詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ジョン・ヒルコート「欲望のバージニア」(★★★)

2013-07-22 12:35:24 | 映画
監督 ジョン・ヒルコート 出演 シャイア・ラブーフ、トム・ハーディ、ガイ・ピアース、ゲイリー・オールドマン



 アメリカの禁酒法時代の映画。酒を密造する3兄弟と、それを取り締まる保安官(?)。古い時代の映画なので、映像が全体的にセピア色--って、変だよねえ。フィルムが変質して、映像が自然にセピア色になるということはあるかもしれないけれど、いま撮った映画なのにセピア色。
 まあ、これは、そういう変を承知でとった映画。ディカプリオの出た「華麗なるギャツビー」と比較するとわかる。「ギャツビー」はわざわざ3Dという「最新技術」をつかって「過去」を撮っている。「過去」を「いま」ふうに処理している。それが、いわゆる「商業主義」。でも、「バージニア」は「いま」をまじえない。「いま」ではないことを強調する。
 それが端的に出ているのが(具現化しているのが)、ガイ・ピアースの保安官。ポマードをべったりつけて、髪を真ん中で分け、ただ分けるだけではなく、分け目を強調するために剃り込みまで入れている。(たぶん)。見ただけで、ぎょっとする。これで、この映画は「きまり」。はやくガイ・ピアースが出てこないかなあ、と映画を見ながら待ち焦がれてしまう。ゲイじゃないかと、みんなから毛嫌いされる気持ち悪い役どころなのだが、その気持ち悪さがいいなあ。「あいつは気持ち悪い」なんて、日常では言えないからね。映画の「役者」に対してなら言えるからね。ときには人間には、「あいつは気持ち悪い」と平気で言えることが必要なんだろうなあ。差別とか、侮蔑とか--そういうことはいけないことなのだけれど、そういう気持ちを完全に消すことはむずかしい。だから、ときどき言ってみたくなる。そういう言ってはいけないことを言う「絶好のチャンス」だね。
 これだけ気持ち悪がられているのだから、足に障害のある少年をいたぶるところなんか、そこで男色行為でもしてみせれば、気持ち悪さに拍車がかかるのだけれど、そうしない。これが、この映画のセピア色のつつしみ。そこまでやってしまうと、「現代映画」。そして、悪趣味保安官の映画になってしまう。
 映画はあくまで、そういう悪趣味な保安官と闘った3兄弟の「男」の話。兄弟のなかに流れる「不死」の運命を信じて、自分の肉体だけを武器に時代と渡り合った「男」の話。こういう「男の話」は、いまは、もうセピア色の記憶。だから、きっとセピア色にしたのだ。
 男、酒、といえば、もうひとつ女。--この女も、古風だよねえ。セピア色だよね。瀕死の男を病院へ運んでも、それを運んだのは自分だとは自慢しない。強姦されても「何もされなかった」と涙で嘘をつく。感情の抑制の仕方が、いまとは違うねえ。
 「キネマ旬報」のベスト10に入りそうな、古くさい男が「ロマン」を感じたといいそうな映画です。



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吉田広行『Chaos/遺作』

2013-07-21 23:59:59 | 詩集
吉田広行『Chaos/遺作』(思潮社、2013年07月15日発行)

 吉田広行『Chaos/遺作』は具体的なことばと抽象的なことばが拮抗する。
 巻頭の「長く折りたたまれた一枚の詩、のように」の書き出し。

時間はひとつの破船である
これからのぼくらはもうゆるやかな分散にむかって進んでゆくだけだ
ろう一行の圧縮ではなく無数の
カオスの枝葉となって終わるだろう

 何が書いてあるか、私にはさっぱりわからないが、ことばが何らかの「意思」によって制御されているのを感じる。その制御のなかに、吉田の感じる詩があるということは予想できるが、何が書いてあるかわからないことにかわりはない。。
 わかる(感じる/予想できる)のはことばが「現実」とかみあっているというよりは「文学」とかみあっている、ことばの「出所」は「文学」であるということだ。吉田がことばを制御しているというより、「文学」が吉田のことばを制御していると言い換えても言い。
 逸脱していく感じがしない。
 それは書き出しの「破船」の登場に強く感じる。どこで見たの? その「見た」肉眼の感覚がどうもつたわってこないのである。肉眼の感覚はつたわってこないが、「破船」ということばがもっているイメージから「分散」はまっすぐにつながる。破船がもしもういちどそのまま航海に出ることがあったとしたら、それは海の直中でいくつもの破片に砕かれ、「分散」して漂うだろう。そういうイメージ。「文学」で読んで知ったイメージ。私は肉眼で、海の上にちらばる破船の断片を見たことがない。
 このイメージから「一行の圧縮」(破船ではない、船の完成した姿)ではなく「無数(の分散)」「カオス」の「枝葉(分散)」もつながっていく。これは「文学」であるどうじに、「論理」、ものごとの必然であり、その展開は「容易」である。
 問題があるとすれば、それが「容易」であること。「容易」ということは、それが「流通言語の運動」(定型化された運動)ということである。繰り返しになるが、いま私が書いたことは私の体験(肉体)を基本にしていない。本のなかで読んで知っていることがらを簡便につないだものである。それは「流通」する「論理」の運動であり、私はそういう運動を「流通」するものとして知っていて、それをここで「流通」させているだけである。
 吉田が論理思考が強いことばの運動を本気で書くのなら、「破船」ではなく「破線(点線)」と、いっそうのこと「抽象的」にしてしまえばよかったのにとも思う。「実線」が「破線」になり、それが分散し、いっそうばらばらになり、線以前の「点」になってしまうという運動のなかでことばを動かせばいいのに。

 吉田はことばをどの領域で動かしていいのか、まだ決めかねているのかもしれない。抽象的な領域で、抽象的な存在だけを利用してことばを動かすと、それは詩ではなくて、哲学(概念)になってしまうのではないかと恐れているのかもしれない。
 しかし、そういうことはないだろう、と思う。
 ことばはどんな領域でも動く。動けば、そこに詩が生まれることもあれば、哲学が生まれることもある。
 そして、その詩と哲学を比べたら、実は哲学の方が簡単である。なぜかというと、哲学は一種の「論理」でできており、「論理」というものは、ことばをつないでゆけば、そこに必然的にあらわれてしまうものだからである。論理という共有できるものをめざして、ことばは動いてしまう。ことばは共有を前提として流通しているから、どうしてもその「流通しているものに、どこかで押し切られてしまうのである。
 大胆に言い換えると、だから、「論理」というものなど、信頼に値しない。人はだれかをだまそうと思ったら、かならず「論理」を利用する。 100万円投資すれば1年ごとに10万円の配当があり、10年後に 100万円の利益がでます、という具合にはじまり、「憲法が時代にあわないと感じているひとが過半数を超えているのに、国会では三分の二の賛成がないと変えられない、というのは国民の意思を無視している。変えなければならない」とか。(安倍の主張は、憲法論議がどういう形で行なわれているか、国民の「過半数」というときの「過半数」はどういう状態の反映であるかを無視している。簡単に言うと、国民はたとえば 100人ずつのグループにわかれ、憲法改正について何か月も討議し、反対意見にも耳を傾け、グループの構成要員を入れ換えてさらに何か月も討議し、そのあとで「改正」という意識をもったのか、そうではなく自民党のばらまいている主張だけを読んでそう思ったのか--そういうことが検討されていない。ひとは面倒くさがり屋だから、大声で言われていることばになびいてしまう。)
 私はほとんど毎日、このブログで「日記」を書いている。そしてそれは散文の形をとっている。そして書けば書くほど、「論理」というものはいいかげんだと思う。どうにでも書ける--というと大げさだが、原稿用紙に換算して8枚から12枚程度書けば、どうしたって「論理」めいたものは生まれてくる。
 それは私の「意図」とは関係がない。
 私はもともと「結論」を想定して書くのではないので、だからこんなふうに逸脱するのだが、こういう逸脱すら、最後には「結論」に収斂する形で読みとられてしまう。そういう「罠」がことばにはある。

 詩にもどろう。詩のつづきを読もう。

これははげしく予感されたひとつの
祈念
あるいはなにか春の
素粒子のみだれのようなものを冬の灯火にうながされて
透きとおってゆく裸眼の
神経接合につながってゆくかもしれない
世界よ!

 カオスだからこそ、予感があり、予感には祈りもある。
 それを「素粒子の乱れ」あるいは「神経接合」という現実離れしたもの(現実には認識できないもの--肉眼では確認されないが、論理的に証明されているもの)とむすびつけるところに吉田の個性(詐欺のテクニック、レトリックの基本)があるのだけれど、ここでも「冬の灯火」「透きとおってゆく」が、どうも「破船」とおなじようにロマンチックで、じゃまくさい。
 「素粒子の乱れ」「神経接合」というような、非日常の「論理」をもっと活用して、そのことばだけで嘘のなかに逸脱していけば、そこにまったくあたらしい詩が生まれてくると思うのだが、--そんなことをすると、実際に「素粒子の乱れ」とか「神経接合」ということばをつかっている領域から批判されそう(否定されそう--そういう意味ではないと反論がきそう)と思っているのかもしれない。そういう点では「論理」を利用しながらも、「論理」を信じていないのかもしれない。

 途中を省略するが、

どこにも目当てのない海のさけ目よ

 というようなロマンチックの頂点のような行と、

時がいくつもの
重なる層になって駆けてゆくのだった
「亜時間」「準時間」「次時間」そして
純時間順時間
逆時間

 というようなことばは、私には、嘘を語るには、無理があると思う。もし、そういうロマンチック、センチメンタルなことばと非日常の論理的なことばを融合し、そこで誰も書かなかった詩を展開するのなら、異質なものを出合わせればそこに詩があるという「現代詩」の基本哲学を棄てて、別なところからことばを動かさないといけないのではないかと思う。
 「手術台の上のミシンとこうもり傘」さえ、「異質」とはいえ、誰ものか「日常の目」で見たもの(見るもの)にすぎない。「日常の論理」から見て「異質なもの」が出合う--つまり「日常の論理」という基本があって、それは「演出」されている。「わざと」つくりだされている。





Chaos/遺作
吉田広行
思潮社
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リュ・スンワン監督「ベルリンファイル」(★★★★)

2013-07-21 14:02:01 | 映画
監督 リュ・スンワン 出演 ハ・ジョンウ、ハン・ソッキュ


 これは簡単に言うと、でたらめ、ご都合主義の映画です。舞台はベルリン。北朝鮮のスパイ、韓国のスパイ、ロシアのスパイ、中東のスパイ、アメリカのスパイ(と、スパイと言い切ってしまうと違うのだけれど、区別する必要はない)、それから韓国大使、金日成の遺産(?)がからみあって、次から次へと話が変わっていく。二重スパイがいるのか。だれがこのストーリーを操っているのか。
 いやあ、傑作です。
 ただ、次から次へと話をひっぱって行く。ストーリーそのものはどうでもよくて、次から次へとアクションが繰り返される。銃撃戦だけではなく、素手(?)での殴り合い。途中には、女が屋根から(ビルから)落ちそうになるという静のアクション(はらはら、ですね)もあってねえ。
 さらに、ブラジャーに関心を持つふりをして盗聴器を仕掛けたり、盗聴されているとわかり筆談したり--でも紙があるのに、わざわざ曇ったガラスに指で文字を書いたり。あるいは「危機のときはアリランを半音下げて歌い、さびは口笛で」なんていう暗号まで飛び出して……。
 なんのことか、わからないでしょ?
 わからなくていいのです。ストーリーなんかわからなくても、そこに「肉体」があり、アクションがある。そのアクションというのは、役者同士の「肉体」のぶつかりあいだけではなく、ある人間の動きを追う「目」というもある。この「目」を「尾行の目」と言いなおすと、それがスパイの必須アイテムであることがわかるけれど、そういう地味なアクションもていねいにまぜながら、ともかく緩急をつける。観客の気をとぎらせない。しっかり見ていないと何が起きているのかわからない。
 あ、繰り返しになるけれど、しっかり見ていても何が起きているのか、「真実」は何なのか、さっぱりわからない。北朝鮮の昇進(?)のシステムなんかの話しもからんでくるから。
 わからない、わからない、と言いながら、主人公(北朝鮮のスパイ)が窮地に陥っているということと、そのスパイに韓国のスパイが最終的には共感をよせる(男の友情)ということは、わかる。ひとがひとに寄せる共感(男の友情)なんて、まあ、そのひとだけにわかるものだから、途中はどうだっていいのである。どんな具合にでも説明ができるものである。だから、テキトウ。これがうまくいかなければ、これでどうだ。こんなふうに話を展開するともうひとつアクションをつけくわえられる。
 私の感想も、いったりきたりだけれど、この映画もいったりきたり。テキトウに説明をしなおしながら進む。そのテキトウのリズムがとてもよくて、これ、いいじゃないか、という気持ち。
 映画なんだもの。嘘なんだもの。
 一種のクライマックスとも言える、瀕死の女をかかえて主人公が荒地を歩き回るなんていう古い古い日活映画(見たことがないのだけれど、小林明が浅丘ルリ子あたりをかかえて演じそう)のようなシーンもあってねえ。それがとっても長くて退屈なんだけれど、あ、こんなシーンもアクションものの必須アイテムだねえ、と楽しむことができる。これが短いと「文学(芸術?)」になってしまうからね。
 この映画は、いわば、「芸術にはならないぞ」という精神で、映像(アクション)を磨けるだけ磨いたという「娯楽」に徹した映画。
 見てください。
                        (2013年07月20日、中州大洋2)
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岬多可子「春の鍋」、ジェフリー・アングルス「そして突然」

2013-07-20 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
岬多可子「春の鍋」、ジェフリー・アングルス「そして突然」(「ミて」123 、2013年06月28日発行)

 岬多可子「春の鍋」せ「香りの小片」のうちの一篇。

ひろがる 土と 火の におい。
強(こわ)い精をもつ 山の菜を
よわくよわく ながくながく 煮る。
うとうと とろとろと
火の番をする、
もうろう ぼうばくと
空気の薄まる、
わたくしの この夜の 居場所。
苦い泡立ち、吹きこぼれ。
濡れて、月は やや 肉の色。

 アクの強い山菜を煮る。そのときの、におい。においをことばにするのはむずかしい。たぶん嗅覚は原始的なのだと思う。私が知らないだけなのかもしれないが、たとえば聴覚ならアルキメデスが定義(?)していらい、音階がある。数学的法則がある。視覚にしても、三原色の混ぜる割合(数学)で色が決まる。つまり、「頭」で再現できる。けれど、においには、そういうものはない。
 においを、どう書くか。

空気の薄まる、

 この行がおもしろい。「におい」は空中を漂う。空中を漂うということは、そのとき「空気」のなかに何かがまじり込む。何かがまじりこむと、そのとき「濃度」は高くなる--というのが数学というか、物理というか、まあ、科学の世界だと思うが、岬は逆に書いている。「空気」が「濃くなる」ではなく「薄まる」。
 私はいっしゅん、つまずくのだが、たしかにそうかもしれないと思う。
 においにひきつけられるとき、においを感じるときは、「におい」が「肉体」のなかに入ってくるととらえるのが一般的だろうけれど、逆に感じるときもある。「肉体」のなからか、何かが誘い出されていく、という感じ。「肉体」が覚えているものが誘い出され、一瞬、自分が希薄になる感じ。
 「肉体」から何かが誘い出されるのは、「肉体」のまわりにある空気の濃度が薄く、「肉体」のなかにあるものが濃度が濃いからだ。真空に、空気が吸い出されていく。たとえば、宇宙で、飛行船が壊れたら、内部の空気が真空に噴出する感じ。(宇宙に行ったことはないのだけれど、まあ、そんな感じ。)
 煮ている山菜が吹きこぼれる(山菜を煮ている湯が吹きこぼれる)のだけれど、それはまるで「肉体」のなかから何かがこぼれていくようにも見える。
 セックスの記憶とかね。
 セックスを支配しているのは音(声)とにおいだ。(というようなことを書くと、北川透から、聴覚とセックスを結びつけるのは女性的だ。男性は視覚でセックスをする、と言われそうだが……。でも、たとえばポルノ映画を音なしで見て、興奮する? あるいは、隣の部屋から聴こえてくるせつない声を聞くと、見えなくても興奮しない? と、いつか私は北川に問いかけてみたい--という形でいま問いかけているのだけれど。)
 で、ほら。

濡れて、月は やや 肉の色。

 においが「肉の色」になる。「肉の色」なんて、それだけではどんな「色」かぜんぜんわからないのだが、そこに「肉」があるということ、これがセックス。「肉(体)」ぬきのセックスというのはない。
 岬の「肉体」が覚えている「肉」が「色」となって吹きこぼれていく。吹きこぼれて、「空気の薄ま」った部分を埋めていく。



 ジェフリー・アングルス「そして突然」は、田舎(?)から出てきて同居することになった父親のことを書いているのだろうか。

父は立ち止まり
テレビの試合に向かって叫んでいる
初めて生まれてきたように
力強く手を振り回し
私とも 誰とも関係のない
快楽の踊りをする
遠い時代の原始人
きっとこうだった

 テレビに映し出されている何かの試合(アメリカンフットボール? 野球?)に興奮して父が叫び、踊りだす。それは父の「肉体」が覚えているものが、噴出してきているのだ。刺戟と反応というのは、かならず起きることではなく、覚えているものがないと反応も起きないのだと思う。
 で、「肉体」が覚えているものというのは、「個人的」な記憶ではない。「個人」という概念は、「頭」が便宜上つくりだした方便にすぎない。資本主義、合理主義を生き抜くための方便にすぎない。「肉体」は「ひとつ」である。ジェフリー・アングルスはさらりと「遠い原始人」と書いているが、「肉体」は「原始人」の時代をおぼえている。それが「快楽の踊り」となって、いま、噴出している。

      ここには
危険に脅える空も
野生に溢れる野原も
反乱する子供の声もない
何か中心的なものは
ここから失われている

 「ここ」とはジェフリー・アングルスの住んでいる街、父をつれて帰ってきたジェフリー・アングルスのすみかであろう。「中心的なもの」は「原始人」につながるものということになる。都会には、それはなかなか見あたらない。
 それは、しかし、「肉体」のなかにある。それを、ジェフリー・アングルスは父の「快楽の踊り」を見て、思い出している。だから、次のように書く。

私は 一生
それを補おうとする

 この「補う」は「肉体」を耕す、「肉体」を耕しながら、そこに眠っているものを掘り起こし、それをことばにする、詩にするという行為のことだろう。

桜病院周辺
岬 多可子
書肆山田


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植村孝『詩人の事件簿』『未達の夢』

2013-07-19 23:59:59 | 詩集
植村孝『詩人の事件簿』『未達の夢』(BookWay、2013年07月30日発行)

 植村孝『詩人の事件簿』のなかに、秋亜綺羅の私信が収録されている。

日記のように詩を書いたり、手紙のように詩を書くって、
ものすごくむずかしいことだと思います。
植村さんの実験的な方法論に
わたしもいつか挑戦してみたいなと、思いました。

 私も、そんなふうに思った。
 と、書いたら---うーん、書くことがなくなってしまった。
 そうか、植村孝はいろんな詩人と会っているのか、新川和江はたばこを吸うのか。高橋順子には二度会ったことがあるなあ(顔を見たことがあるなあ)。秋亜綺羅には、ついこのまえ(4月? 5月? 忘れた)に会ったなあ。
 あとは忘れた。
 で、なぜ、忘れたかというと、私は植村に会ったことがない。植村の詩も、読んでいるかもしれないけれど、記憶にない。だから、「日記」「手紙」の、省略された部分(奥行き)が私にはつかまえにくくて、ことばが逃げ去ってしまう。
 つまずかない。
 これは、しかし、よくよく考えると変である。
 「日記」や「手紙」には知らないことが書いてあるのがふつうで、その知らないことというのは、たいてい私をつまずかせる。でも、意外と、つまずくものがない。
 なぜかなあ……。
 変わっていかないからだ。植村が新川に会う。そのあと植村がどう変わったのか。変わっていないように感じられる。いろんな詩人に会って(手紙をやりとりして)、それでも植村は変わらない。変わらないから、それが植村であると言えるのかもしれないけれど、どんどん変わっていって、変わったけれど植村だという方が「個性」というものじゃないかな、と思った。そういう感じがないのである。
 
 『未達の夢』のなかに、気がかりな詩がある。「歴史にしたい」。

嫌いなんです
太平洋戦争で負けたこと
最近では東日本大震災のことなど
つらくて悲しい出来事は
みんな歴史にしたいです
応仁の乱とか
本能寺の変とか歴史になってしまえば
当時の悲しみや悲惨な事が消去されて感情がなくなるから
ちょっとは楽なんですが

 これは「反語」だろうか。よくわからない。

嫌いなのです
世間の人は
「忘れないで」とか
「風化させないで」と言いますが
はやく事故や事件は歴史になって欲しいのです
でも歴史になれば痛いとか苦しかったとか悲しかったことなど
感じなくなります
それがちょっと残念ですが
歴史にしてしまえば学校でも教えてくれるし
教科書に載ってしまえば風化ってことなく
応仁の乱のようにずーっと生きながらえるから

 そうなのかな? 「応仁の乱」って生きている? 私は歴史は苦手で、私の感覚が間違っているのかもしれないが、私は「応仁の乱」というのは、そのことばしか知らない。だれとだれが何をしたのか、いつあったのか、まったくわからない。何一つ、思い出すことができない。中学校で習ったのか、高校で習ったのかもわからない。試験に出てきたかどうかも覚えていない。私にとって「応仁の乱」は何の関係もない。「生きていない」。
 植村は、応仁の乱とどうかかわっている? どういうときに、それを思い出す? そこから、何を動かす? そういうことがなくても、それは「生きている」?
 違うんじゃないかなあ……。

 ちょっと前にもどると。
 『詩人の事件簿』は、「歴史」ではない「生きている」ものが「日記」(手紙)として書かれている。書こうとしている。
 そうなれば、とてもおもしろい。
 でも、詩人といっしょに生きて、相手の詩人も植村も動いていくというのは、これはとてもむずかしい。たいてい、こういうことがありました--という一瞬の報告に終わってしまって(秘密の暴露?)、人間が動かない。
 繰り返しになってしまうが、日記でも手紙でもいいけれど、書くことで植村自身が匿えとは違った人間になってしまわないと、ほんとうは書いたことにならないのではないのか。
 言いかえると、植村は「日記(手紙)」を書いたのではなく、もしかすると「歴史」を書いてしまっているのではないか。「いま」ではなく、「過去」をならべているのではないか、という印象がするのである。

 2冊、詩集を読んで、いちばん印象に残ったのは「ヒヨコがご飯の上に」である。

想定内のようで
想定外の詩を書きてぇな
茶碗いっぱいのご飯の上に
卵を割って落としてみると
黄味じゃなくて
ヒヨコがご飯の上に乗っていた
ってな詩が書きてぇな

 これはいいねえ。ヒヨコを発見している。植村が卵の黄味からヒヨコに変わってしまっている。それはけっして「歴史」にならない「無意味」である。
 「無意味」がないと詩ではない。
 「意味」ではな「歴史」になってしまう。植村がいなくても存在する「流通事実」になってしまう。




水色の音楽―詩集
植村孝
BookWay
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池田瑛子「岸辺に」

2013-07-18 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
池田瑛子「岸辺に」(「something 」17、2013年06月28日発行)

 池田瑛子「岸辺に」は東日本大震災をテーマに書かれたものだと思う。ただ、私がこれまで読んできた大震災の詩とはずいぶん違う。

いちまいの 桜のはなびらになって
いちまいの 祈りのはなびらになって
ことしの桜を咲かせよう

攫(さら)われていった数えきれない命
一度も桜をみなかった小さな命にも
みんな寄りそってここにいるよと
いちまい いちまいの花びらになって
ことしの桜を咲かせよう

 どこが違うかといえば、「事実」というか、そのとき起きたことを語り継ぐという感じがないことである。東日本大震災は、それが何であるか、私にはまだよくわからないが、そのよくわからないものを、多くの詩人は懸命にことばでつかみとろうとしている。池田の詩は、そこで起きた「事実」をつかみとるのではなく、それ以後のこころを描いている。被災者の側からではなく、被災者しなかった人間として、寄り添うというところから出発してことばを動かしている。
 繰り返しが多いのだが、それは、少しずつことばを被災者に近づけようとする姿勢のように思える。

いちまいの 桜のはなびらになって
いちまいの 祈りのはなびらになって

 いきなり「祈りの花びら」になるのではなく、まず「桜の花びら」になる。それから、その「桜」に「祈り」という「意味」をつけくわえてゆく。それは、被災者が桜の花を見て、何かを思い、その思いが「祈り」になるまで待っているかのようにも見える。
 急がない。けれど、また、けっして逆戻りはしない。静かに、後押しする。そういうことばの動きである。「いちまいの」という「いち」に対するこだわりも、それが「押しつけ」にならないように、という配慮からだろう。
 「いち」にこだわるから、2連目の「数えきれない命」の「数えきれない」が切実になる。それぞれが「いち」なのに、あまりにも「いち」が多すぎて、数えきれない。そこには十進法のような「数字」はないのである。「いち」だけがある。
 だからこそ「一度も」桜を見なかった命が強烈に迫ってくる。「いちまい」と「いちど」は違うのだけれど、違いながらも、そこに「いち」がある。その「いち」のために、「いち」が寄り添う。寄り添うと「一度」の「いち」が数えきれない数になってつながる感じがするのである。

 ことばはさらに繰り返しながら、少しずつかわっていく。ことばは動くけれど、そして変化するけれど、飛躍はしない。

ひとひらの 灯りの花びらをともして
ひとひらの 祈りの花びらをともして
夜の深みの花明かりになろう
たましいが迷わないで帰ってくるように

 「いちまい」は「ひとひら」にかわる。「いちまいの花びら」と「ひとひらの花びら」は同じものであるが、少しだけ違う。どこが違うか--は、言えない。わからない。
 「桜」「祈り」と動いてきたことばは、そのあと「灯り」にかわるのだか、すぐに「祈り」と言いなおされ、「灯り」と「祈り」が同じものだと告げられる。
 ほんとうは違うのだけれど、「同じもの」にすることで、飛躍を消すのだ。「灯り」と「祈り」を「ひとつ」にするのだ。
そして、ここには書かれていないが、「灯り」は「祈り」がひとつになるとき、その「祈り」は「願い」になる。--帰ってきて、という「自分」のための「声」になる。

たましいが迷わないで帰ってくるように

 「祈り」は、他人のために「祈る」。「願い」は自分のために「願う」。「祈り/願い」のなかで、二つの命が「ひとつ」になる。
 「願い」は「願い」という強いことばをとらずに、静かに身を隠す。

伝えたい言葉となって舞い散ろう

 「伝えたい」の「……たい」(したい)。
 それは、ほんとうに「したい」ことをさらに促す。

伝えたい言葉となって舞い散ろう
堪(こら)えている涙となって降りしきろう

 泣きたい--泣こう、と誘いかけるのである。
 この静かな変化は、とても自然である。

伝えたい言葉となって舞い散ろう
堪えている涙となって降りしきろう
ふりつもり ふりつもり
土に溶けて あたたかい大地になろう
木々が芽吹くように 鳥が羽ばたくように
悲しみに耐えて生きるひとたちの
ひとあし ひとあしが刻まれるように
笑顔がもどってくるように
歌声がきこえてくるように

春がくるたびに
いちまいの はなびらになって
いちまいの 祈りのはなびらになって
愛しいたましいを抱きしめ
桜の花を咲かせよう

 語りかけるというより、しずかに歌うための詩であろう。声をあわせる。ひとりひとりの声をあわせ、声をあわせるとき、気持ちがあわさる。そのなかで落ち着いていくものがある。育っていくものがある。




池田瑛子詩集 (新・日本現代詩文庫)
池田 瑛子
土曜美術社出版販売
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原利代子「放課後」ほか

2013-07-17 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
原利代子「放課後」ほか(「something 」17、2013年06月28日発行)

 原利代子「放課後」は高台にある中学校のグラウンドから聞こえてくる声について書いている。野球部員たちだ。

おーい あいー おーら おーら
とにかく声を上げている野球部員
ある時は一人の少年のように
ある時は複数の少年のように
交じり合って聞こえてくる
すでに子供の声ではないが
大人の男の声でもない
太く変わったはずの声のなかに
まだ少年の甲高さの名残があって
本当の男の声になる寸前の初々しさに満ちている

 なんでもない情景のようなのだが、「肉体」がひきずられた。ひっぱられた。野球部員の声が遠くから聞こえるような気がしたのである。
 なぜだろう。

ある時は一人の少年のように
ある時は複数の少年のように
交じり合って聞こえてくる

 何が私の「肉体」をひっぱったのか。
 「ある時」という表現である。
 「野球の練習をしている時」のなかに、いくつもの「時」がある。それが「連続した時(時間)」のなかで、ぽつん、ぽつんととぎれるように浮いてくる。「ある時」という限定が、連続した「時間」を「時」にかえて、瞬間を浮かび上がらせる。
 そして、そのぽつん、ぽつんと浮かんできた「時」が連続するのではなく、「交じり合う」。--これが、非常におもしろい。
 原は「時」が交じり合うと書いているのではなく、少年の「声」が交じり合ってと書いているのかもしれないが、私は「時」が交じり合っていると、どうしても読んでしまう。それは、その「時」といっしょにあるものが「声」だからだろう。「声(音)」と「時」とともに消えてしまう。「時」がすぎれば「声」は消える。「声」が交じり合うとしたら、「同じ時」に存在する「声」だけなのだが--そのことが逆に「時」を交じり合わせてしまうのである。
 一人の少年の声を聞く、その「時」、ふと複数の少年の声を思い出す。さっきは複数だったと思う。そうすると、「いま」という「時」に「さっき」という「時」が重なり、交じり合うのだ。意識のなかで「声」が交じり合うとき、同時に「時」も交じり合う。
 この感じが、とてもおもしろい。
 というのも、原はそのとき、少年の声だけを聞いているのではないのだから。いや、実際に聞くのは少年の声なのだが、その少年の声の特徴を思うとき、まだそうなってはいない大人になった男の声とも比較している。まだ存在しない「時」がそのときに交じり合っている。

本当の男の声になる寸前の初々しさに満ちている

 こう書くとき、原の意識のなかには、本当の男の声になった「時」がある。そして本当の男の声もある。まだ存在しないものが、比較という形で交じり合う。
 少年の声を聞きながら、原は、「いま」という「時」だけを聞いているのではない。「過去」の「時(さっきの少年の声)」を聞き、また「未来」の「時(これから変わっていくだろう男の声)」を聞き、それを交じり合わせながら、しかし、識別している。
 かなり「ややこしい」ことをしているのである。

 ややこしい--と書いたが、それは実はややこしくない。私たちが無意識にやっていることである。無意識にやっているから、それを「意識的に」説明しようとすると、ことばがつまずき、ややこしくなるだけなのである。
 この矛盾のなかに、詩があるだと思う。

 さらに。

 原は野球の練習をしている少年とは違って、本当の男の声を知っている。このとき、声というものはのどから出てくる音だけを意味するのではない。聞く声だけなら、少年たちも大人の声を聞いている。けれど、少年たちは、自分が聞いた声と比較して、いま叫んでいる「おーい」を初々しいとは言わないだろう。つまり、初々しいとは自覚できないだろう。
 野球部員の声を「初々しい」と呼ぶとき、原は耳だけで少年たちの声を聞いているわけではないということになる。そこからは見えない少年を見ている。そこからはふれることのできない少年にふれている。「肉体」のすべてで少年に接し、同時に大人の男と少年を対比させている。つまり、どこかで大人の男とふれている。
 こんなふうに書いてしまうと、なんだかエロチックになってしまうが。こんなふうに「誤読」されることを原は望んではないだろうけれど……。
 原は生きてきた「時間」のなかにあるすべてのものを動員し、少年(ある時)をとらえている。「ある時」という時間のとらえ方が、刺戟的なのである。
 「ある時」という時間のとらえ方が、刺戟的なのである--というのは、引用した部分を、

一人の少年のようにも
複数の少年のようにも
交じり合って聞こえる

 と書き直してみると、わかるかもしれない。
 「ある時」「ある時」と「時」を別々にしなくて、「練習をしている時(時間)」と言ってしまえば、それでも「意味」は通じる。けれど、そうすると、「ある時」と言った「瞬間」にこだわる何かが消えてしまう。
 「時」はつねに存在しているが「ある時」は一瞬しか存在しない。そして、それは「過去」だけではなく、「未来」においても同じである。
 「ある時」は、「時間」にとっては無意味だけれど、無意味だから、そこに詩がある。思想がある。肉体がある。--ということになるのかもしれない。
 「声」を聞きながら「時」を聞いて、ふれている--それが原の詩なのかもしれない。

 「一枚の絵のように」も美しい作品である。耳ではなく、目でとらえた「ある時」が描かれている。

あれは大浜と呼ばれる海水浴場の葦簾(よしず)の囲いのなか
どっしりとあぐらをかいた海浜着姿の父は
一人の少年の海水パンツの紐を結んでやっていた
白い線の入った水泳帽をかぶった少年
いま海から上がってきたばかりの
身体は海の水で濡れて光っていた
頬にも顎にも水滴がたれていた
それを手でぬぐいもせず
黙って父に顔をむけて立っていた伏目がちの少年よ

 ここに描かれている「ある時」は、いまはない。それはそこに描かれている父も少年もいないということである。「ある時」に存在するものは、「いま」は存在しない。けれども「いま」それを思い出すことができる。
 そうすると、そこに「時間」があらわれてくる。
 この視覚の「ある時」は、耳の「ある時」のように交じり合わない。

 時(一瞬)と時間(持続)、聴覚(消えていく存在)と視覚(消えない存在)の違いについて、いつかまた考えてみよう。中途半端だけれど、きょうは、これでおしまい。



ラクダが泣かないので
原 利代子
思潮社
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水野るり子「雨の旅」、長田典子「空は細長く」

2013-07-16 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
水野るり子「雨の旅」、長田典子「空は細長く」(「ひょうたん」50、2013年07月16日発行)

 水野るり子「雨の旅」は外国旅行を旅行したときの作品なのかもしれないが、日本の風景として読むとおもしろい。雨の日のカフェにひとりで座っている。

西の窓の近くに
さっきまで
ゾウが一頭すわっていた

のこされた
かすかな名残の…その足あと
ぬれ方や薄れ方でそれとわかる

決して ひとなれせず
影のように立ち去る、その気配
(たくさんのものたちが そうやって)
もうもどってこない

 「ゾウが一頭すわったいた」という情景は日本では考えられない。それでも、この風景を私は日本だと感じた。日本の風景として読んで、とてもおもしろいと思った。
 なぜ、日本だと思ったのか。
 足跡が残っていて、

ぬれ方や薄れ方でそれとわかる

 この感覚。「わかる」といっしょにある感覚「ぬれ方」「薄れ方」。この「方」が「わかる」というのは、そうしたものによほどなじんでいるときだけである。何度も何度も、それを見ている。そうして、その「何度も」のなかにに違いが少しずつ蓄えられて、それが無意識に識別できるくらいになっている。これは短時間の「海外旅行」ではありえないような「無意識」と「識別」である。
 その「無意識の識別」というものを中心に見ていくと、たとえば、

西の窓の近くに

 この「西」が、やはり「無意識の識別」に近い。長い間、同じところに暮らしていて、東西南北が知らず知らずにわかるようになる。何度も何度も東西南北を意識したことがあって、それが体のなかになじんで、こっちが西、とわかるようになる。知らない街のカフェに入り、その窓が西であるとすぐにわかるのは夕方、太陽がその窓から見えるときくらいであろう。雨の日のカフェに座って、あの窓が西とわかるのは、その街に何度も何度も来たことのあるひとくらいだろう。
 何度か意識したことが「無意識の意識」として肉体になじんでくる。しみついている。そして、それがあるとき、ふっと「わかる」ものとしてあらわれてくる。
 そのなかには、

決して ひとなれせず
影のように立ち去る、その気配
(たくさんのものたちが そうやって)
もうもどってこない

 というものもある。
 このときの「主語」をゾウではなく、古くから知っている知人と置き換えてみると、どうなるだろう。あのひとは「ひとなれしない」(あまりひととはなれなれしくつきあわない)、ひっそりとだれにも迷惑をかけずにひとりで死んでいった--そういうひとが何人かいる。そのひとのことが、なつかしいような気持ちでよみがえる……
 そういう感じで響いてこないだろうか。
 人の記憶、知らず知らずに意識し、無意識の内に肉体のなかになじんでいた知人。
 その人のことは、たとえば「歩き方」「話し方」「黙り方」など、いろいろな「方」のなかにある。「方」は「型」でもあるのだけれど、「方」の方が「型」よりも自分の印象というものに近い。つまり、「方」には、水野の感覚が反映している。「方」には水野の肉体そのものがかかわっている。「型」の方は、その主体(主語)が決定することだけれど、「方」の方には受けての印象が絡んでいる。
 で、そういうことから、

ぬれ方や薄れ方でそれとわかる

 へ引き返すと--それはゾウの残したものというよりも、水野の肉体になじんでいる何かなのだと「わかる」。私の「肉体」はそう判断する。
 私はいま、外国の風景(ゾウのいる外国のカフェ)ではなく、水野の「肉体」と出合っている。セックスをしている気持ちになるのである。

 「方」をセックスとむすびつけると、「方」が「肉体」のなかにあるものということがわかりやすくなる。あ、ここで、こういう感じ方をするのか。ここでこういう反応の仕方をするのか……。そういうときの「方」だね。

 脱線してしまったが、私は、こんな具合にしてあらわれてくる「肉体」というものを信じている。そこに「詩」があると感じている。



 長田典子「空は細長く」のなかに、「肉体」で覚えた美しい行があった。


空は蛇行する川の形に沿って
どこまでも曲がりくねる道のように細長く見えた

 長田の暮らした村の風景であろう。川の蛇行に沿って、細い道が蛇行している。このときの蛇行は蛇行であっても一本道、まっすぐと「意味」はかわらない。それをまっすぐと見る視線が空をまっすぐに見上げる。そうすると、空は道の形のまま細長くのびている。そこにまっすぐな「青」がある。
 長田の書いている「細長く」のあとには「のびる(まっすぐ)」ということばが省略されていて、その「まっすぐにのびる」無意識が、幼い日の記憶とつながるという形(仕方)で、詩が展開する。

水野るり子詩集 (新・日本現代詩文庫)
水野 るり子
土曜美術社出版販売


詩集 清潔な獣
長田 典子
砂子屋書房
コメント (1)
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鈴木志郎康『ペチャブル詩人』(3)

2013-07-15 23:59:59 | 詩集
鈴木志郎康『ペチャブル詩人』(3)(書肆山田、2013年07月05日発行)


 鈴木志郎康『ペチャブル詩人』には、とても変な詩がある。「ウォー、で詩を書け」からつづく数篇。それは「その日、飲みこまれたキャー」へと結晶していくのだけれど。

ウォー、
ウォー、
叫んで詩を書け、
ウォー、
大声で怒鳴れば、
頭は空っぽになる。
ウォー、
そこで詩を書け
思うな、
考えるな、
ウォー、
ほら、跳んだ。

さてと、叫んだら、
言葉が引っ込んじまった。
言葉って、
浮かんでくるのを待つのかい。
引っ張り出すのかい。
詩の言葉は用向きじゃないから、
身辺を遮断する。
ついでに、記憶も遮断する。
向かう気持ち。
向かう気持ち。
いいなあ。

 きのう私が「分断」と呼んできたものを、鈴木は「遮断」と呼んでいることがわかる。そっくりそのままではないのだけれど「遮断」ということばで、「連続」とは違うことを書こうとしている。
 「ウォー、」は何か。鈴木は「叫んだ」という「動詞」でくくっている。名詞にすれば「叫び」。何と比べているのだろうか。「言葉」である。「言葉」を「遮断する」ものとして「叫び」がある。
 「遮断」するのは「身辺」であり、「記憶」である。それまでの「連続」である。「遮断」して、どうなるのか。

向かう気持ち。

 「遮断」して、いままでとはまったく違ったもの、「向こう」にあるものに「向かう」。これを鈴木は「連続」とは呼ばずに「跳ぶ(跳んだ)」と呼んでいる。そして、それが、

いいなあ。

 なのである。
 いままでの「言葉(意味/形成された記憶)」を「遮断」して、「跳ぶ」。向こうへ跳んでしまう。自分から出てしまう。エクスタシー。そのとき「向こう」は自分以外の全方位であって、限定されていない。
 「ウォー」という叫び、「肉体」を潜り抜けていく「音」。そこに、鈴木は何かを感じている。「意味」からの解放を感じている。そういうふうに私には感じられる。

 怒りが「ウォー」なら、恐れ(恐ろしさ)はなんだろうか。「キャー」だね。「他人事のキャーで済ます」。

今まで生涯に
現実で、
キャー、
と叫んだことはなかったですね。
家の中ででっかいゴキブリに叫びそうになったことはあるが。
新明解国語辞典には、
「きゃあ(感)恐れや驚きのために、思わず発する叫び声」
とあります。
恐れや驚きって、自分の現実の現場ってことだね。

 「自分の現実の現場」というのは「いま」であり、それは「過去(意味)」とは連続していない「瞬間」ということだろう。「遮断/分断」された「いま」。
 そして、「生涯」で「キャー」と叫んだことのない鈴木は、それでは、そういうときにどうしてきたのか。
 ニュースカメラマンで電車と車の衝突現場に駆けつけたとき。車体を焼き切って、男を搬出する現場に立ち会ったとき。

ああ、その悲惨な男の身体を直に目にして撮影したが、
わたしは、
キャーとは言わなかった。
内心、ひどいな、とは思ったけど、
内心にキャーを納めたってこと。
ニュースとしては常識だったんですね。
つまり他人事だったんです。
そこ、他人事にするメカニズム。
内心ってこと、
わたしは思わずキャーと叫ぶことはないだろう。
思わずってところで自分を外す。
内心が問題なんだ。

 「キャー」を外にださない。「内心」に納める。そうすると、それは「他人事」になる。言い換えると「キャー」と叫ぶと、恐ろしさは「自分」のものになり、その「自分のもの」が不思議なことに、「肉体の外」へ声として出て行く。
 --ここにも、不思議な矛盾があるねえ。
 「内心」に納めるとき、それは「自分の内」にある。あたりまえだけれど。しかし、そのとき、肝腎の「対象(?)」は自分の外にある。関係がない。「他人事」。けれど、恐ろしいを「キャー」という声にすると、それは自分の外に出てしまった何かなのに、自分のもの。
 SMAPのクサナギなんとかが泣く芝居について「こらえても零れてしまうのが涙というものなのに、役者はこらえずに流すのだからとても変」というようなことを言っていたが、何か、そういう矛盾--真実がそこにあるなあ。谷川俊太郎も、そういう詩を書いていたなあ。矛盾--だから、真実。

 さて。そこで「その日、飲みこまれたキャー」。東日本大震災のことを書いた詩。そのなかに、いまふれたのと同じことばが出てくる。

大量の海水が押し寄せるのを撮り続けている、
叫ぶ人の声が入っている。
水が自動車も家も押し流して行く。
凄い力だ。
現場でキャーと叫ぶところ。
わたしは自分のキャーの叫びを飲み込む。

何度も、
キャー、
わたしは自分の叫びを飲み込んだ。
脳内で、キャー、
生まれて初めて見る大津波の映像だ。

飲み込んだキャーは心に固まっている。

そんなことで、それから、書いておこうと思って、
黙ってキャーをもう一度飲み込む。
重たい固まり。
数ヶ月あまり経って、
わたしは自分の書斎で、
この詩を書いた。

 鈴木はキャーと叫ぶ代わりに、書く。書いたことばが、そこに「キャー」が書かれていなくても「キャー」なのだ。そうであるなら、それは、やはり鈴木にとっては「遮断」なのだ。「過去/記憶」を遮断して、自分を「全方位」に解放する方法なのだ。
 鈴木はことばによって「自己拡張」をめざしつづけた詩人である。その「自己拡張」が「連続」という形から、音の力を改めて見つめなおすことによって「自己解放」へと変わってきているのかもしれない。
 「解放」(開放)されている鈴木のことばの扉をとおって、鈴木の「内心(脳内)」へと、私たちが近づいていかなければならない。

 「音の独立」(分断/遮断した状態での存在)ということについて書こうと思っていたのだが、また、違ったことを書いてしまった。書こうとしていることとは違ったことを書いてしまうのが、ことばの運動なのかなあ、と鈴木の詩と関係があるのかないのか、わからないことを、また思ってしまうのだった。

 三日間、なんだか支離滅裂な日記を書いてしまったが、鈴木のことばには、わたしのことばを支離滅裂にしてしまう強烈な力がある。そういうエネルギーにあふれている。私の考えはまとまらないが、私の考えの支離滅裂とは無関係に、鈴木のことばは独立して存在している。この屹立感--それが詩というものなんだなあ、と思う。



胡桃ポインタ―鈴木志郎康詩集
鈴木 志郎康
書肆山田
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鈴木志郎康『ペチャブル詩人』(2)

2013-07-14 23:59:59 | 詩集
鈴木志郎康『ペチャブル詩人』(2)(書肆山田、2013年07月05日発行)

 きのう、最後に引用した部分、

わたしは自分の書斎で、
この詩を書いた。
二〇一一年八月十六日のこと。
もう一度書き直したのが、
一年以上経って、
二〇一二年十二月五日のこと。
二〇一二年十二月三十日にさらにまた書き直した。
そして更に二〇一三年一月と二月十七日にまた書き直した。

 これには実はつづきがある。もう一行ある。

テレビの映像の記憶はかなり薄れてしまった。

 きのうは、この行から「位置として、やわらかな風」に引き返し、意識の濃淡ということについて書こうかなと思った。「薄れてしまった」から「濃淡」が浮かび上がってきたのだった。しかし、時間切れになってしまった。私は目が悪いので40分以上はつづけて書かないことにしている。
 で、きょう、つづきを書こうと思ったのだが、一日たつと気分もかわれば、論理(?)もかわってしまう。詩を読み返すと、きのうとは違ったことを考えてしまう。その、違うことを書くにする。(こういう前書きは、鈴木の「あとがき」のように、ふつうは省略するものだろうけれど、鈴木のことばの運動に私はそまってしまっているようなので、そのまま残しておく。)

 この最後の一行の「報告」は、何度も書き直したという報告以上に、とても奇妙である。東日本大震災のときの津波をテレビで見て衝撃を受けて、そのことを詩に書いている。そして、詩を何度も書き直したあと「テレビの映像の記憶はかなり薄れてしまった。」と書く。
 ふつう、書かないでしょ?
 記憶が薄れてきた--がテーマなら、それは別の問題。どうやって、記憶を継承していくかという問題になっていく。
 ところが、鈴木にとってはそれはそういう問題にならない。
 「連続」はあくまで「個人的」なことがらである。鈴木の「肉体」に限定されることがらである。だから、これを「極私的」というのかもしれない。どんな「連続」も鈴木はだれかと「共有」しようとはしていない。あくまで鈴木自身に「連続」にこだわる。連続の「具合」にこだわる。連続のなかにある感覚の濃淡(?)にこだわる。「連続の具合(濃淡/あるいは遠近)」という「個人的な事情(感覚)」、他人との「共有」できない感覚(理論化できないもの/論理とは違うもの)にこだわるのである。「連続のなかにある感覚」こそが鈴木にとって「個性/固有のなにか」なのだ。
 抽象的なことをいくら書いてもしようがないので……。「その日、飲みこまれたキャー」から、「連続の具合」についてふれた部分を引いてみる。

知らない人たちが、
言えも衣服も靴も茶碗もアルバムも、
なにもかも失った。
知っている人なら心が掻きむしられるが。
知らない人なので身に引き寄せてただ恐ろしさが増してくる。

 私はこの数行に驚いた。「正直」に驚いた。
 鈴木は、被災者の状況を見て「心が掻きむしられる」とは簡単には言わない。「流通言語」で語られる「悲しみ」に身を寄せない。それよりも「恐ろしさ」を引き受ける。「悲しみ」は淡く(遠く)、「恐ろしさ」は濃い(近い)ということになる。鈴木は「悲しんでいる人」に「悲しいでしょうね」と同情し、身を寄せる前に、「恐ろしい」と感じてしまう。それを「恐ろしさ」の共有と言えないこともないけれど、鈴木は恐ろしさを「共有」するというより、「恐ろしさ」を引き受けることで瞬間的に被災者を忘れる。被災者との「連続」を切り離してしまう。言いなおすと、被災者の感じている恐ろしさを引き受けたくない。まきこまれなくない。恐ろしさに直撃されて、自分の恐ろしさで手いっぱいになる。--それが恐ろしいということである。
 恐ろしいから、逃げたい。そこにはいたくない。他人の恐ろしさを助けたいではなく、その恐ろしさにまきこまれたくない--ほんとうに恐ろしいときは、そういう自己防衛が働く。このとき「連続」ではなく、「分断」が働いている。
 そのことに、鈴木は、直感的に感じている。
 だから、

重たい。

 この1行が大変である。一瞬、「恐ろしさ」が重力(引力)となって鈴木を引っ張る、そこに「連続(引力/外部からの強引な接続)」というようなことも考えるのだが……。
 それよりも。
 「自己拡張」を「目的」とする鈴木が、「連続」を欲望しながら、一方で「分断」を瞬間的に働かせる。--矛盾がある。その矛盾に私は突き動かされるのである。矛盾のなかに、とても大事なものがあると直感的に思うのである。
 矛盾のなかには「思想(肉体)」がある。ことばになる前の、「実感」がある。つかみきれない、身に引き寄せながら、引き寄せきれない何か。
 「連続(自己拡張)」ということばで私は鈴木の「肉体(思想)」を見てきたが、それは一方的な見方(視点)だったかもしれないと、ふいに気になったのである。
 何が重たいのか。
 なぜ重たいのか。
 それを鈴木はどこかで別のことばで言い換えてはいないか。


 この「分断」がもっている何か--それを、鈴木は「津波でんでこ」と結びつけている。大震災で多くのこどもたちが死んでしまった。

でも、でも、でも、
釜石の小学校では、
「津波でんでこ」を実行して、百八十四人の学童全員が生き延びたっていうことだ。
「釜石の奇跡」と放送された。
「津波でんでこ」、ひとりひとりが自分の身を守る。
そうなのか。

 「絆」ということばと比較すると「ひとりひとり」がよくわかる。そこには「連続」がない。「分断」がある。「他者」と「自己」の「分断」。
 ひとは「連続」という形だけでは「自己実現」ができない。ときには「分断」が必要なのである。--これは「連続」による「自己拡張」を「生きる」と結びつけている鈴木の「肉体(思想)」にとっては、大変な矛盾である。
 たとえば「位置として、……」の「自己拡張」はみつめている女の体とつながること、鈴木が女の体になってしまうことで実現されている。女と「分断」されるのではなく、「連続」をさらに発展させ、相手の内部に侵入し、相手になりかわって動くことで実現している。
 この「連続」「侵入」「なりかわり(?)」という運動と「分断」は相いれない。どうやって、これを「ひとつ」にするか。「矛盾」ではなく「融合」させるか……。

 書かれた順序とは違うかもしれないが、私はその「ヒント」のようなものを「蒟蒻のペチャブルル」シリーズ、不思議な音が出てくる詩に感じている。

コンニャクが
わたしの手から滑って、
台所のリノリュームの床に落ちた、
蒟蒻のペチャブルル。
瞬間のごくごく小さい衝撃と振動。
ペチャブルル。
夕方のペチャブルル。

 ペチャブルルは鈴木の書いているように「衝撃(ペチャ)」と「振動(ブルル)」なのかもしれないが、そういう「意味(意識の連続)」であると同時に、意識を「分断」する純粋な「音」でもある。「無意味」でもある。無意味な音が意識の自己拡張を「分断」する。自己拡張を拒絶する。「音」そのもののなか、「分断」して、そのまま存在する何かがある。
 --そう考えると、初期の「プアプア」は自己拡張(連続)なのか、逆に意識の「分断」なのか、わからなくなる。「音」は「分断」と「連続」の接点として存在する。「音」によって、鈴木は、「連続」でも「分断」でもない何かを感じ取っている。(--これは、時間がなくなったので、あした書くことにしよう。)
 「音」の「無意味」、「意味」を「分断」するもののなかに、意味の不可能性のなかに、鈴木は「自己拡張」をしていこうとしている。
 (また時間切れになってしまった。中途半端に急いで、感想にならないままに書いてしまったが。もう一回、感想を書くつもり。気分屋なので、書かないかもしれないけれど。)



ペチャブル詩人
鈴木 志郎康
書肆山田
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鈴木志郎康『ペチャブル詩人』

2013-07-13 23:59:59 | 詩集
鈴木志郎康『ペチャブル詩人』(書肆山田、2013年07月05日発行)

 長い作品の方が鈴木志郎康の色が濃厚だし、私は好きなのだが、あえて短い詩を取り上げて鈴木のことばの運動の特徴を浮き彫りにしてみたい。
 「三つの短い詩」のなかの「ニンジンを食べる時」。

サラダにニンジンを入れようと、
ニンジンをまな板に横に置いて、
包丁で丁寧に人差し指の指の先で目安をつけて、
薄く輪切りにしたのを半分に切った。
食卓で半円のニンジンを食べる。
その時は包丁のことは、
もう、すーっかり、
忘れている。
ニンジンの甘みが美味しい。

 最初の4行の、克明なというか、馬鹿丁寧なことばの動きは、いわゆる「自己拡張」の報告である。ふつうは、ニンジンを半月形に切った、でおしまい。手順は省略する。それがことばの経済学というものである。その経済学を無視して、全部、書いてしまう。書いた「細部」へと鈴木は「自己拡張」していく。「自己拡張」は、ある意味では、「他者拡張」でもある。「他者」の領域に入り込み、「他者」になりかわってしまう。
 こうした例を「位置として、やわらかな風」に見ることができるが、「ニンジン」にもどる。(自己拡張については、私はすでに何回か書いたような気がするので。)
 私がこの詩で、はっとしたのは、実はそのあとの展開である。

食卓で半円のニンジンを食べる。
その時は包丁のことは、
もう、すーっかり、
忘れている。

 何かをする。そのあと、また別のことをする。そうすると、前のことを忘れている。これはだれでも体験することでとりたてて珍しいことではないのだけれど、鈴木は、それについて書いている。
 で、そのとき。
 「その時」と鈴木は書いているが、そう書いたとき「前の時」と「いまの時」がつながる。つながって「時間」になる。その結果、それは「これから先の時」とも必然的につながることになるかもしれない。ただし、「これらか先の時」を鈴木は「将来」(未来)としてではなく、「いま」としてつづけていくのだが。
 この「時」をつなげるの「つなげる」に私は鈴木の「肉体(思想)」を感じるのである。
 「忘れている」ものを「思い出し」、「いま」とつなげる。そうするとそこには「時間」が生まれるだけではなく、「時間」といっしょに「連続した自分」が生まれる。「自分」が「過去-いま」という「連続形」になって瞬間的に存在する。
 「自己拡張」というのも、「連続形」の別の呼び方であるのは、まあ、めんどうくさいので説明しないが……。

 「もう、すーっかり、/忘れている。」と言いながら、それをしっかりと「連続させる」、「忘れたまま」にしないで「思い出して/つなげる」。「連続」への果てしない欲望が鈴木志郎康なのである。
 しかし、この「連続」は、あくまで「意識」の問題である。「肉体」は「連続」しかないので、こういうことは意識しない。つまり「無意識」の領域にほうりこんで知らん顔をするのだが、鈴木は「意識」する。
 「連続」を「意識」して「欲望」する、ところに鈴木の特徴がある。これはことばを「書く」ということのなかで実現されるものである。

 で、この「連続」の対極にあるのが、声。書きことばではなく、話しことば。声は次々に消えていく。それは意識から「切断」されて、存在しなくなる。
 でも、その「切断」された「音」を繰り返し繰り返し、連続させるとどうなる?
 たとえば、

ゲ、ゲ、ゲ、ゲン、ゲン、
ダイ、ダイ、ダイ、シ、シ、
シネン
ネン、ネン、カン、カン、
ニィー、ニィー、ニィー、セン、セン、
ニセン、セン、ジュー、サン、
ジューサン、サン、サン。
「現代詩年鑑2013」ですね。
                (「現代詩手帖現代詩年鑑2013」を手にして)
 
 「無意味」だった「音」が意識のなかに残り、それが徐々に「意味」になる。音でことばを破りながら(音を独立させることで意味を破壊しながら)、意識は繰り返すことで切断を連続にかえる。
 繰り返すと、なんでも「意味」になるのだ。
 これは、どんなことば連続させれば論理になり、意味になるのにとても似ている。
 というより、どうしても「意味」にしてしまいたい欲望が鈴木にはあるということかもしれない。
 「意味」こそが、「意味」の獲得こそが、「自己拡張」なのである。

 「無意味」の音を書いていたようにみえる「プアプア」の詩も、激しい「意味」の欲望にとらわれた姿なのである。かけ離れたものへの自己拡張、なんとしてもつながりたいという本能、欲望が「プアプア」を繰り返させている。「意味」にしようとしている。その「意味」はまだだれも書いていないからこそ「プアプア」ということばで「意味」になる。「声(音)」が肉体を通り抜けていくとき、その快感が「意味」になる。
 鈴木のことばには激しい「意識」の欲望と、肉体の「快感」への欲望が堅く結びついて、個性として存在しているということになるのかもしれない。

 反復(繰り返す)というのは、「いま」をいったん「切断」し、「過去」を「接続」しなおすことである。反復することによって、その反復の内部(?)に、「連続」がうまれる。「切断/接続」の繰り返しが「連続」である。
 --と書くと、なんのことか、ややこしくなるが、鈴木は、「切断」を繰り返し「接続」させることで、「連続」という「自己拡張」を「いま」という「時」に出現させるのである。
 「その日、飲みこまれたキャー」の最後は刺激的である。東日本大震災(津波)の数か月後に、

わたしは自分の書斎で、
この詩を書いた。
二〇一一年八月十六日のこと。
もう一度書き直したのが、
一年以上経って、
二〇一二年十二月五日のこと。
二〇一二年十二月三十日にさらにまた書き直した。
そして更に二〇一三年一月と二月十七日にまた書き直した。

 こんなことは、「あとがき」であって、詩の本体(?)とか関係がない。詩人は完成された「作品」だけを提出するもの--という考えからみると奇妙な行になる。
 けれど、私に言わせれば、その前の部分よりも、この「あとがき」の部分こそ鈴木の詩である。繰り返す。繰り返して、その繰り返しを意識する。そのとき「切断」されていたものが「接続」するを超越して「連続」にかわる。
 「接続」と「連続」は、どう違うか。
 「接続」は瞬間的なものであるが、「連続」は時間を超越した「永遠(真実)」である。「連続」することで、鈴木は「真実」に「なる」のである。

                      (あした、つづきを書くかも……)






ペチャブル詩人
鈴木 志郎康
書肆山田
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柳岸津(ユ・アンジン)「神を待っていた」

2013-07-12 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
柳岸津(ユ・アンジン)「神を待っていた」/奇廷修(キ・ジョンス)訳(「something 」17、2013年06月28日発行)

 柳岸津(ユ・アンジン)「神を待っていた」は短い作品である。

ヒマラヤに登る道
人里離れた山村の外
がらんとした村の上り口、がらんとした道の真ん中
子ロバが一頭、独りで立っていた
手綱で縛られぬままでただ立っていた
登る時も立っていたのだが
下る時に見てもそのまま立っていた
澄んだ目であてもなく立っていた
さらにいっそう下って振り返ってみると
礼服のように白い裾を翻して白い雲が燃えていた
神を待っていたとは想像もできなかった

 最後の「神」が私にはわからないのだが、なぜわからないのかを考えると、この詩人は「論理性」が強いからだと気がつく。「論理性が強い」というのは、正しい日本語かどうかわからないが、唐突に出てくる「神」が柳の実感というよりも、何かことばの「論理」が勝手につくりだしたものという感じがする。柳ではなく、論理を求める気持ちが「神」ということばを要求しているのだと感じた。柳の実感ならば、もっと切実に迫ってくるはずなのに、何か、借りてきた「概念」のような感じがしたのだ。
 実感ではないもの、そういうものが書けるのか--というと、まあ、困った問題だけれど、ことばはそういうものを勝手に書いてしまうのである。
 「論理」というのは、ちょっと困ったものであって、何か「結論」めいたものを要求する。柳が「神」という「答え(結論)」を要求するというよりも、積み重ねられたことばが「結論」を求めてしまうのだ。「結論」をつくりだしてしまうのだ。どこかで聞きかじったものを「結論」として利用してしまうことがあるのだ。
 言い換えると。
 子ロバはほんとうに「神」を待っていたのか。それはだれにもわからない。子ロバは単に日が暮れるのを待っていただけかもしれない。でも、ことばは「日が暮れるのを待っていた」では落ち着かないのだ。それまで動いてきたことばの描いている「状況」を超えるものにたどりつきたいという欲望をもっている。この欲望は、柳自身のものであるというよりも、ことば自身の欲望である。
 この欲望に、この詩では、柳は負けている。
 子ロバが立っている。いつまでも立っている。それは立っているではなく「待っている」のである。自分で動いていくのではなく(たとえば柳のようにヒマラヤに登るという運動をとおして、自分をどこかに運ぶのではなく)、そこにいるのは、そこへ何かが「やってくる」来るからである。自分から行かずにそこにいること、これが「待つ」。
 そして、その「待つ」は、今書いたように、「いま/ここ」にいるのではなく、「いま/ここ」から動いてゆく、何かしらの「結論(目的)」へと動いていくものと対比すると、その性質がよくわかる。
 「いま/ここ」から別な場所へ動いていくという運動が、「いま/ここ」にいるものを「待つ」という動詞に変形させてしまう。これはいわばことばの運動の「反作用」のようなもので、ことばが勝手にでっちあげることがらである。ことばの内包する力が、ことばの「論理」の必然性として、別のことばを呼び寄せるのである。
 子ロバはほんとうに待っているのかどうかはわからない。わからないけれど「いま/ここ」からヒマラヤへ登るという運動が「立っている」を「待っている」にねじまげてしまう。ことばの「論理性」はそういう問題を孕んでいる。
 「論理」とか「結論」というものは、どこからでも姿をあらわし、「いま/ここ」のあるがままをねじまげてしまう。「いま/ここ」は勝手につくられた、「いま/ここ」の「過去」と「未来」によって「意味」にかえてしまう。ことばを身につける過程で、私たちはそういう「危険」に、知らず知らずにそまってしまう。
 人間は、「いま/ここ」をもちつづける(いまだけを生きる)ということがなかなかむずかしく、どうしても「未来」や「過去」にによって「いま/ここ」を定義づけ、「意味」にしてしまう。そういうふうに「論理」を動かして、それがほんとうかどうかわからないのに安心してしまう。
 ことばの合理主義というのか、資本主義というのか、そういうものがことばの運動そのものを勝手に「ゲシュタルト」してしまう。(こういう言い方、あってます?)
 そういうことばの「悪い癖」のようなものを、この詩の最後に感じてしまった。
 振り返ってみたら、子ロバのみつめる方向にある白い雲が夕陽のために赤く燃えていただけでいいのに、「神」を登場させて「意味」にしてしまう。「論理」は「意味」を求めるばかりで、「いま/ここ」を「無意味」のなかに解放しない。だから、最後の「神」が非常に気持ちが悪い。「意味」が暴走している。
 この気持ち悪い「意味」を「詩」と感じるひともいるかもしれないけれど、私は、違うと思う。「意味」を拒絶して、孤立する「無意味」が詩だと思う。
 美しいものが「論理」によって破壊されている--と柳の詩を読むと感じてしまう。

 「真実、反語的真実」の後半。

クモの巣を通り抜けた西風が
夕焼けの落ちるカラタチの垣を超えるとき
不意に刺されて血を流す
平常時が非常時に
出入口が非常口に
愛が憎悪に
急変するきまぐれも泥棒のように訪れるということを
知れば病気になり
知らなければ薬にもなる

 平常時-非常時、出入口-非常口、愛-憎悪、病気-薬。対比を利用して動くことば、その対比の「正確さ」が「論理」というものである。それはそれで、ことばを動かす力になり、「知る-知らない」というところにまで到達するのだが。
 うーん、
 私はその「到達点」よりも、出発点の脇の方にある「クモの巣」からの3行の方が好きなのだ。

コメント (1)
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八木幹夫『青き返信』

2013-07-11 23:59:59 | 詩集
八木幹夫『青き返信』(砂子屋書房、2013年07月25日発行)

 八木幹夫『青き返信』は歌集である。私は困惑しながら読んだ。私はめったに歌集は読まないから見当違いの感想かもしれないが、どうも音が「短歌」ではない。

ハイヒール履いてよたよた細い足俺はやっぱり大根が好き

 巻頭の一種である。「意味」はわかるが、繰り返し口にしたいという「音」がない。

フライパン豚肉白菜塩少々炎あがれば中華一品

 その通りだろうけれど「中華一品」という「料理」というよりやっつけ仕事みたいなことばの捌き方に、あ、これは食べたくないなあ、と思ってしまう。「炎あがれば」の「あがれば」が傍観的で愛情がないなあ。料理って愛情だからね。

バカ間抜けすかたん鈍感あほんだら云えば素直に咲く南瓜かな

 うーん、悪口というのは音がおもしろくないと侮蔑になってしまう。それでは南瓜がかわいそう。私は短歌をつくらないので、テキトウな感想になってしまうが、この歌の場合「素直に咲く南瓜かな」という終わり方も、どうかなあ……。「南瓜咲く」と主語+動詞の形の方が、悪口を言われたことの反応としておもしろいのでは。倒置法で南瓜を強調すると、南瓜のもっている「咲く」という動詞の強さが消えてしまう。それが残念。
 どう言っていいのかわからないのだが、何か、短歌と違うなあという思いが残る。

おのおのが名を持つ草を残そうと云えり少年蟻殺す夏

 この歌はおもしろいと思う。「雑草と云えり」までのリズムも気持ちがいいが、そのあとの「少年蟻殺す夏」が情報量が多すぎて、何か違う感じがする。

あけび割れ森に秘めたる少年の獣臭きにおいを覚ゆ

 これも情報量が多すぎる。省略できることばがあるはずだ。省略して、音をもっと「日本語」に近づけると短歌になるのになあ、と思う。
 詩の長さが抱え込む情報量を短歌に濃縮するのではなく、きっと短歌は短歌のリズムで情報を捨て去って音を響かせるのだと思う。音を肉体に取り込むのだと思う。

水ひたす女医の手にわかに輝きぬ黒鞄より聴診器だす

 この歌など、とてもおもしろい情景を呼んでいるのだが「水ひたす」がじゃましている。鞄から聴診器をだすとき女医の手が突然輝く、だけでいいのでは? どうも「短歌」の長さが八木の「文体」になっていない感じがするのである。「短歌」にするには八木の陣感はストレートすぎる。うねりがない。そして、そのうねりの欠如した分を、別なことばで補おうとしている。つまり「余分」を書いてしまう--そういう印象が残る。

小便のちかき体を持て余しバケツを提げて旅せる茂吉

 この歌でも「持て余し」が「余分(余剰)」。「もてあます」かどうかは言わなくて、「体なれば」「体ゆえ」ば「批評」がない分、すっきりと茂吉が浮かび上がる。「持て余し」という「批評」に八木の個性がでていると言えば言えるかもしれないけれど、そういう「批評」を加えなくても、茂吉の姿をそう描くだけで「批評」になり、「余分」がないと「批評」は愛情にもなるのだけれどねえ……。

ビー玉のガラス透かして「星当て」に興じし友よ今どこにゐる

 これも「長い」。「今どこにゐる」の「ゐる」が余分だし、「今」以下そのものがいらないかもしれない。

性にふれる言葉ばかりを探しゐき盗み読みする兄の書棚に

 これも「探しゐき」はなくてもいいよね。ない方が「盗み読み」の感じがする。「盗む」は「探す」を含んでいるからね。その分、もっとていねいにみつめるところがあるはずなのだと思う。ていねいにみつめて、そこでことばをうねらせると短歌になるのになあ、と思う。

 と思っていると。
 「壱岐--入沢康夫に」という歌くらいから「調子」が変わってくる。「短歌」の響きになってくる。上手になった?

汝が出雲汝が鎮魂の旅なりやパイプ燻らせ院の墓所へと

 「パイプ燻らせ」が「余分」ではなく「起承転結」の「転」のようにうねっている。そして「墓所へと」と「行く」(向かう)という動詞を省略することで、八木の肉体と読者(私、谷内)の肉体が重なるのを感じる。八木が行くのだけれど、私の肉体もいっしょに動く。そしてその動きには入沢も重なる。
あ、これだね。これが短歌というものだねと思った。

外つ国の言葉も知らぬ妻セツの語りし怪談そを聞くヘルン

 この歌にはセツ、ヘルンという二人が出てくるけれど「外国語を知らぬ」という動詞が、読者を引き込む。「わかる」と「わからない」のあいまいな世界へ、八木はどっちの立場で入って行ったのか。ね、誘われるでしょ?

ほれ鴎 よく似てるっしょ 鴎島指さす子らの訛り清しき

 「清しき」は「批評」かもしれないけれど、茂吉を読んだ「持て余し」に比べると、余計なお節介、という感じがない。お節介ではない批評を、きっと「感動」と呼ぶのだと思う。「清しき」には感動が凝縮しているのだ。

 あ、書きそびれた。

霧吹きて布目ととのうアイロンの舟行く楽し水はじくとき

 これは八木の感想なのか、八木の父がそのまま言っていたことなのかわからないけれど(父の言ったことを覚えていて書いたのだと思うが)、これは美しいなあ。ここには実際にアイロンをかける肉体が直接みる「世界」がある。アイロンをかけたくなるでしょ?

カシミヤもアルパカもみな外国の地名動物しめす生地の名

 これも「生地」という具体的な暮らしのことばによって美しく輝く。お父さんが好きだったんだなあ、ということがよくわかる。

 それやこれやで、複雑な感じ。気に入ったところだけ書けばよかったのかもしれないけれど。

八木幹夫詩集 (現代詩文庫)
八木 幹夫
思潮社
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ポール・アンドリュー・ウィリアムズ監督「アンコール!!」(★★★)

2013-07-11 09:41:14 | 映画
監督 ポール・アンドリュー・ウィリアムズ
出演 テレンス・スタンプ、バネッサ・レッドグレーブ、バネッサ・レッドグレーブ

 お年寄りの音楽映画(合唱映画)といえば、「ヤング@ハート」がおもしろかった。純粋に音楽を楽しんでいる感じがとてもいい。(「カルテット」は上品すぎて、余り楽しくなかった。だいたい「本番」がないのが、とてもつまらない。)「アンコール!!」は素人が歌うという点で「ヤング@ハート」の方に近いのだが、音楽の楽しみと同時に夫婦の愛を描いていて、なかなかせつない。
 テレンス・スタンプは吹き替えではなくて実際に歌っているのだと思うが(私は目が悪いのでクレジットでは確認できなかった)、ごつごつした感じがとてもよかった。死んだ妻に聞かせる、死んだ妻に届ける--という思いが、くっきりと浮かび上がる。
 で、音痴の私は歌の批評はやめておいて、テレンス・スタンプの手の演技について書いておきたい。これが、泣かせるのである。
 バネッサ・レッドグレーブが病気で倒れる。病院に入院する。ベッドに付き添って手を握る。このとき、二人の手(左手)がとても遠い。テレンス・スタンプはベッドから離れたところに椅子を置き、そこで座って、手だけ伸ばして(伸ばせるだけ伸ばして)、バネッサの手に触れる。近づいて手を握ればいいのに、そうしない。
 家に帰って、ひとりのベッド。そっと左手を伸ばす。そこには妻はいない。そのときの手の伸ばし方。ほんとうに少しだけしか伸ばさないのだが、それは、それ以上伸ばせば妻がいないということを左手で知ってしまうのがこわくてそうしているのである。
 妻が退院してきてから、ふたりで昔のようにならんで寝る。そのとき左手がバネッサの肩を引き寄せる。伸ばして、引き寄せる。そこに愛があふれている。
 そして死んでしまったあと、テレンス・スタンプはベッドでは眠れない。ソファで寝ている。左手がベッドの空白を感じ取るのがこわいのだ。
 この、左手の演技が、私はとても気に入った。頑固で、冷たい感じのしかめっ面しか見せないのだが、左手が、いつも愛を語っている。
 病院で遠くから手を伸ばしているのは、テレンス・スタンプの「恥ずかしさ」のあらわれである。ひとの見ている場所で(ドアが開かれ、そこから撮影されていた)、愛を「見せる」(愛を見られる)ことが苦手なのである。その「苦手」をテレンス・スタンプは歌うことで克服していくというのがこの映画のストーリーなのだ。
 バネッサが死んだあと、手は、動きようがない。動かしようがない。せいぜい、孫娘にお菓子を渡すくらいである。で、手の代わりに歌が主役になってストーリーが展開するのだが……。
 ひとつ、不満。
 予告編では、テレンス・スタンプがソロを歌うシーンで歌いだしにつまったとき、観客席から孫娘が「カモーン・グランパ(おじいちゃん、がんばれ)」と声をかける。そのあと、ステージのテレンス・スタンプが背中で手を握り締める。左手が右手か、はっきりおぼえていないが……、それまでの演技から想像すると左手だろう。左手で、バネッサの手を握りしめて、「歌うから、支えてくれ」とでもいうように動くのである。そして歌いだす(予告編では歌いだすシーンはないが……)。
 その左手の演技が本編ではない。「割愛」というより、これは編集者がテレンス・スタンプの演技を見落としているのである。その結果、ストーリーが歌に収斂してしまう。まあ、そのため感動しやすくはなっているのだが。
 しかし、これは、非常に残念である。歌とストーリーだけを重ね合わせるなら、テレンス・スタンプとバネッサ・レッドグレープでなくてもいいだろう。せっかく役者を登場させているのだから、役者の肉体をもっとていねいに編集して、演技を生かしてもらいたい。もし別バージョンをつくる機会があるなら、ぜひ、その左手のシーンを復活してもらいたい。そのシーンがあるなら、私はこの映画に★を5個つける。歌(その歌詞)だけで映画が成り立っているわけではない。
                         (2013年07月10日、天神東宝5)


ポール・ニューマンの脱走大作戦 [VHS]
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宮内憲夫「ひざ小僧の視線へ」

2013-07-10 23:59:59 | 詩集
宮内憲夫「ひざ小僧の視線へ」(「現代詩手帖」2013年07月号)

 宮内憲夫「ひざ小僧の視線へ」の書き出しにびっくりしてしまった。

すらりと晴れ上がった、午前八時の農道には
近くの幼稚園児たちが、ぶ、の字に広がり

 「ぶ、の字に広がり」。あ、これは書けないねえ。だれも書かないねえ。車が来ることなんか気にしていないから勝手気ままに散らばっている。その散らばり方が「ぶ」。で、それを「ぶ」ととらえることができるのはなぜ?

農耕車も、朗(ほが)らかに蝸牛の歩幅にされて
ハミングの後押しを手伝わされている
この、輝く風景画に額縁なんかは要らない

 ふつうの車ではなく、農耕車。きっと運転席(座席)が高い。そこから園児の散らばっている姿が俯瞰できる。宮内はの農耕車で畑へ向かっているのだろう。農耕車だから、きっとフロントガラスもない。ドアもない。運転席が、そのまま田園のなかに開放されている。その開放(解放)のなかで園児たちの解放(開放)が共鳴する。
 それにしても「ぶ」はいいなあ。
 そこには「形」だけではなく、「音」がある。楽しい音だ。だから、それを引き継ぐようにして「ハミング」も出てくる。
 園児たちは「ぶ」の字にちらばって(散らばりながら、やっぱりひとつの塊になって--ぶ、の字を意識させるのは塊だからだね)、歌を歌っている。気楽に、音を楽しんでいる。その後ろを農耕車はゆっくりゆっくり動いていく。追い抜いたりはしない--ぶの字に散らばっているから追い抜けない。あとをついていくしかないのだけれど。
 たしかに、こんな風景を「額縁」に入れても楽しくはない。この楽しさは、農耕車にのって、ただゆっくりと園児の遠足(ピクニック?)についていくものにだけ許された楽しさだ。農耕車だから、スピードだってそんなに出ないのだから、こういう楽しさもあるのだけれど、うーん、農耕車にのって農道を走ってみたい--そういう気持ちになるなあ。

いま、大人の着る不安の衣を知らないまま
解き放された、一糸まとわない魂たちが
清らかな、片言ことばの手をつなぎ
目的地なんて何処吹く風で爽やかだ
一人じめ、飛び切りの会話を道連れにして

 2連目からは、だんだん「意味」が強くなってくるのだけれど、(魂、などということばまで出てきて、なんだか精神的になってしまってもいるのだけれど)、それでも「目的地なんて何処吹く風で」がいいねえ。園児にとって「目的地」はどうでもいいのだ。「ぶ」の字にちらばって歌を歌って、だれかと勝手気ままな話をして--という「いま」があるだけだ。「いま」しかないから、「未来」と結びついている「不安」というものもない。
 「ぶ」の字と「目的地なんて何処吹く風」という園児の「形」と「こころ」をひとつにして、「農耕車」という開放的な座席へ招き入れたところが、ほんとうに楽しい。

 タイトルの「ひざ小僧の視線へ」というのは、農道をちらばって歩く園児たちの「ひざ小僧」のことを書いているだろうと思う。私は「ひざ小僧」というよりも、後ろから園児たちを見ている宮内から見える「ひざ小僧の裏側」と思って読んだ。
 「ひざ小僧の裏側」には不思議な「白さ」がある。見られることを意識しない、(園児はもともと見られることを意識などしていないが)、無防備な美しさ。それが「ぶ」の字の、やはり無防備な形、目的地を無視した無防備な姿とも重なる。
 園児の無防備に触れて、宮内も、突然、無防備になった。無防備のなかにある不思議な力の美しさが一連目に凝縮している。





おとなの童詩
宮内 憲夫
白地社
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