詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ダグ・リーマン監督「オール・ユー・ニード・イズ・キル」(★★★)

2014-07-24 11:29:08 | 映画
監督 ダグ・リーマン 出演 トム・クルーズ、エミリー・ブラント

 トム・クルーズという役者をうまいと思ったことはなかったが、あ、うまい、と今回は感心してしまった。
 軍の広報マンで、戦争(実戦)なんか私の知ったことではないという能天気な役どころからはじまり、なぜ自分が戦場にいなければいけないのか、戦わないといけないのかと抗議し、そのうち戦士に変身していくのだが、その変化をちゃんと「顔」で表現していた。何度も何度もおなじ戦場で同じことをしているので、すべてがわかっている。その「わかっている」がだんだん顔に出てくる。同時に、そこにいる他者に対する態度もかわってくる。自信と落ち着きだね。
 そして最後、そこでは未体験のことが起きる。そのときの顔も違っている。自信と落ち着きは消え、「はじめて」のできごとに不安を抱えながら、それでも使命に燃えているという顔つきになっている。
 対するエミリー・ブラントの表情の変化もいい。最初は自分のかわりを見つけた。これで戦争に勝てるかもしれないと希望のようなものとがわいてくる。経験があるのでトム・クルーズへの対応の仕方も自信にあふれている。「私の方が知っている」という具合だ。それがだんだん立場が逆になる。トム・クルーズの体験の方がエミリー・ブラントの体験を超えてしまう。
 クライマックス直前の農家の納屋(小屋)というか、庭のシーン。トム・クルーズがコーヒーの砂糖をいれてやる。「砂糖三袋だったね」。そのとき、彼女がふいに気がつく。「これは何回目?」。彼女は記憶していないが、トム・クルーズは記憶している。その違いを明確に悟る。そのとき彼女はリーダーではなくなる。同僚でも部下でもなくなる。「助けられる人間」になる。無力を悟るとでも言えばいいのか。
 で、この相手が気づくまで待っている--というトム・クルーズの姿勢。これって、「恋愛」の極意だね。自分はなんでも知っている。でも知らない振りをして、相手が「あっ、知っているんだ。信頼していいんだ」と心を開くまで待っている。これが恋愛を成功させるさせるコツ。さすが、美形のモテ男。うまいもんだね。
 と、いったん脱線させて。
 この「無力」の自覚からが「戦争映画」の本領だな。
 無力であると自覚し、その無力を克服しながら、敵と戦う。これは、最後のトム・クルーズの戦い方と同じ。ここで、無力なふたりが真に強力し合う。(愛するひとのためだから。--そして、愛というのも、まったく知らない世界へ素手で飛び込んで行くことだねえ……。)
 最後の最後。体験したことのない世界。それまではゲームのように間違えたならもう一度リセットすればよかったのだが、もうリセットはきかない。それを承知で、巨大なパワーに立ち向かっていく。まるで、愛するひとのためなら自分がどうなってもかまわないと決意して、そのひとについていくという恋愛の極致そのもの。
 あ、あ、あ。パソコンのゲームの宣伝だと思って気楽に見ていたら、とんでもない戦争称賛映画だった--という感じなのだが。戦争は恋愛だ、とカムフラージュすることも忘れていないすごい映画なのだ、という感じなのだが。
 まあ、トム・クルーズの演技に驚いたので、そこは目をつぶろう。
 同じことの繰り返しのシーンの処理の仕方も、てきぱきしていてよかった。脚本よりもカメラワークの方がすばらしいと思った。目の記憶力をたくみにつかっている。「ことば」で同じシーンを繰り返すと時間がかかるが、影像なら瞬間的にすむ。うまいもんだね。                       (天神東宝6、2014年07月22日)

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池井昌樹『冠雪富士』(33)

2014-07-24 09:09:58 | 池井昌樹「冠雪富士」
池井昌樹『冠雪富士』(33)(思潮社、2014年06月30日発行)

 「星空」は「人事」と同じように「歌」である。同じことばを繰り返し、同じつもりが少しだけずれて行く。その「ずれ」をしっかり見つめると(「ずれ」にどっぷりつかっていると)、その瞬間に、とんでもない「遠く」とふいにつながってしまう。つろがろうとおもってつながるのではなく、無意識のうちに、本能としてつながってしまう。「いのち」がつながってしまう。

しんじられないことだけれども
こんなにむごいひとのよに
まだぼくをまつひとがいて
まだぼくをまつそのもとへ
はなうたまじり
かえってゆくが
ほんとはそんなひともなく
ほんとはそんなぼくもなく
こんなにむごいひとのよは
あかりしらじらまたたいて
ねこがよぎればそれきりの
あけくれかさねゆくばかり

 仕事が終わって家へ帰る。家には池井を待っている人がいる。それは「現実」である。「ほんとはそんなひともなく/ほんとはそんなぼくもなく」は「ほんと」と書かれているが「真実」ではない。
 そして「真実ではない」からこそ「真実である」。
 と書くと完全に「矛盾」だが、「矛盾」だからこそ、そこには「現実の真実」ではなく「詩の真実」がある。「詩の真実」はいつでも「矛盾」の形でしか書くことができない。まだことばになっていない、ことばとして流通していないことば、社会に生まれる前のことばが詩だからである。
 というのは、あまりに抽象的すぎるか……。

 この「矛盾」は、次のように言いなおされる。

そんなこのよのどこかしら
ぼくをなおまつひとがいて
ぼくをなおまつそのもとへ

 「家」ではなく「このよのどこかしら」に「ぼくをまつひと」がいる。それはだれなのかわからない。「どこ」にいるのかわからないのだから「だれ」かもわからない。そのとき「ぼく」もまた「だれ」かはわからない存在である。「池井」であることは間違いないが、その「池井」は「池井が意識している池井」ではないかもしれない。いや「池井が意識できない池井」である。このとき「意識できない」というのは「流通言語として説明できるようなことばにはならないことがら、未生の意識」ということである。
 池井は、この世の中には、どこかで、誰かが誰かを待っている。そういう「こと」があることだけを知っている。その「誰」はわからないし、「どこか」もわからない。わからないけれど、待っている「こと」だけはたしかである。なぜか。待っているという「こと」がなければ、池井は「かえってゆく」という「こと」ができない。池井は「かえってゆく」という「こと」をしている。そのとき、どこかで「池井を待っている」という「こと」が生まれはじめている。帰って行く「こと」で、池井は、待っているという「こと」を生み出している。
 そして、その「こと」のなかで、池井は生まれ変わる。また、その「こと」のなかで、待っているひとも生まれ変わる。

はなうたまじり
ひとりぼっちで
いつしかよるもふけまさり
しんじられないことだけれども
ほしぞらのようにまたたいて

 池井が生まれ変わり、待っているひとが生まれ変わる。その瞬間、そこでは「場」も生まれ変わる。それは「しんじられないこと」かもしれないけれど、信じてみればいい。そうすると、生まれ変わった「場」がはっきりと見える。

ほしぞらのようにまたたいて

 あ、これは正確に読むのがむずかしい。「ほしぞらのように」だから「比喩」なのだが、比喩とわかっていても、私は瞬間的に「星空」そのものを見てしまうし、またその「星空」が「またたいている」のも見てしまう。満天の星。それがまたたいる。輝いている。その輝きを見てしまう。

ほしぞらのようにまたたいて

 この行が、何を言おうとしているのか、それを「文章」として完成させることができない。「意味」がとれない。「意味」を無視して、星空を実感してしまう。
 誰かが自分を待っている--そう思って家へ帰るとき、その家がどこにあるのかも忘れて(意識することを忘れて、ということになるね)、ふと、満天の星の輝きを見る。あ、あそこが「家」だと思う。あの星が「ぼくをまっているひと」だと思う。そういう「錯覚」の幸福。

 詩は--「意味」を間違えていいのだ。「誤読」していいのだ。「意味」を正確に読まなくても、そこに書いてあることを正確に理解しなくても、そのことばを読んで何かが具体的に見えてくればそれでいい。
 何かが具体的に見えたとき、その具体的な「もの/こと」のなかで、私は詩人(池井)と一緒にいると感じる。つながっていると感じる。「ほしぞら」がはっきり見えたよ、と池井に言いたくなる--これは、そういう詩である。



谷川俊太郎の『こころ』を読む
谷内 修三
思潮社
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中井久夫訳カヴァフィスを読む(124)

2014-07-24 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(124)        2014年07月24日(木曜日)

 「セラペイオンの祈祷師」。中井久夫の注釈によれば「セラピスは、エジプトの共通宗教をめざしてエジプトのギリシャ人王朝の第一代プトレマイオス一世『救世王』によって導入された神。」セラペイオンはプトレマイオス一世が建立し、「三九二年にテオドシウス皇帝が破壊するまで存続した」という。

キリストさま。イエスさま。私は考えでも言葉でも行いでも
あなたさまのいとも聖なる教会の戒律を遵守しておりまする。
あなたさまを否む輩はすべて斥けておりまする。
でも、今の私は父の追悼の思いでいっぱい。かなしいです。
私は悲しい。ああ、イエスさま、父が悲しい。
父は--ええ、口にするのも何でございますが
あの忌まわしいセラペイオスの神官でしたけれど。

 息子は父を亡くして悲しい。同時に、父親の悲しさも実感している。父親はキリスト教徒ではなく、セラペイオンを信仰している。その父は死んだあとどうなるのだろうか。だれが父の冥福を祈るのか。そのときの宗教は何なのか。
 ギリシャには、いつもこの問題が起きつづけたのか。カヴァフィスは、ことあるごとに史実を題材に、「現在(カヴァフィスの現在)」のなかに動いている「声(主観)」を引き上げてきてはことばにしている。

私は悲しい。ああ、イエスさま、父が悲しい。

 一行のなかで、主語が「私」から「父」にかわる。しかし、用言は「悲しい」のまま、かわらない。「悲しい」という「こと/うごき」が二人を結びつける。「悲しい」のなかで二人は見分けがつかなくなる。
 このとき、息子は「キリスト教徒」から「セラペイオン」の神のもとに帰っている。父と同じものを信仰し、父を悲しいと言っている。父の悲しさを実感している。
 後天的に「学ぶ」宗教よりも、生まれたときから一緒にいる父の、その父とのつながりの方が、最後には重く響いてくるのだ。
 これに先立つ一連目では、「父」は「お父さん」と書かれている。

やししかったお父さん。最後はうんとお爺さんだったけれど
かわらず私をいつくしんだお父さん。
父を悼む。今は亡きやさしかりし老いたる父を。

 この「お父さん」と「父」とのつかいわけ、家庭内での「肉声」と社会的な場でのことば。「肉声」が排除された「形式」。私たちはいつでも「声」を否定されながら生きている。「声」の復活を求めて生きている。

カヴァフィス全詩集
コンスタンディノス・ペトルゥ カヴァフィス
みすず書房
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池井昌樹『冠雪富士』(32)

2014-07-23 09:17:22 | 池井昌樹「冠雪富士」
池井昌樹『冠雪富士』(32)(思潮社、2014年06月30日発行)

 「人事」という詩は、この詩集に何回か登場することばのスタイルと似ている。同じことばを少し変えて繰り返し、「歌」のようにことばに酔うのだが、さらに繰り返すこと酔いのなかから、ふっと、新しいことばがこぼれて出てくる。それはある意味では酔い疲れた男の「へど」のようにも見えるが、そこには何か未消化なものが鮮やかな形で開いている。それを「美しい」と言う人は少ないかもしれないけれど。辟易した気持ちで見る人もいるだろうけれど。

よるとしなみにはかてないと
いつかよくきかされたけど
なんのことやらわからずに
ただゆきすぎておいこして
えきのかいだんとぼとぼと
ひとりうつむきのぼるころ
こみあげてくるこのおもい
よるとしなみにはかてないな
どこをまわってへめぐって
うちよせたのかこのおもい
あすのわがみもしらぬげに
ただゆきすぎておいこして
よるとしなみにさらわれて
こんなさかんなゆうばえを
ひとごとのようほれぼれと

 池井には「へど」を吐いた気持ちなどない。覚えなどない、と言うだろうなあ。
 吐いてしまえばすっきりする。そうして、そんなことを忘れて、「ゆうばえ」をほれぼれとみつめてしまう。

こんなさかんなゆうばえ

 の「こんな」を見るために、「こんな」に気づくために、池井はどこかを歩いてきた。「こんな」は「いま/ここ」にのみ存在する。そして「いま/ここ」にだけ存在するから、いつでもそれは「見えた」。ただし、そのときは「こんな」という意識はなかった。知らず知らずに見ていて、「いま/ここ」で「こんな」に気がつく。
 そうして「ほれぼれ」と放心する。その「放心」のなかへ、「いつか/どこか」で見た夕映えのすべてが集まってくる。
 それは「人事」とは無縁の美しいものだ。「人事」ではなく「自然(宇宙)」に属する何かだ。
 池井は、ここでは「歌」を歌っている。

 また、最後の「ひとごとのよう」が、不思議とおもしろい。「自分のこと」なのに「自分のことではない」。けれど、それをやっぱり「自分」だと思う気持ちがどこかにある。「自分」と「自分以外」が溶け合っている。
 「自分」が「ひとごと」になって、そこに「永遠」があらわれる。
 「ひとごと」が「自分のこと」になるとき、「永遠」が急にやってくる。この「急に」は別なことばで言うと「知らず知らずに(知らないうちに)」でもある。短い時間と長い時間が出会って、「時間」が消える。
 こういう瞬間、「論理(説明)」はいらない。ただ、それに共鳴する「歌」が必要だ。池井は、その「歌」を歌っている。酔ってぼんやりしたときに思い出して歌う流行歌のようなものだけれど、そしてそういうものに「意味」はないのだけれど、ついつい歌ってしまう「こと」のなかに、何か「真実」がある。


冠雪富士
池井 昌樹
思潮社
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中井久夫訳カヴァフィスを読む(123) 

2014-07-23 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(123)        2014年07月23日(水曜日)

 「小アジアの地区にて」は「ことば」というものについていろいろ考えさせてくれる。文学について、と言い換えてもいい。

アクティウムからの知らせ、あの海戦の結果は
むろん意外だった。
しかし、新たな宣言起草は必要ない。
名前だけ変えればいい。
だから結論のところをこうする。
「オクタウィウス、かの災い、カエサルの戯画より
ローマ人を解放して」を
「アントニウス、かの災いより
ローマ人を解放して……」とする。
原稿全体は見事ぴったりさ。

 何か「こと」が起きる。その「こと」とは「名詞」ではなく「動詞」である。いまの引用でいえば「解放する」という動詞が「こと」の基本である。「かの災い」は「解放する」という動詞と連動している。ローマ人を苦しめている悪政である。だれが解放しようが、関係がない。いや、解放した人にとっては自分が「主語(主役)」であるということは大事なことだが、人は「主役」などどうでもいい。主役はたいていひとりであり、苦しんでいる市民(主役以外の人間)の方が多いのだから。--という事情は、もちろん「主役」には関係がない。だから「主役」もちゃんと書き換える。でも、「主役」によって「動詞」を書き換えるということはしない。これが大事だ。
 「主役(主語)」は動詞が書き換えられなかったこと、「こと」が書き換えられなかったことを知らない。
 「主語」を書き換えた後、「こと」のまわりに付随する修飾語ももちろん書き換える。このとき、その修飾語は「主語(主役)」向きにととのえられる。修飾語が変わると世界全体が変わったように見えるが、「こと」は変わらない。
 その「こと」は変わらない--という視点から、カヴァフィスの書いている詩全体を見渡すとどういうことがわかるだろうか。
 カヴァフィスは史実を題材にして多くの詩を書く。史実は主語と動詞でできているが、動詞というのは主語が変わっても「こと」自体は変わらない。たとえば、「戦争をする」という動詞。古代、ギリシャとローマが戦争をする。近代ではギリシャとトルコが戦争をする。そのとき、そこに割って入ってくる(加担してくる)外国の動きがある。その「加担する」という動詞も変わりようがない。戦争の中で、ギリシャ国民が「苦しむ」という動詞も変わりがない。だから、古代の史実のなかにある「こと」を生かしながら(「こと」を成り立たせている動詞を生かしながら)、そこに現代の似姿を浮き彫りにすることができる。カヴァフィスは、その手法で現代のギリシャ、現在のカヴァフィス自身の立場を書く。
リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
ヤニス・リッツォス
作品社
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中尾太一『ア・ノート・オブ・フェイス』

2014-07-22 09:47:08 | 詩集
中尾太一『ア・ノート・オブ・フェイス』(思潮社、2014年07月01日発行)

 中尾太一『ア・ノート・オブ・フェイス』の音楽は、私には過激すぎる。私はどうしようもない音痴なので、中尾のことばの速さに驚いているうちに、どれがどの音と響きあっているのかがわからなくなる。
 わからないのだが、わからないまま、わからないことを書いておこう。40ページ「a crossing」という部分の書き出し。ルビがあるのだが、ルビは( )で補った。中尾の意図に反するだろうけれど。

辞書(diccionary)から生まれた造花の隣
もうここにはない物語は口を窄み(蕾)
県境の峠を遠く見つめているようだ(boader)
「そこ」ですべてが書かれたのか
書かれたすべてが「そこ」になるのか

 私はこの5行のなかで、「窄み(蕾)」ということばにひかれた。「口をすぼみ」と「つぼみ」が音として重なり合う。そしてそのとき、すぼめた口がつぼみのように見えてくる。それが開いていくというのではなく、逆に、前の行に「(造)花」があるので、時間が逆流するように閉じていく感じがする。「つぼみ」というのは開いてこそ意味(?)があるのに、逆に動いている。それが、口を「すぼめる」(閉ざす)ということと交錯する。この「交錯」のなかに、私は「音楽」を感じた。
 この「音楽」を説明するのは、ちょっとむずかしい。私の「感覚の意見」であって、どうにもことばにならないのだが、あえていえば、私はどのようなことば(文章)もそれ自体がいわゆる楽曲(音楽)の「調」のようなものを持っていると感じている。それぞれが独自の「調」をもっていて、その「調」のなかでことばが動いていくとき、それがとても気持ちよく感じられる。「意味」はどうでもよくて、あ、これは快感だなあ、ここには酔ってしまうなあという感じになる。そして、この「調」が「転調」ならいいのだが、別の「調」とごちゃまぜになってしまうと、なんだかいやだなあと感じる。
 私が中尾の詩について「ことばの交錯」と書いたのは、音楽用語(?)で言い換えると「和音」になるかもしれない。別の音が出会って響くとき、それがひとつの音よりも美しく聞こえるときがある。その瞬間の「響き」。--どうして、その音が出会うと「気持ちがいい」のか、まあ音楽理論として何かあるのかもしれないけれど、そして同じようなことが「言語理論」としてあるのかもしれないけれど。それは「音韻論」なのか、「意味論」なのか、よくわからないのだけれど……。
 まあ、あるのだろう。いや、「ある」と私は感じている。そしてほとんど本能的に、自分にとって「気持ちのいい」と感じられるものだけを選んで読み取っている。それが、この部分にある。
 「県境の峠を遠く見つめているようだ(boader)」は、よくわからないどころか、まったくわからないのだけれど、「ようだ」「boader」の響きに、へええ、と声が漏れてしまった。中尾は「ようだ」の「だ」の音をぱっと途切れる音ではなく、だんだん弱くなって消えていく、間延びした(?)ような音として聞いているのかと思った瞬間、そうだなあ、「……のようだ」というとき何かぼんやりしたものが語尾にまじるなあと思い出し、私の「肉体」のどこかが刺戟された。
 「県境」は「けんきょう」と読むのか「けんざかい」と読むのか。私は「けんきょう」と読んだのだが、私のワープロは「けんきょう」と打って文字変換をこころみると「県境」が出て来ない。えっ、「けんざかい」なのか。でも、そうすると、あとの音が合わない。「とうげ」「とおく」「よう(だ)」の「文字」としては「う」「お」と書き分けられるのだが、口の感じ、喉の動きとしては、発声器官を解放したままゆっくりと時間を伸ばす感じでひとつのものが「けんざかい」では合致しない。「けんきょう」でないと「和音」にならない。「ようだ」「boader」というルビに従うならば、絶対に「けんきょう」でなくてはいけない。
 そういう、どうでもいいようなこと(意味とは無関係のようなこと)を感じながら、私は、ことばのなかを動いていく。そうすると、

「そこ」ですべてが書かれたのか
書かれたすべてが「そこ」になるのか

 という不思議な反復が出てくる。問い返しが出てくる。
 あ、これは「ルビ」だな、と思う。「「そこ」ですべてが書かれたのか」という行の次に「書かれたすべてが「そこ」になるのか」と書かれているが、「書かれたすべてが「そこ」になるのか」というのは「「そこ」ですべてが書かれたのか」に対する「ルビ」である。
 そして、その中尾の「ルビ」というのは、普通の日本語表記の「ルビ」とは違って、単なる「読み方」ではない。「読み方」というよりは「意味」の付加、「意味」の攪乱(「意味」の破壊、再構築、脱構築)なのだ。
 こういう「ことばの音楽」は、うーん、「暮らし(生きている肉体)」からは生まれて来ないかもしれないぞ。生まれてくるとしたら「文学(書籍/印刷物)」、あるいは「辞書」からだろうなあ。冒頭の「辞書」に(diccionary)と「ルビ」を打たなければならないのは、こういうことと関係しているかもしれない。「辞書」(diccionary)という「ルビ」だけ、「窄み」(つぼみ)」「ようだ」(boader)、さらには4、5行目の「音」の重なり合いとは構造が違っているでしょ?
 この「暮らし(生きている肉体)」からは生まれて来ない音楽--それを中尾は「造花」の「造」に語らせているのかもしれない。自然に対して「人工」、自然に対する「技巧(わざと)」。「ルビ」よって「わざと」自然ではない音楽をつくる。(「わざと」に注目すれば、まあ、これは西脇順三郎のやろうとしたことの、21世紀風の継承ということになるのかもしれない。)

 で、中尾の詩が、膨大な「ルビ」の音楽であるということは、何となく(つまり感覚の意見として)私にはわかったのだが……。もちろん、私のわかったことは私の「誤読」であり、中尾の意図とは関係ないのだが。
 その「わかった」とを詩集全体を通してつかみなおそうとすると、私は、とても疲れてしまう。スピードが速い。情報量が多い。ついていけなくなる。これは私の「肉体」的な問題がつよく影響している。私は網膜剥離の手術をして、左目が極端に悪い。視力がない。このため、細かい文字を読むことができない。5行くらいならなんとかなるが1ページとなるとかなりむずかしい。全編(詩集全体)となると、モーツァルトの「レクイエム」を歌えと言われているような感じがする。そんなこと、音痴の私にできるわけがない、と音楽なら簡単に言えるけれど……。

 ことばとことばの出会い、そこからはじまる「音楽」には「ルビ」のほかにもある。その例も少しあげておく。46ページ「my flood, Kuro san」の書き出し。

リテラシー殺した言語の悪魔(マグマ)が目を覚ます
帽子を目深にかぶった鬼の目からアミダの街路、その排水路に向かって
二度か三度か折れ曲がって道を外れていく
次は誰かとサイを振り
犀川に狂う俺に当たれば
最悪のクロさんの思い出が一人目の涙の赤を塗りつぶす

 リテ「ラシー」「殺し」、「悪魔(マグマ)」「目深」、「アミダ」(書かれていないが、「涙」=目からこぼれるもの、6行目に反復される)、「サイ」「犀川」という「音」そのものの重なり。音遊び。
 「ルビ」が「印刷物」の音楽だとすれば、これは「口語」の音楽か。

 いずれにしろ、この「音楽」についていくには、私の肉体はむりである。そこに「音楽」があることがわかるけれど(音楽があるから楽しいのだけれど)、それを楽しむには私の肉体は老いぼれすぎていて、速度的に間に合わない。

 もっと目と耳のいいひとの感想(批評)を読んでみてください。私の感想は、中尾の詩を読むときの参考にならないだろうと思う。











a note of faith―ア・ノート・オブ・フェイス
中尾 太一
思潮社
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池井昌樹『冠雪富士』(31)

2014-07-22 09:44:49 | 池井昌樹「冠雪富士」
池井昌樹『冠雪富士』(31)(思潮社、2014年06月30日発行)

 「企て」は、「あぶない」人間と間違えられたときのことを書いている。

さんぐらすしているとはいえ
あぶないものではありません
ちかごろめっくりめがよわり

 という1連目からはじまり、マスクをしているのは花粉症、頭陀袋をもっているのは昼の弁当のおむすびを入れているから、これから仕事に向かうところ……という具合に、いつものことばの調子で書かれている。
 そのあとで、

それでもあぶないあやしいと
それほどいぶかしまれるなら
あなたへこっそりうちあける

ばすのつくまでのつかのまに
ほんとうは
こんなあぶないくわだてを

それがなにかはいえないけれど
ほんとうに
こんなあやしいたくらみを

たったいま
あなたへおめにかけましょう
ささやかなこのことのはで

 「ことのは」でおめにかける「あやしいたくらみ」(あぶないたくらみ)とは詩のこと。「白洲」に書かれていた「あやしい」を引き継いでいる。でも、この詩を読む限りは、どこが「あやしい」のか、どこが「あぶない」のかはわからない。池井が自分で「あやしい(あぶない)」と言っているだけである。
 わからなくていいのだ。
 池井はいつでも「ほんとう」が「あやしい」「あぶない」ものだと知っている。その「ほんとう」につかまってまうと、逃げられない。池井そっくりの姿形、サングラスをかけてマスクをつけて、昼間は働き、夜は詩を書く--そういう60歳過ぎの男がしないようなことをひっそりとしなくてはならない。
 この静かにことばのなかには、そういう「脅し」がこめられている。
 その「脅し」を池井は「ささやか」と呼んでいる。

 ささやかではあるかもしれないが、「共感」するなよ、共感すると取りかえしがつかなくなるぞ、池井になってしまうぞ、と私はつけくわえておきたい。
谷川俊太郎の『こころ』を読む
谷内 修三
思潮社
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中井久夫訳カヴァフィスを読む(122)

2014-07-22 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(122)        

 「クレイトスの病い」は、前半と後半で世界ががらりと変わる。前半は美男で教養のあるクレイトスが熱病にかかったことが書かれている。青年俳優に恋をしていたのだが、失恋し、その気落ちを熱病が襲ったので、危篤状態に。両親はおろおろするばかりなのだが、乳母は……。

育てた乳母はいかにも年寄り。
だがひたすらクレイトスの生命を心配。
気もすずろになって
若い日この家の下女にならない前に
信仰してた偶像を思い出した。
ここは名高いキリスト者一家。
乳母もキリスト者なっていたが、
奉納のパンとワインと蜂蜜をこっそり持ち込み、
偶像に供えて、若い日の記憶のかすかに残る
呪文をきれぎれに唱えた。だが
乳母にはわかっちゃいなかった、黒色の魔神は
キリスト教徒が治ろうが治るまいが
知っちゃいないってことが。

 この後半も、その後半なのかで前半と後半に分かれる。前半は乳母の心配と行動を描き、後半で「黒色魔神」の主張が語られる。この「黒色魔神」の主張が強烈である。魔神が気に留めるのは彼を信仰する人々であって、キリスト教徒ではない。これはあたりまえのことだが、そのあたりまえのことをここで言わせているのは、この詩の時代、アレクサンドリアではキリスト教とギリシャでのそれまでの信仰が拮抗していたことを明らかにするためである。
 カヴァフィスは、この詩では、前半に若い男色を登場させ、男色の世界を描いているかのように装っている。失恋の失意と病気の追い打ちという悲劇を書いているというように装っている。
 しかし、カヴァフィスが気にしているのは、ひとりの若者の運命ではない。
 カヴァフィスが史実を材料に詩を書くとき、その史実と「現在」が重ね合わせられ、ギリシャの動き、カヴァフィスの思想を反映させているというのは中井久夫の指摘である。この詩には「史実」らしいことは見受けられないが(クレイトスがだれなのか、よくわからないが、架空の人物だろう)、この詩も「現実」と重ね合わせられていると思う。
 一方にキリスト教の世界があり、他方にギリシャの伝統宗教の世界がある。同じように、一方にトルコとの関係があり、他方にイギリスとの関係があるというギリシャの特有性。ギリシャ人を支えているのは何なのか--そういう問いが隠された詩なのだと思う。

リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
ヤニス・リッツォス
作品社
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池井昌樹『冠雪富士』(30)

2014-07-21 09:35:36 | 池井昌樹「冠雪富士」
池井昌樹『冠雪富士』(30)(思潮社、2014年06月30日発行)

 「白洲」は「法廷」。そこでは詩人・池井が裁かれている。池井が何をしたか。

あまあとのあのにじだって
あのいちめんのほしぼしだって
きぎのはずれやむしのねだって
みんなわたしのなかにあるもの
もとよりともにあるものゆえに
よろこばずにはおれません
いつものようにうちをでて
いつものようにわくわくと
うきうきとただどきどきと

 池井は(詩人は)、世界にあるものに感応し、「わくわく」「うきうき」「どくきどき」している。そしてことばを発する。それが詩。しかし、それが「問題だ」と「はんがんさま」は言う。
 そういう論理の中で、ほーっと思って読んでしまう行が二か所。
 まず「みんなわたしのなかにあるもの」。世界の悦ばしいものは、みんな池井の「肉体」のなかにある。(池井は「肉体」とは書いていないのだが……。「こころ」のなか、「魂」のなか、「精神」のなか、かもしれないが、私は区別せずに「肉体」のなかとつかまえておく。)そして、それは次の行で「もとよりともにあるもの」というとき、「肉体」と「世界」の区別なくなる。「肉体」と「世界」が融合していることがわかる。 「放心」したとき、「肉体」と「世界」が融合し、ひとつになる。--ここまでは、いままでの池井の詩そのものである。
 私がこの詩でびっくりしたのは、

いつものようにうちをでて

 この行。そこで、二度目の「ほーっ」と息を吐き。
 そうか「うち」か。
 「うち」は「家」。「家庭」だな。妻がいて、息子が二人いる。その「家庭」には家庭のよろこびがあるのだけれど、その「家」を出たときの方がこころがいきいき動くのか。そうなのか、と思わず思ったのだ。
 そうすると、池井を裁いているのは「家族」というのことになるのか。「家」ということになるのか。「家」が詩を、罪だと言っているのか。

 その「うち(家)」という「はんがん」に対して、弁明していた池井は、「かくごいたせい」と言われたときに、一転して、次のように言う。

べらんめえ
せなできらめくまんてんのほし
よっくみやがれ
わくわくうきうきどきどきと
さんまんねんかんいきてきた
このひとのよにかくれもねえ
あやしいものとはおれのこと

 この変化がおもしろい。開き直り。
 私はときどき思うのだが(ときどきではなく、最近ではしきりに思うのだが)、「思想(道)」というものは「築く(つくりだす)」ものではない。--というのは、ずいぶん飛躍した言い方、「直観の意見」になってしまうが……。
 「道」というのは、あれこれ「頭」で知っていることを全部捨て去ったとき、ぱっと「肉体」が開かれるところにできる。自分の「前」でも、高村光太郎が言ったように「後ろ(歩いたあと)」にできるのでもない。「肉体」がトンネルのようにぱーっと開かれる。その「開かれた部分(枠のなさ)」が「道」なのだ。
 強引に池井の書いていることに結びつけて言うと。
 先に引用した世界にある美しいもの(虹、星々、木々の葉擦れ、虫の音)はすべて「わたしのなかにある」、それは世界に存在するものと、池井自身の内部にあるものとの「共鳴」であり、その共鳴の瞬間が「わくわく」「うきうき」「どきどき」なのだ--というような論理。そういう「論理」を語っているとき、それは「道」のように見えるけれど、ほんとうはそうではない。単なる「かっこうつけ」である。そんな「論理」のなかを、人は歩いてはいけない。かっこうはいいが、うさんくさい。人を感動させ、たぶらかすものである。
 そんな「論理」を吐き捨ててしまって、「おれは論理なんか生きない」と開き直ったとき、「肉体」を突き破ってあふれてくる「勢い」、それが「道」である。「勢い」だから、それがどこへ向かっているかはわからない。ただ「勢い」だけがある。「勢い」が枠を叩きこわす。その瞬間に、「肉体」の内部に「道」ができる。
 
わくわくうきうきどきどきと
さんまんねんかんいきてきた

 これが「道(思想/肉体)」のすべてである。
 「さんまんねんかんいきてきた」なんて嘘である。そんな人間なんかいない。池井は1953年の生まれである。完全な嘘。でたらめ。--だから「ほんとう」。「ほんとう」の「勢い」がある。
 そこには「枠」がない。「枠」がない(枠におさまり切れない)ものは、みんな「悪人」である。それは「流通経済」を否定する。「合理主義」、あるいは「意味」を否定する。「意味」というのは、「合理主義」に合致するもの、世界を支配する論理につごうのいいものの見方に過ぎない。
 世界を支配する「合理主義」は「わくわくうきうきどきどき」を嫌う。「わくわくうきうきどきどき」していたら、そこで「流通」が停滞するからである。「歩み」が止まるからである。あるいは乱れてとんでもない方向へ行ってしまう空手ある。池井の「勢い」はどこへ行くかわからない。制御できない。
 池井は、いったんは「わくわくうきうきどきどき」と「世界」の融合というような詩の「論理」を説明するが、それを吐き捨てて、

わくわくうきうきどきどきと
さんまんねんかんいきてきた

 と「非論理」を叫ぶ。池井は「三万年間」生きてはいない。嘘である。この嘘、でたらめが「ほんとう」、つまり「肉体」を突き破る「勢い」である。(と、私は繰り返し書いてしまう。言いたいことは何度でも言う。)それが「道(思想)」であり、また「詩」でもある。

 「勢い」を生きるとき、ひるがえって考えるに「うち(家)」は破綻する。
 この詩には直接的には書かれていないが、たとえば池井はふるさとにいる母を施設にあずけている。「母-息子」という「家(家庭)」のつながりは、そのとき破綻している。しかし、その破綻を生きなければ、池井は詩を書きつづけることができない。
 ふいに挿入された一行「いつものようにうちをでて」と、それからあとの「おおみえ」の間に、書かれなかった「こと」を感じ、私は「ほーっ」と息を吐いたのだった。

わくわくうきうきどきどきと
さんまんねんかんいきてきた
このひとのよにかくれもねえ
あやしいものとはおれのこと
おおみえきったそのせつな
  おっさんこのあしふんどんぞ
  いつものゆめをやぶられて
  ケータイかたてのわかものに
  おおあせかきかきあやまって
  またあせをふくバスのなか
はまのまさごはつきるとも
あやしいもののたねはつきまじ
ででんでん……

 「道(思想/肉体)」をバスの中での居眠り、若者との接触にという現実にかえして、それまであったことを「おっさんの夢」にしてしまって、詩は閉じられるのだが。
 この不完全さといえばいいのだろうか、「流通思想(いわゆるかっこいい批評)」になりきれないことば、--そこに、私は不思議な「あたたかさ」を感じる。池井が瞬間瞬間につかみとっている「かっこいい思想(流通批評)」になりそうなものを、あえて完成させず、崩壊させるそのあり方、そこに詩を感じる。
 詩は、「流通思想(流行哲学)」のように閉じてはだめなのだ。完璧に構築されていてはだめなのだ。矛盾し、破綻していないとだめなのだ。

 今度の池井の詩集には、池井にはそのつもりはないだろうけれど、そういう矛盾・破綻のようなものが「全体」として存在する。だから、私はこの詩集を傑作だと思う。傑作だと言う。感覚の意見としてだけれど。
谷川俊太郎の『こころ』を読む
谷内 修三
思潮社
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中井久夫訳カヴァフィスを読む(121)

2014-07-21 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(121)        

 「ロドスにおけるテュアナのアポロニオス」は「フィロストラトスの『生涯』より採った挿話」と中井久夫が注釈で書いている。「ロドスの青年は豪邸に金を注いで教養をおなざりにしている」と。

よい教育とは、教養とは何ぞやと、
アポロニオスは語った。
ロドス島に豪邸建築中の青年に。
「私が神殿に入るなら」と
このテュアナ人はとうとう言った。「たとえ小さくても
金と象牙の像の神殿を選ぶね。大きな神殿の
ありきたりの粘土像よりいいね」

 無教養をいさめている、成り金趣味の豪邸を批判しているのだろうけれど、私がこの詩でおもしろいと思うのは、その「意味」ではなく、

このテュアナ人はとうとう言った。

 この「とうとう」。長い間、言おう言おうとしていたのだろう。でもなかなか言えなかった。最後になって、ついに言う気になった。言えば嫌われるかもしれない。けれど言わずにいやな気分になるよりはいい。
 でも、その「とうとう」が相手の若者に伝わったか。「金の像」の「比喩」が伝わったか。そもそもなぜ「比喩」を持ち出して他人に語るのか。間接的に語るのか。もう、こころは離れかけていて、「直接」言う気持ちになれないのかもしれない。
 詩の後半、二連目。

「ありきたりの粘土像」ではいかにもげんなり。
だが(ちゃんとみがかれていない者は)
インチキに取り込まれるよ。ありきたりの粘土像になるよ。

 この三行はなんだろう。「教養のない人間は粘土像だ」という批判なのだが、アポロニオスが青年に語ったことばなのか。それとも、言わなかったけれど、こころのなかで思ったことばなのか。
 たぶん、ここまでは言わなかった。でも、言いたかった。
 そんなふうにして読んでみると、「教訓挿話」が突然男色の世界にかわる。
 カヴァフィスは史実を題材に詩を書くが、それは史実を書きたいからではなく、そのときに動くこころのありよう(ありさま)を書きたいのだろう。同じように、何かからの挿話を繰り返すときも、その「意味」ではなく、そのときのこころの動き(主観の変化)を描きたいのだろう。
リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
ヤニス・リッツォス
作品社
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ドゥニ・ビルヌーブ監督「複製された男」(★★★)

2014-07-20 17:40:57 | 映画
監督 ドゥニ・ビルヌーブ 出演 ジェイク・ギレンホール、メラニー・ロラン、サラ・ガドン


 自分とそっくりな男がいた--という設定のストーリー。ひとりは大学で歴史を教えている。テーマは「繰り返し」。もうひとりは三流役者。役者のテーマは他人のコピー(繰り返し)ということか。
 こういうはじまった瞬間に結論があるような映画は、私は好きではない。
 意味ありげに蜘蛛が出てくる。蜘蛛の糸。路面電車の電線(蜘蛛の糸に見える)、蜘蛛の仮面を被った女が天井を歩いてくる、町を歩く巨大な蜘蛛、蜘蛛の自動車事故のあとのガラスの蜘蛛の巣状の亀裂、部屋の中の巨大な蜘蛛……。こういうものに、私は「意味」を求めない。繰り返しがあるだけ。歴史を教えているジェイク・ギレンホールの「ことば」に従えば、あらゆることは繰り返すけれど、人はそこから何も学ばない、というだけ。
 でもね。
 こういうのは、つまらない男の視点。
 この映画で見るべき点は、女の視点。ジェイク・ギレンホールという仕掛けを利用して、女の生き方を的確に描いている。
 何か理不尽なことが起きたとき、どう対処するか。女の方法は三つある。
 母親のイザベラ・ロッシーニは無視。息子と同じ男がいる。そんなことはあってはならない。だから無視する。無視することで、そういう現実を存在させない。
 恋人のメラニー・ロランは違いを明確に識別し、その違いによって俳優の男を拒絶する。メラニー・ロランが見つけ出した違いというのは、指に残る指輪の跡という非常に微妙なものだが、そういうささいなことがらにも女は気づく。男は、そういうささいなことがらに女は気づかないと思っている。ここから悲劇がはじまる。
 もうひとつの方法は、それが理不尽であっても受け入れるという方法。役者の妻を演じたサラ・ガドンの役どころ。彼女が妊娠しているのは、他人を受け入れ、それによって新しい何かを生み出すのが女であるということを象徴している。
 ジェイク・ギレンホールとサラ・ガドンのセックスシーンはとてもおもしろい。サラ・ガドンは指輪をしている。ジェイク・ギレンホールはもともと指輪をしていないから、指輪に対する意識がない。二人が指を絡ませたとき、サラ・ガドンの指輪がアップされるが、このとき彼女はジェイク・ギレンホールが夫ではないと気がついている。二人が入れ代わったことに気がついている。しかし、彼を受け入れる。「現実」を受け入れる。それだけではなく、さらにその「現実」をたしかなものにするために、積極的に、男にセックスを迫っていく。
 このとき、ジェイク・ギレンホールは、いわば蜘蛛の巣にかかった餌だね。
 女は必要ではない餌は無視する。嫌いな餌は拒絶する。しかし、必要ならば餌を受け入れる。--と三分類してしまうと、問題が変になるかもしれないけれど。

 これに比べると、男というのは馬鹿だから、男の欲望をコピーしているだけである。男は男をコピーする。自分の方法を考え出さない。ひとりでも多くの女とセックスをしてみたい、という夢を男の夢としてコピーするだけである。そして、そういうコピーの過程で同じ間違いを繰り返す(女の信頼をうしなうという過ち、女との愛を台無しにするという過ち)のだが、まあ、気がつかない。自分だけは大丈夫と思う。

 こういう単純な映画(形而上学を装った映画は、みんな単純である。矛盾がないからすっきりしてしまう)を、それではどうやって「ごまかして」映画にするか。
 この映画は色彩に工夫している。全体がセピア色がかっている。冒頭のあやしげなストリップショーのようなシーンが薄暗いために、最初はこの色彩の工夫に気がつかず、何か変だなあと気がついたらセピア色だった、ということなのだが。
 最後の方、ジェイク・ギレンホールの歴史の教授と役者が入れ代わった後、色彩が鮮明になる。現実的になる。その仕掛けが、男の欲望の色として反映されている。どんなに愛されていても自分の女とのセックスはセピア色に見える。初めての女とのセックスは極彩色に見える。
 で、ね。その色彩(視力)の変化の仕掛けみたいにブルーベリーが出てくるのだが、これがおかしい。ジェイク・ギレンホールが母親に会ったとき、ブルーベリージュースが出てくる。俳優は有機栽培のブルーベリーにこだわっている。ブルーベリーは実際に視力をととのえるのに効果があるからね。なんだか健康食品の宣伝みたいだけれど……。

 しかし、どうしてなんだろう。「形而上学(哲学)」的テーマの映画というのはどうしても「底」が浅くなる。えっ、現実ってこんな変な(突発的な)形で欲望を剥き出しにするのか、というようなことが起きない。
 ストーリーに合致する影像を探し出してつなげるからなんだろうなあ。
 ジェイク・ギレンホールの二人が最初にあって、手を見せあうシーンなんか、とてもいやだなあ。ばからしいなあ、と思う。
 メラニー・ロランにもっといろいろ演じさせてほしかったなあ。あんなにうまいのに、これではもったいない。
                   (ユナイテッドシネマ・キャナルシティ1)

プリズナー [DVD]
クリエーター情報なし
アメイジングD.C.
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池井昌樹『冠雪富士』(29)

2014-07-20 10:26:29 | 池井昌樹「冠雪富士」
池井昌樹『冠雪富士』(29)(思潮社、2014年06月30日発行)

 「千両」の世界は「未来」に似ている。「現代(未来?)」になじめずにいる池井の姿が書かれている。

へんなひとたちばかりいる
へんなみらいにいきている
わたしはへんなじいさんだから
へんなところにいるのだろうか

 「へん」が4回繰り返されている。1行目、2行目の「へん」は「わけのわからない」「奇妙な」くらいの意味だろうか。4行目も「わけのわからない」かもしれない。それは池井から見て「へん」という意味である。
 けれど3行目は、どうだろう。ここで「へん」と言っているのは池井ではなく、池井のまわりの「わかもの(未来)」である。池井は「へん」であることを納得していない。
 だから、

ほんとのところほんとうは
こんなところにいたくない

「ほんと」「ほんとう」と同じ意味のことばが繰り返されている。こんな「へんな」ところにいたくない。「へん」が、池井は嫌いなのだ。

むかしながらのこのほしで
むかしながらにくらしたい

 「むかし」は池井にとっては「へん」ではない、ということである。「いま」も「未来」も「へん」である。「むかし」はそうではない。そういう論理の先に「いまからみるとへん」な池井がいる。池井は「いま」でも「未来」でもなく、「むかし」をそのまま生きている。だからいまを基準にして池井をみると「へんなじいさん」になる。
 自分が「へん」であるということを認めるのは、だれでも嫌いである。

けれどむかしはかえらない
ひとはいよいよへんになり
ますますみらいはへんになり
わたしはみるみるおいぼれて
やがてくちはてきえうせるとき

 で、そういう「くらい」感じのする「未来」を思ってみるのだが、そのとき、

まってましたといわんばかりに
あかるいよいのひとつぼし
むかしながらにあおあおと

 あ、ここが不思議だねえ。ここがいいなあ。
 「へんな」いやな時代がやってくるのだけれど、空にはかわらず「よいのひとつぼし」(金星)が輝いている。

むかしながらにあおあおと

 ここで再び「むかしながら」が出てくるのだけれど、意味は昔と変わらずということになるのだが。
 でも、この「むかしながら」って、「むかし」だけが意識されているのだろうか。むしろ「みらいも」という意味ではないのだろうか。
 むかしとかわらないだけではなく、未来もあおあおと輝く。
 その金星を池井は見てる。思い描いているのではなく、「肉眼」で、その本物を見ている。
 夕方になると空に金星が輝くのは、「むかし」も「未来」も関係ない。つまり、それは「永遠に」輝く。
 そうであるなら、

むかしながらのこのほしで
むかしながらにくらしたい

 は「永遠に」このほしで、「永遠に」くらしたい、という意味にならないだろうか。
 また「永遠」は池井にとって「こんなところ」ではなく「ほんとのところ」である。

 池井は「へんなひと」「へんなみらい」と書いているが、一方で宵の明星のように「かわらない」永遠があることを知ってる。「知識」として知っているのではなく、それを幾度となく見つめた「肉体」として知っている。肉体」として覚えている。「視力」として知っている。「視力」として覚えている。
 そして、それは池井が消え失せたときも、きっと

まっていましたといわんばかりに

 どこからかあらわれる。
 そのことを池井は、池井の「肉体」は信じ込んでいる。宵の明星があらわれることを、池井は死んでしまっても忘れることはできない。
 この詩は、そう語っている。
 だから、なんというのだろう、ちっとも暗くない。池井がどんなに「いま」と「未来」に傷ついているとしても、不思議に明るい。池井の「肉体」のなかには、「永遠」に汚れない宵の明星がある。

 今回の詩集には、「論理」で押し通そうとすると何かうまく押し通せないものがたくさん書かれている。矛盾しているというか、破綻しているというか……。
 しかし、その矛盾や破綻のなかに、不思議な詩がある。
 池井の絶望を裏切るように宵の明星が輝くように(輝くのを永遠にやめないように)、その絶望のことばの奥から、永遠にとぎれることのないものがあらわれてくる。
 この奇妙な矛盾が、詩、そのものなんだなあと読みながら思う。





谷川俊太郎の『こころ』を読む
谷内 修三
思潮社
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中井久夫訳カヴァフィスを読む(120)

2014-07-20 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(120)        2014年07月20日(日曜日)

 「退屈な村で」は男色の詩になるのだと思うが、非常に清潔である。男色ではなく、異性の肉体への欲望とも読めるが、カヴァフィスを読んでいると、ついつい男色を想像する。この作品が清潔なのは、ことばに間延びしたところがないからだ。

退屈な村で働く男。
とはいえ店番。こんなに若くて。
今から二、三ヶ月後、
いやもう二、三ヶ月先だろうな、
仕事が終わる。さあ、休みを取って
市に行ける。頭から飛び込むぞ。

 一行目の「退屈な村」が特徴的だが、どんな具合に「退屈」なのか、その実際を描写することばがない。「退屈」だけで、片づけてしまっている。「退屈な村」の「退屈」を書くのが目的ではなく、そこにいる男のこころの動きを書くのが主眼だからだ。
 「今から二、三ヶ月後、/いやもう二、三ヶ月先だろうな、」この三、四行目は同じ意味である。「後」と「先」は日本語の文字で見ると方向が逆に見えるが、この訳がとてもおもしろい。実質は同じことなのに、方向を逆にすることばのために「二、三ヶ月」がぶつかって、その衝突のなかに時間が消えていくみたいだ。
 これは中井久夫の工夫なのだと思うが、その衝突によって、「繰り返し」が意味の繰り返してではなく、リズムに変化して、ことばを音楽の陶酔に誘う。
 短い文がたたみかけるように動く。その動きがとても早いので、男の「欲望」を見ているというよりも「純粋な期待(夢)」を聞いているような感じがする。「肉欲」というより「こころの躍動」、若い男の、若い血の鼓動(陶酔)を聞いている感じがする。

今日も性の欲望にふくらんで眠りに就く。
からだの情熱の火の燃えさかる若さ。
繊細な激情に身をゆだねた
彼の身体のうるわしい若さよ。
眠りの中で快楽が訪れた。
眠る彼は見た、憧れの姿を、
そしてかき抱いた、憧れの肉を。

 なかほどの「うるわしい」という形容詞がおもしろい。「うるわしい」は「用言」だから、この「用言」は動きが、他の動詞のように動かない。そこに停滞している。そして、そこでいったん停止するからこそ、微妙にねじれる。肉欲は直接肉体をつかむのではなく「夢(眠りのなか)」で暴走する。
 「うるわしい」の停滞、つづく「若さ」という名詞の停滞を、「訪れる」「眠る」「見る」「かき抱く」という複数の動詞が次々に突き破って動き、そのスピードが清潔だ。

カヴァフィス全詩集
コンスタンディノス・ペトルゥ カヴァフィス
みすず書房
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池井昌樹『冠雪富士』(28)

2014-07-19 09:50:35 | 池井昌樹「冠雪富士」
池井昌樹『冠雪富士』(28)(思潮社、2014年06月30日発行)

 「未来」のことばを動かしているのも、いままで池井があまり書かなかった「声」である。(私は、池井の詩を全部読んでいるわけではないので、ただなんとなく、そう感じるだけであって、ほんとうはたくさん書いているかもしれないし、この詩が初めてかもしれない。--こういうことに対して、私は「厳密」を求めない。あれっ、池井はこんな
「声」も出すのだ、と思うだけである。)

これですよ
ゆびさしたのは
ぬぎすてられたぼろジャンパー
これもです
ペットボトルにあきかんのやま
そうしてこれも
エレヴェイタアはへどのうみ
かれらにちがいないですな
とうとうやってきましたな
かたをおとしてためいきついて
あおざめているわれら旧人
われらとかれら新人は
ヒトであっても係累はなく
うけつぎうけつがれるなにもなく

 自分とは断絶した生き方をしている人間(若者)に出会ったときの感想である。池井の詩はいつでも池井自身が何を受け継いでいるかを書いている。この詩でも間接的に池井が受け継いでいるものを語りはするが、直接的に語っているのは、池井を受け継がない若者の姿である。

そろそろかれらのおでましだ
ケータイかたてにかたいからせて
当世暴君おでましだ
しっぽをまいてたいさんだ
新人さまのばらいろの
かがやけるみらいのかなた
まなこらんらんかがやかせ
おいかけてくるもののかげ
またおいすがるいきづかい
幕開けだ!

 で、その「若者」なのだが。池井の考えていることが、実は、わたしにはわからない。「われら旧人」と「かれら新人」は「ヒトではあっても係留はなく」と書かれていたはずだが、ほんとうに「係留」はないのかな? 
 揚げ足取りみたいな言い方になるが、ほんとうに「係留」がないのだとしたら「暴君」という表現は何を意味するだろうか。「われら旧人」の間には「暴君」はいなかっただろうか。「暴君」のいない「当世」はあっただろうか。
 たとえば、2014年の安倍晋三。かれは「旧人」だろうか、「新人」だろうか。どっちかわからないが、私には「暴君」に見える。あちこちにペットボトル、空き缶を散らかしはしないかもしれないが、ヘド以上のものをまきちらして、そのヘドを別のことばでいいつくろっている。安倍の論理は、どうみても非論理だが(論理的に破綻しているが)、数の力で論理と言い張っている。「暴君ではない」と言い張っている。
 彼に比べると、ぼろジャンパーを捨てたり、ポットボトル、ヘドなんて何の問題もない。ひとを殺すわけではないのだから。
 というのは脱線で。
 「当世暴君……」からの、ことば。明るくない? 「かがやけるみらい」「まなこらんらんかがやかせ」と「かがやく」が2回出てくるから? いや、これは皮肉? あ、私は皮肉というものがわからない人間で、ことばをそのまま受け取ってしまって、「ばらいろの/かがやけるみらい」しか見えない。
 池井の書こうとしていることに反するかもしれないけれど、この詩の後半を読んでいると、「当世暴君」になって暴れたいという気持ちになってくる。
 池井が「しっぽをまいてたいさん」したあと、どうするのかわからないけれど、私は退散するふりをして、ちょっと隠れていて、若者が切り開いてくれたあとを若者ぶって走ってみたいなあ。ひとの切り開いてくれた道をのこのこというのはつまらないかもしれないけれど、へえーっ、若者って、こんなふうに世界が見えるのかと楽しんでみるのもいいなあ。
 で、追いかけながら、いま書いたこととまったく矛盾するわけだけれど、こんな若者許さんぞ、と「安倍晋三」に豹変して、「旧人」パワーで若者をぼこぼこ殴るなんていうのも老人の楽しみかな? おもしろいかもしれないなあ。ひとを攻撃するときは、絶対安全な後ろから、反撃されない距離で(逃げれる方法を確保して)、というくらいのことはしたい。自分が痛いのはいやだから。

 そんなこと書いていない? 私の「誤読」?
 「誤読」は、知っている。というか、私は「正解」(正しい読み方)など最初からこころがけていない。
 この詩には、なんというか「未来批判」(若者批判)みたいな「意味」が書かれているようだけれど、でも「絶望」の暗さがない。ことばが軽やかだ。「歌」になっている。
 それがいい。

 人間って変なものだと思う。映画の殺しのシーンなんか、殺人が絶対的な悪だとわかっていても、わくわくするでしょ? 「ゴッドファザー」で車に乗った男が後ろから首を閉められて殺される。舌が唇からまるまったままはみ出し、目がぎょろりと開いている。苦しくて足をばたばたさせてフロントガラスを割ってしまう。そういうものに、私はみとれてしまう。恍惚としてしまう。あれは何なのかなあ。死ぬ瞬間に、こんな力が「肉体」から出てくるのか、と感じているのかなあ。苦しいって、こんなに影像としておもしろいのか、と思っているのか。殺してみたいのか、殺されてみたいのか。ことばを探すと、ぜんぜんわからなくなるのだけれど。
 わからなくてもいい。
 何かが反応している。私の中で。
 それと同じような、反応が起きている。この池井の詩、特に後半を読むときは。「意味」を考えはじめるとわけがわからなくなるが、後半のリズムと音の明るさが、私にはうれしい。そのうれしさに反応するのが、私の何なのか私はわからないけれど、反応している自分が好き。

冠雪富士
池井 昌樹
思潮社
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中井久夫訳カヴァフィスを読む(119)

2014-07-19 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(119)
        
 「イタリアの岸で」は、「声にならない声」を書いている。「主観」が主観でありながら、いつものカヴァフィスの強い調子がない。

ギリシャ系イタリア青年キモス。メネドロスの子。
快楽にいのちを捧げつくすこころ。
南イタリアの植民市に住む青年はだいたい皆そう、
ぜいたく運にめぐまれた者ならば--。

 一連目は、男色を描いた文体とつながる簡潔さを持っている。「ぜいたく運にめぐまれた者」という強靱なことばの結合がカヴァフィスらしい。(中井久夫の文体が強靱でおもしろい。)
 ところが二連目から、すこし違う。

だが今日という今日はいつもと違う。
さすがのキモスもしおれて心ここにあらずのさま。
キモスは見る、船が岸壁で荷を降ろすのを。
ペロポネソスからの戦利品。
思いは千々に乱れて尽きず。

 「快楽にいのちを捧げつくすこころ」という剛直さが消えて、「しおれて心こころあらずのさま」。弱々しい。頼りない。
 そして、その弱く頼りない感じを、中井久夫は「さま」(様子)ということばで、あいまいに表現している。一連目では「こころ」がはっきり見えたのに、二連目では「こころ」が「さま」の奥に揺れている。「こころ」ではないものが、肉体の前に(表面に?/上層に?)漂っていて、そこから「こころ」が推測できるとき「……のさま」というのだと思う。
 そういう対比のあとで、

ギリシャから分捕る。コリントスよりの戦利品。

 これは「荷箱に大書されている文字」と中井久夫は注に書いているが、キモスの視線はいつものように男色の相手に注がれているのではない。船の荷物、その箱に書かれた文字に注がれている。そして、自分にはギリシャ人の血が流れていることを自覚して、単純に喜べないでいる。こころは男色の相手に向かって動くときのように欲望の剛直さを持っていない。あからさまではない--といいたいけれど、そのゆらぎは「あからさま」である。「……のさま」の、まさに、その「さま」が見えている。
 カヴァフィスは、ことばにされなかったこころの動きをも、こんなふうに的確に表現する。

リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
ヤニス・リッツォス
作品社
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