詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

鈴木志郎康「地図には載っていない」「二本の杖」

2011-01-06 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
鈴木志郎康「地図には載っていない」「二本の杖」(「現代詩手帖」2011年01月号)

 鈴木志郎康「地図には載っていない」は奇妙な詩である。

庭には草が生えている
地図には載っていない
ああ
草が根を張っている

その草の名称は
ヒメジョオン
雑草だ

草の詩を作った
夜中目覚めて
頭の中に
でも
翌朝起きて
憶えているだろうか
起きて
メモして
また寝た

 1連目は、3連目で書かれている「草の詩」そのものだろう。2連目も「草の詩」の内容かもしれない。
 雑草が地図に載っていないのは、それが細密な植物分布図(分布地図)でもないかぎり当然のことだろう。地図には動かないもの、ある程度の時間そこにあるものしか載っていない。時間とともにかわるもの(草のように生えたり枯れたりして存在が移り変わるもの)は載せようがない。
 そんなことはわかってる。わかっているけれど、そのことを思ってしまった。だから、それをことばにする。「無意味」なことばを、無意味なまま、そこに存在させる。それが詩である。もしかすると、そのことばは「根を張」るかもしれない。雑草のように生きるかもしれない。詩として、生きるかもしれない。
 --と、鈴木が考えたかどうかはわからないが、この夜中にふいに動いたことばをそのままとっておき、何とかしたいという気持ちはなかなかおもしろい。

 そして、ここまでなら、私は別に(?)困らない。このあと、鈴木の詩はもう1連つづくのだ。

そういえば
猫も
妻もわたしも
ひとはだれも
身体があやふやだからか
地図には載ってない

 困ってしまった。これは何だろう。この「論理」は何だろう。雑草・ヒメジョオンが地図に載っていないのはなぜ? 雑草の「身体があやふやだから」? 雑草が地図に載っていないと猫や人が地図に載っていないを結びつけるのは何?
 だいたい「ひと」が地図に載っていないのは、「ひと」の「身体があやふや」という理由からではないだろう。地図に「ひと」など載せない、というのが「地図」の文法だからだろう。植物も同じ。ふつうの地図には植物も載せないというのが、地図の文法、地図製作の論理である。
 とても変である。鈴木の書いていることは変である。変というのは、「論理」がない、「意味」がないということでもある。

 でも、ほんとうに意味がない? 論理がない?

 私は迷ってしまうのである。
 「身体があやふやだからか」の「あやふや」につまずいてしまう。「あやふや」ということばに触れて、鈴木の書いていることを信じてしまいそうになるのである。
 「あやふや」を鈴木はどうとらえているのか。雑草のように、身体はある一定の期間を過ぎたら雑草が枯れるように死んでしまうから「あやふや」というのだろうか。
 3連目が、急に気になるのである。
 そこで具体的に書かれているのは「草の詩」であるが、詩にかぎらず、ふと何かが頭の中に鮮明に浮かび上がることがある。それはその瞬間とても重要なことに思える。かけがえのない何か、絶対にことばにしておかなければならない何かに見えることがある。でも、それは「翌朝起きて/憶えている」かどうかわからないものである。言い換えると、「あやふや」なものである。
 そういうものがあるのだ。
 そこにある。けれど、それはいつまでもありつづけるとはかぎらない。そういうものを「あやふや」と鈴木は呼んでいる。ヒメジョオンも、それについて思いめぐらしたことばも、ひとも(妻もわたしも、猫も)、確かにいま、ここに存在する。存在するけれども、存在しつづけるかどうかはわからない。--だから地図には載せない。うーん、それは「論理的」な説明だなあ。「あやふや」なものは地図には載せないというのは確かにいえることではあるなあ。

 一方、ことばはどうだろう。ひとの考えは、夜中に目覚めて思いつく「詩」のように、ふいに消えるものもある。存在が「あやふや」であることもある。ところが、書かれてしまうと、それは「あやふや」ではなくなる。「意味・論理」は「あやふや」でも、そのことば自体は「あやふや」ではない。いつでも読むことができる。
 そうすると、それは地図に載せてもいいもの? 地図に載っているもの?
 いや、そうじゃないぞ。
 詩はやっぱり「あやふや」なものなのである。だから、地図には載っていないのだ。どこかに「載る」ことで「定着」してしまっては、それはもう詩ではない--鈴木は、そういいたいのかもしれない。
 ここから鈴木は、逆にことばを動かしていく。詩について語りはじめている。そこにある、けれども、それ以外は何の意味も持たない「あやふやなことば」、それが詩であるという方向に進んでいくのだと思う。
 あらゆる「感動」を排除し、ただそこにある、わけのわからない「あやふやなことば」う詩として提出しようとしているのだ。ことばを解体し「あやふや」にしてしまうことこそ、詩なのである。

 「二本の杖」は鈴木の実体験を描いているのだろうか。

左の股関節を手術した
人工股関節に置換して
リハビリ中
歩くのに
二本の杖を使っている
右の杖に力を入れて
前に進む
左の杖は支え
ところが左の杖に力を入れて
しまって
アイタタとなる
左脚に負担が掛かり
痛いのだ
力の入れ方を間違えたということ
この失敗を
笑ったものだろうか

 最終行の疑問。答えられますか? 「あやふや」な気持ちになる。鈴木は、いま「あやふや」を書きたいんだなあと、思った。

胡桃ポインタ―鈴木志郎康詩集
鈴木 志郎康
書肆山田

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石川厚志『が ないからだ』

2011-01-06 22:59:59 | 詩集
石川厚志『が ないからだ』(土曜美術社出版販売、2010年10月30日発行)

 石川厚志『が ないからだ』はタイトルがしめすようにわざとつくられた「文体」を詩として読ませる作品である。
 「が ないからだ」。

私が何でそれを見られないかといえば
麒麟(きりん)の首がないからだ
私が何でそれを頂けないかといえば
かめれおんのべろもないからだ
私が何でそれを聴くことができないかといえば
兎の耳もないからだ

 読みながら、「長い」と感じた。「私が何でそれを見られないかといえば」という1行が長い。長い分だけスピードが落ちる。スピードが落ちるというのと、スピードを殺した文体というのは別物であって、スピードが落ちるという印象は、私には「欠点」としか思えない。
 「何で」と「といえば」が長い。余分なことを言っている。「何で」という「口語」もことばのスピードを落としている。このスピードが落ちる感じが、「麒麟」「かめれおん」「兎」の比喩を平凡な「比喩」によって、さらに遅くなる。「頂けない」(頂く)という動詞のつかい方も、ぞっとする。もっと簡単に「食う」とか「食べる」とすっきりしたスピードのことばでないと、「気取っている」という印象しか残らない。詩は「気取って書く」というのは、私は賛成なのだが、気取り方に問題がある。「わざと」の姿勢のあり方に問題がある。この詩集を読み通すのは、かなり苦しい。
 一転、「不条理な食卓」はおもしろい。

妻に怒られながら夕食をとる
ずるっと顎(あご)がずれる
何を怒られているのかが分からずに
ずるっとまた顎がはずれる
すると今度は顎がずれていることについて怒られるので
何とか元に戻そうとするが
どうしてなのか逆向きにずるっとずれてしまい
必然的に逆向きにずれてしまったこともまた怒られるので

 この詩も「同じことば」が繰り返されているという印象がある。しかし、微妙に違う。どこが違うのか。「不条理な食卓」は「同じことば」だが、「同じことば」ではない。「不条理な食卓」は「しりとり」になっている。
 しりとりというのは、最後のことばを引き継いで、それとは違うことばを重ねる遊びだが、「不条理な食卓」は同じことばを繰り返しながら、少しずつずれていく。「が ないからだ」は同じことばを積み重ねながら飛躍するのに対して、「不条理な食卓」は飛躍しない。ずるずるずると前のことばを引きずっていく。
 「飛躍」と「ずるずる引きずる」を比較すると「飛躍」の方がスピードがあるはずなのに、なぜか、そういう「論理通り」にはことばは動かない。「ずるずる引きずる」には「滑る」感じが濃厚なためかもしれない。飛躍するには自分自身のなかにエネルギーがいる。けれどずるずる滑る感じのなかには自分のエネルギーが必要ではない。
 別なことばで言えば、ずるずる引きずられて滑るとき、読者は、ひとつひとつのイメージを考えなくていい。前のイメージに寄り掛かっていられる。楽なのだ。この「楽」がスピード感につながっていると思う。
 「が ないからだ」は「麒麟」「かめれおん」「兎」と、いろんな動物を正確に想像しないといけない。これはつらいね。ところが「不条理な食卓」は「顎」と「ずれる」と「怒られる」が少しずつ変わっていくだけなのだ。少しずつだから「楽」に読むことができ、うれしくなる。
 文体そのものを詩にするときは、「楽」に読ませる工夫が必要なのかもしれない。



が ないからだ―石川厚志詩集
石川 厚志
土曜美術社出版販売

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志賀直哉(19)

2011-01-06 11:44:35 | 志賀直哉
「朝顔」(「志賀直哉小説選 三、昭和六十二年五月八日発行)

 「朝顔」は虻が蜜を吸う描写が印象的な小品であるが、読み返してみて、違う部分に志賀直哉らしさを感じた。

私は朝顔の水々しい美しさに気づいたと時、何故か、不意に自分の少年時代を憶ひ浮べた。あとで考へた事だが、これは少年時代、既にこの水々しさは知つてゐて、それ程思はず、老年になつて、それを大変美しく感じたのだらうと思つた。
                                (290 ページ)

 「あとで考へた事だが」というのは、きわめて散文的で詩情をこわすような表現だが、この「あとで考える」というのはなかなか厳しい姿勢である。生き方である。何かを感じたことなど、ふつう、ひとはあとからもう一度考え直そうとは思わない。そのとき、ふと感じて、そのままにしておく。
 ところが、志賀直哉は、ふと感じたことを、これはどういうことだったのかと考え、そこに「論理」を持ち込む。「論理」で感情を補強する。
 有名な(と、私が思っているだけかもしれないが)虻の描写のあとにも同じような文章がある。

虻にとつては朝顔だけで、私といふ人間は全く眼中になかつたわけである。さういふ虻に対し、私は何か親近を覚え、愉しい気分になつた。
                                (291 ページ)

 「虻にとつて(略)私といふ人間は全く眼中になかつた」という虻の「論理(わけ)」の発見が、志賀直哉の感情「親近」「愉しい気分」を補強している。
 志賀直哉は、いつでも「感情」に「わけ」をさがしている。そして、それをさがしあてるまで書くのだと思う。
 この作品の最後もおもしろい。志賀直哉は「虻」と書いた来たが、調べてみる虻と蜂は羽が違うということを知る。そして、

朝顔を追つて来たのは何(いづ)れであつたか。見た時、虻と思つたので虻と書いたが、いまもそれが何れかは分からずにゐる。
                                (291 ページ)

 朝顔の蜜を吸ったのは虻か、蜂か。いずれであっても、

虻は逆(さか)さに花の芯に深く入つて蜜を吸ひ始めた。丸味のある虎斑の尻の先が息でもするやうに動いてゐる。
 少時(しばらく)すると虻は飛込んだ時とは反対に稍不器用な身振りで芯から脱け出すと、次の花に身を逆(さか)さにして入り、一ト通り蜜を吸ふと、何の未練もなく、何所かへ飛んで行つて了つた。
                                (291 ページ)

 という美しい描写は変わらないと思う。しかし、それは私(あるいは他の読者)がそう思うだけてあって、志賀直哉にとっては、それが虻か蜂かわからないことには本当の美しさにはならないのだ。
 志賀直哉にとって「わけ」とは「事実」であり、それは志賀直哉だけの「事実」(たとえば、朝顔を少年時代にも美しいと知っていた、ということ)であっては不十分なのだ。「わけ」として成立するためには、他人と共有できる「事実」でなければならないのだ。
 ここに志賀直哉の厳しい美しさがある。ことばの美しさがある。



小僧の神様・一房の葡萄 (21世紀版少年少女日本文学館)
有島 武郎,志賀 直哉,武者小路 実篤
講談社

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三角みづ紀『はこいり』

2011-01-05 23:59:59 | 詩集
三角みづ紀『はこいり』(思潮社、2010年10月25日発行)

 三角みづ紀『はこいり』は、世界に対して自己を閉ざした詩集である。--と、簡単に言ってしまってはいけないのだろうけれど……。
 ただ、自己を閉ざす、世界から自己を切り離すといっても、なかなかむずかしい。

 私は網膜剥離で手術を受けた経験がある。そのとき友人が、こんなことをいった。「ヘレン・ケラーが、もし、目と耳と口のどちらかが回復するならと問われたとき、なんと答えたと思う?」。私は即座に「耳」と答えた。私は失明するかもしれないと不安だったにもかかわらず、耳が聞こえないと困るなあと思った。友人が「ヘレン・ケラーも耳と答えている」。
 私は音痴だし、ふつうの会話でも最初の音(ことばの初めの音、冒頭の音)が聞き取れないことが多い。それでも私は耳で聞かないことにはことばを理解できない。音を聞かないと意味を理解できない。
 耳というのは、目、口と違って自分では閉ざすことができない(手を使えば別だが)。それは、無意識のうちに何かを聞き取る--ということも関係しているかもしれない。無意識のうちに理解しているものを、ことばでもういちど確認し直す--それが、ことばなのかなあ、とふと思ったのだ。

 と、長い前置きになったが。
 「百舌」。この詩に私はとても親近感を覚えた。

まなざしを捨てた、朝

浴室の鏡が割れる
ほどの戦争のあと
耳だけがのこった
きこえるものは
汽笛と、
たちのぼる湯気

 これは、男と大喧嘩(鏡が割れるほどの喧嘩--あるいは鏡に肉体の変化が映るほどの喧嘩)をしたあと、ひとりでシャワーをあびている様子かもしれない。目を閉じて、何も見ないと決めている。そうすると、湯気の音が聞こえる。それは遠い汽笛、記憶の汽笛の音と重なり、三角を「いま」「ここ」から「過去」の「どこか」へ連れていく。
 耳は--音は、三角を救ってくれる大切な肉体である。
 一方、耳は残酷でもある。

「十年なんてあっというまだったね」
おとこは
三ヶ月前とおなじ声で
つぶやいた
確かに
この十年は三ヶ月の速度で
ながれた

 「おなじ声」。三角は「おなじことば」ではなく「おなじ声」と書いている。「ことば」ではなく、「声」に「意味」を感じているのだ。「ことば」にも意味があるが、「音」にも意味があり、それを感じているのだ。その意味は、ことばでは言い表すことができない。そして、その言い表せない意味が、「おなじ」ということ、その繰り返しのなかで、「十年」と「三ヶ月」を重ね、隔たりをなくしてしまう。「十年」と「三ヶ月」は違うものなのに「おなじ」になってしまう。

 また、耳は不思議な能力を持っている。

花を活けるときには
くきをななめに切りなさい
枝を切るときには
断絶なさい
むやみに
花なんて咲かせてたまるか

のこされた耳は
ききのがさずに

 耳は「花を活けるときには/くきをななめに切りなさい」という「声」を聞きながら、同時に「むやみに/花なんて咲かせてたまるか」という「声」を聞いている。「花を……」は生け花の先生の声、「むやみに……」は三角自身の声であるだろう。違ったものを同時に、聞こえるものと聞こえないもの(実際には声には出されなかったもの)を同時にとらえてしまう。
 それは、たとえば「十年なんてあっていうまだったね」という「おなじ」ことばを発しながらも、そこに「別の声」が存在することをも意味しないだろうか。三角は「おなじ声で」と書いていたが、それは「違う声」である可能性もあったのだ。
 「声」のなかには、意味ではなく、意味を超えたもの、色合いがある。感情がある。「おなじ声」とは「おなじ感情」、おなじいらだち、おなじあきらめ--そいういう三角を苦しめる何かであるのかもしれない。
 耳はひとつの「音」(声)を聞きながら、常に、それを何かと比較しているのかもしれない。自分のなかにある何か、肉体のなかにある何かと比較しながら、自己と他者の間の距離を計っているのかもしれない。その距離には「十年」「三ヶ月」のように時間もあれば、「花を活ける」「花なんか咲かせてたまるか」という意識の距離もある。
 そういう測定を無意識におこない、自己と他者の関係をみつめなおす。耳にはそういうことができるが、目は--よくわからないが、たぶん、そういうことはできない。目の受け取る情報が多すぎるのかもしれない。耳の方が集中できるのかもしれない。耳の方が「関係」を把握しやすく、そして、またその「関係」を自己の「肉体」のなかに隠したまま、他者と接することができる--そういうことができるのかもしれない。自分の中の「声」を聞くのは自分だけであり、他人には聞こえない。他者の声と自分の声、その音を比較しながら、自分のなかで独自に「距離」をつくることができる。そういうことをするためにも、耳は絶対必要なのだ。

耳元で
たちのぼる湯気の
おとがして
わたしなんて
もっと生きればいい

 ここには「むやみに/花なんてさかせてたまるか」という「声」とはまた別の「自分の中の声」がある。耳は、他者と自分の声を同時に聞くだけではなく、また、自分のなかの声にもいくつもの声があることを同時に知り、同時にそれを聞くのである。
 耳は、そういう自分のなかにある「別の声」を遮断することもできない。これは自分の外部の声(音)なら手で耳をふさげば聞こえなくすることができるのとは対照的である。そのことを知っているというのは、三角にとって、強みであり、また苦しみである。耳を選び取ったものの悲しみであり、美しさでもある。

 うまく比較できないが(うまく説明できないが)、この耳と、三角の目(視力)を次の詩で比較できるかもしれない。「まちがいさがし」。

信号の点滅。
赤だったら
赤だったら赤だったら
赤だったらなあ!
赤だったらよかったのになあ!
赤だったらなあ!
赤だったら赤だったら


 耳はひとつの音を聞きながら「おなじ音」を聞くことも、違った「声」を聞くこともできる。けれど、目は、いまそこにある「色」しか見ることができない。
 もちろん信号の「赤」を見ながらトマトの赤を見ることができる人もいるだろうけれど、三角は「たちのぼる湯気」の音のなかに「汽笛」をきいたような具合には、「赤信号」のなかに「トマト」を見ることはできない。
 視力(目)では、関係をつくれない--肉体のなかに、納得できる関係を抱え込めないということが、ここから推測できる。「百舌」のなかで「鏡が割れる」と視力(目)に密接な鏡の破壊が描かれているのは、それがある意味では不幸ではなく、三角にとっては救いだからである。鏡が割れたからこそ、三角は耳により集中できたのだ。集中した結果、「たちのぼる湯気」と「汽笛」の「音」を「おなじ音」として肉体のなかに取り込み、そこに「記憶」を、記憶が抱え込む「人間関係の距離」を抱きしめることができた。でも、いまは、目が信号の「赤」をみつめているので、それができない。

わたしたちには
理由があります
わたしたちにはそれぞれ
事情があります
こわい

 耳は三角を落ち着かせ、安定させる。「花なんて咲かせてたまるか」「もっと生きればいい」というような一見矛盾しているようなことでさえ、肉体のなかで「納得」できるものになる。けれど、目は、そういう「納得」となって肉体のなかには広がらない。

こわい

 このひとことは、とても切実である。
 ひとは、耳、目、口のどちらかを選択して生きるというようなことはできないのである。耳も目も口も生きなければならない。




はこいり
三角 みづ紀
思潮社


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スティーブン・フリアーズ監督「わたしの可愛い人―シェリ」(★)

2011-01-05 22:31:47 | 映画
監督 スティーブン・フリアーズ 出演 ミシェル・ファイファー、ルパート・フレンド、キャシー・ベイツ

 感想を思いつかないくらい退屈な映画だった。キャシー・ベイツは、若いころミシェル・ファイファーの好敵手の高級娼婦だったという設定だが、キャシー・ベイツの方が美人に見えてしまうくらい私はミシェル・ファイファーが嫌いなのであった。
 ミシェル・ファイファーがルパート・フレンドに夢中になるのは若い男だからだろうか。美男子だからだろうか。そして、ルパート・フレンドがミシェル・ファイファーに夢中になるのはなぜだろうか。母親と同じ年代の、引退寸前(引退した?)高級娼婦のどこがいいのだろうか? セックスの手管? なんでも買ってくれるから? 理由がぜんぜんわからない。それがどんな理由であれ、ふたりが相手に溺れる理由がわかればおもしろくなるだろうけれど、なんにも伝わってこない。
 クライマックスは、ミシェル・ファイファーがパリに帰って来て、そこへルパート・フレンドが押しかけるシーンだけれど、台詞ばっかりなので私は眠ってしまった。



シェリ (声に出して読む翻訳コレクション)
コレット
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誰も書かなかった西脇順三郎(167 )

2011-01-05 10:02:28 | 誰も書かなかった西脇順三郎
誰も書かなかった西脇順三郎(167 )

 『豊饒の女神』のつづき。「最終講義」。

けやきの木がまたかれている
先生の窓に梨色のカーテンがかかっている死の床の上で
なければタバコを
すわないと叫んでみても
やはりあの古いネツケがすいたい

 岡井隆が『詩歌の岸辺で』で平田俊子の詩に就いて書いている。平田は最初から最後まで計算されつくした上で書かれたものというよりも漠然とした感覚で書きすすめるタイプではないのか、と推測している。
 西脇はどうだろう。私には、西脇も漠然とした感覚で書きすすめるタイプだと思う。漠然とした感覚で書きすすめるだけではなく、書きまちがい(?)というか、書いている途中で気が変わったら、それはそのとき、前に書いたことを書き改めるのではなく、そのまま残して次へ進んでいくタイプではないかと思う。
 この書き出しには、特にそういう印象がある。何を書くか--それはまだ明確になっていない。「けやきの木」と「先生の窓」の関係は西脇のなかで決まっているわけではない。「けやきの木」は「先生」の部屋へ行く途中で見たものか。あるいは、「先生」の部屋から窓越しに見えるものか、決まっていない。「決まっていない」というのは変な言い方だが、西脇はどちらの意味と決めてそのことばを書いているのではないということだ。西脇が「体験した事実」と「ことば」は別のものなのである。西脇の「現実」と「ことば」は別のものであり、西脇は「ことば」を優先させて「現実」をつくっているのである。
 最初から最後までを計算しつくして詩を作り上げるのではなく、ことばを動かしてみて、その動きにしたがって詩を先行きをまかせる--そういう詩人だと思う。

先生の窓に梨色のカーテンがかかっている死の床の上で

は、「学校教科書」の「文法」では「先生の窓に梨色のカーテンがかかっている」でいったん終わって、「死の床の上で」は別のことばと1行をつくるべきものだろう。しかし、西脇はそれを1行にしてしまう。なぜか。

けやきの木がまたかれている
先生の窓に梨色のカーテンがかかっている

 これでは1行目と2行目が「対句」になってしまう。「いる」「いる」と脚韻を踏んでしまう。そして、こんな言い方が正しいかどうかわからないが、「対句」になることでことばがことばであることをやめて「現実」になってしまう。「意味」になってしまう。外から先生の窓を見ているのか、あるいは先生の部屋から外を見ているのかわからないが、「見る」ということ、そして、その「見る」が「けやき」と「窓」を結びつけてしまうことから「意味」が生まれてきてしまう。「かれている」が「木」と「窓」に結びつけば、それは「病室」になり「死」が暗示される。そういう窮屈さがどうしてもでてきてしまう。

けやきの木がまたかれている
先生の窓に梨色のカーテンがかかっている死の床の上で

という2行は、いわばその「死」を踏まえてことばを加速させたものだが、ここからが西脇独特の音感(リズム感)のおもしろさだ。「意味」へぐいと突き進みながら、その「意味」を「無意味」に変えてしまう。

けやきの木がまたかれている
先生の窓に梨色のカーテンがかかっている死の床の上で
なければタバコを

 「なければタバコを」には「意味」がない。「意味」に通じるものがあるかもしれないが、この1行は完結していない。「未完」である。あらゆる可能性へ向けて開かれている。「木」「窓」「かれている」「死」という「意味」を破るために、西脇はわざと、そういう不完全な1行を挿入しているのだ。「意味」をつくるのではなく、「意味」を破る--それが西脇の詩であるかぎり、西脇は詩の構造を最初から計算して書くということもできはしない。ことばが「意味」になろうとする--そういう動きにであったら、それを否定する、というのが西脇の詩なのである。

けやきの木がまたかれている
先生の窓に梨色のカーテンがかかっている死の床の上で
なければタバコを
すわないと叫んでみても
やはりあの古いネツケがすいたい

 「タバコを/すわないと叫んでみても/やはりあの古いネツケがすいたい」という部分にも不思議な「意味」の破壊がある。タバコをすわないと叫ぶとことと、ネツケがすいたいと思うことの間には、「意味」がない。
 --ただし。
 私がいう「意味がない」にはひとつ前提がある。「ネツケ」がタバコの銘柄ではない、という前提が必要である。もし「ネツケ」がタバコの銘柄なら、「タバコを/すわないと叫んでみても/やはりあの古いタバコ(ネツケ)がすいたい」と「意味」をつくってしまうからである。すわないと叫んでみたものの、あのタバコだけはすいたい、と「意味」になり、また私たちがふつうになじんでいる「学校教科書」の「文体」になってしまう。
 私はタバコを吸ったこがないし、関心もないのでよくわならないが、「ネツケ」をタバコとは思わなかった。
 で、何と思ったかというと--「にっけい(ニッキ、シナモン)」である。にっけいの棒。それは「すう」というよりも「しゃぶる」「なめる」ということばのほうがふさわしいのかもしれないが、まあ、タバコのように口にくわえる。そういう口の動きを、わざと「すう」ということばで結びつけている。
 「古い」ということばも出てくるが、ここでは西脇は、「現実」から「思い出」(記憶)へと動かすということもしているのだと思う。「現実」(けやき、かれる、先生の窓)が「思い出」(にっけい)によってかき混ぜられ、時間が交錯する。そして、その時間の交錯は、

まだこの坂をのぼらなければならない
とつぜん夏が背中をすきとおした

 と「夏」を呼び込む。けやきが「かれる」は、ふつうに考えれば「秋」である。もちろん「葉」ではなく「木」と書いているのだから、それは季節は関係がないかもしれないが、「古いいねつけ」と、その前の不思議な文脈の破壊が時間の構造を解体し、それ以後のことばの自在な時間の往復を呼び込んでいるといえるだろう。
 西脇は、いつでも自在なことばの運動だけを優先している--と私には思える。そういう自在な運動というのは、最初から最後までを決めてしまう詩の書き方とはまったく違っている。何か漠然とした書きたいものはあるけれど、それを決めてはいない。書きながら探すということになると思う。
 「結論」(意味)を決めていない。だから、西脇の詩はおもしろい。



 「ネツケ」に関する補足。
 私は以前、新潟のことばは「い」と「え」があいまいである、と指摘した。(東北のことばに共通することかもしれない。)NETUKE、NIKKEI、NIKKI。ローマ字で書いてみるとよくわかる。「え」を「い」に変えると「ねつけ」はそのまま「肉桂(ニッキ)」になる。
 ここに「方言」(なまり?)を持ち込むことで、西脇の「いま」と「古い時間(古里の時間)」が交錯する。「いま」(東京)と「過去」(新潟)が交錯するとき、そこには幅の広い「時間」と「空間」が広がる。東京-新潟は日本のなかにとどまるが、「いま」と「過去」のあいだの「時間」のうちには西脇は日本を飛び出しヨーロッパにも行っているから、東京-新潟という「広がり」は「時間」を加えることでさらに日本-ヨーロッパという広がりを含むことになる。
 ことばは、その領域を自在に駆け回ることになる。その自在さが、冒頭でつくりだされたことになる。



西脇順三郎全集〈第1巻〉 (1971年)
西脇 順三郎
筑摩書房


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新川和江「コース」、谷川俊太郎「極めて主観的な香港の朝」

2011-01-04 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
新川和江「コース」、谷川俊太郎「極めて主観的な香港の朝」(「現代詩手帖」2011年01月号)

 長谷川龍生「倦怠」の緊迫した魂に触れたあと、新川和江「コース」を読むと、暖かな陽射しのなかでゆっくりと世界と一体になっている気持ちがしてくる。うつらうつら、眠りたいような(眠っているような)感じになってくる。

猫が 通って行く
わたしの中の ランゲルハンス島を
うつらうつら
居眠りしている海馬の傍らを

いつも 裏庭のほうから回って
居間の前で立ち止まり
ガラス戸越しにじっとわたしを見据え
また悠然と歩き出す
白黒まだらの薄汚れたあのどら猫

わが家の芝生の感触が
ぽってりした下腹にここちよいのか
さてと 一隅に
とびきり臭い置き土産をのこし

ユキヤナギの茂みをくぐり
サンゴジュの生垣の株間から
せいせいした足どりで 出て行く
午後の陽が明るく射している西の通りへ

いい出口を見つけたね
わたしも いつか
白い小花にまぶされて
そこから西へ 出て行くことにしよう

 「いい出口を見つけたね」。この1行の前で、私は、ぼーっとなってしまう。あ、死ぬことは「出口」を見つけ、この世から出て行くことなのか。別の世界へ行くことなのか。「入り口」ではなく「出口」。そんなふうに「いま」「ここ」と和解できたら、ほんとうにいいだろうなあ。
 まさか、肉体はそんなふうにして動くことはできないだろうが、魂なら、それができる。その夢にぼーっとする。



 谷川俊太郎「極めて主観的な香港の朝」にも不思議な「和解」を感じた。

木っ端になって
つまりは歴史の上澄みに
ぷかふか浮かんでいる
痛いところはない
痒いところもない
見ると手に十本の指がある
触ると足にも十本の指がある
驚くべきことだ
その他にまだペニスもあるのだから
昨夜<ナショジオ>で見た
豆の莢みたいなケースは
つけていないが

このまま何世紀かが過ぎてゆくとしたら
もちろんそのころ私はどこか
別のところに行っているのだが
結局罪なんてものはどこにもなかった
ということになりはしまいか

あーあ
世界はいま
借りてきた猫のようにおとなしい

 手も足もペニスも、罪を犯すことはあるかもしれない。でも、それは手にとっての罪? 足にとっての罪? ペニスにとっての罪? そうではなく、手に取っての喜び。足にとっての喜び。ペニスにとっての喜び。そして、手も足もペニスも、それ単独のものではないのだから、それは人間が生きていることの喜びだろう。その喜びも、死んでしまえば、その肉体がないのだから、肉体とともに消えてしまう。あらゆるものは肉体とともにあらわれ、肉体とともに消えていく。
 罪も、そのときは存在しない。罪は、きっと生きているときの魂の迷いなのだ。肉体の喜びの、そのまるで自分のものではないような喜びをどうしていいかわからず、罪と思うことで喜びを制御しているのだろう。
 いや、それだけじゃなくて、もっと大きな罪がある? あるかもしれない。けれど、それにしても、それは人間のひとつの可能性の実行にほかならない。ひとはしてはいけないことをしながら自分を超えるのだから、そういう可能性を否定してもはじまらない。
 --というようなことを書いているのか、書いていないのか、まあ、谷川のことばを読みながら、私はぼんやりと感じた。
 新川の詩につないで見ると、罪なんて、どら猫が庭に残していったとびきり臭いうんちのようなものである。そんなものなど適当に残しておいて、自分なりの「出口」を見つけて出て行くだけなのさ。
 世界はきっととびきり臭いうんちを待っている。

 ああ、それなのに、それなのに。世界には何の「罪」もない。猫のうんちに値するような「犯罪」もおこなわれていない。「主観的」には、極めて静かな、おとなしい世界である。退屈な世界である。

 谷川の書いていないことを、私は私の「主観」でかってに書いてみる。

記憶する水
新川 和江
思潮社
ひとり暮らし (新潮文庫)
谷川 俊太郎
新潮社


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熊切和嘉監督「海炭市叙景」(★★★★)

2011-01-04 19:51:55 | 映画
監督 熊切和嘉 出演 谷村美月、竹原ピストル、加瀬亮

 冒頭のシーンが非常に美しい。学校。教室。授業中。遠くでサイレンがなっている。児童が水滴でくもった窓ガラスを拭く。そのとき少し光が変化する。その微妙な光の変化をきちんとつかまえている。私は期待でわくわくしてしまう。こんなに美しいシーンを見るのはいつ以来だろう。これからどんな美しいシーンがつづくのだろう。
 でも、その期待は、そこまで止まりだった。
 冬の北国(雪国)の弱々しい光。しかも、外の光を直接とらえるよりも、室内から、窓越しにその光をとらえる、あるいは窓から室内に入ってきた光をとらえることにカメラが(映画が?)夢中になりすぎていて、かなりむりがある。その光は美しいのだけれど、それだけにむりがある。
 たとえば、造船所のリストラで職を失う(?)若い夫婦の室内。台所があって居間がある。その間には戸があるのだけれど、その戸を閉めない。玄関のガラス戸が居間から見える。台所、玄関から入ってくる光を居間にまで取り込むためには、戸を開けておかないとむりなのだが、ねえ、冬の北国でそんなことする? まず防寒がいちばん。戸はできる限り閉める。こんな嘘のシーンを撮ってはだめ。昼にそんなシーンを撮ったために、年越しそばを食べるときも居間の戸は開いたまま。台所が、そこから見える。雪国じゃ、そんなことはしないよ。
 冒頭の映像の美しさ、そして暮らしの細部、細部に生きている命を丁寧に描くという点では「長江哀歌」(10年に1本の大傑作)に似ているが、嘘がある分だけ、その美しさも「つくられたもの」に成り下がってしまっている。つまらないね。「長江哀歌」のあの美しさを見たあとでは、どんな映画を見ても「長江哀歌」を真似しているとしか見えないところがつらい。暮らしの撮り方を、もっと変えないといけないのだと思う。
 ただ、外の雪のシーンは出色だった。冷たさがしっかりと定着していた。白い輝きではなく、灰色の硬さを含んだ雪の質感がよかった。そこに、暮らしをはっきりと感じた。こういう映像を撮れるのだから、室内ももう少し丁寧に撮ればいいのに、と思わずにはいられない。
 それに。
 なんだか「文学臭」が強すぎる。登場する人物が「苦悩」をおもてに出しすぎる。唯一の救いは、プロパンガス店の社長がボンベで足の指をつぶし動けなくなったとき、料金を滞納している暴力団員がたばこをすすめるところ。そこにだけ、人間の、人間に対するいい意味での裏切りがある。ガス代を踏み倒す暴力団員が、ふとみせる人間的なやさしさ--そこに、お、人間はおもしろい、と感じさせるものがある。
 あとは「不幸」の予定調和である。予定調和のストーリー、演技だから文学臭の「臭」がいっそう強くなるのである。
 「長江哀歌」を貪欲に消化する意欲はいいけれど、その分、興醒めの度合いも大きい。


海炭市叙景 (小学館文庫)
佐藤 泰志
小学館


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長谷川龍生「倦怠」

2011-01-03 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
長谷川龍生「倦怠」(「現代詩手帖」2011年01月号)

 長谷川龍生「倦怠」には「記憶のなかに消えることのない他者の祭祀」というサブタイトルがついている。インドを旅したときのことを書いてる。そこでジャン・ジャーク・ルソーを思い、そのことばを反復し、それからまたインドへ戻る。なぜ、インドまで行って、ルソーを思い出さなければならないのか。そんな理由は、きっと誰にもわからない。思い出したという「事実」があるだけである。思い出して、そこから、ことばが動いた--そういう「事実」があるだけである。そういうことを書いたあとで、

真実 そんなものは見たこともなし
真理 そんなものは聞いたこともなし
ずぶ濡れになって ころがり込んだぼくの手のひらの貧しいインド紙幣
それを船賃であると もぎとった船頭の営為
ただ、それだけである。
もうれつな 倦怠が おそってくる。

 あ、と私はつぶやく。自分のことばが動かなくなったのを感じる。このとき自分のことばが動かなくなったというのは、ちょっと正確ではない。ほんとうは、一瞬、長谷川のことばがわからなくなった、ということである。それまで、長谷川の書いていることばを読むことで、私は私の知っていることばを動かしていた。長谷川のことばに重ねる形で私のことばを動かしていた。それはたとえて言えば、誰かの朗読(発言)合わせて、私自身の口を動かしているようなものである。それが、ここへきて、ぱたっと止まった。動けなくなった。

倦怠

 倦怠って、何? いやになって怠けること、あきあきすること。疲れてだるいこと。辞書にはそんなふうに書いてある。そして、その「意味」を私は知っている。だが、いま、ここで長谷川の書いている「倦怠」の原因は? それがわからない。インドの船頭が長谷川から紙幣をむしりとったこと。それが、なぜ、「倦怠」の原因?
 あ、これも正確な書き方とはいえないなあ。
 長谷川の書いている「倦怠」の意味がわからない、その原因がわからない--と書きながら、実は、わかっているのである。それは、ほんとうは「倦怠」ということばではない。辞書に書いてあるような意味ではない。けれども、何かが「倦怠」とつながっている。まるで何かに殴られて、肉体が動かなくなったような、激しい疲労感と、どこかでつながっている。
 いや、これも正確ではない。長谷川は、いま、ここで、誰も書いたことのない「倦怠」を発見して、それを書いてしまったのである。そのことが直感的にわかった。あ、自分の意志とは無関係に生きているひとに出会い(他人に出会い)、その他人の人生によって自分の何かがさらわれていく(信じられないものに殴られたような衝撃、というのは、たぶんここからきている。「負けたあ」という感じだろうか。)--それに抵抗できない一瞬、そこに「倦怠」の源がある。それを直感的にわかってしまったのである。
 普通の辞書に書いてある「倦怠」とはまったく違った新しい「倦怠」ということばがここにある。
 こういうとき、私のことばは動かなくなる。動かしようがない。新しいことばに出会い、それを納得してしまうと、そのときから私は私のことばをつくりかえなければならない。自分のことばをつくりかえというのは、簡単なことではない。だから、とまどって、立ち止まってしまうのである。
 そして、それから、いまこうしているように、自分のことばを最初から動かし直す。長谷川のことばにぶつかって、立ち止まったことを、そのままことばにしてみるのだ。ことばにしてみたからといって、どうにもならない。それでも、そうするしかない。
 ここからは、長谷川の詩を読む、ことばを読むのではない。ここからは、いままで、どこにもなかったことばを手で触りながら確かめるだけである。長谷川のことばに、私は私の「肉体」を重ねるのである。
 ことばに「意味」を求めない。「意味」というのは、結局のところ、自分自身の「過去」にしかない。すでに知っていることにしかない。そういう「意味」では、長谷川のことばは何ひとつ理解できない。「倦怠」ということば以降、そこにはいままでのことばとは違う「長谷川語」が書かれているのだ。(ほんとうは、もっと早くから「長谷川語」が書かれているのかもしれないが、私が「長谷川語」と感じたのは「倦怠」からである。)

釈尊の真似をして、乞食の風態をして
インドの田舎道をあるく
牛糞を踏んづけて、ビニール袋の廃土にまぎれた穴ぼこ道をあるく
あるくのは、最高の儀式となる

 「意味」ではなく、私は、ここからは長谷川の「ことば」と「肉体」そのものに自分の肉体を重ねる。私のことばを捨て、ただことばを声にする。黙読だが、声にする。肉体をはっきりと動かす。
 そうすると、長谷川が、まるで私がそうしているように、釈尊の肉体に長谷川の肉体を重ね合わせていることがわかる。
 釈尊を真似るの「真似る」とは自分の肉体を他人の肉体に重ねるということだろう。長谷川は、ここでは釈尊の肉体に長谷川の肉体を重ねている。「思想」とか「ことば」ではなく、そういうものに頼らずに、そういうものを振り捨てて、ただ肉体を重ねている。
 私は実際にはインドにいないから、それを想像力のなかでやるだけだが、長谷川の場合に、実際に彼自身の肉体を動かしているので、そこからは、やはり「想像」だけではたどりつけないものが出てくる。

あるくのは、最高の儀式となる

 歩くことで、長谷川は「儀式」に到達している。参加--というより、到達だろうと思う。「あるく」が「儀式」ということばに変わるのである。それは、紙幣を奪い取られたときのショックが「倦怠」に変わったのと似ている。実際の肉体の行動がことばを変えてしまう。(そんなふうにして、肉体によってつくりかえられたことばこそが思想であると私は思っている。--これは、書きはじめるとかなり長くなる。つまり、私にはまだはっきりとはわかっていないことなので、短いことばでは書けそうにない。だから、省略するという言い訳なのだが……。)
 この長谷川の肉体とことばに、また、別のことばが重なってくる。(私は無学で、釈尊のことも、その後のことも知らないので、これから書くことは空想なのだが……。)
 釈尊の歩いた道を、長谷川がそうしたように、韓愈が歩いた。実際に歩いたか、ことばの上だけで歩いたのか私にはわからないが、その歩みを韓愈はことばにした。詩にした。それは、韓愈が見た世界であると同時に、釈尊が見た世界でもある。釈尊が見たと世界を韓愈が、想像して、そう書いたということである。いま、長谷川が釈尊の肉体をたどっているように、かつて韓愈が釈尊の肉体に韓愈の肉体を重ねたのである。
 そこから、詩が生まれる。 そこにいくつものことばが出てくる。そのいくつかを、長谷川は取り上げている。

さむいくちびるを なめなめ
「八荒(はっこう)」「百怪(ひゃっかい)」「鯨牙(げいが)」「天漿(てんしょう)」
「汗漫(かんまん)」「織女(しょくじょ)の襄(じょう)」「飛霞(ひか)の珮(はい)」「頡頏(けっこう)」
それらの言語の音韻を
かわいた空間に いくたびか叫んだことか

 私は震えてしまう。「かわいた空間に いくたびか叫んだことか」の主語はだれだろう。釈尊か、韓愈か、それとも長谷川か。たぶん、それは、そのそれぞれの3人である。
 それらのことばに、それぞれの「意味」はあるだろう。それはきちんと辞書にものっているだろう。けれど、そのことばを3人は「辞書」のことばとしてではなく、肉体としてつかみとっているのだ。辞書に載っている「意味」ではなく、その「意味」ではとらえられないもの--「他者」として受け止め、その「他者」を受け止めるために、自分の肉体そのものを変えてしまおうとしているのだ。肉体を変えることで、ことばそのものを変えようとしているのだ。
 それは、別なことばで言いなおせば、「精神」(あるいは魂)を生み出そうとしているということかもしれない。
 「意味」なら、「頭」で消化できる。けれど「魂(あるいは精神)」は、変わっていく肉体とともにしか存在しないのだ。自分の肉体が自分のものでありながら「他者」になってしまうとき、そこに「魂」が誕生するのだ。

 あ、なんだか、酔っぱらったみたいなことを書いているなあ。長谷川のことばにあてられてしまったのかもしれない。
 どんなふうに言いなおせばいちばん正確になるのか。私が感じていることをいえるのか。よくわからないのだが……。

 自分の肉体を他人の肉体に重ねる。たとえば、釈尊を真似てインドを歩く。釈尊を描いた韓愈をまねる。意味のわからないことばを、そのことばのまま口にすることで、せめてのどと耳を重ね合わせる。そのとき、もし、肉体がぴっかり重なる(一体化する)とまで行かなくても、そういう肉体の動きをすることでしかつかみとれない何かに出合う。肉体そのものが、何かに出会い、肉体とともにある魂に響いてくる。
 そのとき、だれのものでもないことばが誕生し、そのことばが他のことばを支配する。統一する。そういう「儀式」のようなことが、一瞬のうちにおこなわれる。

 私はきっと何もわかっていないのだろう。ただ興奮しているだけなのだろう。だが、こういう興奮が私は好きなのだ。だから、書いてしまう。
 ほんとうは、こういう興奮にのみこまれたら、それをじっと肉体のなかにしまいこんで、興奮が新しいことばに結晶するまで我慢しているのがいいのかもしれない。長谷川は、最終連で、その静かな肉体の動きを書いている。

釈尊の生まれたところ
釈尊の修行したところ
釈尊の涅槃(ねはん)に入ったところ
東南アジアの極地から群集が寄ってきて
座を組み 瞼をとじている
明らかに ぼくは それを無視して
うつむきかげん 過ぎ去っていく



 「倦怠」から遠ざかってしまったかもしれない。でも、どうやって、「倦怠」に戻っていいかわからない。
 長谷川の書いている「倦怠」は、私のずぼらな肉体の感じで言えば「負けたあ」という感覚に似ている。太刀打ちできないという衝撃に似ている。この衝撃のなかで、私が知るのは、「他者」の絶対的な勝利である。「他者」の祝祭が、その瞬間に存在する。長谷川は、その祝祭を、私とは違ってもっと厳粛な「祭祀」と感じているのかもしれない。長谷川はとても精神的(魂的)なのである。
 --ここから先は、私のことばの範疇からはみ出してしまう。きっと、誰かが、もっと適切なことばで長谷川の詩の読み方を書いてくれるだろう。それを読みたい。



立眠
長谷川 龍生
思潮社

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ナボコフ『賜物』(34)

2011-01-03 12:40:47 | ナボコフ・賜物

 人気のない春の森ではしっとり濡れた白樺の褐色の木立が--中でも特に小ぶりの白樺が、周りのことにはまるで関心がなく、自分の内側しか見つめていないといった風に立っていて、(略)
                                 (76ページ)

 高屋窓秋の「山鳩よみればまはりに雪がふる」をふいに思い出した。窓秋のナボコフの白樺が同じものに見えた。
 ナボコフの「白樺」の文章では、誰が「小ぶりの白樺が、周りのことにはまるで関心がなく、自分の内側しか見つめていない」と感じたのかわからない。ルドルフが感じたのか。オーリャが感じたのか。誰の「心象」を代弁しているのかわからないのだが、この誰のものでもない「心象」が、不思議なことに、私をその森へ連れていく。ルドルフの心象でも、オーリャの心象でもないからこそ、私は彼らのどちらかに加担することもなく、客観的(?)に森にさまよい込む。そして、そこで一本の白樺になり、空気を呼吸する。一本の白樺になってしまう。そして、気がつく、あ、これはルドルフの心象でもオーリャの心象でもないのではなく、ふたりの心象なのである。ふたりを超えたというか、ふたりの区別をない心象というものだと気がつく。
 --これは、窓秋の句にもどっていえば、「山鳩」が「山鳩」ではなく、同時に窓秋であり、またそのことばを読む「私」でもあるという関係に似ている。あらゆる存在に区別がなくなる。個々の存在の区別を超えた何か。「一元論」の世界。誰もがその白樺を見るとき、その白樺になり、森を呼吸する。
 こういう不思議な世界が、突然、ぱっと出てくるのもナボコフの特徴だと思う。ナボコフの描写は、あるとき突然「一元論」になる。「一元論」の描写には何でももちこむことができる。どんな「心理」、誰の「心理」でももちこむことができる。だから、あ、これを「盗作」してみたい、という欲望にかられる。何かの描写、どこかの描写に、これを利用して、たとえば「街灯の下の置き去りにされた自転車が、街の喧騒にはまるで関係がなく、まるで自分の内側しかみつめていないといった風にクリスマスの雨にぬれていた」とか。そこから、誰の、どんな物語でもはじめることができる--そういう気持ちにさせられることばに、私は強くひかれる。


ロリータ、ロリータ、ロリータ
若島 正
作品社


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伊藤悠子「あなたにあうためには」

2011-01-02 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
伊藤悠子「あなたにあうためには」(「左庭」18、2010年12月20日発行)

 伊藤悠子「あなたにあうためには」は読みはじめてすぐ、とても気に入った。1行を読んだ瞬間から次の行を読みたくなった。音が気持ちがいいのである。

アウローラ、あかつきのひかりよ
あなたにあうためには
はるばるといきてこなければならなかったのだろう
たどたどしくならねばならなかったのだろう

 「アウローラ」の最初の「あ」の音が「あ」かつき、「あ」なた、「あ」うと繰り返される。「アウローラ」が何を指すのかわからないが(たぶん、すぐあとで繰り返されている「あかつきのひかり」だろうと思うけれど)、私にとっては、それはわからなくてもかまわない。書いている伊藤には申し訳ないが、私は「意味」にひかれて読みはじめるわけでも、読みつづけるわけでもない。私がことばを読みつづけるのは、そのことばの「音」が私にとって気持ちがいいかどうかが一番重要である。私は黙読しかしないが、その黙読のとき、私の肉体の中で音が生まれる。自然にのどが動く。舌も動く。声帯が緊張したり緩んだりする。その感じがそのまま耳に伝わる。そして、そのときの肉体の反応が私にはとても重要である。気持ちよくないと、あとを読む気がしないのである。
 この詩は「アウローラ」という不思議な「あ」のゆらめきのような音がおもしろいし、それにつづく「あ」の繰り返しがうれしい。
 そして3、4行目では「あ」の音から一転して別なものになる。
 それぞれの行の頭では「はるばる」「たどたどしい」と濁音の多い音が繰り替えされ、行の終わりでは「ねばならなかったのだろう」が繰り返される。
 ことばの音楽が一気に広がって豊かになる。
 この豊かさの印象を土台にして、ことばはさらに別な音を探しはじめる。

まだみえない目には
まなざしがあり
ほのかにふかいまなざしは
しらせをきいて
おとずれたものをなでた

 「ま」だ「み」えない「め」には/「ま」なざしがあり、という「ま行」揺らぎ。そしてそれを「ほのかにふかい」と「ま行」を含まない音で破って「ま」なざしは、と再び「ま行」へ帰ってくる。
 「まなざし」が繰り返されたあと、そのことばのなかの「し」が選ばれて「し」らせをきいてということばへつながる。「ま行」から「さ行(ざ行)」へと音が動いているように感じられる。まな「ざ」「し」、おと「ず」れ。それから、なでるが絶妙である。なでるのなかに、な「ぜ」るという訛りの「ざ行」の誘いと、その誘いを拒絶する動きがある。「ざ行」を拒絶した音は、

やがて目がみえるようになれば

 と、「な」の音を選ぶ。「な」でた、「な」れば。(「で」という音と「れ」という音は、「ぜ」と「で」と音と似た感じの距離にある。)
 いちいち説明しているときりがないけれど、こういう感じで「音」が揺れ動いていくのだ。次のように。

そのまなざしは
あなたのたましいのふかいところでしだいにしまわれ
あなたじしんをてらすだろうか
それとも
ときおりこぼしてくれるだろうか
はるばるといきてきたものは
たどたどしくなったものは
いくどもつぶやいたよ
ほっとした
ほっとしたね
ただそれだけのことを
まるでじぶんたちのあしのはこびをこしかめあうようにね
アウローラ、あかつきのひかりよ
まだなまえももたない
あなかにあったあさのことだよ

 最後は、冒頭の「あ」が繰り返される。とてもうれしい。私の肉体はこのなつかしい響きに酔ってしまう。「あ」の繰り返しのあと「ことだよ」と「お」の音をたくさん含んだことばと「だ」という濁音の豊かさが響き、なんといえばいいのだろう、長調の音楽が「ド」の音をゆっくり響かせて終わるような自然な落ち着きがある。

 で、ちょっと補足すると……。

 この「アウローラ」が何であるのか(あかつきのひかりなのか、それとも神の別の名前なのか)知らないが、そういうちょっと「不明のもの」をしっかりと呼び込むというか、自分の肉体になじませるためには、この詩で伊藤が実践しているような「繰り返し」と揺らぎがとても効果的だと思う。
 神(あるいは信仰の教義)というものは、その真理にたどりつけない。しかし、たどりつけなくても、その「ことば」を繰り返していると、ことばとともに「肉体」のなかでそれなりに「形」をとりはじめるものなのだ。肉体が、ことばではたどりつけないものを、なぜか納得してしまうのだ。そういう状態に達するために、ことばは「声」を通らなければならないのかもしれない。「声」を通ることで、「ことば」は「意味」とは別な形で「真理」に触れるのだ。それは、「真理」を求めるという運動のなかにある渇望、本能の「真理」かもしれない。幸せになりたいという願う本能としての「真理」かもしれない。それはきっと神の「真理」と呼応している。
 伊藤の書いていること、「アウローラ」が何かはわからないけれど、それに向き合うときの伊藤の「真理(真実)」、正直というものが、この詩の美しい音楽のなかにある。それを、とても強く感じた。






詩集 道を小道を
伊藤 悠子
ふらんす堂
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誰も書かなかった西脇順三郎(166 )

2011-01-02 11:49:52 | 誰も書かなかった西脇順三郎
 『豊饒の女神』のつづき。
 だれの詩にも、まったくわからない行(ことば)というものがある。西脇の詩の場合、「わかる」といえる行の方が少なく、私はかってにわかったつもりになっているだけなのだが、そのかってにわかったつもりにもなれない行があるから、ちょっと自分がいやになるときがある。
 「九月」。

またカマクラへもどつた
戦争の時代には朝に道をきいて
金沢街道をまがると
茄子に水をやる
あの老人のまがつた足などを
ほこりのいたどりとともに見れば
夕に死ぬもかなり
すべて思い出である
つまらないものだけが
永遠のイメジとして残る
それはローソクを買いに出たのだ
昔のように茄子ときうりとみょうがを
きざんで醤油をかけて
白シャツをきてたべてみたい

 「つまらないものだけが/永遠のイメジとして残る」の「つまらない」は別のことばで言えば「淋しい」だろう。その「淋しさ」に「まがつた(まがる)」が同居するのは西脇の特徴である。
 そう理解した上で、

それはローソクを買いに出たのだ

 この1行が私にはまったくわからない。何を読み違えたのだろう。私はカタカナ難読症だからもしかしたら「ローソク」は「ろうそく(蝋燭)」ではないのかもしれない。そう思って何度か読み返すが、どうみてもローソクである。
 戦争の時代、夜停電があり(あるいは灯火規制があり電灯がつかないことがあり)、明かりが必要なのでろうそくを買いに行ったということだろうか。そう解釈すれば「意味」は通じるが、なんとも窮屈である。朝に道をきいて夕に死すという文脈からも「夜(ろうそく)」が出てくる余地はないように思える。
 これはいったい、何?
 わからない行を含むのだが、私は、実はこの部分がとても好きだ。「永遠」の定義が好きだし、「ローソク」のあとの3行が、とてもしゃきしゃきした音でつくられていて気持ちがいいのだ。「き」うり、「き」ざんで、白シャツを「き」ての「き」がつくりだすリズムが気持ちがいい。みょうが、醤油、シャツにも通い合う音がある。
 なぜ「白シャツをきて」という味とは無関係なことばがあるかといえば、もちろん書き出しの

つくつくぼうしが
もう鳴いている
断頭台に行く囚人のように
白いシャツ一枚をきてポプラの
なみき路をひとり歩く

と関係するのかもしれないが、そんな絵画的なこだわりよりも、「白シャツ」という音そのものが私には美しく感じられる。「白いシャツ」ではなく「白シャツ」というのもいいなあ。ことばが短くなって、その分、次のことばの登場が早くなる。この速度感が楽しい。




詩集 (定本 西脇順三郎全集)
西脇 順三郎
筑摩書房


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粕谷栄市「来世」

2011-01-01 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
粕谷栄市「来世」(「現代詩手帖」2011年01月号)

 粕谷栄市「来世」は詩集『遠い 川』(思潮社)の続編(?)のような作品である。まだ『遠い 川』について書きたいことがあるのだが、新しい作品を読むと、先に新しい感想を書きたくなる。

 不信心な私は、来世のあることなど信じていないが、
若し、それがあるとしたら、死んで、私は、今度は、何
になって日々を送るだろう。

 人間は不思議なものである。「信じていない」ことも書くことができる。「来世」があると信じていないのに、もしなるとしたらと仮定し、そこからことばを動かして行ける。信じていないなら、たとえそういうことが仮定できるとしても、意味はない。そういう意味のないことを人間は考えることができる。ことばに、ことばを実際に動かしてしまうことができる。
 そして、いったんことばを動かしてしまうと、それを信じていようがいまいが同じようにことばは動きつづける。意味がないのに、あたかも意味があるかのようにことばは動いてしまう。

 もちろん、来世について、どんな智識もない上に、ど
んな功徳も積むことのなかった私のことだから、何やら、
うまいはなしがあるわけではない。

 「信じていない」と最初に書いたので、もちろんことばは「まっすぐ」には進まない。「どんな智識もない上に」というように、いったん、「原点(?)」に引き返してことばは動くのだが……。
 ことばはむずかしい。
 「来世についてどんな智識もない上に」といいながら「どんな功徳も積むことのなかった私のことだから」と粕谷は書く。あ、ここには、「来世」というのは「功徳を積む」とたどりつけるらしいという「智識」がしのびこんでいる。そうなのだ。「信じていない」「智識もない」とはいいながら、「来世」に関することをなんらかの形で聞いてしまっている。「知らない」のなかには「知る」が含まれている。
 これが「国語」のむずかしい点である。
 外国語なら、こんなことはない。あることばを「知らない」となったら、「信じる」もなにもない。「わからない」。けれども国語の場合は違うのだ。「知らない」は「聞いたことがない」とは違うのだ。
 「聞いたことはある」が「知らない」と言わなければならないことがあるのだ。「知っている」が「知らない」と言わなければならないことがあるのだ。「知る」とは単に聞いたことがあるということではない。「信じる」ことが必要なのだ。
 信じていないものは、知っていても「知らない」なのである。信じているとは、納得している、ということかもしれない。知っているだけではなく、それを自分の中できちんと消化している--ということが納得かもしれない。
 「智識」がなくても、他に知っていることをつないで、知らない、分からない世界へと踏み出すことができる。それが「国語」の力である。

 ちょっと、詩から離れてしまったかもしれない。

 来世を信じていない、どんな智識もないし、功徳も積んでいない--そういうことを踏まえて、もし来世があるとしたら、私はどうなるか、ということへ向けてことばを動かしていく。ことばは、いつでも、どこへでも動いて行けるのである。動いて行けるけれど、信じていない、智識がない、功徳も積んでいないという「条件」が重なると、その動きにはおもしろい制御がかかる。

 そこで、ある日、私は、自分が、一匹のげじげじであ
ることに気がつくのだ。

 来世を信じていない、功徳を積んでいないひとは来世から見放され(?)、人間ではなく、げじげじになる。
 ふーん。

 いや、そんなこともない。要するに、一匹のげじげじ
は一匹のげじげじで、自分が、げじげじであることも知
らない。何も知らない、何も分からない。

 来世を信じていない、どんな智識もないし、功徳も積んでいない--だから、粕谷は、いま動いたことばを必ず否定する。「何も知らない、何もわからない。」
 これは、しかし、ほんとうに不思議なことである。
 「何も知らない、何も分からない。」と書きながら、それでもまだまだ書きつづけることができる。いや、「知らない、分からない」と書くことで、「自由」を手に入れるのかもしれない。「智識」があると踏み出せない領域へ「無知」は踏み出すことができるのかもしれない。
 「何も知らない、何も分からない。」と書いたあと、粕谷のことばは、いっそう自在に動きはじめる。

 ある年の春、どこかの薯畑の泥のなかで生まれて、あ
たりを這いまわって、短い一生を過ごすだけだ。
 なにしろ、げじげじのことだから、それ以上のことは、
知る由もない。その最後の秋の日、薯畑の畔で、鴉に食
われて死んだことなど、余計な憶測というものだ。
 だが、げしげじにしてみれば、違うのかもしれない。
げじげじは、げじげじにしかない悟達を得て、げじげじ
だけの深遠な何かを持って、死ぬのかもしれないのだ。

 「知らない、分からない」と書いていたのに、何か、ここには、「知らない、分からない」ひとのことばではないものがある。知らない、分からないということばで耕した「ことばの領域、次元」がある。「哲学」がある。

 今日、そのげじげじは、私の家にいて、食卓で、私の
顔をして、私の飯を食っている。げじげじは、げじげじ
の来世で、この私になったか。いや、はじめから、私が、
そのげじげじだったか。
 毎日、この世のくだらない仕事に追われて、へとへと
に疲れて一生を終る私の、それが、最後のきれぎれの夢
の一つだ。遠いでたらめな来世の夢だ。

 「知らない、分からない」こそ、「知る、分かる」ということなのだ。ただし、それは「現実」に有効な「知る、分かる」ではない。
 「知らない、分からない」を出発点として動きはじめることばがたどりつく先は「夢」であり、その「夢」のなかで、ひとは「知る、分かる」のである。
 この「夢」のなかの「知る、分かる」こそ、私は「思想」だと思っている。そこには本能的な欲望がある。「知らない、分からない」から出発するから、それがたどりついた「思想」は、学校教科書でいう「思想」や「哲学」とは違うかもしれない。いわば、素人の「誤読」というものかもしれないが、「誤読」してしまう力のなかにこそ、本能的ないのちの動き--本能を裏切らない、本能に正直な「思想」がある。本能を行かそうと必死になって動くエネルギーがある。





遠い川
粕谷 栄市
思潮社

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志賀直哉(18)

2011-01-01 19:57:13 | 志賀直哉
「自転車」(「志賀直哉小説選 三、昭和六十二年五月八日発行)

 志賀直哉は「不快感」について敏感である。何度も出てくる。

最後に何か今まで食つた事のないものを食はうと、窯揚うどんを取り、不味いものだと思つた記憶がある。
                                (278 ページ)

それまでは物を売つたといふ経験がなかつたから、金を受取つた時、何か妙な不快(ふくわい)な感じがした。
                                (280 ページ)

 或日、私は森田から萩原の主人が私に「うまくペテンにかけられた」と云つてゐたといふ事を聞かされた。私はそれまでペテンといふ言葉を知らなかつたが、聞いた瞬間、この初めて聞く言葉の意味がいやにはつきりと解り、急に堪へられない気持になつた。
                                (281 ページ)

 小説は「ペテン」ということばをめぐる気持ちを追いつづける。そこに志賀直哉の正直が出てくるのだが、「ペテンといふ言葉を知らなかつたが、聞いた瞬間、この初めて聞く言葉の意味がいやにはつきりと解り」の、「聞いた瞬間」、「いやにはつきり解り」が、とても志賀直哉らしいと思う。「いやに」が特に志賀直哉をあらわしていると思う。
 「いやに」は「非常に、妙に、変に」というような意味なのだろうけれど、志賀直哉の「いやに」は「否に」と書いてしまいたいようなところがある。はっきりと解りたくはない、けれどはっきり解ってしまった。そこには何か自分のなかにあるものを否定する動きがある。自分のなかにあるものを否定することが「不快」の感覚を強める。
 それは窯揚うどんを「不味い」と感じた不快感に通じる。「不味い」と感じ、それを不快に感じるのは、「おいしい」という期待が裏切られたからだろう。自分のなかにあった「おいしい」という期待が否定されたのである。
 金を受け取ったときの「不快」と比較するとまた違ったものが見える。志賀直哉はそのときの不快の前に「何か妙な」というたとばをつかっている。「いやな」と「何か妙な」は違うのだ。「ペテン」ということばの意味は「何か妙な(に)」感じで「はつきり解」ったのではなく、あくまで「いやに」なのである。
 何が違うのか。
 「物を売つたといふ経験がなかつた」ということと、「ペテンといふ言葉を知らなかつた」の違いがある。「経験」と「言葉」の違いがある。
 「経験」はなくても、志賀直哉は「売る」ということばは知っており、また、その実際を知っている。経験がなくても知っているということは、志賀直哉の「肉体」のなかに「売る」ということに関する具体的なイメージがある。「売る」という行為は対象化できている。
 一方、「ペテン」ということばは知らない。だから対象化できていない。対象化できていないものが「肉体」のなかへ直接飛びこんできた。だから、志賀直哉はそれを全力で否定しようとしている。そのときの「否定」の気持ちが「いやな=否な」ということばを誘い出しているのだ。
 「ペテン」ということばが、志賀直哉の「肉体」のなかに入り、志賀直哉のなかにあるものを暴き出す。それは志賀直哉が否定されることである。その「ことば」と「肉体のなかにあるもの」の相互関係を、その運動を予感してしまう--それが「はつきり解り」ということかもしれない。

ペテンというのはそれを計画的にしたといふ意味なのだから、その言葉だけを取つて云へば、萩原は誤解してゐるのだが、誤解されるのは腹の立つ事である筈なのだが、私は森田から聴いた時、不快(ふくわい)で堪へられぬ気持にはなつたが、萩原に対し、原を立てる事は出来なかつた。私は良心に頬被りをしてゐたのだ。ランブラーを買ふ事にした、その時とそれ程感じなかつたとしても、直ぐ、気付いて、頬被りで、忘れて了はうとしたゐたのである。
                                (282 ページ)

 ここに直接ではないが「経験」が出てくる。「良心に頬被りをしてゐた」という経験はだれにでもあるだろう。それを志賀直哉もしたことがある。何かを「頬被りで、忘れて了はうとした」こともだれにでもあるだろう。それは志賀直哉にもある。
 「ペテン」ということばは知らないが、ペテンであるかどうかは別にして、何かに対して頬被りをしたり、その何かを忘れてしまおうとした「経験」がある。
 そういう「経験」が、いま、ここであばかれている。(抽象的にではあるけれど。)
 ことばが「対象化」されていないものを暴き出し、対象化する。そうすることで、ことばがより正確にことばになる。--そういうことを予感して、「いやに」ということばをつかっているのだ。「いやに」ということばを頼りに、そういう対象化へと志賀直哉は無意識に進んでいるのである。
 「不快」からさらに進んで「堪へられない」というところまで気持ちが動くのは、そういう暴き出しと対象化が必然として予感できたからであろう。



志賀直哉〈下〉 (新潮文庫)
阿川 弘之
新潮社
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ジャン・ジャック・アノー監督「薔薇の名前」(★★★★)

2011-01-01 18:22:20 | 午前十時の映画祭
監督 ジャン・ジャック・アノー 出演 ショーン・コネリー、クリスチャン・スレーター、F・マーリー・エイブラハム

 ウンベルト・エーコの小説は私は読んでいない。長いので敬遠してしまった。読んでいないのにこんな感想は無責任かもしれないが、とてもよく「要約」された映画になっている。ショーン・コネリーの「過去」を描くシーンが少し物足りない。ことばでは「過去」が説明されるが、ショーン・コネリーの肉体にその「過去」の痕跡がない。つまり、「過去」が演技されていない。「過去」を演技するにはショーン・コネリーの肉体は頑丈過ぎるのかもしれない。あるいは、私が「007」のイメージでショーン・コネリーを見ているために、演技された「過去」を見落としているのかもしれないが……。
 殺されていく人物が戯画化されすぎている(肉体的にも)かもしれないが、この映画の暗い画面では、これくらいの戯画化がないと人物の区別がつきにくいかもしれない。僧侶(修道士)など、特に見分けがつきにくい格好(服装)をしているのだから。
 見どころは画面の暗さかもしれない。暗く汚れた画面にすきがない。まるでエーコの文体のようである。(と、読んでいないのに、私は書いてしまう。)その緊密な画面(画質)が反響し合って、塔の内部の迷路のような階段になる。ショーン・コネリーとクリスチャン・スレーターが行き違いになり、はぐれ、再び会うまでのシーンがとてもいい。声が反響し合って、どこにいるかわからなくなる。目にみえるもの、耳に聞こえるものが、逆に人間を混乱に陥れる。その不安な構造が、構造として映像化されている。
 外部から遮断され、しっかりと固められた内部、その複雑な構造--その構造そのものを内部から解体し、新しい構造につくりかえる。そういう「哲学」をそのまま再現した、象徴的なシーンだと思う。
 他の細部もとてもおもしろく描かれている。クリスチャン・スレーターは「迷子」から抜け出すために、セーターをほどいて出発点にしばりつけておく。それをたどってショーン・コネリーはクリスチャン・スレーター最初の部屋に戻ることになるのだが、その前、秘密の入り口をなんとかしようとしているとき、ショーン・コネリーは「カチカチカチ」という不思議な音を聞く。「カチカチカチ、という音が聞こえないか?」「私の歯がぶつかる音です」。セーターがほどけた分だけ、クリスチャン・スレーターは「薄着」になっていて、寒いのだ。こういう細部、細部を「事実」に変えてしまう丁寧さが、嘘(虚構--ストーリー)を本物にする。
 事件解決の手がかりとなる証拠、指先の黒いインクとそれを舐めたときの舌の黒いインクの色もしっかりと映像化されていて、映画はこういう細部で決まるのだと、改めて思った。



 ジャン・ジャック・アノーの作品に「人類創世」がある。この映画にはとてもおもしろいシーンがある。そこに登場する男女は、最初「ドッグ・スタイル」で性交している。ところが、あるとき女が体位を変え、「正常位」の体位へ男を導く。(セックスで何が正常か決めるのはむずかしいことだが……。)男は驚くが、正常位によって、性交の瞬間、互いの顔を見ることができる。そこから感情の交流が生まれ、性交は愛の表現に変わる。このシーンは、ジャン・ジャック・アノーの手柄である。そして、その体位を最初に「発明」したのが女である、というのもジャン・ジャック・アノーの手柄である。
 「薔薇の名前」とはあまり関係がないのだが、この映画の中でも、女がクリスチャン・スレーターのセックスのてほどきをしていた。それをみて、ふいに思い出したのでつけくわえておく。
                        (「午前十時の映画祭」48本目)
 

薔薇の名前〈上〉
ウンベルト エーコ
東京創元社
薔薇の名前〈下〉
ウンベルト エーコ
東京創元社
薔薇の名前 特別版 [DVD]
クリエーター情報なし
ワーナー・ホーム・ビデオ

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