金融そして時々山

山好き金融マン(OB)のブログ
最近アマゾンKindleから「インフレ時代の人生設計術」という本を出版しました。

トレッキングで逢った人たち(2)~色々な国の人たち

2014年11月25日 | ネパールトレッキング

ヒマラヤトレッキングの楽しみの一つは色々な国の人たちと話ができることだ。ガイドブックを見ると「現地の人との話が楽しみ」などと書いているが、これは中々難しい。言葉の問題もあるが、生活水準やものの考え方の違いが大きいため話が合わないことが多い。ただし四六時中一緒にいるガイドは別だ。今回のガイドLakpa Geluは、2010年にエベレストに登頂したベテランシェルパで来年は8千メートル峰のチョーオユーに行くという。多少クセのある英語(これはお互い様!)を話すが、経験・見識もチャンとした男だ。今年は春にエベレストで大事故があり、今シーズンのエベレスト登山は中止になっているので、彼のような高所ガイドが我々のようなチンタラトレッキングにつき合わざるを得なくなったのだろう。そういう意味では今年はトレッカーにとってラッキーな年だったかもしれない。

Lakpa

37歳、子どもは娘と息子の二人だ。「俺はネパール人はもっと子沢山か?と思っていた」というと彼は「シェルパは仕事がないから、子作りに励むのさ」と冗談を返してきた。二人の子どもには高等教育を受けさせるという。教育費負担が大きいので、ネパールでも少子化傾向が進んでいると考えてよいだろう。

ガイドといえば、日本人夫妻をガイドしてゴーキョをトレッキングしてきたDawa Shelpaという人も印象に残った人だ。この人は夏は日本の山小屋で働いているという。今年は北アルプスの薬師沢小屋で働いていたそうだ。「俺は今年の秋に薬師沢小屋に泊まって赤木沢を遡行したよ」というと「本当ですか?お会いしていたかもしれません」という返事。日本の山小屋でアルバイトをしているネパール人の話は他にも聞いたことがあるが、槍ヶ岳山荘などメジャーな小屋ではなく、薬師沢小屋という少し脇道にそれた味わいのあるところで働いているところが中々渋い。この人は日本人女性と結婚し、奥さんは日本にいて、両国を行ったり来たりしているそうだ。

他にガイド連中とはルクラの居酒屋(日本の居酒屋と違い、つまみなし。1杯5,60円の焼酎を出すのみ)で、何人かのシェルパと他愛もない話をした。彼らの話によると、近年は日本人トレッカーが減少し、中国人や韓国人が増えているとのこと。勢いシェルパたちはトレッカーが多い国の言葉を勉強するようになり、日本語を話すシェルパは減っているとのことだった。

ルクラで飛行機待ちをしている時、Tanga(曼荼羅)painting schoolに立ち寄り、お堂を開けて貰い中の曼荼羅を拝観している時、偶然チベット人の女性曼荼羅画家と出会い、色々なことを教えて頂いたのも大変貴重な経験だった。

一緒に写真を撮ったが、断りもなくブログに掲載する訳には行かないので、曼荼羅の写真だけアップしておいた。

Tanaga

彼女が言うにはこの学校のTangaは化学染料で描かれているが、チベットのTangaは高価な岩絵の具を使うので、長年にわたって変色しないという。Tangaの中には六道輪廻の様を描いたものが多いが、日本では六道輪廻の考え方は鎌倉時代に衰え、新しい仏教の教えでは誰でも簡単に極楽往生できるようになったなどと私が多少ウンチクを語ってみたが、彼女がどれ程理解したかは不明である。

ヒンズー教にしろ、チベット仏教にしろ、人はこの世で修行を積み、戒律を守って暮らして命を終えても中々天界に生まれ変わることは難しいと教える。そして天界に生まれ変わってもそれは終わりではなく、また六道輪廻を繰り返す。その六道輪廻を抜け出し、本当の悟りNirvanaに至るには気が遠くなるほどの時間がかかるという。

この地に生きる人々にとって宗教の重みは大きい。しかしその宗教に身を委ねて、安心(あんじん)の日々を送る彼らが幸せであるか、自由気ままに過ごす一方、時に懐疑の淵に沈み、不安な終末を迎える可能性が高い我々の方が幸せであるかどうかは難しい問題である。

トレッカーの中で目立ったのは、ヨーロッパ人でかなり長期の休みを取って長い海外旅行の一環として、トレッキングに来ている中年の人たちが多いことだ。彼らによると「無給だけれど、休暇後元のポジションに戻ることが保証されている長期休暇制度」を利用しているということだった。

もし日本にもこのような制度があったならば、私はもっと早くトレッキングに来ていただろう、I am jealous of youだ、というと彼らは笑っていた。

国の文化の成熟度はひょっとすると「若い時に多様なライフスタイルを選択することができるかどうか?」で決まるのではないだろうか?そして多様なライフスタイルを持った人たちが新しい文化を生み、社会が活性化していくのだろう。

そういう意味では日本の社会の枠組みはまだまだ「生産効率優先主義」で「多様な生き方尊重主義」には至っていないようだ。ひょっとするとこの国の閉塞感や長期的な経済成長の低迷の原因はそのあたりにあるのかもしれない。

トレッキングで色々な国の人と話をして学ぶことは誠に多いのである。

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トレッキングで逢った人たち(1)~日本人編

2014年11月25日 | ネパールトレッキング

今月のネパールトレッキングでは色々な国の色々な人たちと出会った。まず日本人の方の思い出から。

トレッキングの前にNPO法人Help Nepal Associationが建設した校舎の贈呈式に出かけた。ここでは大学山岳部の10年以上先輩の福本さんに久しぶりにお会いした。福本さんには学生時代にアラスカ登山に連れて行って頂いたことがある(資金面も大分援助してくれた)。その後2,3回スキーにご一緒したことはあるがお会いするのは実に久しぶりだ。今も山歩きを続け海外まで足を運ぶことができるのは、福本さんにお世話になったことがプラスに働いていると改めてご恩を思い出した次第だ。

トレッキングに出かけてからは、エベレストベースキャンプに向かう増田さんご夫婦とお会いした思い出が大きい。詳しい山暦等はお伺いしていないが、「冬の剣の遭難救助のため1か月ほど会社を休んだ」などというお話を聞くとこの方が並々ならぬ登山家であることが分る。ヒマラヤトレッキング歴もマナスルやカンチェンジュンガと実に豊富な方だが非常に謙虚な方でいらっしゃった。素晴らしい方である。

また関西の勤労者山岳会の方でGokyoから5,300mのRenjyo Passを越えてナムチェに戻ってきたという65歳の夫婦連れの方も初めてのヒマラヤトレッキングで素晴らしいトレッキングをされた方だった。

これら諸先輩のご活躍を見るとトレッキングの奥は深いと改めて実感する。

女性ではルクラで土産物店をやっているヒワタシ(樋渡?)さんが印象に残った。

Hiwatasi

お断りせずに写真を載せるのは多少気が引けるが、ショップの宣伝になるから許して頂けるだろう。お店はCaravan Souvenier Shopといい、スターバックスコーヒーのななめ向かいにある。商売気の少ない方で「日本語でお買い物できますとビラを貼っておくと日本のお客さん増えますよ」というと「そうですよね」と渡っておられた。学生時代はワンゲルで山を歩き、ネパール人のご主人と結婚されてこちらにお住まいということだ。飛行機待ちの間、時間を持て余してしばしばヒワタシさんのところに雑談に行った。また地元住民が行くロキシー(焼酎)バーを教えてくれたのも彼女だった。

旅の出会いは一期一会である。だが楽しい思い出はいつまでも残るだろう。

 

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それがし、すでに隠居の身なれば・・・

2014年11月25日 | うんちく・小ネタ

ネパールから帰って以来、口ひげをのばしている。「のばしている」といるといっても、無精ひげをはやしている訳ではない。それなりに手入れはしている。

それを見てワイフが「これから髭をのばすのね。サラリーマンじゃないから勝手にさせて頂くのね」と笑った。

「勝手にさせて頂く」といえば、この前の日曜日のNHK大河ドラマ「軍師官兵衛」の黒田官兵衛のセリフは中々迫力があった。三成に着くか?家康につくか?と問われた官兵衛は「それがし、すでに隠居の身なれば勝手にさせて頂きたく・・・」と答えてにやりと笑った。

何故官兵衛のセリフに迫力があるか?というと、隠居したとはいえ、彼の戦略家としての「名声」は三成・家康両陣営に大きな影響力を持ち、その「知略」は世に頭抜け、その知略を実現する「資金力」を持っている(このことは次回以降明らかになるはずだ)からだ。

つまり隠居しても「名声」「智謀」「資金力」があるから勝手にできるのである。

名声も智謀も資金力もない凡人オヤジには髭をのばすことぐらいしか勝手にできることはないのかもしれない、と少し寂しく思った次第。

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2014年ネパールトレッキング~旅の終わり

2014年11月25日 | 

11月13日快晴 7時30分ドーレ出発。まず谷沿いの道をポルテツェンガに降る。ポルテツェンガからモン・ラへは標高差300mほどの急登だ。この登りがトレッキング最後の大きな登りになる。予定通り正午前にモン・ラ到着。昼食。14時15分ナムチェ到着。

ルピーが乏しくなったので1万円出してルピーに替えると8千ルピーが渡された。1ルピー=1円の感覚でいたが、円安のせいかルピーが高くなっている。

11月14日晴 8時5分にナムチェのロッジを出発。ドウドウコシ川の河原に向かって急阪を降り始める。途中一ヶ所エベレストを見ることができた。

Namceve

トレッキングは一期一会である。またナムチェに来たい!と思うし、恐らく来ると思う。しかしそれは可能性の話である。今のこの時を大事にしたいと思う。万感をこめてエベレストに別れを告げた。

Suspention2

ナムチェ・ルクラの間では荷物を担いだ牛やラバの群れとよく出会った。ドウドウコシ川にかかる吊り橋を家畜の群れが渡ってくるとしばらく離合待ちだ。

モンジョMojyo2,835mで昼食。パクディン2,610mには13時15分に到着し、ビールを飲みながら遅い昼食を食べた。

Papad

ビールのつまみには写真のパーパドPapad(ネパール語ではMamra)が良くあう。メニューには載っていないが、ダルバートについて出てくるので、マスターにオーダーするとすぐ作ってくれた。Papadがあるとビールが進む。トレッキングの降りでPapadがあるとないでは大違いだ。夕方から雲が低く垂れこめてきた。気圧計を見ると気圧が下がりはじめている。ルクラの天気が気になり始めた。

11月15日晴 8時30分にパクディンを出て、12時15分にルクラに到着。

Returntolukla

ルクラでは入山時に昼飯を食べたBase Camp Lodgeに泊まった。このロッジはサービスが良くないとガイドに言うと「ここのオーナーは村の顔役で、飛行機の搭乗予約をコントロールしているからここに泊まると早めのflight予約が可能だ」という返事。

5時半からガイド・ポーターを交えて打ち上げパーティ。

Dinner

とは言っても堅仏教徒で酒を一滴も飲まないガイドたちのディナーはあっという間に終わってしまった。徒歩1時間程度のところに住んでいるというポーターとはここでお別れ。その近所に住むガイドも今日は自宅に帰り、明朝空港まで送りにくるといってそそくさと帰って行った。

ロッジのボーイにストーブに火をつけるようにいうが、ストーブの手入れが悪くまったく暖かくならない。仕方がなく外のバーに飲みに行くことにした。近くのショップの日本人女性(現地人と結婚している)に聞いたところ手頃がロキシー(焼酎)バーがあったので、シェルパたちと歓談しながらロキシーを飲んだ。ロキシーは一杯50ルピーだった(約5-60円)。

11月16日曇 7時半に朝食を食べてflightを待つが、朝数機が発着したのみで、我々の便は飛ばなかった。この日は天気が悪くその後は空港閉鎖。ルクラの街を散策して一日過ごした(このことは別のエントリーで報告予定)。夜は昨日のロキシーバーへ。

11月17日晴 6時半には来る、といっていたガイドが来ないのでロッジの娘Ngimale Sherpaに電話をかけて貰うと間もなく到着するという返事。

Nima

ロッジの娘に一緒に写真を撮ろうというと親しそうに身体を寄せてきた。娘は2週間後にカトマンドゥに出て大学生になるという。オモテナシの心がないロッジの中で気が利いているのはこの娘だけだった。

この日上空は晴れていたが、カトマンドゥ盆地は霧が深いとのことで、flightはかなり遅れていた。結局予定より2時間遅れの10時半に漸く搭乗することができ、昼飯は予定通りカトマンドゥの日本食レストラン「ふる里」で食べることができた。

私は豚カツを食べ、相棒のNさんは寝言にまで出していたサバの味噌煮定食を食べ、熱燗を楽しんでいた。こうして12日にわたるゴーキョ・トレッキングは無事終了した。

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