金融そして時々山

山好き金融マン(OB)のブログ
最近アマゾンKindleから「インフレ時代の人生設計術」という本を出版しました。

山登りも人生も降りの方がスキルがいる

2017年09月05日 | シニア道

登山で登りが楽か?降りが楽か?と聞かれたならば大方の人は登りが楽だと答える。

登りが重力に逆らうのに対し、降りは重力を味方につけるからだ。

だが怪我や道迷いの可能性が高いのは登りではなく降りの方だ。降りでは筋肉がサポートできる以上の負荷が膝やくるぶしにかかり、用心していないと関節を痛める可能性がある。

分岐点などで間違ったルートに入ってしまう可能性が高いのも降りだ。降りでは勢いがついているので、道標等を見落としてしまうことがあるからだ。ルートを間違えた場合、元に戻ればよいのだが、「このまま降れば里にでることができる」などと谷筋に迷い込み事故につながる場合もある。

総じて登山では登りよりも降りの方がスキルがいるのである。

上野千鶴子さんは「男おひとりさま」の中で「これまで人生の上り坂のノウハウはあったが、下り坂のノウハウはなかった」「上りより下りの方がノウハウもスキルもいる」と書いている。

もっとも現在では「エンディングノートの書き方」など「終活本」も増えているから世の中にノウハウは蓄積し始めている。しかしそのノウハウの内自分に合うものを見つけ「降り上手」になるには叡智が必要だろう。世の中にはとんでもないノウハウ本もあるからだ。

ところで山の降りと人生の降りでは共通点も多いが大きな違いもある。

違いの一つは「登山では終着点がはっきりしている」ことだ。一方人生の降りでは終着点がはっきりしない。死は最終的な終着点だがその前に記憶力や意思能力を失うこともあるし、身体能力を著しくそこなうこともある。第一いつ死ぬかを予想することは不可能だ。

人生の降り坂の難しさは自分で終着点(目標)を設定することの難しさと言っても良いだろう。

もう一つの違いは人生の降りでは時間の経過とともに確実に能力やエネルギーが乏しくなっていくということだ。

登山で降りの方が事故が多い原因の一つは疲労が蓄積してくることがあげられる。疲労が蓄積し注意力が散漫になったり、筋肉のふんばりがきかなくなるからだ。ただし登山のベテランになると、最後まで力を残しておくようにペース配分することで疲労リスクを回避することができる。

ただし人生の降り坂ではそこまでペース配分をすることは難しい。老後のために資金を取っておくなどある程度のリスクヘッジ手段はあるとしてもだ。

登山では同じ標高差を降るにしても、距離が短く傾斜のきついルートと距離が長く傾斜がゆるいルートを取ることができる場合がある。参詣登山の多い山では前者を男坂、後者を女坂と呼ぶことがある。

降りに自信がない場合は女坂を時間をかけて降る方が良い。降ると決めたなら時間的余裕をもって、足をいたわりながら、道を確かめながら確実に降るのが良い。これは山登りにも人生にも共通することだ。

★   ★   ★

人生という山坂の登り方・降り方(キンドル電子本)
著者等: 沢利之
ASIN: B00LYDWVPO

 

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「引出し論」の続き~無駄な引出しは処分した方が良い

2017年08月23日 | シニア道

先日ブログで「良いシニア生活を送るには自分の引き出しを充実させるのが良い」と書いた。

自分の引き出しを充実させると良いのはシニア生活だけはない。働いている最中でも「引出しの数と大きさ」は極めて重要だ。

ただ働いている時、役に立つと考えていた引出しの中には、会社や組織を離れると無用であるばかりか害になる引出しもある。害になる引出しは早めに処分した方が良い。

害になる最大の引き出しは、「会社や組織固有の価値観やルール、仕来り」というものだ。会社や組織は従業員の業務能力と忠誠心を引き出すために様々な仕掛けを作っている。従業員の競争心を煽り、組織の階段を登ることが人生の目標であるかのように思い込ませるのもその仕組みの一つだ。

このような「引出し」はシニア生活では害以外の何物でもない。

これ程の害はないにしろ「会社や組織固有のルール」というのも、会社や組織を離れると意味はない。そこで必要なのは「共通語としてのルール」だからだ。雇用の流動性が高い社会では、人が幾つかの会社や組織を渡り歩くことを前提としているので、会社や組織は「固有のルールより共通ルールの採用」を心掛けている。日本の退職者は、退職後地域社会等新しいグループに参入し難いと言われているが、その原因の一つは「固有ルール」に縛られ「共通語としてのルール」に慣れていないことによるだろう。

有害な引出しや無駄な引出しは早めに処分して役に立つ引出しに置き換えた方が良い。人間のキャパシティには限界があるので不要な引出しを取り去らないと新しい引出しを置く場所がないからだ。

ところで引出しの中には有効期限の短い引出しと有効期限の長い引出しがある。勤めていた時の業務知識などは有効期限の短い引き出した。

これに較べて語学力など基礎学力の引出しは有効期間が長い。いつでもどこでも役に立てる場所があるからだ。

最も有効期間が長い引出しは「学習する姿勢と方法論」という引出しだろう。学び続ける資質と言っても良い。新しいことを学び続ける意欲と言っても良い。

この引出しがある限り、世の中の変化についていくことができるだろう。陳腐化し時には害になる引出しを処分して有効期限の長い引出しに置き換えることができるかどうかが、良いシニア生活を送ることができるかどうかの分かれ道なのである。

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良い老後は「引出し」で決まる

2017年08月21日 | シニア道

最近読んだ「定年後」(楠木 新著 中公新書)は中々読みやすい本だった。読みやすいという意味は最初から終わりまですっと読めるという意味である。著者は同年代の保険会社出身の人で、理屈よりはエピソード的な実例の紹介が多いので読みやすいのだ。もっともエピソード的なので著者が一番言いたいことはあまり強調されていないともいえる。理屈っぽい本では主題が何回も繰り返されるので、著者の言いたいことを見つけるのは簡単なのだが。

私は著者が一番言いたいことは「定年後の目標は『いい顔」で過ごすことだろう。そうすれば息を引き取る時のいい顔であるに違いない。逆に言えば、定年後は『いい顔』になることに取り組んでみればいいわけだ」という一文に込められていると判断した。

その一文の前にはカナダ北部の原住民ヘヤー・インディアンの話がでてくる。ヘヤー・インディアンにとって最も大切なことは「良い死に顔」をして死ねるかどうかだという。なぜなら「良い死に顔」をして死んだ者の霊魂は再びこの世に生まれ変わることができるからだそうだ。

無論ヘヤー・インディアンの信仰?をフィクションだと笑うことは簡単だ。しかし概ね世界の宗教は似たようなフィクションを信仰の中心に据えている。善行を積んだものが、天国に行くか?天上界に生まれ変わるか?あるいは再び人間界に生まれ変わるか?という違いはあるが、善い行いをしたものが、満ち足りてつまり良い顔をして死ぬという筋書きに変わりはない。

一方定年後にどうすれは『いい顔』をして過ごせるか?ということについて、著者は単一の答を用意していない。人それぞれに充実した人生の送り方があるので、単一の答がないのは当然だろう。

一つの答えはないが、ある類型はあるのではないか?と私は考えている。

多くの人は人との繋がりの中で「充実した人生」を見出していく。そこをスタート点に考えてみよう。

マズローの欲求5段階説に従えば、少なくとも3段階目の「社会的欲求(帰属欲求)」が満たされないと人は孤立感や社会的不安を感じやすくなるという。つまり帰属欲求が満たされることが「充実した人生」の必要条件と考えてよいだろう。ただしこれは必要条件であり、「充実した人生」を実感するには更にその上の「尊厳欲求」(4段階目)や「自己実現欲求」(5段階目)が満たされることが望ましい。

ではどうすれば「帰属欲求」やその上の「尊厳欲求」「自己実現欲求」を満たすことができるのか?

私はそれは「自分の中にどのような引出しを持っているか?」で決まると考えている。引出しの中身は「社会経験に基づくバランスのとれた判断力」でも良いし「音楽・芸術など特定分野での技能」でも良いし「語学力・資格試験合格」などの職業スキルでも良いと思う。

または「古地図の収集・解読」「野鳥の観察」などといった趣味の引き出しでも良いだろう。後述するようにお金そのものでも良い。

とにかく何か引出しを持っていることが大切だと私は思う。人のキャパシティを引き出しを並べる壁にたとえてみよう。小さな引出しは壁に沢山並べることができるが大きな引出しはあまり沢山並べることはできない。しかし大きな引出しには沢山のものを入れることができるが小さな引出しには余りものは入らない。

つまり人には色々なタイプがあって、色々なことに少しづつ手を広げる人もいれば、特定分野を深堀する人もいるということだ。

だが私は引出しの大小にかかわらず、自分のキャパシティという壁面に引出しを揃える努力をしている人の引き出しは必ず他人に利用されることがあると思っている。

 他人が自分の引き出しに関心を持った時、つながりが生まれ、それが社会的欲求が満たされる第一歩となる。もし他人が引出しの中身を使いたい・欲しいといえば、それを喜んで使わしてあげ、分けてあげたら良いと思う。引出しの中身を使った人があなたに感謝すれば、尊厳欲求が満たされるだろうし、更に引出しの充実を図れば自己実現につながるのではないだろうか?

私の結論は「充実した人生を送るには自分の引き出しを充実させる」ということだ。もしその引出しの中に人に分け与えられるほどのお金が入っていればそれも素晴らしいと思う。そのお金を困っている人のために差し上げれば良い。引出しの中に「健康や自由な時間」が入っていればそえをボランティア活動に活かすことができる。

要は自分のキャパシティの中に「他人に役立てることができる引出し」をどれ位持つことができるか?が充実した人生を送ることができるかどうかの鍵なのだ。

その準備は早い方が良いが、遅きに失するということもないだろう。佐藤一斎は「老いて学べば即ち死して朽ちず」と言っている。私はこの言葉を人は生涯引出しを作り続けるべきだという意味に解釈している。正しいかどうかは分からないが。

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日本人のトレッキング・ドイツ人のトレッキング

2017年08月20日 | シニア道

「定年後」(楠木 新著 中公新書)のあとがきで著者はこう書いている。

「会社で働いていたときははツアー旅行やパック旅行だったと言えるかもしれない。目的地に行くのに会社がある程度お膳立てをしてくれる。もちろん社員の自由度がないわけではないが、基本は自己主張をせずに仲間に合わせている。・・・しかし定年後になっても平穏で波風が立たないパック旅行ばかり求めていては、何のために生きているのか分からなくなる」

この一文を読んで私はネパールにトレッキングに行った時会ったある日本人グループとドイツ人グループの違いのことを思い出した。

その日本人グループとはエベレスト街道の入り口ルクラで会った。それは大手旅行会社が企画するエベレストホテルツアーのグループだった。エベレストホテルは標高3,800mのナムチェバザールに建つ高級ホテルで、徒歩ではルクラから2日間かかる。だがそのグループはヘリコプターでルクラからナムチェバザールまで飛ぶ予定だということだった。費用はかかるがヘリコプターなら短時間で楽に(もっとも高度順化の問題はあるが)ホテルに入ることができる訳だ。あるツアー参加者は「一生に一度のことですから、多少の贅沢も良いでしょう」と言っていた。

それから10日ほど後、トレッキングの帰り道で退職者の集まりと思しきドイツ人グループと親しくなり、芝生の美しいロッジでビールを飲みながら雑談をした。彼らの中には既に何回かネパールに来ている人がいた。「ネパールは素晴らしい。滞在費用は安いので年金暮らしでも毎年のように旅行することができる。俺たちはできるだけ多く旅行できるように、一回の旅行費用はできるだけ抑えてBudgetな旅をしているのだ」と言う。

正確にはBudget(悪く言うとケチケチ、良く言うと賢い)という言葉を使っていたかどうか記憶はあいまいだが、彼の主旨がBudgetな旅行をしてできるだけ多く楽しみの機会を増やす、ということであったことは間違いない。

もちろん日本人の中にも豪華ツアーではなく、Budgetなトレッキングを行う人もいる。私たちの仲間もそのグループだ。ひょっとするとドイツ人の中にも豪華旅行組がいるかもしれない。しかし典型的には「日本人は日本人ガイド付きの豪華旅行を一生の記念に行い」「ドイツ人はケチケチ旅行を何回も行う」ことを目標にしているように思われる。

うがった見方をすると、これは退職後の海外旅行のスタイルだけではなく、働いてい時の余暇の過ごし方から違いがあるような気がする。ドイツ人は労働時間が少なく、しかも生産性が高く、有給休暇を目一杯とることで有名だ。有給休暇を目一杯とるのはドイツ人だけではない。恐らくほとんどの欧米人が有給休暇を目一杯とって遊んでいるはずだ。彼らは遊びの楽しさを知っているし、どうすれば安く長い休暇を過ごすことができるか?ということに長けているのだ。

会社というパック旅行に乗ってきた多くの日本人は残念ながら、長い休暇を安く過ごすことに長けていない。

長い休暇の過ごし方に慣れていないので、退職後という膨大な長い休暇を前にすると、立ちすくむ人がいるのではないだろうか?

パック旅行に較べて、自分たちでお膳立てして出かける自由な旅は、ハプニングや小さなトラブルに見舞われることが多い。だがハプニングや小さなトラブルからその土地や人々の本当の姿が見えることがある。自由な旅こそ本当の旅というべきである。

歳を取ってから見知らぬ土地に自由な旅に出かけるのは、多少勇気がいるし、気が重いと感じる人も多いだろう。

しかし会社や役所を退職すれば、旅に出なくても、未知の世界を自分の足で歩いていかなければならない。そこにはお膳立てしてくる会社や組織はない。ならば若い時からパック旅行ではない個人旅をしてみてはどうだろうか?

それはひょっとすると長い老後の過ごし方にヒントを与えてくれるだろうと私は考えている。

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団塊世代、SNSを使う人使わない人の差は?

2017年08月20日 | シニア道

最近読んだ「定年後」(楠木 新著 中公新書)の「遠くの田舎より目の前のスマホ」の中に次のような文章があった。

「(最近写真撮影に趣味を見出し、facebookなどのSNSにアップすることもある)Nさんが言うには、自分たちのような団塊の世代では、パソコンやSNSを使いこなせる人とそうでない人がいる。しかしそういうツールを使えないと人とのつながりが広がらないというのが実感だそうだ。・・・・Facebookやブログを開設していること自体がすでにオープンな姿勢なのである。興味や関心のあることを自分の中だけにとどめず広く発信することも、居場所を作るための一つの方策になるだろう。SNSなどは都会と地方との距離の差を埋めることもできるという。遠くの田舎よりも目の前のスマホかもしれない」

私の知人・友人は50代後半から60代後半が多い。この知人・友人(以下このグループ)の属性をベースにSNSを使う人・使わない人の差はどこからくるのか?ということを考えてみた。

まずこのグループのメンバーは、得意不得意の差はあるが、全員がパソコンを使うことができる。会社で電子メールなどの利用が必須だったからだ。だから技術的には全員SNSを使うことができるといえる。

次にスマートフォンを利用しているかどうか?の区分を考えてみた。一般的には若い世代ほどスマートフォンの利用が多く、年齢が上がるにつれて利用が減ると言われているがこのグループについては必ずしもこの知見に合致しない。

何がスマートフォンを使うか使わないか?を分けているか見極めるのは難しいが、一つの傾向として「会社経営層・自由業層はスマートフォン利用者が多く、従業員層は少ない」と判断した。Facebook等のSNS利用についても同じ傾向があると判断した。

その理由として次のようなことが考えられる。

  • 経営層・自由業は金銭的にゆとりがあるのでスマートフォン利用に抵抗がない。
  • 経営層・自由業は自分で時間管理ができるのでスマートフォンを使って、情報収集を行ったり、情報発信を行うことが容易である。
  • これに較べて従業員層は、会社から業務用の携帯電話を支給されていることが多く、それに加えてスマートフォンを持つことに必要性を感じない場合が多い。
  • 従業員層では、一般的な情報発信よりも業務に関する情報収集が重要課題であり、それはパソコンを使って行うことができる。

次に写真撮影が好きかどうか?ということとSNSの利用について考えてみた。

このグループは山登りの好きな人が多いので、大方の人は写真撮影を行っている。写真撮影を3つのカテゴリーに分けて考えてみた。

「一眼(レフ)カメラを使って凝った写真撮影を行うグループ」「高級コンパクトカメラを使ってスマートフォン転送などを行うグループ」「コンパクトカメラで写真を撮影するがあまり人に配らず自分で楽しむグループ」

前二者とSNSの関連は非常に高いが、「自分で楽しむグループ」はSNSの利用が少ないといえる。

次に趣味の世界における帰属集団の強固さという点から考えてみた。このグループには某大学山岳部OB会というかなり仲間意識の強い団体のメンバーが複数いるが、この仲間はSNSの利用が少ないことが分かった。

以上のことから直観的にSNSの利用・未利用は次のような違いによるのではないか?と判断した。

  • 経営層・自由業は情報の収集・発信が重要な仕事であり、また広い人的ネットワークの構築に関心が高いのでSNSの利用に熱心である。
  • 写真撮影についてはあるレベルに達すると自分の作品を公開して評価されたい(いいね!を押して欲しい、仲間に褒められたい)という欲求が高まるので、レベルの高い写真を撮影する層ではSNSの利用が多い。
  • 趣味の世界で強い帰属集団を持つ人はその仲間で完結する傾向が強いので公開SNSを利用することが少ない。

以上は私の周りの仲間を観察して得た私の直観である。

なおSNSの利用が人のつながりを広げることは間違いないだろうが、その繋がりはあくまでネット上の淡い繋がりである場合が多いことは留意すべきだろう。淡い繋がりが濃い繋がりになるためには、やはりface to faceの付き合いが必要なのだ。

ただ取っ掛かりとして私はシニア層や準シニア層がSNSを利用して人との繋がりのきっかけを増やすことは良いことだと私は考えている。何かを発信するということは、自分を深めるチャンスでもあるからだ。

 

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