午後から雨。連休が明けると、これなんですか? まいったね。
でも、この雨、夕食後に聴いた落語には良い雰囲気をつくってくれたかも。
五代目志ん生の「藁人形」。
いったいどうして、こんな演目が古典落語として残っているのか、首をかしげるような噺なんです。
千住の宿場女郎の板頭(ばんとう:筆頭遊女)であるお熊という女が、二階の手すりにもたれて、下を通る西念という乞食坊主に声をかけるところから、話は始まります。
お熊は23歳。若い頃から男と浮名を流して身をもちくずし、こんな場末の女郎になり下がった年増です(昔の女の人は盛りが若かった)。母親の命日だからお経をあげてくれといって西念を呼び込み、これを縁に取り入って、「旦那に見受けされることになった。絵草紙屋の良い出物があって、買ってくれると手付を打ったが、残りを払わないと別へ売られてしまう。あいにく旦那は今、留守だが、戻るとすぐに返せるから40両、どっかで借りてもらえないかしら」と、西念にもちかける。年老いた西念を親がわりのように思っているから、ゆくゆくは引き取ってそこで一緒に暮らそうよ、とも。
喜んだ西念は、喜捨を長年かけて溜めた全財産40両を、お熊に貸してしまう。
後日、西念は風邪にかかり、薬代に困ってお熊を訪ねる。お熊は、「カネはないから、無理だ」と冷たい態度。西念は騙されていたのだった……。
ということで、このお坊さんが、騙した女を呪い殺そうとする。ま、最後にはしくじってしまい、ふざけた感じのオチとなるのですが、西念の恨みはもってゆき場がなく、一方のお熊はのうのうと暮らしてゆくのだと察せられます。ただただ陰々滅目々としているだけの噺で、聴き終わってしばらくはボー然としてしまいました。
世の中こんなもの、というひとつの真実を突きつけているんでしょうか。あまりにもヒドイがゆえに忘れられず、時が経つとまた聴きたくなったりするのかもしれません。異色の落語ではあります。
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