詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

池井昌樹『冠雪富士』(27)

2014-07-18 10:16:31 | 池井昌樹「冠雪富士」
池井昌樹『冠雪富士』(27) (思潮社、2014年06月30日発行)

 「運命」は風船が怖いというの池井の告白。風船のどこが怖い? 「物言わぬ軽みが怖い。いまにも張り裂けんばかりの照りが怖い。」なるほど、割れるのが怖いらしい。音が怖いということだろう。風船を見ると池井は「かたく眼を閉じ掌を耳にあて」、逃げていたらしい。ところが、

    どんな運命の悪戯か、その風選が春
風に乗り麗かに店内侵入してきたのだ。客た
ちはみなそ知らぬ顔の立ち読みさなか、店員
私は独り異物を店外撤去せにゃならず、南無
三宝、おっかなびっくりへっぴりごしで抱え
た途端鼻先で大音響の大破裂。失神しかけの
私を振り向き客たちはみな白い眼だ。

 うーん、このことばの、どこに詩があるのかなあ。これが詩なのかなあ。60歳過ぎの男が風船の処理に誤り、破裂させてしまう。そして失神しかけてしまう。そういう姿を見れば、だれだって池井を「白い眼」(冷たい眼、批判的な眼)で見る。
 「事実(起きていること)」に眼を向けていたのでは、詩がどこにあるかわからない典型がここにある。どこに、ことばの工夫があるのか。「南無三宝」ということばに詩がある。その「意味」ではなく、「音」に詩がある。「撤去しなければならない」ではなく、「撤去せにゃならず」と口語の語尾が紛れ込んだ音が、その口語のなめらかさのまま「南無三宝」の響きへつづいていく。そのとき、聞こえてくるのは「意味」ではなく、おじいちゃんやおばあちゃんが言っていた口癖の「響き」。「意味」よりも、こういうときには「こういうことば」を言うという音。それがそのまま受け継がれ、それが「肉体」のなかにたまりつづけて、やがてなんとなく、そのおじいちゃんおばあちゃん(それにつながる多くの人々)の「肉体」のなかで動いていたものが「肉体」として、わかる。「意味」にしないまま、「音」(口癖)として、わかる。
 この「音(口癖/肉体)」の共有が、この詩の基本。そこに詩がある。
 で、そういう「音(口癖/肉体)」の共有のつづきとして「おっかなびっくりへっぴりごし」という音もある。「おそるおそる」という意味だが、「おそるおそる」では「肉体(口癖/音)」がもっている共有感が違ってくる。
 詩、そのものが、違ってくる。
 で、そのあと、

                 不運は
斯様に忍び寄る。逃げ隠れても何処までも執
念く私へ忍び寄るそやつを捕え一瞬間で締め
上げて泥を吐かせる裏家業さ。ざまあみろ。

 風船が割れてしまうと、もうこわくないので、一転して強気になる。それがおかしいし、その強気のことばに「斯様(かよう)」「執念(しゅうね)」というような「音(耳から聞いて覚えた文字)」が紛れ込んで、「意味」に変わるところなんかに「肉体」の「さま」が見えるからおもしろい。
 「音」が「文字」になり、「意味」になり、「肉体」のなかからことばにならなかった何かを吐き出す。恐怖を吐き出す。そして、恐怖を吐き出してしまうと、ついでに(?)、罵詈雑言を吐き出す。恨みつらみを吐き出す。そうして、すっきりする。「肉体」が。つまり「肉体」のなかにあるもやもやが、感情が。
 「泥を吐かせる」という口語(やくざことば)、「ざまあみろ」へのつながりのスピードとかもおもしろいねえ。晴々とした池井の肉体(顔つきや体の動き)が見える。そこまで晴々しなくてもいいのに、と笑いだしてしまう。
 
 こういう部分(ことばの変化)を「意味」を追いながら読んであれこれいうよりも、その「音」が出てくるときに見える「人間関係(肉体の動かし方やあれこれ)」の方がおもしろい。その、ことばにしにくい「音」と「人間のさま」のようなものがおもしろい。
 池井は、「純真な真実(?)」だけではなく、こういう「やくざ」(無邪気?)も肉体としてもっている。「肉体」の幅(領域?)が広い。その広さを感じさせる詩だ。

冠雪富士
池井 昌樹
思潮社
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中井久夫訳カヴァフィスを読む(118)

2014-07-18 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(118)        

 「その生涯の二十五歳に」は、二十五歳のときの思い出だろうか。行きずりの男色の相手が忘れられずに、

彼は規則正しく宿に足を運んだ。
先月ふたりが会った宿だ。
だが たずねても詮ない
皆の口ぶり。感触からすると
全然顔の知られていない子らしい。

 一行目の「規則正しく」がなんともおもしろい。「顔の知られていない子」から判断すると、若者は「規則正しく」やってくるわけではない。その不規則に出会うために、カヴァフィス自身は同じ時間に宿へ行く。「彼」と書かれているが、自己を第三者ふうに語っている。ふたりが勝手気ままな時間に行っていれば、出会う可能性はさらに小さくなる。ひとりが「規則正しく」そこいれば、他方が偶然来ても出会えるというわけか。

今にもはいってこないか。ひょっとして今夜こそ扉を排して--。

 カヴァフィス自身は「ひょっとして」を排除して「規則正しく」そこにいる。「規則正しい」からこそ「ひょっとして」という思いが強くなる。
 しかし、これが「三週間」もつづくと、気持ちは少し別な様相を見せる。

こうしちゃおれぬの思いはもちろん。
でも、どうにでもなれの気も時々。
冒す危険は承知の助で
あえて受けようと覚悟の彼。このまま行けば
まずは醜聞で破滅とわかっちゃいるが。

 「規則正しく」その宿にあらわれれば、目撃される機会も多くなる。醜聞の危険はそれにつれて高まる。「どうにでもなれ」は自分が「どうなってもかまわない」という気分。「どうなってもかまわない」と覚悟して、相手についていくことを恋と言うが、カヴァフィスの場合、その相手はいなくて、気持ちだけが動いている。
 この「どうにでもなれ」に、その次の行の「承知の助で」という口語が拍車をかける。そこには「規則正しく」というような「律儀」な理性はない。「規則正しく」ということばではじまっていたために、この「本音」の暴走がとてもいきいきと感じられる。最後の行の「わかっちゃいるが」という途中で終わることばもいい。途中で終わっても、ことばは「わかる」。伝わる。完成された文章よりも、この口語の中途で終わる形の方が「主観」が強く動く。動いているのを読者が追認する。読者が「やめられない」を自分で補うのだが、そのとき読者の気持ちはカヴァフィスの気持ちになる。

リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
ヤニス・リッツォス
作品社
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池井昌樹『冠雪富士』(26)

2014-07-17 09:46:22 | 池井昌樹「冠雪富士」
池井昌樹『冠雪富士』(26)(思潮社、2014年06月30日発行)

 「弥生狂想」も少ないことばが繰り返し書かれている。

いつかゆめみられたぼくが
いまもあるいているように
こんなとしよせくたびれて
ここをあるいているような

いつかゆめみたあのぼくは
いまもどこかにいるような
こんなとしよせくたびれた
ぼくをゆめみているような

いまもいつかもゆめのなか
ゆめならいつかさめそうで
ここもどこかもゆめのなか
どこかであくびするおとが

 「ゆめみられたぼく」「ゆめみたあのぼく」。「ぼく」は同じなのか、違う存在なのか。ことばが似すぎていて、よくわからない。しっかり区別(識別)しなければいけないのだろうか。
 詩なのだから、いいかげんでいいと私は思っている。
 年をとって(私と池井は同じ年なのだが)、なんだか疲れて、過去といまを行き来している。「いま/ここ」と「かつて/どこか」を行き来している。歩いているのは目的があるからなのか、目的がないからなのか。ほんとうは区別できることがらだけれど、そういうこともせず、どっちが夢なのかと考えるでもなくぼんやり放心している。
 その「ぼんやり/放心」が同じことばの(似たことばの)繰り返しで、まるで歌のように響いてくる。
 「歌」の功罪(?)はいろいろあるだろうが、ぼんやりと声が解放されていくのは気持ちがいい。
 私は詩を朗読しないが、池井は朗読をする。それは声を出すことで、肉体のなかの何かが少しずつ解きほぐされるからだろう。肉体のなかには、何か、区別できずに融合しているものがある。「いま/ここ」「かつて/どこか」は違うものだけれど、それが重なるというよりも溶け合ってゆらいでいる「場」がある。それは、「声」を出すと、声に乗って「肉体」の外へ出てくる。さまよってくる。それを見る(聞く?)のは、なんとなく気持ちがいい。
 あ、こんな抽象的なことは、わけがわからないかもしれないなあ。
 私は自分が大声だし、声を出すのが好きだし、声を聞くのも好きだ。というより、私は実は聞いたことしか理解できない。「読む」だけでは、まったく「わからない」。読んでわかることは、聞いたことがあることだけである。聞いたことがないと、私は何もわからない。「聞く」と何がわかるかというと、その「声」を出している「肉体」が「わかる」。
 この池井の詩では「いま/ここ」と「いつか/どこか」が「いつか/ここ」「いまも/どこか」とゆらぎながら、「……ように」「……ような」が「声」になって響くが、そのとき「肉体」はすべての区別をやめてしまって「ような(ように)」で満ち足りた感じになっている。明確じゃなくていい。「ような(ように)」のあいまいななかで、あいまいなまま何かに触れる--その「あいまいさ」がどことなくいいのだ。あいまいさが、何かをほどく。あいまいさが、何かを吸収して、消してしまう。
 その「ような(ように)」のなかでぼんやりしていると……。

やよいさんがつかぜふけば
かわいいこえもはこばれて
こんなとしよせくたびれた
ぼくはとっくにきえうせて

 「ぼく」は消え失せて、弥生三月、「かわいいこえ」が運ばれてくる。それは「いつかゆめみられたぼく」「いつかゆめみたぼく」の「こえ」である。その「こえ」になろうとして詩を書いたわけではないだろうけれど、詩を書いていると、知らず知らず、その「こえ」のところにたどりついてしまった。
 「いま/ここ」「いつか/どこか」もない永遠の「ような」声にたどりついてしまった。





「谷川寸太郎の『こころ』を読む」は、AMAZONよりも思潮社からの直接購入が簡便です。(ただし送料が別途必要です。
思潮社のホームページ
からお申込みください。数日で届きます。
各地の書店でも販売していますが、多くは「取り寄せ」になります。2-3週間かかることがあります。
AMAZONでは「中古品」が6710円で売り出されていますが、思潮社、書店取り扱いの「新品」は1800円(税別)です。

谷川俊太郎の『こころ』を読む
谷内 修三
思潮社
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中井久夫訳カヴァフィスを読む(117)

2014-07-17 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(117)        2014年07月17日(木曜日)

 「色ガラスのこと」は中井久夫の注釈によれば、ビザンツの歴史家グレゴラスによって報じられていることを踏まえて書かれている。ヨアネス・カンタクゼノスと妃イリニの戴冠式のことである。

イリニはアンドロニコス・アサンの娘なのに
ふたりの宝石は数える程。
(衰亡の我が帝国はいたくまずしく)
ふたりは人工の石を身に着けた。かずかずの
ガラスの玉を。赤、青、緑--。
だが、私は知る、これらの色ガラスの玉に
卑しさはなく、安っぽさもおおよそなかった。
それどころか、王位に就くふたりの
理不尽な不運への
かなしく敢然たる抗議のごとくだった。

 「だが、私は知る、」以下がカヴァフィスの主観である。この「私」の主張は清潔だ。他者を気にしていない。ガラス玉を、卑しさはなく、安っぽさもないと否定する。そういう声があることを知っているから、まず否定する。他者の視線を蹴散らす。そして、「それどころか」と論理を逆の方向展開する。この論法の手順は、単刀直入なことばの動きを身上とするカヴァフィスには珍しい。論理を展開するにしても、論理の気配を感じさせないのがカヴァフィスなのに、ここでは論理が逆の方向へ動いていくことを「それどころか」でまず暗示する。
 言いたいことがたくさんある。たくさんあるから、論理の動きを予想させる必要があった。まず「理不尽な不運」というもの。次に

かなしく敢然たる抗議

 この「かなしく」と「敢然たる」ということばの結びつき--それをカヴァフィスは強調したい。「かなしく」と「敢然たる」は必ずしも「一致」する感情、概念ではない。ひとは悲しかったら敢然とはしない。思い切って何かをするのではなく、何もできないのが「かなしい」なのだから、ここは矛盾しているとさえ言える。
 しかし、こういう「流通言語」からみると「矛盾」としかいえないところに詩がある。詩は、もともと「流通言語」ではとらえられない何か、うまくことばにならない何かをことばにしたものである。
 この矛盾を、矛盾ではない、「真実である」と訴えるための助走が「それどころか」である。強調したいことがある。それを言うから注目してくれ、というのが「それどころか」という論理に含まれた「声」である。
 途中の「私」の主張、完全なる個人的見解の「私」が詩の基本だ。

リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
ヤニス・リッツォス
作品社
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緊急のお知らせ・「谷川俊太郎の『こころ』を読む」

2014-07-16 13:31:56 | 詩集
AMAZONで一時「予約受け付け中」になっていましたが、再び「中古品」の取り扱いだけになっています。
「中古品」は6710円の値段がついています。
各地の書店や、AMAZON以外のネット書店では「1800円+消費税」で新品が買えます。
書店いないときは、お手数ですが注文してください。

http://www.amazon.co.jp/%E8%B0%B7%E5%B7%9D%E4%BF%8A%E5%A4%AA%E9%83%8E%E3%81%AE%E3%80%8E%E3%81%93%E3%81%93%E3%82%8D%E3%80%8F%E3%82%92%E8%AA%AD%E3%82%80-%E8%B0%B7%E5%86%85-%E4%BF%AE%E4%B8%89/dp/4783716943/ref=sr_1_3?ie=UTF8&qid=1405485050&sr=8-3&keywords=%E8%B0%B7%E5%86%85%E4%BF%AE%E4%B8%89
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池井昌樹『冠雪富士』(25)

2014-07-16 08:23:29 | 池井昌樹「冠雪富士」
池井昌樹『冠雪富士』(25)(思潮社、2014年06月30日発行)

 「夢中」という作品が雑誌に発表されたとき、私は感想を書いた。そのとき、この詩に出てくる「あいつ」を池井と同世代の誰かという具合にとらえていたのだが、これに対して、池井が「あれは、自分の息子のことだ」と抗議してきた。私が読み違えていたのである。
 詩は、それが書かれた瞬間から書いたひとのものではなくなる。そのことばをどう読もうがそれは読者の勝手であり、筆者が抗議をいうようなことではない、というのが私の考え方である。もし「息子」のことを書きたいのなら、息子とわかるように書くのが書いたひとの責任であって、読み違えたからといって、読者の読み方が悪いというのは筆者の傲慢である。
 そういいたいけれど。
 今回は、私の完全な間違い。--というよりも、詩集のなかで読んでみると、池井の書こうとしていたことがわかる。一篇だけ読んだときは気がつかなかったが、詩を書いているとき、池井のなかにはつづいている時間というものがあり、その時間のなかでことばが指し示すものが違ってくる。
 この詩集のなかで、池井は、一貫して自分の記憶(幼いときの思い出)と「いま」を結びつけている。「幼いときの家族」「いまの家族」を結びつけて、世界を(自分を)見つめなおしている。そこには他人への批判や羨望は含まれていない。

 その「夢中」の全文。

あいついまごろゆめんなか
そうおもってははたらいた
 つめたいあめのあけがたに
 あせみずたらすまよなかに
あいついまごろゆめんなか
そうおもったらはたらけた
 そんなつめたいあけがたも
 あせみずたらすまよなかも
いまではとおいゆめのよう
とおいとおいいほしのよう
 あいつどうしているのやら
 こもごもおもいはせながら
といきついたりわらったり
めをとじたきりひとしきり
 けれどいまでもゆめんなか
 あいついまでもゆめんなか
こんなやみよのどこかしら
あいつだれかもわすれたが

 「いまごろ」「いまでは」「いまでも」と「いま」が繰り返される。その「いま」は同じではない。あるときは2013年の夏であり、あるときは2014年の冬である。この詩のなかでは「あめのあけがた」「あせみずたらすまよなか」と出てくるが、同じではない「時」が、同じ「いま」と呼ばれている。
 「いつでも」「いま」なのである。「いま」は「いつでも」に書き換えられるのである。「あいついつでもゆめんなか」と書いても「意味」はかわらない。いや「いつでも」と書いた方が、「意味」が通りやすいかもしれない。あいつ(息子)は池井の苦労を知らずに「いつでも」夢のなかにいる。そういうことを嘆いている、批判しているととらえると、この詩の「意味」はとてもわかりやすくなる。
 おれ(池井)はこんなに苦労しているのに、息子は知らん顔さ。知らん顔で自分の夢のなかにいるだけだ。もう、苦労しすぎて「あいつ」がだれだか忘れてしまったよ、そうこぼしている詩と読むと、「意味」はとても簡単に伝わっている。
 でも、そうではないのだ。
 世間から見れば「いつも」であっても、流通言語の意味から言えば「いつも」であっても、池井にとっては「いま」なのだ。それも、「いま」が積み重なって「いつも」になる「いま」ではなく、どの「とき」ともつながらない「いま」があるだけなのだ。
 「いま」がつながるとしたら、2013年-2014年という具合に「とき」を線上につなげるかたちでつながるのではなく、そういう線上の時間から切り離された「永遠」とつながる。それが「いま」である。

いまではとおいゆめのよう
とおいとおいいほしのよう

 ここに「とおい」「とおいとおいい」ということばが出てくるが、池井の「いま」はその「とおい」「とおいい」ものとつながっている。その「永遠」とつながっているからこそ、池井は流通言語でいう「いま」が「あせみずたらす」苦しいものであっても、「はたらける」のだ。
 池井は、はたらくことで「とおいいま」へと息子の「いま」をひっぱってゆく。
 それは、池井が両親からしてもらったことなのだ。
 池井はこの詩集で家族(両親)や恩人のことを書いているが、それは池井の「過去」を「いま=永遠」へと引き上げてくれた人たちである。そのことを思い、池井は、この詩集で、両親(恩人)がしてくれたことを書き残そうとしている。
 また、行為そのものとして引き継ごうともしている。

 こんなことを書くと説教くさくなって、詩がおもしろくなくなるが、池井の詩には何か暮らしの実践があり、暮らしをととのえる力がある。暮らしをととのえて生きる人間の必然がある。



「谷川俊太郎の『こころ』を読む」が、ようやくAMAZONで予約(!)できるようになりました。
各地の書店で販売中です。書店にないときは、書店を通じてお取り寄せください。

谷川俊太郎の『こころ』を読む
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中井久夫訳カヴァフィスを読む(116)

2014-07-16 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(116)        2014年07月16日(水曜日)

 「アンチオキアびとテメトス、紀元四〇〇年」は、中井久夫の注釈によれば「キリスト教文化と古代ギリシャ・ローマ文化の共存時代を終え、テオドシウス二世統治下のキリスト教時代にはいろうとする境界線上にある。」男色が困難になりつつある時代と言えるのだろうか。

テメトス若く 愛に酔い痴れ 詩を作る。
題は「エモニデス」。アンティオコス・エピファネスの寵童だね。
サモサタ出身の子。いかにも見目よかったと今に伝える。

 いつもの簡潔な響きがない。一行が長く、なんとなく間延びしている。いつものカヴァフィスなら「見目よかった」とだけで完結することばが、ここでは「いかにも見目よかったと今に伝える。」と余分なことばがまとわりついている。「いかにも」は強調の副詞。これがあると逆に「見目よかった」とは言えなくなる。「いかにも」に力点が移る。「いかにも」がないと成立しない、貧弱な「見目」である。「今に伝える」はことばが重複している。「今に」はなくても、「伝える」という動詞が動くのは「今」しかない。ここでも、「見目」よりも「今」「伝える」という余分なことばの方に、詩の力点が移っている。「今」、この変化していく時代を意識している、その変化に何かを感じているカヴァフィスがいる。
 時代の「たそがれ」を愛するカヴァフィス--そんなふうに中井久夫はとらえているが、たしかにそうなのだと思う。

だが、ただごとならぬこの詩の熱気。あふれんばかりの感情のかよい。

 この行でも、「ただごとならぬ」とか「あふれんばかり」とか、詩にしては無防備な「強調」がある。こういうことばは、ことばの「意味」に反して、詩を「平凡」に、「貧弱(枯渇せんばかり)」にしてしまう。そういう不思議なことばの変化を知っているから、いつものカヴァフィスは、そういうことばをつかわない。

うるわしい愛のかたち、テメトスならではの愛。
ぼくらはその道の者。あいつとは割ない仲の友だよ。
われわれその道の者はこの詩の詩人をご存じ。

 「うるわし」ということばがうるさい。「愛のかたち」の「かたち」もうるさい。どちらかひとつでいいだろう。「ならでは」も間延びがする。「その道」が繰り返されるのも、緩慢な感じだ。カヴァフィスは、ここではそういう「緩慢」な響きを楽しんでいるのかもしれない。
 「割ない」は「ことわり(理)なのだと思うが、中井は「割」という文字をあてている。意味よりも「音」が動いている。口語を動かそうとしているのかもしれない。

リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
ヤニス・リッツォス
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池井昌樹『冠雪富士』(24)

2014-07-15 10:00:30 | 池井昌樹「冠雪富士」
池井昌樹『冠雪富士』(24)(思潮社、2014年06月30日発行)

 「揚々と」にも「肩車」と同じように、繰り返しが出てくる。「意味」だけ伝えるなら、繰り返す必要はない。そういうことばの動き方をする詩である。

きょうはもうはやくかえろう
こんなにくたびれはてたから
どんなさそいもことわって
どんなしごともなげうって
きょうはもうかえってしまおう
いつものみちをいつものように
いつものでんしゃをのりかえて
いつものようにいつものみちを
ようようとぼくはかえろう

 「もうかえろう」としか池井は言っていない。それも「いつも」と同じように帰るわけだから、わざわざ「いつものみち」とことわる必要もない。「意味」だけ書くのだったら。
 「意味」ではないもの、「意味」以前を書きたい。でも、どのことばの「意味以前」を書きたいのか。それはいちばん繰り返しの多いことばである。

いつも

 「いつも」ということばは誰もがつかう。そして誰もが「意味」を知っている。その「いつも」を「違う意味」で池井は書こうとしている。そしてその「違い」が「いつも」のなかから、つまり池井の「肉体(思想)」のなかから自然に生まれ出てくるのを待つために(生まれるのを誘うために)、池井は「いつも」を繰り返す。
 「いつも」はどう変わるか。

ようようとぼくはかえろう
やさしいあかりのともるまど
さかなやくけむりのにおい
なつかしい
わがやのまえもゆきすぎて
ゆめみるように
ひとりかえろう

 「いつも」なら「わがや」へ帰る。けれど、きょうは「いつも」のように「わがや」を通りすぎて、その先にある「どこか」へ帰る。その「どこか」は「ほんとのいつも」なのだ。「いつも」と人が一般的につかっている「意味」以前の、「ほんとのいつも」である。
 でも、それは、どんな「いつも」?
 はっきりとはわからない。けれど「なつかしい」何かだ。

なつかしい
わがやのまえもゆきすぎて

 この2行は流通言語として「意味」を考えると、とても矛盾している。「なつかしい」という気持ちが起きるのは、それから遠く離れているときである。毎日毎日帰っている我が家がなつかしいということは一般的にはありえない。長い間帰っていないふるさとの家(生家)ならなつかしいは「意味」として機能するが、毎日帰る家がなつかしいという人など、一般的にはいない。
 ということは、逆に言うと、この池井が書いている「なつかしい」は「流通言語」でいう「なつかしい」とは違うものなのだ。「意味」以前のものなのだ。
 そうであるなら「いつも」もまた流通言語の「いつも」とは違っている。
 流通言語ではない「いつも」と、流通言語ではない「なつかしい」が、この詩では出会っている。「意味」以前で、融合している。「いつも」と「なつかしい」は区別があって、区別がない。
 だから、詩は、次のように読み直すことができる。

きょうはもうかえってしまおう
「なつかしい」みちをいつものように
「なつかしい」でんしゃをのりかえて
いつものように「なつかしい」みちを
ようようとぼくはかえろう

 「なつかしい」は「いつもの」と書かれていた部分である。
 池井はその不思議な「いつも/なつかしい」が融合した世界へ「ひとり」で帰る。
 それは、その「いつも/なつかしい」が「ひとり」分の「領域」しかもたないからなのだ。

 これからあとは、説明するのがとても面倒くさいのではしょって書いてしまうが(説明するには、この詩だけではなく、複数の詩を例として引用しなければならなくなるから、私は面倒だと感じるのである)、この「いつも/なつかしい」は池井にとっての「放心」の「場」である。その「場」には池井ではない「誰か」が池井を見守っている。その池井を見守る視線を感じながら、池井は「見守られて存在すること」を永遠と感じ、永遠の中で「放心」する。「永遠」と一体になる。
 池井は、したがって(?)、ふたつの詩を書く。
 ひとつは、その「永遠」のなかで「放心」している詩。幸福な詩。
 もうひとつは、その「永遠」のなかで「放心」することを夢みる詩。夢の中で幸福になる詩。
 この作品は、後者である。それが証拠に、「ゆめみるように」と池井は書くのである。

谷川俊太郎の『こころ』を読む
谷内 修三
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中井久夫訳カヴァフィスを読む(115)

2014-07-15 09:57:50 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(115)        

 「ヨアネス・カンタクゼノスが勝った」に関して中井久夫の注釈がある。カンタクゼノスがコンスタンティノポリスで戴冠式をあげた一三四七年は「トルコ在住のギリシャ人とギリシャ在住のトルコ人の強制相互移住の年である。」ギリシャ人もトルコ人も一族の切り開いた土地を捨てて母国へ帰られなければならなかった。そういう「ギリシャ人は、同じ立場のトルコ人の約三倍弱、一二五万人である。」そのひとりが語っている。

男は牧場と畑地を眺めた。
まだ我がものじゃある。
小麦に家畜に果樹園に。
向うは先祖代々の屋敷。
高価な家具よ、銀の器よ。

ああ、ちくしょう、みんな持ってゆきやがる。
今 みんな持ち去ってゆきやがる。

 「男」と第三者風に書きはじめて、その男がすぐに「我」になる。客観から主観に変わって、主観が主張しはじめる。このとき、「我が」は「私」だけにとどまらない。「我が家系」、あるいは「我々」へと変わる。
 これは私の印象だけかもしれないが、このときの「我」という主語の選択は、とてもおもしろい。もし、これが「私」「おれ」「ぼく」という主語だったら「我がものじゃ」は「私のものじゃ」「俺のものじゃ」「ぼくのものじゃ」になり、なんとなく、その主張が個人に限定されてみみっちく感じられる。「我が」といったとき、「我々」という複数がすぐに浮かぶのに対して「私」「おれ」「ぼく」は、そのことばを重ねて複数になることがない。「我」「我が」の方が、悲劇を共有しやすい。
 そういう「我」で土地や作物、家財をながめたあとで、「ああ、ちくしょう、みんな持ってゆきやがる。」と口語で、その悔しさを「我々」(複数)から「我」(個人)へと引き戻す。「我々」複数の悔しさ、怒りなのだが、怒りをみんなでわけもつというよりも、あくまで個人で持ちつづける。怒りは、怒りを組織化すると力になるが、単なる共有では「分散」になってしまう。怒りの分散は諦めである。それでは、悔しさにならない。
 組織化される前の怒りは、あくまで個人の「肉体」のなかでうごめく。暴れる。
 「悲劇」は共有され、哀しみという感情になる。けれど怒りは、共有されて新しい感情になるというのはむずかしいのかもしれない。怒りの組織化には、何か、怒りとは別の「哲学」が必要なのだろう。「我々」から分断された「我」の怒りは、奇妙にねじれる。

カンタクゼノスがあわれみをかけてくれるか?
行ってひざまずいてみようか?

 ぬけがけ。こういう庶民の声もカヴァフィスは聞きとる耳を持っていた。

カヴァフィス全詩集
コンスタンディノス・ペトルゥ カヴァフィス
みすず書房
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緊急お知らせ・「谷川俊太郎の『こころ』を読む」

2014-07-15 09:00:34 | 詩集
「谷川俊太郎の『こころ』を読む」の販売に関する緊急お知らせ



「谷川俊太郎の『こころ』を読む」は、AMAZONでは「中古品」扱いになっています。
しかも価格が6700円。
まだ在庫があります。近くの書店で注文してください。
また思潮社からも直接購入できます。その際は送料が290円かかります。
思潮社は
162-0842 東京都新宿区市谷砂土原町3-15
         思潮社
電話(営業)03-5805-7501
FAK(営業)03-5805-7502
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ジョン・タトゥーロ監督「ジゴロ・イン・ニューヨーク」(★★★)

2014-07-14 11:06:35 | 映画
監督 ジョン・タトゥーロ 出演 ジョン・タトゥーロ、ウッディ・アレン、バネッサ・パラディ


 映画を見ながら、40年ほど前の「さよならの微笑」というフランス映画を思い出しつづけた。似てるんだなあ、味わいが。
 「さよならの微笑」は二組の夫婦の話。一方は夫が浮気癖があり、他方は妻が浮気っぽい。で、取り残されたまじめな二人がなんとなく気心があって、恋愛し、もとの夫と妻を捨てて町を出て行くというストーリーなのだけれど、このストーリーの紹介だけではジゴロとは関係ないように見えてしまうねえ。
 どこが似ているか。
 ジョン・タトゥーロと「さよならの微笑」に出てきた男(名前は何?)が似ている。ジョン・タトゥーロは職業を転々としたあと、いまは花屋で働いているのだが、生け花が得意であり、またダンスも上手だ。生き方に幅があり、その幅の広さで女をゆったりと受け止める。セックスで金を稼いでいるというぎすぎすした感じがない。
 「さよならの微笑」に出てきた男は、次々に職業を変えている。その理由を男は「自分をひとつの枠のなかにとじこめたくない。いろいろな可能性を広げる」というようなことを言っていた。「ひとつの道」をきわめる、その道で社会に貢献するというのではなく、自分に何ができるかそれを楽しみながら生きている。それが、とても似ている。
 うーん、ヨーロッパ味だなあ。
 さらに、「さよならの微笑」では、女と男は、最初はたがいの不幸(?)によりそうように親密になる。ただし肉体関係はない。まわりが二人が親密だと知れ渡ってしまったあと、他人がセックスしていると思い込んでいるのなら、セックスしないでいるのは意味がない(?)と思いセックスし、さらに親しくなるのだが、そのストーリーの抱え込んでいる味が、またまた、似ているねえ。
 ジョン・タトゥーロはジゴロをやる一方、聖職者の未亡人と出会い、恋に落ちる。その恋が、他人から見ればセックスしているのであって恋ではないのだが、ふたりは逆にセックスはしないでほんとうに恋してしまう。ジョン・タトゥーロは女の肌に触れるが、それは背中である。キスもするが、性交まではしている感じではない。恋をしているから、セックスはしなくてもいいのだ。こころが触れ合っている。
 で、恋をすると。
 ジゴロができなくなる。レズビアンのカップルに3人でセックスしようと誘われ、その場に赴くのだが、実際に性交しはじめると、前のようには体が動かない。それを見て、シャロン・ストーンが「恋してるのね」という。そして、顔に触れ「美しい」とうっとりする。
 セックスしながら、セックスではなく恋にあこがれている。--これは、ジョン・タトゥーロの「意見(主張)」ではなくて、そこに登場する女の主張なのだが。
 この「主張」の出し方が、またまた「さよならの微笑」の味に似ている。
 男が主役であるようにみせかけて、味は女味。女の好みの味で統一されている。女はどんな男が好きなのか、ということが明確に描かれている。ストーリーにもどっていうと、女は自分の気持ちをわかってくれて、少しずつリードしてくれる男が好き。少しずつだと、どきどきしながらも安心する。ゆったりする。最初のジョン・タトゥーロとシャロン・ストーンのデートなんて、それが鮮明にでている。ゆったりはじまって、最後は何もかも忘れるくらい--というのが女の理想だね。
 で、この映画が「さよならの微笑」と違うのは、「女味」を中心に据えながら、それを「男味」で最後は隠しているところ。女ごころがわかるというのは、ちょっと恥ずかしいのかな? 恋する女に捨てられて、ジョン・タトゥーロはいったんは町を去る決意をするのだが、コーヒー店で出会ったフランスの女にちょっとこころを奪われ、またジゴロにもどってもいいかな、と、心が少年っぽい。成熟しない。永遠の未熟の魅力(?)で生きるウディ・アレンが、その未熟をそそのかしているのが、まあ、こっけいである。

 で、余談(?)になるのだが。
 この最後のオチに登場するフランス語(の女)、さらにヴァネッサ・パラディ(たしかフランス人だよね)は「フランス」味がこの映画に漂っているのも--やっぱり「さよならの微笑」につながるねえ。「さよならの微笑」を現代のアメリカ(ニューヨーク)に置き換えると、こんな感じになるのだろうなあ、とも思った。

 それにしても、ジョン・タトゥーロもウディ・アレンも女優のつかい方がうまい。シャロン・ストーンなんて、とんでもない役どころなんだけれど、ジョン・タトゥーロがセックスできなくなるのを見て「恋をしてるのね」と見抜き、顔がぱっと輝くシーンなんかすごいなあ。ジョン・タトゥーロの顔に触れながら「美しい」というときはさらに美しい。女から見れば、男はいつも少年。守ってやらないとだめなんだ--という感じなのかもしれないが、「美しい」と言われてジョン・タトゥーロの顔(目)が美男子に変わっていく一瞬もすばらしい。
 「ジゴロ」を題材にしながら、テーマは「女性味の恋愛」。で、思い出したが、ジョン・タトゥーロとのセックスを「アイスクリームの味にたとえるならどんな味?」「ピスタチオ」なんていう会話も、女性の味の好みを語っていておもしろいなあ。
 ウディ・アレンはジョン・タトゥーロの女の描き方に共感して出演したんだろうなあ。女の好みが同じなのだと思った。バネッサ・パラディの清純さと成熟の共存は「マンハッタン」のマリエル・ヘミングウェーに似ている。
                      (KBCシネマ2、2014年07月13日)


さよならの微笑 [VHS]
クリエーター情報なし
大映
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池井昌樹『冠雪富士』(23)

2014-07-14 09:49:34 | 池井昌樹「冠雪富士」
池井昌樹『冠雪富士』(23)(思潮社、2014年06月30日発行)

 「肩車」は、まず木登りから詩がはじまる。

きさえあったらさるのよう
おおよろこびでのぼったな
きだってよろこんでたもんな
あのえだのうえそのうえへ
いつでもはだしでのぼったな
ひやひやわくわくのぼったな

 「きだってよろこんでたもんな」という表現、自分と他者(木)の区別がなくなるとこが池井の特徴だが、この前半にはもう一つ池井の特徴がある。
 昔、中学生のころ、そのことに気がついていたが、長い間忘れていた。ふいに思い出した。「ひやひやわくわく」。この音の繰り返し。オノマトペ。これが池井の詩にはとても多い。オノマトペの定義はむずかしいが、「意味」にならないことを音にしたものという印象が私にはある。「意味」にならないことなら書かなくてもいいのかもしれないが、それを書きたいという欲望が池井にはある。意味以前の音、意味以前のことばということになるかな?
 「ひやひやわくわく」は、どちらかというと「意味」がとりやすい。つまり、「興奮して」とし「こわさを感じながらも好奇心にかられて」という具合に言いなおすことができるが、それよりももっと「意味」になりにくいオノマトペを池井はつかっていた。具体例を思い出せないのだが、オノマトペがでてきたら池井の詩である--という印象が、中学、高校時代の私の記憶である。
 で、このオノマトペ指向(嗜好?)と、池井のひらがなの詩は、深いところでつながっている。
 今引用した部分でいうと「のぼったな」ということばが3回、出てくる。6行のうち3行が「のぼったな」で終わっている。これは池井独特の「オノマトペ」のひとつなのだ。そこには「意味」はあるが、意味を書きたくて繰り返しているのではない。意味を強調したくて繰り返しているのではない。むしろ「意味」にならないことをいいたくて繰り返している。繰り返すことによって音に酔い、音に酔うことで意味を忘れ(意味を捨て去り)、その「意味」の向こうへたどりつこうとしている。
 「のぼったな」は、次の部分で、別の「オノマトペ」に席を譲る。

かたぐるまでもされたよう
そこからなんでもみえたっけ
しらないまちもしらないかわも
しらないさきまでみえたっけ

 「みえたっけ」が繰り返される。「しらない」が繰り返される。「のぼる」は「みえる」である。「のぼる」は「しらない」ところ(未体験へ)のぼる。「えだのうえのそのうえ」という存在しないところ(しらないところ)までのぼる。そして、その「しらない」ところから「みえる」のは、やっぱり「しらない」である。「のぼる」「みえる」「しらない」は三位一体(?)になって「意味」をつくるのだが、その「意味」を強調するのではなく、「意味」を音楽のなかに隠すように、おなじことばを池井は繰り返す。「意味」にすることを拒んでいる。「意味」にしてしまうと、「意味」以前が消えてしまうからだ。池井の書きたいのは、あくまでも「意味以前」なのだ。
 「意味以前」とは、いったい何なのか。
 詩はつづく。

ほんとにきもちよかったな

 「意味以前」は「きもちいい」であり「ほんと」なのだ。「意味」は「きもちいい」と「ほんと」を別なものに変えてしまう。

いまではだれものぼらない
きにはながさきはなはちり
いつもながらにあおばして
けれどもなんだかさびしそう
こだちもこどももさびしそう
しらないまちもしらないかわも
しらないさきもみえなくて
ひやひやもなくわくわくもなく
ひはのぼりまたひがしずみ

 「ほんと」と「きもちいい」は「さびしい」に変わってしまう。「意味」は「きもち」を「さびしい」に変える。「意味」は、その意味を主張するものの都合にあわせて世界を統合するとき、有効的に機能する。「意味」は「知らない」を封印し、「わかっていること」(知っていること)だけで世界を統一する。そして、合理的に世界が動く(支配できる)ようにするものである。--と、池井は書いているわけではないが、私は、かってにそこに私の考えをくっつけて、そう思っている。
 池井はそういう「意味」の窮屈さを否定し、「意味」以前、「知らない」けれど「見える」ものをことばとして引き継ごうとしている。残そうとしている。それが、池井にとっての詩の仕事だ。









冠雪富士
池井 昌樹
思潮社
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中井久夫訳カヴァフィスを読む(114)

2014-07-14 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(114)        

 「アレクサンドリアにて、紀元前三一年」はアントニウスとクレオパトラの連合艦隊がオクタウィウスの艦隊に敗れたときのことを書いている。「真先にアレクサンドリアに逃げ戻ったクレオパトラが勝利を偽装しようとしたのは史実である」と中井久夫は注釈に記している。
 カヴァフィスは、この史実を「敗北」ということばも「偽装」ということばもつかわずに書いている。

まち外れの村から
小間物屋がやってきた。
旅のほこりをそのままに
「えー、香料にゴム!」「極上のオリーブ油はいかが?」
「あなたのお髪に薫らす香水!」
通りを呼ばわり歩いた。
だが、このまちのざわめき、楽隊の音、行列、パレード--。
小間物屋の声などお呼びじゃない。

 小間物屋の声と町のざわめきの対比。小と大の無意味な比較。そして、「大」の方が大雑把な「楽隊の音、行列、パレード」に対して、小間物屋はあくまで「あなたのお髪に薫らす香水!」のように肉体に密着し、具体的だ。また、それよりまえの「旅のほこり」という疲労感が漂う表現が、この対比をよりくっきりしたものにしている。

群衆にこずきまわされ、引きずられ、
これはなんじゃと面食らった小間物屋は
たまらず聞いた--「いったい何がおっぱじまったんで?」
誰かにかつぎ挙げてもらったら壮大な宮殿が見えた。
「アントニウス、ギリシャに大勝」と大書してあった。

 最後の「大勝」と「大書(たいしょう)」のだじゃれが強烈だが、これは中井久夫の翻訳の妙。
 私がしかしいちばんおもしろいと感じるのは、小間物屋の「声」である。「いったい何がおっぱじまったんで?」。これも中井の「声」を聞きとる耳のよさがそのまま生きているが「おっぱじまる」という口語と、それをさらに口語っぽくしている「はじまったんで?」と「で」で終わる言い方がおもしろい。「ですか?」ということだが「か」という疑問をイントネーションであらわしている。書かれた文字なのに、その文字のなかに「声」がそのまま動いているところがリアルだ。
 このリアルさがあって、「壮大な宮殿」の嘘、「大勝」と書いた文字の大きさの嘘が際立つことになる。
リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
ヤニス・リッツォス
作品社
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池井昌樹『冠雪富士』(22)

2014-07-13 12:59:43 | 池井昌樹「冠雪富士」
池井昌樹『冠雪富士』(22)(思潮社、2014年06月30日発行)

 「とんちゃんのおうどんやさん」は幼い日のうどんの思い出、うどん屋に登場したテレビ(月光仮面)の思い出が、まず語られる。

ガタピシの木戸を開ければウッとした。天にも昇る芳香だった。生
まれた家の数軒隣にとんちゃんのおうどんやさんがあった。家は大
家族で質素な暮しだったから滅多に食べさせてもらえない憧れのお
うどんを前に夢心地だった。辛すぎるからと母の取り除く唐辛子の
赤がおうどんの出汁に溶けてゆく一部始終を凝と視ていた。

 「うどん」ではなく「おうどん」。そのことばに池井の幼い日が象徴されている。(私は「うどん」に「お」をつけたことなど一度としてないが、池井は、まあ、そういう育ちなのだ。)
 で、「お」によってはじまる「非日常」。池井は「質素な暮らし」と書いているが、質素ではあっても「非日常」があるということは、すでに「質素」ではないかもしれない。でも、そのことに池井は気づいてはいない、と書いてしまうと、詩が別の方向に動いて行ってしまう。
 詩に戻ろう。
 まず「芳香」、匂いから池井の感覚が動きはじめている。これは「異相の月」で触れたことに通じるが、池井の「感覚の原点」である。嗅覚で世界を把握する。世界を、その空気を自分の肉体の中にいれる。
 次に、「辛すぎるからと母の取り除く唐辛子の赤がおうどんの出汁に溶けてゆく一部始終を凝と視ていた。」と凝視、視力(視覚)がやってくるのだが、その「視覚」が見ているものが「溶けてゆく」であるのも池井の特徴である。唐辛子の赤い色が出汁に溶けていく--一体になっていくのを、凝視し、うっとりしている。放心している。凝視とはいうものの、それは「見る」の放棄である。「視覚」を捨てるのだ。
 そうすると、

                           夏は手
廻しの掻き氷。シャカシャカ氷を削る音、鮮やかな蜜の色、胸の空
くその匂い、独りで切り盛りする汗だくの小母さんの声、何もかも、
気の遠くなるほど明るかった。

 感覚は消えるのではなく、ほかの感覚を目覚めさせる。聴覚が目覚め、嗅覚、視覚と渡り歩き、それが組み合わさり、融合して「気の遠くなるほど明る」くなる。実際、池井はそのとき「放心して」いる。「気(心)」がどこか遠くへ行ってしまっている。ただし、この「遠く」とは、たぶん「頭」から遠くなのであって、「こころ」自身は「こころ」の奥底へかえっていき、あらゆる区別がなくなるということ。
 この感覚の融合を「匂い」のなかでつかみとる動きは、もう一度、この詩のなかで書かれている。ちょうどなかほどあたり。

           ガタピシの木戸を開ければウッとした。そ
れは煮干の出汁やら葱やら汗やら様々な生活臭の入り混じった悪臭
に違いなかったが、この世の新参者である幼いものにとっては、こ
の世に生まれた甲斐のある希望の匂い--泣きたいような芳香だっ
た。みんなみんな貧しかった。

 「匂い」を「生活臭」「悪臭」ととらえなおしている。ただし、それは「いま/ここ」の池井が感じることであって、幼いときは「希望の匂い」「泣きたいような芳香」だったと書いている。
 「匂い」が変わっている。「匂い」そのものは変わらなくて、ほんとうは池井自身の「肉体」が変わってしまったので「希望の匂い」「芳香」が「生活臭」「悪臭」に変わったのである。
 「貧しい」ということばがここでも出てくるが、最初に出てきたとき「貧しい」は実は「貧しい」ではなかった。母親がうどんのなかの唐辛子をとってくれる(そんなふうに子どもの世話をする)というのは「貧しい」生活ではなく、豊かな生活である。
 「貧しい」、あるいは生きるために人はどんな具合に苦労しているのかわかるのは、実際に池井がその苦労をしてからのことである。「芳香」が「悪臭」であるとわかるまでに池井がどんな苦労をしてきたかは、この詩には書いてない。
 かわりに、こう書かれている。

とんちゃんのおうどんやさんが私の中から込み上げてきたのは、義
父の三十五日法要へ妻と連れ立ち車窓を眺めていたときのことだっ
た。漁師町から環境の異なる農家へ婿入りし、その本家を義父は無
言で支えて逝った。一人娘を嫁がせるのはどれほど淋しく無念だっ
たろう。正月毎に幼い伜どもを連れてお邪魔する度、皺深い眼をし
ばたたかせ孫を見遣った。無言で酒を干しながら。--そうか、と
んちゃんのおうどんやさんなら義父にだってあったのだ。

 この「とんちゃんのおうどんやさんなら」というのは、長くて引用できなかったが、途中で出てくる、「とんちゃんとけんかしたらテレビを見せてくれなかったとんちゃんのおうどんやさん」ということ。親がこどもを真剣に愛し、そのためなら何だってするということ。それを池井は、池井の息子(義父の孫)を「見遣る」目つきに感じた。その目は、かつては娘(池井の妻)にも注がれていた。
 そして、その「見遣る」という行為、その目差しに、いたることろにあって、それが「生活」を支えていた。自分のためではなく、子どものために働く--その貧しさは、貧しさではない。そのときの生活臭は「臭い」ではなく、「芳香」の隠し味なのだ。

 「生活臭」「悪臭」ということばを作品の中程でつかっているが、池井は、それをもう一度「芳香」「希望の匂い」として感じている。
 外からではなく、池井の「肉体」のなかから。先の詩のことばのつづき。

                       --そうか、と
んちゃんのおうどんやさんなら義父にだってあったのだ。電車の中
でその思いが熱く苦しく込み上げてきたのだった。

 何かが込み上げてくるとき「ウッとする」。池井は、ここでは「ウッとした」とは書いていないが、やはり「ウッとしている」。ただし、それはとんちゃんのうどん屋で戸をあけたときに押し寄せるにように外からやってくるものへの反応ではなく、池井の「肉体」のなかで起きている反応のために「ウッとしている」。
 かつて池井の「肉体」の外にあったものが、いまは池井の「肉体」のなかにある。
 それは、かつて放心する池井を見守っていた「視線」を、いまは池井がもっている、そうしてだれかを見つめているということになる。

 幼い日の思い出と、最近思ったことをただ書きつないでいるだけの詩に見えるけれど、その奥には真摯な「暮らし」がつづいている。その真摯がこの、ただあったことをかきつづっただけのことばを詩に、「必然」に変えている。




冠雪富士
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中井久夫訳カヴァフィスを読む(113)

2014-07-13 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(113)        

 「ここへ読みにきたのだが」は、どこかからぬけだし、自分の好きな本を読みにきた青年のことを描いている。それは「現実」のことなのだろうけれど、私は、違う感じて読んでしまう。

この子はここへ本を読みに。ひろげたままの二、三冊。
歴史家の本、詩人の書。
だが十分も読んでたか。
ぬけだし、うたた寝、ソファの上で。

 「ぬけだし」はどこかからなのだが、その「どこか」が書いていないので、私はその若者が「本のなかから」ぬけだしてきたように読んでしまう。「メタ文学」になってしまうが、本のなかに描かれた青年が、カヴァフィスの前にいる。「文学(本)」のなかからぬけだしてきた、つまりことばでできている青年なので、それはカヴァフィスの理想をそのままあらわしている。一部の隙もなく、ことばそのものになっている。次のように。

二十三歳のこの若さ。見目もかたちもよいこの子。
この午後はエロスの神のお忍びさ。
この子のいうことなしの肉体とくちびると、
美しい身体を熱くしてるエロスの火。
よろこびの時とる体位を妙に恥じたりせずに。

 「見目もかたちもよい子」では、どんな具合に見目がいいのか、かたちがいいのかわからないが、そういうことは「本」のなかで語られ尽くされているから、わざわざ繰り返さない。カヴァフィスのことばは修飾語を持たずぶっきらぼうな感じ、裸の感じがするが、それはカヴァフィスが修飾語を知らないのではなく、そういうものに飽き飽きしているからだろう。ものの「表面」を飾ることばには、うんざりしている。
 では、何に視線を注いでいるのか。
 「美しい身体を熱くしている」の「熱くしている」という動き、「熱くなること」。「よろこびの時とる体位を妙に恥じたりせずに」の、エクスタシーのときにある体位に「なること」、「恥じたりしないこと」。そこに書かれている「こと」、「こと」という「動き」そのものをしっかりと見つめている。
 「若さ」、あるいは「見目よいかたち」というのは、彫像のように動かない美ではない。動く瞬間に見えてくる「こと」なのだ。

 この青年が本のなかからぬけだしたのではなく、現実の青年だとしても、その青年の美しさは「見目」(外観/見かけ)よりも、その青年の内部で動きものがあるからだ。「文学(教養/ことば)」が動き、青年をつくる。それをカヴァフィスは本を抱えたままうたた寝をした青年に見た、ということだろう。あるいは若いときの自画像かもしれない。

リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
ヤニス・リッツォス
作品社
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