金融そして時々山

山好き金融マン(OB)のブログ
最近アマゾンKindleから「インフレ時代の人生設計術」という本を出版しました。

それぞれの道にそれぞれの幸せあり

2017年08月07日 | シニア道

沢には独立して暮らしている二人の娘がいる。沢は一度も娘たちに結婚しなさいなどと言ったことはない。沢の妻は娘たちが20代の頃は時々結婚のことを話題にしていたが、その都度気まずい思いをしたので、今は話題にすることはない。

友人たちが孫の話を話題にする時など沢も自分にも孫がいれば、山登りに連れて行っただろうなどと思い、多少の寂しさを感じることはある。一方結婚した娘が離婚し、家に戻ってきたなどという話を聞くと不仲になって苦労するのであれば、結婚しない方が良いのではないか?と思うことがある。人の幸不幸は結婚だけでは測ることができない。

マクロ経済や生活設計論に詳しい沢からすると、経済的には結婚する方が有利だ、と主張したい思いはある。しかし経済的に有利だからといって結婚を強いるのは、主客転倒である。いわば馬の前に馬車を繋ぐようなものだからだ。

最近では「卒婚」という言葉を目にするようになった。仕事や子育てが一段落した夫婦が夫や妻という役割から解放され独立した個人として自由な生き方を行うため、結婚を卒業するという意味で、離婚とは違うという。「卒婚」という言葉が市民権を得るとすれば、初めから結婚しないという選択や事実婚という選択もありだろう。

世の中は少しずつだが確実に個人の自由な生き方を尊重する方向に動いている。個人を家族や会社から取り戻す時なのである。

「個人を家族や会社から取り戻す時」と言ったが、沢自信は結構自由な会社生活を送ってきた。それは他人を踏みつけて我儘な振舞をしてきたという意味ではない。むしろ沢は部下や周りの人間が「やりたいことをやる」ことを手助けしてきたと思っているし、同時に自分のやりたいことを一定の枠組みの中でやってきたと考えている。一方沢は「働くものは給料泥棒になってはいけない。生涯賃金の10倍程度は稼がなければならない」と主張し実践してきた。なぜならそれが人間としての矜持の源だからだ。

矜持なくして人は幸せな人生を送ることができない。

何か矜持を持っている限り、娘たちは自由な生き方をすれば良いと沢は考えている。それぞれの道にそれぞれの幸せがあるというべきだろう。

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母の無駄な料理が懐かしい・・・

2017年08月07日 | シニア道

週末に京都に帰った。父の新盆と妻の母の回忌法要のためである。

今老母は弟と暮らしている。正確に言うと弟家族と一緒に暮らしているのだが、義妹や姪たちは仕事を抱えており、母の世話は一種の自由業者である弟に負うところが大きい。

元気な時代の母は料理が大好きで、我々が帰郷すると、食べきれないほどの食事を用意してくれた。母の中の私は10代20代の食べ盛りのまま止まっているようで、医者の「食べ過ぎに注意してカロリーを抑えなさい」という言葉は届いていない。

しかし母は最近では台所に立つことが少なくなり、夕食も買ってきたお寿司を中心に弟が簡単なものを用意してくれた。丁度食べ切る位の分量で無駄がなかった。

故郷を離れ、やっている仕事も母に簡単に説明できるものでなくなってくると、話題は乏しくなってくる。母としてはその乏しい会話を埋めるためにも、我々家族に食べ切れないほどのご馳走を振舞うしかなかったのだろう。そして今ではそのご馳走を振舞うこともできなくなったと思うと寂しさが募った。

母は95歳を超えている。95歳を超えるともう親しい親戚や友達はいない。父が生きていた時は、ニュースの好きな父から時事解説を受けていたが、最近はあまりテレビも見ていないようだ(耳が少し遠いからだろうか)。

勢い話題が乏しくなり、我々との会話も父の話などの堂々巡りになってしまう。

母を連れてドライブでもして、少し景色の良いところにでも行こうか?などと考えない訳ではなかったが、多少予定がタイトなことや夏の暑さを理由に今回は見送ってしまった。

年を取るということは、同じ話題を持つ同年代の人が少なくなり、やがていなくなるということである。ある程度若いと老人ホームに入り親しい仲間を見つけるという方法もあったろうが、長年夫婦二人で寄り添ってきた母はそんなことを考えもしなかった。

そしてこの道はやがて我々が歩いていく道でもある・・・

どうすればよいか?今の私にはまだ答えはない。ただ元気だった頃の母の無駄な料理が懐かしく思われる夏の京都だった。

 

 

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聖地へ旅を計画中・・・

2017年07月28日 | シニア道

今年の秋はネパールのゴサインクンドという聖地へトレッキングをしてみたいと考えている。

ゴサインクンドは首都カトマンズの北にあるランタン山系の入り口にある標高4千mを超える高地で108つの湖があると言い伝えられている。

108というのな仏教が教える煩悩の数である。そう、そこは仏教徒とヒンドゥ教徒がともに聖地としてあがめ、毎夏多くの人が巡礼に訪れる。エルサレムがキリスト教・ユダヤ教・イスラム教という一神教の聖地であるのと軌を一にするのだろう。

私は特に強い宗教心を持っている者ではないが、聖地には魅了される。

古来聖地に憧れる人が多かったので巡礼の旅というものが盛んだったのだろう。こんなことを言っては宗教心の強い人には叱られるかもしれないが、聖地巡礼には遊びの要素もある。代表的なものは日本のお伊勢参りや落語で有名な大山詣などだろう。

もっとも五体投地をしながら聖山カイラスの周りをまわる熱心な仏教徒の姿を見ると遊びの要素など微塵もないとも思うが。

人はなぜ聖地を憧れるのだろうか?

それはひと時なりとも「聖なる環境に身を置き至高体験をしたい」からだと私は考えている。至高体験というのは、欲望五段階説で有名なマズローが唱えた概念で「深い感動を伴う個人としての最高の体験」を指している。

我々俗っぽい人間は「悟り」などとは程遠いが、ひと時なりとも至高体験をすることでこの世界と人生のすばらしさを感じることは可能だ。

高い山の上で朝日が昇るのを見ると多くの人が素晴らしいと感動する。その感動が至高体験なのだ。「至高」に比較級があるのは変だが、やはりより聖なる場所から朝日を拝む方が「至高」度合いは高いのではないだろうか?と思い、4千mを超えるヒマラヤの聖地へトレッキングという現在の巡礼の旅にでようと私は考えている。

もっとも宗教心の乏しい私の巡礼は、一日山を歩いた後はビールを飲んで歓談のひと時を過ごす。ただ高度が上がるにつれお酒の量は減ってくる。高山病を警戒して体があまり受け付けなくなるようだ。恐らく4千mを超える宿泊地ではお酒は一滴ものまないかと思う。また高所では肉はなく野菜中心の食事になる。

高所への巡礼の旅は、自然に潔斎するようにできているのである。そしてそれが至高体験につながっていくのだろう。

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お金のかかる趣味を2つもつのはNG?

2017年07月27日 | シニア道

時々日経新聞のマネー研究所からニュースレターが入る。今日はテーマは「趣味とバカンス」でお金のかかる趣味を2つ(以上)持つのは家計を圧迫する、家計が圧迫されると定年後も見据えると一生付き合える趣味ではなくなるから、お金のかかる趣味は一つにしてお金のかからない趣味と組み合わせて楽しみなさいというものだった。

記事によるとお金のかかる趣味は「スポーツ」「旅行」「車」「グルメ」「カメラ」などで、お金のかからない趣味は「読書」「カラオケ」「料理」「ガーデニング」などだ。

確かに美味しいものを食べるにしても、自分で作るのとレストランに行くのではお金のかかり方は違う。趣味やレジャーというものは、人生に楽しみを与えるものだから、趣味に溺れすぎて人生が狂うようだと本末転倒というのが、ライフプランナーの方達が示す一般的な処方箋であることは間違いない。

だが趣味の中には、お金のかかる趣味が必然的に2つ(以上)重なる場合がある。例えば「登山」や「旅行」と「カメラ」という組み合わせだ。総ての登山者や旅行客がお金のかかる一眼(レフ)カメラを持っている訳ではない。むしろ最近ではスマートフォンのカメラ機能が飛躍的に良くなっているので、もっぱらスマートフォンをカメラに使っている人も多い。

しかしながらデジタル一眼愛好者としては、やはり素晴らしい景色をあの手この手を加えて、より素晴らしく再現したいと思うものである。素晴らしい景色やシャッターチャンスは街中にもあるが、やはり山や海など遠方に出かけると素晴らしい景色に会う可能性は高くなる。

という具合にある種のお金のかかる趣味は必然的に他のお金のかかる趣味と結びつくというのが私の意見だ。

ではそのような趣味は止めるべきなのか?

それはその人の価値観と懐具合によって決まるというしかない。

趣味や遊びというと人生のサイドディッシュのようなものだ、という人がいるが、私は必ずしもそうは思わない。

「仕事は楽しく遊びは真剣に」という言葉を社是としている会社がある。その会社の社長さんは私のスキーの師匠なので、時々私はこの言葉を引用させて貰っているが、趣味も一流と言われるほど極めることで、何かが見えてくるのではないだろうか?

そして真剣に遊ぶ人が仕事に新しい価値をもたらす可能性は高いのではないだろうか?と私は考えている。

長い人生を破綻なく過ごすには、生活費のコントロールを含めてマネープランが重要であることは間違いない。しかしお金はより良い人生を送るための手段であり、目的ではない。

趣味に対して私の意見は「一流」と呼ばれる域に達するような趣味を持つべきだ、ということだ。「一流」というのは、何とかコンクールで受賞するといったことではないが、少なくとも仲間から頼りにされるレベルだろうと思う。そのような域に達するには、何事であれ、お金と時間はかかるものだ。

そういった意味ではマネー研究所が「お金のかかる趣味は1つにしなさい」というアドバイスには傾聴するべきところがある。

人生にとってお金と時間は限りがあるので、二兎を追う余裕はないからだ。

ただ実際に私の友人や知り合いを見ていると、結構マルチに多少お金のかかる趣味を楽しんでいる人がいることに気が付く。

これは仕事の世界で「何をやってもそつなくこなす」人がいるのとどこか共通するところがありそうだ。実は「そつなくこなす」人は個々の仕事に精通しているというよりは、如何にしてその仕事の肝を抑えるか?というある種のメタ学習法に通じているのである。

同じように複数の趣味を楽しむことができる人は「遊びを習得する」学習法に通じているのではないか?と私は考えている。

結局のところ「お金のかかる趣味を二つもつのはNG」というのはごく一般論で、キャパシティがあれば、お好きにどうぞということになる。ただ趣味はサイドディッシュに過ぎないから程々に、という視点は私には味気ないものに見えるのである。

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生涯学習とは何を学ぶことなのか?

2017年07月11日 | シニア道

高齢化時代に入り、「生涯学習」をいうことが改めて脚光を浴びています。

さてその学習の対象はなになのでしょうか?

少し前の文部科学白書を見ると「社会・経済の変化に対応するため、人々は絶えず新しい知識や技術の習得に迫られている」と書いてあります。平たく言うとパソコンが普及してきたからパソコンを操作する知識を、スマートフォンが普及してきたからスマートフォンを操作する技術を身に付けなさいと言っていると思います。

もちろん現代社会の中で積極的な生き方を続けるためには新しい知識や技術を習得することは必要です。そのための勉強は脳を活性化し、ボケ防止につながることは間違いないと思います。

しかし社会や経済の変化に終わりはなく、それに対応する知識や技術の革新にも終わりはありません。限りのある人生をもって終わりのないものを追いかけるのは、少しむなしい気がします。それは終わりのないものを追いかけている間にもっと大事なものを見失っているのではないか?という気がするからです。

生涯学習という言葉は今出来の言葉ではありません。江戸末期の儒学者佐藤一斎は「少(わか)くして学べば、則ち壮にして為すところあり。壮にして学べば、則ち老いて衰えず。老にして学べば、則ち死して朽ちず」と言っています。私はこの原典(言志晩録)を詳しく読んでいないので、佐藤一斎が「なにを学べ」といっているのかは断言できませんが、技術革新の速度が緩やかな江戸時代のことですから、新しい知識や技術を学べと言っているのでないことは確かです。

推論すれば「人生の真理」のようなものを学び続けなさいと一斎は言っているのだと思います。

「人生の真理」とは何か?それは人は生まれて死ぬという当たり前の道理を腹に落として知ることだと思います。

「生まれては死ぬるものなり おしなべて 釈迦も達磨も 猫も杓子も」と言ったのは一休禅師です。この当たり前の道理=真理は私にも分かるのですが、腹に落ちているとは言えません。

総ての個体は死ぬ。しかし命の連環は続いていく。むしろ個体が死ぬことで、新しい命が育つ場所を提供することができる。それによって種としての命は続いていく・・・

理屈では分かるこの種としての命の連環を腹に落として理解し、それに相応しい行動をとることを学ぶことが本当の生涯学習の目的ではないか?と私は考え始めています。もっとも未だ頭での理解の域を出ませんが・・・

 

 

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