佐藤裕子『母系譜』(阿吽塾、2013年08月13日発行)
佐藤裕子『母系譜』には仰天した。こんな例えがいいのかどうかわからないが、都はるみの「うなり節」をはじめて聞いたときのような感じ。こんな声がどこから出てくる? 何に感動しているのかわからないが、真似してみたい、という欲望がわいてくる。
この「真似してみたい」という欲望を引き出すもの、わけもわからず欲望(本能)が反応してしまうもの--私は、こういうものを信じている。
で、どう書いていこうか。わからない。私はもともと何も考えずに書きはじめる。びっくりして都はるみの「うなり声」を真似してみるのと同じである。その結果がどうなるか、予想していないし、ほんとうに考えることすらしていない。(だから、こうやって考えが動きはじめるのを待っている。)
何に驚くかと言えば、その奇妙な形式に。
詩の本文は奇妙な(古くさい/泉鏡花あたりがやりそうな)飾りで縁取られている。そのなかに、詩集の後半なのだが、1行の文字数が24字のことばがずーっとつづいている。いわば「定型詩」。なぜ、24字? まあ、こんなことはわからない。たぶん佐藤のことばが24字に適していたということだろう。ここに佐藤の肉体のリズムがある、--と仮定して先へ進む。(このリズムは、私にはなかなか厳しいので、すぐには取り組めないのである。)
その1行1行を読みはじめると、これも変な感じなのである。変、としか言いようがない。「意味」があるのかないのか、わからない。都はるみの「うなり節」に意味があるのかないのか、わからないのと同じである。私は目が悪い。そして、私のワープロは佐藤がつかっている漢字をそのまま引用することがむずかしいので(佐藤の漢字には私には読めない文字もある)、申し訳ないが、それが「最良の部分」であるかどうかではなく、「引用しやすい部分」を引用して、思ったことを書いてみる。(引用できないややこしい漢字の登場する部分の方が佐藤らしいとは思うのだが、そこに佐藤の「肉体」を私は感じるのだが、仕方がない……。)
「リフレイン」の129 -130 ページ。
このことばの連続から「意味」を引き出すのはむずかしいけれど、「意味」というのはいい加減なものだから。
たとえば、
1行目の「海辺」から2行目の「水」への連絡、「群青」への連絡、さらには2行目の「斧」から3行目の「疵」「縫合」、3行目の「疵/縫合」から4行目の「昏睡」「擬死」、以下何行目かの指摘は省略するが、「身代わり」「生贄」「魔除け」「白骨」「花嫁」「仮装」「舞踏」「休符」「産卵」「祝祭」「真珠」「酩酊」「尾鰭」「稚魚」「死斑」「埋め塞がる海面」とつないで行くと、海を舞台にした出産から死までの「祝祭」が見える。その「海」を現実の海ではなく「世界」の比喩と読み取ることもできる。
婚姻(花嫁)、出産、死とつづく人生は「祝祭」であり、祝祭であるかぎりは、そこに「魔」もしのびこむ。あるいは「人生」につきものの魔を取り除く方法として婚姻、出産という祝祭があるのだが、死によってしかそれは完結しない。
そういうことがイメージを分断しながら、同時に接続する形で展開されている。
という具合に、要約して(阿部嘉昭のことばで言えばミクロ→全体を構想して)語ることもできるが、こんな要約(意味)というものは言った者勝ちで、どうにでもなる。
で、そういう「意味」は、どうでもよくて--「意味」というのは勝手な妄想であって。
このことばの運動の奥にあるのは、ことばを接続したい、それも切断した状態にある者を接続したい、あるいは接続することで「いま/ここ」に流通する接続を無効にしたい(切断したい)という欲望である。
なぜ切断と接続という矛盾したことを同時にしたいのか。
詩とは、かけ離れたものの偶然の出会いだからである。切断されたもの(かけ離れたもの、ミシンとこうもり傘)を接続する(手術台の上で出会わせる)と、それが詩になる。出会うはずのないものの出会いを目撃すると、目撃者のなかで「流通概念」が崩壊する。砕け散る。そのときの爆発が詩である。「流通概念(常識)」が詩に、美が生まれる。死と生の結合。
こういう「意味」も、まあ、でっち上げの類。私は書きながら、こういう「意味」を信じてはいない。
ここにあるのは欲望。定義不要の欲望。都はるみの「うなり節」と同じである。こんな声が出せる。声をだすときの、都はるみにしかわからない「喉の快感」。
都はるみにしか「わからない」と書いたが、これは実は嘘。だれにでも「わかる」。そして、その「わかる」というのは、たとえば道に誰かが倒れて呻いているのを見ると、あ、このひとは腹が痛いのだと「わかる」ときの「わかる」に似ている。ひとの痛みが実際に自分の「肉体」に移ってくるわけではない。肉体がおぼえていることが、思い出されて「わかる」のである。肉体がおぼえていることを思い出す--それを「わかる」という。
おぼえたばかりのことばをつかって、何か空想(でたらめなことば)を押し広げる。ことばがどんどん「いま/ここ」からかけ離れて行く。「いま/ここ」を違ったものにしてしまう。そのとき、「肉体」のなかで「わくわく/どきどき」がひろがる。その快感を佐藤はおぼえていて、それを解放するようにことばを動かしている。
そして、(というか、でも……といえばいいのか)。
ことばはどんなにでたらめを書いてみても、私がさっき「意味」をくみ取るふりをして捏造したように、「意味」が押し寄せてくる。どんな「意味」でも押しつけることができる。
だからこそ。
佐藤は、それをはねつけるように、破壊するように、新しいことばを次々に接続する。だれも思いつかないことばの接続を、だれも書かなかったことばの連続をつづけたい。その欲望、その本能のなかに、ことばに対する「放心」がある。「夢中のいのり」のようなものがある。(いのり--ということばには、「意味」があるから、私のつかい方はまちがっているのだが、ほかのことばが思いつかない。)
この本能の愉悦、欲望の愉悦は、都はるみの「うなり節」と同じように、それをそっくりそのまま真似してみないと、自分の「肉体」ではおぼえられない。佐藤の愉悦を心底味わうには、佐藤と同じ詩を書くしかないのだが、それを書けない私は、都はるみを始めて聞いたときのように、ただただびっくりした!というしかない。
詩の完成度(?)という点で言えば、高いとは言えないと思うけれど、それは私の肉体が佐藤の肉体に追いつけないからそう思うだけのことかもしれない。で、その「つまずき」は、私の場合、「リズム」。佐藤のことばのリズム、体言止めの多さが、私には物足りない。もっとうねるように連続すると、もっとおもしろくなる。
先に引用した部分で言えば、
という行は「手を伸べるほど遠離る/掴む水を含み嚥み下す切れ切れ」と「分断」を挿入できるのかもしれないけれど、遠く離れる水をつかみ飲みくだすという感じでも読むことができ、そこに「動詞」の存在がおおきく働く。
そうすると、「肉体」がもっと近づく。
「動詞」の持続力(連続性)がつよくなると、文体に粘着力がでてきて、もっと肉体を刺戟する。
そういうことを私は期待するけれど、こんなものは単なる私の期待にすぎず(体力の衰えた人間が若い人の動きがうらやましくて、嫉妬でケチをつけているようなものだから)、気にする必要はない。ただ私は書いてみただけ。佐藤は、私の思いとは関係なく、勝手に(自由に、という方が正しいかも)変わっていくだろう。とても楽しみ。
まだ部数が残っているかどうかわからないが、私の知らない発行所なので(店頭で買えるかどうかわからないので)、住所を書いておく。
阿吽塾 北海道北見市川東31-29 (電話 0157-32-9120)
佐藤裕子『母系譜』には仰天した。こんな例えがいいのかどうかわからないが、都はるみの「うなり節」をはじめて聞いたときのような感じ。こんな声がどこから出てくる? 何に感動しているのかわからないが、真似してみたい、という欲望がわいてくる。
この「真似してみたい」という欲望を引き出すもの、わけもわからず欲望(本能)が反応してしまうもの--私は、こういうものを信じている。
で、どう書いていこうか。わからない。私はもともと何も考えずに書きはじめる。びっくりして都はるみの「うなり声」を真似してみるのと同じである。その結果がどうなるか、予想していないし、ほんとうに考えることすらしていない。(だから、こうやって考えが動きはじめるのを待っている。)
何に驚くかと言えば、その奇妙な形式に。
詩の本文は奇妙な(古くさい/泉鏡花あたりがやりそうな)飾りで縁取られている。そのなかに、詩集の後半なのだが、1行の文字数が24字のことばがずーっとつづいている。いわば「定型詩」。なぜ、24字? まあ、こんなことはわからない。たぶん佐藤のことばが24字に適していたということだろう。ここに佐藤の肉体のリズムがある、--と仮定して先へ進む。(このリズムは、私にはなかなか厳しいので、すぐには取り組めないのである。)
その1行1行を読みはじめると、これも変な感じなのである。変、としか言いようがない。「意味」があるのかないのか、わからない。都はるみの「うなり節」に意味があるのかないのか、わからないのと同じである。私は目が悪い。そして、私のワープロは佐藤がつかっている漢字をそのまま引用することがむずかしいので(佐藤の漢字には私には読めない文字もある)、申し訳ないが、それが「最良の部分」であるかどうかではなく、「引用しやすい部分」を引用して、思ったことを書いてみる。(引用できないややこしい漢字の登場する部分の方が佐藤らしいとは思うのだが、そこに佐藤の「肉体」を私は感じるのだが、仕方がない……。)
「リフレイン」の129 -130 ページ。
抱擁は弱点を抉り会話は要所を避け許し合う野辺海辺
水を切り出す斧が雫も漏らさず捧げる群青領域の肌理
疵が昂ぶる縫合の岸知る筈ない単語が翻るいつ何処で
昏睡する借り腹で擬死を保つ株は空を幾層か削った茜
汐に傷んだ喉を降り身代わりの贄に呪を及ぼす魔除け
白骨で流れ着く馬を駆り花嫁が始めて振り返る宴の要
仮装を解けば消える憧憬凝視する眼は眼蓋に描いた目
舞踏靴は無重力感光した像を振り落とさず走馬灯回れ
ひたひた歌発条で撥ね休符天地が覆る真青な澱み冴え
産卵の祝祭を煽る早鐘鱗雲一刷き火の粉銀の箔導火線
放心を搦める真珠母色酩酊するのは重心がずれた尾鰭
麝香の蠱惑で屈む稚魚何を湛え何を喩え撓んで行く背
手を伸べるほど遠離る掴む水を含み嚥み下す切れ切れ
毛髪に縢られた空白を鉛色した死斑で埋め塞がる海面
このことばの連続から「意味」を引き出すのはむずかしいけれど、「意味」というのはいい加減なものだから。
たとえば、
1行目の「海辺」から2行目の「水」への連絡、「群青」への連絡、さらには2行目の「斧」から3行目の「疵」「縫合」、3行目の「疵/縫合」から4行目の「昏睡」「擬死」、以下何行目かの指摘は省略するが、「身代わり」「生贄」「魔除け」「白骨」「花嫁」「仮装」「舞踏」「休符」「産卵」「祝祭」「真珠」「酩酊」「尾鰭」「稚魚」「死斑」「埋め塞がる海面」とつないで行くと、海を舞台にした出産から死までの「祝祭」が見える。その「海」を現実の海ではなく「世界」の比喩と読み取ることもできる。
婚姻(花嫁)、出産、死とつづく人生は「祝祭」であり、祝祭であるかぎりは、そこに「魔」もしのびこむ。あるいは「人生」につきものの魔を取り除く方法として婚姻、出産という祝祭があるのだが、死によってしかそれは完結しない。
そういうことがイメージを分断しながら、同時に接続する形で展開されている。
という具合に、要約して(阿部嘉昭のことばで言えばミクロ→全体を構想して)語ることもできるが、こんな要約(意味)というものは言った者勝ちで、どうにでもなる。
で、そういう「意味」は、どうでもよくて--「意味」というのは勝手な妄想であって。
このことばの運動の奥にあるのは、ことばを接続したい、それも切断した状態にある者を接続したい、あるいは接続することで「いま/ここ」に流通する接続を無効にしたい(切断したい)という欲望である。
なぜ切断と接続という矛盾したことを同時にしたいのか。
詩とは、かけ離れたものの偶然の出会いだからである。切断されたもの(かけ離れたもの、ミシンとこうもり傘)を接続する(手術台の上で出会わせる)と、それが詩になる。出会うはずのないものの出会いを目撃すると、目撃者のなかで「流通概念」が崩壊する。砕け散る。そのときの爆発が詩である。「流通概念(常識)」が詩に、美が生まれる。死と生の結合。
こういう「意味」も、まあ、でっち上げの類。私は書きながら、こういう「意味」を信じてはいない。
ここにあるのは欲望。定義不要の欲望。都はるみの「うなり節」と同じである。こんな声が出せる。声をだすときの、都はるみにしかわからない「喉の快感」。
都はるみにしか「わからない」と書いたが、これは実は嘘。だれにでも「わかる」。そして、その「わかる」というのは、たとえば道に誰かが倒れて呻いているのを見ると、あ、このひとは腹が痛いのだと「わかる」ときの「わかる」に似ている。ひとの痛みが実際に自分の「肉体」に移ってくるわけではない。肉体がおぼえていることが、思い出されて「わかる」のである。肉体がおぼえていることを思い出す--それを「わかる」という。
おぼえたばかりのことばをつかって、何か空想(でたらめなことば)を押し広げる。ことばがどんどん「いま/ここ」からかけ離れて行く。「いま/ここ」を違ったものにしてしまう。そのとき、「肉体」のなかで「わくわく/どきどき」がひろがる。その快感を佐藤はおぼえていて、それを解放するようにことばを動かしている。
そして、(というか、でも……といえばいいのか)。
ことばはどんなにでたらめを書いてみても、私がさっき「意味」をくみ取るふりをして捏造したように、「意味」が押し寄せてくる。どんな「意味」でも押しつけることができる。
だからこそ。
佐藤は、それをはねつけるように、破壊するように、新しいことばを次々に接続する。だれも思いつかないことばの接続を、だれも書かなかったことばの連続をつづけたい。その欲望、その本能のなかに、ことばに対する「放心」がある。「夢中のいのり」のようなものがある。(いのり--ということばには、「意味」があるから、私のつかい方はまちがっているのだが、ほかのことばが思いつかない。)
この本能の愉悦、欲望の愉悦は、都はるみの「うなり節」と同じように、それをそっくりそのまま真似してみないと、自分の「肉体」ではおぼえられない。佐藤の愉悦を心底味わうには、佐藤と同じ詩を書くしかないのだが、それを書けない私は、都はるみを始めて聞いたときのように、ただただびっくりした!というしかない。
詩の完成度(?)という点で言えば、高いとは言えないと思うけれど、それは私の肉体が佐藤の肉体に追いつけないからそう思うだけのことかもしれない。で、その「つまずき」は、私の場合、「リズム」。佐藤のことばのリズム、体言止めの多さが、私には物足りない。もっとうねるように連続すると、もっとおもしろくなる。
先に引用した部分で言えば、
手を伸べるほど遠離る掴む水を含み嚥み下す切れ切れ
という行は「手を伸べるほど遠離る/掴む水を含み嚥み下す切れ切れ」と「分断」を挿入できるのかもしれないけれど、遠く離れる水をつかみ飲みくだすという感じでも読むことができ、そこに「動詞」の存在がおおきく働く。
そうすると、「肉体」がもっと近づく。
「動詞」の持続力(連続性)がつよくなると、文体に粘着力がでてきて、もっと肉体を刺戟する。
そういうことを私は期待するけれど、こんなものは単なる私の期待にすぎず(体力の衰えた人間が若い人の動きがうらやましくて、嫉妬でケチをつけているようなものだから)、気にする必要はない。ただ私は書いてみただけ。佐藤は、私の思いとは関係なく、勝手に(自由に、という方が正しいかも)変わっていくだろう。とても楽しみ。
まだ部数が残っているかどうかわからないが、私の知らない発行所なので(店頭で買えるかどうかわからないので)、住所を書いておく。
阿吽塾 北海道北見市川東31-29 (電話 0157-32-9120)