金融そして時々山

山好き金融マン(OB)のブログ
最近アマゾンKindleから「インフレ時代の人生設計術」という本を出版しました。

現在の北朝鮮と戦前日本のある相似点

2017年09月14日 | 歴史

最近「飛行機の戦争1914-1945」(一ノ瀬 俊也 講談社現代新書)を読んだ。丹念に原資料に当たりながら「日本軍=大艦巨砲主義」という常識を覆そうとする力作だと思った。

著者はあとがきの中で「本書に何か現代的な意味があるとすれば、一国の戦争はその国民の同意なしには不可能であり、軍や政府は人びとの傍観を決して許さずにその手法や勝ち目についての啓蒙、説得をつねに試みる、強制はあくまでも最後の手段であるということだ。」と述べている。

本文の中に近衛文麿の有名な論文「英米本位の平和主義を排す」からの引用があった。「近衛の主張は、第一次世界大戦後における米英が自分の都合のいいように押した立てた『国際連盟、軍備制限」という旗印に日本をはじめとする他国がうかうかと乗ってしまえば武器を取り上げられ、あたかも従順な羊の群れのように英米に従うほかなくなるだろう、というっものであった。」「近衛にとって軍備とは、貧しい日本が厳しい国際環境のなかを生きぬくために必要不可欠なものだったのである。」

この文章を「近衛→金正恩」「第一次世界大戦→朝鮮戦争」「米英→米国」「国際連盟→国際連合」「軍備制限→朝鮮半島の非核化に関する共同宣言・核兵器不拡散条約」「貧しい日本→北朝鮮」「軍備→核・ICBM」と読み替えると今日の北朝鮮の主張そのものになる。

私は近衛の主張や北朝鮮の主張を是とするものではない。戦前に日本には他の選択肢があったし、現在の北朝鮮にも他の選択肢がある。

また現在の北朝鮮と戦前の日本では異なる点が非常に多く、同じ土俵で論じることはできない。

ただし「国民を啓蒙する手段として同じロジックが使われている」ことは興味深い。

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真田幸村・直系子孫の方のお話を聞いてみませんか?

2016年04月02日 | 歴史

中々人気が高い今年のNHK大河ドラマ「真田丸」。

主人公の真田信繁(幸村)と長男・大助は大阪夏の陣で戦死しました。しかし次男の大八が東北仙台で生き残り、現在まで命脈をつないできたことはあまり知られていません。

その真田家の当主・真田徹氏が、5月14日(土曜日)一般社団法人 日本相続学会・甲信越ブロックが長野県・松本市で開催するオープンセミナーで講演を行われます。ご案内はこちら

歴史好きなものとして聞いてみたいと考えています。

何故大八は仙台で生き残ることができたか?

それは真田幸村と伊達政宗の間にある密約があったからではないか?と真田徹氏は考えておられます。

これ以上お話するとネタバレになりますので、ご関心のある方は「真田幸村の真実」をお読みください。

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「杉原千畝」からインテリジェンス問題を考えた

2015年12月12日 | 歴史

映画「杉原千畝 スギハラ チウネ」を見て、駐ドイツ大使大島浩について感じたことは前のブログで書いた。

今は更にそれを広げて、戦前の日本のインテリジェンス問題を考えてみた。まずインテリジェンス=情報活動は、二つのレベルに分けられる。英語でいうとインフォメーションとインテリジェンスである。インフォメーションは集めてきた生情報であり、データである。その生情報を分析・加工し、政策の企画・立案のための知識に高めたものが、インテリジェンスである。

非常に大雑把にいうと、戦前の日本は英米に較べ、インテリジェンスを使って政策決定を行うことがうまく機能しなかったといえる。そのことを独ソ開戦前夜の動きを見ながら考察してみたい。

【年表】

1939年8月23日 独ソ不可侵条約締結

1939年8月28日 杉原千畝 リトアニアのカウナスに領事として赴任

1939年9月1日 ナチス・ドイツ、ポーランドに侵攻

1939年9月17日 ソ連、ポーランドに侵攻

1940年6月14日 ナチス・ドイツ、パリに無血入城

1940年6月15日 ソ連、リトアニアに進駐

1940年7月18日 杉原 千畝、ユダヤ人にヴィザ発給開始

1940年8月31日 杉原 千畝、リトアニア退去

1940年9月27日 日独伊三国同盟締結

1941年4月18日 大島大使、杉原等の情報を元に「独ソ開戦が近い」という警告電報を東京に打電

1941年6月22日 独ソ開戦開始

「日本軍のインテリジェンス」(小谷 賢)によると「インテリジェンスを担当する参謀本部第二部や海軍軍令部第三部は、独英戦争におけるドイツの優位をそれ程強調せず、特に第三部は英空軍を善戦を強調し、損害は独空軍側が大きいと主張していた」「しかし。ここれらの情報は、英米に偏り過ぎた情報、もしくは『雑音』として処理され、大島浩駐独大使をはじめとするベルリンからの親独的な情報ばかりに注目が集まっていたのである」ということだ。

大島は1941年4月に独ソ開戦が近いという情報を打電するが「(ソ連から)帰国した松岡外相が否定的であり、陸海軍も独ソ開戦せずという空気であったので、そのまま見送られた」

一方5月に大島電報を解読した英国のチャーチル首相は米国のローズヴェルト大統領に「ドイツの対ソ攻撃が迫っている。もし新たな戦線が開かれれば、我々は対独戦争のためにロシアを援護するべきだろう」という秘密書簡を送った。

日本の政府首脳や軍部は「客観的事実に基づいた判断」ではなく、「独ソ開戦はない(だろう)から、日米開戦もない(だろう)という自分にとって都合の良いシナリオにそって情報を取捨選択」したのである。

日本が第二次世界大戦に踏み込んだ大きな理由はドイツの軍事力(戦力+国力)を過信し、かつその野望(ソ連との戦争)を見抜けなかったことにあるといっても良いだろう。

「杉原 千畝」はインテリジェンスの重要性を改めて考えさせる映画である。

なおインテリジェンスが重要なのは戦争や政治の世界だけではない。我々の回りにも「儲け話」のような怪しい情報は飛び交っている。生の情報を鵜呑みにするのではなく、それをインテリジェンスに高める情報処理能力がないと情報氾濫時代を無事に乗り切ることは難しくなっているのである。

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嫉妬の硫黄島守備命令

2006年12月18日 | 歴史

今年の12月はちょっとした硫黄島ブームである。私もクリント・イーストウッド監督の「父親たちの星条旗」を観て次にこの映画の日本側バージョンともいうべき「硫黄島からの手紙」を観ようとしているところである。もう封切られているのだが、ちょっと用事が続き映画館に行くのは来週以降になりそうだ。

さてこの間旅行をする機会があったので、新幹線の中で城山三郎の「硫黄島に死す」という短編小説を読んだ。この小説は硫黄島で戦士した男爵西竹一騎兵中佐が硫黄島に渡る時から死ぬまでの短い期間を描いている。西中佐はロスアンゼルス・オリンピックの大障害レースで見事金メダルを獲得した人である。

騎兵将校といえば硫黄島守備隊の最高指揮官栗林忠道中将も騎兵科出身であった。栗林中将は馬政局長時代に「くにを出てから幾月ぞ・・・」という愛馬進軍歌をつくらせて、軍馬への国民的な関心を高めた人であり、見識・指揮能力の高さから騎兵将校の鏡といわれた人である。

栗林中将と西中佐。騎兵科将校という以外に共通点はあるのだろうか?西中佐は外務大臣を父親に持ち、外車やモーターボートを乗り回すという派手な人生を送った人。栗林中将については謹厳かつ極めて優秀な指揮官のイメージが強く相反するところが多そうだ。

しかし私は一つの大きな共通点があると思っている。それは二人が親米派と見なされていたことだ。栗林中将はカナダと米国の駐在武官を務めたことがある陸軍では数少ない海外通で親米派とみなされていた。オリンピックで活躍し、海外に知己の多かった西中佐がまた親米派とみなされていたことは有名である。「硫黄島に死す」には次の様なくだりがある。「アメリカに知人が多く、開戦前はグルー駐在大使も訪ねて来たりしたため、(親米派の不良軍人)の烙印が捺されていたのだ。」

陸軍の誰が何時栗林中将や西中佐に硫黄島守備を命じたのかということについて私は知らないが、二人を絶対絶命の硫黄島に送ったことについて私は親米派に対すると憎しみと嫉妬、騎兵に対するやっかみと嫉妬があったのではないかと推測している。

「硫黄島に死す」は騎兵の華やかさについてこう語る。「長靴に拍車をつけ、馬上颯爽と指揮をとる騎兵仕官は、たしかに諸兵科の花形である。士官たちは、ひとりでに、ある程度、伊達者にならざるを得なかった。」

しかし馬は戦車に取って代わられ、日本軍ではその戦車の補給も続かなくなる。その時西中佐はほとんどろくな戦車もない硫黄島に戦車連隊長として出陣を命じられたのである。これは騎兵将校の中でも飛びぬけた伊達者であった彼に対する嫉妬以外の何者だろうか?

親米派とみなされていた栗林中将のもとで日本軍は太平洋戦争中唯一我を上回る死傷者を米軍に強いる手強い戦争を行った。知米、親米あるいは海外通といわれた合理主義者栗林中将の本質は何であったのか?その本質は「合理的精神」「個人の尊重」「家族や部下に対する愛情」・・・ということであろう。戦闘で重要なものが「突撃精神」ではなく「冷静で持続する意志」であることは硫黄島の戦いから良く分かるはずだ。

しかしこれらの精神は狂信的な陸軍中枢部の連中がもっとも嫌ったところだった。栗林中将や西中佐はこの狂気により死へ追いやられたと見て間違いはあるまい。一方「国体護持」だとか「一億玉砕」等と叫びながら一度も前線に出ることなく陸軍参謀本部で終戦を迎えた高級参謀達がいることも事実だ。一体誰が本当の愛国者だったのか?

このようなことは太平洋戦争の時だけではなく、日本では時々起きることである。明治維新の頃には外国事情に詳しい有能な人達が頑迷固陋な盲信者の凶刃に倒れた。昭和・平成の平和で開かれた時代といえども、国際派の人材はそれ故に冷遇されること無きにしも非ずである。無知無能の輩がおのれの無知無能を隠そうとする時、声高に国際派を愛国心あるいは愛社心の欠如を持って攻撃するのである。しかし往々にして真に国を守り、会社を守るのは国際派と呼ばれる人である場合が多く、本家旗本を称する連中が腰砕けになっていることも例外とはしない。そういう意味で日本という国は情けなくなるほど合理主義者に対する嫉妬が渦巻いている国であるといわざるを得ないのである。

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