詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

佐藤裕子『母系譜』

2013-10-08 10:50:20 | 詩集
佐藤裕子『母系譜』(阿吽塾、2013年08月13日発行)

 佐藤裕子『母系譜』には仰天した。こんな例えがいいのかどうかわからないが、都はるみの「うなり節」をはじめて聞いたときのような感じ。こんな声がどこから出てくる? 何に感動しているのかわからないが、真似してみたい、という欲望がわいてくる。
 この「真似してみたい」という欲望を引き出すもの、わけもわからず欲望(本能)が反応してしまうもの--私は、こういうものを信じている。

 で、どう書いていこうか。わからない。私はもともと何も考えずに書きはじめる。びっくりして都はるみの「うなり声」を真似してみるのと同じである。その結果がどうなるか、予想していないし、ほんとうに考えることすらしていない。(だから、こうやって考えが動きはじめるのを待っている。)
 何に驚くかと言えば、その奇妙な形式に。
 詩の本文は奇妙な(古くさい/泉鏡花あたりがやりそうな)飾りで縁取られている。そのなかに、詩集の後半なのだが、1行の文字数が24字のことばがずーっとつづいている。いわば「定型詩」。なぜ、24字? まあ、こんなことはわからない。たぶん佐藤のことばが24字に適していたということだろう。ここに佐藤の肉体のリズムがある、--と仮定して先へ進む。(このリズムは、私にはなかなか厳しいので、すぐには取り組めないのである。)
 その1行1行を読みはじめると、これも変な感じなのである。変、としか言いようがない。「意味」があるのかないのか、わからない。都はるみの「うなり節」に意味があるのかないのか、わからないのと同じである。私は目が悪い。そして、私のワープロは佐藤がつかっている漢字をそのまま引用することがむずかしいので(佐藤の漢字には私には読めない文字もある)、申し訳ないが、それが「最良の部分」であるかどうかではなく、「引用しやすい部分」を引用して、思ったことを書いてみる。(引用できないややこしい漢字の登場する部分の方が佐藤らしいとは思うのだが、そこに佐藤の「肉体」を私は感じるのだが、仕方がない……。)
 「リフレイン」の129 -130 ページ。

抱擁は弱点を抉り会話は要所を避け許し合う野辺海辺
水を切り出す斧が雫も漏らさず捧げる群青領域の肌理
疵が昂ぶる縫合の岸知る筈ない単語が翻るいつ何処で
昏睡する借り腹で擬死を保つ株は空を幾層か削った茜
汐に傷んだ喉を降り身代わりの贄に呪を及ぼす魔除け
白骨で流れ着く馬を駆り花嫁が始めて振り返る宴の要
仮装を解けば消える憧憬凝視する眼は眼蓋に描いた目
舞踏靴は無重力感光した像を振り落とさず走馬灯回れ
ひたひた歌発条で撥ね休符天地が覆る真青な澱み冴え
産卵の祝祭を煽る早鐘鱗雲一刷き火の粉銀の箔導火線
放心を搦める真珠母色酩酊するのは重心がずれた尾鰭 
麝香の蠱惑で屈む稚魚何を湛え何を喩え撓んで行く背
手を伸べるほど遠離る掴む水を含み嚥み下す切れ切れ
毛髪に縢られた空白を鉛色した死斑で埋め塞がる海面

 このことばの連続から「意味」を引き出すのはむずかしいけれど、「意味」というのはいい加減なものだから。
 たとえば、
 1行目の「海辺」から2行目の「水」への連絡、「群青」への連絡、さらには2行目の「斧」から3行目の「疵」「縫合」、3行目の「疵/縫合」から4行目の「昏睡」「擬死」、以下何行目かの指摘は省略するが、「身代わり」「生贄」「魔除け」「白骨」「花嫁」「仮装」「舞踏」「休符」「産卵」「祝祭」「真珠」「酩酊」「尾鰭」「稚魚」「死斑」「埋め塞がる海面」とつないで行くと、海を舞台にした出産から死までの「祝祭」が見える。その「海」を現実の海ではなく「世界」の比喩と読み取ることもできる。
 婚姻(花嫁)、出産、死とつづく人生は「祝祭」であり、祝祭であるかぎりは、そこに「魔」もしのびこむ。あるいは「人生」につきものの魔を取り除く方法として婚姻、出産という祝祭があるのだが、死によってしかそれは完結しない。
 そういうことがイメージを分断しながら、同時に接続する形で展開されている。
 という具合に、要約して(阿部嘉昭のことばで言えばミクロ→全体を構想して)語ることもできるが、こんな要約(意味)というものは言った者勝ちで、どうにでもなる。

 で、そういう「意味」は、どうでもよくて--「意味」というのは勝手な妄想であって。
 このことばの運動の奥にあるのは、ことばを接続したい、それも切断した状態にある者を接続したい、あるいは接続することで「いま/ここ」に流通する接続を無効にしたい(切断したい)という欲望である。
 なぜ切断と接続という矛盾したことを同時にしたいのか。
 詩とは、かけ離れたものの偶然の出会いだからである。切断されたもの(かけ離れたもの、ミシンとこうもり傘)を接続する(手術台の上で出会わせる)と、それが詩になる。出会うはずのないものの出会いを目撃すると、目撃者のなかで「流通概念」が崩壊する。砕け散る。そのときの爆発が詩である。「流通概念(常識)」が詩に、美が生まれる。死と生の結合。
 こういう「意味」も、まあ、でっち上げの類。私は書きながら、こういう「意味」を信じてはいない。
 ここにあるのは欲望。定義不要の欲望。都はるみの「うなり節」と同じである。こんな声が出せる。声をだすときの、都はるみにしかわからない「喉の快感」。
 都はるみにしか「わからない」と書いたが、これは実は嘘。だれにでも「わかる」。そして、その「わかる」というのは、たとえば道に誰かが倒れて呻いているのを見ると、あ、このひとは腹が痛いのだと「わかる」ときの「わかる」に似ている。ひとの痛みが実際に自分の「肉体」に移ってくるわけではない。肉体がおぼえていることが、思い出されて「わかる」のである。肉体がおぼえていることを思い出す--それを「わかる」という。
 おぼえたばかりのことばをつかって、何か空想(でたらめなことば)を押し広げる。ことばがどんどん「いま/ここ」からかけ離れて行く。「いま/ここ」を違ったものにしてしまう。そのとき、「肉体」のなかで「わくわく/どきどき」がひろがる。その快感を佐藤はおぼえていて、それを解放するようにことばを動かしている。
 そして、(というか、でも……といえばいいのか)。
 ことばはどんなにでたらめを書いてみても、私がさっき「意味」をくみ取るふりをして捏造したように、「意味」が押し寄せてくる。どんな「意味」でも押しつけることができる。
 だからこそ。
 佐藤は、それをはねつけるように、破壊するように、新しいことばを次々に接続する。だれも思いつかないことばの接続を、だれも書かなかったことばの連続をつづけたい。その欲望、その本能のなかに、ことばに対する「放心」がある。「夢中のいのり」のようなものがある。(いのり--ということばには、「意味」があるから、私のつかい方はまちがっているのだが、ほかのことばが思いつかない。)
 この本能の愉悦、欲望の愉悦は、都はるみの「うなり節」と同じように、それをそっくりそのまま真似してみないと、自分の「肉体」ではおぼえられない。佐藤の愉悦を心底味わうには、佐藤と同じ詩を書くしかないのだが、それを書けない私は、都はるみを始めて聞いたときのように、ただただびっくりした!というしかない。

 詩の完成度(?)という点で言えば、高いとは言えないと思うけれど、それは私の肉体が佐藤の肉体に追いつけないからそう思うだけのことかもしれない。で、その「つまずき」は、私の場合、「リズム」。佐藤のことばのリズム、体言止めの多さが、私には物足りない。もっとうねるように連続すると、もっとおもしろくなる。
 先に引用した部分で言えば、

手を伸べるほど遠離る掴む水を含み嚥み下す切れ切れ

 という行は「手を伸べるほど遠離る/掴む水を含み嚥み下す切れ切れ」と「分断」を挿入できるのかもしれないけれど、遠く離れる水をつかみ飲みくだすという感じでも読むことができ、そこに「動詞」の存在がおおきく働く。
 そうすると、「肉体」がもっと近づく。
 「動詞」の持続力(連続性)がつよくなると、文体に粘着力がでてきて、もっと肉体を刺戟する。
 そういうことを私は期待するけれど、こんなものは単なる私の期待にすぎず(体力の衰えた人間が若い人の動きがうらやましくて、嫉妬でケチをつけているようなものだから)、気にする必要はない。ただ私は書いてみただけ。佐藤は、私の思いとは関係なく、勝手に(自由に、という方が正しいかも)変わっていくだろう。とても楽しみ。

 まだ部数が残っているかどうかわからないが、私の知らない発行所なので(店頭で買えるかどうかわからないので)、住所を書いておく。
阿吽塾 北海道北見市川東31-29 (電話 0157-32-9120)


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黒田ナオ『夜鯨を待って』

2013-10-07 09:17:05 | 詩集
黒田ナオ『夜鯨を待って』(BookWay、2013年07月31日発行)

 きのう、阿部嘉昭『ふる雪のむこう』(思潮社)の感想を書いたとき、マッチョ思想について書いた。私の考えているマッチョ思想の定義は、たぶん多くのひとの定義とは異なるだろう。私は、簡単にいってしまうと、たとえば現代西洋哲学(デリダとかドゥルーズとか……)の「哲学用語」をそのまま自分の文体のなかに持ち込んできて、それを頼りにことばを動かすことを言う。阿部の詩にそういうものが直接出てくるわけではないが、どこか「頭」で知ったものを持ち込んでいる感じが残っていて、それを私はマッチョ思想と読んだのである。だから、というのはとても変かもしれないけれど、生活ぶりだけを見ているとマッチョと言っていいような池井昌樹の詩は、逆にマッチョとは無縁である。池井は「頭」で知ったものを詩のなかには持ち込まない。あくまで「肉体」の必然性だけでことばを動かしている。
 多くの女性詩人も、当然ながらマッチョとは無縁なのだけれど、ときおり、マッチョ詩人があらわれる。亡くなってしまったひとを例に挙げるのは申し訳ない気がするが、新井豊美はその典型である。『イスロマニア』のときは女性らしかったけれど、だんだんマッチョ思想がでてきて、私はそれがなじめなかった。「女性詩」について語られたことばは、特に、そういう感じがした。「肉体」でつかみとったものというよりも、男の書いたものを読んで、「学習」してつかんだものを利用しながら、「いま/ここ」へ侵入していく感じがなじめなかった。
 阿部の作品の前に感想を書いた三井葉子の場合、もちろん「学習」はしているのだけれど、「頭」で「借りてきた」という感じがしない。「頭」を忘れて(?)、「肉体」でつかみなおしている。「教養」が「本」の活字として見えてくるのではなく、「暮らし」そのものとして隠れている。活字として見えてくるものはわかりやすく、暮らしとして隠れているものはわかりにくいけれど、そのわかりにくいものの方が私は安心できる。活字として見えてくるものは、なんというか「あれ、そんなことも知らないの」ということばといっしょに現実を強引にねじまげていく「権力」の動きに似ている。何年か前、国の予算編成に「スキーム」ということばが突然つかわれたときのようなことを思い出しながら私は書いているのだが……。

 長い長い脱線、はじまる前からの逸脱になってしまったが。
 きょう感想を書く黒田ナオ『夜鯨を待って』はマッチョ思想とは関係がない。そういうことばは、どこか遠くにある。見えないところにある。そして、そこには私にはわからないものが、平然として(悠然として?)、動いている。
 「土曜日の午後」という作品。

室内プールのなか
声だけが反響して
目に見えない子供たちが
にぎやかに跳ねまわっている

透明な天井から射し込んでくる
光の音楽に合わせて
一匹のキリンが泳いでいた
白とブルーの水泳帽をかぶり
足をかきまわし
二十五メートルプールを
行ったり来たり
行ったり来たり
見えない子供たちと
人間の子供たちの間を
すり抜けながら泳いでいく

 キリン。わかりません。私も室内プールで泳ぐことがあるが、そこにキリンがやってくることはありません。水泳帽をかぶったキリンは動物園でも見たことがありません。
 でもね。
 私にはわかります。わかりません、と書いた後にわかりますと書いてしまうのは矛盾しているけれど。これ、いいなあ、と感じてしまう。この、「いいなあ」という感じ、ほかのことばで言いなおすことができないのだけれど、この「いいなあ」が「わかる」。「いいなあ」という気持ちが「肉体」のなかに入っていく。
 黒田が実際に見ているのは「キリンのようなひと」なのかもしれない。(私の泳いでいるプールには、カバさんとカマキリさんがいる。それは体型と泳ぎのスタイルからそう呼んでいるだけのことだけれど。)
 でも。
 そうではなく、私にはキリンが見える。
 室内プールなんて、水深が1・2メートルくらいだから、キリンの足はついてしまうのだけれど、それでも泳いでいるキリンが見える。プールはキリンのまわりだけ突然水深10メートルくらいにかわっていて、そこをキリンが泳いでいる。首を高く突き出して、犬掻きみたいに「足をかきまわし」ながら。
 この「見える」が「わかる」。
 私は「目」ではなく「肉目(わざと、こう書いています)」でキリンを見る。それは私の「肉体」のなかにある「目」がおぼえていることが、いま、キリンの形になってよみがえってきているということ。「肉体」のなかにある「目」なので、それは「肉体」のなかで手や足や、皮膚にもつながっている。どこまでが「目」とはいえない、「肉体」全体で「見る」。それを「肉目」で「見る」と私は言う。
 私はキリンが泳ぐところを見たことがないが、ほかの動物が泳ぐのを見たことがある。犬を海や川で泳がせて遊ぶのも大好きだ。そして、その動物の(哺乳類の)泳ぐときの感じ、肉体の動きだけではなく、そのまわりにできる水の皺のやわらかな感じも、おぼえている。それは「目」の記憶というだけではなく、私自身が泳ぐときの「肉体」が味わう水の感触をふくめての「おぼえている」である。
 その「肉体」が「おぼえている」あれこれが、「肉体」の奥からよみがえってきて、「キリン」になって泳ぎはじめる。黒田の詩は、基本的にはキリンが泳ぐのを見ているかもしれないけれど、「キリンが泳いでいた」と書いた瞬間に、そのキリンは黒田自身であある。黒田はキリンになっている。同時に、それを読む私もキリンになっている。
 黒田も私も人間なのに、キリンに「なる」。その「なる」が「肉体」のなかで起きることを、私は「わかる」というのである。また、こういう瞬間を、「ことばの肉体がセックスする」とも言うのである。すべての区別がなくなり、非現実が起きる。現実から逸脱して(エクスタシー)、いままで知らなかった何かを一気に獲得する。その獲得したものに「意味」はない。いや、「意味」はあるかもしれないが、すぐには「意味」として語ることができない。それは「肉体」の奥にしまいこまれるだけである。それを「肉体」でおぼえるだけである。いつか、何かのきっかけで、それがもう一度肉体を破ってでてきたとき、それは「意味」になる。それまでは、何がなんだかわからない。わからないけれど、この一瞬は気持ちがいい。
 こういう、わからない何か(流通言語をつかって説明できない--頭に納得させようとすると、どれだけことばを費やせばいいのか見当がつかない何か)、わからないけれど気持ちがいい何か、セックスの快感のように、そうかこういうものが「肉体」の奥にあるのだな、「肉体」はここに書いてあることとつながっているのだなと感じることばが詩集のなかに何回か出てくる。
 こういうことばを総称して、私は「非・マッチョ思想(非・マッチョ肉体)」と考えている。--と、強引に、書き出しに結びつけておこう。
 そういう美しい部分をもう少し引用しよう。

もうすぐ雨が降ってきそうな曇り日は
土の匂いがこみ上げてきて
とても懐かしい人が
すぐそばまで
来てくれているような気がします
                             (「曇り日の気配」)

 2行目の「こみ上げてきて」がいいなあ。土がにおうのではなく、自分の肉体が土になっている。

 「一匹の蝶をしまっている」も好きだなあ。

冷蔵庫の奥に私は
一匹の蝶をしまっている
透明なジャムの空き瓶の中
蝶はいつもうっとりと眠っている
レモンイエローの羽を合わせて

真夜中
家族みんなが
ぐっすり眠り込んでいるのを確かめると
私は真っ暗な台所で
ぶーんと静かに唸り声をあげる
冷蔵庫のドアを開き
干からびたチーズや納豆のパックを
そっと押しのけて
ジャムの空き瓶を取り出し
固く閉じた瓶の蓋をまわす

すると蝶はゆっくりと目を覚まし
レモンイエローの羽をひろげて
静かに瓶をぬけ出し
暗い台所の天井あたりを
ほのかに光りながら
はたりはたり飛びまわる

私は背中を
冷たい壁におしつけて
パジャマ姿のまま腕を組み
じーっといつまでもひとり
蝶を見あげていた

ドクンドクンという
聞こえるはずもない
自分自身の
心臓の音を聞きながら

 あ、蝶のドクンドクンを聞きながら、心臓がひとつになる。--そこに至るまでの、ていねいな描写。無垢な正直さ。肉体の純粋さがある。
 うれしいなあ、こいういう詩は。


詩を読む詩をつかむ
谷内 修三
思潮社
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「ポルトガル、ここに誕生す ギマランイス歴史地区」(★★★)

2013-10-06 20:15:41 | 映画
ビクトル・エリセほか4監督「ポルトガル、ここに誕生す ギマランイス歴史地区」(★★★)

監督 アキ・カウリスマキ、ペドロ・コスタ、ビクトル・エリセ、マノエル・デ・オリベイラ

  4人の監督のオムニバス映画。アキ・カウリスマキ監督「バーテンダー」、ペドロ・コスタ監督「命の嘆き」、ビクトル・エリセ監督「割れたガラス」、マノエル・デ・オリべイラ監督「征服者、征服さる」の4話
 ビクトル・エリセ監督「割れたガラス」は、閉鎖された紡績工場が題材のインタビュー。冒頭にあらわれる廃墟になった工場が美しい。ガラスは割れていると同時に汚れている。その汚れに「時間」が刻み込まれているようで、それだけで映画を見た喜びがあふれてくるが、インタビューに答えるひとたちが、またすばらしい。
 インタビューは食堂の写真の前でおこなわれる。何人いるかわからない巨大な食堂。そこで工場の従業員が全員集まって食べている。そのときの写真。その写真も圧倒的な存在感でせまってくる。その写真の中からぬけだしてきたかのように、80歳くらいから50歳くらいまでの男女が一人ずつしゃべるのをただ正面から撮っている。年代に差があるから、彼らがそのまま写真に映っているわけではないのだが、写真の中からぬけだしてきたと錯覚してしまう。ひとりひとりの存在感がすごい。
 そして、その存在感は--ひとりひとりの人生の不思議な正直さから生まれてきている。貧しくて学校にもゆけず、働きはじめる。掃除係としてやとわれた少年は、箒を自分の家からもってきて働いている。そういうことが 100年にもならない、すぐ間近の「現代」のできごとである。工具をもたない彼は、なんとしても掃除係からぬけだしたくて社長に直談判する。「工具は?」「この両手」。そして、その手は機械によって押しつぶされたり、皮膚をはがれたり……。でも、彼は、その両手で仕事をまっとうした。最後まで働いた。そのことを、自分自身のことばできちんと話す。
 ある女性は母親といっしょに働いている。少女とは自分の妹、弟を背負って働いている。昼食のとき、母親が幼い子供に乳を与えるので、そのときだけ彼女は子守から解放される。「それが、うれしかった」。彼女は母親になり、工場の昼休みに乳飲み子に乳をやる。そんな「暮らし」を、「これが私の人生。私は何も間違ったことをしていない」という叫びのように語る。
 これは、すごい。
 最後に、アコーディオン奏者があらわれる。彼が食堂の写真に向かって即興で曲を演奏する。その音楽にあわせて巨大写真のなかの数人の顔がアップで映し出される。それは、さっき見た体験談を語った社員の若いときの顔に見えてしまう。目が美しい。貧しいけれど、みんな品性がある。ゆるぎがない。働いて、その金で生きていくということに対して、人生とはこういうものなのだという「確信」をもっている。体験談を語った何人かが同じように口にしていたことばだが、「これが人生」と「肉体」でつかみとって、それをしっかり握り締めている。「肉体」そのものにたたき込んで、おぼえている。
 こういう確信は、資本主義対労働者の構図のなかでは、いまでは否定される(評価されない)確信かもしれないが、まちがっている確信かもしれないが、胸を打たれる。あなたの考え方は資本主義に利用されるだけです、というような「頭」でわかっていることばで批判できないものをもっている。それが、たぶん「品性」。まちがったことをしていない、懸命に生きているという「人間の品性」である。
 曲を聴きながら、思わず涙がわいてくる。
 彼らが語るように、彼らの「過去」が、いま、東南アジアでくり返されている。安い労働力が、安いということだけでつかわれている。酷使されながら、ひとは、それでも夢を見て懸命に「いま」を超えていく。

 アキ・カウリスマキ監督「バーテンダー」は、相変わらずの情報量の少ない映像で感傷を誘う。
                      (2013年10月06日、KBCシネマ2)

ミツバチのささやき [DVD]
クリエーター情報なし
東北新社
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阿部嘉昭『ふる雪のむこう』

2013-10-06 09:38:32 | 詩集
阿部嘉昭『ふる雪のむこう』(思潮社、2013年09月20日発行)

 阿部嘉昭『ふる雪のむこう』は2行5連という形式を守り抜いた詩集である。詩のなかにかならず雪が出てくる。--と書いた後、さて、どうことばをつづけていくべきか。
 定型なので、ことばに一種の圧力がかかる。圧力がかかる、というとき、それはたいていの場合外圧になる。外圧をはね返す内圧が、内部でたかまってくる力が形式に緊張をもたらし、その緊張が美しく輝く--ということがある。
 逆に、内圧が形式になって働き、その暴発を外部にあるものがおさえようとする。あるいは高まった内圧をどうにかするために、対象の内部に入り込み、内部から対象を自分の「内圧」に従わせる--ということもあるかもしれない。ここからマッチョ思想があらわれる。巨大な内圧を抱えたペニスで女を貫き、女を自分の「形式」に染め上げる(征服する)という妄想があらわれる。
 阿部の場合はどっちなのだろうか。
 きのう読んだ三井葉子との比較で言えば、まあ、マッチョ思想のことばの運動である。あくまで「比較」のことなのだけれど。でも、こういうことは「比較」でしか言えないかもしれない。
 たとえば「甘露のあと」。

みんな「かんろ」で百合根のバター煮をたべ
あまさにひそむ微量のにがさに口もとを割る

 この書き出しの2行だけなら、阿部の肉体と百合根の苦さの関係は、外部(百合根)が阿部の肉体に変化を産んだということになるかな? 百合根という外部が、阿部の肉体がおぼえている苦さを誘い出し、それが阿部の肉体にさらに働きかけたということになるかな? 「形式」をここに持ち込むとややこしくなるけれど、「肉体」と「対象」との力関係(?)でいえば、対象が肉体に働きかけている。肉体は対象には働きかけていない。たべる、が働きかけといえばそうなのだけれど、その後の肉体の変化がこの2行の主題なので、まあ、そう書いておこう。
 で、その外部が、阿部の肉体からどんな「美しさ」を引き出したかというと、

あまさにひそむ微量のにがさ

 だね。さらに「口もとを割る」までつけくわえてもいいのだけれど、とりあえず「あまさにひそむ微量のにがさ」。「あまさ」と「にがさ」。これは、一般的には同じものというよりも反対のもの。矛盾。矛盾の結合。外圧によって、誘い出された、突然の(偶然の)出会い--つまり、詩だね。こういう矛盾の結合はひとを驚かす。だから、詩。
 自分でつくりだしたものではないから、私はそれを「外圧」の部類に便宜上分類する。分類しておくことにする。
 こういう関係が、この一篇の詩を統一するかというと、実は、そうではない。

そとへ出るとふたたびくらやみを雪が漏れて
ひとつの長い息のまに耳下腺までふけこむ

きこえないがきっとある合唱が降雪とされた
ために札幌のもんだいは音、これを日録とする

 あ、マッチョだねえ。2連目はそうでもないのだが、3連目がね。
 「きこえないがきっとある」というのは阿部の「肉体」が冬のなかへ入り込んで捏造することがらである。屹立したペニスである。「ない」を「ある」に強引に阿部の力で変更する。「感じない」と言っている女に「ここがGスポットだ。これで感じるはず」とおしつける。「ない」快感を「ある」と主張する。阿部の感覚でもないのに、阿部が主張すればそれが「ある」ことになってしまう。それが強引をこえると「まだまだ未開発だ、おれが開発してやる」という具合にさらにマッチョになっていく。
 ということは、書いていない? でも、

 ふる雪、そのなかに合唱がある。それは聞こえないが、ある。きこえないのは、きみの感覚がまだ研ぎすまされていないから。おれが聞こえるようにしてやるよ。

 ほら、こんなふうに書き直してみると、マッチョなセックスということがわかると思う。
 さらに、阿部は追い打ちをかける。

ために札幌のもんだいは音、これを日録とする

 この「ために」は何? 理由。理由づけ。なんで、雪がふること、そこに聞こえない合唱がある、なんて理由づけないといけない? 合唱があってもかまわないけれど、そんなものに理由はいらない。雪が降れば、そこに静かに音楽がはじまるというのは、私なんかはいつも実感するけれど、それは「理由」とは関係ないなあ。
 さらに「もんだい」ということば。
 ふーん、「もんだい」って、阿部がかってにつくりだした「もんだい」だよね。阿部の「肉体」が抱え込んでいる妄想だね。ちょうど、「ここがGスポット」というのに似ている。それは阿部が単独で決めることではない。でも、阿部はそう決めて、そこを攻める。おしつづける。「もんだいは音」だって。
 「もんだい」とわざわざ「ひらがな」にして隠そうとしているのは、「ために」に通じる「意識(精神)」というもの。「頭脳」の領域。「頭」で何かを統一しようとしている。それはセックスの快感をGスポットで統一しようとするのに似ているかも。簡単に言うと、男の頭がつくりだした精神という名の妄想による統一というものを感じる。「おれは、これを知ってる。頭で理解している。おまえは、まだそれを知らない」というとき、ね、「頭(もんだい--という概念)」を持ち出してくる。マッチョだねえ。
 あ、でも、私はこれが「悪い」と言っているのではないよ。
 阿部のことばの肉体は、そういうふうに、どこかでマッチョ思想を引きずりながら動いている、それが阿部のことばのひとつの特徴と言っているだけ。「頭」をちらつかせるそういうことばの肉体とセックスをするのは、私には、ちょっとつらい。こういうやり方を快感と感じるひともいるはずだから、それはそれでいいのだと思う。

 かなり脱線してしまったが。
 この詩集に書かれている雪は、私の知らない雪である。私は札幌の雪は知らないが、北陸の雪は「肉体」でおぼえている。そのおぼえている雪とずいぶん違う。「頭」で書かれた雪があるのかなあ。まあ、私がそう感じるだけなのかもしれない。札幌の雪は阿部の書いているとおりなのかもしれないのだが。
 あるいは。
 阿部にとって雪は、新しい「もの/こと」だったのかもしれない。阿部の「肉体」のなかには雪についておぼえていることが意外と少なくて、「肉体」だけでは雪に立ち向かうことができず(肉体の内圧だけでは不十分で)、「頭」の力を借りて、それを内圧にして雪のなかへ入って行っているのかもしれない。--そう読んでみると、わかりやすいのだけれど。マッチョ思想が雪にまで反映していると読むと、納得できるのだけれど。でも、わかりやすいということと、それが「頭」で書かれていると感じてしまうことはちょっと違っていて、わかりやすくても、違和感が残る。
 雪そのものに対する描写ではないのだが、たとえば「翌日」、

吹雪の朝に刃むかおうと着替えだして
ふと下半身が、まはだかになってしまう

みおろしたおのれがむかしのあけびのよう
よぎるためにもゆれなければならない

 「あけび」が私の肉体がおぼえている「あけび」とあまりにも違う。(阿部の見ている雪も、きっと、それくらい違うのだろう。)「あけび」は私の肉体では男の性器にはなりえない。それは、熟れるとぱっくり割れて、ペニスを誘う女の性器だ。そのなかには透明な(ときには白い膜をかぶった)卵がぎっしり。それは精子のかたまりではなく、卵子のかたまり、あるいは胎児である。精子の塊に見えるのは……あけびをつかってオナニーをしたときである。実際にそういうことはあって、私らはこどものとき、嘘かほんとうかわからない冗談のような猥談を聞かされながら、ひとりで隠れてオナニーをして、それを現実に変えてしまうという「肉体」を経験するのだが。で、そういうことを「肉体」そのものでおぼえている私なんかには、あけびが自分の性器に見えるということは絶対にない。だから、こんな「頭」でっかちのことばの運動はいやだなあ、と感じる。

おそろしい白盲にこのかぐろさがいかり
やがてはらわたから、じかに垂れるだろう

 繰り返しになるけれど、こういうことばを読むと、阿部は山であけびをもいで食べる、みんなであけびをあつめたあと、がき大将がいちばん熟れたのを選び、子分はそのあと残り物をあさる、というような純粋なマッチョ世界で、そのときどんな会話(知りもしない猥談)がかわされるか--そういうことを知らない、体験していないのかもしれない。ぶらぶらゆれるペニスからあけびを連想するなんて、山のがきにはありえない「空想」である。

 いろいろ書いたけれど。
 でも「つぼみ」は好きだなあ。「椀に享ける」もマッチョではない男の形として美しいけれど、最後の2行が私にはよくわからない。「余分」に感じる。たぶん、阿部の肉体は雪を見た興奮のなかにあって、その興奮が引き寄せる何かなのだろうと思う。「小さな自殺」のなかの、

とよみやまないしじまの逆説
ひとの裸になろうとして湯にゆく者がいて

 この2行もとても好きだなあ。二回目の冬は「ひとの裸」になって、雪を書いてください。肉体が何をおぼえているか、二回目の雪のなかへ肉体がどう入っていくか、それを書いてください。それを読みたい。頭の上にふる「初雪」ではなく、ペニスの奥、睾丸に「根雪」になって残っているものを読みたい。ペニスから雪を吹雪のように、放出してください。

ふる雪のむこう
阿部 嘉昭
思潮社
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三井葉子『秋の湯』

2013-10-05 10:43:12 | 詩集
三井葉子『秋の湯』(青娥書房、2013年09月30日発行)

 三井葉子の詩には不思議なやわらかさがある。そのやわらかさを私はどう表現していいのかわからずに困っている。男の持たないやわらかさである。男が自分の「肉体」のなかに探そうにもみつからないやわらかさである。--そんなことはない、男も女も人間なのだからどこかでつながっている、と言われそうだけれど。
 こうなったら(?)、私が語るのではなく三井に説明してもらうしかない。

目が通るのは火が通るのに似て いちど目が
 通るとそこは格別 やわらかいのでした。
                                (「鍋の豆」)

 そうか、目が通る--目で対象を貫く(射抜く)というのは、対象を「似る」のに似ているのか。たしかに火のとおった豆はやわらかく、もう二度と硬くはならない。たとえ冷えても。そんなふうに、女は対象を見つめて、ほれて(火を通すことだね、「ほれる」の「ほ」は「炎」だ)、一度やわらかくしてしまったら、いつでもずぶずぶとそのなかに「肉体」が入っていく。
 セックスのとき、男が女を貫くというのは「外形」に頼ったマッチョ思想。女が貫いている。女が男のペニスのなかを覆って、男を内部からやわらかくする。女が男の肉体の内部に入り込む方法は、豆を煮るのと同じで、すっぽり熱で包み込む。じんわり、そこから、どうやって侵入しているかわからない感じで、じわじわと包み込む。そして最後に硬さを奪ってしまう。
 男はマッチョだから、こういうことがわからない。何もわからず「目に見える形」だけに頼って女を貫いているつもりでいる。男は女を何人貫いたと自慢するけれど、うーん、女はそんなばかなことをしない。目で熱くさせる。目で火をとおす。実際にセックスしようがしまいが、そんなことは別問題。目で、男の体に火を通す。男はばかだから、燃え上がった硬くなりかけたものを、目の女ではなく、ほかの女と交わることでごまかす。そのとき、男はほんとうはいまそこにいる女ではなく、あの目の女とまじわっている。わじまらされている。目の女に肉体の全部を煮込まれている--ということに気づかない。
 目で火を通した女は、次の日(別の日)、男を見て、「あら、やわらかくなったわね」とひとりで笑っているに違いない。もう一度火を通されると、男は完全に煮崩れてしまうなあ。

 あ、そんなこと書いていない?
 そんな淫らな、そんな不潔なことを書いていない?
 そうかな?
 「花の続き」という作品。

 昨夜、あなたがわたしのことを不潔だと言
われたのでわたしはじぶんのことがふうっと
分かる気がしました。わたしは不潔、をよい
ことだとは思っていませんが。不潔はただ不
潔だというだけのことで。それはことばだけ
のことで。そんなことばも在る、というだけ
の--という意味です。

 「目で貫く」「火を通す」ことが「不潔」かと言われると、答えるのがかなりむずかしいのだが、「不潔」なのだ。
 いや、間違えた。「目で貫かれたもの」「火を通されたもの」は「不潔」なのだ。そうして「不潔」になってしまったものが、自分のせいじゃない、というために「不潔」ということばを発しているだけなのだ。
 という言い方は、正しくないなあ。
 何かが間違っているのだけれど、私のことばでは、追いきれない。
 次のことばが、別なものを照らしだしてくれる。

 潔くするということは自分の意志をいう。

 「不潔」の反対は「潔い」。「清潔」ではない。
 「不潔」とは「潔くない」ことであり、その「潔くない」ことを認めないと、いっそう「不潔」になる。怒りを買うということが起きる。
 でも、潔くなくって何が悪いのだろう。
 こういう飛躍(これから書く飛躍)は、ちょっと変かもしれないけれど。
 たとえば、硬い食べ物(豆)を煮て食べるというのは「潔い」か「潔くない」か。私の考えでは「潔くない」。硬くてもがりがりかじって、かみ砕いて食べればいい。潔く、男っぽいだろ? 煮て食べるなんて、そんな手間隙かけて、やってられるか。ほら、リンゴは硬くてもにないで齧るだろう。食べるだろう。火を通して食べるやり方もあるが。
 ああ、でも、そのままでは食べにくいものを、火をかけて(手をかけて)、やわらかくして食べる--そのときの至福。やわらかいって、おいしい。崩れるって、なんともいえない快感。
 煮崩れ。煮凝り。--そこにある、一種の「不潔さ」。そして、その「不潔」がおいしい。煮崩れたリンゴからあふれる甘さもうまいものである。
 あ、こういうことを「不潔」とは言わない?
 まあ、そうなんだけれど、三井の書いている「不潔」はそういうふうにも読むことができるなあ。
 何かを守り抜くのではない。何かをなし崩しにして、かわりに自分の「いのち」を守り抜く。(崩れても存在するものを味わう。)「意志」を守り抜くよりも「いのち」を守り抜く。硬いまま食べるのではなく、硬くて食べれないものならやわらかくして食べる。ひとがなんと言おうが、それで「いのち」をつないでいく。
 この「不潔さ」のなかに、「肉体の弱さ(硬いものをかみ砕けない歯の弱さ)」のなかに、「潔い」とは別の力がある。生きているもの、生き延びようとするものは、みんな「不潔」であることによって、生きる。

 「火」と「不潔」は、でも反対の概念だろうか。火を通すことで消毒するという方法がある。「火」は「清潔」である。--まあ、そういう見方もあるのだけれど、そうして、それが一般的ではあるのだけれど。
 その「一般的」からすこしずれて、「一般」になりきれない何かを書いていくのが詩なのだから、「流通概念」は忘れよう。
 「火」と「不潔」によって、三井は「いのち」と「やさしさ」(柔軟さ)を「肉体」に抱え込む。「やさしさ」は「やわらかさ」でもある。そして、それはつかみとろうとすれば、ぐにゅぅっと形を変えて指のあいだをくぐりぬけていく。こぼれおちていく。手には何かべたべたしたものが残る。その残ったものを、
 水で洗い流して、さらにタオルで拭き取るか、
 あるいは指をしゃぶって舐め取るか。
 汚く見えるかもしれないが(不潔に見えるかもしれないが)、しゃぶってみてはじめてわかる「味」がある。三井のことばの味は、そういう味である。経験しないとわからない味である。

 私の書いていることは、ごちゃごちゃのごった煮で、しかも素材が崩れてしまっていて、何がなんだかわからないかもしれないけれど、三井の「レシピ」にしたがって男が料理するとそうなってしまうのだ。
 だからほんとうは「料理」(食べやすいように加工する--読みやすいように注釈する、解説する)というようなことはやめて、ただ、そこにあることばを食べればいいのかもしれない。きっと、そうなのだ。
 何も加えずに、一篇、詩を引用しよう。「猫」。

日だまりで猫が目をつぶっている
いい気持?

聞くと

ううん という

日の光で光っている
幸福? と聞くとうるさいなアと立ち上って
 行ってしまう

猫の体温が猫のかたちで残っている
さよなら というのもさびしいので
てのひらで
掬う。

 猫の形でのこっている体温を掬いに行きたくなる。猫が大嫌いで、猫がこわくてしようがない私でも。




人文―三井葉子詩集
三井葉子
編集工房ノア
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小柳玲子『簡易アパート』

2013-10-04 10:43:49 | 詩集
小柳玲子『簡易アパート』(花神社、2013年09月22日発行)

 小柳玲子『簡易アパート』の「ヘイ叔父」のなかに、次の行が出てくる。

遠くて見えないものがたくさんある
遠くなったのでよく見えるものも

 それを次のように言い換えると、この詩集の全体が浮かんでくる。

死んでしまって見えないもの(会えないひと)がたくさんいる
死んでしまったので見えること(会えるひと)がたくさんいる

 死んでしまったひとには、もちろん直接会えないけれど、記憶のなかで会うのである。死んでしまったひとを思い出す。そして、その思い出したことは直接あっていたときの感じよりも鮮明である。はっきりしないのに、はっきりしないがゆえに、ほんとうに必要な部分だけがくっきりと浮かび上がってくる。その浮かび上がってきたものは、他人からみれば何でもないようなことである。
 先の「ヘイ叔父」の詩のつづきはこんな具合。

時にあって おばあ様の手もそれである
肉付きが薄い 小さな手
一族の遺伝らしい

 「おばあ様の手」が小さい。そして、その家系の手はやはり小さい。でも、それで? いや、それだけ。問われると答えられないことのなかに、全てがある。問われて答えられることのなかには、問われて答えることができるものしかない、と逆に言ってみると、ここ耐えられなものの重要性がわかる。おばあ様の手は「肉付きが薄い 小さな手」と聞いて何もわからないひとには何を説明してもわからないし、わかるひとには説明しなくてもわかる。そして、このときの「わかる」というのは、「肉体」でわかるのである。「ことば」を介さずに「わかる」のである。「暮らし」のなかで消化されて、「肉体」になってしまっている感覚。--これは説明ができない(できるかもしれないけれど、むずかしい)し、説明をしなくてもいいものである。「肉体」を共有しないひとにはどうでもいいことなのだから。
 このへんなところ、微妙なところを動くのが小柳の詩である。
 そこに書いてあることの具体は、「他人」である私にはわからないものもある。けれどわかることもある。私が「肉体」でおぼえていることが、小柳のことばに重なるのである。ことばの「肉体」がそこで出会い、私の「肉体」のなかに小柳の「肉体」を運んできてくれる。
 「簡易宿泊施設」という作品。「解説」してしまうと、それは病院。そこには小柳の知り合いが入院していて、死ぬことを待っている。そして、小柳が見舞いにゆくと、そのひとは生きているが、入院しているとは知らなかった別の知人が先に死んでしまった、ということを知らされたりする。そのとき、変なものを見たりもする。

三階あたりで 空っぽ 開けっぱなしの部屋を見かけた
「そこはオオノさんの部屋ですよ
昨日お発ちになりました」と通りがかりの人に言われる
オオノさんて誰だったか 懐かしい名前なのに
さだかには思い出せない
簡易な炊事場の桶に箸が二本浮かんでいた 寂しかった
荒い忘れて 置いていってしまったのだろうか

 人が死んだあとの、空っぽの病室--見たことがある。そして、病院の流し場で、洗ったのか、荒い忘れたのかわからないけれど、そこに箸が浮いていたり、食器が沈んでいたりするのを見たこともある。それは直接関係がないかもしれないけれど、肉体のなかに「寂しい」という感覚といっしょに残っている。それを私は「おぼえている」。そのことを、私は小柳の「ことば」をとおして思い出す。そのとき、その「思い出す」という運動は小柳のものか、あるいは私のものかわからない。--こういう一体感を私はことばのセックスというのだけれど。ことばが交錯しながら、実は「ことば」によって引き出された「肉体」がふれあっている。
 「オオノさん」が誰か、そしてその病院がどこかわからないけれど、そこに起きている「こと」はわかる。「こと」を「肉体」がおぼえているということ--起きていることを思い出すことができとるということ、その交錯が詩の瞬間なのだ。

ずいぶん上った処で あなたが出てきた
「よかった もう発とうと思っていた」とあなたは言った
「だって三日くらいは泊まっていると言うから」
「なに言っているの もう一年以上待ったわよ」
あなたはなんだかとても幼くなって 給食袋を提げているのだった
永いお別れのための御餞別を探していると
「ここはなんにも要らないの」とあなたは言った
--匙かお箸が一つあれば
  ごはんを食べる時 手ではちょっと熱いから
「さっき下で箸が水に浮かんでいたけど」
「大野新さんの部屋よ」とあなたは言った
--あなたがなかなか来ないから
  わたしが後になってしまったじゃない

 箸、ご飯を食べる--そうやって生きる。死んでしまった人の箸は、だれもつかう人がいなくて寂しくたらいのなかに浮いている。そういうことを私はその通りに見たことはないけれど、たとえば葬儀の会食の後、洗い物が流しに置いてある。水が流れている。箸が浮いている。それは父の箸だったり、母の箸だったりする。そういうことを私の肉体はおぼえている。そのときの流しの風景、窓から入ってくる光の具合を、どう書いていいかわからないけれど(克明に書くことができたら私小説になるのだろう)、おぼえている。そのことばにならない「おぼえている」が小柳のことばによって動く。
 私の肉体のなかで動いているものは、小柳の肉体のなかで動いているものと同一ではないが、似ている。「一族の遺伝」ではなく、「人間の遺伝」のように動いていることを感じる。
 さらに。
 そのときの会話は、そのときは何気なくかわしてしまった会話である。「えっ、大野新さんはしんでしまったの?」「そうよ、わたしの方が先だと思っていたのにねえ」というような会話は、かわしている時は、一種の軽みがあって、哀しみをわすれるための笑い話のようでもあるけれど。その対話の相手が死んでしまうと、その会話のなかから、ふっと、そのひとの「人柄」のようなものが浮かんでくる。
 死んでゆくのはどんなに心細いだろう。会いたい人が何人いるだろう。その人たちとちゃんと全員に会えただろうか。小柳が見舞った客(松尾直美)の気持ちはわからないが、松尾がそのときも小柳のことを思い、軽い調子で話した--その「軽さ」にこめた人柄が「わかる」。
 その人柄は、松尾が生きていた時も感じたものだろうけれど、死んでしまうと、より強くそれを感じる。死んでしまうことで、より鮮明に実感できる。「肉体」のなかで感じることができる。おぼえているのだ。おぼえていることを、思い出すのだ。

 この詩集は肉体がおぼえていることを繰り返し思い出す--その静かな詩で構成されている。静かな哀しみの、そしてそういう具合に交流できることの静謐な喜びの詩である。追悼の詩を「喜び」というのは変かもしれないが、思い出すことができる、おぼえていることがあるというのは、やはり喜びである。





メンデルスゾーン (夢人館7)
メンデルスゾーン
岩崎美術社
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金堀則夫『畦放(あはなち)』

2013-10-03 09:01:28 | 詩集
金堀則夫『畦放(あはなち)』(思潮社、2013年09月01日発行)

 金堀則夫のことばは「土地」と強く結びついている。そこには「個人」を越えた時間がある。そのことばは「神話」をめざしている。そこでは「原型」としての人間が動く。土地は東西南北へひろがるというよりも、天と対話する。地下と対話する。
 「時の砂」の書き出し。

北から南へ
流れる川は天の川
天から磐船がやってきた
もののべの伝承は 川原の砂とともに
時の穴から落ちつづけて古代に入っていった
覆いかぶせた現代が 土を掘り返したとき
砂の時間が解かれていく
鍛冶が坂のわたしは待っていた
いつか、わたしの生きているこの地から出現することを

 この地を掘ることは天につながることである。地下にある本質と天にある本質が出会う場所が「地上(の土地)」であり、地下にあるものを「地上」にふさわしい形にかえるこができたとき、「私」は「私」として出現する。あたらしく誕生する。そして「神話」になる。「神話」として誕生しようとする「いのり」(欲望/本能)が金堀のことばをたぎらせている。
 こういうことばを読むと、私は「やっぱり私は百姓の子どもだなあ」と実感する。天と地下を結びつける欲望という血は私には流れていない。ことばは、「暮らしの肉体(思想)」を背負っていて、それは背負い直すことがむずかしいのかもしれない。--と書いてしまうと、まあ、私自身の自己否定になってしまうので、そういうことは避けたいのだが、感じてしまうのである。言い換えると私の育った環境と金堀のことばの運動の場が完全に分離していて、私が何を書いてもそれは、外からみた金堀であるということだ。もし、金堀とことばのセックスをするとしたら、私は「農業」と「工業」が分離する以前の古代にまで自分の肉体を掘り返さないといけない。

鉄のとろける湯から
ひのかたちができあがってきた
カミガミは火からうみ出している
わたしのひは
ひにかえっても ひにもどれない
ひはかさなって ひをかたちづくる
ひの壷を蓋しても
また燃え上がってくる
ひのひなる性(さが)
もとのところにはもどれない
                                (「火の子」)

 「もとのところにはもどれない」。変形し、変形することで誕生する。それは同じ変形を繰り返し、同じものを生産するとしても、実は「同じ」ではないということである。こういう「直進運動」は「工業」のものであり「農業」のものではない。「農業」はいつでも「もっどってこい」という。いつでも「繰り返せる」というのである。

 もっとも金堀には「農業(百姓)」の血もまじっているようである。そこに、すこし私は接触できるものを見ている。「さびらき」という詩。書き出し。

土が
空へ 地下へと育っていく
のびていく土と土が うえとさかさに
結びついている
幸。

 これは「幸」という漢字を「なぞとき」した作品である。上向きの「土」と下向きの(さかさの)「土(ひっくり返してみてください)」を「両手(=)」でつないだものが「幸」。ここには「百姓」の「いのり」がある。ただし、これは「百姓」自身の「いのり(欲望)」ではなく、漢字というものを読み書きし、さらにそれを「頭脳」で組み立て直して世界を把握し直す「古今集」以後の世界(古今集を生み出した人間の欲望/本能)である。「工業」の経験者の方が、こういう「世界観」と宥和しやすいだろう。
 私がこの部分に、そこに「土」ということばが「神話」にならずに「暮らし」になっていることに対して、「百姓」として反応するけれど、私自身の「百姓」がすでに古今集を知ってしまっているから反応するのであって、それ以前だたら反応しないだろうなあ。
 ということは、私は古今集をさらに突き破って「太古」へまで百姓として帰ることができるか、と問われていることでもある。田圃というのは一種の加工された土地だが、その加工はせいぜいが地下1メートルから2メートルくらいである。水がもらないようにするには、それぞれそれくらいですむ。それよりさらに掘り下げて「金属」の原石を掘り出すというのは百姓の仕事ではないし、その原石を強力な火の力で加工するというのも百姓の領域を越えている。
 なぜ、こういういことを書いているかというと。
 私は金堀の詩は、結局「頭」で読んでしまうということをはっきりさせたいからである。金堀のことばを自分のことばと交わらせる、そこでことばのセックスをするということは、私にとっては「頭」の問題になるのである。「なぞる」ことはできても、それを「おぼえる」ことができない。私は、金堀の詩を読むには「不適任」なのである。

 私と金堀を、「百姓」と「工業」をつないでいくものがあるとすれば、詩集のタイトルにもなっている「畦放」の世界だろうか。

米作りをしなくても
田んぼは放置できない
畦だけは受け継いでいかなければならない
畦の放棄は 神代からのおきて破り
何度も くりかえし 草を刈る
田と田の境界を侵さないように
お互い 草を刈る 生えては 草を刈る
草の根は保護しなければならない
根が畦の崩れを防護している
土をのせ 土をかため 草を生やし 草を刈る
水を囲う畦を壊さないように護ってきた

 「農業」にも「加工」の部分があるのである。それは引き継がれる「技術」である。「技術」のなかに、人とのつながりがある。思想がある。この「技術」が崩壊している、つながりがつながりとして機能しなくなってきているというのが現代の日本の農業なのだけれど、
 「畦は(略)耕作者どうしで管理する道」なのだけれど、

畦を歩きひとが 犬と散歩するひとが……
ここは道ではない と叫べば
若者は だれにむかって言っている
ここを歩いてなにが悪い
若者よ 怒鳴ったわたしが悪かったのか
悪かったらあやまろう すまなかった
もう なにも知らなくていい
もう なにもかも変わってしまったのだ
(略)
壊した水田の雑草のなかで
鎌をもつ手は 刈っても 刈っても追いつかない
脱け出せない うらぎりもののわたしは
まだここにいる

 「うらぎりもの」によって、護られているだけなのだ。そこに「いま」をこえる「時間」がある。百姓の「いま」をこえて「神話」になる方法があるのだけれど……。

水を囲う畦を壊さないように護ってきた
計り知れない年月 幾世代がつながっている
水路を埋めてもならない 樋を壊してもならない
水のながれを わが田の畦で邪魔してはならない

 この「百姓の神話」をどう復活できるか、うーん、私はもう当事者ではなくなってしまっているので、ことばは胸に響いてくるが、どうしていいのかわからない。



畦放
金堀 則夫
思潮社
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甲田四郎『送信』

2013-10-02 09:00:06 | 詩集
甲田四郎『送信』(ワニ・プロダクション、2013年09月20日発行)

 甲田四郎『送信』の詩は、きのう書いた日原正彦の詩との比較で言うと「知っている」ことが、「知っている」ではなく「わかる」という段階にこだわって書かれている。言いなおすと、自分の暮らしを「知っている」に高めない。高めないというのは変かもしれないが、「意味」でととのえようとはしない。そのまま、あるがままに、ことばがどこまでついてこれるか、ことばをたたいている。鍛えている。
 「換気扇」の書き出し。

換気扇の羽根が重たそうに回りだして
ギイギイギイギイうなりだす
抗議のようである
ヒモ引っ張って止めて、また引っ張って動かす
羽根がこんどはうならずに回っている
あきらめたようである
短い平安の時にいる

 「ヒモ引っ張って止めて、また引っ張って動かす」--詩なので、ことばで書くしかないのだが、この紐をひっぱるコツは「肉体」がおぼえていることがらである。ただひっぱってはだめ。換気扇のご機嫌をうかがいながら、こんな感じ、この瞬間、ここに力を入れて……と繰り返し繰り返し、自分の「肉体」に覚え込ませた何か。そういうものがある。「あ、さすがお父さん、上手ね」ということばが交わされたりするのである。それを聞きながら換気扇は「もう、働きたくないんだよ、おれは。でも、しょうがないか、今日一日我慢して働くか」と動いている。
 ここには「意味」はない。これを「知っている」と誰かにつたえるものがない。共有する「意味」はない。ただ暮らしがあり、その暮らしを甲田は妻と共有している。

 他人の暮らしというものは--私から見て、甲田の暮らしというものは、私が「共有」するものではない。いっしょに暮らしているわけではない。「共有」するものがない、というのは「無意味」ということである。甲田の家の換気扇がギイギイうなろうが、それを甲田がどんなふうになだめすかして動かしていようが、私とは無関係である。
 それは、まあ、日原が遠くで子どもと母親が遊んでいるのを見ていることが私には「無関係」であるのと似てはいるのだが、日原はその「親子の関係」を、それから「宇宙と親子の関係(?)」に昇華して「意味」をつくりだし、それを読者につたえようとしているが--「意味」によって、読者に「関係」をせまってくるが、甲田はそんなことはしない。甲田は「意味」なんか「知らない」という。換気扇の動かし方なら「わかる」というだけなのである。「知識」による連続性を強要しないしない。「感動」を強要しない。
 で、「無意味」であるから、そこになんともいえないさっぱり感がある。笑いがある。甲田にはもうしわけないが、他人の暮らしの苦労というのは、笑ってみていられる。そして、笑いを共有するのが、なんというか、その「場」、共同体の「生き方(思想)」なのである。
 えっ、そんな引っ張り方で動くのかい? うちのは一回右の方へねじるようにしてからひっぱるんだよ。--というようなことを自慢(?)する。そんな「個別的なこと」自慢にならないでしょ? でも、自慢する。そうして「個別性」の、「個であること」の強さのようなものに帰っていく。一個の「肉体」。ここに、いま「肉体」として生きているというようなことに帰っていく。
 動きの悪い換気扇をなだめなだめつかうなどというのは、絶対に「合理主義」の「流通」にはのらない。でも、その「のらない」ということが、「流通(合理主義)」とは別のところで、「意味」を越えてつながっていく。そこから「暮らし」が生まれてくる感じがする。これが、いい。

 「個別性」を別のことばで言えば「具体」である。「私は具体で生きている」という詩がある。

コンビニのカップラーメンは一七六円だが
血圧に悪いからダメ
チェーン店の弁当屋は大音響で女の早口の歌を流している
目の奥に響きが店に入るまでは忘れていた
サケ弁一つ三九〇円、飯が小盛だと三四〇円
参入したいができない値段だ
チクワのてんぷらと何とかのフライと何とかの漬物は
血圧が上がるから捨ててサケと飯だけ食べる
女房がタマネギの味噌汁を作ることになっている

 抽象的なことは何も書いていない。抽象がないということは、「流通する意味」(共有する意味/合理化のための方法)がないということである。で、こういう「流通」にのらないことばに、どういうい「意味」があるのか。「感動」と無関係なことばに、どういう「意味」があるのか。
 うーん、これを言うのはむずかしい。
 ことばは「意味」がなくても、こんなふうに動き、存在するということがはっきりする。それが「わかる」ということに「意味」がある。「ことばの肉体」を「わかる」ことに「意味」がある。
 これは、人それぞれに「肉体」があって、その「肉体」は私の思いとは無関係に動くのだけれど、いったん動きはじめると、そこに共通するものがあることを「肉体」がわかってしまう、というところに「意味」がある。
 道に誰かが倒れていて、腹を抱えてうずくまっている。それを見ると、その痛みは自分のものではないのに、あ、腹が痛いんだと「わかる」。それに似ている。
 「コンビニのカップラーメンは一七六円」から二〇〇円出せば二四円おつりが来るということが「わかる」。サケ弁三九〇円より安いということが「わかる」。そういう具合に、どこかで考えながら値段を見ているということが「わかる」。その「わかる」を共有して「暮らしの肉体(思想)」が動く。その動き方、動かし方がわかる。
 こういうことは、「合理主義」から見ると「わかってしまう」のは困る、ということかもしれない。そんな個別性にこだわっていては、ものごとを動かすのにめんどうくさくてしようがないからね。だからこそ、まあ、そのめんどうくさいことにしがみつくことの「意味」が生まれてくる。そこから、どんどん「個別」の反逆、「個別のことば」が生まれてくるところに「意味」がある。個別にこだわっていると、突然、何かが「わかる」。「ことばの肉体」がことばを「生み出す」ために動くことがわかる。
 「ひとつから」におもしろい部分がある。和菓子はたいてい何個かセットになっているが「ひとつから、お気軽にどうぞ」と書いたビラをつくり、一個買うひとにも配慮しようということになった。そういうことのあとで、

私昔組合で言ったことがある
人がヒマだと聞けば安心するけどさ
安心したって仕方がないよな、売れなけりゃあ
すると松葉屋のじいさんが叫んだ
ちがわい人がヒマなら安心だい
自分だけヒマなら大変だい

 「流通する意味」が見落としていたものが「個別」から反撃される。「流通する意味」を「個別」が反撃する。そういう「個別」の「肉体」というのは、とても重要だと思う。こういうことばは生きつづけなければいけないのである。「知っている」ことばではなく、「わかる」ことば(肉体がおぼえていることば)だけが「流通」と戦うことができると私は信じている。

大手が来る―甲田四郎詩集
甲田四郎
潮流出版社
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日原正彦『冬青空』

2013-10-01 08:58:18 | 詩集
日原正彦『冬青空』(ふたば工房、2013年10月01日発行)

 日原正彦の詩は、私が十代だったころから知っている。ある部分は好きだが、ある部分は嫌いである。その「嫌い」の理由が長い間わからなかったが、今回、少しわかったことがある。
 「わかる」という詩から。(まるで、冗談みたいな話になってしまうが……。)

大きな樹を見あげて
子どもが 白い手をひらひらと遊ばせながら
母親に何か言っている

遠くて聞きとれないが

わかってしまう
全身で

ここの真上にひろがっている空と
あの樹の上方から
あの子の目のなかに青くうちよせている空は
おんなじ空だから

母親が子どもに
何か答えている
口が ふるえる雫のよう光っている

それも聞きとれないが

わかる
気持で

 私には「わかってしまう/全身で」ととても納得できる。ところが「わかる/気持で」になるとぎょっとしてしまう。突然、いやあな気分になる。「気持」が「気持ち悪い」のである。私は何かを「気持ち」でわかってほしいとは望まない人間なのかもしれない。逆に言うと、何かを「わかる」ときには「気持ち」では「わからない」人間なのかもしれない。「気持ち」で何かを理解したいととは思わないと言いなおせばいいだろうか。
 では何だわかるのか。「全身で」。私のことばで言いなおせば「肉体で」。
 遠くで子どもが母親に何か言っている。その声は聞こえない。けれど、その子どもの「肉体」の喜びは「白い手をひらひらと遊ばせながら」で「わかる」。そして、そういうとき母親が「うれしい」ということも何となく「わかる」。それは、たぶん私の肉体が、そういうことを「おぼえている」からである。いつ、どこで、とは言えないし、それがほんとうに自分の「肉体」で直接体験したことかどうかもはっきりしないけれど、ふいに何かに気がついて母親に言わずにはいられなかったときの肉体のなかにある動き、それを私の「肉体」はおぼえている。その「肉体」が子どもの「肉体」と重なる。「白い手をひらひらと遊ばせながら」子どもが何かを母親に言うとき(それを見るとき)、私は私ではなく、「子ども」になっている。だから、「わかる」のだ。母親が答えていることが「わかる」のだ。ことばの「意味」ではなく、母親が子どもに答えるときの「肉体」のなかの動きが、「肉体」としてわかるのである。母親は子どもを受け止めている。子どもは母親に受け止められている。その、二人の「肉体」の関係がわかるのである。ことばはいらない。だから、ことばは聞こえなくてもいい。
 ここには母と子の、「永遠」がある。「永遠」だから、誰にでも「肉体」でわかる。

 でも、そのあとは、少しずつ気持ちが悪くなる。「肉体」が消えるからである。
 「ここの真上にひろがっている空と/あの樹の上方から/あの子の目のなかに青くうちよせている空は/おんなじ空だから」のなかには「肉体」がない。かわりに「ことば」がある。「論理」がある。「ここ(私)」の上にある空と、木の上、あの子の上にある空をことばでつないで「同じ」と断定している。「あの子の目のなか」と「肉体」は出てくるが、その「肉体」は「白い手をひらひらと遊ばせながら」のような「肉体」を動かすときの「肉体」ではない。外からはわからない「肉体」。外からわからないものを、日原はことばで補いながら「わかる」ようにしている。

わかる
気持で

 ではなく、「ことばで」ということになる。「論理で」ということになる。「論理」を「想像力」に置き換えると、すこし「気持ち」に近づいていく錯覚に陥るが、やっぱり違うと思う。
 日原は「気持ち(感情)」でわかるのではなく、「論理(頭)」でわかるのだと思う。この「わかる」は別のことばで言えば「知っている」になるかもしれない。
 「雨と傘」に「知っている」は出てくる。

雨のなかを
傘をさして歩いてゆく人の背を
見ている

その人の傘の 円
その人の 今が ひろがっていって
それにぼくは包まれているのだが
その人はそれを知らない

いや 知っている
知っているのだろうか
あるいは 背で

 これだけでは「知っている」が何かよくわからないかもしれないが。そのつづきを読むと、「知っている」とは何かがわかる。

ぼくの傘の 円
ぼくの今も ひろがっていって
その縁に その人の背をはりつけている

ぼくはそれを知っている
いや 何を知っているというのだ
背を?

確かなことはひとつだけ

ぼくの今とその人の今は
好むと好まざるとに関わらずひろがっていって
好むと好まざるとに関わらず
どこかで重なっているということ
雨がそれら全てをまんべんなくぬらしているということ

 「確かなこと」と書いているが、それは「確か」かどうかはだれがきめたのだろう。日原は、その「証明」を「ことば(論理)」で展開できるから「確か」といっているにすぎない。そこにあるのは「頭」がつくりあげた「論理」である。
 あることがらを「ことばの論理(頭の論理)」で証明できたとき、それを日原は「知っている(知識)」と定義する。そして、この「知っている」で「わかる」を飲み込んでしまう。「知っている」といえたときが、日原にとって「わかる」ということなのである。それは、だから「頭」で「わかる」ということなのだ。この瞬間「肉体」が欠落する。日原は「肉体」を感情に、感情を精神(頭)に昇華したというかもしれないが、この肉体→感情→精神→頭(頭脳)という運動が、私は嫌いだ。

 もう一篇、ほかの詩も取り上げてみようか。「枝と空」。

ある日 枝が
空をあきらめる

うれしそうに とも かなしそうに とも言えるし
どちらでもない とも言える

 キーワードは「言える」である。「言える」ことは「たしかなこと」。「たしかなこと」にするために日原は言う。ことばを書く。「わかる」を「知っている」に変えるために、書く。
 でもねえ。
 知らなくても(ことばにできないくても)、「わかる」ということはあるのだ。


詩集 夏の森を抜けて 日原正彦
日原正彦
ふたば工房
コメント
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