触」も「乖離」も判断せずに、何かを書きたいという欲望だけで動いている。野沢のつくりあげていることばの「世界」を攻撃し、破壊し、解体したいという「暴力」で動いている。どこへ着地するか考えたこともない。ことばが「暴力」を発揮し、気持ちが落ち着けば、そこでぱたりと動かなくなる。それだけだ。
 「暴力」がうまく動けば「批評」になるかもしれない。何の刺戟も引き起こさないとしたら「誤読」の空振り、ということになるだろう。そういうことは、しかし、他人が(野沢が、あるいは、野沢の文章と私の文章を読んだ人が)判断することであって、私にとってはあまり関係がない。私は、ことばをつかって、私がことばにしていないものを、ことばにしたいと感じているものを、ただ書いてみたいだけなのである。それは「無駄」かもしれないが、そういう「無駄」を人間に強いる「暴力」というものもことばは持っている。
 そして、その「暴力」は、あるときは「詩」と呼ばれ、あるときは「散文」と呼ばれるだけなのだと思う。
 たとえば「散文」の出発点(?)ともいえるソクラテス(プラトン)の対話。それは、当時の社会からは「暴力的(破壊的)」をものを持っていると判断されたから、ソクラテスは死刑になった。「詩」ではなくても、ことばは、いつでも「暴力的」なのものだと私には思える。
 だから詩のことばは確かに「暴力」だけれど、それが「詩の定義」になるかどうかというと、疑問に感じてしまうのだ。「散文」も暴力的だ。キリストのことばも、たぶん「暴力的」だから社会から弾圧を受けたのだと思う。そして、この「暴力」というのは、いつでも社会のあり方と関係してくるから、そのことばが存在する「世界」/そのことばが向き合っている「世界」と関係づけならが「暴力」の「暴力性」を定義しないと、どうも落ち着かなくなるように感じられる。
 私の書いていることばは、たとえば野沢の書いている「論理」を無視しているという意味では充分に「暴力的」だろうと思う。野沢の書いていることを理解し、それにそって考えようとせず、自分勝手に思うままに書いている。こういう「暴力」は、ふつうは受け入れられない。「誤読している」と切り捨てられる。それはつまり「誤読している」という「暴力」で私を否定するということである、と私は言い返すことのできるものであるけれど。

 ちょっとややこしくなったが。
 「暴力」というのは、定義がむずかしいし、「自動筆記」にしても定義がむずかしい。私は何を書くときでも「結論」を想定していない。いつでも「自動筆記」でしか書かないから、とくにそう感じるのかもしれない。

 さて。
 今回の野沢の文章では、一か所だけ「詩」が引用されている。宮沢賢治の『春の修羅』の「序」。

わたくしといふ現象は
仮定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です

 これについて、野沢は、こう書いている。

 賢治はここでみずからを未知の〈現象〉としていきなり出現させているのである。この〈現象〉が当時の詩においては斬新な科学的ヴォキャブラリーを擁し〈ひとつの青い照明〉として未知の世界へ身を入れていくかたちで詩を出動させたのが『春と修羅』の劇的な新しさなのである。

 「暴力」は「斬新/新しさ」と言い直されている。科学的なことばをつかうことが、それまでの自然描写や日常の言語を主体とした文学(社会)を「攻撃し、破壊し、解体」する力をもっていたということだろう。現代では、もうその「暴力性」は薄れているかもしれない。また、「現象」ということばだけではなく、この「現象」ということばが必然的に引き寄せてしまう(自動筆記させてしまう)「仮定する」「有機交流」という科学的(物理的)な文体をもったことば、さらに「電燈/照明」という連続性にも、それまでとは違った「文体」が「暴力」として働いていると思う。
 そう理解した上で、私がいま思うのは、

ひとつの青い照明です

 この一行の「青い」ということばについてである。「青い」は「現象」のように新しいことばではない。古くからあることばであり、それはたとえば「透明(透き通った)」とか「静かな」というようなイメージを抱え込んでいると思う。そして、そのことだけでいえば、そこには「暴力性」はないように感じられる。
 しかし、ほんとうは、ここにも「暴力性」はあるのではないか。
 「青い」はなくても、この詩は成立する。「青い」がない方が、より「科学的」な感じになるかもしれない。でも、賢治は「青い」と書いてしまうのだ。(「青い」ということば、たぶん賢治の多くの作品に登場する基調色だと思うが。)その一種の「無意識」の「好み」。こちらの方が、ほんとうははるかに「暴力的」かもしれない。
 「現象」「仮定」「有機」「交流」「電燈」というような、意識的な「科学的文脈」から外れているからである。
 言い直すと、「暴力」には当時の社会の意識を攻撃し、破壊し、解体するものがあると同時に、その時の「文体」そのものを攻撃し、破壊し、解体するものがあって、この方がはるかに強いのだ。意識できない根深いものがあるのだ。それは「社会」に対する賢治の「自然」のようなものだ。
 こういう「自然」は、「詩」だけではなく「散文」においてもあらわれてくると思う。(具体例をすぐには思い出せないが。)この「自然」もまた「自動筆記」である。そういう部分にも触れると、野沢の書いていることは、より刺戟的にあると思う。
 いま書かれている文章でも刺戟的ではあるのだけれど、ハイデガーとかヴィトゲンシュタインとか、外国の哲学が出てきて、そういうものを体系的に読んだことのない私は、どうも一歩引いてしまう。何か感想を書いても、「ハイデガー、ヴィトゲンシュタイン」を読んだ上で言っているかという叱責が耳元で聞こえる感じがして、苦手だなあと思うのだ。
 で、そういうことを書いたついでに、また脱線したことを書くのだが。

詩は言葉による存在の建設である。

 たとえば、このハイデガーのことばの「詩」を「法(律)」と読み替えることもできるのではないか、と私は考えてしまう。そのとき「存在」も「社会」と読み替えたいのだが。つまり、こんなふうに。

法は言葉による社会の建設である。

さらに

憲法は言葉による国家の建設である。

 と読み替えていくと、これは安倍批判になると思う。「言葉は存在の家である」も「憲法は国民の家である」と読み替えることができるだろうと思う。
 「文体」が抱え込むものは、とても大きいのだ。それを「詩」にだけあてはめるのは、私にはもったいない感じがするのである。「詩」も「散文」も、私は区別しない。同じ力をもっていると思うのだ。
 ヴィトゲンシュタインの「私の方法は一貫して言語における誤謬を指摘することにある」というのも、「私の方法は一貫して安倍の憲法(解釈)における誤謬を指摘することにある」という具合に利用することができる。そういう「文体」の力というものがある思う。また、このヴィトゲンシュタインのことばは、なんとなく、私には孔子の言っていることと通じるなあ、とも感じられる。
 どんどん脱線してしまったが。
 「詩」に特権を与えて、ことばを定義するという感じ、あるいはことばに特権を与えることで詩を定義するという感じに、何か疑問を感じる。
 私は、その場その場で、ことばと向き合うだけで、「詩」「散文」「政治」に違いはないと思う。









*

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死者の数は、世界でいちばん多くなるだろう。

2020-04-04 09:33:24 | 自民党憲法改正草案を読む
素人の見方
       自民党憲法改正草案を読む/番外333(情報の読み方)

 
 2020年04月02日の読売新聞(西部版・14版)の2面トップ。新型コロナニュース。

感染100万人/1週間で倍/全世界 死者5万人超す

 という見出しといっしょに全世界の状況が一覧表になっている。すでにフェイスブックでも書いたのだが、非常に気になることがある。
 中国・武漢で爆発的に拡大し、それが世界に広がったという状況だが、あとになって集団発生した国ほど感染者、死者が多い。
 韓国は武漢につづいて注目を浴びたが、いまは落ち着いている。感染者は1万人を超えているが死者は174人。
 一方、イタリア、スペイン(その他のヨーロッパ)、アメリカと見ていくと、話題になった順序としてはイタリア、スペイン、アメリカなのだが、大問題になったイタリアの状況は、4日付の新聞では感染者11万5242人、死者1万3951人、スペインは11万7710人、死者1万935人と、感染者はイタリアを超えてしまった。死者も追い越すかもしれない。アメリカは感染者24万5646人、死者6068人。感染者はイタリア、スペインをはるかに超えている。死者もこれから増えていくだろう。
 中国の数字(感染者8万1623人、死者3322人)がどれだけ正確であるかわからないが、感染者数ではドイツでさえ上回っているし、死者でもフランス、イギリスがすでに中国を上回っている。
 これには二つの「理由」(原因)が考えられる。素人の考えだが。

①あとになるほど検査が厳しくなり感染者、死者の把握が進んだ
②検査が遅れるほど、市中感染が広まり、感染者の増大につながった。検査をはじめたときは検査が追いつかない状態だった

 ①の場合なら、それは問題であるよりも、一つの「効果」と考えることができるが、②だと大問題だ。
 特に日本の場合を考えると、②の危険が非常に大きい。
 私たちはクルーズ船の大失敗を見ている。不十分な管理態勢の上に、検査も充分にしなかった。そのため検査を受けずに下船した人までいる。
 そしていま、日本で感染者、死者が加速度的に増えている。「②検査が遅れるほど、市中感染が広まり、感染者の増大につながった。検査をはじめたときは検査が追いつかない状態」になっている。感染経路がわからない人だらけなのだ。検査開始が遅れれば遅れるほど、問題は深刻化していると、素人の私は見る。
 ベルギー、オランダ、ポルトガル、スウェーデン、カナダ、ブラジルでも感染者、死者の数が日本よりも多い。アメリカでは西部の方が早く検査をはじめた。遅れた東部のニューヨークは問題が深刻化した。日本でも初動がうまくいった和歌山、北海道では問題が沈静化しつつある。ところが、初動が遅れた東京は深刻化している。どれも、検査の遅れと関連している。
 日本ではまだ「日本」と「クルーズ船」をわけているが、そういう「小手先」の数字を少なくみせる方法では、絶対に「ごまかし」のきかない状況になっている。
 日本は、欧米の諸国に比べると、「初期」と言える段階から新型コロナに向き合っている。しかし、そこで韓国のような徹底した検査体制をとらずに、ずるずると引き延ばしているのだが、その引き延ばしを感染者が追い越し始めている。検査されていない感染者が市中に信じられないほどいるに違いないのだ。そしてその「市中感染者」は検査開始が遅れるほど増えていくのだ。
 そういうことが、一覧表からわかる。

そうした状況の中、

「検査数少なく正確な評価困難」 在日米大使館が「予測困難」と米市民に帰国促す

というニュースが流れている。毎日新聞のウェブサイトである
https://mainichi.jp/articles/20200404/k00/00m/030/005000c

 アメリカも日本の検査体制に疑問をもち、アメリカ人の命をまもるのには帰国させるしかないと判断したということだろう。
 日本はこれから感染者、死者が急増する。それはイタリア、スペイン、アメリカを超えてしまうだろう。どれだけ増えるか、予測困難なのだ。アメリカはアメリカ国内の死者を最大24万人と予測していたようだが、日本はそれを上回る恐れがあると予告しているに等しい。

 なぜ、こんなことが起きたか。
 クルーズ船の初動対応がまずかったからだ。最初から「数字をおさえる」ということだけを目的にしていたからだ。そのため、世界に誤解を与えた。新型コロナはテキトウな対応でもそれほど深刻にならない。中国・武漢で大量に患者が出たのは、中国がまだまだ「文明国」ではないからだ。韓国も同じだ、という誤解を与えた。そして、その「誤解」はほとんど安倍の「偏見(人種差別)」と重なる。
 新型コロナが終息し、「検証」がはじまれば、絶対に安倍の対応が問題視されるはずである。何度も書いてきたが、日本は厳しく批判されるだろう。「事実」をごまかし、世界に新型コロナの危険性をつたえなかったのは、日本なのだ。(中国は数字に問題があるかもしれないが、少なくとも「危険性」と「都市封鎖」などの方法を正確につたえた。感染拡大を防ぐには「都市封鎖」しかないことを明確に実証した。)

 で、問題のクルーズ船だが。
 読売新聞(2面)に、小さな記事(1段見出し)があった。

クルーズ船対応/米代理大使謝意/「最高のケア受けた」
 
 なんともはや。ちょっと絶望的になる。クルーズ船の乗客が全員下船し、帰国したときならまだわかるが、なぜ、いま、こんな記事が載るのか。
 私のようにクルーズ船の初動に問題があった、それがいまの世界の混乱を招いていると指摘する声が、きっと出始めているのだ。それを「封じる」ために、こんな記事が書かれている。安倍の対応はアメリカから感謝されている。
 でも、感謝なんか、全然していない。それは先に引用した毎日新聞の記事を見ればはっきりわかる。アメリカは日本を信頼していない。世界各国がアメリカにならうだろう。中国(武漢)から、世界が引き上げたように、日本から世界が引き上げていく。
 安倍を信じたら、みんな死んでしまうのだ。死者の数は、世界でいちばん多くなるだろう。


















#安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位 
 


*

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なぜいま「医療崩壊」を言うのか(その2)。

2020-04-03 10:57:09 | 自民党憲法改正草案を読む
なぜいま「医療崩壊」を言うのか(その2)。
       自民党憲法改正草案を読む/番外333(情報の読み方)

一般社団法人 日本集中治療医学会が「新型コロナウイルス感染症(COVID-19)に関する理事長声明」を出した。
https://www.jsicm.org/news/statement200401.html?fbclid=IwAR2oslF1vVMcS-vkk4WR8zmDj09wcx6oV1HN1Imt_-dRImW5V2KFYai4PDY

私がいちばん疑問に思うのは、なぜいまごろになってこういう文章が出るか、ということ。

「重要なことは、本邦のICUは2対1看護でありますが、重症化した新型コロナウイルス感染症患者の治療をICUで行うには、感染防御の観点からも1名の患者に対して2名の看護師が必要であるということです。これは、8床のICUでは、新型コロナウイルス感染症の患者2名を収容した時点でマンパワー的に手一杯となり、通常の手術後の患者や救急患者の受け入れさえもできなくなる事を意味致します。」
↑↑↑↑
こういうことは医療現場では「常識」ではないのか。
だからこそ、中国・武漢の様子がつたえられたと、「医療崩壊」が起きる、と叫ばれたのだと思う。
そして「医療崩壊」させないために、検査を少なくする、検査の精度は低いのだからする必要はない、症状が出てから「感染している」という疑いが強い人だけ検査すればいいという体制がとられてきた。
そして、それが「感染経路が不明」な感染者を増やすという現状につながっている。
その間、「日本集中治療医学会」は政府に対してどんな働きかけをしたのか。
ICUを増やせ、看護師養成のための準備をしろ、というようなことを働きかけたのか。
「医療現場」のひとは「医療崩壊」というが、国民が直面しているは、自分自身の「健康崩壊」。
「医療崩壊」がどうして起きるかと考える前に、国民の「健康崩壊」がどうして起きるのか、ということを考えるべきではないのか。
国民が「健康崩壊」を起こさない限り、「医療崩壊」は起きない。
国民が「健康崩壊」をおこしたとき(あるいは、それが予想されるとき)、どうすれば「医療崩壊」がおこさずにすむか。
医療体制の充実しかないだろう。
中国で大問題になってからすでに2か月以上たつ。
いままで「医療現場」は何をしていたのか、なぜ、政府にもっと働きかけなかったのかと不思議でしようがない。
一気に患者が増えるのは困るが、毎日、治療できるだけの患者が継続的に来る限りは「もうかる」。そういう「もうかる」システムを維持したいというだけなのではないか。

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嵯峨信之『詩集未収録詩篇』を読む(20)

2020-04-03 10:49:42 | 『嵯峨信之全詩集』を読む

自由人

ぼくは呪う
ぼくは拒む

 と書いて、そのあと「何を」呪うのか、「何を」拒むのかを書き続ける。
 そして、それはだんだん長くなる。
 それがおもしろくない。
 書き出しの短いリズムのまま、ことばが展開するなら、「自由」が強烈に輝く。ことばが長くなると「叫び」ではなく言い訳になる。
 「呪う」「拒む」という動詞が「言い訳」といっしょに動くのは、感情を論理が上回るからである。これは、おかしい。
 論理を突き破って動く何かが「呪う」ということである。「拒む」ということである。「論理的」である限りは「自由」とは言えないのだ。「論理の自由」さえ、そこにはないのだ。




*

詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
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嵯峨信之『詩集未収録詩篇』を読む(19)

2020-04-02 09:58:39 | 『嵯峨信之全詩集』を読む

それだけのものだが

ぼくは籠の中に見知らぬ花をいれる
息を切らしている小さな花を
あざむかれた昨日の花を

 「見知らぬ花」。しかし、それが「息を切らしている」ことがわかる。花の肉体に、嵯峨の肉体が同調する。
 道にうずくまる人がいる。そうすると「腹が痛いのだろう」と感じる。腹が痛いとき、腹を抱えてうずくまった経験が肉体の中に残っているからである。おぼえているからである。肉体は体験したことを忘れない。
 「息を切らしている」は「あざむかれた」ということばに変わる。「息を切らす」には原因がある。花の場合は「走る」ということはない。肉体を激しく動かすわけではない。しかし、肉体が動かないときでも、意識、感情は動く。動き回り、動き疲れて、「息を切らす」。
 花は「女」であるかもしれないし、未熟な「少年」(嵯峨の記憶)であるかもしれない。




*

詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
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