詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

土屋賢二『哲学塾 もしもソクラテスに口説かれたら』

2007-11-05 11:41:58 | その他(音楽、小説etc)
もしもソクラテスに口説かれたら―愛について・自己について (双書哲学塾)
土屋 賢二
岩波書店、2007年09月01日発行

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 プラトンの「アルキビアデス篇」を使って、ソクラテスの「私はあなた(アルキビアデス)の肉体ではなく魂を愛しているのです」という口説き文句に納得できるかどうかを学生と問答している。その問答というか、対話がプラトンの対話篇、つまりソクラテスの対話のやりとりとそっくりなので、とてもおかしい。
 ソクラテスの口説き方は間違っている--ということを証明したいのだが、なかなか反論がみつからない。学生があれこれ反論するのだが、そのひとつひとつを土屋が否定してゆく。単純な否定ではなく、その考えを推し進めるとこれこれになる。その結論は、これこれと矛盾する。というやりとりがソクラテスとその周辺の弟子とのやりとりそのままなのである。
 何かがわかりかけた、と思った瞬間に、その答えがすーっと消えてゆく。その瞬間の、どうしようもない「いらだち」のようなものに手を焼きながら、それでもことばを積み重ね、なんとか自分の思っていること、感じていることをことばにしようとする。それが実にくっきりと出ている。土屋の「対話篇」というところか。

 土屋は最後の方で「ことば」に触れている。(ここが、まあ、結論ですが。)その白眉の部分。

専門用語は簡単だけど、日常使っていることばは非常に複雑なんですね。

 ソクラテスのやろうとしたことは、つまり日常使っているはとても複雑であるということを証明したかったのである。どんなふうに使っているかを私たちはほとんど意識しない。そしてそれは、話を単純化すればするほどむずかしくなる。単純な日常会話のなかにはいろんな「意味」が入り乱れている。
 「使う」ということばを例に(ソクラテスの対話篇で問題になっているのが、実は「魂」ではなく「使う」ということばそのものであるので)、テニスの場合、どんな具合に「使う」が使われているかを調べている。ラケットを使ってボールを打つ。手を使って打つ。足を使って打つ。腰を使って打つ。頭を使って打つ。「使う」ということばが様々に使われる。腰を使って打つは、腰で打つでもあるが、実際に腰をボールにあてるわけではない。頭を使っても同じである。頭でボールを打ち返すわけではない……。
 「使う」って、いったい何なんだ?
 私たちは、ほとんどわからずに、わかっている。そういうことが日常の会話である。わかっているけれど、わからない。わからないけれど、わかっている。そいうことが日常にはひそんでいる。ことばのなかにひそんでいる。そのことばの奥へ分け入ってゆくのが「哲学」なのである。

 私はソクラテスが、というべきなのか、やっぱりプラトンがというべきなのか、どちらが正確なのかわからないが、プラトンの「対話篇」が大好きである。日常会話のなかにとどまりながら、そのことばの奥へ奥へと進んでゆく対話の、不思議な「ずれ」のようなものが大好きである。
 この本ではソクラテスの口説き方はおかしい、ということがテーマになっているが、ソクラテスの場合、口説き方だけでなく、すべてがおかしい。わかるけれど、納得できない。納得できないのに、納得できない、わからない、ということをわからされてしまう。
 矛盾がある。そして、それが矛盾だからこそ、そこに「真実」がある。ことばにならないなにごとかがある。
 --私は、そこに詩を感じている。

 詩を読む場合、その詩のなかに「かっこいいことば」(ちょっと拝借して、いつか知人をあっと言わせてみたいことば、口説き文句として使ってみたいことば)があるのはもちろん魅力的だが、そうではなくて、ほとんどどうでもいいようなことばにも私は魅力を感じてしまうのだ。
 私が最初に「なんでもないことば」にひかれたのは(それを自覚したのは)、谷川俊太郎の「女に」だった。そのなかに「少しずつ」ということばが出てくる。一回かぎりである。しかし、それが、キーワードなのだ。「アルキビアデス篇」の「使う」と同じような役割をしているのだ。「少しずつ」にはいろいろな「意味」がある。それを谷川は、「愛」とからめるかたちで「女に」のなかの詩に書き分けた。あらゆる詩のなかに「少しずつ」が含まれている--ということは、そこで書かれている詩はすべてが「少しずつ」愛するようになった愛のすべてが書かれているということでもある。

 ひとには、どうしても必要なことばがある。そのことばがないと何も言えないことばがある。そしてそれは「専門用語」ではなく「日常会話」のことばなのである。

 土屋のこの本のなかにあるキーワードは先に引用した「日常使っていることば」である。単なる「ことば」ではなく、「日常使っていることば」。「日常使っている」こそがキーワードであると言い換えた方がいいのかもしれないが……。あるいは「日常」とさらに限定してもいいかもしれない。
 哲学は「専門」のなかにあるのではない。「専門用語」の奥(?)にあるのではない。「日常」のなかにある。「専門用語」を自在に駆使して論を組み立てることはむずかしい。しかし、同様に、ソクラテスの口説き方のどこか間違っている?ということを日常のことばで語るのはもっとむずかしい。
 でも、このむずかしさが、実は楽しい。そこに哲学の喜びがある。
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野村喜和夫『plan14』

2007-11-04 14:46:34 | 詩集
plan 14―詩集
野村 喜和夫
本阿弥書店、2007年10月20日発

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 詩集の前半の詩が少し今までの野村の詩とは違った感じがする。「命名論」の1連目。

秋はどこもすきてだが
とびきり荒涼とした土地の
道なき道を旅している私なのだ
私と私の影なのだ
やがて旅はクライマックスにさしかかる
それは名無しの街道
ち私の影が興奮気味に指さす方に
たしかにひとすじの道が
まるで皮膚のうえの傷痕の盛り上がりのように
目路のはるか彼方まで延々とつづいている
ところどころには大地と同じ朽葉色の
家のかたまりもみえて
ヤホーだがその街道に
名前がないのだという

 リズムが、私の印象のなかにある野村のリズムとは違っている。とりわけ、

道なき道を旅している私なのだ
私と私の影なのだ

 を読んだ瞬間に感じる一種の眩暈のような感覚、眩暈を引き起こすリズムが野村のこれまでの詩にはないものだと思う。
 このリズムは、次のように繰り返される。

「えっ、名前がなくて不便じゃないの?」と私
「じゃあ、名前があると便利なのかい?」と私の影

 さらに

「私たちのこの街道に名前がないのは
この街道のほかに街道というものがないからです
だってそうでしょう
これとあれとを区別するために
名前というのはあるのに
私たちのこの街道に名前がないのは
この街道のほかに街道というものがないからなのです
だってそうでしょう」

 という具合である。ここでは何が起きているのか。野村は野村自身のことばで次のように書いている。

おやおや繰り返しだ
聞いているうちに数世紀は
過ぎていくかのようだ

 リズム--繰り返し。ここにあるのは繰り返しのリズムである。それは書き出しの数行ですでにはじまっている。
 なぜ繰り返すのか。
 「聞いているうちに数世紀は/過ぎていくかのようだ」という行が象徴的だが、「繰り返し」のなかには「数世紀」に通じる長い時間、「永遠」に通じる長い長い一瞬があるからだ。
 ここに展開されているのは、野村の新しい「詩論」である。この詩集の作品は「現代詩プロパー以外の読者にも読めるような、そんなにむずかしくなくて面白いものを、という注文」を受けて書いたものだと野村は「あとがき」で書いている。「あとがき」をそのまま鵜呑みにするつもりはないけれど、野村の意識のどこかに「現代詩」を読んだことのない人へ向けた「祈り」のようなものがあったかもしれない。「現代詩」に無関心なひとに向けて、詩はこういうものですよ、という無意識の誘いかけがあったかもしれない。そして、その答えのひとつが「繰り返し」である。ことばを繰り返す。繰り返すとリズムが生まれる。リズムが生まれると、ことばはさらにそのリズムにあわせて動いてゆく。思いもかけず、自由なところまで動いてゆく--その自由が詩なのですよ、という誘いかけがあったかもしれない。
 私は、実際、そういう誘いかけを感じるのだ。そして、その誘いかけが、今までの野村の詩にはなかったものだと思う。

 繰り返すことによるリズムの楽しさ、そしてリズムに乗って逸脱していくことの楽しさ--それは、この詩ではまだ小さいかもしれない。しかし、この詩にも逸脱はある。

「えっ、名前がなくて不便じゃないの?」と私
「じゃあ、名前があると便利なのかい?」と私の影

 私と、私の影とによる対話。ことばをそっくり受け止めながら反論するとき、そこには気軽な逸脱がある。この反論は、絶対に何か、結論を導き出すための反論ではない。ただ、その場にあわせて、そこにあることばを逸脱させるための反論にすぎない。こうした気楽な(?)逸脱から、詩ははじまるのである。
 「繰り返し」はそのまま引き継がれて「反復論」という詩になっている。「反復」とは「繰り返し」の言い換えである。そして、繰り返すということは、どんなに同じにしようとしてみても、すでに「時差」を含んでいるように何がしかの「ずれ」を含んでいる。そこをていねいに見ていくと逸脱がはじまる。「現代詩」がはじまる。(「現代詩」の奥に隠れている、ドゥルーズだのガタリだのの影響も見え隠れてる。)
 「反復論」の「ずれ」(逸脱)をもう少し進めて遊びのなかで詩を演じているのが「語彙論」である。

キスって
好きな隙へ唇を寄せ
塞ぐ行為
    (原文は「キス」「好き」「隙」は活字の縦の長さが他の活字の2倍)

という具合である。さらに、こんなふうに逸脱していくことばは、それではどんなふうに世界と関係するか--ということを、野村は「統辞論」という形で展開する。あるテーマを繰り返しながら、少しずつ逸脱し、世界をひろげてゆく--その果てに詩を浮かび上がらせる。そういうことを、野村はこの詩集で試みている。
 「統辞論」くらいまで読み進めると、「意味論」「音調論」などは、もう読まなくてもいいかなあ、なんて思ってしまうのだけれど、まあ、なんとか私は最後まで読みました。そして「極楽考」といういかにも野村らしい野村ワールドにも出会い、ああ、そうか、愛ッて根気なのか、野村は根気があるなあ、という詩とは無関係な(と思えて、しかしとても関係深い)思いへと「逸脱」することができた。

 野村の「詩論」の種明かし(?)のような、楽しい詩集です。


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杉谷昭人『霊山』

2007-11-03 12:06:46 | 詩集
 杉谷昭人『霊山』(鉱脈社、2007年09月10日発行)
 「八月」という作品がある。夜、月が昇る。この詩は複雑である。

八月六日が何十回めぐってこようと
月はこの杉山にいつも同じ角度でのぼってくる
月は他郷の月になったことはないか
この谷間のムラから出ていきたいと
月がそう決断するときはないのか

 八月六日と月が結びつけられているのは、杉谷の父が八月六日に広島でなくなったということと関係している。
 そうした人情とは関係なく、つまり非情に徹するようにして月は必ずのぼってくる。それが自然である。自然は、あるいは宇宙(天体)の動きは人情とは関係がない。杉谷が広島で亡くなった父のことを思って悲しんでいるときも、その悲しみを思って月がのぼってくるわけではない。月は杉谷をなぐさめるためにのぼってくるわけではない。もちろん、月がのぼってくるのは杉谷をなぐさめるためだと思うこともできるけれど、本当はそうではない。そこに、人間の哀しみのひとつのあり方がある。真理(宇宙の事実)に対する認識と、自分の生活に対する思いとの、絶対的に融合しない瞬間があり、人間は、その二つをともに理解することができる--という人間の哀しみ(さびしさ)のあり方がある。
 その非情を、どう「人情」にかえてゆくか。非情を「人情」にかえることで、宇宙全体と交流できないか。「人情」を宇宙の動きであるかのようにとらえることはできないか。詩人は、だれでそうしたことを試みる。杉谷は月を人称化してみる。

この谷間のムラから出ていきたいと
月がそう決断するときはないのか

 その1行前の「月は他郷の月になったことはないか」もそうだが、これは非情な自然からみれば、とんでもない人称化である。月は「ムラ」の月になどなったことはないし、その「ムラ」にとどまりたいと思ったこともない。だいたい月に「思う」という精神的な動きはないし、精神が存在しなければ「決断」もない。その「ムラ」から出たことのない人間だけが、月はいつも「ムラ」の「杉山」からのぼると思い込んでいるだけである。
 ここでは月を人称化したつもりでいて、その実、月に託して、そこに住む人間の思いを語っているのである。
 八月六日、広島原爆の日。それが何十回めぐってこようと、その「ムラ」で生活するひとは同じ暮らしをする。月と同じように、以前の生活をする。鍬を泥を落とし、その鍬に山水道の冷たい水をかける。それは「永遠」と呼んでいいくらいにかわらない生活である。「ムラびとよ、この谷間のムラから出ていきたいと、そう決断するときはないのか」と、杉谷は問いかけているのである。
 これに対する「答え」はむずかしい。非常にむずかしい。
 特に、八月六日に広島で亡くなった杉谷の父を結びつけて考えると、とてもややこしくなる。(なぜ、こんな複雑な詩を杉谷が書こうとしたのか、実は、私にはわからない。)「ムラ」を実際に出ていったひとがいる。杉谷の父である。その父は広島で被爆し、死亡した。「ムラ」の外では、「ムラ」で暮らしているときとは違った時間にさらされる。それはときには危険なことでもある。
 だが、ひとが「ムラ」を出てゆかないのは、たとえば杉谷の父のようになることを心配してでのことではない。(もう一度書いておくが、なぜ、こんな複雑な詩を杉谷はかこうとしたのだろうか。)そうではなくて、月が永遠に八月六日に杉山にのぼるように、おだやかに繰り返される生活がそこにあるから出てゆかないのだ。繰り返されることのなかにある「永遠」--それが人間のいのちと密接に結びついていると感じているから出てゆかないのだ。
 だれも、そういう自然の永遠(非情)と人間の永遠(人情)が交差する瞬間、月をみて、あ、ことしも八月六日には杉山に同じ角度で月が出た--というようなことをことばにして、それで自分の生活を振りかえることなどしない。そういうこは、いちいちことばにしない。「無言」のまま、「無言」であることによって「永遠」と交わり、「永遠」のなかにたゆたうのである。

この谷間のムラから出ていきたいと
月がそう決断するときはないのか
そう思いながら今夜も鍬の泥を落としている
山水道の冷たい水を存分にかける
その瞬間 体内に満ちてくる
この無言の精気は……何か?

 「無言の精気」。杉谷が信じているのは、その静かな充実である。無言であることによって勝ち得ている永遠である。
 杉谷は、その「無言の精気」を宮崎の「日之影」という町で書き続けてきた。そして、いまも書き続けている。
 この詩では、その「無言」のなかに、「無言」ではいられない「八月六日」を取り込んでしまったために、何かが破綻している。複雑になって、収拾がつかなくなっている。(それほど八月六日は杉谷にとって重要である、ということだ。)収拾がつかなくなったために、いつもは決して書くことのない「無言の精気」という、杉谷が書こうとしていることを、そのまま生のことばで書くしかほかに詩を終える方法がなかった。

 この詩の複雑さは、そこにある。杉谷には書かずにはいられないことがある。八月六日に父が広島で被爆して死亡した。そのことに対する悲しみ。そして原爆に対しての怒り。また書かずにはいられないこととは別に、どうしても書いてしまうことがある。杉谷の場合は、「ムラ」で生きるひとへの共感である。この詩では、その二つが絡み合って、うまく融合していない。(融合しいていないということが、悪いというのではない。)
 そのために、複雑になっている。杉谷の本当に書きたいのは父に対する悲しみ、原爆に対する怒りなのか、それとも「ムラ」で生きるひとの暮らしなのか、暮らしのなかに生きている「無言の精気」なのか……。
 もちろん両方書ければ書けるにこしたことはない。実際、杉谷は、書き終えている。でも、そこに未消化な部分が出てしまった。「無言の精気」という「思想」が、生のままでてしまった。
 これをどう評価するかが、さらにむずかしい。
 杉谷がこの詩を新たな詩への出発点とするのなら、それはたいへん面白い試みだと思う。



 ややこしくはなく、ただただ美しい詩行を引用しておく。杉谷は人間の生活の「永遠」をしっかりと描くが、視線が動物や草木にむけられたときも、その視線は「永遠」に到達する。生きているもの、いのちのあるものと、自然(宇宙)の無生物と交流し、そのふたつがともに生きる一瞬(永遠)に到達する。たとえば、次のように。

牛の鼻がのそり
風のなかに押し出されてくると
風は一瞬身がまえて
台所の引き戸のすべりを凍りつかせ
また牛の呼吸のかたちにとけていく   (「冬の庭」)

剪定を終えたら
枝に張りが出てきた
背負っていた空の重さが
それだけ軽くなったのだろう      (「柿畑にて」)
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最果タヒ『グッドモーニング』

2007-11-02 12:02:20 | 詩集
グッドモーニング
最果 タヒ
思潮社、2007年10月25日発行)

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 「故郷にて死にかけてる女子」という詩を読んでいて、私はとんでもない読み違えをした。

 てのひらに
とけた あめと
 とけた チョコレートと
  とけた 傘

にぎって わたしになげつけたわたしになげつけたわたしになげつけたつけたつけたつけた !

 最後の行を「わたしにつなげたわたしにつなげたわたしにつなげたっけたっけたっけたっけ !」と読んでしまった。(引用し、読み返すまで気がつかなかった。--この文章の書き出しは、実は、読み違えに気がついてから書き直したのである。したがって、これから書くことは最初に書こうとしたことと微妙に違っていることになる。私はもともと結論や論理展開を考えてから書きはじめることはしないので、書こうとしたことと本当に違ったことを書いてしまうのかどうかは本当のところはわからないのだが。)
 なぜ「なげつけた」を「つなげた」と読み間違えたのか。私はもともと文字を入れ換えて読んでしまう癖がある。どうも1文字1文字読むということができずに、ひとかたまりとして読んでしまう癖がある。ただし、最果の詩の場合は、それだけではないような気がする。最果のことばが、私には、あらゆるものを「つなげる」という形で動いて見える、ということが大きく影響している。
 私にとって、最果は、何もかもをことばでつなげてしまう詩人である。「つなげる」という動詞は「会話切断ノート」に出てくる。

わたしは考えるとき文字にしなければいけないと思っています。
やじるしをつなげていったりすると
たいへん考えることは面白いです
頭の中でするとわたし以外とそれが接続され
いつのまにか
根拠は現実に抹消されます
それもいいです
けれど

 この詩のタイトルには「切断」があり、詩のなかには「接続」がある。最果にとっては「切断」することが「接続」することなのだろう。そのために「つながる」という印象がいっそう強くなるのである。
 この「切断」と「接続」を象徴するのが、いま引用した1連目の最後の「けれど」という独立した行である。「けれど」という接続助詞には、接続と同時に断絶も含まれているが、その場合、どっちに重きが置かれているかは状況によって違うだろう。問題は、それが同時に存在するということだ。
 詩はもともとありえない存在の出会い、そのありえない関係が浮かび上がらせる接続と断絶からできているが、最果の場合、とりわけそういう印象が強い。「つながる」感じの印象が強い。
 「子牛と朝を」という牧歌的な印象(あるいは宮沢賢治の童話的美しさの印象)を呼び起こすタイトルの書き出し。

とおくの指先で悲しんでいる
子牛に
かなしまくてもいいよ
なんて言いたい
わたしの死を、きみが悲しむ必要はないよ

 「かなしまなくてもいいよ」が強烈な「つながり」である。なぜ、人間ではなく、子牛と感情でつながってしまうのか。理由は書いてない。(書いてあるかもしれないが、私にはわからない。)その理由のなさが「切断」であり、感情の呼びかけが「つながり」である。
 「わたしの死を、きみが悲しむ必要はないよ」などといわれなくても、子牛にはそんな気持ちはない。子牛にしてみれば「そんな感情でつながれたくない、つながってくるな」というところだろう。
 それでも「つながる」のである。
 この「つながり」は子牛にとってはさらに無関係な「つながり」を呼びよせる。


どうしても牛乳を受けつけないのは
夜のすこしあとに
わたしがいた
くろい場所を思い出すから

 最果が「くろい場所」を思い出すかどうかは子牛には関係がない。だいたい「くろい場所」などという抽象的な「場」は子牛には存在しないだろう。
 ここでは最果は子牛につながるふりをしながら、子牛との関係を切断し、同時に人間の(読者の)「くろい場所」とつながっている。「切断」と「接続」が交錯し、子牛と切断することが読者と接続することであり、そういう切断・接続をみせつけることで、読者に対して、子牛-読者という接続を強いることでもある。子牛-人間の接続関係を読者に押しつけて、最果のことばは動くので、読者が何かとんでもないものにつながれたまま、最果を追いかけていく感じになる。だんだん、読者の方は動けなくなって、なぜ、最果だけが軽々と別なものへつながりながら飛翔していくのかわからなくなる。
 こういう感じ、最果のことばによって、私自身が最果の切断し、捨てたものにつながれながら、最果てが別なものとつながってまったく新しい別の世界へ入って行くのを、ただうらやましい気持ちで見つめていることしかできない--という印象が残る。

 そんな気持ちが「なげつけたなげつてた」を「つなげたつなげた」と読んでしまう奥深い原因になっている感じがする。

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新井豊美「花のかけら」

2007-11-01 12:10:30 | 詩(雑誌・同人誌)
 新井豊美「花のかけら」(「第48回晩翠賞」パンフレット)
 新井豊美は私にとってはとても不思議な詩人である。最初に読んだのは『イスロマニア』である。この詩集はとても好きで、その当時は新井豊美は私の大好きな詩人のひとりであった。だが、読むにしたがって、だんだんおもしろくなくなってきた。評論を読むとさらにおもしろくなくなってきた。非常に抽象的で、冷たい感じがするのである。
 この「花のかけら」にも、その冷たさを感じる。

その道のうえで
わたしは何かを捨て 行きながらそれを捨て
ちぎっては捨て さらに捨て それが何であったのか
冬の木々にならい わたしは葉を落とし
棒のようなものとなり
直立するわたしの頭上を風が渡り わたしは
捨てたことさえ忘れ 忘れることによって何かを与えられ

 ここには「その」と「なに」しか書かれていない。具体的なものは書かれていない。その実、書かれているのはとてもセンチメンタルなことである。(と、私は、想像している。以下は私の想像であって、本当にそんなことが書いてあるのかどうかは知らない。)
 わたし(新井)は何の花かは知らないが花を持っている。そして、その花びらを一枚一枚ちぎっている。ちぎり捨てている。恋占い、のようなものである。「愛してる、愛してない、愛してる、愛してない……」。その花がどんな結論を占いだしたのか、それはそしてどうでもいいらしい。この諦観が、あるいは悟りがまたいやらしいくらいにセンチメンタルである。占いの結論に一喜一憂すればまだかわいいセンチメンタルだが、そういう結論に一喜一憂するのはセンチメンタルだと否定して「捨てたことさえ忘れ 忘れることによって何かを与えられ」と書いてしまうところが、知性優先(知性ヒエラルキー)のセンチメンタルである。
 この詩は次のようにつづく。

とはいえ それは風の形見のようなもの
抜けたオナガの青い尾羽のようなもの
割れた器のかけらほどにも役立たないもの
その曲線がかつて内側に保っていたものを想像させるとしても
切っさきは宥められていまは
意味をなさないひとつの破片 その表に
ひたすら咲きつづける それらはすべて夢の切れはし
繋ぎとめられない願い

 ちぎり捨てた花びらを見つめ、「その曲線がかつて内側に保っていたもの」へと視線を、想像力を誘う。その「内側」ということばが知性ヒエラルキーのセンチメンタルをどぎつくさらけだしている。「内側」は、どんなにふうに外形が破壊されようが、その「表」(表面)に「内側」の断片を内包している、「内側」を想像させる。つまり「内側」は決して破壊されず、生き続ける。「夢」(夢の切れはし)として。
 破壊され(破壊したのは、「わたし」、花びらで「恋占い」をする「わたし」なのに)、破壊されたもののなかにある「内側」(内面、内部)の存在を感じながら、新井は、つぎのようにことばを運んで行く。

というより時の残闕と呼ぶべきもので
血を流すことはなく すきとおる空虚の形をもち
ここからわたしはふたたび何かを与えられ
そのたびにわたしはすこしずつ軽く

鳥たちが群れているクヌギの梢ではいましも
一羽がさえずり 一羽は翼をひろげ 一羽は目を閉じて
瞼の裏に描かれた藍色の
花のかけらをふしぎなもののように覗き込んで

 「時の残闕」「空虚の形」。人間の「内側」(精神の運動)だけが把握できるものを出してくることで、新井は新井の知性(内側)ヒエラルキーを完成させる。「時の残闕」「空虚の形」がわからない? わからないひとにはわたし(新井)の詩を読む資格はないよ、と宣言しているようである。
 「ここからわたしはふたたび何かを与えられ」たものの「何か」が「何か」わからないひとは、新井の詩を読む資格はない、と宣言して、新井は、なんと最後には「瞼の裏に描かれた藍色の/花のかけらをふしぎなもののように覗き込んで」いる鳥になってしまう。鳥と一体になること、同化することが、新井の「悟り」であるらしい。

 私は、こういうことばだけが「美しい」詩は、どうにも納得できない。1連目、3連目、4連目の「与えられ」「軽く」「覗き込んで」と中途半端にことばを終わらせる「余韻」というもののも大嫌いである。余韻というのは中途半端で終わるから生まれるのではなく、断ち切ってもくっきりと浮かび上がるのが余韻なのである。
 新井はいつのころからか、完全に頭だけで詩を書き、知性ヒエラルキーのセンチメンタルを生きるようになった、というのが私の印象である。知性ヒエラルキーは知性を磨けばみがくほど頂点に近づくけれど、その先に、いったい何があるのだろうか。とても寒々しい感じがする。
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