詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

嵯峨信之を読む(6)

2015-02-07 10:00:11 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
8 火

 「火」という作品は不思議だ。「火」は「愛」のことだ、「無償の愛」について書いていると直感的に感じる。

二度と消さないでくれ
わたしの中からお前の中へうつす小さな火を
それはこの世にただ一つしかない火だ
わたしと死との深い谷底から大きな鳥が舞い降りて拾いあげたのだ
その小さな火は
お前に何も求めない
だが零(ぜろ)のように空しさをもつてお前を庇い
あらゆるものからお前を拒むのだ
いま素裸のお前は
その火をかかげて階段に立つている
はてしれぬ二階につづいている階段の上に

 「だが零(ぜろ)のように空しさをもつてお前を庇い/あらゆるものからお前を拒むのだ」の「空しさ」と「拒む」につまずく。
 何も求めない、無償だから「零」。だが「無償の愛」の「無償」と「空しい」は同じだろうか。「零」と「空しい」は通じるものがあるかもしれないが、「無償」と「空しい」を同じと考えることは私にはできない。
 無償の愛でお前を「庇う」ということはわかるけれど、「空しさをもつて」がわからない。「庇う」と「拒む」の関係もわからない。「庇う」のは「守る」ためである。
 もしかすると、「拒む」ことが「庇う」こと?
 いろいろの人がお前に愛を捧げるかもしれない。それらの愛は無償の愛ではない。そういうものを、「わたし」は「無償の愛」で撥ねつける。愛の防禦壁(庇)になるというのだろうか。
 そうだとしたら、この「理屈」はややこしいなあ。
 私の読み方は「誤読」かもしれない。「誤読」であっても、かまわない。「正解」よりも、これは何だろう、と考えること、考えながら自分のことばを見つめなおすことの方が大切なのだと私は思っている。
 ある日、あ、あれはこういうことだったのかと突然気が付くかもしれない。それまでは、無償の愛で他人からお前を守る--そういうことが書いてあるのだと想像しておく。
 それに答えるように、お前は素裸で「わたし」を迎えている。

はてしれぬ二階へつづいている階段の上に

 最後の「はてしれぬ」がいいなあ。「無償」(零)に対して「無限」。零だけが無限に近付くことができる--というのは「矛盾」だが、その「矛盾」は「零の空しさをもつてお前を庇い/あらゆるものからお前を拒む」という表現の複雑な何かと拮抗する。

わたしと死との深い谷底から大きな鳥が舞い降りて拾いあげたのだ

 この一行は

大きな鳥が舞い降りてわたしと死との深い谷底から(その火を)拾いあげたのだ

 ということだと思って読んだが、このいりくんだ構文、順序が逆(?)の構文も、そういう複雑な拮抗と響きあって、ことばを「流通言語」ではなく、詩にしているように思える。
 よくわからないのだけれど、その「わからない」のなかには何か「わかる」と錯覚するものがあって、それが私に響いてきて、私をゆさぶる。その揺さぶられた瞬間に、揺さぶられるまでは見えなかった何かが見える--見えると錯覚し、それを探したいという気持ちになる。
 私は、そこに詩があると思う。

9 死

 この作品にも、ふつうの文章とは違った「構文」が出てくる。

ぼくに許すことのできる唯一もの
生きることを証明する唯ひとりのたしかな責任者
ぼくはその前にひれ伏してはいないが
そこから何処ともなく遠ざかる道のはずれに立つている

 三行目の「ひれ伏してはいないが」の「が」のつかい方が、少し変だなあ。微妙だなあ。ひれ伏してはいないが、征服しているわけでもない。その唯一の責任者から離れている。距離をとっている。その人から「遠ざかる道のはずれに立つている」ということか。
 そうであるなら。
 「征服しているわけでもない」ということばが省略されていることになる。なぜ、省略したのかな? 「死」はけっして制服でいないもの、人間の必然だからだろうか。「ひれ伏す」の反対、「征服する」というような動詞はなじまないというこころが働いているのだろうか。明確なことばにしたくない、する必要はないという思いがあるのかもしれない。
 あるいは……。死こそが「生きる」を証明できる。これは逆説だが、たしかに死ぬからこそ生きている、生きているものだけが死ぬことができる。これは、しかし、何かさむざむしい「論理」でもある。

あらゆるものを向うへ押しやつて
そのまま立ちつくすぼくはなんだろう
それをただの一つの塔と言えば
その周りを吹いている風はなんと言えるだろう

 「塔」とは「論理」をつらぬく「精神」の運動だろうか。「論理」は「魂」ではないだろう。魂は「論理」の周りを吹いている寂しい風なのだろうか。「時」のなかに出てきた「魂」ということばを思い出しながら、そう考えた。

嵯峨信之全詩集
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殺し屋

2015-02-07 01:44:53 | 
殺し屋

誰が私を殺しに来るのか。
わからないときはドアについて考える。
たとえば内側に向かって開くドア。
金属のドアの錆びた蝶番ということばのなかに住んでいる蝶が
銀色の粉をまきちらして飛び立つ。

誰が私を殺しに来るのか。
わからないときはソファに体を沈め、
殺し屋のやってくる暗いドアを見つめる。
外は雨で、雨に叩かれるドアの音が強くなり、
ノブを回す速度で雨の匂いがなだれてくる。

想像の銃に撃たれて私は死ぬ。
ドアのことなどもう考えることはできないと考えながら。
その私のために殺し屋は
「思考が排除されたとき残るものが時間である」と言わなければならない。
それを聞きたくて私は殺し屋を雇ったのだが、

何の手違いだろう。誰の、何のための手違いなのだろう。
「おまえの孤独に友人はいるのか。」
言ったことも聞いたこともないことばがドアを開けずに入ってくる。
誰か私を殺しに来たのか、
わからないまま死んでしまって私はくだらない夢をみている。




*

谷川俊太郎の『こころ』を読む
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嵯峨信之を読む(5)

2015-02-06 10:58:01 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
6 時

手を放したら
誰もそこにいることはできない
目ざめているときも眠つているときもはてしなく墜落する
どんな大きな櫂で漕いでいつても
ついにもとの港には帰れない

 書き出しの5行だが、少し不思議。「墜落する」は「手を放したら」ということばから生まれているのだと思うけれど、その「墜落」した先は海?
 「港」へ「帰る」ということばが、「海」を連想させる。「港」へ「帰る」ならば「墜落」というよりは、漂流するイメージ、垂直運動(墜落)ではなく、水平運動なのだが、どうして墜落なのだろう。
 つづきを読むと、「墜落」のイメージが少し変わる。

それはもつとも大切なものが
たとえば帆柱の上で軋る滑車が
(魂の上でと言つてもいい)
そのたえまなく廻る滑車から帆が切り落とされたのだ

 嵯峨は最初から帆船を思い浮かべている。そして嵯峨自身は「帆」になっている。「帆」なって「時の海」を航海する船を動かしている。「帆」が落ちてしまうと帰れない。「櫂」だけでは航海はできない。
 おもしろいのは、「帆柱の上」の滑車を、「魂の上」と言いなおしていることだ。
 実際の「航海」、ほんとうの帆船での航海ではなく、「魂」の航海なのだ。
 「魂」を手放したら「墜落」する、と嵯峨は言いたいのかもしれない。

どんな大きな櫂で漕いでいつても
ついにもとの港には帰れない

 「魂」が航海をするのは「もとの港に帰る」ため、とも嵯峨は言いたいのだろう。詩とは魂の航海のことであり、それは最初の「港」に帰るためのもの。「大きな櫂」を漕ぐのが「肉体」なら、「肉体」よりも「魂」を重視している、ということになるのかも。
 しかし、詩は「論理」ではないから、こういうことは厳密に考えても意味はないだろうなあと思う。
 たっぷりと風をはらんで帆を輝かせ、港へ帰る船--そういう理想をもって「時」のなかを動いているイメージをぱっとつかみ、そこから帆が「切り落とされる」や「墜落する」という感覚に「肉体」を重ねれば、嵯峨に出会えるのだろう。

7 夜

 書き出しがかわっている。

それほどの夜中

 「それほどの夜中」の「それほど」がわからない。「それ」ということばは、「それ」以前に何かが書かれていて、それを受けることば。先行することばがないので、何のことかわからない。
 わからないけれど、はっとする。何?と疑問が浮かぶ。ふつうはこんな言い方をしないとも思う。ふつうじゃない。
 ふつうじゃないから、詩。詩は変わっているのだ。ふつうの言い方ではないえないから詩になる。詩になってしまう。
 ひとはしかし、大事なことは何とか言いなおそうとする。

それほどの夜中
夜夜をどれほどつみかさねても到達できない夜中

 言いなおされたといっても、よくわからない。よくわからないけれど、あれやこれやの「夜」を思い出す。夜の全部を思い出す。でも、わからない。

到達できない

 この否定形が「わからない」の原因かもしれない。作者が「到達できない」なら読者である私はもっと「到達できない」--はずなのだが、不思議。「わからない」はずの「到達できない」という感じだけは「わかる」。
 何かにたどりつこうとする。けれど、そこへたどりつけない。たどりつくまでに、とても苦労する。こういう「肉体」の感じ、あるいは「精神」の感じは、体験したことがある。何かをしたいけれど、それが達成できない。それは、いつでも体験していることだ。それを思い出す。
 この「できない」がいっぱいつまった「夜」。

 先に読んだ「時」にも「帰れない」という否定の動詞があった。「別離」の「できるなら/ぼくはそこでその全部を暗誦したかつた」も「暗誦できなかった」だろう。
 「できない(不可能)」と向き合い、不可能ゆえにもがく--それが「青春」の記憶を刺戟する。青春の肉体をくすぐる。
 「できない」を別な表現で言うなら「墜落(する)」かもしれない。

ああ その暗闇の底へ堕ちたぼくをもう一度救いあげてくれ

 三行目に出てくる「堕ちて」は「時」の三行目の「墜落する」に重なる。「時」の「墜落する」の「主語」は「魂」と言いなおされていた。
 「魂」は「墜落する」、そしてほんとうのことが「できない」。その不可能を感じながら、なお、それをめざす--魂のほんとうの姿(元の港/純粋な魂)をめざす。そういう魂の運動を嵯峨は象徴詩として書いている。

嵯峨信之全詩集
嵯峨 信之
思潮社
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さとう三千魚『はなとゆめ』

2015-02-06 09:52:41 | 詩集
さとう三千魚『はなとゆめ』(無明舎出版、2014年10月30日発行)

 さとう三千魚『はなとゆめ』の作品は繰り返しが多い。「野外」という作品。

カタバミの花 咲いた
カタバミの花 咲いたの

きみのいない庭のアマリリスの鉢から

咲いた
咲いたの

カタバミの花

咲いたの

細い茎の先の
先に

むらさき色の花のひらいて

むらさき色の小さな花をひらいて
ひとつふたつみっつ

ひらいて

 書かれている「事実」は単純である。「きみのいない庭のアマリリスの蜂からカタバミの花が咲いた。むらさき色の小さな花である」ということが基本的な事実。なぜ、ほとんど同じことばで何度も繰り返すのか。
 対話なのか。ひとりが「カタバミの花が咲いた」と告げる。それをその花を実際にはみることができない人が「カタバミの花が咲いたの」と繰り返すことで、告げてくれた人が見ている世界を想像している。たとえば「きみ」はいま何らかの事情(病気や何か)で庭を見ることができない。その「きみ」に詩人は庭の様子を報告する。「きみ」はことばを繰り返すことで、自分が見た花の姿を思い出している。詩人といっしょに花を見たときのことを思い出しているのか。
 しかし、この詩は、もっと切羽詰まっている。
 詩人の孤独な対話かもしれない。「きみ」はいない。詩人はひとりだ。庭にカタバミの花が咲いた。その「事実」をことばで反芻する。最初に「カタバミの花 咲いた」というときは、「事実」、外の世界、客観的風景の描写だが、次にそれをくりかえすとき、それは「外の世界」ではない。詩人の「内部の世界」である。
 それは最初の3行目に象徴的にあらわれている。

きみのいない庭のアマリリスの鉢から

 「きみのいない」庭。きみがいてもいなくてもカタバミの花は咲いている。その「事実」はかわらない。「きみのいない」と書かなくても、「きみがいない」という「事実」はかわらない。
 「いない/ない」というのは、「客観」のように見えて、「客観」ではないのかもしれない。「いる/ある」は、その「事実」を描写することで証明できるが、「いない/ない」は簡単ではない。「きみ」という存在を知っていないければならない。「きみ」の存在を知らないひとは「きみのいない庭」とは言えない。
 さとうが見つめている庭は、「安倍首相のいない庭」と言っても「きみのいない庭」と言っても、さとう以外には同じに見える。「きみ」を知っているからこそ、「きみ」をおぼえているからこそ、さとうは「きみのいない」庭、という。
 「きみ」をおぼえているからこそ始まる、さとうの「内部の世界」なのだ。
 「きみのいない」ということばが書かれていないときも、くりかえされる2行目で、さとうは「きみ」を感じながら世界を見ている。

細い茎の先の
先に

 この不完全な(?)繰り返し、同じことをくりかえせずに、その一部だけを繰り返してしまう切実さは、後半に別の形でくりかえされる。
 ひとは大切なことは何度でもくりかえす。「事実」をことばでくりかえし、「内部」の世界にし、その内部の世界をていねいにととのえる。

むらさき色の小さな花ひらいて
消えていったの

消えていくものは

細い茎の先のむらさき色の花ひらいて
細い茎の先の小さなむらさき色の花ひらいて

先なるものと
より先なるものと

なってきみは消えていったの

消えていくきみがいたの

いくつも消えていくきみがいたの
いくつもいくつも消えていくきみがいたの

消えていくきみをしずかにささえていたの
消えていくきみをしずかにささえていたかったの

 「きみ」は「いない」のではなく、「きみ」は「いた」。そして「消えていった」だから、さとうはことばをくりかえすことで「いま/ここ」の「事実」を確かめているのではなく、「いま/ここ」を「きみのいた」時間へとつないでいるのである。
 突然いなくなるのではなく、そこにいながら少しずつ消えていく。何かが牛縄もテイク。「先」を残して、少しずつ消えていく。その「先」までの長い時間。最後まで「先」にあるのは、「きみ」がみせる懸命の笑顔の「花」かもしれない。
 さとうの「内部」にはいつも「きみ」がいる。その「きみ」が「いる」世界へ「いま/ここ」をしっかりと結びつけるために、同じことばをくりかえす。「先」から「元」へかえるように。
 ときには、同じことばをくりかえす余裕がなくて、急いで、急いで急いで急いで、そのいちばん重要なことばだけをくりかえす。
 さらに「ささえていた」に「ささえていたかった」という自分の「欲望/願い/願望」をつけくわえる。
 かなうことのない祈りのように。

 あ、くりかえしは「祈り」だったのだ。

はなとゆめ―詩集
さとう三千魚
無明舎出版

谷川俊太郎の『こころ』を読む
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彼、

2015-02-06 00:42:47 | 
彼、

彼はいつも二本の鉛筆を同時につかう。
濃くやわらかい鉛筆と薄く硬い鉛筆を重ねてスケッチする。
曲線を描くとはみ出していく輪郭と隠れる影が交錯する。
顔にひそんでいた欲望は、ある瞬間ははじき出され、別の瞬間はおびえる。
唇は甘い舌のように乱れ、拒絶をなめるように誘う。
眼は他人のような嘘とあからさまな真実を受け入れている。
それは自画像なのか、恋人の肖像なのか。

*

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渡会やよひ「かたぎり君の家」

2015-02-05 10:27:31 | 詩(雑誌・同人誌)
渡会やよひ「かたぎり君の家」(「蒐」3、2015年01月05日発行)

夜更けに隣室のNが
「かたぎり君の家に行くので一緒に行って」と言う

 そして、ついていくのだが。行ってみると、かたぎり君の弟が「うちの温室見てみない」と誘う。

「シダ類ばかりさ。オシダ、シケシダ、クジャクシダ」
説明を聞きながら後をついていく
床にはホースのようなものが這い
蒸気の漏れる音もして足もとがおぼつかない
レースのようなシダの葉はどれもよく似ていて
種類も影も判別がつかない
「ベニシダ、シシガシラ、おなじみのスギナやトクサもあるよ」

 シダについては私は何も知らない。だから名前をならべられても、区別がつかない。知らないことは調べるべきだと私はいつも叱られるのだが、調べたって、わからない。「そうか、これがオシダか」と図鑑を見たところで、次の瞬間には忘れている。身に付かない。身に付かなかったことは、私は「知った」とは言わない。
 この詩では、むしろ「知らない」ということが大事でもある。
 「わたし(渡会、と仮定しておく)」はシダについて何も知らない。知らないから「レースのようなシダ」ひとまとめにして「よく似ている」という感想が生まれる。「わたし」に「わかる」のはかたぎり君の弟が「説明してくれている」ということである。かたぎり君の弟は、「わたし」とは別な世界を識別している。その「別な世界」を「わたし」は知らない。このときの「違和」が、ここに書かれていることである。「別な世界(シダの世界)」を知ってしまえば、「違和」は消える。(また別の「違和」が生まれるかもしれないが。)だから、読者は、ここでは「知ってはならない」「調べてはならない」。「知らない」ということを「わたし(渡会)」と共有しなければならない。
 他人が熟知した世界を、知らないまま進んで行くと、どうしても「違和」が拡大して、そこに別な世界があらわれてくる。

天井の暗い照明がまるでまるい月だ
アンリ・ルソーの絵の中に迷い込んだようだ
ではふくらはぎに巻きつくものがあるわたしは蛇使いなのか

 こういう「違和」は忘れることができない。「肉体」はいつまでも、それをおぼえている。だから、

それからすぐにNはかたぎり君と別れ
わたしは引っ越した
Nの消息はずっと不明だが
かたぎり君の家はまだあるような気がする
かたぎり君とかたぎり君にそっくりな弟もいるような気がする

 ふつう、だれかと交流がなくなっても、その人がいなくなったとは思わない。死んだとは思わない。生きているとも意識はしないが、死んだとはめったに思わない。だから「いるような気がする」とも、思わない。「N? 知らない。生きてるんじゃないの」くらいのことしか思わない。
 でも、渡会は「いるような気がする」と書く。
 「いる」は「生きている」ということなのだが、そこから「生きて」が欠落して、「いる」。「存在」という概念が、微妙な形で浮かんでくる。
 どこにいるのか、どの街にいるのか。
 それは「わからない」が、渡会は「わたし」の中に「いる」と感じているのだ。「わたし」の「肉体」のなかに、あの温室があり、シダを説明する弟が「いる」。「わたし」の「肉体」は「おぼえている」。「肉体」にこだわるのは、「渡会」は弟とシダ(温室)を「ふくらはぎ」の記憶としても持っているからである。単なる「記憶」ではない。「蒸気の漏れる音」を聞いた、その耳。「足もとがおぼつかない」まま歩いた足。そして、ふくらはぎ。思い出すのは、いつでも「肉体」がおぼえていること、何かをおぼえている「肉体」そのものである。「肉体」が遠い記憶(過去)といまを「ひとつ」にしている。「肉体」は「ひとつ」であり、それが「ひとつ」であるということが、過去といまを「ひとつ」にする。そして、その「ひとつ」のなかに過去といまがあるという不思議さが「違和」を呼び覚ます。

かたぎり君の家はまだあるような気がする
かたぎり君とかたぎり君にそっくりな弟もいるような気がする

 この二行は強くて、おもしろい。Nについては「肉体」はいっしょについて行ったこと以外にはおぼえていない。そこに「特別な世界」があるわけではない。だから「消息は不明」ということばですますことができる。その違い--その違いのあらわれかたがおもしろい。

途上
渡会 やよひ
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嵯峨信之を読む(4)

2015-02-05 09:27:46 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
4 別離

できるなら
ぼくはそこでその全部を暗誦したかつた
(生きた日のかぎりを)
それからプールの縁に桜草をいつぱいに植えて行きたかつた
わらべ唄をうたい
遠い日の子供になつて

 幼い日の、だれかとの別れを描いているか「生きた日」ということばから、だれかの死の思い出かもしれない。
 三行目は二行目の言い直し(補足説明)だが、「全部」と「かぎり」という反対のことばが対になっているところに詩を感じた。「全部」は「限定」しないから「全部」。それに対して「かぎり」は「限定」。限定なしと限定が向き合っているのだが、「生きた日のかぎり」ということばが死を連想させ、「全部」の方が「その」という限定をうけているにもかかわらず、言い尽くせない感じ、「かぎり」を超えてどこまでもひろがる印象を引き起こす。「全部」には果てがない。「かぎり(限定)」をしようにも、それができない。どんどん増えていく。増えていくものを「全部」暗誦することは不可能だ。
 そこから悲しみが生まれてくる。

5 イヴ以前の女

笑うことも
泣くことも
まだなに一つ知らぬ女の死顔の無限の寂しさに堪えられなかつた

 「ひとつ」と「無限」は反対のことばである。(「別離」の「全部」と「かぎり」のうように。)「死」と「無限」も反対のことばかもしれない。対極にあることばが一行のなかで出会っている。それは衝突であると同時に分裂でもある。
 こんなふうに「ことば」を文脈からとりはらって見つめることは「解釈」(詩の理解の方法)として正しくはないかもしれない。けれど、詩を読んでいて、こころがまず反応するのは「論理的な意味」ではなく、そこに動いていることばそのものに対してである。「ひとつ」と「無限」は反対のことばなのに、それが一行のなかに同居している。その不思議さに、いままで知っているつもりだった「ひとつ」と「無限」が揺さぶられる。そして、「ひとつ」と「無限」があいまいになったところへ、「死顔」「寂しさ」が結びついてくると、「無限」なのに「ひとつ」になってしまう。寂しさは果てしないのに、果てしないことによって「ひとつ」、どこまでもどこまでも「無限にひとつ」という形に結晶してくる。
 知っているつもりのことばが、知らなかったことばに変化していく。知らなかった(知らない)ものが、そのとき「知っている」に変わる。この「知っている」は、私の勘違い(誤読)かもしれないが、こんなふうに「誤読」することが詩を読むことだと思う。
嵯峨信之詩集 (現代詩文庫)
嵯峨 信之
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街角は次々に

2015-02-05 00:53:10 | 
街角は次々に

街角は次々に配置される。
秘密の入り口として。よこしまな隠れ家として。
曲がってはならない。
通ってはならない。
否定のことばが角を曲がり、
枝分かれして、入り乱れた角を増やしていく街。
目を向けるたびに、
拒否が密生する。
来るところじゃない。
扉を開けてはならない。
だが己の声を聞く人間は知っている。
街角はいつでも、こころのように、
隠れるふりをしてあらわれ、
隠れながら誘う。


*

谷川俊太郎の『こころ』を読む
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池井昌樹「キス男」、早矢仕典子「空の部屋」

2015-02-04 21:29:33 | 詩(雑誌・同人誌)
池井昌樹「キス男」、早矢仕典子「空の部屋」(「no-no-me」21、2015年02月08日発行)

 池井昌樹「キス男」は小学校のときの思い出。小学校に入ると池井はキス男になった。だれかれかまわずキスをする。友達がいなくて「淋しいんだよおッ」と心の中で叫びながら、人を追いかけていた。ある日、母がいっしょに風呂に入ろうと誘い「あんた、キス男と呼ばれとるんか。なんで、そう呼ばれとるんや」と問われる。答えることができない。「久々に目にする母の子宮筋腫の縫合跡が妙に痛々しかった」と思い出している。そして、そのあと、

                        私のキス
男には、どうやら父からの遠因があったらしい。小心で内弁慶
の父は酔って帰ると必ず幼い姉や私を追い回し酒臭いキスをし
た。鬱陶しくもあったが、あの頬ずりのザラザラ感は満更でも
なかった。私は千の父になり代わって、千の息子や娘らを追い
回していたのだった。淋しいんだよおッ。心の中で叫びながら。
その父も逝き、その息子は父となり、やがてその息子らも去っ
てゆき、いまは誰一人いない放課後の校庭に、しかし、キス男
はいまも佇っているのである。

 父の思い出になる。
 ふーん、これが、詩? 詩ではなく、単なるエッセイかもしれないなあ。
 「私は千の父になり代わって、千の息子や娘らを追い」という部分の「なり代わって」と「千」が池井の書きたかったことかもしれない。そこから、いろいろなことを書けるかもしれない。でも、それは書きはじめると、きっとうるさくなる。どうしても「理屈」になる。
 それよりも、「あの頬ずりのザラザラ感」がおもしろい。「千」とか「なり代わる」とかいう「抽象」を押しやって、直に「肉体」に触れてくる感じがいいなあ。「ザラザラ」というくらいだから気持ちがいいものではないのだけれど、いやだからこそ、それが許される「肉親」の親密感が濃くなる。いやなことも許せるというのが「肉親」なのだ。
 「酒臭い」も嫌い、「ザラザラ」も嫌い。その嫌いが「肉体(嗅覚/触覚)」に直に触れてくる。そのとき嫌いだけれど、「淋しい」は入り込まない。「酒臭い」や「ザラザラ」を感じているとき、池井は「淋しい」とは思っていない。(そこに、不思議な「至福」がある。)
 池井は「淋しい」と感じる余裕がない。だから、そのときは父が「淋しい」と感じていたとも思っていない。
 だが、池井が父親になって、息子も池井の元を離れて、「淋しい」と感じはじめたとき、その「淋しい」が父親を呼び戻す。酒臭い息を吐きかけ、ザラザラの髭面を押しつけることのできる誰かが欲しくなる。自分もそれをしたい。昔はわからなかったことが、いまは、わかる。--その「わかる」につらなって「キス男」の日々が思い出される。「わかる」のまわりで、過去がことばにととのえられていく。
 「わかる」を繰り返して、ことばにする。「おぼえている」ことをことばにして反復する。ことばのなかへひっぱり出してきて、ととのえる。
 詩は、この書くという行為そのもののなかにある。--こういうことは一篇の詩だけではなかなかわかりにくい。詩集になったとき、それが鮮明に見えてくると思う。



 早矢仕典子「空の部屋」には、とても魅力的な行がある。

昨日も開いていた 扉がある
今日も もしやと見れば
開いている 不自然なほど 大きく

角の部屋なので
少しずつ 空に近くなっていた
いよいよ今日は 空き部屋になるらしく

 「空」が侵入してくる感じがいい。詩はこのあと「女」が出てくる。女を出さずに「空」を主語(主役)にしてしまった方がおもしろいように感じる。


詩集 空、ノーシーズン―早矢仕典子詩集
早矢仕 典子
ふらんす堂

谷川俊太郎の『こころ』を読む
クリエーター情報なし
思潮社

「谷川俊太郎の『こころ』を読む」はアマゾンでは入手しにくい状態が続いています。
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嵯峨信之を読む(3)

2015-02-04 20:21:39 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
3 ノアの方舟

 詩はいつでも奇妙なことばといっしょにやってくる。知っていることばなのに、知らない。ことばは知っているが、こういうつかい方は知らなかった、という驚きといっしょにやってくる。


眠つているぼくを起こしにくるのは
どこかの水平線だ

 「水平線」は遠くにあって、それが「くる」ということはありえない。しかし、「起こしにくる」は、どうだろうか。論理的には「くる」ことができないのだから「起こしにくる」もありえないはずである。
 しかし、それならなぜ、この二行で私ははっと驚いたのだろうか。
 ただ「くる」だけではなく「起こしにくる」には「くる」を上回る強さがある。その強さに圧倒されて、「起こしにくる」という動詞を中心にことばを読み直してしまう。「頭」ではなく「肉体」が反応してしまう。
 「起こしにくる」は、起こす「ために」くる。そこには「意思」のようなものがある。「水平線」に「意思」はないだろうが、人間には「意思」がある。そのため「起こしにくる」ということばを読んだとき、「起こしにくる」の主語は「人間」だと思ってしまう。何かを「するために」何かをする。違った動詞を「ひとつの肉体」でつないで実行した記憶がよみがえり、そこに「人間」を浮かび上がらせる。「動詞」の「主語」を、複合動詞を動くことができる「人間」と感じてしまう。
 この詩では「人間」は「ぼく」しかいない。このため「ぼく」が「起こしにくる」ように感じる。「ぼく」が動いているように見える。「水平線」は、「ぼく」でもあるのだ。「ぼく」のなかの「何か」が「水平線」になって「ぼく」を「起こしにくる」--そんなふうに感じてしまう。「水平線」は「現実」の風景であると同時に、「心象風景」であるとも読んでしまう。「二重の世界」を私はさまよう。
 眠り、いや夢のなかで水平線が「現実」以上にあざやかに感じられて、その衝撃に目が覚めるということがあるかもしれない。何かの夢に驚いて、目が覚めた、という経験は誰にでもあると思う。そのとき、その夢に「起こされた」と言えるが、ここに書いてある「起こしにくる」は、そういう現象とどこかで重なりながらも、それを超えている。
 「起こしにくる」ということばのなかに「意思」を感じたときから、「ぼく」は「水平線」と区別がつかなくなる。
 眠っている「ぼく」を「水平線」が「起こす」のか、眠っている「水平線」を「ぼく」が「起こす」のか。いままで誰も書かなかった「水平線」を目覚めさせる(起こす)のか。「水平線」が「起きる」というのは「比喩」になるが、何か、そこから新しい世界がはじまる。これまでことばにならなかった世界がはじまる--そういう予感といっしょに、「ぼく」と「水平線」は互いの区別をなくして、いっしょに動いていく。

そのやわらかな水平線が
縫目のないしかたで遠くからぼくの瞼を撫でる

 「ぼく」は「水平線」になって、「ぼく」の「瞼」を「なでる」。あるいは「ぼく」が「水平線の瞼」をなでる。「水平線」を「瞼」という「比喩」にすることで、「ぼくの瞼」は同時に「水平線」になる。水平線が瞼の比喩か、瞼が水平線の比喩かわからないが、ぴったり重なった感じが、「水平線」が「起こしにくる」のに、現実へと目覚めるのではなく、逆に「夢」の内部へ目覚める、夢の錯乱のなかへより深く入り込んでしまうという感じを与える。
 この詩は、そういう不思議な錯覚をとおって、次のように動く。

それでもぼくが目ざめなかつたら
ノアの方舟の鐘を鳴らして起こされるだろう
ぼくのはるかな記憶を利用して
その背後(うしろ)にひろがる緑の反響(こだま)で
だがぼくはなお目ざめない
しずかなしずかな瞼の中をどこまでも漂流していく

 この数行は「論理」を追いかけても、あまり意味はない。瞬間的に浮かぶイメージのなかで、「論理」を捨てる。「論理」的に考えない。「意味」を特定しない。
 海(水平線)と夢が触れ合って、明るい水平線の果てまで漂流していく。そういう「印象」をもてばいいのだろう。「論理」を考えずに、あっ、この錯乱は詩でしかないなあ、と思えばいいのだろう。
 定義を超えて、詩を感じる--そのときの「感覚」(感じること)が詩という「動詞」のあり方なのだろう。

ぼくには遠ざかるものしか
まだ来ていない

 「論理的」に考えると、この二行は「でたらめ」である。「論理」に反している。「遠ざかる」と「来る」は正反対の動き。「遠ざかる」ものは「来る」ことができない。
 遠ざかっていくものを見ながら、これまで「ぼく」の方へやってきたものは、みんな遠ざかっていく、ということでもない。
 ここでは「具体」ではなく、「遠ざかる」という動き「来る」という動きがある、世界には「遠ざかる」ものと近づいて「来る」ものがある。「遠ざかる」という運動(動詞)と「近づいて来る」という運動(動詞)がある。
 その矛盾が、ひとりの詩人のなかで動くとき、どうしてもはっとしてしまう。「矛盾」なのに、ひとは(私は)それをすることができる。遠ざかることも、近付くこともできる。どの方向へ動くかは「絶対的」ではないのだ。
 「絶対的ではない」ということが「絶対」なのだ。
 
 「矛盾」を描き、同時にその「矛盾」のどちらかを選び取るのではない。むしろ、「矛盾」そのものを選び取る。そこに詩がある。矛盾でしか言い表せないものが、詩なのである。
 2連目は、そういうことを「理屈」ではなく「具体的」にことばにしている。「論理」は「具体」に触れ、その「矛盾」のなかで「真理」になる。「論理」の「理」を「具体」で隠して、真(まこと)に変えるのが、詩。「具体」は「矛盾しているという指摘(論理)」を「矛盾」として抱え込み、真(まこと)に変わる。

ぼくは眼を刳りとつた
心をぼくにしかと釘づけするために
ぼくは耳をおもいきり削いだ
たれからも全くぼくが自由であるように
ぼくは唇を縫い合わせた
他から何一つ求めないために
ぼくは両足を断ち切つた
たれも行きついたもののない遠くへ行きつくために

 「矛盾」「不可能」のなかに、瞬間的に「詩(真=まこと)」がスパークする。「矛盾」を共存させる力が詩なのだろう。両足にこだわっていない。たどりつくということにこだわっていない。そのこだわりを破壊する瞬間に「行く」という運動のなかにある「真(まこと)」が世界をひろげる。

嵯峨信之全詩集
嵯峨 信之
思潮社
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デビッド・ドブキン監督「ジャッジ 裁かれる判事」(★)

2015-02-04 14:57:13 | 映画
監督 デビッド・ドブキン 出演 ロバート・ダウニー・Jr、ロバート・デュバル

 判事が裁かれる。それを息子が弁護する。アメリカ映画に多い「父子」ものの映画。それはそれでいいのかもしれないが、「家庭」の情報量が多くて、見ていて散漫になる。
 兄はけがで野球をあきらめ、弟には知的障害がある。ロバート・ダウニー・Jrは辣腕弁護士だが、父に愛された思い出がなく、対立している。ほんとうに「家庭(家族)」がテーマなら、母親を冒頭で死なせずに生かしたまま描かないと「家庭」の人間関係がご都合主義になる。母親はこの「家庭」をどんなふうにまとめていたのか。それが少しも描かれない。「家庭」の情報量が多いと最初に書いたが、逆なのだ。まったく描かれていない。ストーリーが優先されすぎている。
 途中に挿入されるロバート・ダウニー・Jrと高校時代のガールフレンドのエピソード。娘がいるが、父親は誰なのか、という部分など、あまりにもばかげた「情報」だ。情報のための情報。映画の時間稼ぎ。
 ロバート・デュバルががっしりした演技をしているのだが、からみあうのはロバート・ダウニー・Jrとだけ。ほかの家族、長男、末っ子とはきちんとした「対立」や「和解」がない。「共存」もない。だから「家庭(家族)」劇にもならない。
 ラストシーンの飴玉のエピソードなど、こざかしい短編小説のトリック(伏線あわせ)のようでしらけてしまう。ここで、ロバート・ダウニー・Jrと娘との伏線を生かすのなら、途中の娘と昔のガールフレンドの娘の同じ仕草のエピソードなど絶対に避けるべきである。
 こんな騒がしい映画(脚本)は最近では珍しい。
 みどころはひとつ。
 ロバート・デュバルがトイレで倒れる。それをロバート・ダウニー・Jrが介護する。糞尿にまみれ、風呂で体を洗う。そのときのロバート・デュバルの、身を任せきった老人の演技が真に迫っている。苦しみと、放心と、ゆっくりやってくる安心を全身と顔とで確実に表現する。名優だ。
     (2015年02月02日、ユナイテッドシネマ キャロルシティ・スクリーン4)






「映画館に行こう」にご参加下さい。
映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
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ジャッジ 裁かれる判事 ブルーレイ&DVDセット(初回限定生産/2枚組/デジタルコピー付) [Blu-ray]
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比喩

2015-02-04 00:44:48 | 
比喩

二月の月が空の天辺にのぼる時間、
私の部屋の窓から見えるビルの裏側にもう一つのビルがあって、
その三階の角の窓は破れている。
夜になるとその部屋のなかの闇は外よりも暗くなり、
壁に黒い穴が開いているように見える。
壁にまでたどりついた月の光は割れたガラスの縁のところで拒絶され、
部屋のなかに入ることができない。

その下の上り坂を通りながら、私は考える。
私が私の部屋にいて、私の窓からは見えないこの窓についてことばを動かすとき、
あの暗い穴は私の比喩だろうか。
それとも私があの暗い穴の比喩なのだろうか。

*

谷川俊太郎の『こころ』を読む
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2冊セットの場合は6000円(税抜、送料無料)になります。
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嵯峨信之を読む(2)

2015-02-03 10:50:50 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
2

 「心性」。「しんせい」と読むのだろうか。広辞苑をひくと「天性」という「意味」も書いてある。「こころの天性」、さずけられたこころ、か。生まれたままのこころ、本質としての、こころ。

自らを太陽に近づけるために
涯しない氷原へむかつて自分をおいやるものが
しずかにしずかに一日中
愛の糸車を廻している
そして今日
その糸で織られた大きな帆がいつぱい風を孕んで
海から運河の上を滑るようにさかのぼつてくる

 「太陽」と「氷原」は「矛盾」している。太陽に近づくには氷原とは反対の方向に進まなければならない。太陽から遠いから水は凍る。
 「論理」的に考えるならそうなるのだが、この二行は矛盾している、非論理的であるからこそ、「論理」以外のところに響いてくる。何かをするために反対のことをする。反対のことをして、反動でほんとうにしたいことをする。食べたいものをぐっと我慢して最後まで残しておいて、がつがつ食う。そういう「欲望」、あるいは「本能」のようなもの、だれもが肉体でおぼえていることばにならないものを、この二行の「矛盾」は刺戟してくる。
 「肉体」を直接刺戟することばではなく、「太陽」「氷原」という大きな世界のことばが、「肉体」を洗い清め、「矛盾」を美しくしている。
 「氷原」がどこにあるのか、この詩ではわからないが、「氷」のなかにある水が「海」「運河」という「水」になって動く。「さかのぼる」が「水源」を連想させる。「氷原」は「水源」のように、ある「原点」なのだろう。
 太陽(宇宙の頂点/中心)に近づくために、詩人は「原点」へ自分をおいやる。「原点」に到達すれば、そこに「太陽」があるかもしれない。「氷原」にある「太陽」、「氷のなかの太陽」というのは、これも矛盾だが、矛盾が「存在」を強烈にする。
 矛盾のなかで、ことばがいったん崩れ、そこから矛盾をのりこえる運動を探してことばが動く--そういう動きのなかに、詩があるのかもしれない。
 論理にこだわっていたのでは、詩は見えない。
 「太陽」は「氷原」はかけ離れている。そのかけ離れたものを、向き合った二行のことばのなかにつなぎとめる力、そのかけ離れたものの結びつきに驚く瞬間--そこにこそ詩があるのかもしれない。
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青山みゆき『赤く満ちた月』

2015-02-03 10:29:02 | 詩集
青山みゆき『赤く満ちた月』(思潮社、2014年10月30日発行)

 「赤く満ちた月」の2連目の

耳の奥が冷たい日は
ひとりはこわいねひとりはいたいんだね

 という2行が魅力的だ。「耳の奥」の「奥」にはっとする。ふつう、耳の端っこ(?)というか、外側が冷たい。特に冬は風があたると冷たいのだが、そうではなくて「奥」。肉体の「奥」というのは血が流れているからたいてい「あたたかい」はずなのに、そこが冷たい。
 この「冷たい」は次の行で「ひとり」ということばに置き換えられている。「孤独」である。「孤独」が「冷たい」。そして「こわい/いたい」。「肉体」の「奥」(内部)で「ひとり(孤独)」を感じている。このとき青山の「こころ」は「耳の奥」にある。

きれいに剥がせないラベルがかなしくて
買ったばかりのワイングラスを
床にたたきつけてやった

 途中に出てくるこの3行1連。「床にたたきつけてやった」というのは、私には納得できないものがあるのだが、「きれいに剥がせないラベルがなかしくて」は「耳の奥が冷たい」と同じように、とても美しく感じられる。
 なぜ、それが「かなしい」のか。
 その説明をしようとするとむずかしい。最初に引用した「ひとり」と呼応していると思う。「ひとり」でグラスのラベルを「きれいに」剥がそうとしている。「きれいに」にこだわる。こだわることが、それしかない。孤独。ひとり。そういう「肉体」が見える。

 「赤く満ちた月」というのは、いわゆる詩というか、まあ、詩らしい形をしている。そういう詩篇のほかに青山は奇妙な作品も書いている。「息を殺す」「昭和の女」「ゆびさきを見ている」。1行1行が長い。

言いそびれたことばのように置き去りにされた携帯が緑いろに点滅している
すべり台の後ろに隠れたまあくんを誰もさがしてくれない おかあさん、どこにいるの
魚が池の底で笑っている 兄が黙って壁の穴をのぞいている(もういいのでは)
仏陀のように西洋ナシはすでに天を黄金色に染めはじめている
                               (「息を殺す」)

 これは何だろう。
 それぞれの行が不定型(自由律)の短歌のように見える。最近の若い人の書いている短歌は、私には、「感性」自慢のようにみえて不気味である。「定型」があるので、そこにあてはめてしまえばどんな感性も短歌になると甘えきっていて、ことばに「論理」というものがないように思える。「論理」の「理」がないと、「真」がつかまえられない。「真理」にたどりつけないと私は思っている。
 青山の「一行詩」は、「五七五七七」という定型のかわりに「(論)理」を選びとっている。
 「言いそびれたことば」、どこかに置き去りにしてきたことば、それが「置き去りにされた」携帯へとつながり、その「携帯」のなかにはまた別のことばが「ある」。メールか、あるいはただの着信を知らせるだけの点滅かもしれないが、着信だけでメッセージがなくても、発信したときに言おうとした誰かのことばがある。それは、いま「言いそびれた」ことばとなって、点滅している。
 隠れんぼうで見つけてもらえない(さがしてもらえない)まあくん。それは、もしかすると忘れさられているのかも。いや、いじわるされているのかも。いじめかも。声に出せない不安。その不安の中で「おかあさん、どこにいるの」とこころのなかで訴える。声を出してしまえば、「隠れている」(隠れんぼう)の遊びが成り立たなくなる。その矛盾のなかで動くこころ。

ペイシーアで買ったアジを食べる土曜日 セブンイレブンで買った肉じゃがを食べる日曜日

 というような、今風の短歌短歌した一行もあるのだけれど。これは、あまりおもしろくない。

耳の奥が冷たい日は
ひとりはこわいねひとりはいたいんだね

きれいに剥がせないラベルがかなしくて
買ったばかりのワイングラスを
床にたたきつけてやった

 これを「一行詩(自由律短歌)」にすると、どうなるかな?
 行分けよりもおもしろくなる--というのは、私の「感覚の意見」。


赤く満ちた月
青山 みゆき
思潮社

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長い雨のあと

2015-02-03 06:00:00 | 
長い雨のあと

長い雨のあと、流れ込んできた泥で池の水は黄色く濁っている。
裸の木は濡れた黒い幹を逆さまに映している。
透明な水に映るときよりも、なまめかしい強さがある。

黄色い泥のせいかもしれない。
鏡が朱泥によってガラスの透明を失い、透明な反射を手に入れるように、
池は濁りを体内にためこむことによって
つややかな色を水面にひろげる。

共犯、ということばが割り込んでくる。いま、ここにはない比喩と結びつき、
意味をつくりたがっている。その欲望。
しばらく放っておいて、まだ放っておく、そしてことばは少し引き返す。

水中をまさぐるように幹から分裂して潜っていく黒い枝の間には
灰色の空がやはり逆さまに映っている。
この空が逆さまに映るということばは、つまらない観念か、
あるいは発見か。

うまくいかない--詩にならない。
共犯の方へついていけばよかったのか。
コンビニエンスストアで買ってきたエッグサンドを噛み散らしながら
ことばは考える。考えをやめるためには
石でも投げ落として池のそこからさらに濁った泥を噴き上げさせるしかない。


*

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リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
ヤニス・リッツォス
作品社

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