詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

稲垣瑞穂「粟(ぞく)」

2013-12-10 08:36:09 | 詩(雑誌・同人誌)
稲垣瑞穂「粟(ぞく)」(「現代詩手帖」2013年12月号)

 稲垣瑞穂「粟(ぞく)」(初出「双鷲」79、03月発行)には藤井貞和「かだましく」のようにわけのわからないことばはない。しかし、「粟」を「ぞく」と読ませるような、ちょっと変なところがある。そして、それはちょっと変なのだけれど、読んでいて、それが全部「わかる」。「わかる」瞬間、それは変ではなくなっている。そういう変化が読みながら私の「肉体」のなかで起きる。

穀物を代表する言葉は粟(ぞく)だと知り
太郎は体じゅうがぞくぞくした
なぜアワと言わず ゾクと言うのか
穀物の王者は米ではなかったのか
西に米がある以上 東や北に米があっても
よさそうなものではないか
南の米はどうなってしまったか
太郎は母親のこしらえる粟飯を
以後ゾクハンと 呼ぶことにした

 「穀物を代表する言葉は粟(ぞく)だと知り」という書き出しに、ああ、そうなんだ。私も知らなかったなあと思いながら、「ぞくぞくした」というのはだじゃれだなあ、などと思いながらことばを読み進む。そうすると「粟」を「西」と「米」に分解して、東、来た、南はどうなのか、と「漢字」と遊んだりする。遊びながら考えようとしている。そのことが「わかる」。
 母親のこしらえる粟飯の「こしらえる」もわかるなあ。思い出すなあ。なんだが母親の肉体が動いているのが見える。「つくる」とどう違うのか。--私の「肉体」の印象で言うと、「こしらえる」は対象と懇ろである。対象に対して「一生懸命」である。「手間隙」がかかっている感じがする。自分が優位に立って対象を動かすというよりも、何か対象にすがっている(頼み込んでいる)感じがする。いまは「合理主義(資本主義)」と相いれないせいか「手間隙」は嫌われ、その結果(?)「こしらえる」というような動きも世の中から消えているような気がするが、昔はなんでも「こしらえた」。タオルや手ぬぐいが古くなったら、雑巾を「こしらえた」。これなんかは、「今度は雑巾になってくださいね」とタオル、手ぬぐいに頼むような感じがどこかにあって、いいなあ、またつかいたいことばだなあと思う。このカレー、2日かけて「こしらえた」というのも、2日間寝かせてつくったよりも頑張った感じがするなあ。
 あ、脱線したかな?
 ことばが、ことばだけでなく、何か「肉体」、体が覚えていることと接触しながら動いていくのが「わかる」ので、それにつられて私の「肉体」も動いてしまうのだ。稲垣の「肉体」は私の「肉体」ではないから、そっくりそのままではなく、少し違うのだけれど、「肉体」なので「わかる」。たいてい「わかる」範囲で動くのだが、それは予測はできない。動いたあと、あ、そうか、と思う。
 2連目も同じような感じ。

ねえ またゾクハン炊いてよ
母親は嬉しそうな
ちょっぴり困ったような顔をする
だが太郎が小鳥のように嘴で掻きこむと
ひどく納得した表情になり
太郎もつい鳴き声を洩らしてしまうのだ
チュイーンともチンとも聞こえるその声は
小さな家の小さな仏壇に飾られた
父親の位牌にもしっかりと届いている

 「チュイーン」が「チン」にかわり、「仏壇」が出てくると、あ、と思う。炊いたご飯を仏壇に供える。そういうことは、昔はちゃんと行なわれていたなあ。父親が死んで母子家庭なのか。それで米のご飯ではなく、粟飯なのか……。そういうことが「肉体」のなかから浮かび上がってくる。私は母子家庭で育ったわけではないが(稲垣が母子家庭で育ったのかどうかわからないが)、そういう暮らしがあることが「わかる」。そういう暮らしが昔は世の中に「見えていた」。ただ貧しいというだけではなく、そこにある仏壇のある暮らし、仏壇にご飯をあげるという暮らし--暮らしのなかにある「感謝」というものが「見えていた」。また「聞こえていた」。「チン」という音は電子レンジの音ではなく、仏壇の音。音にもそれぞれの暮らしがある。それを共有していた。それが私の「肉体」のなかにもある。
 そういう「肉体」を通って、私は稲垣といっしょに「過去」へ入っていく。こういう感じがいいなあ。
 私は、まだ映画「ハンナ・アーレント」にこだわっているのだが、あの映画の「悪の哲学(悪の定義)」では「暮らし」に入っていけない。私はユダヤ人ではないし、ホロコーストも聞きかじった知識しかもっていないが、収容所を体験したユダヤ人にはアンナ・ハーレントのことばを通って「過去」を実感しろというのは無理だろうなあ、と思う。
 稲垣のことばは、そうではない。稲垣の書いていることは私の体験ではないのだが、その私の体験でないことが、私の体験として「わかる」。稲垣のことばを読んでいると、私が稲垣になってしまう。そして、私の父でもないのに、稲垣の父親の臨終を見てしまう。それが「わかる」。

太郎は父親が死んだ時のことを
かすかに憶えている
息がだんだん細くなり
鳥籠の中の十姉妹のような声を出したのだ
最後はヂュイーンと濁音で鳴き
それから深く頷いて
がっくりと首を落とした
戦地からせっかく生きて還ったのに
わずか三か月とはもたなかった

 2連目の「チュイーン」が「ヂュイーン」になる。そこには「チン」も含まれている。2連目の「小鳥」は「十姉妹」だったのだ。そこにあることばが、読むに従って、しっかりした「暮らし」になる。戦地から帰ってきて、体調を崩し、父親の楽しみ十姉妹を飼うことだったんだなあ。ときには「チュイーン」と鳴き声を真似してたんだろうなあ。十姉妹は粟を食べたんだろうなあ。--書いてないのだけれど、私の「肉体」にはそれが「わかる」。父親が鳥と遊ぶ日だまりの風景が「わかる」。そのとき、そこに日だまりはなかったかもしれないけれど、私の「肉体」は日だまりを要求し、そこに休らいだ父親を追い求める。

太郎は今日もまたゾクハンを啄む
普段は忘れている父親の顔が
不意に目の前に現れ
掠れるような声で囁くのだ
おい 太郎 ゾクハンはうまいか
父さんにも少し分けておくれ
戦地ではゾクハンさえも
食べることができなかったのだ
そのたびに太郎は体じゅうがぞくっとした

 最終連まで読んで、そうか「粟」を「ゾク」と読むことを稲垣は父親から聞いたのか。「ゾクハン」という言い方も父親から聞いたのだ。父親は空腹のまま戦地で戦いつづけたのだ。その戦地は南方である。だから1連目に南の米ということばも出てくるそういうことを思い出す。「肉体」が思い出す。だから「肉体」がぞくっとする。1連目ではだじゃれのように感じたが、そこにはだじゃれを超えるものがあったのだ。
 ことば、粟(ぞく)、粟飯、ゾクハン--そいういう「肉体」で覚えたことばをとおして、いま、稲垣は父親と「ひとり(一体)」になっている。「肉体」が重なるのを感じている。太郎がゾクハンを食べるとき、その「肉体」は父親の「肉体」なのだ。
 ことばではなく、「肉体」がいっしょに生きる。
 あ、これが「愛」だな、と私は思う。
 ハンナ・アーレントがつかみとれなかった「愛」がここにある。
 稲垣のことばには、どんな「定義」もない。私はたまたま「愛」ということばを便宜上つかったが、その「愛」を「定義」しようとすると、とてもめんどうである。「定義」しなくても「わかる」。「肉体」がわかる。「生きている」が「わかる」。
 こういうところへ、ことばは動いていかないといけないのだ、と思う。

 (映画「ハンナ・アーレント」の2回の感想とあわせて読んでください。)



夏目漱石ロンドン紀行
稲垣 瑞穂
清文堂出版
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西脇順三郎の一行(23)

2013-12-10 06:06:06 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(23)

 「近代の寓話」

考える故に存在はなくなる

 「我思う、故に我あり」ということばが思い浮かぶ。「思う」は「考える」に似ている。「思考」ということばは「思う」と「考える」を結びつける。「我考える、故に我あり」と言い換えることができるかもしれない。
 そして、そこからこの一行へ引き返すと……。
 「考える故に私という存在はなくなる」。
 何だか矛盾する。
 「意味」が通るようにするには、たとえば、「考える、そのとき考えられた対象は存在しなくなる」。なぜなら、存在(対象)は「考え」のなかに組み込まれ、そこには考えが存在するだけだからである。
 あるいは逆に、「考える、そのとき私という存在は対象のなかに組み込まれ、対象のなかで動いている。ゆえに私は存在しなくなる」。
 どっちでもいい。
 それよりも、私は、私が書いた「存在しなくなる」ということばよりも西脇の書いている「存在はなくなる」という短い音がとても気に入っている。そして、それが「存在しなくなる」ではなく「存在はなくなる」という短い音、「な」がより近接して感じられる音のために美しく響いていると感じる。その美しい響きのために、「意味」を追いかける気持ちもどこかへ消えてしまう。
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マルガレーテ・フォン・トロッタ監督「ハンナ・アーレント」(2)

2013-12-09 11:54:46 | 映画
マルガレーテ・フォン・トロッタ監督「ハンナ・アーレント」(2)

 映画の感想ということになるのかどうかわからないが、映画を見て感じたことなので映画の感想ということにしておこう。
 この映画はホロコーストをどうとらえるかということをテーマとしているのだが、私には「ドイツ哲学」の問題点をあぶりだしているようにも感じられた。あ、ドイツ哲学といっても、聞きかじりの印象なのだけれど。
 ドイツ哲学は、私にはとても閉鎖的(構造的/構築的)なことばの運動のように思える。きちんと「結論」があり、その周辺に「結論」までの論理が集まっている。がっちりと固まっている。ドイツ語に、日本語の係り結びみたいな「枠」があるが、それが「哲学」全体を「形」のなかに閉じ込めているという感じ。開かれていない。自由にそこに出入りし、それを楽しむという感じではない。
 で、この映画を振り返ってみると、ハンナ・アーレントはホロコーストを「凡庸の悪」と定義する。根源的な悪による残虐行為ではなく、全体主義がもたらした「思考停止」がひきおこした現象ととらえる。「悪」には悪意をもっておこなわれる悪と、何の判断もなく(思考もなく)おこなわれる悪があって、後者の方が暴走する、ということ。
 この定義は定義としてとても鋭く、正しい指摘だと思う。
 問題はアンナ・ハーレントがその「定義」を「定義」として完結させたということ。現象(現実)をことばの運動によって再現するとき、あくまでその「ことばの完結性」にこだわったということ。「ことばの完結性」を維持したまま、その定義をユダヤ人を定義する(?)ときに適用したこと。ユダヤ人のなかにも「思考停止」によって「凡庸の悪」に加担した人間がいた、と言ってしまったこと。
 「哲学」は普遍である。普遍はすべての存在に適用するから普遍という。だから、ハンナ・アーレントは「悪の定義」をユダヤ人のなかでも「立証」しようとした。そして、収容所のユダヤ人リーダーにぶつかり、そこに同じ「凡庸の悪(思考停止が引き起こす悪)」というものを見た。ナチスとユダヤ人。加害者と被害者。その対立構造を超えて適用できる「定義」を見つけ出したのだ。対立構造を超越しているがゆえに、ハンナ・アーレントはそれを「普遍」と感じ、「正しい哲学(正しい論理)」と確信したのである。
 この正しさは、たしかに論理として完結している。まったく、そのとおりである。と、いいたいけれど、「頭」はたしかにその通りだと「判断」するのだが、これはとってもおかしい。奇妙な論理である。私のなかで何かがむずむず動く。
 加害者がいて被害者がいるとき、その両方に適用できる「定義」、「普遍の定義」というものは、おかしい。普遍の定義があると仮定するとき、その定義からは、最初に問題になった加害者/被害者という対立構造が消えてしまう。「中立」の立場、純粋論理の立場にとって、加害者/被害者は問題にならないということなのかもしれないが、それではなぜ加害者/被害者という問題に目を向けたのかがわからない。なぜ、加害者/被害者という対立構造が生まれるのか--そのいちばん基本の「定義」をとっぱらって、悪とは何か、ということを「哲学」しても始まらない。加害者/被害者という存在を、「破壊的な暴力/大量虐殺という悪」ということばの「枠」のなかに閉じ込めてはいけないのだ。「悪」の定義を確立し(?)、その定義で加害者/被害者という世界のあり方を再定義するというような「世界閉鎖」はしてはいけないのだ。

 アンナ・ハーレントの指摘は鋭い。しかし、その鋭い指摘の「定義」を、加害者/被害者の両方にまで拡大して行ったとき、そこの「定義」のなかでは加害者/被害者は存在しなくなってしまった。「人間」がいなくなってしまった。
 加害者/被害者がいるとき、どうやって被害者を救済するかということがいちばんの問題点であるはずなのに、そのことがハンナ・アーレントのことばの運動からすりぬけてしまった。
 被害者を救済する、被害者の立場に立って、被害を回復する。これはひとつの「愛」であり、そういうものがないと、ひとは納得できない。「愛」があるなら、ひとは何かを納得する。愛というものは、「枠」のなかにあるのではなく、枠を壊して動いていくものである--と書くと、うーん、ハンナ・アーレントに言わせれば、加害者/被害者という「枠」を乗り越えて「悪を定義する」ということも愛なのだということになるのかもしれないが……。
 あ、ここに問題がある。ことばの問題。意味の問題。哲学の問題が集約する。
 「意味」というものは、いつでもことばをつないでしまえばできあがってしまう。ハンナ・アーレントのように「悪を定義する」ということ、「悪の定義」をつくりだすことはできてしまう。そして、その「定義」はどこまでも拡大できる。実際に、ハンナ・アーレントはナチスの悪の定義を、ユダヤ人リーダーにまで適用してしまった。
 だから。(というのは、飛躍なのだけれど。)
 ことばは「意味」になどしてしまってはいけないのだ。「意味」がみつかったからといって、それが「貴重」であるなどと思ってはいけないのだ。「結論」なんて、どうにでもなるのだ。ことばが動けば、そこに知らず知らずに「意味(結論)」は生まれてくる。「意味」はたいていの場合「正しい」と受け止められるが、「意味」はそれ自体では正しいものでもまちがいでもない。ただ、そう動くだけのものである。
 あることがらを「正しい」にするか「まちがい」にするかは、まったく別の問題なのだ。そのことを哲学(特にアンナ・ハーレントのドイツ哲学)は考慮に入れていない。ときには「まちがい」のなかに「正しい」が含まれているのだ。
 この映画に関係づけて言えば、夫が浮気をする。それは「まちがい」である。けれど、そうしてしまう夫の側には、そして夫を誘い込む女の側には、社会倫理からみて「まちがい」であることとは別の「正しい」何かがある。つまり、どっちも「正しい」であり、どっちも「まちがい」である。どっちの側に立つかという問題のちがい(愛の違い)がある。
 愛というのはもともと「自分の枠」壊していくものである。「枠」を壊すということは、どうしたって、どこかに「まちがい」を含んでいる。「枠」の否定なのだから。ただ、それを「枠の否定」ととるか、「枠の開放」ととるかは、また立場の違いによってことなってくる。
 あ、これでは何の「結論」にもならない?
 そうだと思う。
 「思考」というのは、ハンナ・アーレントが考えるように「構造(枠)」のなかで完結するものではない。「結論」というものもには達しない。それが思考なのだ。考えるということなのだ。「定義」などは、ある瞬間の「便宜」であって、それにこだわってはいけない。「定義」を閉塞状況のなかで純粋培養してはいけない。「定義」はつねにあいまいにゆらぐものでなければならない。



 なぜ、こんなことをくだくだと書きつづけるかというと……。
 映画とは関係ないのだが、さっき感想を書いた藤井貞和の「かだましく」。その回文の、技巧的な詩を読みながら、私にはどうしてもわからないことがあった。「かだましく」って何? それがわからない。そんなことばを私は聞いたことがない。で、それが何かわからないのだが、そこにあることばは不思議な感じで、「わからなさ」にむけて開かれている。
 それぞれのことばには東日本大震災、福島第一原発を感じさせるものがある。ことばがそういうものに向けて開かれている。その開かれた「ことばの通路」を通って、私は、ひとつひとつのことばに揺さぶられる。これは、どういう「意味」? 何の「象徴」? そして、藤井は何を言いたい?
 わからないのだけれど、ことばがねじくれているのがわかる。そのねじまがりは東日本大震災、福島第一原発の事故と関係しているということが「わかる」。正確なことは何一つ言えないのに、「わかる」。私の「肉体」が覚えていることを刺戟する。覚えていることを刺戟し、何かを動かそうとしている。何かを思い出させようとしている。いや、勝手に思い出してしまう。
 この勝手に思い出す運動を私は「わかる」というのだが。

 「かだましく」には何か「定義=意味」があるのかもしれない。でも、その「意味」を無視して、私は「わかる」。東日本大震災、福島第一原発の事故によって、何かがねじまがったのだ。--それはとっても簡単に言ってしまえば、原子力発電(原子力の利用)というのは、「完結した世界」ではなたしかに完璧なのかもしれないが、世界は「完結」しているわけではないから、「物理学の世界で安全という形で完結」しても、その「物理学の世界」という「枠」がとっぱらわれてしまったとき、そこには違うものが出現してくるということ。そういうねじまがりがあるということ。逆に言うと、「完結した安全」という閉鎖状態は、ある意味で世界を最初からねじまげているということ。

 で、また飛躍すると。
 ハンナ・アーレントの「悪の定義」は、彼女の哲学のなかでは完結しているが(美しいことばの運動を描いているが)、その定義は完結しているという形をとることで、そういう形をとったことで世界を歪めてしまっているのだ。ねじまげてしまっているのだ。
 ナチスという加害者がいて、虐殺されたユダヤ人がいるという「事実」をねじまげて、「悪には凡庸な悪というものがある」と自己完結してしまっている。
 多くの人がハンナ・アーレントに批判のことばを投げつけたのは、その「自己完結」という「自己防衛」が暴力だと感じたからなのだ。「自己完結」では「愛」は存在を否定されてしまう。「愛」はどこにあるのか、と怒りをぶつけたのである。
 ハンナ・アーレントは孤立してことばの世界を完結させたが、その孤立にはきちんと理由がある。そのことにハンナ・アーレントは気づいていて、なおかつ、「ドイツ哲学」にこだわったのだろうか。
 結論のない哲学(プラトン以来の「わかっている」から「わからない」としかいえない哲学)の方が、私には安心できるので、こんな感想も書いておく。


コメント (1)
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藤井貞和「たがましく」

2013-12-09 11:53:11 | 詩(雑誌・同人誌)
藤井貞和「たがましく」(「現代詩手帖」2013年12月号)

 藤井貞和「かだましく」(初出「文学界」2月号)はタイトルがわからない。わからないときは、どうするか。私はわからないままにしておく。わかるまで、待つ。--待ってもわからなければ、まあ、仕方がない。そのことばをつかわない。
 とりあえず、詩を読みはじめる。

震源は
震源は
のたうつ白馬(はくば)

 きっと東日本大震災のことと関係があるのだろう--と、私は「震源」ということばだけで、そう思ってしまう。それくらい東日本大震災は、いまの日本語に影響しているということだろう。
 「白馬」はわからない。福島にある地名は「有馬」。和合亮一は東日本大震災のとき、地下を馬が駆け抜けていくという感じのことを詩にしていたが、あの馬は白馬? 白はどこから来ている?
 わからないけれど、福島を私は思い浮かべる。仙台とか、ではなくて。いいかげんだね、私は。

爆発のあとの
あしたは 来るか?
ついに爆発

 ここでも福島を思い浮かべる。「爆発」は福島第一原発を連想させる。爆発のときの「白い」煙が影響して、1連目が「白馬」なのか。福島第一原発が「白馬」という比喩になっているのか。そうなら「のたうつ白馬」は「のうたつ福島第一原発」であり、それが「爆発」した、ということか。
 放射能汚染で「あした」はどうなるかわからない。
 
 そのあとは、うーん。わからないぞ。何が書いてあるんだろう。

確(しか)と
かだましく神か
神隠し まだかと

過失?
白馬に いつ?
軽く果たし
足(あ)の音(と) あの白馬

 「過失」は福島第一原発の「事故」を指しているかもしれない。「事故」ではなく、あれは「過失」なのだ。設計のミスであり、原発を造ったこと自体が「過失」だったのだ、と言っているのかもしれない。
 「過失」は馬のように速く走る。原発(白馬)の下に、和合亮一の書いた馬の群れが走るのか。そのために激震が起きるのか。地下から「足音」が響いてきて、地面をゆらすのか。
 「事故」だから「神」と関係があるのか。「神」が「事故」を起こすか。「事故」を起こすのは人間だろう。そのとき「神」は「隠す」ではなく、「隠れている」のかな。神が神を「神隠し」している。ということなら、この神はなんだろう。人間の味方をしない神とはなんだろう。
 邪神?
 だいたいこの2連が東日本大震災、福島第一原発と関係しているかどうか、その確証もない。
 そして、最終連。

爆発 歌の
反原子
半減し

 「爆発」「原子」「半減」が、やはり福島第一原発を連想させる。
 気がかりなのは「歌」。「歌」でいいのかな? 悲惨な現実は「歌」? また「歌の」はどこにかかることばなのだろう。何と関係しているのだろう。私は「原発 歌の」を倒置法とみて「歌の原発」と思ったのだが、なんだか落ち着かない。
 さっき引用した部分の「神」(神隠し)とちょっと似た感じ。人間に味方しない神なら、神ではないのでは? たのしい(よろこばしい)何かでないなら「歌」ではないのでは? 反・歌/非・歌かな? 何か奇妙なずれがある。
 「歌の/反原子」かな? 歌の「原子」ではないもの、それこそ、たとえば「よろこび」。福島第一原発は「よろこび」の反対のものをもたらした。あるいは、「よろこび」を「半減」させた……。
 何かよくわからないが、奇妙な歪みがある。

確(しか)と
かだましく神か
神隠し まだかと

 「かだましく」のなかには、私の知らない「ゆがみ」、ねじまがったものがある。邪悪な「神隠し」(善良な神隠しがあるかどうかはしらないが)のようなのもがある。それは「まだか」ではなく、「すでに」起こってしまったことなのだから、「まだか」も変だなあ。わからないなあ。
 わからないまま、あっ、と思ったのが、最後に「注」がついていたこと。

(うしろから呼んでも、「震源は……」)

 なるほど、これと一種の「回文詩」なのか。東日本大震災と福島第一原発を組み込んだ「回文詩」。
 で、それでは「かだましく」は? 逆さに読むと「くしまだか」。ふ・くしまだ、か? そこには「福島」が神隠しにあったように、隠されている?

 わからないぞ。わからないけれど、奇妙にねじ曲がった感じだけが浮かび上がる。--いや、浮かび上がるのではなく、私が浮かび上がらせているのかもしれない。わけがわからないまま、それでも、ことばから「意味」をつかみ取ろうとして、藤井の詩を、それこそ私がねじまげているのかもしれないのだが。藤井の詩がねじまがっているのではなく、藤井のことばを私がねじまげて東日本大震災と福島第一原発に結びつけようとしているのかもしれない。

 しかし、不思議だなあ。ことばあると、「意味」をつかみとろうとしてしまう。そして、その意味は、もしかしたら奇妙にねじ曲がっているかもしれない。藤井が書こうとしたことは、私が読み取ったものとは違うかもしれない。私は私が読み取りたいものを読み取るために、ことばをねじまげているのかもしれない。
 「かだましく」は、それとも福島の方言?
 よくわからないが、わからないけれど、そこに何かがある、と感じる。その「ある」感じの「ある」ということが、詩なのかもしれない。いや、それとも、こういう読み方をすることもねじまげの一種?

 (映画「ハンナ・アーレント」(2)の感想とつづけて読んでください。後半に、この詩の感想の追加のようなものを書いています。)


水素よ、炉心露出の詩: 三月十一日のために
藤井 貞和
大月書店
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西脇順三郎の一行(22)

2013-12-09 06:00:00 | 西脇の一行

西脇順三郎の一行(22)

 『旅人かへらず/一六四』(31ページ)

旅人のあんろこ餅ころがす

 きのう取り上げた断章のつづきになってしまったが……。
 この一行は、一般的には「旅人のあんろこ餅ころがす」と書くところである。旅人「の」ではなく、旅人「が」。主格をあらわす助詞をつかうと思う。けれど西脇は「の」をつかう。「の」は西脇の愛用する助詞である。
 「の」という助詞によって、何が起きるのか。
 私の「感覚の意見」では、「の」だと「旅人」という主語が主語ではなくなる。旅人が主語、あんころ餅が補語(目的語)、ころがすが述語という、主-述の関係が「ほぐされる」。一瞬「ばらばら」になる。「並列」になる。
 「主-述」ではなく、「並列」、言い換えると「対等」。
 あ、これが詩なんだな。
「もの(こと)」が何かによってととのえられ、「流通」しやすくなるのではなく、その「流通」から逸脱して、「私はこっち」とわがままに自立(自律)する。そのときの「手触り(手応え)」のようなもの、「抵抗感」が詩なんだな、と思う。
 また、この「の」、あるいは「の」に含まれる母音「お」は他の音とも響きあう。「が」でも「あ」の音が響きあう部分があるけれど、「の(お)」よりも数が少ない。西脇は音楽的な点からも「の」を選んでいるように感じられる。

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マルガレーテ・フォン・トロッタ監督「ハンナ・アーレント」(★★★)

2013-12-08 23:13:18 | 映画
監督 マルガレーテ・フォン・トロッタ 出演 バルバラ・スコバ、アクセル・ミルベルク、ジャネット・マクティア

 この映画の感想をどう書きはじめていいのか、とても困惑している。
 ハンナ・アーレントはナチス戦犯アイヒマンの裁判を傍聴し、そこから大虐殺は思考することを停止した役人によって引き起こされた、という「定義」を引き出す。「凡庸な人間が引き起こす悪」が20世紀の最大の悲劇を引き起こした、という「定義」である。
 この「定義」は哲学としてはとてもおもしろい。なるほど、と感心する。
 その一方で、ユダヤ人大虐殺を「定義」することは必要なのか、という疑問が起きる。「哲学」は「哲学」としてわかるけれど、それは「必要な哲学」なのか。--これは、アンナ・ハーレントの講義を聞いていたかつての仲間(友人?)が、「きみはホロコーストを哲学にしてしまった」と言って彼女から去っていくところに集約的に表現されている。このシーンが、私には、この映画の唯一の救いのように思えた。
 私のみるところでは、世の中には「定義」が必要のないものがある。一つは「殺人」、もう一つは「愛」。人を殺すのは悪い。これは「定義」する必要がない。ホロコーストが悪いのも「定義」する必要はない。それに加担した人間が、単なる役人であったというのは、どうでもいい問題である。
 もう一つの「愛」も定義しなくていい。定義しなくても、それは誰もが知っている。だれかのためになりたい。だれかを守りたいという欲望。ことばにしてしまうと、なんだか嘘くさい。定義できなくても知っているし、実行している。
 この映画では明確な形では描かれているとは言えないかもしれないが、ハンナ・アーレントは「愛」もまた「定義」している。夫には愛人がいる。夫は女性にもてる。その愛は、しかし、ハンナ・アーモントと夫との愛をたたき壊しはしない。ハンナ・アーレントも夫と他の女性との関係を「快い」と思っているわけではないが、夫と他の女性との「愛」はハンナ・アーレントと夫との「愛」とは別のものである。彼女は夫と哲学的な議論をして、同じ「定義」にたどりつくことができる。それを「愛」と呼んでいる。他の仲間たちとも激しい議論をし、その果てに同じ「結論(定義)」にたどりつく。それを「愛」と呼んでいる。たとえ同じ「定義」にたどりつけなくても、議論する、議論をとおして「思考」を深めていくことができたとき、そこに「愛」があると「定義」している。「思考」が「愛」を決定するのである。ハンナ・アーレントは「思考」を愛したのであって、人間を愛したのではないといえるかもしれない。
 こういう「愛の基本行動」があって、そこからことばを動かしていくので、ときにとても変な結論に達することがある。ユダヤ人収容所のユダヤ人リーダー。彼らもまた「思考停止」の状態に陥り、その結果、ナチスのホロコーストに対抗することができなかった。彼らも「思考停止」というまちがいを犯した。その点ではアイヒマンと「同列」である、というのである。そういう発言は、ハンナ・アーレントがいくらユダヤ人リーダーを批判したのではなく、その行動の「哲学」を問題視したのだと言い張っても、通じない。
 ひとは「哲学(論理)」を愛するよりも、生きている人間を愛する。そして、ときには人間を愛しているがゆえにまちがいも犯す。
 ホロコーストを突き動かした「悪」はどういうものか。ハンナ・アーレントの「悪の定義」はたしかに現代の問題点をついている。ハンナ・アーレントは、この映画によれば、彼女の「定義」に誰も反論していない。拒絶しただけだと考えたようだが、これは「定義」の必要のないものを「定義」してしまっているから、おかしな具合にねじれてしまうのだ。
 ひとは(世界は)、「悪の定義」などを求めていない。世界は、ホロコーストが行われたとき、「愛」はどんなふうに動いたのか、なぜ「愛」は動かなかったのかということの方を聞きたいのだ。言い換えると、ハンナ・アーレントは無残に死んで行った人々を「愛しているのか」と問いかけているのだ。「きみに愛はあるのか」と問いかけたのだ。
 ハンナ・アーレントは、「愛」の問題は、どうも苦手としているらしい。それは女友達の作家(らしいが、私はその作家のことを知らない)が夫の浮気で相談を持ちかけたときの対応(映画の冒頭)によくあらわれている。ハンナ・アーレントは自分と夫が「議論の同士(思考の同士)」という関係で成り立っているので、他の女性との関係を気にしない。そんなものは、どうでもいいと考えている。そして、それと同じことを女友達に提案する(提案した)ように見えた。
 途中に挿入されるハイデガーとの「愛」も、「思考する力」の出会いとしての「愛」である。教授の部屋で「情熱的思考(?)」というような奇妙なことばをハンナ・アーレントは口走っていたが、「思考」の共有が彼女にとっての「愛」なのである。「思考」を、あるいは「思考する」という動詞を共有するものだけが彼女にとって「愛」の対象である。だから「思考停止」をしたユダヤ人リーダーは「愛」の対象ではないから、彼らを擁護する必要があるとも感じないのである。
 この「思考すること」という人間の行為だけをハンナ・アーレントは信じているから、ハイデガーの復権(?)にも尽力したということなのだろう。

 「思考すること」の重要性、思考するという行為に全力をそそいだハンナ・アーレントの生き方は、「頭」ではわかるが--うーん。それを支持する(その行為に共感する)かと言われれば、ちょっと違うなあ。
 困惑してしまう。
 彼女の「思想」はよくわかったし、「凡庸の悪」というのも鋭い指摘だと感心するけれど、それが「愛」とは別の次元で「論理」だけで語られることに疑問をもってしまう。
 ホロコーストを拡大させたのは「凡庸の悪(悪の凡庸?)」だったのかもしれないけれど、そういう「定義」では「殺人が悪である」ということが「定義」できない。人を殺すということは絶対にしてはいけないということを「定義」したことにはならない。
 そこが、おかしい。大量殺人の悪を「定義」できても、ひとりの殺人の悪を「定義」できないとしたら--ひとりの殺人すら「悪」なのだから、大量殺人は「巨大な悪」であるという普通の感覚からみて、とても変である。
 「定義」しなくても、だれもが知っていることを「定義」して、不自然な混乱を引き起こした。「哲学の悪趣味」のようなものを私は感じた。

 この映画は大反響を呼んでいるようである。福岡の映画館でも、信じられないくらい観客が多かった。この映画を、どう評価して、こんなに観客が多いのかわからないが。
 私なら、ハンナ・アーレントの「哲学にかける愛」の強靱さを知ることができる--というよりも、世の中には定義しなくても誰でもが知っていることがあるのに、そういうものを定義してしまうと寂しいことになるということを実感できる映画としてお勧めしたい。定義しなくていいことは、定義しなくていい。定義しなくてもわかっていることがある。その定義しなくてもわかっていることを信じているのが「世の中」というもの、「世間」というものである。
 「哲学」の「反面教師」としての映画、ということになるのかな。
                     (2013年12月08日、KBCシネマ1)

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尾花仙朔「とある冬の日」

2013-12-08 10:49:20 | 詩(雑誌・同人誌)
尾花仙朔「とある冬の日」(「現代詩手帖」2013年12月号)

 尾花仙朔「とある冬の日」(初出「午前」2)は「東日本大震災」と関係があるのだろうか。

凍り付くような世の中の道の底に
薄日が差して
きらきらは雪が降っている朝だ

鬼の子らが花屋に群れていた

 「世の中の道の底」というのは「比喩」なのかなあ。「道」に「底」はないのだが--私にはそれが「見えない」ので、何か表面を剥ぎ取った「道」、道が舗装されるまえのむき出しの道のようなもの、道の原型(?)、そこからあらゆる「道」が生まれてくるような、余分なものを排除したまっすぐな土地を思い浮かべる。そこに日が差して、雪も降っている。何か明るい。けれど、「道の底」というこことばがもっている「原型」のようなものが、ちょっとこわい。安心とは逆なもの、ひりひりと感覚を剥がすような力もそこに感じる。
 その「こわさ」(不気味さ/知らないものがそこにある、という不安)を結晶させて「鬼の子」があらわれる。でも、彼らは「花屋」といういわば美しいものといっしょにそこにいる。そして、それが「花屋」であるだけに、よけいにこわくなる。不安になる。何が起きるのかな?

托鉢の僧が通って行った

その姿を見た鬼の子らが後を追いかけ
嬉々として躁(はしゃ)ぎながら
一斉に花をかざして行った

 私は知らず知らずに「鬼の子」から「鬼の」を省略して、その様子を思い浮かべる。托鉢僧が何をしているかわからないまま、からかうようにはしゃぐこども。そういうものを私は知っている。私自身が、そういうことをした(かもしれない)。よく覚えていないが、そういう記憶は私の「肉体」のなかにあるので、そして私は私自身を「鬼の子(だった)」とは思っていないので、ふつうのガキを思うのである。
 こわいけれど、そのこわさが、ここでは少しやわらぐ。
 そのあと。

と おお!其処に髪をふりみだし
幼児の骸をひしと抱えている
海からきたずぶ濡れの女(ひと)が
鬼の子らに紛れて
眦(まなじり)をきりりと彼岸に向かい
ひたすらにあるいているのだ
その姿は誰にも見えない
とある冬の日

 「幼児の骸をひしと抱えている/海からきたずぶ濡れの女」が津波で多くの人が亡くなった東日本大震災を思い出させる。海で自分のこどもの遺体をみつけた母親の姿を私はそこに想像してしまう。
 冒頭の「道」は、この女の人がみた「世界」かもしれない。絶望しているのだけれど、絶望しながらも、それでも自分のこどもを抱いている(抱くことができた)喜び--よろこびというのは変だけれど--が「明るさ」としてあらわされているのかもしれない。
 その女の人は「彼岸」へ向かって歩いている。
 「彼岸」というのは「死後」の世界であろう。そうなると、「道」は「死」へつづく道であり、女の人は自分の手でこどもを「死」の世界へ届けようとしているということになる。津波が死の世界へこどもを奪っていくのではなく、自分の手で、しっかりと送り届ける。
 そういうことを描いているのだろう。

 でも。(でも、というのは「飛躍」なのだが……。)

 でも、「その姿は誰にも見えない」。--あ、ここにある「矛盾」。誰にも見えないのに、なぜ尾花だけに見えるのか。
 「見る/見える」とはどういうことか。
 ここに、詩が書かれる理由、詩を書いてしまう理由、根拠のようなものがあると思う。尾花にも、それは見えない。見えないけれど、ことばにすると見えるようになる。ことばにした瞬間から、それが目に見えるようになる。見えないものを見えるようにするためにことばがある。ことばは、そこにあるものを説明するためにあるのではなく、そこにないものを「ある」にするために動く。

 ここで、私は少しきのう感想を書いた安藤元雄の詩を思い出す。安藤は「そこ」にある自分を描き、それを突き抜けて、そこに「ない」自分を「ある」ものとして描き出すところまでことばを動かした。その動かすための「力」を「食欲」ということばから引き出していた--ように私には感じられた。
 同じことを尾花でも言えるだろうか。尾花はどのことばを中心にして「ある」をつくりだしたのか。「ある」の世界へ踏み込んだのか。「見えない」を「見える」に変えたのか。
 そう思ったとき、あ、私はこの詩を読み違えていたと、突然気がつくのである。

鬼の子

 このことばを私は桃太郎や泣いた赤鬼などに出てくる「鬼」の「子」のように簡単に考えていたが、そして私は「鬼の子」ではない(なかった)から、「鬼」を省略して、そこに自分のこども時代を重ね合わせてしまったのだが、尾花は「鬼」を架空の生き物、野蛮な(?)生き物とは考えていないのではないか。
 「その姿は誰にも見えない」と尾花は書いている。「その姿」は文法上(文脈上)は「幼児の骸を抱えた女」を指しているが、それだけではないだろう。
 「鬼の子」そものもの、誰にもみえない。「鬼」は「隠れる」の「隠(おん)」なのだ--という語源(?)のようなものが、ふいに、私の「肉体」のなかから飛び出してくる。どこかで聞きかじった記憶が、ことばではなく、肉体のように飛び出して目の前にあらわれる。津波によって「隠された」多くのこども。「隠されて」見えないこどもが大勢いるのだ。そして、そのこどもたちは見えないが「隠されている」ということは「見える」。「見える」どころの話ではなく、「わかる」。こどもが「隠された」ということが「わかる」。「肉体」に響いてくる。「目」で「見える」のではなく、「ひしと抱える」かたちで「隠されている」が実感できるのだ。

 詩は論理ではないので、すっきりとは説明できない。順序立てて、結論へ向けてことばが動いていくわけではない。行ったり来たりする。あることばはそこにあるように見えて、実は「遠いところ」へ先回りしてしまっていて、そこには「残像」のようなものがある。「残像」なので、最初は、その「手応え」がない。「手触り感」がない。「架空」のもののように見える。感じられる。
 「鬼の子」、その「鬼」は私には、最初はそういうものだった。なぜ「鬼」なのかなあ、普通のこどもでいいのになあ、という印象があった。
 しかし、それは終わりから2行目の「見えない」ということばでまったく違ったものになってあらわれた。「反撃」のような感じだ。
 尾花には「見えない」が「見える」のだ。「隠されている」が「見える」のだ。「見えないということ」が「見える」。
 この叫びは強烈である。

有明まで
尾花 仙朔
思潮社
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西脇順三郎の一行(21)

2013-12-08 06:00:00 | 西脇の一行

西脇順三郎の一行(21)

 『旅人かへらず/一六四』(30ページ)

車はめぐり

 この一行は独立させて読むのがむずかしい。ということは「意味」をもっているということである。
 この断章では西脇は「輪廻」を書いている。「人の種も再び人の種となる」というときの「再び」が「輪廻」を結晶させている。そういう「意味」を語る途中で西脇は「水車」を持ち出して「この永劫の水車/かなしげにまわる/水は流れ/車はめぐり/また流れさる」と展開する。
 このとき「水」は「無常」である。いっときも「同じ」ではない。水車の「車」はどうだろうか。そのあり方は「水」の「無常」とはずいぶん違う。そこに存在しつづける。「無常」のなかにあって、「無常」ならざるものなのだ。
 何を見たのか、一瞬、私はわからなくなる。
 この「車」は「無常」ではないが、「無常」の影響を受けてまわっている。その「まわる」運動は、実はまわされているのだが、西脇のことばの調子からは「されている」という受け身の印象は浮かび上がらない。
 「されている」につながる「まわる」を避けて「めぐる」という動詞で言いなおしている。言い直しながら、その動詞は「また流れさる」と、まるでそこに存在しながらも、水車がどこかへ消えていくという印象も呼び起こす。
 何か矛盾している。
 その矛盾に、詩がある。
 水が流れさるなら、その水によってまわる水車の車も流れさるはずである。それでもそこに「車」があるなら、それは、そのつど水といっしょにそこにあらわれてくる「もの/こと」なのだ。
 こういう消え去りながら、そのつどあらわれて、そこに存在しつづける「もの/こと(水車/めぐる)」の「自立性(自律性?)」が西脇の詩なのだ。
 ことばは描写として「つづいている」のではなく、そのつど、そこに「あらわれている」のである。

西脇順三郎詩集 (岩波文庫)
西脇 順三郎
岩波書店
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安藤元雄「樹下(断片)」

2013-12-07 11:12:20 | 詩(雑誌・同人誌)
安藤元雄「樹下(断片)」(「現代詩手帖」2013年12月号)

 安藤元雄「樹下(断片)」(初出『現代詩花椿賞三十回祈念アンソロジー』)のことばはていねいに動く。

樹の下にいるといっても
樹は私よりさらに下に
鱗のない蛇の絡まるような
逞しい根を張りめぐらせている

 ていねいに動く--と書いてしまったのだが、それがほんとうていねいに動いたものであるかどうか、私はわからない。ていねいと感じたのは、ここに書かれている木の根の描写が、私の聞いて(読んで?)知っているものと似通っているからである。
 木の根は大地の下に広がっている。それを私は直接見たわけではない。少しは見たことがある。小さい木なら引っこ抜いて根っこを見たことがあるかもしれない。草は抜いてみたことがある。その草の根の記憶から、私は木の根も同じようなものだろうと想像している。そういう絵なら何度か見たことがある。安藤のことばは、そうした私の知っているものをゆっくりと、自然に思い出させてくれる。
 安藤はどうなのだろう。安藤は実際に自分の手で土を掘り返し、自分の目で根がどこまで張りめぐらされているか見たのだろうか。たしかなことはわからないが、この詩の状況では、その樹の根は見えていないだろうなあ。
 見えていないものを、見えているように書く。知っているものとつながるように書く。そういうことばを、私は「ていねい」と呼んだのだが、それでいいのだろうか。これはむずかしい問題だ。見えない(見ていない)のに、それを知っているものにあわせて書いてしまう。ことばを動かしてしまう--それは「ていねい」ではなく「乱暴」かもしれない。ある種の「暴力」かもしれない。思考を(ことばを)流通している概念にあわせて動かしているということかもしれない。
 次の部分は、もっとそういうことを考えさせる。

渇いた土地の 私の知るよりずっと深い層から
音もなく水を吸い上げている
ただ そんな地中での慌ただしいいとなみが
私の目に届いて来ないだけだ

 「私の目に届いて来ない」。けれども、それを目で見たかのように書く。「知る」ということばが書かれているが、安藤の書いていることは「知識」にあわせて想像しているということ、知識にあわせてことばを動かしているということになる。
 それなのに、私はそれを「乱暴」ではなく、「ていねい」と感じる。
 これでいいのだろうか--と私は自問してみる。私は私の「知っていること」が否定されないことを願っているだけなのかもしれない。「知っていること」が他人のことばで繰り返されることに安心しているのだけなのかもしれない。
 これは危険なことかもしれない。

地の底で長い日々を送る夥しい虫の幼生の
あるいは
手探りで根毛をさらにひろげようとうごめく植物の
とめどない食欲

 ここに書かれている「虫の幼生」ということばから、私は蝉を思い出す。七年間地中にいて、地上に出てきて生きるのは七日間。--それを私は実際に見たことがない。地上にいる蝉、地中からでてきた蝉の幼虫は見たことがあるが、それが七年間地中にいたのを見たことはない。その蝉が七日間生きているのを見てわかっているわけではない。知っているだけだ。
 その蝉の「食欲」も、私には「わかっている」ことではない。だいたい植物に「食欲(欲望)」があるかどうかもわからない。ただ、そういうふうに想像できる、ということなら、まあ、できるかもしれないが……。
 と、思っていると、この1連目の最後の行。

それを私は思い描くことさえできない

 あ、これには私はびっくりした。
 「ていねい」に「知識」を追認していたことばが、ここで突然、追認をやめる。知っていることにあわせて想像するのをやめる。
 「食欲」ということば--そこから始まる何か。それを「思い描くこと」が「できない」。
 この「食欲」は、それ以前の行にもさかのぼる。絡まり、張りめぐらされる根の貪欲、水を吸い上げる貪欲、欲望を「思い描くこと」ができない。
 なぜだろう。
 それは「食欲(貪欲/欲望)」は「科学(客観)」ではないからかもしれない。地中に張りめぐらされた根、根から吸い上げられる水--それは土を掘れば確認できるし、実験で水の動きを再現することもできるから、まあ、「客観」といえるのだ。蝉の七年かと七日間も、飼育して「客観的事実」として追認できる。
 でも、そういう「運動」のなかにある「食欲(貪欲/本能)」は? 「客観的」に、どうやって確かめられるだろう。確かめることはできない。
 で、この「客観」とは違ったものを、な、な、な、なんと。安藤は「思い描くことさえできない」と書いている。
 変でしょ?
 と、私は大急ぎで書く。
 「客観」として「観察」できないものをこそ、人間は「思い描く(想像する/空想する)」のであって、客観的事実は「思い描く」ものではなく、肉眼で見るものでしょ? 「思い描かなければならないもの」があるとしたら、それは見えないもののはずである。見えないものをことばにして動かす、動かすことで見えたと錯覚する。そういうことを私たちはしているはずである。詩の最初の部分はそういうことが書いてあったはずである。

 何かが、ここで大逆転している。
 「食欲」と「思い描くことができない」ということばを中心にして、それまで書いていたこととはまったく違う形でことばが動きはじめている。「欲望」という何か人間に通じることばに触れた瞬間に、何かが大逆転したのだ。
 そのことに、私はびっくりしたのである。「ていねい」であったことばが、ここから、その「ていねい」が乱暴であったことを反省するようにして、「乱暴」をむき出しにして動きはじめる。ただし、安藤の「乱暴」は詩の前半を引き継いで、「乱暴」を感じさせない動きなのだが。

樹の下にいて じっと動かず
樹のしたたらすしずくを浴び
樹の枝の下をすかして遥か遠くに目をやり
蔭のない 灼けただれた野を眺めては
いつの日かそんなところへ帰ることも
あろうかと 思ってみる

 「思い描くことさえできない」と書いていたのに、ここでは「思ってみる」と書く。この飛躍に「乱暴」な何かがある。
 あ、もちろん、このとき「主語」というか、「思う」の対象は違うのだが。
 1連目で書いている「思い描くことができない」の対象は樹や蝉や何かの「食欲/本能」であるのに対し、ここで「思い描いている」のは「私(安藤)」の姿である。だが、「私の姿」というのは「私の欲望(意志)」の反映である。ひとは自分の思っているとおりに動く(動きたい)。そして、どんなふうに動きたいかは簡単に「思ってみる」ことができる。
 でも、どうして樹や蝉のことは「思い描くこと」ができないのに、自分のことは思うことができるのか。
 この区別、差別はどこに「根拠」があるのか。
 自分の「欲望」というもの、自分のなかで動いている「本能」というものは、自分には「わかる」からだろうか。それは知っている何かではなく「わかる」何かだろうか。

 たぶん樹の地下の姿は見えない、蝉の地下の姿は見えない、それに対して自分の姿は見えるし、これまでの生き方も覚えているので、それから類推することができるということなのだろうけれど、これはこんなふうに簡単に言いきってしまえるのだろうか。
 なんだか不思議なのである。

あそこでは きっと私は
一日とたたずにひからびて 血液も涸れ
二度と動けなくなるだろう
どうしてそこへ戻らなければならないのか
ひそかに心を決めて
もう帰らないつもりでそこを離れ
ここへ来てこうして坐り込んでいるのではなかったのか

 ここには「食欲(生きるための欲望)」とは反対の--しかし、やはり「欲望」が描かれている。それは「本能」の欲望というよりも、何かを知ることで「本能」を整えたあとの、いわば「知性の欲望(理想)」のようなものであるけれど。

 私自身の考えを追いきれないのだが、(私は目が悪くて長い間パソコンに向かいつづけることが苦しいので、ことばをはしょってしまうのだが)、1連目の最後の方で「食欲」ということば「欲(望)」ということばを書いた瞬間に、安藤のことばのなかに「人間」が急に動きだした。
 「食欲」というのは名詞だが、その名詞のなかにある「欲する」という動詞が安藤の肉体の内部で動きだし、「他者(樹/蝉/植物)」を観察しつづけることができなくなった。「客観」ではいられなくなった。「流通言語」をそのまま整えるだけではいられなくなった、ということかもしれない。
 こういう「変化」の一瞬--そこに、私は、詩というものを感じる。ほかのことばでは置き換えられない「いのち」を感じる。
 「食欲(この漢字は、貪欲という文字に非情によく似ている)」ということばが突然でてきて、それが暴れはじめて、安藤のことばを少しずつ違った世界--下界から、安藤自身の姿を描写するという具合に動かなかったら、私はこの作品について書くということはなかっただろうと思う。 



続・安藤元雄詩集 (現代詩文庫)
安藤 元雄
思潮社
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西脇順三郎の一行(20)

2013-12-07 06:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(20)

 『旅人かへらず/一六四』(29ページ)

ただ二階に一つあく窓

 これは「へたくそ」な日本語である。ある家の描写なのだが、家には幾つも窓がある。それは閉ざされている。二階にある窓が一つだけ開いている。--西脇の一行で、それが「わかる」は「わかる」のであるが、とても奇妙である。「へたくそ」な日本語である。
 なぜ「へたくそ」に感じるかといえば「あく」という動詞のつかい方が変なのである。窓はひとりでに「あく」ことはない。だれかが「開ける」。窓は「開いている」のである。それを西脇は「あく」と自動詞で表現している。
 窓に意思があるかのように描いている。
 「もの」が自分で動いている。--というのは「もの」が人間から独立しているということである。
 「もの」が人間から自律し、ひとりで動くとき、そこに詩がある。その詩というのは、人間の「思い(感情/精神)」から切り離された何か、「非情」の何かである。
 「非情」は「淋しい」という西脇の大好きな詩の根幹である。
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井坂洋子「誕生は偶会」、相沢正一郎「(はれわたった空にうかぶ雲が、テーブルの上に……)」

2013-12-06 10:53:13 | 詩(雑誌・同人誌)
井坂洋子「誕生は偶会」、相沢正一郎「(はれわたった空にうかぶ雲が、テーブルの上に……)」(「現代詩手帖」2013年12月号)

 「現代詩手帖」2013年12月号は「年鑑」。代表詩選 150篇が掲載されている。読んだことのない詩が多い。読んだかもしれないけれど、読みとばした詩もあるかな? 私は私の関心のあること以外は素通りしてしまう人間なので、年に一回、「年鑑」が出たときだけ、そのなかのことばを歩いてみる。途中でやめてしまうことが多いけれど。

 さて。
 井坂洋子「誕生は偶会」。井坂の作品については04日にも書いたが、そのときは佐々木安美のことばと結びつけて書いた。井坂のことばだけと向き合ったわけではなかった。で、向き合ってみることにしたのだが……。
 井坂のことばには、わからないことが多い。わからないものを多く含んでいる。これは初期のころからかわらない井坂の特徴であると思う。(「偶会」も私の知らないことば(わからないことば)なのだが、こういういことを「わからない」と書いているときりがないので、省略。)

なんにも いらなかったね
なにしてもよかったんだけれど
(クリップをした頭を揺らしながら喋る
わたし あれから半世紀もたっちゃって
いろいろあったけど
(鍵盤の高いキイを軽くたたきながら喋る
透明な魚の泡が彼女の肩胛骨のあたりで 幾つもこわれる

 井坂の友人が、井坂に向かって話しているのだろう。半世紀ぶりに会ったのかな? 井坂って、そんな年齢? つまり半世紀+○歳=●歳。そんなふうに、ちょっと寄り道しながら読むのだけれど--この寄り道。私は意外と大切なこと、重要なことなのかな、とも思う。
 寄り道のなかには、何か人間に共通のものがある。人が「あれから半世紀もたった」というとき、その人はあのときから「半世紀」生きているのだけれど、その半世紀は自分にも跳ね返ってくる--その「跳ね返り」の「共通」。
 それは、「なんにも いらなかったね/なにしてもよかったんだけれど」ということばがもっている何か「共通」にも通じる。「いろいろあったけど」にも「共通」がある。ほんとうは「違う」のだけれど、井坂と井坂が向き合っているひとは違うことを体験しているはずなのだけれど、その「違い」を超えて「共通」する何か。一種の、「同時代」を生きることが生み出してしまう「共通」。いや、それは「同時代」でなくてもいいかな? 人間が生きていることの「共通」。
 言い換えると。
 「わたし(井坂の対話者)」が「なんにもいらなかったね/なにをしてもよかったんだけれど」と言うとき、彼女が何を思い浮かべて「なんにも」と言っているかわからないけれど、それが「わかる」。それが「わかる」のは、井坂にも(そして、この詩を読んでいる私にも)、「なんにもいらなかったね/なにをしてもよかったんだけれど」ということばで「要約」できるような「瞬間」があったということ。それが「共通」している。
 「要約」できるものは、まあ、たいていがつまらない。だから書く必要はない。書かなくても「要約」は伝わるのである。
 「いろいろあったけど」は、もっとすごい。「いろいろって何?」と聞くこともあるけれど、尋ねないこともある。言いたいことがあるなら、いずれ話すだろう。話さないなら、そのままにしておいてもかまない。そういう「あいまい」な付き合いのなかに「共通」がある。同じところを通る何かがある。
 もしかしたら、
 ○歳+半世紀=●歳という「算数」のなかの「+」が、その「共通」なのかもしれないなあ。「半世紀」が「共通」というよりも。「半世紀」を通るのではなく、「+」を通ることが「共通」なのかな。
 だから「いろいろ」がどんなものでも「共通」になってしまう。

 あ、抽象的だねえ。抽象的だけれど、その抽象は何か小学校の算数(足し算)のように、あたりまえすぎるくらい人間になじんでいて、それを「具体的」に取り出すのがむずかしくなっている--そういう感じ。足し算の「+(プラス)」という記号は抽象的だけれど、誰もそれをいちいち「抽象」なんて言わない。「+(プラス)」は私たちの「肉体」になってしまっている。「具体的な思想」になって「肉体」に組み込まれてしまっている。それが私たちの「共通」になってしまっているのかなあ。

 井坂の書くことばには、不思議な具体性があって、しかもその具体性はよくよく考えると、その足し算の「+(プラス)」に似た具体性なのである。抽象的だけれど「具体的」なのである。
 そこから出発して(そういうものを土台としてぽんと提出しておいて)、

透明な魚の泡が彼女の肩胛骨のあたりで 幾つもこわれる

 と突然「非共通」の何かがあらわれる。「共通」をくぐりぬけたあとで、共通じゃないもののほうに「ずれ」る。
 このずれ方が、とても美しい。
 あ、それを見たことがある--と思ってしまう。「透明な魚の泡」が「幾つもこわれる」というのは、水槽の金魚(たとえば)の吐くあぶく。それがぷくぷく浮かんできて、ぱちっとこわれる。そういうものを私は書いたことがないけど(ことばにしたことはないけれど)、それは「ある」。「ある」ということをくっきりと思い出す。私はそれを「覚えている(覚えていた)」ということを発見する。
 で、これが--この「覚えていたこと」を「思い出す」というのは、逆戻りしてしまうけれど、最初に書いた「なんにも いらなかったね/なにしてもよかったんだけれど」ということばのなかに「共通」を感じる、その「共通」を通るということと同じなのだ。
 私たちは何かを「覚えている」。そして、それを「思い出す」。そのとき、同じところを「通る」。

 そのときの、「通過の感覚」が、何とも不思議。
 うまく言えないが、私は「おんな」を感じる。つまり、私とはまったく違う何かを。でも、違うといっても「同じ人間」なのだけれど。「同じ人間」なのだから「同じ」があるのだけれど、手触りが違う。
 これでは何も言ったことにならないのだが、

透明な魚の泡が彼女の肩胛骨のあたりで 幾つもこわれる

 の一行の「彼女の肩胛骨のあたり」という挿入(?)部分に、ふっと引きつけられる。「おんなの裸」を見るような、目が洗われる感じがある。
 男は書かないだろうなあ。書けないだろうなあ。
 3連目の、

きれぎれに聞こえてくる音楽のような
静かさに支配されている
表(おもて)はひっきりなしに車が通っているというのに

 という彼女の語り口の静かさと家の外の音との対比なんかも。
 なんだろうなあ、これは。
 そこに「現実」がある、「世界」があるというよりも、何か、その「世界」をとりこんでいる「肉体」がある、「肉体」を見る感じなのである。「おんなの肉体」の輝きを見る感じがするのである。
 --こういうのは「感覚の意見」であって、まあ、いいかげんなものだけれど。



 相沢正一郎「(はれわたった空にうかぶ雲が、テーブルの上に……)」は井坂のことばに比較すると、あたりまえだが「男の肉体」である。
 いや、間違えた。「肉体」は、そこにはない。--これは、方便でそう書いているのだが……。

はれわたった空にうかぶ雲が、テーブルのうえに……みずうみは、よく磨かれた鏡のよう--顔をちかづけると、息でしろく曇ってしまいそう。

 「息でしろく曇って」には具体的な肉体の存在が反映されているけれど、でも「肉体」よりも、磨き上げられたテーブルに空と雲がうつっているという「もの」の世界の方が強く見えてくる。そこには「もの」はあるけれど、それは「肉体」を通過しない「もの」である。「肉体」の外にある「もの」。
 井坂のことばが「おんなの肉体」を通って「世界」と往き来するのに対して、相沢のことばは「肉体」を通らない。
 あ、でも、ことばが「肉体」を通らないということはありえないので……。
 そうだなあ。相沢のことばは「目」だけを通るといえばいいのかなあ。

顔をちかづけると、息でしろく曇ってしまう。

 呼吸(鼻?)があらわれるけれど、それは「しろく」という視覚にすぐに整え直されてしまう。「目」で世界をとらえるという運動が支配的なことばの運動だ。



 井坂だけを読んで井坂のことばのなかに入っていくというより、また他の人との比較をまじえてしまった。井坂のことばは、私には、なんだか奇妙な印象を残す。

プロスペローの庭
相沢 正一郎
書肆山田
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西脇順三郎の一行(19)

2013-12-06 06:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(19)

 『旅人かへらず/一六一』(28ページ)

『から衣(ごろも)を着てゐた時代の

 この一行は「女のへそが見たいと云つた」という楽しいことばにつづく。どちらがを好きな一行として取り上げるか、私は実は悩んだ。「女の裸」といわずに「へそ」というところに不思議なエロチシズムがある。具体性が美しい。
 しかし、それがより具体的になるのは「へそ」という普遍性(いつの時代にでもあるもの)が、「から衣を着てゐた時代」によって特定されるからである。--この言い方は変で、「へそ」という具体的なものが「から衣」によってさらに限定されることで、逆に普遍になるというべきなのかもしれない。そのときどきで、どっちでもいいかもしれない。
 あ、脱線したが、その「へそ」を彩る「から衣」の一行の音がとても美しい。「ごろも」と西脇はわざわざ「ルビ」を打っている。この「ルビ」は「音」へと視覚を引っぱっていく。「ルビ」があってもなくても「意味」は同じだが、「ルビ」があると「衣」という文字を読んで動く意識が、聴覚をくすぐる。
 私は黙読しかしないのだが、黙読だと「から衣」という文字を見ると、そこに「衣装(着物)」が浮かび上がってきて、「音」が一瞬なくなる。視覚の方が情報量が多いからかもしれない。
 そこに「ごろも」という「ルビ」が打たれると、それは「衣」の模様(飾り)を通り越して、「音」そのもの、「音楽」になる。「ルビ」によって、ことばの「音楽」が動く出す。「か行」と「濁音」がこの一行を動かしていることがわかる。
 耳が西脇のことばを動かしていることがわかる。
 それを補うように「だれか立ちぎきするものがある」という行がある。「耳」でとらえた世界--耳で空想している。「天気」の「何人か戸口にて誰かとさゝやく」に通じる「音楽」の空想がこの断章を動かしている。
 「から衣」の一行は、そのことを証拠になる「音楽」である。
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マイケル・ウィンターボトム監督「いとしきエブリデイ」(★★★★★)

2013-12-05 10:57:34 | 映画
マイケル・ウィンターボトム監督「いとしきエブリデイ」(★★★★★)

監督 マイケル・ウィンターボトム 出演 シャーリー・ヘンダーソン、ジョン・シム、ショーン・カーク、ロバート・カーク、ステファニー・カーク

 暗闇のなかでベルが鳴る。目覚まし時計だ。母親が疲れた感じで起きる。冒頭のシーンである。このシーンが後半でも繰り返される。二つのシーンの間には長い年月があるのだが、その年月を消してしまうくらいに同じである。--と書いてしまえば、この映画のすべてを語ったことになる。
 でも、ストーリーは要約できても、感動は要約できないので、私は書く。とても感動した。激しく感動した。今年はおもしろい映画がたくさんあったが、これはそのどれよりも哲学的である。言い換えると、「ふつうの人間」が「ふつう」に描かれている。「ふつう」そのものである。
 毎日同じことを繰り返す。朝起きて、顔を洗って、ご飯を食べて、仕事をして(学校へ行って)、遊んで、けんかして、またご飯を食べて寝る。その繰り返しは、日にちを入れ換えても変わらない--というと、少し違う。いや、かなり違うのだけれど。ほんとうは、そうではない、と矛盾したことを書いてしまうが……。
 私が書きたいのは。
 たとえば、後半の父親が刑務所から出所してきたあとの、朝の目覚まし時計。母親が起きだして、朝の準備をする。そのとき、最初のシーンと「いま」とどれくらい「離れている」か。「時間」にかえると、数年になる。小さかった長女はすっかり娘の体つきになり、母親よりも背丈がおおきくなっている。おしゃぶりをくわえていた末っ子の少女も大きくなっている。けれど、そういうことを思い出すとき、そこには「時間の隔たり」がない。5年前、4年前、きのう、の区別がない。「毎日(エブリデイ)」に違いがない。みんな、同じ感じ(隔たりなし)で「いま」につながっている。「過去」などというものはなくて、「いま」だけがある。いや「過去」はあるけれど、それは時系列にそって並んでいるのではなく、「いま」とそのときそのときいちばん近い形(密接した形)でつながり、「いま」になってしまう。「過去」に日付をつけてみても、「いま」生きているという瞬間にとって、それは無意味なのである。あれは何年前、あれはきのう、と言ってみても、「肉体」はそれを区別できない。「いま」にしてしまう。
 こういうシーンがある。
 妻が、夫が服役中は寂しかった、とベッドのなかで言う。浮気してしまったことを告白する。夫は当然しかりつける。どなる。妻はこどもに聞こえるから大声を出さないで、という。こどもたちは自分の部屋でふたりの会話を聞いている。
 このとき、私は、愛人が妻の家に来てこどもたちといっしょに食事しているシーンを思い出す。きっとこどもたちも思い出している。母親と男の関係を、こどもたちはじっと見ていて、何が起きているかを知っている。それが父親にとってどういうことかも知っている。知っていた。だからこどもたちは父親にはそういうことを言わなかった。父親と母親にいっしょにいてもらいたい。家族がいつもいっしょにいたい。だから言ってはいけないと判断したことは言わない。それは、特に約束したことではないけれど、そういうふうに感じたのだ。その「感じ」を「いま」思い出している。
 その「感じ」は「いま」そのものでもある。黙って、父親と母親のけんかがおさまるのを待っている。「過去」はどれだけ年月が経っても、思い出す瞬間に「いま」になる。「いま」になって、現実そのものを動かすのである。
 映画を振り返ると、「時間」の不思議さがとてもよくわかる。夫が刑務所に入っている「期間」は5年。しかし、映画にはその「5年」が客観的には描かれない。よく映画では字幕で「1年後」とか「1か月前」という表記があらわれて「時間」を明らかにするが、この映画ではそれがない。そういうことをさして、私は客観的には描かれない、と書いたのだが--客観を通り越して「具体的」に描かれる。(変な言い方だが。)たとえば、夫(父)が最初に入っていた部屋は相部屋で、彼は二段ベッドの上にいた。それから個室になり、さらに二段ベッドの部屋になり、今度は下のベッドをつかっている。「時間」は「日付」ではなく、「暮らし方」そのものとして具体的に(だから客観的に)描かれる。
 なによりもこどもたちの「肉体」の成長が「具体的」である。小さかったこどもが大きくなる。先に書いたが長女は母親の身長を追い越してしまう。それは「変更」がきかない「事実」である。
 でも、ほんとうに不思議だ。同じ学校へ通っていた4人のきょうだい。年月が経ち上の二人は中学校(?)、下の二人は小学校(?)という具合。その関係は「入れ換え」ようがないけれど、そういう「入れ換え」不可能な関係をかかえたまま、それぞれの「日々」そのものは入れ換えが可能なのだ。年上のこどもが下のこどもに靴下を履かせていたのは、いつのこと? クリスマスの歌を練習していたのはいつのこと? 歯ブラシで洗面台を掃除し、それを姉が叱ったのはいつ? 「いま」から振り返れば、すべては「過去」なのだが、その「過去」には「順番」がない。ほら、その歯ブラシのシーンと、弟が刑務所で父親に面会したとき泣いていたが、それはどっちが「過去」? 「いま」から遠いのは、どっち? 言えないでしょ? どっちが先でどっちがあとでも「いま」はかわらない。
 それが「時間」(過去といまの関係)なのだ。
 「事実」があるだけで、そこには「時間」はない。「過去」という時間は「いま」の前では瞬間的に「消える」。「いま」にのみこまれてしまう。「生きている」ということにすべてがのみこまれ、「いま」を動かしていくだけである。
 私が映画のシーンを時系列にそって思い出さないように、思いつくことから順々につないでことばを動かすように、「過去」は「日常」のなかで、いつも「位置」をかえている。自在に動いている。「いま」にふさわしい(都合のいい?)「過去」を呼び出しているだけなのである。

 あ、少しごちゃごちゃと書きすぎたかもしれない。
 この映画は、そういう「日常」とは別に、イギリスの風景もとても美しくとらえている。風が吹いて黄金の麦が揺れる。冷たい雨が降って人間を小さくする。かわらないものが、「永遠」がそこにはある。その永遠と日々は向き合い、「いま」を生きているという感じがする。
 こどもたちは実際の四人兄弟が演じているのだが、そのなかで下から二番目のショーンがすばらしい。「いま」の感覚がいい。あらゆることを「いま」として浮かび上がらせる。役者というのは「過去」を「いま」に呼び出して、「過去」を「いま」として見せる仕事だということを教えられた。

 それから、最初に書いた浮気の告白にもどるけれど、そのシーンにはイギリスの個人主義(秘密主義)というものがとても濃厚にでている。「秘密」があって、その「秘密」は自分に責任がある。その人がことばにして語って、はじめて「秘密の過去」が存在したことになる。他人は(たとえばこどもたちには)、その「過去」を出現させる権利はない。「過去」を「いま」に呼び戻すのは、人それぞれなのである。--と書くと、この映画の「時間感覚(日常感覚/永遠の感覚)」は、イギリス人の強い個性のようにも見える。個性的であるからこそ、哲学(普遍)に通じるのかもしれない。--ということも考えた。
                     (KBCシネマ1、2013年12月04日)

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角川映画
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西脇順三郎の一行(18)

2013-12-05 06:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(18)

 『旅人かへらず/一二〇』(27ページ)

色彩の生物学色彩の進化論

 「色彩」が二度繰り返される。全体が「さ行」の音で動いている。それが一行に統一感を与えている。たとえば「色彩の行動学」などということばと比較すると、そのことがよくわかる。
 「生物学」と「進化論」ということばに親和力があるのも統一感を強めている。
 「意味」というのは「親和力」の中で、権力的にでっちあげられるものだなあとは思うけれど、西脇は「意味」を深追いしないので、さっぱりした感じがする。
 この「断章」の最後の一行「色彩の内面に永劫が流れる」の「な行(ないめん/ながれる」と「が行」のゆらぎの方が「音楽」としては美しいと思うけれど、科学的(?)なことばも「音楽」として響くという意外性があるので、「生物学/進化論」の行を選んだ。


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千人のオフィーリア(101-120)

2013-12-04 22:45:08 | 連詩「千人のオフィーリア」
                                        101 山下晴代
「はい、こちら、ガブリエル。今から"受胎告知"のお仕事にでます。行き先は当然、あの方……。千人のマリアから千人のキリストが生まれたら、いったいどーなる? その後の世界は」
「♪しあわせが大きすぎて、悲しみが信じられず……」と、ザ・ピーナッツは歌っている。曲は、当然『恋の……』オフィーリアならぬ、"オフェリア"です。

                                         102 橋本正秀
胎児が赤剥けた体を
震わせて誕生する
黄葉の森

水膨れの
肉厚の
絶版の
このページに
類人猿の幼形を保ったままの
胎児は
成熟したかのように
これまでの人生を
書いて書いて書き連ねて
眠る 眠る 眠る

そして朝

よだれまみれのページから
文字は消え失せ
黄色いページだけが
明るく
光っている

                                       103 市堀玉宗
子を宿す絶望に似てこの寒さ


 
                                        104 二宮 敦
堕胎は大体いかん
太宰は大抵あかん
大帝は最高たらん
垂乳根の母なる腹に子は宿り
ヤドカリはどこにいる
イルミネーションの末裔に
歳末に売り出しあらん
ALSOKには吉田びらん
ビリージョエルのエンディング

                                       105 金子忠政
コケティシュに鼓舞され
苔むす国家へ孤高として
昏倒しながら
小賢しく攻撃をしかける
荒唐無稽の小鬼たちは
小癪なこそ泥のように
ことごとく困惑させるから
サクサク素敵だ
素敵は無敵
無敵は素敵な造反有理
ああ・・・
やるせなさを孕んで
セシウムが空を行く
旋回して
千回地に墜ちて・・・
ジクザグに蝕む
何を蝕む?

                                         106 二宮 敦
コント55号こそセシウムの膿のおやだす
と描きしは
蚊の垢まみれ不二雄
かゆし痒しかりゆし
沖縄の空は
コバルトのごとく
セシウムの君より
五つ歳(とせ)上なりや

                                         107 橋本正秀
素敵な無敵なコント
ゴーゴーとのたうつ的屋の
手の内サンザン
シーシーと
ニャンコとワンワン
ワンダーブルー
ブルーな ブルーな
ブルーな
胎児の脳の
リフレイン
絶望
そう
絶望のみが
希望なの 所望なの
朝に
胎児たつ

リプレース リプレー

                                        108 山下晴代
絶望だけが人生だ、ダザイです。え? ダサイじゃありません。ダザイです。ほら、玉川上水で「成功=性交」した。
どうでしょう? オフィーリアと私の共通点は、周知のとおりでありますが、ワタクシ、さまざまな女と「入水経験アリ」ですから、いいでしょう。千人のオフィーリア、引き受けましょう。でも、言わせてもらえば、私といっしょに「飛び込んだ」女たちは、すべてオフィーリアだったのです。

                                      109 市堀玉宗
人間不信おしくらまんじゆう抜けしより だすげまいねとだすけまいねと

                                        110 二宮 敦
オフィーリアの増殖こそ
彼女の意図する孕みだった
エイリアンに
全ての時代が悩まされ
苦悩するリフレイン
いつ果てることもない輪廻
救いの神仏の登場さえ
謀られた愛の刻印に過ぎぬ
ゆえに全てはまた回帰する
虚脱も離脱も逃避も回避も
許さなれぬ宿世へと

                                        111 橋本正秀
余所者の余計もん
オフィーリアの周りは
そんなものあんなものの
興行一座
神仏さえもお節介もんの
仲間外れ
離脱行に逃避行
手出し口出し
ちょっかい無用
これもあれも
先の世この世の
闇の空間

八百万
のオフィーリアドールの
集団行動マスゲーム
そんなこんなで
オフィーリアは
ついに
オフィーリアの

を持ちました

                                        112 市堀玉宗
冬薔薇叶はぬ愛を抱き寄する

                                       113  金子忠政
冬空のひかりにすがる薔薇の骨それを折る折る、 白き血流る

                                        114 山下晴代
わたしの名前はオフェリアでッス
もちろん芝居に決まってまッス
バラのほね、バラバラのほね
集めてもガイコツにはなりません
これでオワリです
これで尾張です
名古屋の煉獄でハムレットを待ってマス

                                     115 小田千代子
終わる恋 安堵のなかの後ろ髪
引かれ引かれて忘河流るる

                                         116 橋本正秀
冬ごもる二年三年今四年
折れる心根銀河につつむ

                                        117 二宮 敦

オフィーリアは
考えた
引くこと、折ること、終わらないこと
への罪を
勿論贖うためではなく
考えるために
である
思考の回路の維持
何より大切な生命

                                        118 小田千代子
けもの道あゆめぬ女の道案内
小江戸 なみだの苦しコーヒー

                                        119  橋本正秀
ウソとホントの棲んでいる
けもの道には、
ホントとウソと
ウソとホントの
だまくら合戦ありました。
ちょびっとのウソと
ちょこっとのホントを
かけ合わせ、
真(まこと)の花と時分の花が
もたれ合っての罵り合い、
だんまり屋あのだまし絵描きの
描きっぱなしいの
苦み走った脳のなかにゃ、
男と女の本真(ほんま)の子供だましが
口元ゆるめて座ってる。
直球も、
カーブもシュートも、
ミラクル55号も、
あるでよお。
真真(まことまこと)し
ウソ八百の真光りこの世界。

戯れ言、言い言い、

笑え。
   嘲え。
     オフィーリア。
歌え。
   謳え。
     オフィーリア。

                                        120  市堀玉宗
まだ愛の足らぬとばかり冴えわたる
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