8 火
「火」という作品は不思議だ。「火」は「愛」のことだ、「無償の愛」について書いていると直感的に感じる。
「だが零(ぜろ)のように空しさをもつてお前を庇い/あらゆるものからお前を拒むのだ」の「空しさ」と「拒む」につまずく。
何も求めない、無償だから「零」。だが「無償の愛」の「無償」と「空しい」は同じだろうか。「零」と「空しい」は通じるものがあるかもしれないが、「無償」と「空しい」を同じと考えることは私にはできない。
無償の愛でお前を「庇う」ということはわかるけれど、「空しさをもつて」がわからない。「庇う」と「拒む」の関係もわからない。「庇う」のは「守る」ためである。
もしかすると、「拒む」ことが「庇う」こと?
いろいろの人がお前に愛を捧げるかもしれない。それらの愛は無償の愛ではない。そういうものを、「わたし」は「無償の愛」で撥ねつける。愛の防禦壁(庇)になるというのだろうか。
そうだとしたら、この「理屈」はややこしいなあ。
私の読み方は「誤読」かもしれない。「誤読」であっても、かまわない。「正解」よりも、これは何だろう、と考えること、考えながら自分のことばを見つめなおすことの方が大切なのだと私は思っている。
ある日、あ、あれはこういうことだったのかと突然気が付くかもしれない。それまでは、無償の愛で他人からお前を守る--そういうことが書いてあるのだと想像しておく。
それに答えるように、お前は素裸で「わたし」を迎えている。
最後の「はてしれぬ」がいいなあ。「無償」(零)に対して「無限」。零だけが無限に近付くことができる--というのは「矛盾」だが、その「矛盾」は「零の空しさをもつてお前を庇い/あらゆるものからお前を拒む」という表現の複雑な何かと拮抗する。
この一行は
大きな鳥が舞い降りてわたしと死との深い谷底から(その火を)拾いあげたのだ
ということだと思って読んだが、このいりくんだ構文、順序が逆(?)の構文も、そういう複雑な拮抗と響きあって、ことばを「流通言語」ではなく、詩にしているように思える。
よくわからないのだけれど、その「わからない」のなかには何か「わかる」と錯覚するものがあって、それが私に響いてきて、私をゆさぶる。その揺さぶられた瞬間に、揺さぶられるまでは見えなかった何かが見える--見えると錯覚し、それを探したいという気持ちになる。
私は、そこに詩があると思う。
9 死
この作品にも、ふつうの文章とは違った「構文」が出てくる。
三行目の「ひれ伏してはいないが」の「が」のつかい方が、少し変だなあ。微妙だなあ。ひれ伏してはいないが、征服しているわけでもない。その唯一の責任者から離れている。距離をとっている。その人から「遠ざかる道のはずれに立つている」ということか。
そうであるなら。
「征服しているわけでもない」ということばが省略されていることになる。なぜ、省略したのかな? 「死」はけっして制服でいないもの、人間の必然だからだろうか。「ひれ伏す」の反対、「征服する」というような動詞はなじまないというこころが働いているのだろうか。明確なことばにしたくない、する必要はないという思いがあるのかもしれない。
あるいは……。死こそが「生きる」を証明できる。これは逆説だが、たしかに死ぬからこそ生きている、生きているものだけが死ぬことができる。これは、しかし、何かさむざむしい「論理」でもある。
「塔」とは「論理」をつらぬく「精神」の運動だろうか。「論理」は「魂」ではないだろう。魂は「論理」の周りを吹いている寂しい風なのだろうか。「時」のなかに出てきた「魂」ということばを思い出しながら、そう考えた。
「火」という作品は不思議だ。「火」は「愛」のことだ、「無償の愛」について書いていると直感的に感じる。
二度と消さないでくれ
わたしの中からお前の中へうつす小さな火を
それはこの世にただ一つしかない火だ
わたしと死との深い谷底から大きな鳥が舞い降りて拾いあげたのだ
その小さな火は
お前に何も求めない
だが零(ぜろ)のように空しさをもつてお前を庇い
あらゆるものからお前を拒むのだ
いま素裸のお前は
その火をかかげて階段に立つている
はてしれぬ二階につづいている階段の上に
「だが零(ぜろ)のように空しさをもつてお前を庇い/あらゆるものからお前を拒むのだ」の「空しさ」と「拒む」につまずく。
何も求めない、無償だから「零」。だが「無償の愛」の「無償」と「空しい」は同じだろうか。「零」と「空しい」は通じるものがあるかもしれないが、「無償」と「空しい」を同じと考えることは私にはできない。
無償の愛でお前を「庇う」ということはわかるけれど、「空しさをもつて」がわからない。「庇う」と「拒む」の関係もわからない。「庇う」のは「守る」ためである。
もしかすると、「拒む」ことが「庇う」こと?
いろいろの人がお前に愛を捧げるかもしれない。それらの愛は無償の愛ではない。そういうものを、「わたし」は「無償の愛」で撥ねつける。愛の防禦壁(庇)になるというのだろうか。
そうだとしたら、この「理屈」はややこしいなあ。
私の読み方は「誤読」かもしれない。「誤読」であっても、かまわない。「正解」よりも、これは何だろう、と考えること、考えながら自分のことばを見つめなおすことの方が大切なのだと私は思っている。
ある日、あ、あれはこういうことだったのかと突然気が付くかもしれない。それまでは、無償の愛で他人からお前を守る--そういうことが書いてあるのだと想像しておく。
それに答えるように、お前は素裸で「わたし」を迎えている。
はてしれぬ二階へつづいている階段の上に
最後の「はてしれぬ」がいいなあ。「無償」(零)に対して「無限」。零だけが無限に近付くことができる--というのは「矛盾」だが、その「矛盾」は「零の空しさをもつてお前を庇い/あらゆるものからお前を拒む」という表現の複雑な何かと拮抗する。
わたしと死との深い谷底から大きな鳥が舞い降りて拾いあげたのだ
この一行は
大きな鳥が舞い降りてわたしと死との深い谷底から(その火を)拾いあげたのだ
ということだと思って読んだが、このいりくんだ構文、順序が逆(?)の構文も、そういう複雑な拮抗と響きあって、ことばを「流通言語」ではなく、詩にしているように思える。
よくわからないのだけれど、その「わからない」のなかには何か「わかる」と錯覚するものがあって、それが私に響いてきて、私をゆさぶる。その揺さぶられた瞬間に、揺さぶられるまでは見えなかった何かが見える--見えると錯覚し、それを探したいという気持ちになる。
私は、そこに詩があると思う。
9 死
この作品にも、ふつうの文章とは違った「構文」が出てくる。
ぼくに許すことのできる唯一もの
生きることを証明する唯ひとりのたしかな責任者
ぼくはその前にひれ伏してはいないが
そこから何処ともなく遠ざかる道のはずれに立つている
三行目の「ひれ伏してはいないが」の「が」のつかい方が、少し変だなあ。微妙だなあ。ひれ伏してはいないが、征服しているわけでもない。その唯一の責任者から離れている。距離をとっている。その人から「遠ざかる道のはずれに立つている」ということか。
そうであるなら。
「征服しているわけでもない」ということばが省略されていることになる。なぜ、省略したのかな? 「死」はけっして制服でいないもの、人間の必然だからだろうか。「ひれ伏す」の反対、「征服する」というような動詞はなじまないというこころが働いているのだろうか。明確なことばにしたくない、する必要はないという思いがあるのかもしれない。
あるいは……。死こそが「生きる」を証明できる。これは逆説だが、たしかに死ぬからこそ生きている、生きているものだけが死ぬことができる。これは、しかし、何かさむざむしい「論理」でもある。
あらゆるものを向うへ押しやつて
そのまま立ちつくすぼくはなんだろう
それをただの一つの塔と言えば
その周りを吹いている風はなんと言えるだろう
「塔」とは「論理」をつらぬく「精神」の運動だろうか。「論理」は「魂」ではないだろう。魂は「論理」の周りを吹いている寂しい風なのだろうか。「時」のなかに出てきた「魂」ということばを思い出しながら、そう考えた。
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