詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

和合亮一「詩の礫2011.3.1-4.9 」(8)

2011-05-11 23:59:59 | 詩の礫
和合亮一「詩の礫2011.3.1-4.9 」(8)(「現代詩手帖」2011年05月号)

 人間の意思を超えて動く「天体の精神力」、そしてその「精神力」が引き起こす「事象・物事」は、「意味」を奪っていく。「大切な人」を奪っていく。その「天体の精神力」と戦い、「大切な人」と「意味」を、どうやって奪い返すか。
 (ふと、ここまで書いてきて、--私は「大切な人」「私の全て」が、また「意味」であると気づいた。「意味」は「精神力」で作り出すもの--と定義するとき、「大切な人」や「故郷」は「作り出すものではない」という声も私のなかから聞こえてくるが、そうではないかもしれない。「大切な人」や「故郷」も「精神の力」でつくりだすものなのだ。「私」を積極的に「他者」にかかわらせていくこと、かかわらせながら、そこに「大切」を結びつけるとき、人は普通の人から「大切な人」になり、ある土地が「大切な故郷」になる。)

 「意味」は、急にはつくれない。それでも、和合はことばを動かす。「精神力」ということばをつかったあとに書いていることば--それをなぜ書いたのか。そこには何が書かれているのか。
 じーっと、見つめてみる。耳をすましてみる。

私の大好きな高校の体育館が、身元不明の死体安置所になっています。隣の高校も。
                                 (39ページ)

 ここから、「天体の精神力」と向き合う「人間の精神力」を引き出すのはむずかしい。「意味」も、どうしたら引き出せるのか、私にはわからない。
 けれど、ひとつのことばに、私はこころを奪われる。

私の大好きな

 あ、「大好き」というのは「大切」ということではないだろうか。
 「あなたには大切な人がいますか」とは「あなたには大好きな人がいますか」ということなのである。あるいは「私の全て」と言えることなのである。「故郷は私の全てです」とは、「故郷は私の大切なものです」であり、また「故郷は私の大好きなところです」でもある。
 それはまた「己の全存在を賭けて」もいいと思えるもののことである。「大好き」なものに、人は自分の全てを賭ける。
 和合は、「天体の精神力」というものに向き合ったあと、もう一度「いま」「ここ」を見つめなおしている。そして、そこにある「事実」(事象)と自分の「感情」を向き合わせている。「精神力」というおおげさなものではなく、もっと「自分らしさ」そのもののようなものを向き合わせている。「精神力」は、発揮したいけれど、なかなか「精神力」にはたどりつけない--そういうむずかしさがある。
 むずかしさを承知で、それでもことばを動かす。その動き。それについて考えるとき、ひとつ思い出すことがある。
 「大好きな」に似たことばは、「大切」より以前にも書かれていた。「私が避暑地として気に入って、時折過ごしていた南三陸海岸」ということばがあった。「大好き」とは「気に入って」と通い合う。「大好き」「大切」「気に入る」これは、みな同じである。そして、それはみな「身近なもの」と結びつく。「天体」という手の届かないものではなく、常に手の届くもの(手の届く相手)を対象としている。
 「精神」は、目に見えないものである。「精神力」は考えはじめると、よくわからないものである。けれど、大切なもの、大好きなもの、気に入ったものは手が届く。あるいは、手に触れたものである。和合は「精神力」というものをめざしている。「意味」をめざしているけれど、そういうものにたどりつくための出発点には、手に触れるものを据えている。そこから出発しようとしている。何か、手に触れるものを大事にしながら、ことばを動かしている。「大切なもの」とは、結局、常に手に触れていたいものだからかもしれない。
 この「大好き」「大切」「気に入る」ということ、そして身近な手に触れることができるものから語りはじめる、そのものとともにある「感情」から語りはじめる--それこそ、和合の選んだ「精神」かもしれない。
 架空のものではない、手に触れることのできないものではない。そうではなくて、必ず自分が知っていて、なじんだもの、手に触れることができるものを離れずにことばを動かす。その先にしか「精神」はない、と和合は知っているだろう。

 あ、でも、ほんとうにむずかしい。

私が避暑地として気に入って、時折過ごしていた南三陸海岸に、一昨日、1000人の遺体が流れ着きました。


私が大好きな高校の体育館が、身元不明者の死体安置所になっています。隣の高校も。

 ここには、同じことばが書かれている。同じことが書かれている。いや、同じことではないのだが、「整理」してしまうと、「同じ」になってしまうしかないことがらへと、ことばは何度も帰ってしまう。それだけ、いま起きていることは激しいことなのだが、それにしても、ことばを、先へ先へと進めていくことはとてもむずかしいのだ。
 何が起きたか、まだ誰にもわからない。
 だから、同じことを何度も何度も繰り返し書いてみる。書きながらことばが動くのを和合は粘り強く待っている。
 「精神」が動かないなら、それが動きはじめるまで、自分が目にすることができるもの、知っていることをただ書いてみる。
 ここに和合の正直がある。
 この正直は、次の部分にとてもよくあらわれている。

また地鳴りが鳴りました。今度は大きく揺れました。外に出ようと階下まで裸足で降りました。前の呟きの「身元不明…」あたりで、です。外に出ようたって、放射能が降っています。

 ただ、ありのままを書く。「精神力」が必要なことはわかっているが、「精神力」はうまいぐあいに動いてはくれないのだ。動かないものを動かす前に、わかることを書く。自分のそのままを書く。どんなことでも、書くというのはことばを動かすことである。
 そうすると、その正直な動き、正確に何かを書いたことばの動きにあわせるようにして、正直そのものが噴出してくる。

気に入らなかったのかい? けっ、俺あ、どこまでもてめえをむちゃくちゃにしてやるぞ。

 あ、すごい。この怒りはすごい。これは「天体の精神力」に対する怒りである。
 「天体の精神力」が大震災を引き起こしている。「天体の精神力」は和合が何かを「大好き」であることが気に食わないらしい。それが、どうした。俺には大好きなものがある。大切なものがある。「己の全存在を賭け」るべきものがある。そのことを書くのだ。そして、それを書くことで「てめえ(天体の精神力)」をむちゃくちゃにしてやる。そうすることで、「天体の精神力」から「大切なもの」を奪い返してやる。
 和合は、ここで、はじめて怒っている。

 私は大震災でいちばん驚いたことを、被災者が「ありがとう」ということばをいうことだと書いた。怒りのことばではなく、まず「ありがとう」と言う。そのことはほんとうに衝撃的だった。和合も「ありがとうございました」と「詩の礫」を書きはじめていた。
 それが、ここでやっと、怒っている。
 正直に、ただ正直に、いま起きたこと、それを正確に書いたとき、その正直から怒りが噴出してきたのだ。正直が、正確が、怒りを励ましたのだ。
 「精神力」というものがあるとすれば、この正直、正確としっかりと結びついたものに違いないと私は思う。



RAINBOW
和合 亮一
思潮社
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千住博「空の庭」「ザ・フォールズ」

2011-05-11 22:57:22 | その他(音楽、小説etc)
千住博「空の庭」「ザ・フォールズ」(家プロジェクト「石橋」)

 2011年05月10日、香川県直島の「ベネッセアートサイト直島」で「空の庭」と「ザ・フォールズ」を見た。私が行ったときは雨が降っていた。
 「空の庭」はそのとき降っていた雨に溶け込んでいた。絵の中にも雨が降っていて、その雨のために山がかすんでいる、という感じである。実際の雨を呼吸して、木々も、そして空気もしっとりとまじりあう。
 その絵そのものもおもしろいのだが、絵の邪魔(?)をしている柱の感じがとてもいい。柱がつくりだす遠近感の向こうに、絵そのものの遠近感がある。絵そのものの遠近感といっても、西洋画と違ってどこかに焦点(透視図の中心)があるというわけではない。ただ奥行きがある。その遠近感は一点透視のように収斂する遠近感ではなく、むしろどこまでも無へ向かって広がっていく広大な遠近感である。柱がつくりだす遠近感は一点透視の遠近感なのだが、その向こうに焦点があるのではなく、広大な広がりがある。無、と呼んでもいいのかもしれない。しかし、その無というのは何もないということではなく、何があってもかまわない、どんなものでも受け入れる広がりとしての無、豊かさにつながるひろがりである。
 柱と床、天井がつくりだす真四角の構図、それが重なることでうまれる幾何学的な遠近感と、幾何学を無視した絵のなかの無(千住博は、私が無と呼んでいるものを「空」と名づけているのかもしれない)の不思議なアンバランス(?)がとても美しい。
 柱がつくりだす遠近感の枠組みはひとつではなく複数ある。それがまた、とてもおもしろい。私がこれまで書いたのは、正面から見た絵の印象なのだが、それを斜めから、つまり部屋の入り口から見たときは、また違った遠近感が働くのである。「空の庭」は右手に木々の塊があり、左手に行くに従って木々が低くなり空間が広くなる構図をとっているが、それをその部屋の入り口から斜めにみるとき、正面からみるときとは違った柱の遠近があり、その幾何学的な遠近感と絵の「無の空間」が交錯する瞬間が刺激的なのである。絵が動くのである。そして、その動きに誘われるようにして歩いて行った先で、床の間の上の小さな襖に、絵のつづきというか、大きな襖の絵に呼応するように小さな枝を見つけるとき、まるで山の中を実際に歩いている気持ちになる。家という空間がとつぜん解体し、外にほうりだされた感じになるのだ。
 この絵が飾られてある部屋の前には庭がある。そしてその庭には石の「椅子」がある。そこにすわって眺めると、また違った風景が見えるはずである。庭の芝があれるというので、いまは立入禁止だった。想像力で見た風景を書いてみると……。
 襖は部屋の向こうの現実の風景を隠している。絵は、その風景を隠している--はずなのだが、きっと石の椅子にすわってみると、それは開け放たれた「窓」にみえるだろう。「窓」を通り越して、あらゆる壁を取り払った家と、その向こうの風景にみえるだろう。特に私がその絵をみたときのように雨が降っていれば、そこに描かれているのは、まさに「現実」になる。「現実」の空間になる。描かれた空間があるのではなく、ほんとうの「無」がある。千住博の絵は、その現実の「無」に対してひとつの「形式」を与えることになる。絵が現実を真似るのではない。現実が絵を真似るのだ。現実の山や木々が千住博の描いた絵にあわせて自分の姿を整えるのだ。--そんなことを夢想した。
 そして、次の「ザ・フォール」を見るために、廊下を回っていった先で、「ザ・フォール」の描かれている「蔵」のなかに入る前に、ふとさっき見た襖の裏側を見ることになる。すると、そこには木々のつづき、小枝のつづきが描かれている。あ、私は部屋のまわりをまわったのではなく、ひとつの山そのものをまわったのだ。その絵は、というか、描かれている小枝自体は小さい。けれど、それは山の中に入って目の前の枝を小枝と思うのと同じであり、その枝のつづきには大きな山がある。小さい小枝に引きつけられていくとき、私は「家」がそこにあることを忘れるが、それが山に入り込む感じそっくりなのである。小枝をみて、山を見ない。けれど、そこには山があり、山が家を隠してしまっている。「空間」というか、「もの」の大きさが、その瞬間一気に逆転するのである。「現実」が千住博の絵によって、逆転するのである。
 これは、この展示方法以外ではありえない「絵」である。「石橋」へ来て見るしかない「絵」であり、またそこでしか味わえない「哲学」である。

 「ザ・フォール」はおびただしく落ちる水を描いている。滝である。落下する水は、ほとんど霧状に砕け、白くなっている。激しい音が聞こえる--はずである。どうしたって、こんなに水が落ちていれば、そこにはゴーゴーと鳴る音が響いているはずである。だが、私はまったく音を感じなかった。音がないばかりか、音を聞こうとする「意識」、あるいは「耳」さえもが、何かに吸い込まれていくような感じ--深い深い「静けさ」を感じた。
 これはいったいなんだろう。どうしてこんなに静かなのか。
 じっーと見ていると、最初に目にした「落下する水」の背後に黒い壁があることに気がつく。滝の岩壁、になるのかもしれない。この岩壁の不思議さは、荒々しくないことだ。ごつごつしていないことだ。そして、壁と書いたことと矛盾してしまうのだが、それは「壁」ではない。それはどこまでもどこまでも「奥」がある。「奥」だけがある。「空間」といってもいいのかもしれないが、私は「奥」と呼びたい。
 「空の庭」の木々や山の向こうにはたしかに「空間」につながるどこまでも開放的にひろがるひろがりがあったが、「ザ・フォール」の場合は、解放というより、底無しに吸い込まれていく感じなのである。「空間」にはきっと広がる空間と、吸い込まれる空間(ブラックホールのような空間)があるのだ。
 「ザ・フォール」というくらいだから「落下する水」を描いていることには間違いはないのだろうが、落下する水よりも、見ているとどうしても闇の方に吸い込まれてしまう。闇に「落下」していく感じがする。
 水は、上から下へ落下する。しかし、そのとき、音は上から下へではなく、「ここ」から水が落下する壁の向こう側へ「落下」する--水平に落下していく感じがする。あらゆるものが、水が落ちている壁の向こう側へ、水平に落下していくのだ。水平に落下するということばは、まあ、普通は言わないから、吸い込まれていくということになるのかもしれないけれど、その吸い込み方があまりに徹底しているので、水平に落下していくといいたくなってしまうのだ。
 だから、というのはたぶんこじつけめいているかもしれないが……。これだけ水が落ちてくるのに、少しも水が私をぬらしに来る感じがしない。落ちた水が、私の方に流れてくる感じがしないのである。足下に「滝壺」があるかもしれないが、そこには水がないという感じがするのである。もし、水に濡れるのなら、しぶきではなく、真っ暗な闇にふれたときこそ濡れるのだと思う。闇に吸い込まれるように、壁の向こう側へ行って濡れるのだ。
 この作品でも、私は、何か「空の庭」に通じる「空間」の解体を感じるのである。「空間」の意識が逆転するのを感じるのである。ここには落下する水はあっても、まんまんと広がる水はない。水は向こう側にある。そして、その水を存在させているのが暗い暗い闇なのだ。水があるのではなく、闇があるのだ。

 そんなことを考えているとき、絵の表情がぱーっと変わった。落下する白い水がきらきらと輝いた。あ、これは、私の思ったことと絵が何かしらの反応を起こしたのだ--と私は少し興奮した。うん、私の絵の見方を、この絵が喜んで、その喜びに絵が輝いたのに違いない。
 だが、そうではなかった。
 私が「空の庭」を見ていたとき雨が降っていた。「ザ・フォール」の部屋に入ったときも雨が降っていたのだと思う。それが突然晴れたのである。晴れて、外の光がかわった。その光がたまたま明かり取りの窓から入ってきただけなのだが、びっくりしてしまった。ほんとうにまぶしいくらいにきらきら輝き、絵が動いたのである。闇も明るんだ気がしたが、それが明るくなるということが、また逆に明るくなりうる奥深さをもった闇なのだということを実感させるのだ。
 私の考えた一種の思い付きは、まあ、どうでもいいことだなあ。絵が一瞬の光で表情をかえるということを知った。それだけわかれば、この絵を見た甲斐があるというものだ。こういう変化を見せるために、この絵の展示方法も工夫されている。「空の庭」と同様、展示方法を含めて「作品」なのだ。

 帰り際、「石橋」で絵の紹介をというか、鑑賞者の案内をしているひとに方角を聞いてみた。私は「窓は東側ですか」と聞いたのだが、「わかならい」ということだった。絵の表情が晴れて光が入ってきたとき、突然変わったというようなことを話したら、「夕方みると、色の変化がとても美しいは評判だ」と教えてくれた。夕暮れにもういちど来てみたいと思ったが、途中で携帯の電源がきれて時間がわからなくなり、帰りの船までの余裕もわからなくなった上に、雨が激しくなったので夕方の絵の変化は見ることができなかった。それが心残りである。




千住博の滝
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求龍堂
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和合亮一「詩の礫2011.3.1-4.9 」(7)

2011-05-10 23:59:59 | 詩の礫
和合亮一「詩の礫2011.3.1-4.9 」(7)(「現代詩手帖」2011年05月号)

 「放射能の雨の中で、たった一人です。」と「一人」を意識するとき、「一人」以外が見えてくる。それは「南相馬市」であり、「故郷」であり、「家族」であった。「故郷」を和合は「私の全て」とも書いていた。
 このことを和合はまた書き直している。

あなたには大切な人がいますか。一瞬にして失われてしまうことがあるのだと…少しでも考えるなら、己の全存在を賭けて、世界に奪われてしまわない為の方法を考えるしかない。
                                 (39ページ)

 「私の全て」を和合は「大切な」ということばで言いなおしている。言わなければならないとき、ひとは何度でも繰り返す。繰り返すだけではなく、何度も言いなおす。それはひとことでは言えないからである。ことばに「意味」があるとして、そのことばでつたえられる「意味」はかぎられている。だから、少しずつ言いなおし、同時に繰り返す。
 「故郷は私の全てです」は「故郷は私の大切なものです」ということになる。そして、いま私は「大切なもの」と書き直してみたのだが「故郷」はもちろん「もの」ではない。「故郷は私に大切な場です」と言いなおせば、少しは正確になるのか。そうでもないだろう。「故郷」とは「場=空間」でもない。それを超えている。だから、和合は言い換えてみる。

あなたには大切な人がいますか。

 「故郷」と呼ばれていたのは「場」であると同時に「大切な人」だったのだ。

あなたにとって故郷とは、どのようなものですか。私は故郷を捨てません。故郷は私の全てです。

 ということばは、

あなたにとって「大切な人」とはどのようなものですか。私は「大切な人」を捨てません。「大切な人」は私の全てです。

 ということと、同じ「意味」なのである。そして、「大切な人」は「家族」でもある。つまり、「私(和合)」と同時に生きている人のことである。「同時に生きている人」は、「一家」を超えて、その地域全体に広がる。そのとき、「故郷」というものがもう一度ことばとしてあらわれてくる。
 ことばは言いなおされ、繰り返され、少しずつ「意味」を回復してくるのだ。和合は言い直し、繰り返すことで、ことばを回復させようとしているのだ。

 きょう読んでいる3行には、ひとつ不思議なことばがある。「世界」である。

(大切な人を)己の全存在を賭けて、世界に奪われてしまわない為の方法を考えるしかない。

 和合がこう書くとき、「世界」は「故郷」ではない。「世界」のなかに「故郷」があるが、それは「世界」とは合致しない。「地球」でもない。いままで和合がつかってきたことばで言いなおすなら、それは何になるだろうか。和合は何を言い換えて「世界」と言っているのだろうか。
 ここで書かれていることは東日本大震災であり、津波である。大震災、津波が「大切な人」を奪っていった。大震災(津波)のことを、和合は「事象」と呼んでいた。ここでいう「世界」は「事象」の言い換えなのである。
 でも、その「事象」に「大切な人」を奪われないためには何をすればいい?
 強固なビルを建てる? 強固な、そして巨大な防潮堤をつくる?
 ああ、そんなことは、いまは間に合わない。次のときのためにもちろんそうすることは重要だが、それとは違うことも和合は考えている--と私は思う。
 「事象」ということばは、こういう文脈でつかわれていた。

ものみな全ての事象における意味などは、それらの事後に生ずるものなのでしょう。

 「事象」に遅れて「意味」が生まれる。「事象」はそれまでの「意味」を根こそぎ奪っていく。大震災は、それまでのことばで考えられていた意味をたしかに奪っていった。だから、大震災を語ることばが、いまは、まだないのだ。手さぐりで、和合は、そのことばを探している。
 「物事」ということばも、もぼ「事象」と同じつかわれ方をしていた。
 「事象(物事)」はまた、「大切な人」を奪っていった。それを「奪われてしまわない為に」何をすべきか。
 あ、和合は、ことばをとてもていねいにつかいわけている。「事象・物事(大震災)」は「大切な人」を奪っていった。命を奪われた。けれど、その「大切な人」が奪われて「しまわない」為に何をすべきか。どんな方法があるが。
 言い換えると、「奪われた」大切な人を、その奪っていった「事象・物事」から、どう奪い返すか。
 「いのち」は奪い返せないかもしれない。亡くなった人を生き返らせることはできない。けれども、「意味」はどうだろうか。「意味」は奪い返せるかもしれない。

あなたに大切な人がいますか。

 これは、あなたに「大切な意味」がありますか?でもあるのだ。「大切な意味」をもっていますか? いま、起きたこと、いま起きている「事象・物事」に全ての「意味」が奪われ、どんな「意味」も見つけることができないでいる。そこから、どんな「意味」を語ることで、いま起きたことと戦うのか--どんなふうに「睨みつけ」、「私」を世界と向き合わせるのか。「大切な意味」をどうやって生み出すか--生み出すことによって、奪われた「意味」を奪い返すか。
 この答えは簡単には出ない。ただ、「考えるしかない」。
 この「考える」こと、これが「命のかけひき」そのものになる。「事象」が「命」を奪っていく。奪っていった。それを奪われたままにしておくのではなく、奪われてしまわないように、奪い返す--それを考える。
 でも、むずかしい。

 「世界」はもしかすると、「事象」を超えるものかもしれない。「世界」は人間のかかわることのできないものを含んでいるかもしれない。--と思うのは、次のことばがあるからだ。

世界は誕生と滅亡の両方を、意味とは離反した天体の精神力で支えて、やすやすと在り続けている。

 「世界」は「事象」を超えて、「事象」が起きた「宇宙(天体)」全体を指している。「天体の精神力」ということばが、そのことを語っている。「世界」は「天体の精神力で支え」られている。
 そして、ここでも「意味」「離反」ということばがつかわれている。「意味」「離反」は最初は、次のようにつかわれていた。

物事と意味には明らかな境界がある。それは離反していると言っても良いかもしれません。

 そのことばは、「世界は誕生と滅亡の……」に重ね合わせると、「世界」(事象・物事をのみこむ天体)と「大切な人・大切な意味」との間には、明らかな境界があり、「離反」している。「世界(事象・物事)」は人間とは違った「精神力」で動き、存在しつづけている。「天体」の運動はたしかに人間の運動とは違う。人間が何をしようが天体は関係なく動いている。
 ここで和合か書きたいことが、私にはよくわからないが、気にかかることがひとつある。
 ここで、和合は「精神力」ということばをつかっている。「天体の精神力」。和合は大震災を、人間の範疇、あるいは地球という範疇を超えて、宇宙のできごととしてとらえると同時に、そこに「精神力」を見ている。
 「天体の精神力」とは、しかし、何?
 わからない。
 わかるのは、いや、私がおぼろげに感じるのは、いま、人間こそ「精神力」を必要としていると和合が感じているに違いない、ということだ。
 人間の思いとは完全に乖離した「精神力」(離反した「精神力」)が「天体」を支えている。そして、それが人間から「大切な人」を奪いさっていく。それを奪いさられたままにしておくのではなく、人間の側に取り戻すには、「人間の精神力」が必要だと和合は感じている。
 「世界」が「意味」を奪いさっていくなら、その「意味」を奪い返すのもまた「精神力」なのだ。
 そして、「人間の精神力」とはどんな方法で、そこにあるということを示すことができるか。また、それはどんな方法でうごかすことができるのか。
 ことばを動かすこと。
 和合は、そう明確には書いていないが、私は、そう感じる。ことばを動かす。そのことばのなかに「人間の精神」がある。
 「意味」ではなく「精神」。
 「意味」に対して「精神(精神力)」で和合は戦おうとしている。「たった一人」で。私は、その戦いの側に立ちたい。私のことばは、まだ動かない。和合のように大震災とは向き合うことができない。だから、和合の側に立ち、和合のことばに沿う形で、私のことばが動いていけるようにしたい。
 いま、そう思っている。


地球頭脳詩篇
和合 亮一
思潮社
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誰も書かなかった西脇順三郎(216 )

2011-05-10 10:47:15 | 誰も書かなかった西脇順三郎
誰も書かなかった西脇順三郎(216 )

 『禮記』のつづき。「生物の夏」のつづき。

ピー
紙のみどりの蛇ののびる音だ
プッスー
ゴムの風船玉がしぼむ音だ
ポウー
孔子やナポーレオンのメリケン粉の
人形やきの言葉だ

 この部分の「音」もとてもつまらない。即物的すぎて、イメージが破られない。イメージがかたまってくる。粘着力をもって、しつこくからみついてくる感じがする。
 西脇がこんな音を書くとは不思議でしようがない。
 唯一おもしろいと思うのは(私がこの部分について書く理由は)、「音」が「言葉」にかわっていることだ。「ピー」は「音」、「プッスー」も「音」、けれど「ポウー」は「言葉」。--これは、しかし「意味的」には同じなのである。私がおもしろいと思うのは、西脇が「音」をはっきりと「言葉」と同義につかっている「証拠」がここになるからだ。
 西脇にとって「音」とは「言葉」なのである。
 そして、「音」と「言葉」に何か違いがあるかといえば、「言葉」には「意味」があるということだろう。「音」は「無意味」であるのに対し、「言葉」は確実に「意味」をもっている。
 この「意味」を含んだ「言葉」という表現をつかったために、西脇のことばは次の行からびっくりするくらい変わってしまう。「意味」だからけになってしまう。「音」の軽さを失ってしまう。

プッスーンー
経水で呪文を書き杉林で
藁人形に釘をうちこむ
女の執念の山彦の
かすかな記憶の残りだ

 「経水」には広辞苑によればふたつの「意味」がある。ひとつは「山からまっすぐ一本の流れで海に入る水」。まあ、清らかな水ということ、純粋な水ということになるのかもしれない。それで「呪文」を書く--というのは、あってもいいかもしれない。
 けれど、もうひとつ意味「月経、月のさわり」がある。この詩の場合、どうも、これにあたる。女が執念で藁人形に釘を打ち込んでいる。しかも月経の血で呪文を書いている。これは、どうもおどろおどろしい。「神話」になりきれていない。「かすかな記憶の残り」というのが、また、執念深い。ギリシャ神話のように、激烈な運動にまで高まってしまえばおもしろいのかもしれないが、そんなふうにはならない。私には、そんなふうには感じられない。
 これもそれも、私には、書き出しにでてきた「たのみになるわ」という音が原因のような気がしてしようがない。このことばは、詩のなかほどにも出てくる。

苦痛を感ずる故にわれ存在すると
言つたとき天使は笑つた
「たのみになるわ」
この天使の存在は
永遠に夢見る夢だ
永遠は夢のかたまりだ

 ここも、私には非常につまらなく感じられる。「永遠は夢のかたまりだ」という結論(?)は、西脇のことばにしては「音楽」が欠如していて、気持ちが悪いくらいである。
 西脇の詩から嫌いな作品を選べといわれたら、私は間違いなくこの作品を選ぶだろう。

西脇順三郎コレクション (1) 詩集1
西脇 順三郎
慶應義塾大学出版会
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和合亮一「詩の礫2011.3.1-4.9 」(6)

2011-05-09 23:59:59 | 詩の礫
和合亮一「詩の礫2011.3.1-4.9 」(6)(「現代詩手帖」2011年05月号)

 いままでのことばが大震災で無効になった、無意味になった。それを沈黙のなかで確認する--このことを、和合は、「頭」で感じているのではなく、「肉体」ではっきりとつかんでいる。「肉体」そのもを、ことばの無効性、無意味性、沈黙--静けさと向き合わせている。

今、これを書いている時に、また地鳴りがしました。揺れました。息を殺して、中腰になって、揺れを睨みつけてやりました。命のかけひきをしています。放射能の雨の中で、たった一人です。


息を殺して

 ここに和合の「静かさ」の「肉体」がある。息を殺すは、声を出さないというのに等しい。ことばを発しない。ことばを自分の「肉体」の内部にため込むのである。
 ことばは、ある。
 ことばは、いま、和合の「肉体」のなかに宿り、生まれようとしている。その生まれようとしているものを、大事に育てている。それが産声を上げるまで、じっと耐えている。その「静けさ」。
 和合は「静けさ」で「沈黙」と戦っている。沈黙を強いる何かと戦っている。いままでのことばを無効にした力と戦っている。その準備としての「静けさ」。
 それは、次の、

中腰になって、

 に力を込めて書き込まれている。「中腰になって」というのは、いつでも動ける準備をしてということである。それは「肉体」の命を守るための準備なのだが、それはそのまま、ことばの準備、意味の準備であり、また意志の準備である。
 意志というのは……。

揺れを睨みつけてやりました。

 この「睨む」という「肉体」の動きの中にある。「睨む」とき、意志が強く動いている。そして、「睨む」とき、ひとはことばを発しない。息を止めて(息を殺して)、ひとは「肉体」そのものになる。
 このとき、和合の選びとった「静か」を中心にして動いている力そのすべては、

命のかけひき

 そのものである。
 和合は、そのかけひきを、

放射能の雨の中で、たった一人です。

 と書いている。
 和合を「ひとり」にしてはならない。和合のことばをなんとか受け止めなければならない。
 しかし、私にできることは、和合のことばを、こうやって採録しながら、ただ寄り添うことだけである。



にほんごの話
谷川俊太郎,和合亮一
青土社
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誰も書かなかった西脇順三郎(215 )

2011-05-09 15:08:39 | 誰も書かなかった西脇順三郎
 『禮記』のつづき。「生物の夏」のつづき。

 好きな「音」をむりやり探せばないことはないが、やはりこの詩は変だと思う。「音」を題材にして書かれた数行。

日月の廻転と天体の音楽を知つている
ベトーヴェンの音楽などは
鉄砲の音とあまり違わない
ウァレリの詩なども女中さんが
花瓶を割つた音とあまり変りがない

 比喩が直接的すぎて、飛躍がない。「音」が広がっていたない。「音」が何かを破壊しない。逆に、何かを繋ぎ止めてしまう。

物質の存在も宇宙の存在も
人間には神秘の極限であるが
犬の脳髄にとつてはなんでもない
つまらない一つの匂いかもしれない

 ここにも飛躍がない。イメージの自由な飛翔がない。「意味」が強すぎる。

動物にとつては人間は諧謔の源泉だろう
主体と客体の区別は人間の妄想だ
犬にとつては犬がいちじくを食おうが
いちじくが犬を食おうが
どちらでも同じことだろう
最大なシュルレアリストだ

 ここにも「意味」しかない。--あ、それではその「意味」とは、と言われると、「意味」を書くことができないのだけれど(説明できないのだけれど)、「意味」が固まっているという感じがするのだ。ことばが響きあわない。解放されない。「いちじく」「いぬ」という音の組み合わせがいけないんじゃないか、とおもってしまうのである。


Ambarvalia/旅人かへらず (講談社文芸文庫)
西脇 順三郎
講談社
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和合亮一「詩の礫2011.3.1-4.9 」(5)

2011-05-08 23:59:59 | 詩の礫
和合亮一「詩の礫2011.3.1-4.9 」(5)(「現代詩手帖」2011年05月号)

私が避暑地として気に入って、時折過ごしていた南三陸海岸に、一昨日、1000人の遺体が流れ着きました。

このことに意味を求めるならば、それは事実を正視しようとする、その一時の静けさに宿るものであり、それは意味ではなくむしろ無意味そのものの闇に近いかもしれない。
                                 (38ページ)

 きょう引用した最初の2行は、いわゆる「事象」を描いている。「南三陸海岸に、一昨日、1000人の遺体が流れ着きました。」はニュースでいう5W1Hが書かれている。いつ=きのう、どこで=南三陸海岸に、誰が(何が)……した=1000人の遺体が(1000人が遺体となって)、流れ着いた、どのように=波に押し流されて(漂流して)、なぜ=震災による津波で犠牲になったから。--書かれていないこともあるが(私が勝手に補ったこともあるが)、それはすでにだれもが知っている「事実」だから省略されたのだ。「震災で多くの犠牲者が出た」ということは、だれもが知っているから、書き漏らしてしまうのだ。和合が知っているから、知らず知らず、省略してしまったのだ。事実を書くにしろ、自分の意見を書くにしろ、こんなふうに書き漏らしてしまうものこそ、そこに書かれていることの核心であり、思想である--というのは、私が文章を読むときの基本的な考え方である。
 そして、この「事象」に和合は、和合自身の特別な視点を書き加えている。南三陸海岸を個人的な場所として説明している。「私が避暑地として気に入って、時折過ごしていた」ということばを南三陸海岸につけくわえている。
 「事象」に「個人」をかかわらせていくとき、ことばは必然的に動く。和合自身のことばが動きだす。これが次の2行になる。その最初のことば、

このことに意味を求めるならば、

 これは、とても重要である。「意味」め最初から存在するのではない。それは「求める」という行為をとおして見つけ出すもの、あるいは作り上げるものである。
 和合はこれに先立ち、

ものみな全ての事象における意味など、その事後に生ずるものなのでしょう。ならば「事後」そのものの意味とは、何か。そこに意味はあるのか。

 と書いていた。「事象」の「事後に生ずる」意味--それは、「事象」のあとで、ひとが求め、見つけ出すものなのである。
 だからこそ、問題である。
 人が死んだ。大勢の人間が死んだ。地震、津波の犠牲になった。そのことに「意味」を求めるとはどういうことなのか。なぜ、人が死んだことに対して意味を求めなければならないのか。そこに意味があっていいのか。むしろ、そこに意味がない方が、納得できるのではないだろうか。意味--というのは、しばしば「価値」と同じだからである。人が大勢死んでしまったことに「意味」などあってはならないはずである。
 そのあってはならないはずの「意味」を人間は求める。探してしまう。
 そして、和合は、次のことを発見する。

 それ(求めている「意味」)は事実を正視しようとする、その静けさに宿るものであり、

 大勢の人が死んだことに「意味」などあっていいはずがない。「意味」は事実を正視する(しっかりみつめる)、そのときの「静けさ」のなかに「宿る」ものである。自然に生まれてくるものである。生まれようとしてくるのである。
 和合は、ここでも「静か」(正確には「静けさ」)に向き合っている。
 この「静か」は、まだ、ことばが生まれてこない「静かさ」である。それはまた、いままでのことばが無効になったことを確認する「静かさ」である。「沈黙」である。それまでの、いままでの「流通言語」は、いま起きた「事象(出来事)」の前で完全に無効になった。いままでのことばでは、何も言えない。いままでのことばでは「意味」にたどりつけない、「意味」を語ることができないことを実感することである。

放射能が降っています。静かな夜です。

 和合は、「静か」ということばを、最初に、そのような文章で書いた。この「静か」は音が聞こえてこないという「物理的な現象」を超えて広がっている。ことばが、それまでのことばがすべて沈黙してしまったことを語っているのだ。その沈黙と、つまり、いままでのことばの無効と和合は向き合っている。
 そして、いままでのことばが無効であると実感したから、ことばを書きはじめたのだ。何かを語らなければならない。ことばを、死なせてはいけない……。

 和合が実感した、それまでのことばの無効性は、次のように言いなおされている。

その一時の静けさに宿るものであり、それは意味ではなくむしろ無意味そのものの闇に近いかもしれない。

 無効性の確認--それは意味ではなく、無意味であることの確認である。いままでのことばが無効になった。それはいままでのことばの意味が否定され、無意味になったということである。




現代詩手帖 2011年 05月号 [雑誌]
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ノーマン・ジュイソン監督「夜の大捜査線」(★★★★)

2011-05-08 22:18:28 | 午前十時の映画祭
監督 ノーマン・ジュイソン 出演 シドニー・ポワチエ、ロッド・スタイガー

 1967年の製作。演技の質がいまの映画とは違うなあ。感情の動き、表情の動きがずいぶん抑制されている。それが逆に「偏見」の強さを感じさせるから不思議だ。ロッド・スタイガーが「おれがどれだけ我慢して話しているかわかるか」というようなことをシドニー・ポワチエに語るシーンがとても象徴的だ。
 しかし、こんな損な役をロッド・スタイガーはよくやったなあ。演じ方次第では、ロッド・スタイガー自身が黒人差別の代表者みたいになってしまう。キャリアに傷がつくというより、人間性を誤解されかねないね。
 でも、うまい。
 シドニー・ポワチエをアフリカ系であるというだけで平気で逮捕していたのだが、だんだん刑事として優れていることに気がつく。「職業人」として尊敬するようになる。そのロッド・スタイガーがシドニー・ポワチエを自分の家に招きいれ、「不眠症」について語るシーンがとてもいい。ほんものの「親友」になったようなうちとけ方である。
 ところが、未婚であること、子供がいないこと、生活にさびしさが付きまとうことなどを話しているうちに、態度ががらりとかわる。「あわれみ」は受けたくないのだ。同情されたくないのだ。こころを通いあわせても、少しでも自分の方が「劣っている」という感じがしのびこむと、我慢できなくなる。ロッド・スタイガーが「許せる」のは「対等」までなのである。
 と、まあ、ほんとうにどうしようもない人間なのだか、このどうしようもなさを、ひとなつっこい顔と、メタボの肉体で「どうしようもない、だらしない」という印象に収め込んでしまう。(あ、メタボ体形のひと、ごめんあさいね。)
そして、それと同じように、良質な部分(他人の優れている点は優れていると、素早く認める、偏見を捨てる部分)を、さーっと見せる。強調せずに、やはり肉体に隠して、動かないこと(いわゆる演技をしないこと、突っ立っていること)で見せてしまう。農場経営者がシドニー・ポワチエを怒りにかられて殴り、反射的にシドニー・ポワチエが殴り返すシーン。ストーリーの展開上も、「動かない」という設定なのだが、その動きのなさがとてもいい。この殴り合いのあと、農場経営者が「お前は、かわった。以前のお前なら、すぐシドニー・ポワチエを射殺していた。正当防衛を理由に」というシーンがすごい。あ、おれは変わったんだと、驚くように自分自身を見つめている、内面を見つめている――それが素晴らしい。
こういうシーン、演技が印象に残るのは、全体のアクション(表情)が抑制されているためだ。今のように、誰もが表情で演技を競うようになると、ロッド・スタイガーの演技は、物足りなくなってしまうと思う。
(「午前10時の映画祭」青シリーズ14本目、天神東宝4、05月07日)


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誰も書かなかった西脇順三郎(214 )

2011-05-08 15:06:27 | 詩集
 『禮記』のつづき。「生物の夏」。

 書き出しに、私はいつもつまずく。

存在は存在にすぎない
すべては廻転する車だ
出発した点へまたもどる
「たのみになるわ」
ハジカミの実が赤くなり
白い蝶がとまつている九月も
あのシルク・ハットをかぶつている
「妖術の建築家」の研究につぶされた

 「たのみになるわ」という1行が、私には、とても弱く感じられる。「音」が聞こえてこない。ひらがなだけで書かれているからだろうか。
 この詩はとても長いのだが、この最初の部分でつまずいて、どうしようかな、といつも悩んでしまう。読み進むべきか、それともやめてしまうべきか。
 つづく「ハジカミの実が赤くなり/白い蝶がとまつている九月も」も私には楽しくない。「赤」と「白」の対比が単純すぎて、しっくりこない。西脇がしきりにつかうことばを借りていうと「曲がっている」印象がない。
 「あのシルク・ハットをかぶつている」には、その白と赤が「あのシル(しろ)ク・ハットを(あ)かぶつている」という感じで甦ってくるのだけれど、何か違うなあ、と感じてしまう。
 それからしばらく進んで、

言葉もなく反対の小路の中へ
ウルトラマリンの影を流しこんだ

 という2行はとても好きなのだが。
 「ウルトラマリンの影」はとても美しい。書いているのはウルトラマリンなのだが、補色(?)のように、「白」が広がる。白い光に溢れた路。その影は「黒」であってはならない。ウルトラマリンでなければならない、と思う。
 こういう行を読むと、たしかに西脇は絵画的な詩人だと納得させられる。
 でも、つけくわえると。
 「中へ」「流し込んだ」というそれぞれの行の最後の「なか・なが」という音の響きがとても自然で、その音も私は大好きなのである。


西脇順三郎詩集 (岩波文庫)
西脇 順三郎
岩波書店
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和合亮一「詩の礫2011.3.1-4.9 」(4)

2011-05-07 23:59:59 | 詩の礫
和合亮一「詩の礫2011.3.1-4.9 」(4)(「現代詩手帖」2011年05月号)

放射能はただちに健康に異常が出る量では無いそうです。「ただちに」を裏返せば「やがけは」になるのでしょうか。家族の健康が心配です。

そうかもしれませんね。物事と意味には明らかな境界があるそれは離反していると言っても良いかもしれません。
             (38ページ、以下「現代詩手帖」2011年05月号のページ)

 ここにはいくつかのことが書かれている。ひとつは、ことばの問題。
 「もの全ての事象における意味などは、それらの事後に生ずるものなのでしょうか。」と先に和合は書いていた。「事象」と「意味」が、ここでは「物事」と「意味」ということばでとらえ直されている。「事後」と前に書かれていたことは、ここでは「境界」ということばでとらえ直されている。「事後」というとき、その「後」ということばから私は「時間」を連想した。「境界」ということばからは「空間」を連想する。「意味」は「時間」と「空間」の2種類の「間」を感じている。「間」は、ここでは「離反」ということばになっている。
 私は、これを乖離と呼んできたが、和合は、ここでははっきりと「離反」と書いている。
 「離反」。離れているだけではない。それは「反発」しあっている。いっしょになろうとはしないのだ。
 ことばは、何かを裏切っている。いま、語られていることばは何かを裏切っているという思いがあるのかもしれない。それは、言いなおすと、和合はことばに疑いをもっているということである。いま、流通していることば--それは、裏切りを隠していないか。
 「ただちに健康に異常は出ない」とは「やがては健康に異常が出る」ということを「意味」しないか。
 もし、そうであるなら、「物事」と「意味」の間に「境界」があり、「物事」と「意味」が「離反」しているだけではなく、ことばが、「意味」とも「離反」しているということになる。
 ことばの「意味」は、流通していることばをどおりではないのだ。
 「物事」が動いていくなら、ことばも動いていく。「物事」に空間があり、時間があるなら、ことばもその空間と時間を生きてみないことには、ほんとのう「意味」にはなりえない。
 ことばと意味は離反している。だから、それは動かしてみて確かめなければならない。どんなふうに動き、どんなことばとつながるか、確かめてみないと、そこにどんな「意味」がひそんでいるのかわからない。
 「意味」もきっと変化する、つまり成長するものなのだ。

ものみな全ての事象における意味など、その事後に生ずるものなのでしょう。ならば「事後」そのものの意味とは、何か。そこに意味はあるのか。

 ことばは遅れてやってくる。意味も遅れてやってくる。そして、遅れてやってくるものは、過去を引きずっており、それが動くとき過去が見える。意味は、過去といまをつなぎながら成長する。
 もし、そういう「意味」の成長に意味があるとすれば(何か注意をはらって読みとらなければならないものがあるとすれば)、それは何だろう。
 ことば、意味とともに生きている「私」そのものの変化かもしれない。
 ことばを追いながら、和合は変わっていく。

家族の健康が心配です。

 これは、だれもが口にする「当たり前」のことばである。しかし、当たり前のことばであるからといって、それが当たり前に出てくるとはかぎらない。「ただちに」が「やがては」になることを知ったとき、その動きのなかで、和合は自然に「家族のことが心配です」と思った。その「自然」が和合の変化である。
 正月の神社へのお参りで家族の健康を願うのとは違う「意味」が、ここにはある。

 それは、何が、どう違うのか。

 行きつ、戻りつしながら書くしかないのだが、正月に家族の健康を祈るとき、その祈りは「いま」と「将来」との間に「境界」を設定していない。時間はどれだけ過ぎていっても、いつまでも「いま」である。ところが、大震災、そして原発事故のあとでは、この「いま」はあすは「いま」とはまったく違った時間であるかもしれないのだ。ことばは、いつでも、その瞬間その瞬間と厳しく結びついている。
 事象、物事とことば(意味)は離反しているが、その離反は、事象・物事とことば(意味)を硬く結びつけようとするからこそ意識される離反なのだ。
 結びつけようとして、結びつけられない。結びつけるたしかなものがない。あるのは、どうすることもできない「境界」であり、「事後」の「後」ということば、意味である。そこに「心配」というものが、切実に入り込むのである。

 ああ、それにしても、と私は思う。
 こういうときでも「私の健康」ではないのだ。家族の健康なのだ。和合はまだ「私を助けてください」とは言っていない。和合は「ありがとうございました」と自分の気持ちを語ったあとは、「相馬市を救って下さい」「家族が心配です」と、自分を離れた場所で、ことばに祈りを込めている。ことばを、自分ではないもののために動かしている。




黄金少年 ゴールデン・ボーイ
和合 亮一
思潮社
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和合亮一「詩の礫2011.3.1-4.9 」(3)

2011-05-06 23:59:59 | 詩の礫
和合亮一「詩の礫2011.3.1-4.9 」(3)(「現代詩手帖」2011年05月号)

屋外から戻ったら、髪と手と顔を洗いなさいと教えられました。私たちには、それを洗う水など無いのです。

 これは、「事実」を書いていると同時に、こどばの「理不尽」を書いている。ことばは、それが不可能なことでも言えてしまうのだ。和合は、このことばを書きながらそのことを意識していたかどうかはわからないが、私はことばの理不尽を感じた。
 きのう読んだ部分に、

ものみな全ての事象における意味などは、それらの事後に生ずるものなのでしょう。

 ということばがあった。これも「事象」と「ことば」の間には「ずれ(乖離)」があることを語っている。
 ことばが、いまほんとうに必要なことを語れない。語られることばは「いま」を直接語ることがない。何かの「ずれ」を含んでしまっている。そのもどかしさが、ことばの奥に動いている。
 「静か」とは、この「ずれ」のことかもしれない。
 ことばが「もの」と対応しない。
 外から帰って手を洗う水がない。顔を洗う水がない。--これは、「水」という「もの」がない、という「事実」を告げているのだけれど、それだけではないのかもしれない。ないのは、「水」ではなく、「水がない」ということを告げる「ことば」がない、ということかもしれない。
 「水がない」と言えれば「水がない」ということばが「ある」と考えるのは、必要とする「水」をいつでも手に入れることができる状況があってのことなのかもしれない。「水がない」といっても、「水が必要だ」といっても、そのことばが「水」を、いま、ここにもたらさないなら、それはことばそのものが不在だということかもしれない。
 ことばは、そのことばが「有効」であるときだけ、ことばでありうるのかもしれない。
 そう考えたとき、私は、はっとするのである。どきっとしてしまうのである。
 私は最初に、大震災の被災者が「ありがとう」ということばを口にすることに衝撃を受けたと書いた。
 それは、もしかすると、被災者が「ありがとう」ということばしか「有効」ではないと知っているからなのではないのか。直感しているからではないのか。いま、ここで起きていること--それは、どんなに語っても、「事象」(出来事)と乖離してしまう。必要なことと乖離してしまう。
 唯一、被災者の「肉体」と乖離しないことば--それが「ありがとう」だったのかもしれない。
 それは、支援する人、あるいは救助する人に対して向けられていたことばである以上に、もっとほかのものに対して発せられていたことばかもしれない。
 「ありがとう」ということばを聞いて、私は(私は直接、ありがとうと言われたわけではないのだが)、「いいえ、お礼を言いたいのは私の方です。生きていてくれてほんとうにありがとう」と言いたい気持ちになったのだが、この「生きていてくれてありがとう」は、もしかすると被災者たち自身の声にならない声だったかもしれない。自分自身に対してそう言いたい。でも、まわりには亡くなったひとたち、行方不明のひとたちがたくさんいる。自分自身に対してさえ、そのことばを言うのは、少しはばかられる。でも、助けてくれた人に対してなら「ありがとう」と言える。だれかに対して「ありがとう」と言いながら、そのことばを自分に言い聞かせていたのかもしれない。
 自分自身との、声にならない対話、静かな静かな対話だったのかもしれない。そういう要素を含んでいるのかもしれないと思うのだ。
 もっともっと言ってもらいたいと思う。誰それに対してではなく、自分自身に対して「生きていてくれてありがとう」と言ってもらいたい。私は、その「ありがとう」につながりたいと思う。生きていて、その生きていることに対する不思議な感情のそばに身を置きたいと思う。
 自分自身のいのちに対して「ありがとう」と言ったあとでしか、言えないことばがある。自分のいのちを確認したあと、はじめてひとは他人のいのちに気がつくのである。

私が暮らした南相馬市に物資が届いていないそうです。南相馬市に入りたくないという理由だそうです。南相馬市を救って下さい。

 和合は、やっと「救って下さい」ということばを書いている。私はリアルタイムでツィッターを読んでいたわけではないので「震災に遭いました」ということばを書いてから、この「救って下さい」ということばを書くまでの「時間」を知らないけれど、こうやってことばを読んでくると、この「救って下さい」があらわれるまでが、とても長く感じられる。
 「救ってください」の前に、まず「ありがとうございました」ということばがあることに、また、あらためて驚くのである。
 「震災に遭いました。助けてください。」と和合は書いてもいいのだ。いや、そんなまだるっこし言いい方ではなく「助けてください。震災に遭いました。」と「助けてください」からはじめてもいいのだ。誰だっていのちの危険を感じたときは「助けと」と叫ぶところから始める。でも、和合をはじめ、多くの人々は「ありがとうございました」からはじめ、「助けてください(救ってください)」を後回しにしている。しかも、その「助けてください」は「私を」ではないのだ。和合は「私が暮らした相馬市を」と言っている。「暮らした」と過去形なのは、和合は、いまは南相馬市に暮らしていないからだろう。南相馬市は、和合のいまの暮らしの場所ではない。いわば、他人の場所。他人を助けてくださいと言っているのだ。
 他人の場所。他人。--しかし、それは「他人の場所」でもなければ、「他人」でもない。

あなたにとって故郷とは、どのようなものですか。私は故郷を捨てません。故郷は私の全てです。

 南相馬市。それは「故郷」である。「故郷」とは自分が生まれ、育った場所である。そこには当然、自分と一緒にそだった人がいる。暮らしがある。「私」が存在するのは、そういう場所と、そういう人がいたからである。生きていくとき、「他人」は存在しないのだ。それは「私」なのだ。
 私は、いま、ここで、こうして生きている。ありがたいことに、生きている。だから、別の場所で、いきようと必死になっているもうひとりの「私」、もうひとりの「私たち」を助けてください。
 その「もうひとりの私たち」が「ありがとう」というまで、私はそのひとたちのそばを離れない。捨てない。
 和合は、そう語っているのだ。



現代詩手帖 2011年 05月号 [雑誌]
クリエーター情報なし
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東野正『否熟調』

2011-05-06 13:59:59 | 詩集
東野正『否熟調』(セスナ舎、2011年01月11日発行)

 「否熟」ということばも、私にはわからない。こんなことばがあるのかどうか知らないが、私は聞いたことがない。そして、「わからない」と書いたことと矛盾するのだが、熟すること(成熟することを)否定している、「未熟」を積極的に選びとろうとしていることは、わかりすぎてしまう。この「わかりすぎる」はつまらない。--だから、というのこの「だから」のつかい方は間違っているかもしれないが、だから、私が最初に書いた「わからない」とは「わかりすぎてつまらない」という意味になる。
 どういうことか、というと。たとえば、「確信の敗走者」。

常に正しい敗者であり
充実した弱者でありたい
辛うじて鋭い悲鳴をあげることだけができる
非力さを自負するだけの
無能なものでありたい

「高度資本主義」なるものが押し付ける
<便利さ>という途轍もない浪費が
排出する廃棄物に埋もれることを拒否し
<豊かさ>という空虚な反映の
虚偽と偽善に味付けされた人工飼料を
吐き捨てる

 ここに書かれている「高度資本主義」に対する嫌悪はわかる。「高度資本主義」の「勝者」であるよりも「敗者」の方が「人間的」豊かであり、「人間的」な豊かさを欠いた「豊かさ」は空虚である--だから「勝者」よりも「敗者」であることを選ぶ。「敗者」であることは選択であり、そして「確信」である。
 --このセンチメンタルは、語り尽くされている。「流通」しすぎている。「流通」しすぎていて、もはやどれが「本流」かわからないくらいである。
 こんなことばを読むのなら、「高度資本主義」を勝ち抜くために私はこんなことをした、という「勝者」のことばを読みたい。ここをこんなふうにこじ開けたら、さらにこんなことができたという「勝者」の「声」を聞きたい。きっと、その方が「敗者」よりも「逸脱」している。「敗者」というのは「逸脱」ではないのだ。
 もし積極的「敗者」(確信犯としての敗者)がいるとすれば、彼・彼女は「鋭い悲鳴」などあげはしない。「非力さ」も自負しないし、「無能」であるとも言わないはずである。まったく違う「基準」を生きているわけだから、「敗者」ということば自体が存在しないはずである。
 東野のことばは「流通」言語にすぎず、この言語の運動を「世界と生の意味を問う」と評価する城戸朱理のことばは、まったくばかげていると思う。
 特に、東野の5冊組の詩集が東日本大震災と関係づける形で、そういう評価に組み込まれたことは、なんともばかげていると思う。復興は急がなければならないが、「効率主義」の「解体・再構築」で復興かおこなわれるなら、人間の生は苦しくなる。そんなことに詩は加担してはならない。



 どこで読んだのか忘れてしまったが、あるところで人間のすばらしい「逸脱力」を感じた。避難所で暮らしているひとがいる。医者(ボランティア?)が「必要なもの、ほしいものはないか」と聞いたら「バイアグラがほしい」とこたえたそうである。医者は、段ボールのしきりくらいしかないところで、バイアグラをつかうなんて、いったい、どうやって、と驚いたそうだが、「バイアグラがほしい」と言ったひとの「逸脱」する力にこそ、私たちは身を寄り添わせるべきなのだ。「そんなこと(?)するより、もっとすることがあるでしょ?」(だってねえ、勃起して困る、なんとか処理したいというんじゃないのだからねえ、よけい「そんなことするより」と言いたくなるかもねえ)、ではなくて、「復興」とか「協力」とかではなく、どうすることもできない「気持ち(欲望)」があるということ、それこそが生きているということなのだから。セックスしたって何も解決しない。失われた家がもどってくるわけではない。けれど、そういうときこそセックスしたいのだ。
 そこまでの「逸脱」ではないけれど、山本リンダがボランティアで避難所を訪問したときの話も感動的だった。「あ、山本リンダだ、『狙い撃ち』歌って」と声をかけられて歌を歌った。「歌なんか歌っているときじゃないのに」と思ったが、歌ったらみんながとても喜んでくれたと語っていた。山本リンダの歌も、復興とは関係がないし、食料や水の確保とも関係がない。効率的な暮らしからは「逸脱」している。けれど、人間は、そういう「逸脱」がないと生きていけないのである。
 そういう「逸脱」する力を、ことばにどう関係づけていくか。問われているのは、たぶん、そういうことだろう。そういうことばは「遅れて」やってくる。だいたい、「逸脱」を口にすることは、はばかられる。「バイアグラがほしい」というのは、まあ、普通はちょっとはばかられる。高血圧の薬、糖尿病の薬が必要というのとはかなり違うからねえ。でも、だからこそ「意味」がある。そういうことばこそ、「世界と生の意味を問う」のである。そういうことばこそ、「復興」という「意味」を解体し、「再び構築する」力なのである。



 感想が東野の作品から離れてしまった。セックスのことを書いたので、セックスにもどる。「月交」という作品。

満月の夜に真理は少し歪み月はその時だけ赤い声をいつも産声のようにあげるがその声は女たちにしか聞こえない男たちは外れた所で聞き耳をたててはいるのだが

満月の夜に月は少し膨らみ女たちは恥じらいのなかでそれを受け入れる準備をするの男たちは月をはがいじめにしてでも引き離そうとあがいている

満月の夜に月の精が地球に降り注ぎ地球の女たちは月の子を娠み男たちは月の東側に向かってあてもなく空砲を打ちつづけるのだ

 月の光をあびて、かわる女たち。月の光との性交(セックス)。これは、まあ昔からあるテーマではあるかもしれない。けれども、それは書くだけの価値はあることである。どんなふうに同じテーマからことばが「逸脱」していけるか--それはだれもがやってみるべきことなのだと思う。
 しかし。
 その「逸脱」を「月光(げっこう)」ではなく、「月交(げっこう)」と「視覚」のことばで「意味」を先取りしてしまう(効率的に「意味」を再構築してしまう)と、もう詩ではなくなる。

 「西洋現代哲学」というものを読んだことがないので、私の「脱構築・再構築」に対する考え方は間違っているのだろうけれど、私は「間違い」を選びとりたいのだ。「誤読」を選びとりたいのだ。
 城戸朱理が東野を評価して書いているような「言葉の意味を解体し、再び構築し、世界と生の意味を問う」方法に与することはしたくないのだ。
 と、きょうも城戸批判になってしまった。
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和合亮一「詩の礫2011.3.1-4.9 」(2)

2011-05-05 23:59:59 | 詩の礫
和合亮一「詩の礫2011.3.1-4.9 」(2)(「現代詩手帖」2011年05月号) 

ここまで私たちを痛めつける意味はあるのでしょうか。

 このことばの「意味」にも、私は驚いてしまった。ことばとは、たしかに「意味」なのだ。私が「ありがとう」に驚いたのは、その「意味」が感謝を越えているからだ。「ありがとう」の意味は「感謝」である。感謝の気持ちをつたえるのが「ありがとう」である。しかし、私が聞き取るのは「感謝の気持ち」ではない。「感謝の気持ち」以上の何かである。その「何か」が、私にはわからない。だから、驚く。衝撃で立ち止まる。「文字」は「ありがとう」と読むことができる。その「音」を知っている。しかし、こんなときに、そのことばを聞くということを予想していなかったのだ。私は予想していなかったことばを聞いたとき、「意味」がわからないのだ。わかるのは知っていることばだけなのだ。
 大震災以後、それまでとはまったく違ったことばが動きはじめている。そのことを私は「ありがとう」から実感した。実感をしたけれど、まだ、「意味」はわからない。
 大震災の被災者が「助けてくれ」「馬鹿野郎」「おれは怒っている」というのなら、「意味」がわかるような気がする。けれど「ありがとう」はわからない。
 大震災に遭い、それでもなおかつ「ありがとう」という。そこには、どんな「意味」があるのだろうか。それまで私たちがつかってきた「ありがとう」と、「意味」のうえで、どんなふうに違っているのか……。

 そしてまた、こんなことも考える。
 和合は、いま「意味」について考えている。大震災に「意味」はあるのか。これは、また、不思議なことである。
 ひとは、どう生きるか、これからどうしようかということだけを考えるのではないのだ。ことばは、これから先へ向かっていくときの人間の行動を支えるだけではないのだ。和合の被災の瞬間の状況を私は知らないが、たぶん身を守ることをまず考えたと思う。逃げる。いのちを助けるということを考えたと思う。無我夢中の、その時間をすぎて、いま、和合は「意味」を考えている。

ものみな全ての事象における意味など、その事後に生ずるものなのでしょう。ならば「事後」そのものの意味とは、何か。そこに意味はあるのか。

 「意味」はたしかに「事後」(あとから)生まれるものかもしれない。つまり、あとから付け足すものかもしれない。それは、ことばととても似ている。何かが起きたとき、ことばは置き去りにされる。ことばよりも先に守らなければならないものがあるからだ。そして、その守らなければならないもの、いのちを守り通したあと、ことばがやってくる。それは自分の外からなのか、自分のなかならなのか。わからない。けれど、阪神大震災を体験した季村敏夫が『日々の、すみか』で「出来事は遅れてあらわれた」と書いたように、あらゆることが「遅れて」あらわれる。いま、和合には、「意味」ということばが「遅れて」やってきた。
 「全ての事象」(季村が「出来事」と呼んだものと同じだと思う)と、それを語ることば、それのもっている「意味」の間には「時差」(遅れ、あるいは乖離)がある。人間は、どうしても「遅れて」しまう。出来事のスピードにおいついていけない。ことばは、「遅れ」ながら手さぐりをして進む。
 そして、いま、和合は「意味」ということばと出会っている。向き合っている。
 「事象」と「意味」に時差がある。「意味」が「遅れ」てくるなら、その「遅れ」の「意味」とは何かと問いかけている。
 それは、もしかすると「事象」と「意味」との「乖離」そのものを問題にしているということかもしれない。「事象」というのは目の前にある。「もの」とともにある。「意味」はどこに? 「目の前」の「もの」にではなく、「私」のなかにあるのかもしれない。あるいは、「もの」と「私」の「間」にあるのかもしれない。これも、はっきりとは言えない。わからない。
 「意味」がわからない--を和合は言いなおしている。ことばを動かして、別のことばで追い直してみている。

この震災は何を私たちに教えたいのか。教えたいものなぞ無いのなら、なおさら何を信じればいいのか。

 「意味」のわからないものを、和合は「何」と呼んでいる。「それ、何?」というとき、ひとは「もの」について尋ねているのだが、また同時に「意味」も問いかけているのだ。その「もの」はどういう「意味」を持っているのか、と。
 「もの」(あるいは出来事、事象)と「意味」が分離・乖離しているとき、私たちはどうしていいかわからない。「私」をどのように動かしていいのかわからない。ことばがうまく動かないように、「私」そのものが動かない。

放射能が降っています。静かな静かな夜です。

 わからなくなったとき、ひとはどうするのだろう。和合は、知っていることばを繰り返している。すぐ前に「放射能が降っています。静かな夜です。」と和合は書いている。知っていることばに頼って、もう一度「私」というものを確かめ、そこから出発し直そうとしている。
 ひとは、そうやって何度でも同じ場所から出発し直す。立ち上がる。そのために、ことばがあるのかもしれない。
 そして、立ち上がるたびに、ことばは少しずつかわりもする。
 最初は、

放射能が降っています。静かな夜です。

 だった。しかし、繰り返したとき、

放射能が降っています。静かな静かな夜です。

 にかわっている。「静かな」が2回繰り返されている。「静かな」と1回書くだけでは足りないのだ。「静か」のなかに、さらに「静か」がある。和合は「静か」に気がついた。そして、次に「静か」を聞いている。耳を澄ましている。「静か」のなかに「肉体」を動かして行っている。
 そして、そこには、

この震災は何を私たちに教えたいのか。

 に呼応するもの、呼びかけあうものがある。「何を教えたいのか」--その声が聞こえない、その静けさ。
 物理的な物音だけではなく、ある事件が、できごとが(事象が)、人間に語るはずのものがある。それが「聞こえない」。その「静けさ」。そのことを和合は「肉体」として感じている。


 一方に、何かわけのわからない「意味」があり、他方に、「肉体」がある。「肉体」の動きがある。「静かな静かな」と繰り返されたことばのなかに、私は和合の「肉体」を感じた。和合が「肉体」を感じはじめているのを感じた。
 何を信じればいいか。
 きっと、「肉体」なのだ。「静かな」に気づき、その「静かな」を確かめようと耳をすまし、その「静かな」のなかに隠れている「音」を聞こうとする力。
 その力の方向に、私もついていきたいと思う。





現代詩手帖 2011年 05月号 [雑誌]
クリエーター情報なし
思潮社
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和合亮一「詩の礫2011.3.1-4.9 」

2011-05-05 23:00:00 | 詩の礫
和合亮一「詩の礫2011.3.1-4.9 」(「現代詩手帖」2011年05月号)  

 和合亮一「詩の礫2011.3.1-4.9 」はツィッターで発表されたものである。私もツィッターに登録しているが、ツィッターでは和合の詩を読んでいなかった。目の状態が悪く、パソコンモニターで文字を読むのは苦手だからである。
 その最初の書き込み。

震災に遭いました。避難所に居ましたが、落ち着いたので、仕事をするために戻りました。みなさんにいろいろとご心配をおかけいたしました。励ましをありがとうございました。

 被災者のひとのことばについて1、2回書いたことがある。そのとき驚いたのと同じ衝撃を、和合のことばからも感じた。

励ましをありがとうございました。

 なぜ、ありがとうなのだろう。被災して苦労している。和合の家族のことはよくわからないが、被災者のなかには家族を失ったひともいるだろう。そういうひとも、まず「ありがとう」という。そのことばに、私は震えてしまう。
 私は直接「ありがとう」と言われた人間ではないのだが、間接的に聞いても、驚く。実際に、面と向かって「ありがとう(ありがとうございました)」と言われたら、私はどうしていいかわからなくなりそうである。
 何もできない。どんなことばを語ればいいのかもわからない。いま、ここで、私は平穏に生きている。無事に生きている私こそが、みなさん、生きていてくれてありがとうございました、と言わなければならないのに、逆に「ありがとう」ということばを聞いてしまう。
 これはいったい、どういうことなのだろう。

 わからない。

 わからないことが、たしかに起きているのだ。そして、そのわからないことを、なんとかしてことばにしようとしている。そして、その最初のことばが、和合の場合、「ありがとうございました」なのだ。
 そのことば、「ありがとう」は和合にとっては何回も言ったことばかもしれない。大震災に遭う前にも何度も口にしていることばであると思う。だれもが、しばしば口にすることばである。おそらく「ありがとう」ということばを言ったことのないひとはいないだろう。
 --あ、何を書きたいかというと、最初に出てくることばは、きっとそういうものなのだ、と私は思う。
 何かとんでもないことが起きたとき、私たちはすぐには、そのとんでもないことに向き合うためのことばを言うことができない。知っていることしか言えない。とんでもないことは、私たちの知らないことである。だから、それはことばにはならなず、まず、知っていることばを口にして語りはじめるしかないのである。
 そのとき、いったい、どんなことばを選ぶか。「ばかやろう」「おれはおまえを許さないぞ」ではなく、和合は「ありがとうございました」を選んでいる。多くのひとも同じように「ありがとう」を選んでいる。それはもしかすると、「ありがとうございました」ということばに選ばれているということかもしれない。もう、そういうときは、ことばを選ぶということはできない。きっとできない。ことばの方が人間に近付いてきて、人間の口を借りて動いていくのだ。「ありがとうございました」ということばは、和合を選んで、いま、ここで動きはじめたのだ。
 そして、そのだれもが知っていることばでありながら、それが実際に動きはじめるまでに、和合の場合、6日間かかっている。
 先の文章につづいて、

本日で被災6日目になります。物の見方や考え方が変わりました。

 「物の見方や考え方が変わ」る、変わった--だからといって、それがすぐ、ことばになるわけではないのだ。変わってから、実際に動きはじめるまでに6日間かかっている。このことは、とても重要だと思う。すぐにはことばは動かない。そして動きはじめても、すぐには「物の見方や考え方が変わ」ったはずの、そのことを語れない。
 知っていることばで、「ありがとうございました」から始めてしまう。
 いや、その同じようにしか見えない「ありがとうございました」こそ、一番変わった何かを明らかにすることばかもしれないけれど、どこがいままでの「ありがとうございました」と違うのか、これだけではよくわからない。
 わからないけれど、やっぱり変わっているのだと思う。私は確信している。何度も何度も新聞で同じような「ありがとう」を読んだけれど、そのたびに、私は泣いてしまう。知らないひとの、知らないひとへ向けた「ありがとう」なのに、胸が震えて苦しくなるのである。
 「ありがとう(ありがとうございました)」ということばの中にある力--それを、和合のことばを読むことで知りたいと思う。切実に、知りたいと思う。
 和合のことばは、猛烈なスピードで書かれている。私は、そのことばをできるかぎり、ゆっくりと読んでいきたいと思う。
 きょうは、もう少し、書いてみる。

行き着くところは涙しかありません。私は作品を修羅のように書きたいと思います。

放射能が降っています。静かな夜です。

 私たちは、ことばを知っているようで知らない。そして、ことばを知らないから、とても不思議なことが起きる。
 たとえば、和合が書いている「静かな夜」の「静か」。これはどいういう「意味」になるのだろう。音がない、ということだろうか。たしかに大震災で人間の活動がとまっているから、音は少ないかもしれない。けれど、その「静か」は、たとえば学校が休み、工場が休みというときの「静か」とは完全に違っている。違っているにもかかわらず、そこに「静か」ということばがやってきてしまう。
 ほんとうは「静か」ではありえないだろう。被災者たちは、物音のかわりに、自分の感情(物思い)と向き合っている。そこでは、何かが激しく動いていると思う。けれど、どんなに動いても、やはり「静か」なのだ。ことばがないのだ。声がないのだ。ことばにならない。声にならない--その苦しいような「静か」が、ここでは書かれているのだ。
 「ありがとう」には、この「静か」と同じ何かが動いている。ほんとうに語りたいことはほかにある。けれど、それはまだことばにならない。声にならない。何かが強い力で、ことばを、声を押さえつけているのだ。




入道雲入道雲入道雲
和合 亮一
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東野正『戯私調』

2011-05-05 22:24:15 | 詩集
東野正『戯私調』(セスナ舎、2011年01月11日発行)

 『戯私調』は、何と読んでいいのかわからない。「ぎし」と読んだとき、その「もと」になる熟語が思い浮かばない。
 たとえば、「喘奏曲」なら「前奏曲」という具合に、ことばが結びつかない。
 この『戯私調』は、これまで読んできた3冊とは少し趣が違う。「喘奏曲」というタイトルには、これまで読んできたものの名残があるにはあるが……。
 その「喘奏曲」の書き出しと、最終連。

どこからか かすかに聞こえてくる
小さきものの 幼きものの
ひそやかで せつないその声
あなりは確かに 感じることができるのだ

あなたには 聞こえるのだ
死んだ子を抱く母の叫びが
敵をののしり
自分の運命を呪ううめき声が
崩れてゆくもの 死にゆくものの悲鳴
そしてあなた自身の 声にならない悲鳴が

(略)

だから
雑音に満ちた聞き苦しい世界のざわめきを
なだめるように
ほんとうの音楽を
あなた自身が演奏するのだ
あなたのためのほんとうの音楽を
あなた自身の交響曲を初演せよ

 詩に要約というものが可能かどうかわからないが、この詩は、ある戦い(戦争)に巻き込まれ、子供を亡くした母の嘆きを書いたものだろう。その哀しみ、苦しみ。喘ぎ声。そこから「喘奏曲」ということばが生まれてきているのだろうが、これはちょっとことばの動かし方として酷い、と私は思う。母親の「喘ぎ」を「喘ぎ」ということばをつかわずに書くとき(実際、東野はタイトル以外ではそうしているのだが)、詩が生まれる。「喘ぎ」を迂回する(逸脱する)ことばのなかに、「喘ぎ」の本質が浮かび上がり、生まれ、動きはじめる。
 東野を高く評価している城戸のことばを借りて言えば

言葉の意味を解体し、再び構築し、世界と生の意味を問う

 ということが起きる。それをタイトルで「喘奏曲」と「先取り」し、「答え」を書いてしまうと、もうそれ以後のことばを読まなくてもいいことになる。
 タイトルが詩を壊している。
 「喘奏曲」のような酷いタイトルではないが、「横たわるロミオとジュリエット」「いつまでも一緒の姉妹に」も、時事というか、世界のニュースを題材にした詩である。
 書こうとしている「意味」はとてもストレートにわかる。

サラエボで一組の恋人達が死んだ
高校時代からの恋人でともに二十五歳だった
それぞれが対立する民族に属していた
セルビア人とモスレム人
激しい憎悪が銃の引き金に
力を込めたのだ
対立する民族対立する宗教対立する主張
永遠に 対立する・・・
                     (「横たわるロミオとジュリエット」)

 このストレートなことばは、しかし、どうもしっくりこない。そこに東野を感じることができない。こういうことばを読むくらいなら、まだ、わけのわからない当て字の逸脱を読んでいる方が楽しい気もしてくる。
 あ、こういう詩を題材にして「楽しい」も何もないのかもしれないけれど。
 でも、感じてしまうのだ。
 素直に、サラエボのロミオとジュリエットの悲劇にこころを揺さぶられる、という感じにならないのだ。
 なぜなんだろう。
 私がひねくれた性格だからかもしれない。

 でも。

 「冬からの一番列車」という作品を読んだとき、なぜ、私がサラエボのロミオとジュリエットに共感しなかったかが、わかった。わかったと思った。

もしもぼくが難路で喘いでいるとき
強固な意志で黒光りする石炭をくべてくれ
そして清冽な水をひとすくい汲んでくれ
ぼくが立往生するとき
たぶん世界は虚しく空転することだろう
ぼくの蒸気釜が冷えるとき
世界は冬の時代に閉ざされてしまうだろう

 ここに描かれている「ぼく」は「春を運ぶ蒸気機関車」である。ていねいに「比喩」が展開されている。とてもわかりやすい。けれど、私は、その「わかりやすさ」につまずいてしまう。
 どうして、こんなにわかりやすい?
 理由はとても簡単である。「春を運ぶ蒸気機関車」という比喩、特に「蒸気機関車」が古いからである。古いということは、もうどこかで書かれているということなのだ。(これは東野が盗作しているという意味ではない。)もう、そういう「比喩」は確立されてしまっているのだ。「黒光りする石炭」という常套句、「虚しく空転する」という安直なことば。ことばとことばの「結合」がすでに「流通」している。東野は、「流通言語」で詩を書いているのである。
 サラエボのロミオとジュリエットにもどって言えば、対立する民族(家庭)の恋人達の悲劇--それはロミオとジュリエットという「比喩」として、もう確立されている。「ロミオとジュリエット」は「流通言語」なのである。
 「流通言語」はよほどそのことばをていねいにつかいこなさないと詩にならない。いまり、

言葉の意味を解体し、再び構築し、世界と生の意味を問う

 ということにはならない。
 「流通言語」はただことばの効率化を推進するだけである。
 と、書くと、この問題は、東野の最初の作品に触れたときに書いたことと重なってくる。東野のことばは、「視覚」を優先させることで「意味」を「流通」させる。その「流通」の効率化を推進する。それは、どんなふにう逸脱して見せても逸脱にはならない。効率化することばは「資本主義」の要請にこたえるだけのものだろう。

言葉の意味を解体し、再び構築し、世界と生の意味を問う

 そうしてその結果が、資本主義のよりいっそうの効率化ということなら、詩とはいったいなんだろう。ことばの効率化に対し抗議し、抵抗するのが詩であると私は思うのだが。
 あ、今回も東野の作品について書いているのか、東野の詩を評価した城戸への批判を書いているのかわからなくなった。私はよっぽど城戸のことばが嫌いみたいだなあ。(と、ひとごとのように書いてしまうのである。きょうは。)




空記―東野正詩集 (1981年)
東野 正
青磁社
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