和合亮一「詩の礫2011.3.1-4.9 」(8)(「現代詩手帖」2011年05月号)
人間の意思を超えて動く「天体の精神力」、そしてその「精神力」が引き起こす「事象・物事」は、「意味」を奪っていく。「大切な人」を奪っていく。その「天体の精神力」と戦い、「大切な人」と「意味」を、どうやって奪い返すか。
(ふと、ここまで書いてきて、--私は「大切な人」「私の全て」が、また「意味」であると気づいた。「意味」は「精神力」で作り出すもの--と定義するとき、「大切な人」や「故郷」は「作り出すものではない」という声も私のなかから聞こえてくるが、そうではないかもしれない。「大切な人」や「故郷」も「精神の力」でつくりだすものなのだ。「私」を積極的に「他者」にかかわらせていくこと、かかわらせながら、そこに「大切」を結びつけるとき、人は普通の人から「大切な人」になり、ある土地が「大切な故郷」になる。)
「意味」は、急にはつくれない。それでも、和合はことばを動かす。「精神力」ということばをつかったあとに書いていることば--それをなぜ書いたのか。そこには何が書かれているのか。
じーっと、見つめてみる。耳をすましてみる。
ここから、「天体の精神力」と向き合う「人間の精神力」を引き出すのはむずかしい。「意味」も、どうしたら引き出せるのか、私にはわからない。
けれど、ひとつのことばに、私はこころを奪われる。
あ、「大好き」というのは「大切」ということではないだろうか。
「あなたには大切な人がいますか」とは「あなたには大好きな人がいますか」ということなのである。あるいは「私の全て」と言えることなのである。「故郷は私の全てです」とは、「故郷は私の大切なものです」であり、また「故郷は私の大好きなところです」でもある。
それはまた「己の全存在を賭けて」もいいと思えるもののことである。「大好き」なものに、人は自分の全てを賭ける。
和合は、「天体の精神力」というものに向き合ったあと、もう一度「いま」「ここ」を見つめなおしている。そして、そこにある「事実」(事象)と自分の「感情」を向き合わせている。「精神力」というおおげさなものではなく、もっと「自分らしさ」そのもののようなものを向き合わせている。「精神力」は、発揮したいけれど、なかなか「精神力」にはたどりつけない--そういうむずかしさがある。
むずかしさを承知で、それでもことばを動かす。その動き。それについて考えるとき、ひとつ思い出すことがある。
「大好きな」に似たことばは、「大切」より以前にも書かれていた。「私が避暑地として気に入って、時折過ごしていた南三陸海岸」ということばがあった。「大好き」とは「気に入って」と通い合う。「大好き」「大切」「気に入る」これは、みな同じである。そして、それはみな「身近なもの」と結びつく。「天体」という手の届かないものではなく、常に手の届くもの(手の届く相手)を対象としている。
「精神」は、目に見えないものである。「精神力」は考えはじめると、よくわからないものである。けれど、大切なもの、大好きなもの、気に入ったものは手が届く。あるいは、手に触れたものである。和合は「精神力」というものをめざしている。「意味」をめざしているけれど、そういうものにたどりつくための出発点には、手に触れるものを据えている。そこから出発しようとしている。何か、手に触れるものを大事にしながら、ことばを動かしている。「大切なもの」とは、結局、常に手に触れていたいものだからかもしれない。
この「大好き」「大切」「気に入る」ということ、そして身近な手に触れることができるものから語りはじめる、そのものとともにある「感情」から語りはじめる--それこそ、和合の選んだ「精神」かもしれない。
架空のものではない、手に触れることのできないものではない。そうではなくて、必ず自分が知っていて、なじんだもの、手に触れることができるものを離れずにことばを動かす。その先にしか「精神」はない、と和合は知っているだろう。
あ、でも、ほんとうにむずかしい。
ここには、同じことばが書かれている。同じことが書かれている。いや、同じことではないのだが、「整理」してしまうと、「同じ」になってしまうしかないことがらへと、ことばは何度も帰ってしまう。それだけ、いま起きていることは激しいことなのだが、それにしても、ことばを、先へ先へと進めていくことはとてもむずかしいのだ。
何が起きたか、まだ誰にもわからない。
だから、同じことを何度も何度も繰り返し書いてみる。書きながらことばが動くのを和合は粘り強く待っている。
「精神」が動かないなら、それが動きはじめるまで、自分が目にすることができるもの、知っていることをただ書いてみる。
ここに和合の正直がある。
この正直は、次の部分にとてもよくあらわれている。
ただ、ありのままを書く。「精神力」が必要なことはわかっているが、「精神力」はうまいぐあいに動いてはくれないのだ。動かないものを動かす前に、わかることを書く。自分のそのままを書く。どんなことでも、書くというのはことばを動かすことである。
そうすると、その正直な動き、正確に何かを書いたことばの動きにあわせるようにして、正直そのものが噴出してくる。
あ、すごい。この怒りはすごい。これは「天体の精神力」に対する怒りである。
「天体の精神力」が大震災を引き起こしている。「天体の精神力」は和合が何かを「大好き」であることが気に食わないらしい。それが、どうした。俺には大好きなものがある。大切なものがある。「己の全存在を賭け」るべきものがある。そのことを書くのだ。そして、それを書くことで「てめえ(天体の精神力)」をむちゃくちゃにしてやる。そうすることで、「天体の精神力」から「大切なもの」を奪い返してやる。
和合は、ここで、はじめて怒っている。
私は大震災でいちばん驚いたことを、被災者が「ありがとう」ということばをいうことだと書いた。怒りのことばではなく、まず「ありがとう」と言う。そのことはほんとうに衝撃的だった。和合も「ありがとうございました」と「詩の礫」を書きはじめていた。
それが、ここでやっと、怒っている。
正直に、ただ正直に、いま起きたこと、それを正確に書いたとき、その正直から怒りが噴出してきたのだ。正直が、正確が、怒りを励ましたのだ。
「精神力」というものがあるとすれば、この正直、正確としっかりと結びついたものに違いないと私は思う。
人間の意思を超えて動く「天体の精神力」、そしてその「精神力」が引き起こす「事象・物事」は、「意味」を奪っていく。「大切な人」を奪っていく。その「天体の精神力」と戦い、「大切な人」と「意味」を、どうやって奪い返すか。
(ふと、ここまで書いてきて、--私は「大切な人」「私の全て」が、また「意味」であると気づいた。「意味」は「精神力」で作り出すもの--と定義するとき、「大切な人」や「故郷」は「作り出すものではない」という声も私のなかから聞こえてくるが、そうではないかもしれない。「大切な人」や「故郷」も「精神の力」でつくりだすものなのだ。「私」を積極的に「他者」にかかわらせていくこと、かかわらせながら、そこに「大切」を結びつけるとき、人は普通の人から「大切な人」になり、ある土地が「大切な故郷」になる。)
「意味」は、急にはつくれない。それでも、和合はことばを動かす。「精神力」ということばをつかったあとに書いていることば--それをなぜ書いたのか。そこには何が書かれているのか。
じーっと、見つめてみる。耳をすましてみる。
私の大好きな高校の体育館が、身元不明の死体安置所になっています。隣の高校も。
(39ページ)
ここから、「天体の精神力」と向き合う「人間の精神力」を引き出すのはむずかしい。「意味」も、どうしたら引き出せるのか、私にはわからない。
けれど、ひとつのことばに、私はこころを奪われる。
私の大好きな
あ、「大好き」というのは「大切」ということではないだろうか。
「あなたには大切な人がいますか」とは「あなたには大好きな人がいますか」ということなのである。あるいは「私の全て」と言えることなのである。「故郷は私の全てです」とは、「故郷は私の大切なものです」であり、また「故郷は私の大好きなところです」でもある。
それはまた「己の全存在を賭けて」もいいと思えるもののことである。「大好き」なものに、人は自分の全てを賭ける。
和合は、「天体の精神力」というものに向き合ったあと、もう一度「いま」「ここ」を見つめなおしている。そして、そこにある「事実」(事象)と自分の「感情」を向き合わせている。「精神力」というおおげさなものではなく、もっと「自分らしさ」そのもののようなものを向き合わせている。「精神力」は、発揮したいけれど、なかなか「精神力」にはたどりつけない--そういうむずかしさがある。
むずかしさを承知で、それでもことばを動かす。その動き。それについて考えるとき、ひとつ思い出すことがある。
「大好きな」に似たことばは、「大切」より以前にも書かれていた。「私が避暑地として気に入って、時折過ごしていた南三陸海岸」ということばがあった。「大好き」とは「気に入って」と通い合う。「大好き」「大切」「気に入る」これは、みな同じである。そして、それはみな「身近なもの」と結びつく。「天体」という手の届かないものではなく、常に手の届くもの(手の届く相手)を対象としている。
「精神」は、目に見えないものである。「精神力」は考えはじめると、よくわからないものである。けれど、大切なもの、大好きなもの、気に入ったものは手が届く。あるいは、手に触れたものである。和合は「精神力」というものをめざしている。「意味」をめざしているけれど、そういうものにたどりつくための出発点には、手に触れるものを据えている。そこから出発しようとしている。何か、手に触れるものを大事にしながら、ことばを動かしている。「大切なもの」とは、結局、常に手に触れていたいものだからかもしれない。
この「大好き」「大切」「気に入る」ということ、そして身近な手に触れることができるものから語りはじめる、そのものとともにある「感情」から語りはじめる--それこそ、和合の選んだ「精神」かもしれない。
架空のものではない、手に触れることのできないものではない。そうではなくて、必ず自分が知っていて、なじんだもの、手に触れることができるものを離れずにことばを動かす。その先にしか「精神」はない、と和合は知っているだろう。
あ、でも、ほんとうにむずかしい。
私が避暑地として気に入って、時折過ごしていた南三陸海岸に、一昨日、1000人の遺体が流れ着きました。
私が大好きな高校の体育館が、身元不明者の死体安置所になっています。隣の高校も。
ここには、同じことばが書かれている。同じことが書かれている。いや、同じことではないのだが、「整理」してしまうと、「同じ」になってしまうしかないことがらへと、ことばは何度も帰ってしまう。それだけ、いま起きていることは激しいことなのだが、それにしても、ことばを、先へ先へと進めていくことはとてもむずかしいのだ。
何が起きたか、まだ誰にもわからない。
だから、同じことを何度も何度も繰り返し書いてみる。書きながらことばが動くのを和合は粘り強く待っている。
「精神」が動かないなら、それが動きはじめるまで、自分が目にすることができるもの、知っていることをただ書いてみる。
ここに和合の正直がある。
この正直は、次の部分にとてもよくあらわれている。
また地鳴りが鳴りました。今度は大きく揺れました。外に出ようと階下まで裸足で降りました。前の呟きの「身元不明…」あたりで、です。外に出ようたって、放射能が降っています。
ただ、ありのままを書く。「精神力」が必要なことはわかっているが、「精神力」はうまいぐあいに動いてはくれないのだ。動かないものを動かす前に、わかることを書く。自分のそのままを書く。どんなことでも、書くというのはことばを動かすことである。
そうすると、その正直な動き、正確に何かを書いたことばの動きにあわせるようにして、正直そのものが噴出してくる。
気に入らなかったのかい? けっ、俺あ、どこまでもてめえをむちゃくちゃにしてやるぞ。
あ、すごい。この怒りはすごい。これは「天体の精神力」に対する怒りである。
「天体の精神力」が大震災を引き起こしている。「天体の精神力」は和合が何かを「大好き」であることが気に食わないらしい。それが、どうした。俺には大好きなものがある。大切なものがある。「己の全存在を賭け」るべきものがある。そのことを書くのだ。そして、それを書くことで「てめえ(天体の精神力)」をむちゃくちゃにしてやる。そうすることで、「天体の精神力」から「大切なもの」を奪い返してやる。
和合は、ここで、はじめて怒っている。
私は大震災でいちばん驚いたことを、被災者が「ありがとう」ということばをいうことだと書いた。怒りのことばではなく、まず「ありがとう」と言う。そのことはほんとうに衝撃的だった。和合も「ありがとうございました」と「詩の礫」を書きはじめていた。
それが、ここでやっと、怒っている。
正直に、ただ正直に、いま起きたこと、それを正確に書いたとき、その正直から怒りが噴出してきたのだ。正直が、正確が、怒りを励ましたのだ。
「精神力」というものがあるとすれば、この正直、正確としっかりと結びついたものに違いないと私は思う。
![]() | RAINBOW |
和合 亮一 | |
思潮社 |