惑星ダルの日常(goo版)

(森下一仁の近況です。タイトルをはじめ、ほとんどの写真は交差法で立体視できます)

つつ

2005-10-09 20:40:31 | うんちく・小ネタ
 そうか「つつ」は星のことだという説もあるのか。

 昨日の日記に対する新城さんのコメントで、住吉大社の祭神の名に「筒」があり、星を表すかもしれないということを知りました。
 住吉さんの祭神「住吉大神」は次の三座の神々の総称だとか――

  • 底筒之男(そこつつのお)
  • 中筒之男(なかつつのお)
  • 上筒之男(うわつつのお)
 天文関係の民俗を調べている人たちはオリオン座の三ツ星がこの神々だといっているようです。その場合「つつ」は星を表すことになる。

 手元にあった岡田精司さんの『神社の古代史』(大阪書籍、1987年)によれば、かの『大日本地名辞書』の吉田東伍がこの説だったそうです。航海の目印となる星を神として祀ったのだ、と。
 しかし岡田氏は、「そこつつのお」は「底ツ津之男」であり、「津=港津」のことだと、かの(またいってしまいましたが)山田孝雄(よしお)先生がいち早く提唱し、「地名と神名」という論文を書いた青木紀元氏も「神名というものは基本的にはほとんど地名である」といっているとして、こちらの説を支持しているのです。つまり、「つつ」は助詞の「つ」+「津」のことだろう、と。

 森下としては、昨日の考察のつながりもあって、「筒」=「星」を断固支持しますね。

 また勝手な想像に頼りますが、唇を尖らせて「つつ」と発声するのは、いかにも小さな星の輝きを真似しているように見えます。バカバカしいと思われるかもしれませんが、こうした身体性と言語の関係は案外無視できません。
 この線で考えれば、「つ」と唇を尖らせた後「き」と横に引き結ぶのは、小さな星の光を広げたもの、すなわち「月」を意味するとみることもできます。

 なぜ「つつ」が消え、「ほし」が残ったのか。これまた勝手な想像ですが、日本民族が成立する過程で海洋民の言葉が稲作民の言葉に圧倒されたのではないか。あるいは「つつ」は海の民の隠語だったのかもしれない。

 以前から不思議に思っているのは、日本では星に関する言い伝えが異常に少ないのではないかということ。ほとんど七夕の話(これとて中国渡来のものですが)しかないといっていいぐらいです。なぜなのでしょう?
 もしかしたら何らかのタブーがあったのかもしれません。古代日本には天文博士もいましたし、朝廷での天文の研究は熱心におこなわれていました。ただし、それは天皇(=北辰……北極星)の天地支配を占うためのものであり、下々の者がうかつに関与することではなかったのではないか。だから、星についての話を一般人は語ることができなかったのではないでしょうか。

 ああ、また勝手な想像ばかりしてしまいました。
 新城さん、どうもありがとうございました。


ゆふつづ

2005-10-08 21:25:03 | うんちく・小ネタ
 昨夜は国書文芸カレッジの講座。

 提出された作品に出てきた「夕星」という言葉を正しく読めなくて、ちょっと恥ずかしい思いをしました。
 「ゆうずつ」と読まなくてはなりません。宵の明星のこと。夕方、西の空にかかった金星ですね。

 万葉集には「ゆふつつ」、枕草子には「ゆふづつ」と書かれているようです。

 夕星(ゆふつつ)も通ふ天道(あまぢ)を何時までか仰ぎて待たむ月人壮子(つきひとおとこ)
        (万葉集巻第十「秋の雑歌――七夕九十八首」)

 星はすばる。牽牛(ひこぼし)。ゆふづつ。よばひ星、すこしをかし。尾だになからましかば、まいて。
        (枕草子二三八段)

 しかし、なぜ「星」を「つつ」とか「つづ」とか「づつ」とか読むのでしょう? 明けの明星を「あさずつ」といったり「あけつつ」といったりすることはありません。「あかぼし(明星)」という言葉があるぐらい。
 気になったので小学館の『日本国語大辞典』を引いてみました。「ゆうつづ」の項に詳しい説明が出ています。
 意味は「宵の明星」。
 語源は――

  1. 夕日に続いて出るところから、夕続の義。
  2. ユウタユタフホシ(夕猶予星)の略。
  3. ユフはユフベの義。ツツはテルテルの反。
  4. ユフツク(夕着)の義。
 などとなっていて、どれも納得のゆくものではありません。

 どうせわからないのなら、自分で勝手に考えてみるのも一興。以下は勝手な講釈です。
 「つつ」または「つづ」は、天上にいる神のこと。根拠はありませんが、「つつ穴」は船霊(ふなだま)を祀る穴のことであり、「つつ」は船霊を指すことがある。「つつ」に霊的な意味合いがないとは限りません。
 「ゆふつつ」は、それゆえ「夕べの神」すなわち「宵の明星」のこと。
 ここで思い出すのは伊勢物語で有名な「つついづつ(筒井筒)」という言葉。在原業平の歌と故事によって幼少からの馴れ初めがある男女の仲を意味しますが、もしかしたらこの「つつ」も「空の神」=「星」なのではないでしょうか。空にある星(つつ)と、井戸もしくは泉の水に映ったその星の光(いづつ)のように切っても切れない仲――というような意味で古代人が使っていたのでは……。

 空想をたくましくしてみました。
 それはともかく「ゆふつつ」または「ゆうづつ」は古文の授業で習ったはず。すっかり忘れていたのは、情けないかぎりでした。


「かからん」

2005-09-26 20:09:55 | うんちく・小ネタ
 昨日、ディープインパクトについて「束になってもかからない」と書いたところ、旧知の小泉さん(@一の日会)から――

 「束になって(かかって)も敵わない」ですか?
 こういう用法があるのでしょうか?(流行でしょうか?)

 というメールを頂戴しました。

 そうですよねえ。「束になってかかる」という(正当な)用法からすれば、「束になってもかからない」は「集団になっても挑戦しようとしない(情けない者たち)」という意味になってしまいますよねえ。

 お詫びして訂正します。小泉さんがおっしゃるとおり、正しくは「束になっても敵わない」でした。

 でも――ここから言い訳ですが――同郷の家内に訊いてみると「〈束になってもかからない〉でいいんじゃない」といいます。
 なぜかというと、高知では「かからない」を「かなわない」の意味で使うのですよ。たとえば「なんぼやってもかからんかった」は、「いくら挑戦してもかなわなかった」という意味になります。
 だから、たぶん田舎では「束になってもかからん」と普通にいっていた……ような気がするんですね。
 「流行」ではなくて、「方言」でした。ということで、どうぞお許しを。