詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

和合亮一「詩の礫2011.3.1-4.9 」(15)

2011-05-18 23:59:59 | 詩の礫
和合亮一「詩の礫2011.3.1-4.9 」(15)(「現代詩手帖」2011年05月号)

 和合が一日で書いた「詩の礫」を読むのにちょうど2週間かかった。もっとていねいに読まなければ和合の声を聞いたことにはならないのかもしれないという思いと、こんなふうに遅れながら読み進むと和合の声からどんどん遅れてしまうという思いが交錯する。どんなふうに読み進めばいいのかわからない。わからないけれど、少しスピードをあげて読んでみる。途中をとばしながら感想を書きつづけてみる。
 きょう読むのは「2011.3.17 」の日付かある「02」の部分。

ひどい揺れの中で、眠っていたわけではないが、また目覚めた。眠ることなぞ、ほとんど無い。いつも目覚めさせられてばかり。揺り動かされてばかり、しーっ。余震だ。
                                 (40ページ)

 「しーっ。余震だ。」あるいは「しーっ、余震だ。」という表現は、このあと何度も出てくる。

まず地鳴りがする。そして揺れる。一瞬、何かがはしゃぐのだ。ほら、この静けさは騒がしい。しーっ、余震だ。
                                 (42ページ)

ガソリンもなく、放射能が降ってくるので、今日は家に隠れていた。誰とも語らず、何も考えない。しだいに息を殺しているこの部屋そのものが自分で、私はここには居ないことに気づいた。死者・行方不明者は13400人。ここには居ない。しーっ、余震だ。
                                 (42ページ)

 和合は、何かを聞き取ろうとしている。何かが聞こえる。けれど、そのほんとうの「ことば」が聞こえないとき、私たちは「しーっ、静かに」という。それは「ほら、いま聞こえることば(音)をしっかり聞いて、重要なことなんだから」という意味である。「余震」に何か「意味」があるかどうか、わからない。けれど、何かを和合は感じている。
 これは一日目の、

ここまで私たちを痛めつける意味はあるのでしょうか。

ものみな全ての事象における意味などは、それらの事後に生ずるものなのでしょう。ならば「事後」そのものの意味とは、何か。そこに意味はあるのか。

この震災は何を私たちに教えたいのか。教えたいものなぞ無いのなら、なおさら何を信じればいいのか。

放射能が降っています。静かな静かな夜です。
                                 (38ページ)

 と呼応しているように思える。「震災は何を私たちに教えたいのか」と問うとき、その「声(答え)」を聞きたいと和合は願っている。けれど、聞こえない。それが「静か」である。「静かな静かな」である。「震災の声」が聞こえない。
 「震災」というものが「声」をもたないとすれば。
 それは、和合には「意味」が見つからないということでもある。「震災」は起きた。その「事後」に「意味」は生まれてくる。そうだとして、その「意味」がまだ和合には見つからない。和合は、その答えを「震災」というよりも、その「事後」に聞こうとしている。「事後」というのは、その「震災」を受け止めた和合の「肉体」のことかもしれない。震災があり、肉体があり、何かを感じる。恐怖や不安や怒り。そういうものが「肉体」のなかに蓄積し、「意味」になろうとしている。しかし、まだ「意味」になりきれていない。「声」にならない「声」がどこかにある。和合はそれを聞き取ろうとしている。
 余震のたびに、「肉体」が反応する。それは、また「肉体」のなかで、ことばが生まれようとする瞬間かもしれない。だから、和合は言うのだ。

しーっ、余震だ。

 そして、この「しーっ、余震だ。」は、とても不思議なことに、矛盾を含んだことばといっしょに書かれている。
 「この静けさは騒がしい。」静けさは静けさであり、そこに音がないはずなのだが和合は「騒がしい」と感じる。それは、和合の「肉体」の外にある「騒がしさ」ではない。和合の「肉体」の内部の「騒がしさ」なのだ。何かを感じる。そして、それがことばにならない。声にならない。けれど、うごめく--それを感じて「騒がしい」と和合は呼んでいるのだ。和合の肉体は、肉体から「声」そのものを聞きたくて、「しーっ、静かに」と言っているのだ。
 「誰とも語らず、何も考えない。」誰とも語らずというのは「真実」かもしれない。けれど「何も考えない」は変である。「何も考えない」と書いているかぎり「何も考えない」と考えている。思っている。ことばを、そうやって動かしている。矛盾している。だから、ここに「思想」がある。それまでのことばでは言えない何かがある。
 「この部屋そのものが自分で、私はここには居ないことに気づいた。」私はいるけれど、「いない」と感じてしまう。この矛盾のなかにも「思想」がある。いままでのことばでは言えない「こと」がある。ことばにならない「こと」がある。
 「私が居ない」のはなぜか。

死者・行方不明者は13400人。ここには居ない。

 「私(和合)」は、この部屋には居ない「死者・行方不明者、13400人」とともにいるからだ。
 そして、「しーっ、余震だ。」(しーっ、静かに、耳をすませて)というとき、それはここにいない死者・行方不明者、13400人の「肉体」の声を聞くことでもあるのだ。和合は自分自身の肉体の内部でうごめいている「声」(ことばにならないことば)を聞くように、死者・行方不明者のことばを聞こうとしているのだ。

 ことばを聞く--耳をすます。そのとき、

女川。美しい港町だった。さんまが美味しかった。高村光太郎の碑があった。海で魚を捕ることは、人が原始に帰る興奮を味わうことだ、そんなことが美しく簡潔に書かれていた。
                                 (41ページ)

 正確に、ではないが、和合は高村光太郎のことばを思い出している。
 この部分を読んだとき、私は季村敏夫の『日々の、すみか』を思い出した。阪神大震災を体験した季村のその詩集のなかに、よく似たことが書かれていた。ことはば、自分のことばが動きだす前に、誰かのことばを借りて(すでにあることばを借りて)動きだすのである。他人のことば、既成のことばをそのままに--必ずしも、既成のことばそのままにというのではないけれど、自分が知っている「確かなことば」に励まされるようにして、誘い出されるようにして、ことばは動きだすのだ。
 何かわからなくなったとき、本を読む--というのは、そういう「ことばの誘い水」の力を借りることだ。
 高村光太郎のことば、その詩を思い出したあと、和合のことばは明らかに違ってくる。怒りや絶望や不安はまだ和合の肉体のなかにあるだろうけれど、それとは違ったことばが動きだすのだ。おばあちゃんにかけたやさしいことばとはまた違った美しいことばが動きだすのだ。だれもが、詩、と思うようなことばが動きはじめる。
 予定されていた小学校の卒業式がなくなったと書いたあと、和合はことばをつづける。

きみのまなざしは新しくなった春には花と鳥を映して夏には海と雲を求めて やさしくなったきみのまなざしは深くなった秋には銀杏の樹を見上げて冬には冷たい風の歌を耳にしていろんなことを知った
                                 (41ページ)

きみたちは学んだ ある朝に 命について ある夏に 時間について ある本で 世界について あの丘で ともについて かけがえのない 「愛」について このことの勉強には 卒業はないのだけれど
                                 (41ページ)

父もまた あどけない 幼いきみの笑い顔から いつか 卒業しなくてはいけないね 母もまた あどけない 幼いきみの泣き顔から いつか 卒業しなくてはいけないね
                                 (42ページ)

きみのまなざしは一日を知ったきみのまなざしは宇宙を知ったきみはまた追い掛けるだろうきみはまた追い越すのだろう今日という一日を卒業するために明日という季節を卒業するために
                                 (43ページ)

 ここにあることばは大震災に傷ついていない。いや、傷ついていないというと、それは間違いなるのだが、傷つきながら、その傷をはね返して生きている。生き返っている。
 「しーっ、余震だ。」と書いたとき、和合は高村光太郎の「声」を聞くことを念頭においていたとは言えないと思う。何かわからないけれど、何かを聞こうとしていた。そして、偶然のように、「女川」を思い出し、高村光太郎の詩を思い出したのだと思うけれど、そこから、ことばがいのちを回復した。
 「しーっ」という「肉体」そのものへ呼び掛けることば。
 そして、肉体のなにか残っていた高村光太郎のことば。
 そのことばに励まされるようにして、和合の、怒りでも、不安でも、恐怖でもないことばが生き返ってきた。「きみ」に語りはじめた。





地球頭脳詩篇
和合 亮一
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ジャン=リュック・ゴダール監督「ゴダール・ソシアリズム」(★★★★)

2011-05-18 09:05:38 | 映画
監督 ジャン=リュック・ゴダール

 何が新しくて何が古いのかわからないが、あいかわらず映像が美しい。色が美しい。断片をつなげれば、そのつなぎ方のなかに見た人それぞれのストーリーが組み込まれる。つまりゴダールに引用される形になるのだが、あ、めんどうくさいねえ、こういうことを書くのは。
 だから、違うことを書く。
 最初の方、男と女が静かにいがみあっている。--しかし、この静かさは、きっと彼らの「過去」が、つまりストーリーがわからないからそう見えるだけで、ほんとうは激烈すぎて激しさがわからないのかもしれない。激烈さを抑えている感情、精神の苦悩がわからないだけなのかもしれない。でも、それはどうでもいいことなのだ。映像があり、引用されたことばがあり、それぞれがどんな文脈かわからない。文脈はわからないけれど、そこに映像があり、ことばがあり、それぞれが「くっきり」している。手振れも、ぼやけた光のかたまりも、あ、映像がぶれている、光がにじんでいるということが「くっきり」とわかる。その「くっきり」がわかるということろに、詩、というものがある。詩、とは、何かわからないけれど、ある瞬間が「くっきり」見えることである。「くっきり」の異様な感じが、詩、なのである。
 ゴダールは映画で小説ではなく詩を書いているのである。
 真ん中あたりは、そこだけストーリーっぽいものがある。フランスの田舎町。ガソリンスタンドの経営をめぐって家族が対立している。それをアメリカ人(?)が取材にやってくる。映画をとろうとしている。そこで繰り広げられる瞬間的な会話もおもしろいといえばおもしろいが、まあ、ことばは映像を映像の文脈から引き剥がすための「音楽」としてあるだけだから、「意味」がわからなくてもいいのだ、というか、適当に聞いていればいいのだと思う。(私はわからないものに対しては、とても寛容なのである。わかりたいとは思わないのである。)で、私にわかることはといえば、たとえばガソリンスタンドの屋根の丸いカーブの美しさ。どうしてそこにいるのかわからない黒いロバと、なんとかという羊と馬のまじったようなもこもこした動物。そして、黒いロバの黒い毛と、青い首輪じゃなくて、鼻輪じゃなくて、ようするにロバの顔の周りについている紐のようなものの美しい対比。あるいは、男の子が母親にまるで恋人がじゃれるみたいにじゃれる時間、それをゆるしている母親のなかの「女」の時間--というような、ことばから切り離されてそこにある充実の美しさである。
 こういうを「もの」を見ていると、芸術とは結局「文体」だと思う。思想とは「文体」だという思いが強くなる。ゴダールの映像文体(映像を切り離すためのノイズとしての引用、ノイズとしての音楽であることばが常に介入する構造)、そのゆるぎなさ、その「存在感」が「思想」であることがわかる。他人の「思想」とは、結局、私には「わからない」ものなのだが、その「わからない」ということは、別のことばで言いなおすと、私に対して「考え直せ」と迫ってくる何かなのである。ここにある「もの」に対して、おまえは何を言うことができるか--そう問いかけてくるものが「他人という思想」であり、詩である。
 私がゴダールに向き合って言えることばはとても少ない。どの映像を見ても美しいと感じる。ゴダールの映像で「醜い」と感じたものはない。ことばはいつでも映像を世界から切り離すノイズであり、音楽である、と感じてしまう。その瞬間、私は、いままでみたことがない映像と出会っている、と感じる。この感覚が、私にはとても気持ちがいい。





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和合亮一「詩の礫2011.3.1-4.9 」(14)

2011-05-17 23:59:59 | 詩の礫
和合亮一「詩の礫2011.3.1-4.9 」(14)(「現代詩手帖」2011年05月号)

0時。ヒサイ6ニチメ。サッキノウソ。コンドハ6ニチメ。コレカラ、イツカカン。ワタシハ、ケッチャクヲツケタイ。
                                 (40ページ)

 「サッキノウソ」というのは、「本日で被災六日目になります」(38ページ)「シンサイ6ニチメ。ウマイコーヒーガ、ノミタイ」(39ページ)が間違いだったということだろう。0時という区切りの時間に出会い、和合が自分の「意識」を再点検して、数え方が間違っていたということに気がついたのである。
 和合の「詩の礫」はツイッターに書き込まれたものである。ツイッターの書き込みが「修正(訂正)」が可能なものであるかどうか私は知らないが、書き間違えたところまで戻って書き直すのではなく、間違いは間違いのまま残しておいて、修正しながら書きつないでゆく、ということばの運動を和合が選んでいることになる。
 ここに和合の、この詩の特徴があらわれている。
 気がつけば直す。何か、ある結論をめざしてことばを「論理的」に積み重ねて行くのではなく、そのときそのときの「真実」を書くことで、前に進み、同時に過去を修正する。前に進むこと(書きつづけること)は、それまでに書いたこと(過去)を常に修正することなのである。別なことばで言えば、過去を「耕す」ことである。
 大震災について書きつづけること、6日目、7日目……と書きつづけることは、同時に大震災の発生日、その瞬間に戻ることでもあるのだ。何が起きたのか。それを見つめなおしつづけることなのだ。

コレカラ、イツカカン。ワタシハ、ケッチャクヲツケタイ。

 これは、「詩の礫」を書きはじめ、これから5日間かけて作品を完成させ、自分の経験したことについて「決着」をつけたい、という意味ではない。
 「コレカラ」はむしろ「コレマデノ」である。これまでの5日間、大震災以後、何も書かなかった5日間へ向けて、ことばを動かしていく。実際には、7日目、8日目とツイッターで書き進むのだが、それは過去の、「ことば」が生まれてこなかった5日間の、生まれるはずだったことばを探し求めることなのだ。

ものみな全ての事象における意味などは、それらの事後に生ずるものなのでしょう。ならば「事後」そのものの意味とは、何なのか。そこに意味はあるのか。
                                 (38ページ)

 と、和合は書いていたが、「事後」から「事(こと)」の生まれる瞬間へ向かってしかことばは動かせないのである。そして、「事後」から「事」へ向けて書くこと、それは「意味」をつくることなのだ。「意味」は「生じてくる」のではなく、ことばで「生み出す」ものなのだ。「生み出す」のもであるからこそ、「ワタシハ、ケッチャクヲツケタイ。」と言えるのだ。「ワタシ」が、深く関与することができるのだ。

台所。メチャクチャになった皿を片付けていた。一つずつそれを箱に入れながら、情けなくなった。自分も、台所も、世界も。
                                 (40ページ)

 生きることは、いま、そこにあらわれてきた「過去」と向き合うことである。「未来」へ進むことは、常に「過去」と向き合い、「過去」を修正することである。「サッキノウソ。コンドハ6ニチメ」と「ことば」を修正したように、いま、和合は「台所」にあらわれた「過去(大震災・事象)」と向き合い、それを「修正(修復)」している。そして、「情けなくなった」。この「情けなくなった」は何だろう。自分にできることの少なさ、非力さの実感だろうか。自分の肉体を動かしながら「事象」をどれだけ「修復」できるか。「過去」を整えながら、「未来」へ進んでいくことができるか。
 自分の肉体がある「台所」を思う。それから、その外に広がって行く「世界」を思う。どこまで、肉体が関与できるか。そう思うとき、たしかに「非力」を実感するしかないのだと思う。
 しかし、和合は、肉体を動かすと同時に、ことばを動かす。

明けない夜は無い。
                                 (40ページ)

 夜は必ず朝になる--という天体の運動のことを和合は書いているだけではないのだ。天体の運動がそうであるように、必ず、この「非力」から立ち直り、ことばを修復できる--和合は、そのことを祈っているのだ。
 「ワタシハ、ケッチャクヲツケタイ」は、ことばを再生させる、ことばに「朝」を取り戻すということである。それまで和合は書きつづけると宣言しているのである。





黄金少年 ゴールデン・ボーイ
和合 亮一
思潮社
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殿岡秀秋『父のこたえ』

2011-05-17 11:27:15 | 詩集
殿岡秀秋『父のこたえ』(あざみ書房、2011年03月03日発行)

 殿岡秀秋『父のこたえ』は、散文的な、「意味」の強い作品か多い。そのなかにあって、巻頭の「霧の顔」は不思議である。

酔いすぎたあとの朝の目覚めは
透明な悲しさ
霧の水面に
さざなみがたち
底がゆれる
どこまでも沈めるようでいて
波間にただようしかない

ぼくの影はぼくの形から
女の長い髪が広がるように
はみ出している

湖の底に引き込まれそうな感じが腹のあたりにきて
波紋の先が喉にあたり
剃刀のようにあたって
剃られてくると
からだの芯が冷たくなる
このまま時間という湖に
浮いているのか

 2連目の3行に驚いてしまった。殿岡の書いているイメージはイメージとしてそのまま思い描くことができるのだが、そのイメージと私のことばが重ならないのである。
 湖に浮かんでいる「ぼく」。影ができる。それは湖底にできる。それをこの描写の「主役」は上空から見ている。ぼくは、ぼくの姿を上空から見る--という具合に想像している。「話者(主役)」は「ぼく」をみつめる「ぼく」という虚構である。
 で、上空(中空)から見てみると、影が「ぼくの形から/女の長い髪が広がるように/はみ出している」。オフィーリアか誰かが水に浮かんでいる(流されている)感じを思い浮かべればいいのだろう。長い髪が水に浮かんで、上半身を囲むように、ふわりと広がる。
 驚いたことはふたつある。ひとつは「ぼく」を「女」のなかでとらえている点である。「ぼく」は男なのだから、女の長い髪をもっていない。そういうもっていないものを「比喩」としてつかうときの意識の飛躍にびっくりした。比喩が殿岡の「肉体」を離れてしまっているのである。
 二つ目は、いま書いたことと微妙に関係しているのだが、殿岡の比喩は「肉体」と離れたところで動いている。「ぼくの形」。「ぼくの肉体(からだ)」ではなく「形」。水に浮かんだ「ぼく」を、中空からみつめる「ぼく」は「肉体」ではなく「形」と見ている。抽象的なイメージそのものとしてみている。
 うーん。
 そのくせ--そのくせ、というのは、まあ、間違った言い方なのかもしれないけれど、3連目に「形」ではなく「肉体」が出てくる。「ぼく」は中空から「ぼく」をみつめるのではなく、水と直接触れ合っている。この「触覚」が、かなり鋭敏で、とてもおもしろい。1行目の「腹のあたり」から触覚が上に動いてくる。「波紋の先が喉にあたり/剃刀のようにあたって/剃られてくると」というのは、なにか、ぞくっと感じる恐怖がある。
死の影が色濃く漂っている。
 「視覚」は「ぼく」を「ぼく以外の存在」に突き放し、つまり「女」や「形」に突き放し、「触覚」は「ぼく」を死へ引きずり込む。このへだたりが、とても不思議である。
 触覚の世界はさらに動く。

波紋の先が喉にあたり
剃刀のようにあたって
剃られてくると
からだの芯が冷たくなる

 この「芯が冷たくなる」の「芯」とは「肉体」でいうと、どのあたりになるのか。背骨かな? まあ、この4行だけをみれば(読めば)、背骨でもいいような気がするのだが、その前の1行「湖の底に引き込まれそうな感じが腹のあたりにきて」の「腹」を意識すると、背骨じゃないなあ、という感じになる。
 腹からのぼってきて喉になったのだから、さらにのぼって首筋の裏(このあたりが冷たくなる、という感じ、ない?)か、脳の中心か、あるいは逆に喉から腹へ逆戻りし、さらに腹を通り超えて腰、あるいは性器のあたりか。
 で、性器のあたり、つまり肉欲(死とは対極にあるのか、あるいは死を突き抜けて死そのものといっしょにあるのか--判断がむずかしいねえ)の中心だとすると、そのとき「ぼく」は男? それとも女? 男の肉体? 女の形?
 何か矛盾したもの、あるいは両性具有のような感じが入り乱れる。

 詩集には、父と母が何回も登場するが、(おじさんとか、親類の女の人も登場するが)、その両親(および親族)との関係が、ちょっと私にはつかみにくい。親族だから血はつながっているのだが、血というものは「肉体」の内部を動いていて、実際は「血の繋がり」というのは「頭」で整理した人間関係であって、実際に触れあうのは「肌」(肉体の表面)が中心だ。その「肌」というか「皮膚感覚」が、どうも「ぞくっ」とする。「べたっ」としていて、それが、あ、ちょっと離れて、といいたくなるような感じなのである。
 湖の波紋と喉の関係なら、冷たくて象徴的で、死の比喩ともうまくなじんでくれるのだが、他の作品では皮膚感覚が比喩にならない。抽象的にならない。それはそれでいいのだろうけれど、先に書いたように、そこに男と女が融合すると、何か変な気持ちになる。
 マザコン? ファザコン?
 よくわからないが、親族との「肉体関係」がふっきれていない気持ち悪さをどこかに感じてしまうのである。 肉親とは肉体関係である--ということをとことん書いて行けば、それはとてもおもしろいものになるのだと思うけれど。





記憶の樹―殿岡秀秋詩集
殿岡 秀秋
ふらんす堂



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和合亮一「詩の礫2011.3.1-4.9 」(13)

2011-05-16 23:59:59 | 詩の礫
和合亮一「詩の礫2011.3.1-4.9 」(13)(「現代詩手帖」2011年05月号)

これまでと同じように暮らせることだけが、私たちが求める幸福の真理であると思う。
                                 (40ページ)

 このことばは、少し変な具合に響いてくる。私がふつうつかわない形でことばが動いている。「幸福の真理」の「真理」が重たいのである。それを、さらに「思う」ということばが追いかけている。
 そこに、和合独特の、大震災の被災者独特の何かがある。
 「これまでと同じように暮らせることだけが、私たちが求める幸福である」ということばと比較すると、和合の書こうとしている「何か」がわかる。
 和合は、幸福について考えているが、その幸福はふつうの幸福ではない。大震災のあとでは、ふつうの幸福は考えられない。「真理」を考えたい。「真理」を手に入れたい。「幸福の真理」を手に入れたい。
 「幸福の真理」とは「真実の幸福」とは違うのか。
 たぶん違う。
 「真実の(ほんとうの)幸福」ではなく、「幸福の真理」。そういうときの「真理」とは何か。和合は、これまで「意味」ということばをつかっていた。

ものみな全ての事象における意味などは、それらの事後に生ずるものなのでしょう。
                                 (38ページ)

 この「意味」に「真理」は近いと思う。「意味」とはその「事象」の「定義」である。単なる定義ではなく、定義づけるということを含んだ定義である。大震災--それをどう定義するか。定義は、いつでも、あと(事後)からしかできない。そして、その定義における「意味」とは何か。

ものみな全ての事象における意味などは、それらの事後に生ずるものなのでしょう。ならば「事後」そのものの意味とは、何か。そこに意味はあるか。
                                 (38ページ)

 「そこに意味はあるか」とは「そこに(その意味に)価値はあるか」ということかもしれない。「意味(価値)」はある、と私は思う。
 いま、和合がやっていることに結びつける形で言えば、何かを定義すること--何かをことばでとらえなおすこと。それは、ことばを生き返らせることである。大震災で「沈黙」してしまったことばを、もう一度、甦らせることである。
 和合は、そういうことをしている。
 どこがことばの再生か--そのことを、私は、はっきりとは指摘できない。けれど、和合がこうしてことばを動かしているかぎり、和合のことばは死んではいない。和合はことばを死なせないということを繰り返すことで、ことばを甦らせようとしているのである。
 だから、と、いえばいいのかどうかわらかないが、そういうことは、新しい劇的なことばをつかっておこなわれるわけではない。いつもつかっていることばを組み合わせながら、そのことばを、いままでとは少し違った形で動かすことでおこなわれるのである。

幸福の真理。

 これは、先に書いたように「幸福」とだけ書いても「文章」は成り立つ。けれども、和合は「幸福の真理」と書くことで、「幸福」と「真理」にいままでとは違う何かをつけくわえようとしている。何かを「幸福の真理」ということばの組み合わせで甦らせようとしている。和合の「肉体」のなかで生まれようとしている何かを引き出そうとしている。生み出そうとしている。
 和合の書いている「幸福の真理」--このことばの「真理」は、私が書いたこと以外にも、いろいろに読むことができるだろう。その「いろいろな読み方」のなかに、何かが動く。その「いろいろな動き」そのものが、それこそ「真理」というものかもしれない。
 ことばにできない何か。ことばになろうとする何か。

幸福の真理。

 「真理」は和合には何であるかがわかっている。しかし、まだ、それを「真理」以外のことばで言いなおすことができない。--その、苦しみのようなもの、切実な渇望のようなものを、私は感じる。それは、ことばにならない。「思う」ことしかできない。「思う」ことで、なんとか、それをことばにしようとしている。和合の、その「思い」が、とても重い。ずしり、とつたわってくる。

 そして、なんと不思議なことだろう。
 幸福の真理--それは、いつもと違った暮らしではない。たとえば、突然の金持ちになるとか、突然何かができるということとは関係がない。「これまでと同じように暮らせること」。「同じ」であることが「幸福」。「幸福」だけではなく「幸福の真理」。
 和合は、ここでは「幸福」を定義しなおしているのである。「幸福」の「意味」を考え直しているのである。

本日で被災六日目になります。物の見方や考え方が変わりました。
                                 (39ページ)

 「幸福」の見方(定義の仕方)が変わったのである。「幸福の真理」も変わったのである。変わったばかりだから、まだその「真理」をうまく「定義」しなおすことができない。「意味」を明確に語ることができない。
 --私の書いていることは、どうも、どうどうめぐりになるが、どうどうめぐりをしながら少しずつ進んでいくしかないのかもしれない。

 「幸福の真理」ということばを書いたあと、和合のことばは少し、そういう形而上学的な次元(?)から離れる。そこに、あ、不思議な「幸福の真理」を私は感じるのである。

タマネギを、たくさんいただいてきた。箱いっぱいに。近所のおじさんが作ったものをくれたのだ。しかし実はタマネギが苦手である。玄関にその箱を置いて、じっと見ている。ついこの間まで、あった、僕の毎日…。
                                 (40ページ)

 「しかし実はタマネギが苦手である」が、とてもいい。「物の見方や考え方が変わりました」と和合は書いていたのだが、変わらないもの、変われないものがあるのだ。「肉体」あるいは「本能」のようなものはかわれない。「いのち」は変われないのだ。そして、その「変わらない-変われない」ものこそ、「真理」であり、それがあるということが「幸福」なのだ。それをもちつづけるということが、きっと「幸福」なのだ。
 私は変なことを書いている--と承知しながら書いているのだが……。
 「タマネギが苦手」ということが、つい、この間まで、あった。それが「毎日」であった。「同じ・暮らし」であった。それを「苦手」という「肉体の感覚」で和合はつかみとっている。「タマネギが苦手」というのは、まあ、何とも言えないばかばかしい(?)好みの問題だが、その「無意味」なことがらが、実は大切な「幸福な真理」ではないかと私は思う。
 「タマネギが苦手」というようなことを言わず、食べるものがないならそれを食べるしかないという「現実」があっても、それでも「タマネギが苦手」と思うこころ、思う肉体。その「反応」のなかに、不思議な「幸福の真理」を私は感じる。「タマネギが苦手」という反応こそが「これまでと同じ」だからである。そういう「これまでと同じ」を肉体が抱え込んで「暮らす」こと--それこそが「私(和合)たちが求める幸福の真理」に違いない。



入道雲入道雲入道雲
和合 亮一
思潮社
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野村喜和夫「眩暈原論(その5)」

2011-05-16 23:19:40 | 詩(雑誌・同人誌)
野村喜和夫「眩暈原論(その5)」(「hotel 第2章」27、2011年04月20日発行)

 野村喜和夫「眩暈原論(その5)」はことばのリズムがとてもいい。

おお眩暈地平。それは始まり、それは終わるだろう。それはけたたましい猿の笑いで始まり、時間の外へのやるせない郷愁で終わるだろう。それははためく肉のすらり起動から始まり、ひるがえる魚の腹のきらめき浮遊へと終わるだろう。それは終わりの煮こごりの姫的な流出へと始まり、はじまりのファンファーレのちりちりと焦げた香りから終わるだろう。いずれにせよ、それは始まり、それは終わるだろう。

 「時間の外へのやるせない郷愁」って、何ですか? わかりますか? 私はわかりません。けれどいいのだ。このわからないものが、わからないけれど、そこにある。きちんと「音」として「ある」感覚(印象?)がいい。「音」がもたつかない。
 わからないには、たぶん、二種類ある。「意味」がわからないけれど「音」がわかることば。逆に「音」がわからないというか、もたもたしていてじれったいけれど「意味」はわかるということば。この「音」がもたもたしていて「意味」がわかることばは、言い換えると「音」がわからないことばのことである。--私は、この「音」がもたもたしていて、聞きづらい、読みにくいことばに会うとげんなりしてしまうのである。
 「意味」(思想)が「正しい」といわれても、その「意味」(思想)を信じられないのだ。「肉体」でもちこたえられない。「耳」でもちこたえられず、「声」で再生できないことばは、私には「意味」にも「思想」にも思えないのである。
 「声」にできないことって、結局、「肉体」が理解していないということだ。
 何が書いてあるのか、野村が何を書こうとしたのか、わからない。それは「時間の外へのやるせない郷愁」だけではない。「ひるがえる魚の腹のきらめき浮遊へと」もわからない。「煮こごりの姫的な流出」もわからない。「ファンファーレのちりちりと焦げた香りもわからない。
 「はじまりのファンファーレのちりちりと焦げた香りから終わるだろう。」なんて、はじまるの? 終わるの? それだって、まあ、いいかげんだ。
 野村自身「いずれにせよ、それは始まり、それは終わるだろう。」と逃げている。「いずれにせよ」って、ねえ、そんな言い方は無責任でしょ? なんだって始まりがあり、それから終わりがあるのだけれど、「いずれにせよ」じゃ、困るよねえ。「意味」を考える人にとってとは。
 でも、私は困りません。「意味」は考えないから。

ちらせ、ちらせ、障壁ちらせ。火は液状に、水は硬く、燠火の泡や語る彗星の尾が浮かんでいるよ、女のアクメの声や汗の樹枝状結晶が漂っているよ。眼だ、とりわけ眼だ、照らし、また照らされて。

 「火は液状」なんかではない。「水は硬く」はない。ここには、いっしゅの「でたらめ」(ありえないこと)が書かれている。それは「常識」の世界ではない。だから、ここに書いてあることが「わからない」、というのが、まあ、ふつうの読み方かもしれない。「意味」がわからない、そういう感想がふつうかもしれない。
 でも、その「わからない」ということ--それが「わかる」ということが、詩、なのだ。「わからない」ことも、ことばになる。そして、「意味」はわからないけれど、ことばのひとつひとつはわかる。「音」がわかる。ここでは、「わかる」と「わからない」が出会っている。そういうことが、わかる。
 これが、きっと詩の体験なのだと思う。

 あることばを読む。そして、そのことばのひとつひとつがわかり、その結果として「意味」(思想)がわかる--というのは、ふつうの散文のことばである。散文は、たぶん、ひとつひとつのことばをわかるように書き、そしてその結果としての「結論」も「意味」が「わかる」ものである。散文では「わかる」と「わかる」が出会って、その「わかる」を超えた、さらに「わかる」を次元の高いものにすることばの運動なのかもしれない。
 詩にもそういうものはある。けれど、そういう「意味」が「わかる」よう書かれる作品とは別に、「意味」をわからなくするために書く作品もあるのだ。「意味」ではなく、「無意味」が動き回る、「無意味」が「意味」をたたき壊して、わっ、おもしろい、と思う詩もあるのだ。
 わっ、おもしろい--とことばに対して感じること、それがきっと詩なのだ。

 こういうとき、つまり、「わけがわかんないけれど、わっ、おもしろい」と思うとき、絶対に必要なのは「音」が明瞭であること、「音」が聞き取れること、「音」が「肉体」で再現できること--その「音」を自分の「肉体」で再現したいと思うこと、なのである。
 あ、いま聞いた「音」を再現してみたい、自分で言ってみたい、自分のものにしてみたい--そういう「欲望」のなかに、私は「思想」の一番重要なもの、譲れないものが含まれていると感じている。


詩集 plan14
野村 喜和夫
本阿弥書店
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和合亮一「詩の礫2011.3.1-4.9 」(12)

2011-05-15 23:59:59 | 詩の礫
和合亮一「詩の礫2011.3.1-4.9 」(12)(「現代詩手帖」2011年05月号)

また揺れた。とても大きな揺れ。ずっと予告されている大きな余震がいよいよなのかもしれない。階段を下まで行って、揺れながら、階段の先の扉を開けようか、どうしようか、悩んだ。放射能の雨。
                                 (40ページ)

 「悩んだ」。だれもがつかうこはである。和合は、ここではじめてつかっている。それまでもいろいろなことを「悩んだ」はずである。

家族は先に避難しました。子どもから電話がありました。父として、決断しなくてはいけないのか。
                                 (39ページ)

 の「決断しなくてはいけないのか」は「悩み」そのものだろう。また「事象」「事後」「意味」についてあれこれ考えていたのも、「悩み」に含まれるだろう。こころ・意識が動き、それが「答え」のないことばになるとき、ひとは「悩んでいる」。どうしようかまよっている。わからずにいる。
 これは、ごく普通のことなのかもしれないが、和合は、そのことをていねいに書いている。こころ・意識・精神としてだけではなく、そこに「肉体」を結びつけながら、ていねいに書いている。「階段を下まで行って」という動きが、不思議と私のこころに届いてくる。まず「肉体」が動き、それを追いかけるようにして、こころ・意識・精神が動いてくる。あ、「悩み」というのは、こんなふうに「遅れて」やってくる--ということが、印象に残るのである。「悩み」が「悩み」として自覚される(反芻され、意識化される)までには、「時間」が必要だということが、印象に残る。
 次の「つぶやき」に、その「悩み」とつながることばが出てくる。

ガソリンはもう底を尽きた。水がなくなるか、食料がなくなるか、心がなくなるか。アパートは、俺しかいない。
                                 (40ページ)

 まず、ガソリンからことばが動く。ガソリン→水→食料→心。数えあげるものがなくなったとき、心が「対象」としてあらわれる。それは、それまでこころがガソリン、水、食料といっしょにあったからだ。こころは単独では存在せず、何かと結びついている。対象があって、こころがある、という「二元論」ではなく、「対象=こころ」という「一元論」が、ガソリン=こころ、水=こころ、食料=こころ、を経て、「こころ=こころ」にたどりついているのである。こころが、こころを対象とするとき、それが「悩み」になるのだ。
 前の部分で「悩んだ」と書いたから、和合は、ここでようやく「心」ということばをつかい、こころの存在を自覚している。
 38ページに、「家族の健康が心配です」という表現があり、その「心配」のなかに「心」という文字がつかわれ、そこにも「心」はあるのだが、この「心」は「家族の健康」という対象と結びついている。「家族の健康」という「対象」に「配られている」。(心を配ることが「心配」ということである。)
 そして、この「心」の存在を自覚したとき、和合が「詩の礫」を書く「理由」(書く根拠)もはっきりする。
 こころをなくさないためである。

 大震災のなかで、何をどうしていいか、わからない。何が起きたかも、実はわからない。そこから、どうやって生きていけばいいのか。「肉体」はたしかに「生きている」。ここにある。しかし、「こころ」は? こころは、何と結びついていいかわからず、うろたえている。何とも結びつくことができずに、そこに「いる」(ある)。

震災にあいました。避難所に居ましたが、落ち着いたので、仕事をするために戻りました。みなさんにいろいろとご心配をおかけいたしました。励ましをありがとうございました。

 「詩の礫」のこの書き出しの「落ち着いた」は、こころがようやく結びつく対象を見つけ出した、こころを対象に結びつけながら(一体のものとして)動かすことができるようになったということだろう。「ありがとうございました」は、和合を「励まし」てくれたひとに結びつけることばなのだ。
 「ありがとう」ということばのなかで、和合は、「他者」とともに生きているのだ。
 多くの被災者たちも繰り返した、この「ありがとう」には、「励ましをありがとう」(援助をありがとう)を超えて、「あなたが(つまり、被災しなかった私たちが)、こうやっていっしょに生きていてくれてありがとう」という意味合いを含んでいるのだと思う。だから、私は震えてしまうのだ。私がこうやって生きているのは、ごく自然なことのように私は感じているが、生きてこうしてここにいるということは、何かの力によるものなのだ。そのことを、被災者の「ありがとう」から、私は感じずにはいられない。「ありがとう」と言わなければいけないのは私の方なのだ。「被災者のみなさん、生きていてくれてありがとう」と言わなければならないのは、私たちの方なのだ。それなのに、被災者から「ありがとう」と言われてしまう。

 感想が少し逆戻りしてしまった。

 「心がなくなるか」--そう書いたとき、和合は、こころをなくしてはいけないと決意している。こころをなくさないために、「詩の礫」を書こうとしたのだ。こころをなくさないために、「私は作品を修羅のように書きたいと思います」(39ページ)と書いたのだ。
 そして、そのときの「心」は、和合だけのこころではない。「ありがとうございました」ということばで、私たちとつながるこころなのである。
 私たちは、和合のことばをとおして、被災者とつながる。そのこころこそ、なくしてはならないものだろう。

だいぶ、長い横揺れだ。賭けるか、あんたが勝つか、俺が勝つか。けっ、今回はそろそろ駄目だが、次回はてめえをめちゃくちゃにしてやっぞ。
                                 (40ページ)

 「地震の揺れ(その力)」を、次は「めちゃめちゃにしてやっぞ」という強いこころ--そのこころと、私たちはつながらないといけないのだ。

 なんだか説教臭い感想になってしまったが……。




現代詩手帖 2011年 05月号 [雑誌]
クリエーター情報なし
思潮社
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福田拓也「その絶えずゆらぎたゆたう……」

2011-05-15 15:37:50 | 詩(雑誌・同人誌)
福田拓也「その絶えずゆらぎたゆたう……」(「hotel 第2章」27、2011年04月20日発行)

 福田拓也「その絶えずゆらぎたゆたう……」は、句読点があったりなかったりする。

その絶えずゆらぎたゆたう不可視の壁を辿るようにしていくつもの斜面や断崖、段丘をめくる視線の跡地にさまざまな字面の空蝉がぼんやりと光を放っている複雑な画数を辿るもの進んでは後退するものその細かく仕切られた迷路をほとんど形の崩れた不定形な裸体が枝分かれしつつ多方向に伸びて行くがその奥底に光を反映する黒い水の瞳は瞬いているだろうか

 「断崖、段丘」のあいだにある読点「、」は漢字がつづいて読みにくいからつけたのだろうか。しかし、まあ、この読点こそ、なくても「文」には影響がないだろう。
 この句読点が不自然な福田のことばの特徴は、句点「。」が省略されることで、どこまでが一文かわからないところにある。さらに、その途切れ目のない文を、福田のことばをまねして言えば、「その」ということばが絶えず引き継ぎ、引き継ぐことで「ゆらぎ」「たゆたう」ところにある。そして、その「その」による引き継ぎが、実は句点「。」の役割を果たしている。

火を飲み込み赤く輝くような水面はあるにしても恐らく果てのない底なしの底にそこでむしろ目を閉じるようにして眠りをむさぼっているのでもあろうかそこにいたるまでの屈曲はそれ自体が肉の壁と地層を構成したそこここに埋まる骨の光る夜をどこかで囁いて羽のこすれるような微かな声たちが行き着けない高みを仰ぎ見る亡き視線の

 どこで引用を終えればいいのかわからないので、ここまでにしておくが、「底なしの底にそこで」の「そこ」がおもしろいのは、その「そこ」が前出の「底」から次の文章を切り離すためというか、次の文章のことばを自在に動かすための跳躍台になっていることである。いままで書いてきたことを無視(?)して、違ったことを書きはじめるために「その」ということばがつかわれている。
 いままで書いてきたことと無関係なことを書いてしまうと、文章というのは「でたらめ」になる。ことばの「論理」がなくなって、「無意味」になる。その「無意味」というか、「論理の否定(破壊)」を「その」がごまかしている。ごまかしているというのは、ちょっとことばがよくないのだが、言いなおすと、論理の否定(破壊)を、「その」によってあたかも「論理」があるかのように仮装している。「論理」というのは、ようするに「連続」のことだからである。切断ではなく、連続。あることがらが連続するなら、そこには連続をつらぬく「論理」がある--という仮装のこころみ。
 こういうことに、何か意味があるのかといえば。
 ない。
 そして、矛盾して聞こえるかもしれないが、この意味がない、無意味、がこの詩の面白さである。
 「その」によってむりやり「連続」が仮装され、ことばが動くとき、そこでは「無意味」が動いている。何の関係もないことばが動く。ことばは、前に書いたことと無関係に動ける。自由に動ける。そして、その自由とは、きっと「美」なのである。つまり(?)、そこには福田の「美意識」だけがはっきりと存在している。そして、その「美意識」は福田の場合、「視線」(目の力)がつかみとってくる。

その絶えずゆらぎたゆたう不可視の壁

 この書き出しの「不可視」は不可視といいながら、視力を離れることがない。むしろ、「可視」を追い求める。繰り返される「光」「輝き」が、そのことを語っている。

 で、このことが、私にはちょっと不思議。書きながら、何かを踏み外したような気持ちになる。福田のやっていることと、私の感じていることが、うまく重ならない。うまく福田のことばを追いつづけることができないという感じが、ふいにしてくるのである。おもしろいのだけれど、一方で、あれっ、とも思ってしまう。頭ではわかったつもりでも、何か、私の肉体がついていかない。

 「その」によって接続(連続)を仮装しながら、展開することばが「視力」の世界であるというのは、うーん、むずかしい。
 視力というのは「接続(連続)」とは相いれないものだからねえ。簡単に言うと、目は必ず「距離」を必要とする。目を対象にくっつけるとき、何も見えない。対象を見るには目と対象の間に「距離」がないといけない。接続していてはいけない。
 離れること、自己(目)と対象を話さないことには、対象は「像」を結ばないのが「肉体」と「対象」の関係である。--この「基本的なあり方」を福田は、わざとねじまげ、そこでことばがどれだけ動くか、不思議な力業を試みていることになる。
 どうなるのかなあ。

 福田も、まだ、福田自身の「決着」をつけていないのかもしれない。詩の最後の方は、最初の方とはまったく違ったことばの動きがある。読点「、」が頻繁に出てくる。

巨大な眼球の闇そこを通って遥か遠くに見えてくるのは斜面に見え隠れする黒白の語たち灌木の葉や草を食みながら常に移動し続けている、皮膚の凹凸を水のないたくさんの川筋が走り様々な文字を刻んでいる、どこまでが自分の体なのかはっきりわからない、文字たちが皮膚を傷つけながら這うその痛みで時折り体の所在と限界がはっきりするがその感覚も程なく消えてしまう、

 視覚から触覚への主体の変化がある。視覚の結ぶ「像」とは別に、触覚が結ぶ「像」がある。それが福田の「肉体」のなかでは融合しない。そして、その融合を拒否しているのが「文字」である。(書き出しの部分には「複雑な画数」という表現があったが、それも「文字」そのものを別なことばで言い換えたものだ。)
 ことばは、福田にとっては、「文字」(視覚表現)なんだなあ。
 だから、句読点を省き(もっぱら省かれている、拒絶されているのは「句点」であり、「読点」は書かれているが)、そのことによって「ことば」の「肉体」の連続性を仮装するのだともいえる。
 (あ、なんだか、私の書いていることはわかりにくいね。)
 視覚は距離がないと成立しない感覚である。視覚は必然的に私と対象を「切断」する。そしてその「切断」のかわりに「像」を「肉体」の内部にとりこむ。「像」が「連続」を仮装する。その「像」を福田は「文字」(ことば)によって確立する。さらに、「像」が必然的に内包する「距離(切断)」を、「その」によって強引に結びつける。
 どう言っていいか私にもわからないのだが(だから書くのだが)、福田のことばには、そういう切断と接続の強引な「かけひき」(やりとり)がある。そのなかで、福田は「どこまでが自分の体なのかはっきりわからない」というようなところまで動いてきた。
 で、そのとき、なのか、そのあと、ということになるのかわからないが。
 そのとき、福田は視覚(眼球)から触覚(皮膚)へと、読点「、」の切断をはさみながら動いてしまう。
 このときというか、この瞬間が、私にはおもしろい。いろいろ期待してしまう。考えてしまう。
 福田は「触覚」を発見しつつあるのかな?
 触覚を起点にして、いま書いてきたことばを動かし直すとき、「その」による接続(連続)はどう変わるのか。それは視覚にどう影響し、それは「文字(ことば)」にどう影響するのか。
 その変化を読みたいなあ、と思ったのである。


言語の子供たち―福田拓也詩集
福田 拓也
七月堂
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和合亮一「詩の礫2011.3.1-4.9 」(11)

2011-05-14 23:59:59 | 詩の礫
和合亮一「詩の礫2011.3.1-4.9 」(11)(「現代詩手帖」2011年05月号)

翌朝5時に、水をもらうために並んだ。すでに長蛇の列だった。1時間ぐらい経って、みぞれが降ってきた。男の子がお父さんに笑い顔で言った。「お父さんよりも僕の方が先だったね、起きたの。」その可愛らしい顔を見て、私は思った。おばあちゃん、水、大丈夫かなあ。
                                (39ページ) 

 「聞こえる」というのは不思議なことである。

放射能が降っています。静かな静かな夜です。

 と和合が書いたとき、「聞こえる」ことのやすらぎをどんなふうに意識していたのかわからないが、こうやって「聞いてしまった声」に出会うと、やはり「聞く・聞こえる」というのはとても重要なことなのだと思う。
 ここで和合が聞いていることば「お父さんよりも僕の方が先だったね、起きたの。」には、「意味」がない。そのこどもの声は、なぜ震災か起きたのか、震災が何を教えようとしているのかという「答え」とはまったく関係かない。また、和合たちが水を求めて並んでいることとも無関係である。つまり、あと何十分したら水が手に入るとか、あるいは水はひとりペットボトル3本分だとか--そういう「情報」をまったく含んでいない。何の「目的」ともつながらない。「無意味」である。
 そして、その「無意味」が人間を人間に戻してくれる。
 人間がどんな具合に生きているかを「教えてくれる」。震災は何を教えたいのかわからない。けれど、和合が聞いたこどものことばは「教えてくれる」。可愛らしさを。無邪気なよろこびを。お父さんといっしょに寝て、いっしょに起きる。いつもならお父さんが「起きろよ」とこどもに言うのかもしれない。けれど、その日はこどもの方が先に目を覚ました。そして、そのことがこどもにはとてうれしいできごとだったのだ。震災のなかでも、そういう「暮らし」があるのだ。「暮らし」のなかには、「声」が響きあって、その「声」を私たちは聞きあうのだ。
 そこで「聞きあう声」、その「無意味な声」(意味を必要としない声)こそが、私は「思想」だと思う。「肉体」だと思う。こういう「声」を聞きあうために、私たちは生きているのだと思う。「思想」とか「哲学」とか、いろいろなことば(声)があるが、そのことば、その声が、こどもの何気ないことば(声)の美しさ、よろこびをきちんと把握できなければ、そんなものは何にもならない。どんな「思想」「哲学」のことばよりも、和合がここで書いている「可愛らしい」にまさることばはない。
 和合は「可愛らしい顔」と書いているだが、あ、このすばやいことばの「わたり」もいいなあ。「声」(ことば)を聞いて、そのことばを「可愛い」と思う。それがそのまま「目」に伝染(?)するのだ。「耳」が可愛いと感じたことが「目」につたわり、その「目の」なかでこどもは「可愛らしい笑顔」になるのだ。「声(ことば)」を聞かなくても、こどもは可愛らしい笑顔だったかもしれないが、聞いたからこそ、「可愛らしい」が増加するのだ。
 そして、その耳→目と「肉体」を動いたことばは、自然に、和合の「肉体」の「思想」そのものを揺さぶる。きのう会ったおばあちゃん。おばあちゃんは、こどものような可愛らしい笑顔をしていたわけではないと思うのだが、こどもの可愛らしい笑顔をみて、和合はおばあちゃんを思い出す。おばあちゃんは、とてもつつましやかだった。気配りをする和合に遠慮して、家まで送ろうといえば「家は近いんだ」と答えていた。そこには和合には迷惑をかけたくないという思いがある。あ、そういう「遠慮」ではなく、いまこどもが発したような無邪気なよろこび--そういうものをおばあちゃんの「声」をとおして聞きたいなあ。そういう「声」とつながりたいなあ、そういう気持ちが和合の「肉体」のなか動いているのを感じる。

 他人の(見知らぬひとの)、「暮らしの声」を聞いて、和合はやっと自分の中から響いてくる「肉体」そのものの「声」を聞き取る。それを聞こえるままに言ってみるようになる。

シンサイ6ニチメ。ウマイコーヒーガ、ノミタイ。ノンデナイ。ノメルミコミハ、ナイ。
                                 (39ページ)

 「暮らし」が、震災後なかったわけではないだろうけれど、それは「ことば」にならなかった。「声」にならなかった。「声」は単純には出てこないのだ。ほんとうに言いたいことは、なかなか姿をあらわさないのだ。そういう「声」が動きだすまでには、時間がかかる。そして、時間だけではなく、他人と出会うこと、他人の「声」を「聞く」ということが必要なのだ。
 ことばは他人と触れ合って動いているのだ。生きていくのだ。そして、生きていくとき、ことばは「目的」だけをめざしているわけではないのだ。
 いつでも「他人」の揺さぶりに揺さぶられながら、揺さぶられることで「肉体」を思い出し、「肉体」に還り、あらためて動きはじめるのだ。

続々と避難していきます。避難所にいたから分かりますが、そちらも大変です。頑張りましょう。
                                 (40ページ)

 だれにかけたことばかわからないが、たぶん、ツィッターのだれかのことばに反応してのことなのだろう。静かな、おだやかな「対話」である。「コーヒーガ、ノミタイ」と自分の「声」を正直に出すことによって、その声をだれかが聞き止めることによって、ことばが和合ひとりで支えなくてもいいものになった--という不思議な安定感がある。何でもないことばなのだけれど、その何でもないことばになるまでが、ほんとうに大変なのだと思う。「ありがとうございました」「南相馬市を救ってください」「腹が立つ」というふうに動いてきたことばが「頑張りましょうよ」と静かに手をとりあっている。
 この「つながり」のなかで、「頑張り」と同時に「哀しみ」も手をとりあう。

避難所で二十代の若い青年が、画面を睨みつけて、泣きながら言いました。「南相馬市を見捨てないで下さい」。あなたの故郷はどんな表情をしていますか。私たちの故郷は、あまりにもゆがんだ泣き顔です。
                                 (40ページ)

 こらえてもこらえても、こらえきれないものが涙である。そして、その涙が実際にながれままでには、その「こらえてもこらえても」という不思議な時間がある。不思議な「肉体」がある。
 信じられないことがおき、ことばにならない苦しみがあり、ことばにならないから涙も流れないのだが、それが、触れ合って、「肉体」があることを確かめあって、こらえてもこらえてもこらえきれないまでになる。

 何ができるだろう。私に何ができるだろう。いまは、ただ、私は和合のことばを読んで、それを受け止めたいと思っている、としか言うことができない。



にほんごの話
谷川俊太郎,和合亮一
青土社
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ロバート・アルドリッチ監督「ロンゲスト・ヤード」(★★★+★)

2011-05-14 19:00:26 | 午前十時の映画祭
監督 ロバート・アルドリッチ 出演 バート・レイノルズ、エディ・アルバート、エド・ローター、マイケル・コンラッド

 公開当時、とてもおもしろかった、という記憶がある。そのときの「興奮」をもう一度味わいたいと思ったのだが。うーん。時代とともに映像がこんなに変化するものなのか。出だしのカーチェイス。本物の車が、本気で走っている。いまはCGで処理するところを実際に車が走るから、スピードが速いようで遅い。その分、妙な温かさがあるねえ。「手作り」の味があるねえ。
 フットボール(アメリカンフットボール)の試合にもそれがつながる。肉体と肉体がぶつかる感じが、シャープではない。その当時はその当時で、激しい映像をもくろんでいたのだと思うし、実際激しさも感じたかもしれないが、(実際、当時は、その激しさに驚いたはずなのだが)、いまの映像と比較すると、何かのんびりしている。映像の動きをみせるというより、肉体の動きをみせるという感じ。あくまで肉体をみせるという感じ。映画の冒頭の、付録のような、バート・レイノルズの、セックスシンボル時代の裸。まず肉体、むき身の肉体が「主役」で、動きが「脇役」。動きは、肉体を感じさせるための方法だ。
肉体が主役か、動きが主役か。これは、似ているようで、違うなあ。――アクションのなかでは、それが統合されているはずだけれど、実は完璧に統合されているということはない。肉体はを見るとき、観客の視線が動く。動きをみるとき、観客の視線は止まっていて、止まった視界の中で映像が動くのだ。
止まった視線のなかで動く映像――それは、動きそのものとして純粋化できる。シャープさ、激しさは映像でどれだけでも過激にできる。いまのCGを思えばいい。けれど肉体は、肉体そのものの存在はかえられない。肉体がぶつかる痛さ、苦しさは、CGの激しい映像では痛さ、苦しさになるひまがない。観客が役者の肉体の細部の動きを追いながら、痛み、苦しみを感じている余裕がない。だから笑う余裕もない。でも、動きがもったり(?)していると、痛み、苦しさが感じられるから、おかしいね。看守チームのディフェンスの要が睾丸を狙い撃ちされ、息ができなくなる。そのふらふら感。それから、「人工呼吸しろよ」「お前がやれよ」なんていう反応、笑っちゃいけないけど、笑っちゃうよねえ。観客だけでなく、演じている役者が、やはりそこにいる役者の肉体を見ている。肉体を感じている。肉体を感じるから「人工呼吸? やだよ。じょうだんじゃないよ」になるんだよねえ。
こういうばかげた(?)肉体の実感(共感)があるから、肉体がぶつかりながら展開するゲームで、肉体をぶつけあったものだけが、敵・味方をこえてつながる。敵・味方を超えて友情に到達することができる。あ、このスポーツマンシップ(?)は美しいじゃないか、と・・・監督の思うがまま。
このメルヘンは、はやりのCGではだめだね。「肉体」を実感できる味わいがない。
こういうメルヘンがロバート・アルドリッチ監督は得意だね。「北の帝王」もおもしろかったなあ。集団ではないだけに、「北の帝王」の方が、メルヘン+ロマンチックという感じがして楽しいはずだ。「北の帝王」が再上映されることはないのかな? もう一度みたいなあ。

             (「午前10時の映画祭」青シリーズ15本目、天神東宝4、05月14日)


ロンゲスト・ヤード スペシャル・コレクターズ・エディション [DVD]
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伊藤浩子「夕焼け」

2011-05-14 09:22:34 | 詩(雑誌・同人誌)
伊藤浩子「夕焼け」(「hotel 第2章」27、2011年04月20日発行)

 伊藤浩子「夕焼け」は誰かと別れたあとの「肉体」のぼんやりとした空白を描いているように感じられる。誰かがいなくなっても、その記憶は残る。その記憶と向き合う「肉体」の感じがおもしろい。

ゆうべのきっちんに 
死体がころがっている
まだやさしげな

名前はありません
ふたりは呼びあうこともなく静かに
くらしていたのですから

さっき運んできたのです
ここにはいくつもの
はだかの死体があがっているのが見えて

 私は、「誰かと別れたあと」(誰かがいなくなっても)と書いたが、それはもしかすると「私(伊藤)」自身かもしれない。
 「私」が「私」殺す--捨てる。いままでとは違った「私」になって、けれども、「死んだ私」を引きずって、家に帰ってきた、ということかもしれない。
 どちらでもいいと思うのだが(と書くといいかげんだが、まあ、詩だからいいかげんでいいと私は思っている)、その過去の誰か(過去の私)を「死体」と突き放しながら、一方で「まだやさしげ」と呼ぶ矛盾(?)した感覚が、不思議になつかしい感じがする。それは1行目の「ゆうべのきっちんに」のひらがなの感じ--音だけがぼんやりと存在し、明確な形、「私」に厳しい「日常」とならない感じとも通い合う。
 「はだかの死体」の「はだか」という表記も、意味ではなく、「音」のひろがりの方へことばが動いていくようでおもしろい。何かが、ときほぐされ、ほどけていく感じがする。夕暮れ、ものの形がくずれ、それぞれが色に帰っていくような感じである。

空は
腫れもののようにふくらんで
(はじめて自慰をおぼえた
(そのおぼえたての指先をさがしている

 あ、ここはいいなあ。
 「自慰」というのは女性の場合、どうなのだろう。確実にエクスタシーにたどりつけるものなのだろうか。エクスタシーは何によって証明(?)されるのだろうか。男の場合は、射精という「外形的な事実」があるのだけれど……。想像でしか言えないけれど、「確実」なのはエクスタシーではなく、「指先」の方なのかもしれない。その、エクスタシーではなく、エクスタシーのための方法(?)としての指先を「さがす」ということへことばが動いていくのが、私には、なんともおもしろく感じられる。クリトリスではなく、クリトリスに触る「指先」を「さがす」というときの果てしなさというか、わかっているはずのもの、わからないと言い切ることばの動き--精神の運動がおもしろい。

 何か、この不思議なことばの動き--肉体と官能の動きと、先に見てきた「死体」「やさしげ」「はだか」の結びつきが、静かな「音楽」のように感じられるのである。



名まえのない歌 (現代詩の新鋭)
伊藤 浩子
土曜美術社出版販売
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和合亮一「詩の礫2011.3.1-4.9 」(10)

2011-05-13 23:59:59 | 詩の礫
和合亮一「詩の礫2011.3.1-4.9 」(10)(「現代詩手帖」2011年05月号) 

どんな理由があって命は生まれ、死にに行くのか。何の権利があって、誕生と死滅はあるのか。破壊と再生はもたらされるのか。

行方不明者は「行方不明者届け」が届けられて行方不明者になる。届けられず、行方不明者になれない行方不明者は行方不明者ではないのか。
                                 (39ページ)

 わからないこと、理不尽なこと--それを和合はていねいにことばにしている。ことばにすることで、わからないことや理不尽なことは解決するわけではないのだが、そのときそのとき、感じたことをことばにしないではいられない。
 「行方不明者」のことばのなかに「なる」ということばが出てくる。
 「行方不明者」にひとはなりたくてなるわけではないのだが、この「なる」ということばに、私は、不思議な感じがした。どう書けばいいのかわからない何かを感じた。あっ、と思った。
 「なる」というのは、変化である。
 人間は生きているとき「ある」と「なる」を行き来する。「いる」と「なる」を行き来すると言った方がいいのかもしれない。
 いま、和合は、「ここ」に「いる」。そして、ことばを「書く」。そのとき和合は「いる」を超えて、ことばを書くひとに「なる」。
 詩を書いているのだから「詩人」に「なる」と言うべきか。
 この「なる」は「行方不明者」ということばを主語にするととても悲しくてやりきれないが、ほかのことばを主語にすると、生きることに、すこし明るさが見えてくるような気がする。
 きのう書いたことばを別の形で言いなおすと、ひとは大震災に遭って哀しく「なる」、そしていま起きたことに対して怒りを感じるように「なる」(怒るように「なる」)、その怒りをうまく組織化すれば、それは力に「なる」。
 「なる」は、いや、そんな抽象的なことではないというか、もっと身近なことでもあるのだ。「なる」とは「自分」が自分でなく「なる」ということ。自分を超えること。そして、その自分を超えることというのは、同時に自分の深みを降りていくこと--ほんとうの自分に「なる」ということでもある。
 自分でなくなりながら、自分でなくなることによって、自分に「なる」。
 そういうことを、私は、ふと感じた。
 「なる」ということばをつかったあと(発見したあと)、和合が書いていることは、そして、和合が和合ではなくなり、そうすることでほんとうの和合に「なる」ということである。

スーパーに3時間並んだ。入れてもらって、みんなと奪い合うようにして品物を獲った。おばあちゃんが、勢いにのれずにしゃがみこんだ。糖尿病でめまいがしたと言った。のりまきと、白米と、ヨーグルトを取ってあげた。

 スーパーに並んでいるとき和合は和合のままで「ある」。みんなと品物を奪い合ったときも和合のままで「ある」。ところが、和合は和合のままで「ある」ことができない。自分のために品物を「獲る」ということだけに自分を集中できない。おばあちゃんに出会う。おばあちゃんはうまく品物を手に入れることができない。それを知った瞬間、和合は和合で「ある」ことをやめて、おばあちゃんのために品物を「取ってあげる」人間に「なる」。
 和合は最初からひとに気配りをする人間で「ある」。突然親切な人間に「なった」わけててはない--というひとがいると思う。たしかにそうなのだろうが、そうであったとしても、そこには変化がある。「なる」という変化がある。おばあちゃんに出会い、和合はひとに親切な人間に戻るのである。
 他人、他者は、ひとを本来のひとに戻してくれる力を持っている。和合はおばあちゃんに出会って、本来の自分に「なる」。「戻る」とはほんとうの自分に「なる」ということなのだ。
 これにつづくことば、そこに描かれいる和合の自画像は、とても静かで気持ちがいい。

放射能が降っています。静かな夜です。

 最初の方に、和合は「静か」ということばを、そういう文脈でつかっていた。私は、ふとそのことを思い出す。私が和合のことばと行為を突然「静か」だと感じたのだが、そのときの「静か」と和合が「静かな夜です」と書いたときのことばはどこかで重なるかもしれないと感じた。「静か」のなかで、沈黙のなかで、和合は多くのひとに出会っているのではないのか。多くのひとの「声にならない声」に身を寄せて、やさしい、親切な人間に「なって」いたのではないのか。
 詩は、次のようにつづいていくのだ。

おばあちゃんに尋ねた。「ご家族の方をお呼びしますか」。おばあちゃんは一人暮らしなんだ」と教えてくれた。家まで送りましょうか。「家は近いんだ」

翌朝5時に、水をもらうために並んだ。すでに長蛇の列だった。1時間ぐらい経って、みぞれが降ってきた。男の子がお父さんに笑い顔で言った。「お父さんよりも僕の方が先だったね、起きたの」。その可愛らしい顔を見て、私は思った。おばあちゃん、水、大丈夫かな。

 「私は思った」。誰でもが何かを思うのだけれど、この和合の書いている「思った」はなんと美しいのだろう。
 他者、他人を思う--そのとき、和合はほんとうの和合に「なる」。ほんとうの和合に戻ることができる。他者につながる--そのとき、ほんとうの和合に「なる」。
 そこに、ほんとうに不思議な不思議な「静かさ」がある。
 この「静か」な感じは、和合が最初に書いていた「ありがとうございました」にほんとうに似ている。私が、多くのひとの「ありがとう」のことばにふれて驚いたときの印象に似ている。
 和合をはじめ大震災の被災者が「ありがとう」というとき、和合たちはだれかとつながっている。だれかを思っている。その思いが「ありがとう」に含まれているのだと感じた。その「静かな」つながりを思うとき、胸が震える。

 そして、ここにある「会話」と、それ以前の、

この震災は何を私たちに教えたいのか。

 を比較すると、和合の「肉体」のつながりの「静かさ」が、またとても深いものに見えて着る。震災は何も語らない、何を教えたいのか語らない。そういう不気味な「静かさ」、肉体を不安にする静けさ(耳が聞こえない、という不安、震災が語ることばが聞こえないという恐ろしい静けさ)とは違った「触れ合い」のたしかさを感じる。
 見知らぬおばあちゃんを、「静かに」思いやり、ことばを交わすことができるやすらぎ。「不安」が解消するわけではないのだが、そこには、ことばが「聞こえる」やすらぎがある。



現代詩手帖 2011年 05月号 [雑誌]
クリエーター情報なし
思潮社
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成島出監督「八日目の蝉」(★★★★★)

2011-05-13 11:00:33 | 映画
監督 成島出 出演 井上真央、永作博美

 永作博美を私はそれほど多く見ていない。「腑抜けども、悲しみの愛を見せろ」で気弱な「嫁」を演じていたのを思い出すくらいである。しかし、感動したなあ。こんなにうまい役者とは思わなかった。
 主人公は、永作博美に誘拐された井上真央なのだが、永作博美が逮捕されたあとも、いつ永作博美が出てくるか、いつ永作博美が出てくるか、いつ永作博美が出てくるか、いつ永作博美が出てくるか--それがとても気になった。待ち遠しくてしようがなかった。
 乳児を誘拐し、自分のこどもとして4年間育てるという、いわば「悪女」なのだが、悪人という感じがない。かといって、善人というわけでもない。そんなことをするつもりはなかったのに、ふと、してしまった。自首して、こどもを返せば、まあ、いいのかもしれないが、いったん抱いてしまうとその子が好きになってしまう。自分のこどもに思えてしまう。--背景には、愛人のこどもを妊娠し、堕胎を迫られ、その後妊娠できない体になってしまった、という事情もあるのだけれど、そのことが「悲惨さ」につながらない。特殊な「不幸」とは無関係に、乳児と女という普遍的な関係にすーっと入って行ってしまう。特殊なことなのに、それを普遍にしてしまうというのは、理性的に(?)考えれば変は変なのだが、変と感じさせない。
 こどもを育てたことがないので、ミルクをやるにもミルクの温度がわからない。量がわからない。おっぱいをやろうにも、もちろん母乳も出ない--という「どたばた」になりかねない状態からスタートするのだが、その場の「困った」に集中する力がすばらしいので、「誘拐犯」であることを見ていて忘れてしまう。永作博美の「困った」という瞬間に引きずり込まれ、思わず、哺乳瓶はこうもって、とか、ほらほらおなかがすいてるんじゃなくて襁褓が濡れて泣いてるんだろう、と手助けしたいような気持ちになってしまうのである。
 カルトまがいの「エンジェル」集団に逃げ込み、そこで保護(?)されながら暮らすときも、そこしか居場所がないという「困った」に真剣に取り組んでしまう。これからどうすればいいのか--というような目標(?)はない。ただ、大好きなこどもといっしょにいる。いっしょにいることで母に「なる」。その「なる」ことに夢中なのである。
 永作博美に演技計画があったのかなかったのか。また、成島出監督に演出計画があったのかなかったのか。よくわからないが、その瞬間、瞬間、母に「なる」のである。そして、同じように、状況が変わった瞬間、突然「誘拐犯」、いや、「逃走犯」になるのである。
 あ、そうなのだ。永作博美は「誘拐犯」ではなく「逃走犯」なのだ。母であるためにただ逃げているだけなのだ。逃げる、に目的地はない。目的地はなく、ただ追いかけてくるものから逃げるというその「行為」だけがある。その「瞬間」だけがある。こどもとの暮らしも同じである。目的地はない。そのこどもをどういう人間に育てたい、このこにこんなふうになってもらいたい、という目的、夢はない。ただ一日でも長くいっしょにいたい、いっしょに「いる」、そしていっしょにいるときははに「なる」。そういう瞬間だけを生きている。
 永作博美が生きているのは「瞬間」だけであるから、それを持続した時間のなかでとらえて(持続した時間が抱え込む法や倫理をあてはめて)批判しても意味がない。永作博美の行為を「矛盾」していると指摘しても意味がない。「瞬間」には矛盾は存在しない。その、矛盾しない瞬間の美しさを永作博美は完璧に演じきっている。
 だから、最後。
 井上真央が、記念写真をとった写真館を見つけ出し、昔の写真をみつめ、永作博美が同じようにこの写真館を尋ねてきたと知ったとき--あ、それは映像ではなく、ことばだけで(つまり台詞だけで)語られるのだが、私には、永作博美が田中泯がネガを現像するのを見ている姿が見えたのである。現像液のなかからあらわれる「美しい日」をみつめ、「美しい瞬間」に胸をつまらせる姿が見えたのである。それはスクリーンでは、井上真央が演じているのだが、その井上真央が永作博美そのものに見えたのである。
 そして、その永作博美と井上真央の哀しいくらいに美しい「一体化」があって、ラストシーンの解放感につながっていく。井上真央は永作博美を生きることを、こころにきめる。生まれてくるこどものために、何でもする。生まれてくるこどもに、この世界のすばらしさをすべて見せてやりたいと、心底思う。それはまた、井上真央自身が、この世の中の美しさ、すばらしさをすべて見たいと思い、新しく生きはじめる瞬間でもある。

 人間の再生を描いた傑作である。書きたいことは、まだいろいろあるが、私の書く文章はどうしても「ネタバレ」になるので、ちょっと控えることにする。ともかく、見てください。間違いなく2011年の日本映画の代表作。ベスト1。永作博美は主演女優賞。見逃してはいけません。
腑抜けども、悲しみの愛を見せろ [DVD]
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アミューズソフトエンタテインメント

八日目の蝉 (中公文庫)
角田 光代
中央公論新社
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和合亮一「詩の礫2011.3.1-4.9 」(9)

2011-05-12 23:59:59 | 詩の礫
和合亮一「詩の礫2011.3.1-4.9 」(9)(「現代詩手帖」2011年05月号) 

気に入らなかったのかい? けっ、俺あ、どこまでもてめえをむちゃくちゃにしてやるぞ。

絶対安全神話はやはり、絶対ではありませんでした。大熊、広野、浪江、小高、原町。野、町、海。夜の6号線から見えた、発電所の明かり。
                                 (39ページ)

 和合の激しい怒りは「天体の精神力」に対する怒りである--と、私は、最初はそう思った。けれど、怒りというのは、そういう「抽象的」な存在に対して向けつづけるのはなかなかむずかしい。
 だから、その矛先(?)を和合は、「安全神話=原発」に向ける。
 その瞬間、少し、不思議なことが起きる。
 和合の意識が「天体の精神力」から原発に向かった瞬間、その原発とともに、なつかしい町、和合にとって親しんできた町がいっしょに浮かび上がってくるのだ。
 怒りは、そして、そのとき、和合の個人のものから、そこに書かれている町全てのものになる。
 同時に、怒りは、怒りでありながら、少し静まる。怒りは、少しなだめられる。あ、こんな言い方はよくないのかもしれないが、怒りは和合の知っている町によって吸収され、少し違ったものになる。町名を書いたとたんに、その町がいとおしくなり、「天体の精神力」のことを一瞬忘れる。
 怒りよりも、いとおしさの方が強いのだ。怒りよりも哀しみの方が強いのだ。怒りたい。怒りたくてしようがない。でも、そのこころは、なつかしい町を思うと、急に哀しくなる。
 ああ、あの町はどこへ行ってしまったのか。
 激しい怒りのあと、和合のことばはいったん静まる。
 思い出している。和合にとって親しみのある町を。それは、いま見ているのではなく、記憶の町だ。そして、いくつかの町名をことばが横切るとき、その名前のそこから「野、町、海」という名前以前のものが浮かび上がる。
 固有名詞以前のものが浮かび上がる。それぞれにつけられた町の名前、そしてその前にあった固有名詞以前の「自然」。「自然」と向き合いながら、少しずつつくりあげてきた町。その歴史が名前のなかにある。その名前をつけたひとびとの暮らしがある。
 和合は、町を思い出しながら、ひとびとの暮らしと歴史を、つまり「時間」を行き来しているのだ。往復しているのだ。
 そして、とても悲しいことに、その「時間」のなかには、当然原発も入ってくるのだ。

夜の6号線から見えた、発電所の明かり。

 「見えた」ということばが「過去」であること、「歴史」であることを語っている。かつて、その明かりは輝かしく見えたかもしれない。頼もしく見えたことがあったかもしれない。そんな記憶をも往復しながら、和合のことばは動いている。

父と母に避難を申し出ましたが、両親は故郷を離れたくないと言いました。おまえたちだけで行け、と。私は両親を選びます。

家族は先に避難しました。子どもから電話がありました。父として、決断しなくては鳴りません。

 和合の両親が故郷を離れたくない(避難したくない)のは、故郷が「歴史」だからである。両親の「時間」だからである。そこには、両親自身の「時間」を超える「時間」が、「歴史」がある。野や海が町にかわってきた「歴史」。野や海を町に変えてきた両親の、さらに両親の、そのまた両親の「時間」がある。ひとは、「歴史」を手放しては生きていけない。「歴史」を手放すことは、たぶんこころを手放すことなのだ。
 「天体の精神力」、あるいは原子力(放射能)の「力」(破壊力)と向き合うとき、こころは何もできない。防御の方法がない。方法がないのだけれど、ひとはこころを手放すことができない。
 「天体の精神力」に怒りながらも、破壊された町、取り残された町をみると、その瞬間から、いとおしさや哀しみがこみあげてきてしまう。怒りを突き破って、哀しみが溢れてしまうのだ。

ところで腹が立つ。ものすごく、腹が立つ。

 これは、和合自身のこころに対する「怒り」かもしれない。もっと怒らなければならないのに、怒り方がわからないのだ。「天体の精神力」や「原発」に対して、どうやって怒ればいいのかわからない。ことばの動かしようがない。
 だから、ことばは、とても内省的(?)になる。ことばは、ことばの中で「論理」を動かして行く。

どんな理由があって命は生まれ、死にに行くのか。何の権利があって、誕生と死滅はあるのか。破壊と再生はもたらされるのか。

 同じような、論理そのものを追究することばは、最初の方にもあった。

ものみな全ての事象における意味などは、それらの事後に生ずるものなのでしょう。ならば「事後」そのものの意味とは、何か。そこに意味はあるか。

 和合のことば、和合の怒りは、そういう論理を潜り抜けながら、少しずつ「精神力」になっていくのかもしれない。和合は、そういうことばを通りながら「精神力」を高めようとしているのかもしれない。
 「事実」を書き、その「事実」とともにある「こころ」を書き、追いつくことのできない「天体の精神力」に怒り、追いつけないことばを哀しみ、哀しみの中で同じ暮らしを生きている人間に触れ、その人々の哀しみと怒りをともに生きて、そこからもう一度、和合自身のことばの「論理」の力を試してみる。ことばを「論理的」に動かすことで、何かをつかもうとしている。
 「答え」のためではなく、「答える」ためのことばの運動--その力を求め、和合のことばは動くのだ。

気に入らなかったのかい? けっ、俺あ、どこまでもてめえをむちゃくちゃにしてやるぞ。

ところで腹が立つ。ものすごく、腹が立つ。

 それは、たしかにそうなのだが、そのことばだけでは戦えない。怒りだけでは戦えない--そのことに和合は苦悩している。「精神力」は苦悩している。
 どうすることもできない破壊、そして死にふれて、和合のこころは哀しみ、その哀しみを怒りにかえ、そしてその怒りを、いま「力」にかえることを考えている。

 そして、私は、唐突に思い出すのだが、和合は最初のことばを「ありがとうございました」とはじめていたが、この「感謝」のことばは、「力」のための「連帯」の形だったのかもしれない。哀しみを怒りに、怒りを力にかえるためには、一人ではできない。だれかいっしょに手をとりあわなければならない。その「手」のつなぎあい、連帯を感じて、和合は「ありがとう」と言ったのかもしれない。
 多くの被災者も連携こそが「力」であることを知っていて、「ありがとう」と言ったのだろう。被災者の「ありがとう」にこころが震えてしまうのは、あ、私もその連携にくわわることができるかもしれない、何かできるかもしれないと、自分の力に気がつく--自分の何かをめざめさせられるからかもしれない。

 私に、では、何ができるのか。
 いまできるのは、ただ、和合のことばをどう読んだか、を書くことだけである。だから、書きたい。書かずにはいられない。




After
和合 亮一
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ダーレン・アロノフスキー監督「ブラック・スワン」(★★★★★)

2011-05-12 09:12:00 | 映画
監督 ダーレン・アロノフスキー 出演 ナタリー・ポートマン、ヴァンサン・カッセル、ミラ・クニス、ウィノナ・ライダー

 人間にはだれでも二面性がある--ということを、ことばで言ってしまうのは簡単である。たとえばこの映画の重要なテーマとなっている「白鳥の湖」には純粋な白鳥と妖艶な黒鳥が登場するが、それはひとりの人間の両面である。だからそれを別々の人間が演じるのではなくひとりで演じる、ひとりで人間の両面性を具現化する、という課題はことばでは簡単である。ことばは「矛盾」を平気で結びつけることができるのである。ところが「肉体」は「矛盾」を内部に抱え込むことはできるが、それをくっきりとみえるようにすることはできない。できるひともいるにはいるが、ことばほど簡単にはいかない。
 これは「矛盾」だけではなく、あらゆることがらについていえる。簡単な例をあげると、人間は 100メートルを10秒で走ることができるとはだれでも言える。けれど、実際にそれを肉体で表現できるひとはかぎられている。ことばを動かし、ことばのなかで世界を実現することと、肉体を動かし肉体を世界のなかで実現することは別個の問題なのである。そして、めんどうくさいことに、ことばで書いてしまうと、こういうことはだれにでもわかるということである。人間にはだれにでも二面性がある--ということばが、だれにもわからないことばなら問題がない。だれにでもわかる。そのわかることを、しかし、人間は肉体では表現できない。ね、めんどうくさいでしょ。
 そのめんどうくさいことのために苦しむという役をナタリー・ポートマンが演じきっている。清純な白鳥向きのバレーダンサーであるという一面、そしていま白鳥と同時に妖艶な黒鳥を演じるというのではなく、その妖艶さがうまく表現できないという苦悩を演じきっている。「なりきれない」という中途半端な、つまり頭ではわかっているが、肉体ではそれが表現できないというめんどうくさいことを演じきっている。
 何がナタリー・ポートマンを邪魔しているのか。映画は、それを探る形でナタリー・ポートマンの「肉体」の内部へ侵入していくのだが、うーん、おもしろいですねえ。ナタリー・ポートマンは純粋な白鳥むきというのが「表向き」の姿だが、実際は純粋・無垢というわけではない。アトピーに苦しみ、無意識のうちに肌をひっかき傷つけるという癖をもっている。「白鳥」の外観にはふさわしくない肌をもっている。それをいっそう悪化させる癖をもっている。それを隠している。
 この隠しているという「意識」がいくつもの「幻覚」を引き起こす。たとえば、爪の間に入った皮膚、血の滲んだ爪、そして食い込んだ血の汚れをとろうとすると皮膚が破れる--というのは、どこまでが現実で、どこからが幻想かわからない。
 この幻覚に「鏡」がからんでくる。爪の間に食い込んだ皮膚を引き出すシーンも鏡のあるトイレでおきる。踊っている途中に背中が痒くなる。そうすると、鏡のなかでは肉体の内部にいる無意識のナタリー・ポートマンが背中を掻きむしる。それが現実のナタリー・ポートマンに見える、という具合である。
 鏡は、現実の鏡のほかに、ミラ・クニス、ウィノナ・ライダーというダンサーとしても登場する。彼女たちはナタリー・ポートマンとは別個の肉体をもった人間であるが、その肉体の中にナタリー・ポートマンの隠された肉体が動くのである。ミラ・クニスとのセックスシーンは、ナタリー・ポートマンの欲望が解き放たれた姿としてわかりやすいものだが、ウィノナ・ライダー相手にも、そういうことがおきるのである。ナタリー・ポートマンはウィノナ・ライダーのつかっていた化粧品、化粧のための道具を盗み、つかう。つかうことで、外見をウィノナ・ライダーに近づけるのである。ミラ・クニスが肉体の内部(本能)の鏡であるなら、ウィノナ・ライダーは肉体の外部(顔)の鏡である。(だから、最後の方で、ウィノナ・ライダーが顔を爪やすりで傷つけるという幻想が出てくる。)
 隠されていたものが、しだいに「具体的」になってくる。「鏡」としての「肉体」から、ナマの「肉体」が動きだしてくる。ミラ・クニス、ウィノナ・ライダーはナタリー・ポートマンの「内面」を映し出すだけではなく、ナタリー・ポートマンの「肉体」そのものとなるのである。ナタリー・ポートマンは、ときにミラ・クニスとなり、ときにウィノナ・ライダーになって動く。そして、その動きを、ナタリー・ポートマンは本物の鏡のなかにみる。鏡のなかには、ナタリー・ポートマンではなく、欲望をむき出しにしたミラ・ニクスがいて、また絶望したウィノナ・ライダーがいる。後半のクライマックスの、黒鳥ミラ・ニクスと白鳥ナタリー・ポートマンの衝突が「鏡」とナタリー・ポートマンが向き合う形でおきるのは、それが黒鳥もナタリー・ポートマンだからである。また、その黒鳥を傷つけるとき、ナタリー・ポートマンは爪やすりで顔を傷つけたウィノナ・ライダーにもなるのである。
 結局、ナタリー・ポートマンは「自分の内部」ではなく、「鏡」(自分を映し出すもの)によってしばられていたことになる。その最強の「鏡」が母親ということになる。ちょっとめんどうくさくて、これまで書いてこなかったが……。最後に、客席の母親がアップになる--ナタリー・ポートマンが母親を見つけ出すのは、母こそがナタリー・ポートマンをとじこめていた「鏡」であることを象徴である。
 母によって、かわいい、清純な女性(少女?)でありつづけることを要求され、母親の夢のために、その姿にあわせるように自分を律してきたナタリー・ポートマン。その鏡を破り、ほんとうの「人間」、ほんもののダンサーになるためには、死しかない。「白鳥」は王子を黒鳥に奪われて人間にもどることができず、死ぬことで愛を手に入れたように、バレーダンサーとして生きてきたナタリー・ポートマンは死ぬことでダンサーとしてはじめてダンサーになるのである。
 母と娘の深い固執が、鏡の裏の朱泥として見えてくる。この朱泥があって、ナタリー・ポートマンの「外見」も「内部」も存在するのである。
 この、映画全体をつらぬく「鏡構造」もおもしろいが、細部の「幻覚」の映像がそれを乱反射させるように美しい。効果的だ。予告編にもつかわれていたが、ナタリー・ポートマンが家でストレッチ(ウォームアップ?)をしているとき、その映像が人影で一瞬消える。母親がカメラとナタリー・ポートマンとの間を横切るのだが、その影がなんとも不気味である。母の影が、非常にうまくつかわれている。とても巧みな伏線になっている。爪を切るシーン、爪を切りながらナタリー・ポートマンを傷つけるシーンも効果的である。



 ナタリー・ポートマンの演技そのものについて書きそびれてしまった。1年間レッスンし、体重も何キロも減らしたという「肉体の外観」にも驚く。胸がぺちゃんこで、まさにバレエダンサーの体になっているのだが、冒頭の「白鳥」のシーンは、なんとなく手がぎこちない。これでずーっと押し通すのかなあ、少し不安になるが、後半がおもしろい。冒頭のシーンは冒頭のシーンで、まだ「完璧」なダンサーになっていなくて、「夢」のシーンだからあれくらいでいいのかもしれない。全身よりもアップで演技をするようになってから、そして黒鳥を舞っているうちにだんだん本物の羽が生えてくるという映画ならではの処理がほどこされたシーンは夢中になって見てしまう。白く厚化粧し、マスクをしているにもかかわらず、そこに「表情」を見る。そして「表情」こそが「肉体の内部」であるということがわかる。
 

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