惑星ダルの日常(goo版)

(森下一仁の近況です。タイトルをはじめ、ほとんどの写真は交差法で立体視できます)

『そもそも植物とは何か』

2021-09-26 20:53:47 | 本と雑誌

 積読本がひとつ片付きました。フランスの哲学者フロランス・ビュルガの『そもそも植物とは何か』(田中裕子訳、河出書房新社2021)。

 市民農園で野菜を作ったり、このところ植物との付き合いが深まり、植物という存在をあれこれ考えてみたいと思っていた時に目についたのがこの本。
 哲学者が考えるというところが、植物学者の書いたものとは違っておもしろいかもしれないという気がしました。トマス・ネーゲルの名著『コウモリであるとはどのうようなことか』(永井均訳、勁草書房1989)を楽しんだことも少し頭をよぎったかも。

 タイトルどおりの内容なのですが、たぶん、著者にとってこのテーマを選択したきっかけのひとつには、最近、「植物を虐待していいのか?」などと、あたかも植物が苦痛を感じる生きものであるかのような論調が一部に出てきていることがあるのではないでしょうか。そして、もうひとつは環境問題の中で植物が果たす役割が大きいので、そこを改めて指摘したいと考えたのでは。

 著者は、動物と比較して、植物がどのような生きものであるかを考えるところから出発します。バクテリアや菌類も比較の対象にした方がいいのでは、とも思いましたが、ま、ここらあたりは哲学的伝統にのっとっているのでしょう。
 著者は次のようなヘーゲルの考察を紹介しています――

……植物には真の内面性がなく、真の性的関係を持たないのに加え、運動機能もない。そのため、自分で決めたのではない場所に根を下ろしたが最後、そこから逃げだすことはできない。(中略)運動機能がない植物は、今いる場所の特殊性に気づかない。もし、植物がその場所から逃げだして、外の世界との連続的な関係を断ちきれれば、真の主観性をもつ生物として存在するようになるだろう。つまり太陽光のなかで、自らの外側に探しあてた「自己」を内面化できるようになるのだ。

 植物の「内面性」や「主観性」はともかく、「真の性的関係」をもたないかどうかは留保したいところ。胞子の運動や花粉と子房との出会いなどを見ると、強い性的関係を感じますし、花という器官の発達ぶりなどを見ても、動物とは別の「性的関係」への指向があるといえそうです。
 こういったことはヘーゲルに聞くより、現代の植物学者に聞くべきではなかったでしょうか。最新の科学的事実から出発して、植物と人間との関係を問いなおす方がよかったという気がしてなりません。

 あれこれ哲学者の植物に関する意見を参考にしたあげく、著者は「わたしたちと植物には何ひとつとして共通点がないのだ」と、いささか匙を投げているようにも見えます。
 けれども――

……人間と植物のこうした存在論上の断絶は、植物の美しさをわたしたちが「経験」することで乗り越えられる。(中略)わたしたちは、つねに超然としているその生命に触れると、心が落ち着いたり、やさしい気持ちになれたりする。

 このあたりが結論になるように思われます。
 うーん、植物とは何かについては、やはり自分で考えるべきかもしれません。

 夕方の散歩で見た、西の空。

 柏野小学校の南側の農道から撮影しました。灰色の層雲の彼方で、高層雲(?)が夕日を浴びています。この後、少しピンクに染まりました。明日は晴れるかな。


小松左京批判

2021-09-18 21:25:15 | 本と雑誌

 昨夜から時おり激しい雨が降るものの、風はほとんど吹かず。台風はその後、紀伊半島から太平洋に出て、午後3時に静岡県沖合で温帯低気圧に変わったとか。
 夜になっても雨は降ってますが、もう風の心配はしなくてよいのかな。ひとまず安心。

 午後はほとんどをオンライン会議に費やしました。
 『現代思想:総特集 小松左京』で読めたのは1編のみ。

 社会思想史を専門となさっている酒井隆史さんの「アパッチ族はメガイベントの夢をみない――「破局の精神史」のための断章」。これは『日本アパッチ族』を高く評価する一方で、『日本沈没』をはじめとするSF作品を書いたり、「花と緑の博物館」総合プロデューサーをつとめた小松さんを批判する内容。

 『日本アパッチ族』の読解にはいくつもの見事な指摘があり、よいヒントをいただきました。
 まとめの部分から引けば、『日本アパッチ族』を書いた小松左京は――

……コミュニストの残滓をいまだ保持する権力嫌い、あらゆる陣営の核兵器の撤廃を愚直に望む反戦主義者、そして階級闘争のタームで世界をいまだ分節していたであろう小松「左」京である。

 たぶんこの通りなんでしょうね。

 で、『日本沈没』や花博の頃になると――

 細心の注意で距離をとりながら大阪万博に参加した繊細な小松左京は、その二〇年後には中核からイベントを差配するようになる。その堂々たる態度からは、二〇年前の躊躇やためらい、理念に賭けた真正の怒りは消えている。それとともに、沈没や消失ものでは、アパッチ族では後景に退いていた「エリート・ネットワーク」のみが目立つようになり、大衆はといえば、ただパニックにまどうばかりの存在となるのである。

 この見方にもうなずけるものがあります。

 でも、小松さんの愛読者であり、さらに、じかに本人を知る者としては、どう反論、あるいは弁護すればいいのか、考えてみざるを得ません。
 そこには「革命運動」への距離感と日本というシステムがどう動いているかについての小松さんの考えがあると思うのですが、今ここで、すぐにはまとめきれません。


『現代思想:総特集 小松左京』

2021-09-17 20:36:28 | 本と雑誌

 台風14号は午後7時前に福岡県福津市付近に上陸。この後、四国、紀伊半島を横断して明日には太平洋へ抜けるとか。
 関東地方への影響はどうなんでしょう。とりあえず明日の天気予報は終日雨。

 風に備えて、植木鉢の対策をしました。
 鉢植えのブドウ苗2本が大きく育ち、高さ3メートルぐらいになっているのが心配。おいそれと動かすわけにもいかず、支柱をしっかり固定してみましたが……。

 昨夜はZOOM一の日会。あれこれいっぱい喋ってしまった。

 今日は雑誌『現代思想』10月臨時増刊〈壮特集 小松左京――生誕90年/没後10年〉を、あちこち拾い読み。
 読んだ記事の中では、日本の近現代史を専門としておられる山本昭宏さんの「終わる日本と終わらない日本――聖戦・革命・核戦争」の立論と内容に共感しました。
 第二次大戦と共産主義革命、核戦争への不安の三つが、小松さんの精神史において大きな影響を与えているというもので、取り上げられた小松作品、その解釈ともに感心。鋭い目をもつ人はいるものですね。


少女マンガ

2021-08-25 20:43:54 | 本と雑誌

 最高気温 33.9℃(隣町アメダス)。湿度も高く、耐えがたい暑さ。
 夜になっても気温は下がらず、午後8時現在30.2℃。寝苦しい夜になりそうです。

 夕方、5時過ぎの西の空。

 積乱雲が形にならず、ぐじゃっと崩れたような感じ。
 これでは今夜のひと雨は期待できそうにありません。昨夜は少し降ってくれて助かったんだけどなあ。

 〈SFマガジン〉10月号が届いたのでパラパラと。

 特集は「ハヤカワ文庫JA総解説 PART2[502~998]」。
 私も1冊担当しています(谷甲州さんの『星は、昴』)。

 他の記事で目を留めたのは長山靖生さんの連載「SFのある文学誌」。続けていた小酒井不木の項を中断し、少女マンガの話になっています。「萩尾望都『一度きりの大泉の話』にショックを受け、この機会に一九七〇年代のSF少女マンガについて検討したくなりました」とのこと。

 詳細は長山さんの文章にゆずりますが、読みながら私が思っていたのは1970年当時の少女マンガ全体のこと。
 あの頃、日本の少女マンガは革新というか、新しいジャンル発生の時期を迎えていたんですよねぇ。それをリアルタイムで追いかけることができたのは、本当にしあわせでした。
 大学に入ったばかりで、〈少年マガジン〉も〈少年ジャンプ〉も読まず、〈別冊少女コミック〉や〈りぼんコミック〉、〈月刊セブンティーン〉といった雑誌を買い漁っていたものでした。SFマンガに限らず、多くの新しいマンガ家たちがそれぞれの個性を発揮した作品を発表していて、その熱気に巻き込まれてしまったのです。
 田舎の叔父が上京した際に私の部屋を覗きに来て、「少女マンガの山がある!」とあきれたことでした。

 その頃、萩尾さんと竹宮恵子さんは共同生活をしながら仲良く大活躍していたものとばかり思っていました。
 そんなお2人の間に、ご両人が書かれたような事情があったとは最近まで知らずにいたのですが、「嫉妬と憧れ」という竹宮さんの言葉に納得し、表現者同士の(ありがちな)軋轢と受け止めたいと思っています。


買った本

2021-06-30 21:09:50 | 本と雑誌

 市民農園。今日は被害がありませんでした。
 他の畑も特にやられている様子はなかったので、ハクビシンは休養日だったのかな。

 午後、雨は大丈夫そうなので自転車を漕いでつつじヶ丘の本屋さん「書原」へ。
 ひさしぶり。たぶん2か月ぶりぐらい。

 いつものようにほとんど全部の棚を見てまわりました。書評の仕事が減ったので、あまり買わないつもりだったのですが、『ちばてつや追想短編集 あしあと』(小学館)など5冊を購入。
 本を読むのに時間がかかるようになり、いつになったら全部読み終えるのか、今から心配しております。

 とはいえ、どの本も一刻も早く読みたいものばかり。どれから始めるか?
 それを決めるために、買った本をパラパラ眺めるのはこの上ない楽しみ。

 フロランス・ビュルガ『そもそも植物とは何か』(田中裕子訳、河出書房新社)はフランスの女性哲学者が植物について考えたエッセイ集らしい。
 フランスの哲学者は変てこりんだというのは、私の印象に過ぎないのですが、植物を哲学するなんて、やっぱり変だとしか思えない。予想どおりの変な本なのでしょうか。

 リサ・フェルドマンバレット『バレット博士の脳科学教室 71/2章』(高橋洋訳、紀伊國屋書店)は、衝撃的だった『情動はこうしてつくられる』(同)の著者の「第2弾」。前著が脳に対する考え方を大幅に変えることを迫っただけに、この本も楽しみ。

 他の本もそれぞれ興味深くて悩ましいかぎり。