井坂洋子「からだ」、佐々木安美「盛り土がある、と切り土は考える。」ほか(「一個」4、2013年冬発行)
井坂洋子「からだ」と佐々木安美「盛り土がある、と切り土は考える。」を読みながら、あ、何かがつづいている、と感じた。佐々木の詩に「カラダ」ということばがあるからか。そうかもしれないが、それ以外のことも関係しているかもしれない。
井坂は「読んだ」、佐々木は「考える(考えた)」という「動詞」をつかっている。その二つが私の印象では「ひとつ」になる。井坂は「読んだ」だけではなく、読んで考えた。そこには「考えた」が省略されている。佐々木は「考える」の前に「ある(開かれた)」という動詞を置いている。この「ある(開かれた)」に出会って(見て)、「考える」が始まる。その「出会い(見る)」が、私には「読む」に似ているように思える。「開かれた」はあたかも「土の世界」という「本」が開かれて、それを「読んでいる」感じがする。佐々木の書いている「考える(考えた)」は佐々木ではなく、「切り土」なのだが、そこに佐々木自身が託されているように感じる。
「考える」ふたりは、「からだ/カラダ」にたどりつく。
「生命の顕現はいたるところに」の最後には「ある」が省略されている。それは「盛り土」のように「ある」。それを見て「わたし(切り土)」は考えるのだが、
「ある」ものは「水滴/涙」とことばをかえながら動く。動詞を「落下(する)」「滴り落ちる」と変化させる。「盛り土」の嵩が切り開いた土の量によってかわるように、何かが変わるのだが、それがかわっても、何か「ある」ものと「自分(肉体?)」の関係はずーっとつづいている。「盛り土」と「切り土」の総和が変わらないように、形は変わっても変わらない「総和」のようなものがある。
それは、もしかしたら「思い」ということかもしれない。(「涙」ということばに影響されて、ふと「思い」とことばがやってきた……)。
「思い」は「思う」。そして「思う」は「考える」。それが井坂の「からだの中(体内)」で動いている。「考え(思い)」は結論にたどりつくわけではないのだが、その「動き」そのものを感じる。
佐々木の書いてる「水」は「涙」というより、「体内の水分」全部のことかもしれないが、「意識のアリカ」というようなことばは「涙」にぐっと近づく。「意識」を「感情(思い)」と考えるなら、さらに近づく。
佐々木は「意識」で「考える」。井川は「涙(感情)」で「思う」。この「考える」と「思う」、「意識」と「感情」というのは、まあ、便宜上のことであって、その区別は厳密にはできない。私には、という断りが必要かもしれないけれど。佐々木は「分散と集中」という表現をしているが、それは散らばったり集まったりしながら自在に形を変える。集まり方(散らばり方)で「意識」と呼ぶのがふさわしかったり、「感情」と呼ぶのがふさわしかったりするのだと思う。この場合の「ふさわしい」は「便利」(都合がいい/説明がしやすい/流通させやすい)くらいのことだ。
で、そのとき、意識(感情)/考える(思う)は、どういう関係にあるのか。
「思考」という便利な合体語(?)で意識/感情も「カラダの内部(体内)」という表現にして、強引に「整理」すると、どうなるだろうか。
「思考」は「からだ」の「内部」を動くが、そのとき「思考」は「外部のもの」を「思考」を代弁させるものとしてつかっている。水とか土とか。(その「代弁」を井坂は「算段」と呼んでいるのだが--とあとだしじゃんけんのように補足しておく。)
この「からだ」と「もの」と「思考」の関係は、はっきり書こうとするとかなりめんどうくさいが、はしょって言えば「カスガイ」のようなものである。「からだ」と「もの」は「カスガイのように離れられず」、その「離れられない状態(離れられないこと)」が「思考/思う/考える」なんだろうなあ。「離れられないこと(状態)」が「均衡」なんだろうなあ。
「均衡」といっても、それは「止まっている」のではなく、揺らいでいる。動くことでバランスをとっている。
このバランスの取り方の「粘着力」(体内と体外のつなぎとめ方)が、うーん、似ているなあと思う。似ているからいっしょに同人誌を出しているということになるのかもしれない。
もうひとりの同人、高橋千尋は、絵とことばのなかで「ふたり一役」をやっている。「合唱」には向き合った耳の絵があり、それに
という行をぶつけるとき、「みーみー」が「耳」となって立ち現れてくる。楽しいね。
井坂洋子「からだ」と佐々木安美「盛り土がある、と切り土は考える。」を読みながら、あ、何かがつづいている、と感じた。佐々木の詩に「カラダ」ということばがあるからか。そうかもしれないが、それ以外のことも関係しているかもしれない。
乗り物がやってきて
私たちはつれていかれる
という話は今までたびたび読んだ
時間や死の暗喩を (井坂)
盛り土がある、と切り土は考える。考えるために切り土は開かれたのか。
そんなことはないはずだ、開かれた、考えた、 (佐々木)
井坂は「読んだ」、佐々木は「考える(考えた)」という「動詞」をつかっている。その二つが私の印象では「ひとつ」になる。井坂は「読んだ」だけではなく、読んで考えた。そこには「考えた」が省略されている。佐々木は「考える」の前に「ある(開かれた)」という動詞を置いている。この「ある(開かれた)」に出会って(見て)、「考える」が始まる。その「出会い(見る)」が、私には「読む」に似ているように思える。「開かれた」はあたかも「土の世界」という「本」が開かれて、それを「読んでいる」感じがする。佐々木の書いている「考える(考えた)」は佐々木ではなく、「切り土」なのだが、そこに佐々木自身が託されているように感じる。
「考える」ふたりは、「からだ/カラダ」にたどりつく。
生命はみな生きものの器を借り
食いつなぐため
あれこれ算段させる
生命の顕現はいたるところに (井坂)
「生命の顕現はいたるところに」の最後には「ある」が省略されている。それは「盛り土」のように「ある」。それを見て「わたし(切り土)」は考えるのだが、
水滴は落下しかなくて
思いを込めて落ちることなんてこともない
涙が鼻筋をつたってあご先からしたたり落ちる
水滴よ
わたしは物体なのか?
ときどき体内から時間がそとに出たがって
喉奥の繊毛を逆撫で セキが止まらない (井坂)
「ある」ものは「水滴/涙」とことばをかえながら動く。動詞を「落下(する)」「滴り落ちる」と変化させる。「盛り土」の嵩が切り開いた土の量によってかわるように、何かが変わるのだが、それがかわっても、何か「ある」ものと「自分(肉体?)」の関係はずーっとつづいている。「盛り土」と「切り土」の総和が変わらないように、形は変わっても変わらない「総和」のようなものがある。
それは、もしかしたら「思い」ということかもしれない。(「涙」ということばに影響されて、ふと「思い」とことばがやってきた……)。
「思い」は「思う」。そして「思う」は「考える」。それが井坂の「からだの中(体内)」で動いている。「考え(思い)」は結論にたどりつくわけではないのだが、その「動き」そのものを感じる。
人間のカラダの中の、生きている水、水の循環。
意識のアリカ、分散と集中、
巨大な星間舟の内部空間を泳いでいく無人探査カメラ。
そして盛り土と切り土はカスガイのように離れられず
不思議な均衡の中にいる (佐々木)
佐々木の書いてる「水」は「涙」というより、「体内の水分」全部のことかもしれないが、「意識のアリカ」というようなことばは「涙」にぐっと近づく。「意識」を「感情(思い)」と考えるなら、さらに近づく。
佐々木は「意識」で「考える」。井川は「涙(感情)」で「思う」。この「考える」と「思う」、「意識」と「感情」というのは、まあ、便宜上のことであって、その区別は厳密にはできない。私には、という断りが必要かもしれないけれど。佐々木は「分散と集中」という表現をしているが、それは散らばったり集まったりしながら自在に形を変える。集まり方(散らばり方)で「意識」と呼ぶのがふさわしかったり、「感情」と呼ぶのがふさわしかったりするのだと思う。この場合の「ふさわしい」は「便利」(都合がいい/説明がしやすい/流通させやすい)くらいのことだ。
で、そのとき、意識(感情)/考える(思う)は、どういう関係にあるのか。
「思考」という便利な合体語(?)で意識/感情も「カラダの内部(体内)」という表現にして、強引に「整理」すると、どうなるだろうか。
「思考」は「からだ」の「内部」を動くが、そのとき「思考」は「外部のもの」を「思考」を代弁させるものとしてつかっている。水とか土とか。(その「代弁」を井坂は「算段」と呼んでいるのだが--とあとだしじゃんけんのように補足しておく。)
この「からだ」と「もの」と「思考」の関係は、はっきり書こうとするとかなりめんどうくさいが、はしょって言えば「カスガイ」のようなものである。「からだ」と「もの」は「カスガイのように離れられず」、その「離れられない状態(離れられないこと)」が「思考/思う/考える」なんだろうなあ。「離れられないこと(状態)」が「均衡」なんだろうなあ。
「均衡」といっても、それは「止まっている」のではなく、揺らいでいる。動くことでバランスをとっている。
このバランスの取り方の「粘着力」(体内と体外のつなぎとめ方)が、うーん、似ているなあと思う。似ているからいっしょに同人誌を出しているということになるのかもしれない。
もうひとりの同人、高橋千尋は、絵とことばのなかで「ふたり一役」をやっている。「合唱」には向き合った耳の絵があり、それに
みーみー じーじーじーと
蝉の声
という行をぶつけるとき、「みーみー」が「耳」となって立ち現れてくる。楽しいね。
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