詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ナボコフ『賜物』(33)

2011-01-01 17:43:00 | ナボコフ・賜物

ルドルフが思いがけずほろ酔い気分になって羽目をはずしたため、ヤーシャが力ずくで彼をオーリャから引き離したのだが、そのすべての舞台となったのはバスルームだった。それからルドルフは声をあげて泣きながら、いつの間にかズボンのポケットからこぼれ落ちていたお金を拾い集めていた。
                                 (74ページ)

 なぜズボンのポケットからお金(小銭だろう)がこぼれ落ちたのか、その理由は具体的に書いていない。しかし、理由はわかる。ルドルフに対してヤーシャが力ずくで何事かをしたからだ。そのとき、何かの拍子で小銭がこぼれたのだ。こういうことは、ひとはだれでも経験することかもしれない。何かの拍子で誰かと喧嘩し、そのとき小銭がポケットからこぼれる。そういう誰もが経験すること、その面倒な細部をナボコフは省略するのだが、この省略の仕方は絶妙である。その一方「泣きながら」という細部をしっかり書き込む。誰かと喧嘩したときズボンから小銭がこぼれる--そういう激しい喧嘩は誰にでもあることだが、その結果、「泣きながら」小銭を集めるということは、誰にでもあることではない。誰にでもあるのは--たぶん、小銭をそのままにして、その場を立ち去ることだろう。しかし、ルドルフはそうしなかった。そういう、ふいのリアリティをナボコフはしっかりと書き込む。これがナボコフの魅力である。
 これにつづく文章も私は大好きだ。

皆にとってなんと辛く、なんと恥ずかしいことだったろう。
                                 (74ページ)

 喧嘩は辛い。それはなぜか。そのあとに「恥ずかしい」という感情がやってくるからである。もしかしたら恥ずかしさこそが辛さの原因かもしれない。感情をひとことで書くだけではなく、その感情をもう一歩踏み込んで書く。そのとき、そこにリアリティが生まれる。





ロリータ、ロリータ、ロリータ
若島 正
作品社


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誰も書かなかった西脇順三郎(165 )

2011-01-01 12:51:45 | 誰も書かなかった西脇順三郎
誰も書かなかった西脇順三郎(165 )

 『豊饒の女神』のつづき。「桃」は後半がとてもおもしろい。

この寺にはまだ根岸のクコの生垣が
残つておりますそれでも見ていつて下さい
悲劇の誕生はおさけなさいましよ
銀のナイフをつけ露にしたたる
桃を出してどうぞめしあがつて!
つれの女とさつきとうふをたべたばかり
その危険な関係を謝した
遠く旅立つ人がいないのは悲しい
こんなに別離の情がわき出ているのに!
たそがれのきらめきが
藤だなのくらやみにゆれている

 突然出てくる「とうふ」にびっくりしてしまう。

つれの女とさつきとうふをたべたばかり

 なぜびっくりするかというと、桃をすすめられて、それを断るのには変な理由だなあと感じるからだ。とうふをたべたから桃が食べられない? そういう状況がわからない。いったい、何? 事実?

 わからないものに驚いたとき、ひとはどんな反応をするのだろう。
 私は笑いだしてしまう。たぶん、笑うことで、ふいにやってきた緊張をほぐすのだと思う。これは私の自己防衛本能のようなものである。笑わずに、これ何? と真剣に考えはじめると苦しくなる。だから、笑ってリセットし直すのである。
 そういうリセットは、笑いながらも、どこか悲しいものを含む。淋しいものを含む。自分のなかからなじんでいた自分が離れていくような感じがする。
 そんなことを思っていると、

遠く旅立つ人がいないのは悲しい

 という行がやってくる。わけはわからない(意味の脈絡はわからない)のだが、そこに「悲しい」ということばがあるので、ふいになつかしいような、あ、これだ、この悲しみだ、私がいま感じているのは--と錯覚する。
 何もわかっていないのに、その行がこころに落ち着く。繰り返して読んでしまう。繰り返し読むと、なんとなく、肉体のなかで「悲しい」がほんとうになるような気がするのだ。
 追い打ちをかけるように、

こんなに別離の情がわき出ているのに!

 これも変だねえ。桃をすすめられ、ほかの女ととうふを食べたばかりだと思い出し、急に悲しくなる。
 もし、ここに旅立つ人がいるなら、そのひとにことよせて、悲しい気持ち、別離を悲しむ気持ちを発散することができるのに……。

 脈絡があるようで、ない。ないようで、ある。まあ、あるように、読んでしまうということなのかもしれない。
 こういう変な(変じゃない、これにはこういう意味がある、という声もあるかもしれないけれど……)行が、変だけではなく、おもしろいと感じるのはなぜなのだろう。なぜ何度も何度も読み返してしまうのだろう。
 私はやはり「音」に引きこまれるのだと思う。いろいろな音があるが、「た行」の音のつながりだけを取り上げてみると、

ぎんのないふを「つ」け「つ」ゆにし「た」「た」る
ももを「だ」して「ど」うぞめしあが「つ」「て」
「つ」れのおんな「と」さ「つ」き「と」うふを「た」べ「た」ばかり
そのきけんなかんけいをしゃし「た」
「と」おく「た」び「だ」「つ」ひ「と」がいないのはさびしい

 「連れ」の女と「とうふ」「食べた」、「遠く」「旅立つ人」--特に、そこに「た行」の音が集中して、豆腐と旅立つ人が不思議な感じで接近する。「その危険な関係を謝した」という行には最後に「た」が出てくるが、これは私には非常に印象が薄い。まるまる1行「た行」がなかったかのような印象がある。その「た行」の空白の1行が、さらに「つれの女……」と「遠く旅立つ人……」の「た行」の呼びかわしあいをくっきりさせるように思える。




北原白秋詩集 (青春の詩集/日本篇 (14))
北原 白秋,西脇 順三郎
白凰社
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岡井隆『詩歌の岸辺で』

2011-01-01 12:12:49 | 詩集
岡井隆『詩歌の岸辺で』(思潮社、2010年10月30日発行)

 岡井隆『詩歌の岸辺で』については、以前に少し書いたことがある。短い批評集なので、私はところどころ読んでは閉じるという具合に接している。
 「平田俊子『れもん』」は作品そのものについての感想もあるけれど、書き鷹についての感想もある。まあ、そのふたつは切り離すことはできないものだけれど……。

 詩の書き方につていは評論家風にはわかつてゐるつもりであつたが、いざ自分で書く身になつてみると惑ふ。しかしまあ書く外ないので書くが書きながらわかってくることもある。

 「書きながらわかつてくる」が、この文章のポイントだと思う。書きながらわかってくる、そのとき、どうするか。ある程度書いたところで何かが「わかる」。そのとき、それまで書いたものをどうするか。書き直すのか。それとも、それまで書いたことは「書きながらわかつてくる」ものと密接な関係にあるのだから、それを書き直すとまた違ったものになる可能性がある。だから(?)、書いたことは書いたこととして、とりあえず「わかつた」方向に進んでいく。
 このことを、岡井は平田の作品に則して言いなおす。

 かういふ詩ははじめぱつと光太郎の「レモン哀歌」がひらめいてそこからレモンと檸檬の比較論に入つたのかそれとも全部計算されつくした上で書かれたのか、わたしはなんとなくそんなに計算されたものではないだらうと思つてゐる。小説家で最後の一行までイメージしたときにはじめて物語の初行を書き出すことができると言つた人があつたが詩ではどうだろう。計算と改作をかさねるマラルメタイプの詩人ならばどうか知らぬが、平田さんも漠然とした感覚で書きすすめるタイプではないかと思つてゐる。

 最後の「平田さんも」の「も」は、マラルメ派以外のほかの詩人と同じようにという「意味」があるかもしれないけれど、私は、ここは「平田さんも」のあとに

 私(岡井隆)と同じように

 を補って読む。平田さんも、「私も」、である。
 岡井はここでは平田の詩について感想を書きながら、岡井自身の「詩の書き方」を紹介しているのである。

 私は、こういう態度で書かれた詩がとても好きである。岡井の『注解する者』は、漠然とした感覚で書きはじめた詩だと思う。漠然とした感覚で書きはじめ、その途中途中で、いろいろな刺激に触れて、何が書きたかったかわかってくる。その「わかってくる」ものの方向へ進んでいく詩である。
 このとき、ことばが進むにしたがって、不思議なことに「未来」(ことばの先にあるもの)が見えてくるのではなく、「過去」(ことばの昔)が見えてくる。詩人の「過去」が見えてくる。どんなことばを生きてきたかが見えてくる。
 平田の「れもん」に関して言えば、平田は梶井基次郎「檸檬」を読んでいる。そして高村光太郎の「レモン哀歌」を読んでいる。それだけてはなく、「レモン哀歌」に登場する智恵子の詩も(ことばも)読んでいる。そういうことがわかる。そして、

 「もし光太郎が生きていたら/大きくて立派な彼の手は/みずみずしさをなくしたこの化け物を/無言で払いのけるだろうが」と付記して光太郎を攻めてゐるのである。

 と岡井は書いているのだが、そこには簡単に言うと、平田が男と女との関係をどう生きてきたか、男に対してどんなときに怒ってきたかという「過去」までが、光太郎の詩といっしょになって噴き出してくる。
 書く--書きながらわかる、というのは、実は「自分」がわかるということである。「過去」はすべてわかっていることのようであって、ほんとうはわからないものなのだ。そのわからない「過去」が書くことで「わかる」。
 これは別なことばで言えば、その瞬間、「私」というものが「過去」から瞬間的につくり直されるということでもある。その「つくりなおし」は微妙なものだし、「わからなかった」だけで「存在しなかった」ものではないので、「ここに変化がある」とか「いま、平田が自分の人生をつくり直している」といっても、変な印象しか与えないかもしれないが……。
 そして、それは「作り直し」というよりも、「過去」を「鍛え直す」、しっかりしたものにするということかもしれないが……。
 でも、私は、やはり「鍛え直す」よりも「つくり直す」と書いておきたい。「過去」を鍛え直し強固にしてしまうと、次がつくり直せなくなる。それは、ことばの運動としてかなり矛盾したことになる。作り直し、書き換えると、さらに次々に「作り直し」が起きてしまう、というのが「書きながらわかる」ということなのだから。「書きながらわかる」と、さらに「過去」がわかってくる。どんどん、「過去」へ行ってしまう。
 そして、矛盾したことを書いてしまうけれど、そうやって「過去」へ進めば進むほど、「過去」を作り替えれば作り替えるほど、なにやら精神と呼ばれるものはどんどん「未来」へ、まだ「未生」のものへと進んでいく。

 こういうことが、詩なのだと思う。詩に限らず、文学なのだと思う。



 あ、これは「我田引水」の感想であるかもしれない。
 「漠然とした感覚で書きすすめ」「書きながらわかつてくる」--これは、私のことでもある。私は私のやっていることを「正当化」するために、岡井のことばを利用しているのである。
 私は毎日詩の感想書いているが、書きはじめるとき、「結論」は決まっていない。なんとなくこういうことを書きたいという思いはある。そして書きはじめる。そうすると、思っていることがどんどん変わってくる。そして、それが変わったとき、私は「変わった」方向へことばを動かしていく。だから、この詩は大好き、と書きはじめて、これはつまらない、と書くことになったり、逆に、こんな詩は認めるわけには行かないと書くつもりが、これは大傑作であると書くことになってしまうこともある。どこへ突き進んでしまうかわからない。わからないから書く。わかっていたら、書く必要がないのかもしれない。



詩歌の岸辺で―新しい詩を読むために
岡井 隆
思潮社

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