詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

井坂洋子「からだ」、佐々木安美「盛り土がある、と切り土は考える。」ほか

2013-12-04 10:15:29 | 詩(雑誌・同人誌)
井坂洋子「からだ」、佐々木安美「盛り土がある、と切り土は考える。」ほか(「一個」4、2013年冬発行)

 井坂洋子「からだ」と佐々木安美「盛り土がある、と切り土は考える。」を読みながら、あ、何かがつづいている、と感じた。佐々木の詩に「カラダ」ということばがあるからか。そうかもしれないが、それ以外のことも関係しているかもしれない。

乗り物がやってきて
私たちはつれていかれる
という話は今までたびたび読んだ
時間や死の暗喩を                           (井坂)

盛り土がある、と切り土は考える。考えるために切り土は開かれたのか。
そんなことはないはずだ、開かれた、考えた、             (佐々木)

 井坂は「読んだ」、佐々木は「考える(考えた)」という「動詞」をつかっている。その二つが私の印象では「ひとつ」になる。井坂は「読んだ」だけではなく、読んで考えた。そこには「考えた」が省略されている。佐々木は「考える」の前に「ある(開かれた)」という動詞を置いている。この「ある(開かれた)」に出会って(見て)、「考える」が始まる。その「出会い(見る)」が、私には「読む」に似ているように思える。「開かれた」はあたかも「土の世界」という「本」が開かれて、それを「読んでいる」感じがする。佐々木の書いている「考える(考えた)」は佐々木ではなく、「切り土」なのだが、そこに佐々木自身が託されているように感じる。
 「考える」ふたりは、「からだ/カラダ」にたどりつく。

生命はみな生きものの器を借り
食いつなぐため
あれこれ算段させる
生命の顕現はいたるところに                      (井坂)

 「生命の顕現はいたるところに」の最後には「ある」が省略されている。それは「盛り土」のように「ある」。それを見て「わたし(切り土)」は考えるのだが、

水滴は落下しかなくて
思いを込めて落ちることなんてこともない
涙が鼻筋をつたってあご先からしたたり落ちる
水滴よ
わたしは物体なのか?
ときどき体内から時間がそとに出たがって
喉奥の繊毛を逆撫で セキが止まらない                 (井坂)

 「ある」ものは「水滴/涙」とことばをかえながら動く。動詞を「落下(する)」「滴り落ちる」と変化させる。「盛り土」の嵩が切り開いた土の量によってかわるように、何かが変わるのだが、それがかわっても、何か「ある」ものと「自分(肉体?)」の関係はずーっとつづいている。「盛り土」と「切り土」の総和が変わらないように、形は変わっても変わらない「総和」のようなものがある。
 それは、もしかしたら「思い」ということかもしれない。(「涙」ということばに影響されて、ふと「思い」とことばがやってきた……)。
 「思い」は「思う」。そして「思う」は「考える」。それが井坂の「からだの中(体内)」で動いている。「考え(思い)」は結論にたどりつくわけではないのだが、その「動き」そのものを感じる。

人間のカラダの中の、生きている水、水の循環。
意識のアリカ、分散と集中、
巨大な星間舟の内部空間を泳いでいく無人探査カメラ。

そして盛り土と切り土はカスガイのように離れられず
不思議な均衡の中にいる                       (佐々木)

 佐々木の書いてる「水」は「涙」というより、「体内の水分」全部のことかもしれないが、「意識のアリカ」というようなことばは「涙」にぐっと近づく。「意識」を「感情(思い)」と考えるなら、さらに近づく。
 佐々木は「意識」で「考える」。井川は「涙(感情)」で「思う」。この「考える」と「思う」、「意識」と「感情」というのは、まあ、便宜上のことであって、その区別は厳密にはできない。私には、という断りが必要かもしれないけれど。佐々木は「分散と集中」という表現をしているが、それは散らばったり集まったりしながら自在に形を変える。集まり方(散らばり方)で「意識」と呼ぶのがふさわしかったり、「感情」と呼ぶのがふさわしかったりするのだと思う。この場合の「ふさわしい」は「便利」(都合がいい/説明がしやすい/流通させやすい)くらいのことだ。
 で、そのとき、意識(感情)/考える(思う)は、どういう関係にあるのか。
 「思考」という便利な合体語(?)で意識/感情も「カラダの内部(体内)」という表現にして、強引に「整理」すると、どうなるだろうか。
 「思考」は「からだ」の「内部」を動くが、そのとき「思考」は「外部のもの」を「思考」を代弁させるものとしてつかっている。水とか土とか。(その「代弁」を井坂は「算段」と呼んでいるのだが--とあとだしじゃんけんのように補足しておく。)
 この「からだ」と「もの」と「思考」の関係は、はっきり書こうとするとかなりめんどうくさいが、はしょって言えば「カスガイ」のようなものである。「からだ」と「もの」は「カスガイのように離れられず」、その「離れられない状態(離れられないこと)」が「思考/思う/考える」なんだろうなあ。「離れられないこと(状態)」が「均衡」なんだろうなあ。
 「均衡」といっても、それは「止まっている」のではなく、揺らいでいる。動くことでバランスをとっている。
 このバランスの取り方の「粘着力」(体内と体外のつなぎとめ方)が、うーん、似ているなあと思う。似ているからいっしょに同人誌を出しているということになるのかもしれない。
 もうひとりの同人、高橋千尋は、絵とことばのなかで「ふたり一役」をやっている。「合唱」には向き合った耳の絵があり、それに

みーみー じーじーじーと
蝉の声

という行をぶつけるとき、「みーみー」が「耳」となって立ち現れてくる。楽しいね。


続・井坂洋子詩集 (現代詩文庫)
井坂 洋子
思潮社



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西脇順三郎の一行(17)

2013-12-04 06:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(17)

 『旅人かへらず/四七』(26ページ)

山の麓の家で嫁どりがあつた

 昔の私ならこの一行を選ばなかったかもしれない。「いま」だから「嫁どり」がより新鮮に聞こえる。いまは、嫁どりとはだれも言わないだろう。「嫁」ということば自体が男女平等、ふたりの意思の尊重という概念にあわない。
 そういうことばの変化、あるいは「意味」とは別にして、「嫁どり」というのは「音」がゆったりしていておもしろい。濁音・清音という概念が邪魔して、濁音は「汚い」という印象をもたれることが多いが、私は、濁音は豊かな感じがすると思っている。口の中、喉の奥の方に音が反響する感じ、唾がうるおう感じが好きである。
 だれの結婚とは書かずに、ただそういう「こと」があった、と、まるで「人事」を「自然」のように詩の中に取り込んでいるところも好きだ。
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新井啓子「晴れ女」

2013-12-03 11:03:34 | 詩(雑誌・同人誌)
新井啓子「晴れ女」(「続 左岸」36、2013年12月02日発行)

 新井啓子「晴れ女」は帰省したときのことを書いているのだろうか。遠いところから懐かしい場所にもどったときの印象が、ことばといっしょにやってくる。

冬の間締め切っていた
引き戸を開けて障子を寄せて
湿った畳に陽を当てると
沈んでいたイ草の目や埃や出来事が
ふわわあっと起き上がる

 「起き上がる」が、まるで部屋が生き返るみたいな感じがする。新しく呼吸をはじめる感じ。なじみの部屋なのだから「新しく」というのは変な表現かもしれないが、なじみがある、記憶があるということが、「新しさ」を支える。知っているからこそ、「新しい」と感じる。「新しい」と言うことばでは矛盾してしまうので「起き上がる」になる。
 そういう不思議なことばの運動を経たあとで、

運ばなくてもここにはある
ふわわあっとした におい
母の髪の 父の指の
それに連なる人々の
同じまなざしの明るさ

 4連目の「運ばなくてもここにはある」はとても唐突で、「意味」をつかみ取ろうとすると考え込んでしまうのだが、そういう「頭」の運動の前に、不思議なあたたかさにつつまれてしまう。
 1連目で見た「沈んでいたイ草の目や埃や出来事」という「日常の底(?)」にいつもありつづける懐かしさ--その「息」のようなもの、「呼吸」のようなものは、いつでもその「部屋」にあるということがよく「わかる」。まるで新井になって、なつかしい家に帰ったときのような気持ちになる。直感的に「わかる」。
 で、それがよくわかるだけに、そのあとの3行がなんだかもどかしい。「ここにある」と書いてあるけれど、「ここにない」という感じでぼんやりしている。
 母も父も、もういないのかな? 他界したのかな? 思い出だけが、そこに「ある」のかな?

家はいつか朽ちるだろう
庭はいずれ荒れるだろう
けれど なくなってもそこにある
きらきら きらきら 輝いていた
あの夏の雲
あの花の露
あの雪の落ちる音
高く高く伸び上がっていた
あの青い空

 そうか、無人になってしまった家なのか。思い出だけがそこにある。
 それはそれで、きちんと整理されたことばで書かれているのだが、何か物足りない。「運ばなくてもここにはある」の「運ばなくても」ということばが、そこに書かれた「根拠」、「肉体の思想」のようなものが、ぼんやりしてきて、あれ、あの「運ばなくても」の「運ぶ」という動詞はどこへ行ってしまったのかなあ、と思う。
 「運ばなくてもここにはある」という行を読んだ瞬間、私はそこに傍線を引き、その一行もう一度読み、「運ばなくても」というところにさらに傍線を書き加え、二重の線にしたのだが、その「運ぶ」が、詩を読み進んだとき、どこかへ消えていってしまった。
 と、思っていると。最終連。

おまえが来ると晴れる
秋晴れも 小春日和も 五月晴れも
おまえが運んでくる
と 父の声
晴れ女の呼び名をもらったら
前日の雨が上がった

 あ、そうか。すべての美しいものを新井の父は新井が「運んでくる」と言っていたのか。その父のことばが4連目の深いところで動いていたのか。
 そのとき、そこには父はいない。けれど、新井はそのとき父といっしょにいる。それは対話だったのだ。
 「この家のあたたかいもの、美しいもの、なつかしいもの、それはすべて、おまえ(新井)が運んでくる」と、父は言い、
 「そんなことはないよ。私が運ばなくても、すべてがここにある。私がそれをもらったんだよ。ほんとうはお父さんが運んでいるのだけれど、気づいていないんだよ」と、新井。
 そういう「対話」がほんとうはあるのだ。その「対話」は新井にはわかりきっていることなので、大半が省略されてしまっている。そして、その省略が「運ばなくてもここにはある」という、それだけではちょっとわかりにくいことばをとても強いものにしている。思わず目を引きつけ、さらには体全部をそこへひっぱっていくような力をもって動いている。
 「運ばなくてもここにはある」と書いたとき、新井は新井であると同時に父でもあるのだ。新井と父とが「肉体」として「ひとつ」になっている。それは「区別」がない。これは矛盾といえば矛盾なのだけれど、「区別」がないから、「区別」を明確にするような「対話」として明確にすることが新井にはできない。それは「意識」ではなく「肉体(いつでも動いている心臓のようなもの)」なのだ。「肉体」を分離すれば肉体ではなくなる。全部がくっついたまま、いりまじったまま「ひとり」のことばとして噴出してくる。
 あ、これが詩なんだなあ、と思う。
 「ひとつ」のことばの奥には「ひとつ」以上のものがある。それはときには「対立」している。「運ばなくてもここにはある」という一行のなかには、「おまえ(新井)が運んでくる」という父の主張と、「そうではない。最初からここにはある」という新井のことばが対立している。矛盾している。そして、その矛盾のなかには、同時に矛盾をするりとぬけていくことばにならないことば、未生のことばがある。繰り返しになってしまうが、それは強引に言いなおせば、「運んでいるのは私(新井)ではなくお父さんだよ」ということばになる。
 新井は、この1行で、とても強く父を思い出している。父を「肉体」のなかに蘇らせている。父が「未生のことば」として新井のなかで「生まれている」とも言える。
 「未生のことば」。「肉体のなまなましさ/実感としての思想」がつまったことば--そこに詩が「ある」と思う。
遡上
新井 啓子
思潮社
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西脇順三郎の一行(16)

2013-12-03 06:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(16)

 『旅人かへらず/三九』(25ページ)

中から人の声がする

 窓の下を通りかかる。部屋の中ではだれかが話している。その声が聞こえる。状況としてはそれだけのことだが--なぜ、この行が好きなのか。
 「中から」の「中」が気に入っている。刺激的である。「中」が見えるわけではない。でも、人がいるのがわかる。この「見えない」のに「わかる」ということが、たぶん刺激的なのだ。現代は「視覚情報」が多い。「百聞は一見にしかず」ということわざがあるくらい、私たちは「視覚(目)」で何かを確かめているが、西脇はここでは「見えない」を「聞く」ことで補って「存在」を確かめている。視覚(目)よりも聴覚(耳)が優先している。そのことが、なぜか、私の肉体の奥を揺さぶる。
 そして、その「耳」も「意味」ではなく、「声がする」と「音」の方に反応している。「意味」を知る前に、「音」を認識し、「音」からそれが「人」のもの、「声」であることに気がついている。「声」には何か不思議なものがある。
 「見えない」(存在と隔離している/断絶している)、でも「聞こえる」(接続している)が入り交じっている。「聞こえる声」には「見えない人」という「断絶」が含まれている。「見えなくても聞こえる」という不思議さ--断絶があっても「わかる」という不思議さ。それがきっと「淋しさ」なのだと思う。
 だから、この行は「人間の話す声の淋しさ」という具合につながっていく。私の肉体の奥につながっていく。
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和田まさ子「ラッキーストーン・ジュエリーズ」

2013-12-02 10:46:50 | 詩(雑誌・同人誌)
和田まさ子「ラッキーストーン・ジュエリーズ」(「地上十センチ」5、2013年11月20日発行)

 和田まさ子「ラッキーストーン・ジュエリーズ」はスーパーに買い物に行く詩である。でも、その書き出しは。

いつものようにスーパーマーケット、行く行かない、結局行くのだ
けれど逡巡が長いから太陽は少し翳りを増し、屈折角度二十五度。
布団から出たわたしは冷蔵庫に直行、買い置きのゼリー、プリン、
ヨーグルト、どれでもいいから手をのばす。生きるためこの儀式は
やめられない。最低二個食べて深く息をつく、飲み物はなんでもい
いが、きょうは水、水、水がいい、プリンのカロリーから引き算す
る、生きていることを。

 最後の「プリンのカロリーから引き算する、生きていることを。」が、えっ、いま何て言った? わからない、という感じなのだが、それまでの「肉体」そのものが動いているような、ずるずる感(?)、くだくだ感(?)、そのくせ欲望だけがすばやく動くがつがつ感(?)がおもしろくて、「おいおい」というか「へへへ」というか、まあ、女が他人の目を気にせずに何かを食べている感じが、裸を見てしまったような感じでうれしい。ほら、こういうとき、その女が高尚な概念的な抽象的な哲学的な何かを考えているのだとしても、「へっ、それ何のこと?」という気持ちになるでしょ? それと同じ。何か本人にとっては大事なことなんだろうけれど、そんなこと知らない。私は裸を見ているだけ。裸を見ているのに、それにしか関心がないのに、裸を見なかったふりをして、「その哲学的内容をもっと具体的にかみくだいて表現してもらえますか?」なんて質問するばかはいない--と思う。
 で、この「行く行かない、結局行くのだ」という「結論」を引き延ばした時間のなかに動いている「裸」--裸と思わず書いてしまうのは、「行く行かない、結局行くのだ」というようなことは他人からは見えない動きだからである。そのひとが「行く」という「結果(結論)」、他人とのかかわりが生まれる部分だけを見せているかぎりは見えない。ふつう、そのひとがスーパーへ「行く」というのは、他人には実際にスーパーで買い物をしているときにしか見えない。それまで、そのひとがどんなふうにしてスーパーへやってきたかはわからないからね。
 同じように、何かを買うとき、そのひとが何を考えているかは、はっきりとはわからない。買い物籠に、白菜、人参、椎茸、焼き豆腐、牛肉を入れるのを見たら「今夜はすき焼きか……」くらいは思うけれど。で、そういうほんとうは見えない何かを、和田は、ずるずる、くだくだ、そのくせ妙にはっきりと書きつづけるのである。

何者ですかいつもきてという顔をして店員が眺めるわたしの顔、い
いえかまわないでくださいとわたしは目をそむける。そして陳列棚
に目を移す、はじめは野菜の棚、清浄野菜が並んで煌々と光ってい
るきゅうりなすピーマンもやししょうがゴーヤ白菜美しくて目が眩
む、そしてレタス、は買わない、むかし高知の男がレタスは馬が食
うもんだといったのを思い出すから。わたしが今日えらんだのはホ
ウレンソウ、蓚酸で身体を漂白したい、

 うーん、身体を漂白したいというのは、たとえば高知の男のことばを洗い流してしまうこと? できないよ。いま、思い出したばっかりでしょ? 洗い流したいと思うことと思い出すことはいつもくっついているからねえ--と書いて、私は、和田の「裸」を見ているだけでなく、あ、触れてしまったと感じる。
 和田がこの詩で書いているのは、「行く行かない、結局行くのだ」ということばガあらわしているように、人間の体には反対のものがいつもくっついている(反対のものを含みながら存在している)ということだと、突然「わかる」。
 そうか、「生きる」ということは「矛盾」を抱え込んで、それをひきずりながら、ともかく動くことなんだ--と和田は感じているんだな、と1連目に引き返し「生きている」ということばをつか見直すのである。
 で、その「矛盾」というか、「行く行かない」のことばのように必ず正反対というわけでもないけれど、何かがいろいろくっついて「わたし」がいる。高知の男なんて、いまはいないはずなのに、くっついている--というようなことが高知の男ほど明確ではないが、ずるずる動く。「裸」の外見ではなく、裸の肌がすきとおって「内面/内臓」が見える。--見えたものを「内面(こころ?)」と、私がかってに思い込むということだけれど。
 こうなってくると、そのとき、私はもう私ではなく「和田」になって買い物をしている。

パンを選ぼう。わたしの好きなのはオリーブ色をしたパンで生地の
なかにジャガイモが入っているもの、粘々した表面が半月のようで
物語めいている。少し甘くてぽってり胃に吸収されていく感触がた
まらないのに売り切れていくことが多いが今日は一つ棚にあること
を見つけわざとゆっくり棚に歩む、だれかの手が伸びて買われてし
まわないかとどきどきしながら、つかまえたパンを壊れないように
そっとかごに入れる。

 好みのパンを見つけて買うというだけの「結論」なのだけれど、その「結論」までの「行く行かない」をていねいに言いなおしているので、そのことばにあわせて私の「肉体」が動いてしまう。そして、その動いた「肉体」が私のなかに「和田のこころ」を生み出してしまう。私の「こころ」は和田が感じていること(考えていること)以外を感じることができなくなる。
 いけない、あぶない。私が私ではなく、和田になってしまう。傍から女の裸を見ていたつもりだったのに、裸になって、しかも女になってスーパーを歩き回っている。
 で、それが和田のことばを読むに従って、「恥ずかしい」ではなく、なんだか快感になる。裸なんて、どんなものも同じ。すぐ見飽きてしまって、ああ、このひとは何を考えているんだろう、このひとの欲望はどこにあるんだろう、というような「内面」に目がゆく。人間の欲望は変なもので、見えないものこそ見たいのである。裸の女を見れば、その裸の女の、裸でいても平気なこころ、が見たくなり、それが見えたと思った瞬間、もう裸は忘れて、その「こころ」を見つづける。そういうことを知っていて、和田は「裸」の奥の「こころ(欲望/本能)」をさらに開いて見せる。

最後は冷蔵品売り場、ゼリープリンのたぐいでわたしが生きていく
必需品、全部買い占めたい欲求を制御するのが難しい、サクランボ
入りゼリーの夕陽色の清らかさマンゴー&パッションフルーツ入り
ゼリーのオレンジ色の混沌さラ・フランス&ペアーゼリーの草色の
爽やかさどれもラッキーストーン・ジュエリーズ、買うわよ買うわ
よわたしを待っていてくれたあなたたち、十個ひっさらうようにし
てかごに入れる。

 で、「こころ(本能)」を見つづけると、「こころ」ではない「事実」(詩/ものの本能)が見えてくる。詩は「こころ」なんかにはなくて、あくまで、自分の「外」にある。絶対、自分にはならないもの、「絶対的外部存在」が詩だ。
 何かというと。

サクランボ入りゼリーの夕陽色の清らかさ
マンゴー&パッションフルーツ入りゼリーのオレンジ色の混沌さ
ラ・フランス&ペアーゼリーの草色の爽やかさ

 あ、そうなのか。そういう色をしているのか。読みながら、書き写しながら、私はスーパーへ行って、その色を確かめたくなる。そういう色を知っている和田がにくらしくなる。嫉妬してしまう。和田ではなく、私が最初にそれを見つけて買い占めてしまいたくなる。そうすれば和田はその色を知らず、この詩も書くこともなく、私が時間を先回りして「盗作」して書いたのを見て、きっと悔しいと思うだろうなあ、というようなことまで私は考えてしまう。
 でもね、私には実際はそういうことはできない。
 私は二度目に「色」を引用するとき、わざと改行にして色を識別したのだが、和田は「行く行かない」のように「ずるずる」とくっつけて書いている。そこにある「色」は「個別」であるけれど、個別ではない。「行く行かない」のようにくっつき合って、くっつくことでそれぞれの「色」になっている。
 くっついたら、そこから混じり合い、濁る--というのが存在のありふれたあり方だと思うけれど、和田の場合は、くっついても濁らない。くっつくことで、色がより鮮明になるのだ。和田の視力は平面を見るのではなく、「立体(固体)」として生きるのだ。
 このことは、この詩では少しわかりにくいかもしれないが、人間が「金魚」や「壷」になってしまう詩を思い起こすとそのことがわかる。
 「金魚」や「壷」になってしまった人間を描きながら、和田の「金魚」や「壷」はカフカの「変身」のように世界を歪めない。「金魚」「壷」から見ても世界は「正常(?)」である。いや、より「正常」になるという感じ。あ、間違えた。「金魚」「壷」を見ることで、そこに「正常」があると思ってしまう。
 この「正常」を、和田は「生きている」と言いなおすかもしれないが。

わたしの好きな日
和田 まさ子
思潮社
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西脇順三郎の一行(15)

2013-12-02 06:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(15)

 『旅人かへらず/一〇』(24ページ)

葉の蕾が出てゐる

 これは「変な日本語」である。花の蕾とは言うけれど、葉の蕾とは言わない。言うなら葉の「芽」だろう。--そして、言わないのだけれど、言っている「こと」が「わかる」。「まちがい」なのに、「ただしい」何かが「わかる」。
 ことばは、とても奇妙なものなのだ。
 「ただしい」ことを言えば必ず通じる(わかる)かというとそうではなくて、「まちがい」の方が正確に通じる(わかる)ということもある。「蕾」の方が葉がぱっと広がる華やかな力を感じさせる。西脇は、そういうものを見ていたのだと「わかる。)。
 ことばは、「わかりたい」ことを「わかる」ものなのだ。「わかりたい」ことを選んで「わかる」ものなのだ。
 で、この「断章」には、「葉の蕾」のように、それは「いいまちがい」じゃないかというわけではないけれど、何か「まちがい」のようなもの、西脇だけの「思い込み」のようなものが書かれているね。
 「枯木にからむつる草に/億万年の思ひが結ぶ」の「億万年」などは西脇がそう思っているだけで、「事実」とは限らない。でも、そういう「思い込み(ただしくないもの/まちがい)」が詩なんだね。
 それは「常識」とは「断絶」していて、断絶しているから「淋しい」感覚。だから「詩」。
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田原トークショー「日中ことばの接続水域」

2013-12-01 10:26:26 | 詩集
田原トークショー「日中ことばの接続水域」(西南学院コミュニティーセンター、2013年11月30日)

 「日中ことばの接続水域」は、かなりきわどいタイトルである。田原が考えたものではなく、主催者が考えたものだったらしいが。--田原が話したことがらは、日本語と母語(中国語)の近くて遠い距離、遠くて近い距離のあいだで、いろいろ揺れた(揺れる)ということ。
 たとえば日本に来てからの半年は「外国」へ来ている感じがしなかった。町にあふれる漢字を読めば日常生活は理解ができた、というようなこと。それから徐々に、中国にはないことばに出会っていった、というようなこと。
 「死水」ということばは中国語にはないということからはじまり、翻訳のこと。魯迅が停滞していた中国語(変化の遅い中国語)を活性化させた。「直面」ということばは魯迅が中国語に持ち込んだ、というようなこと。
 おもしろいテーマがありすぎて、私は何を聞いたか忘れてしまったが。
 その講演のあと質疑応答があり、そこでもいろいろおもしろい話が出たのだが、私が「おっ」と思ったのは、「日中ことばの接続水域」あるいはことばの変化に関することだが、田原が「カラオケ」に言及したときのことである。講演で田原は日本語は文字の種類が他の外国語に比べて多い。漢字、ひらがな、カタカナ、アルファベットを混在させる。こういう言語は日本語以外にない、と言っていた。その田原が「カラオケ」を「空(から)」と「オケ」と書くでしょ、と言った。あ、たしかに「空の(音声の入っていない)オーケストラの演奏」を「カラオケ」というのだから「空オケ」なのだけれど。最初はそうだったのかもしれないけれど、いまはきっとだれも「空オケ」とは書かない。そして「意味も」空のオーケストラではないなあ。曲を聴いてもだれもオーケストラの存在を感じないのだから。「意味」をむりやりつくりだすなら、素人が歌を歌うときに利用する演奏媒体、かなあ。
 で、何が言いたいかというと。(ここから私のことばは、かなり飛躍をしながら動くのだが……。)
 田原はことばを「意味」を重視して把握しているということである。だれでもことばに「意味」を読み取るからあたりまえ--と思うかもしれないが。
 これを「接続水域」にからめていうと、ちょっと違うなあ。
 それを感じたのが朗読のとき。
 学生がいくつかの詩を読み、そのあと田原自身が朗読した。これが実に刺激的である。母語が中国語、日本語は外国語だから、なれているとはいえ「すらすら」という感じではない。音がぶつぶつの粒子に聞こえる。日本語の表記方法に「分かち書き」というのがある。単語を独立させて、単語と単語のあいだに空白を置いて書く書き方。それが、最初に私の目に迫ってきた。エッジのくっきりした音が耳から入り、それが目の記憶を引き出して、そんな印象を引き起こすのだ。音がリズムになり、単語を強調するように響くので、ことばのひとつひとつが次々に立ち上がってくる感じ。その「次々」は連続しているようで、実は、「空間」がある。一つ一つが飛躍してつながっていると言えばいいのかな。
 そういう印象のあとに、ふいに、あ、田原は音(声)を出しているのではなく、「意味」を表出しているのだ、と感じたのだ。--というのは、 かなり飛躍の大きい「感覚の意見」なので、補足すると……。
 漢字を「表意文字」と呼ぶことがある。一つ一つの漢字が「意味」をもっている。これに対して「ひらがな」は「文字」自身に「意味」はない。音しかもっていない。「表音文字」である。
 田原は漢字の国の人なので(漢字を母語としているので)、「文字」を「意味」として把握してしまうのだ。「音」ももちろんあるのだが、音より「意味」の塊としてつかみ取り、それを「声」にしている。「声=表意音声」という感じで発していると気がついたのだ。
 これは言い換えると、どんな音(声)であっても、田原はそれを「意味」に還元しているということである。さらに言い換えると「漢字(表意文字)」にしているということである。
 いやあ、びっくりしたなあ。
 日本人には(私には?)、こういう感覚はない。音をひとつひとつ「意味」として発する習慣(?)がないし、「意味」として聞きとる習慣もない。
 というところから「カラオケ」にもどるのだが。
 私にとって「カラオケ」は「カラオケ」であって「空オケ」なんかではない。空のオーケストラではない。「カラオケ」に本来の「空のオーケストラ」という「意味」をいちいちくっつけない。「意味」を考えずに「カラオケ」と言っている。オーケストラを省略してしまって、別のものとしてつかみ取っている。
 ところが田原は「カラオケ」はずーっと「空オケ」なのだ。「意味」なのだ。「空」は「空っぽ」という「表意」、「オケ」は「オーケストラ」という「表意」。「表意」の連続がことばなのだ。

 ここから、朗読の後の座談会(?)へと飛んでみる。
 そこでもいろいろ話が出たのだが、谷川俊太郎の「かっぱらっぱかっぱらった」という詩に触れた。私はこの詩は「父の死」と並んで大好きな詩なのだが、田原はこの詩を中国語に翻訳できずに困ったというようなことを語った。何が翻訳を困難にしているかというと--田原の言ったことを、私の感じていることで強引に言いなおすと。中国語に翻訳すると、「表意」と「表音」があわないのだ。日本語だと「意味」と「音」が交錯して、その音を声に出すことが快感だけれど、「表意」重視の田原にはこの「音」からの復讐(反撃?)のようなものが、一種の「不愉快」として立ちはだかるのである。
 こういうことを、田原は「ルール違反」と表現していた。
 で、田原は谷川にそういうふうにも抗議した、というようなことを紹介した。そのとき谷川は、ことば遊び歌でやって漢字の束縛から逃れたのに、と反論したというようなことを言った、ともつけくわえた。
 田原は、ことばを「表意」と把握している。そしてその背後には「漢字文化」がある。でも、日本語は漢字から多くを吸収しながら「表意」だけではないところへもことばを広げていった--と言えるかどうかわからないけれど、あ、田原にとってことばとは「表意」そのものであるということがわかった。
 で、表意の「意」、あるいは「意味」の「意」が何を表意するかというと--「意」という漢字が何を表意するかというと、田原にとって「精神」である。(私は「意」が何を表意するかということを考えたことがなかったので、田原の発言を聞きながらなんだかどきどきしてしまった。)
 そういうことを象徴する(結晶させる/結論として表明する)具合に、田原は詩を定義して、

詩は民族の精神の質感

 と言った。
 そうか。「精神の質感」としての「意味」を背負った言語運動が詩ならば、うーん、「かっぱらっぱかっぱらった」は、まあ、困るかもしれない。そんな音の遊びに、人間の精神を高めていくどんな意味がある? あ、答えられないね。
 谷川が田原の抗議に困ったように、私も、困るなあ。でも、私は谷川ではないので、困るといってもほんとうは困っていない。そうか、田原はどこまでもどこまでも「表意文字」(漢字)を母語として世界に向き合うのだ、それが田原の個性なのだとはっきりわかったのが、とてもうれしかった。
 私はほとんど詩人と会わないが(会ったことがないが)、実際に会ってみるとこういう「とんでもないこと」がわかるのだ。びっくりした。



 私はトークショーの「部外者」だったけれど、「懇親会」にのこのこついて行って、そこでもちょっと話を聞くことができた。
 どういうことが発端か忘れたが、ことば、表記の問題になったとき、「そよぐ」ということばが出てきた。で、私は「そよぐを漢字で書くとどう書く?」とそばにいた大学の先生と学生に聞いたのだけれど、だれも知らない。ひらがなで書く、という返事。で、田原にもその質問をしてみた。田原は電子辞書を持ち出したので、いや、調べるんじゃなくて、どう書くと「念おし」の質問。やはり、ひらがなで書くという。そう言いながら電子辞書を開いてみせる。
 「戦ぐ」
 これって、びっくりするよね。実は私の会社に「そよぐはなぜ戦ぐと書くのか。かぜで草がそよぐ風景は戦争のイメージとあわない」というような苦情(質問?)をしてきた人がいる。
 そんなこと、だれも答えられない。昔、日本人は中国から漢字を借りてきた。そのとき、その漢字がどうつかわれているか(つかわれたか)をそのまま踏襲するだけ。
 で、その「戦ぐ」という文字を見ながら、田原は、これは「古いことば(文書?)で見たことがある」と教えてくれた。そのあとは、何かわけのわからないところに話が紛れていってしまったが、田原は「戦ぐ」という表記には違和感を感じていないようであった。
 そこにも私は「あっ、田原は中国人なのだ」というあたりまえのことを再確認するのだった。



谷川俊太郎論
田 原
岩波書店
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西脇順三郎の一行(14)

2013-12-01 06:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(14)

 『旅人かへらず/九』(23ページ)

十二月になつてしまつた

 「なつてしまつた」の「しまつた」を私は何度も「盗作」した。西脇を読むまで、私は「十二月になった」とは言ったり書いたりしたことがあるが「なってしまった」と言ったり書いたことがない。
 だれが何をしようが、十二月というのは決まったときにやってくる。そういうものに対して「しまった」という感じをもったことがなかった。
 この西脇の「しまつた」は単純に「完了」を「強調」していることばなのかもしれないけれど、どこかに「あきらめ/後悔/失敗」のようなものが感じられる。十二月になったことが「とりかえしがつかない」ような、何か、「いま/ここ」を切り離すような響きがある。
 強い断絶--そういう「響き」がある。
 そして、この「断絶」は西脇が好んでつかう「淋しい(淋しき)」に通じる。
 「しまつた」の「つ」の音の短さ、母音の欠落が「断絶」をより強く浮かび上がらせる。
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