金融そして時々山

山好き金融マン(OB)のブログ
最近アマゾンKindleから「インフレ時代の人生設計術」という本を出版しました。

ぐるっとパスで都心の美術館へ

2006年04月16日 | アート・文化

4月16日土曜日風は強いが天気は良いのでワイフとブリヂストン美術館山種美術館に行くことにした。前にブログで書いたが、ぐるっとパスという2ヶ月間有効な美術館・博物館等共通利用券を購入しているので、この2つの美術館は無料で入場することができるのだ。

ブリヂストン美術館http://www.bridgestone-museum.gr.jp/では、石橋財団50周年を記念して「雪舟からポロックまで」をやっていた。ポロック、ジャクソン・ポロックは20世紀前半のアメリカを代表する抽象画家だ。この展示会でも一枚黒い絵が飾られていたが、私にはその良さが全く解らなかった。ではこの展示会で何が良かったか?というとピカソの「腕を組んですわるサルタンバンク」が良かった。それにしてもブリヂストン美術館は印象派からピカソまで中々充実している。土曜日の午前中で比較的空いていたのでゆっくり名画を鑑賞することが出来た。

東京駅下の黒壁横丁で寿司を食べたが、シャリが今ひとつだし店員もキビキビしていない。土曜日の昼は比較的空いているが、日頃の疲れが溜っているのかもしれいない。

大手町から九段下まで地下鉄東西線に乗り、九段下から千鳥ケ淵にそって山種美術館に向かった。

Hori

千鳥ケ淵に桜の時期の喧騒はなく、菜の花と花大根がひっそりと咲いていた。山種美術館http://www.yamatane-museum.or.jp/では桜さくらサクラ・2006と日本画の桜の名品を集めていた。1,2週間早い時期ならこれまたかなり混んでいたかもしれない。作品の中では私は奥村土牛さんが描いた吉野の遠山桜などが気に入った。

千鳥ケ淵ではセイヨウシャクナゲも咲いていた。シャクナゲが咲くからには相当春めいているはずだが、この日は風が冷たく千鳥ケ淵では2,3艘のボートが漕ぎ出されているだけだった。

Seiyoshakunage

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「天台の国宝」を観る(2) 兜跋毘沙門天

2006年04月10日 | アート・文化

天台の国宝の仏像は皆素晴らしいが特に私が関心があったのは、毘沙門天である。もっと細かくいうと毘沙門天の中でも大地の女神「地天」に支えられた兜跋毘沙門天である。

Bishamon 写真は京都・青蓮院の兜跋毘沙門天立像(重要文化財)である。

では何故毘沙門天に関心があるのか?それは毘沙門天の由来がインドを越えてはるかギリシアまでつながるからである。毘沙門天はギリシアのヘルメス神と北インドの財宝を守るファロー神が融合したものという話は2年程前に国立博物館でやっていた「アレクサンドロス大王と東西文明の交流展」で勉強したところだ。

又この兜跋(トバツ)という言葉についてはベルナール・フランク「日本仏教曼荼羅」(藤原書店)の中で次の様に説明されている。「著名なチベット学者ロルフ・スタンによれば恐らくトルコ語のTubbatの音声表記であろうという。Tubbatとはトルコ語でトルキスタン特にシルクロードの重要な地点の一つであったコータン国とその首都をさす言葉であった。」

毘沙門天は本来北方を護る軍神であり、四天王の一員であったが、他の四天王とは異なり独立尊として信仰の対象となったのである。

中世を通じて仏教信仰が民衆の中に浸透していくに従い財の神、幸運の神としての性質が毘沙門天の中で重要性を増して行き、毘沙門天は江戸時代に完成する七福神の一員になって行くのである。

毘沙門天の像の中にはユーラシア大陸にまたがる壮大なロマンがある。

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tenndai

2006年04月10日 | アート・文化
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「天台の国宝」を観る(1)

2006年04月07日 | アート・文化

ワイフと東京国立博物館に「最澄と天台の国宝」展を観に行った。

Tendai1

平日の午後半日会社を休んで観に行ったのだが、結構混んでいる。開催期間が1ヶ月強の特別展だけに週末や休日は相当混みそうだ。特に入り口付近が混んでいる。入り口に近いところに国宝級の古文書がありそれを真剣に読む人がいて混んでいるのだ。古文書の中には「国宝」の語源になった最澄の「一隅を照らすすなわち国宝なり」という言葉を含む天台法華宗年分縁起など貴重そうなものが多い。もっとも私は古文書などほとんど読む力がないのでさっさと進みたい方である。

展示場も中程まで進むと少し空いてくる。入り口付近で一つ一つの古文書に執心している人々を見ると「世の中にはかくも教養の高い人が多いのか?」と少し自信をなくしていたが、大概の人はしばらくすると古文書に飽いてくる様なのでほっとする。

しばらくしてワイフが疑問を投げかけてきた。「比叡山って織田信長の焼き討ちにあったのにどうしてこれだけ仏像や宝物が残っているの?」「うーん、比叡山といっても広いから焼けない伽藍もあったのじゃないか」「そう?木が多いから直ぐ燃え移っちゃうのじゃないの?」「分かった。調べてみよう」ということで少し織田信長の比叡山焼き討ちの実態を調べてみることにした。

とは言ってもこれだけのテーマになるとインターネットをちょっとサーフィンして答を見つけるという訳にもいかない。ネットの中には「織田軍の武将の中に比叡山に同情するもの~例えば佐久間信盛など~が、焼き討ち前に情報を伝えたので、比叡山側が一部なりとも仏像・宝物を持ち出すことができたのではないか」という推論が出ているが信憑性の程は不明である。

歴史には往々にして前の時代の実験者・為政者を悪く言う傾向がある。とは言え織田信長の比叡山焼き討ちについては信頼性の高い「信長公記」に記述があるのでまず間違いのない話なのだが、その焼き討ちの範囲や同情者による密かな救済の有無等については意外に面白い研究テーマかもしれないと思った。時間がかかっても挑戦してみたいものだ。

そんなことで「最澄と天台の国宝展」の印象については別途記事にする。

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