金融そして時々山

山好き金融マン(OB)のブログ
最近アマゾンKindleから「インフレ時代の人生設計術」という本を出版しました。

幸四郎のカエサルを堪能

2010年10月11日 | アート・文化

10月9日土曜日、ワイフと日生劇場に松本幸四郎主演の「カエサル」-ローマ人の物語より-を観に行った。ワイフは時々観劇に出かけているが、僕には久しぶりの舞台鑑賞だった。

Caesar

幸四郎の熱演を堪能。やはり演劇はいいな、と思った。

塩野七生さんの孫引きになるが、イタリアの歴史の教科書にジュリアス・シーザーについて述べた言葉がある。「知性、決断力、類まれなる寛容、肉体の健全、説得力この5つの徳性を揃え持った人物は古来シーザー以外にいない」

「カエサル」の舞台の中で強調されていたのは「寛容」であった。カエサルはローマの統治下に入ったガリア人など属国人にもローマ人並の権利を与えた。人権擁護、自由、個人の意思の尊重という意味で彼が行ったことはユニバーサル・バリュー(普遍的価値)の拡大である。だが彼はそれを推進する過程で、偏狭なローマ中心主義に陥っている元老院と対立し、更に強大な権限を手に入れようとして暗殺者の凶刃に倒れた。

そしてブルータス達シーザーを暗殺した者は、シーザーの後継者オクタビアヌスにより殺され、帝政ローマが始まる。オクタビアヌスに始まる五賢帝の時代は良い統治が行われパックス・ロマーナと呼ばれたことはご承知のとおり。だが良い時代は長く続かず、ネロのような暴君が出てローマ帝国は衰運に向かう・・・・

このように見てくると、独裁政治というものは必ずしも悪い面のみではなく、正しい独裁者を得た場合においては、平和や人権というユニバーサル・バリューが保証・拡大されるということが分かる。ただし独裁政治の問題は正しい独裁者を持つ可能性より、正しくない独裁者を持つ可能性の方がはるかに高いということだろう。

よって我々は民主主義という名の下で際限のない衆愚政治を繰り返すのだろうか・・・

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「皇室の名宝」~堪能するほどお宝の山でした

2009年10月12日 | アート・文化

10月11日日曜日快晴。ワイフと上野の国立博物館に「皇室の名宝」を観に行った。開園は9時30分、10時前に会場に入ると既に人、人、人の波。

Kousitu

第一番目の展示品が海北友松描く巨大な松と海浜の屏風(浜松図屏風)で、二番目が入場券の写真にもなっている狩野永徳・常信描く「唐獅子図屏風」

あらゆる美術展は入り口が混む。世間にはこれ程美術愛好家が多いのか?と驚くほど皆さん足を止めて鑑賞している。

圧巻は伊藤若冲描く30幅の極彩色の動植物の掛け軸。その精緻さ、色彩の鮮やかさには目を見張るものがあった。

応挙の虎(「旭日猛虎図」)も良かった。ただし虎は体に比して顔が小さくどことなく愛嬌があり、あまり猛々しい感じはしない。

Tora

80点の美術品鑑賞に2時間かかった。人、人、人で疲れたがそれだけの値打ちのある展覧会だった。ところで我々よりかなり高齢の方も沢山来館されていたが、どうして皆さん平日に来られないのだろうか?

美術館側も祝祭日の混雑を緩和するために、平日料金を少し安く設定するなどの工夫があっても良いと思うのだが・・・・

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眼を描くモディリアーニが好きだ

2008年06月05日 | アート・文化

昨日(6月4日)午後休みを取って、国立新美術館に「モディリアーニ展」を見に行った。モディリアーニは特別好きな訳ではないが、ワイフが知人から入場券を貰ったので行くことにした。本来その知人とワイフが一緒に行く予定だったが、知人の方が犬の散歩中に怪我をされたということで私の登板となった次第だ。

モディリアーニが描く女性はほとんど皆、首が長くて首が傾いていて、眼が黒目を描いていない。神秘的ともいえるが、見方によっては少し不気味だ。仮にその絵を所有することが出来たとしても、手元において置きたいかどうか疑問である。

しかし例外があった。それはこの「女の肖像」(通称:まりー・ローランサン)だ。

Rolansan063

くっきりとした眼、真っ直ぐな鼻筋から理知的で自我のはっきりした女性のイメージが伝わってくる。私はこのような絵が好きなのだが、モディリアーニの絵の中では、黒目をはっきり描いた絵は例外的だということだ。

どうしてモディリアーニは黒目を描かず、青みを帯びた灰色で眼を描いたのだろうか・・・・

私はそんな疑問を抱きながら、美術展を鑑賞した後ワイフと2階にある「ロンド」という喫茶店でケーキを食べながらコーヒーを飲んだ。ここのケーキは大変ボリュームがあるので、800円のケーキセット(ケーキ+飲み物)は、場所柄を考えるとお得であると私は思った。

名画を鑑賞した後でも、そんなセコイことを考えるのだから私は本当に「花より団子」な男である。

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歌舞伎見物には雨が似合う

2006年05月14日 | アート・文化

歌舞伎を見に行く日はどういう訳か雨降りだなどと書くと、頻繁に歌舞伎を見ている様な誤解を与えるかもしれないが、何のことはない、今年に入って二回目である。一回目は正月に歌舞伎座で見た新春大歌舞伎、この日は桶の底が抜けたような豪雨だった。昨日(5月13日)は、しとしとと降る梅雨の様な雨の中をワイフと国立劇場に前進座75周年記念五月公演を見に行った。

Zennsinnzafinal これはワイフが入っている都民劇場の5月のプログラムから選択したものだ。さて雨の中、地下鉄半蔵門駅から約5分の道を歩いたが、地上にでるまでちょっと方角に不安があった。なにせ齢(よわい)五十五歳にして、初めて国立劇場に行くのである。しかし地上に出て和コートを着たおばさん達が沢山歩いているのを見て全く安心。というか今度はその歌舞伎見物客の余りの多さに驚く。しかも7,8割は女性である。

4時半開演だが、少し時間があったので館内を一周する。国立劇場の方が歌舞伎座よりはるかに広くてゆったりしている。1階には予約できる食堂はないが、二階には予約できる食堂があったので歌舞伎座の経験を活かして早速幕間の夕食を予約した。一人1,050円也。しかし夕食(弁当)を食べる時気が付いたが、食堂がもの凄く広いので、予約しなくても十分食べることが出来た。

さていよいよ最初の出し物「謎帯一寸徳兵衛」(なぞのおびちょっととくべえ)、原作は四ツ谷怪談で名高い鶴屋南北だ。話の筋は簡単なのだが、登場人物の関係が入り組んでいる。ごく簡単に説明すると男前で冷酷無比な浪人大島団七がかっての上役を殺害し、上役が持っている名刀を奪ってしまう。更に敵討ちをすると偽って、上役の娘(お梶)と結婚する。しかし団七が本当に好きなのは、お辰という芸者。ただお梶とお辰は瓜二つなので、お梶で埋め合わせをしたという訳だ。悪党の団七、ついには女房のお梶まで殺してしまう。

ところが、あることからお辰は殺されたお梶が自分の姉としり、亭主の一寸徳兵衛と共に親と姉の仇団七を討つというものだ。ただし最後の団七が斬られる場面は、はっきりとは演じられない。ということで何だか悪の権化の団七がやりたい放題・・・という感じなのだ。勧善懲悪なら団七も無惨な最期を遂げないといけないのだが・・・

この芝居は十数年後、鶴屋南北が書く四ツ谷怪談の先駆けということで、団七は四谷怪談の伊右衛門に当たる訳だ。昔の人は、結構好色・残虐無道・やりたい放題をしたいと深層心理では思っていた。いや無意識の中にそんな願望があった。その放埓を団七や伊右衛門が観客に替わって行ってくれるのである。観客はそれを観て、カタルシスを感じるのである。従って悪役は堂々として格好良くなくてはならないのだ。人間の心の中ないは悪いことをしてはいけない・・・・という気持ちと放埓無比の暮らしをしたいという無意識的な思いが同居している。その無意識の放埓な思いを適度に解放する上で魅力的な悪役の登場が必要・・・というのが私の理解だ。

江戸時代において歌舞伎が大衆にカタルシスを与えていたことで、凶悪犯が少なかったとまで言えば少し言い過ぎだろうか?

さて二つ目の出し物は写真を挿入した魚屋宗五郎、こちらは主人公宗五郎の妹おつたが、見初められて旗本磯辺主計之介のところに妾奉公にあがる。ところがおつたはある時自分によこしまな思いを寄せる用人岩上に手こめにされかける。結局宿直(とのい)の侍に助けられるのだが、岩上用人はかなわぬ恋の意趣ばらしと、ありもしないおつたの不義密通を旗本磯辺に讒言した。磯部はおつたに裏切られたと思い、おつたを責めて最後は手打ちにしてしまう。

これが事実なのだが、最初は宗五郎はおつたが冤罪で殺されたことを知らずに磯部に苦情を言わずに耐えようと思っている。何故なら不漁続きで困窮していた宗五郎にとって、磯部は色々な手当てを呉れていたからだ。ところが死んだ妹おつたの腰元から事実を聞いた宗五郎は、激情もだしがたく神様に願かけて断っていた酒を飲み始める。宗五郎は酒癖が悪いので、親父と共に禁酒していたのだ。しかし、飲みだすと止まらない。この酒を飲む場面が見せ場なのだ。舞台は宗五郎が、空の酒桶を振り回しながら旗本磯辺の屋敷へ怒りをぶつけに向かうところで終わる。

これまた庶民のカタルシス。権力に理不尽な目に会わされて泣き寝入りせざるを得ない人々にとって宗五郎が胸の内を代弁してくれるのである。

午後八時半、芝居が終わって外に出た。雨は嫋々と降り、国立劇場の広場の向こうには桜田堀の闇が広がっていた。その闇は何処か人が抱えるある種の暗い情念に通じる様かのごとく押し黙っていた。歌舞伎の後の雨もわるいものではないと思いつつ私達は永田町へ足を速めた。

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ぐるっとパスで六本木の美術館へ

2006年04月30日 | アート・文化

今月最初に買ったぐるっとパスがあるので、余り関心はなかったが、ワイフと六本木の森美術館に行った。森美術館では「東京-ベルリン」「ベルリン-東京」展をやっていた。これは東京-ベルリンの近代の絵画・建築・商業美術等を同時進行的に展示したもの。ただし今一つ興が乗らなかった。ワイフと「余り調べもせずに割引券があるからといって美術館にきてもダメだね」と苦笑いする。次にワンフロア降りて森ビル52階の展望台(東京シティビュー)を一周する。ちょっと気になった建物は青山霊園のとなりに建設中の国立新美術館。その時詳しいことは知らず、今調べたところなのだが、平成18年にオープンする独立行政法人国立美術館の5番目の美術館とか。最寄り駅は地下鉄千代田線乃木坂駅とのこと。

作ってしまったものに反対する積もりもないが、日本は小規模の美術館で高い料金を取るところが多過ぎるのではないか?と思っている。ニューヨークのメトロポリタン美術館にしろ、マドリッドのプラド美術館にしろ、数百円の料金で沢山の名品をたっぷり楽しむことができる。日本でも美術館の数を増やすより、統合して大きなものを作ることを考えるべきではなかったのあろうか?

さて、森ビルから地下鉄一駅分歩いて六本木一丁目の泉ガーデンタワーの奥にある泉屋(せんおく)博古館 分館に行く。

Senoku016

この美術館は住友家の旧蔵品を蒐蔵する京都の泉屋博古館の東京分館なのだ。展示は「近代陶磁器にみる東と西」ということで、茶道具等の陶器の展覧会であった。私はパンフレットにある板谷 波山の陶器を出光美術館で見て以来、印象に残っているのだが、又みることが出来てよかった。しかし展示スペースは狭いので直ぐ見終わってしまった。

今日はぐるっとパスがあったので、無料で入場できたが、一般料金は520円である。美術鑑賞を経済的に分析するのはどうかと思うが、作品一点辺りのコストはもの凄く高い。5百円も払うとメトロポリタンで丸一日世界の名品をみることが出来ると思うと何だか納得しにくいものがあることは事実だ。

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