金融そして時々山

山好き金融マン(OB)のブログ
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蝉しぐれを観た

2005年10月09日 | 映画

3連休の中日、細かい雨が降っていた。大泉のTジョイで「蝉しぐれ」を観る。公式サイトはこちら→ http://www.semishigure.jp/である。

主演の市川染五郎(牧文四郎 役)、木村佳乃(ふく 役)は抑制の効いた良い演技をしていると思う。原作を貫く基調音はこの「抑制」である。制約の多い封建時代を精一杯生きる人々。そこには清々しい美しさがある。

もう一つの基調音は「人間は後悔するように出来ている」という言葉。原作では2ヶ所、映画では1ヶ所出てくる。映画の一ヶ所は切腹前の父と話をした時言いたいことが言えなかったと後で悔やむ文四郎に親友小和田逸平が「そういうものだ。人間は後悔するように出来ておる」という場面。原作では最後に文四郎とふくが合う場面である。

ふくが「文四郎さんの御子が私の子で、私の子供が文四郎さんの御子であるような道はなかったでしょうか」と言い、文四郎が「それが出来なかったことを、それがし、生涯の悔いとしております」と答える。ここは映画も同じ。その後原作は「うれしい。でも、きっとこういうふうに終わるのですね。この世に悔いを持たぬひとなどいないでしょうから。はかない世の中・・・・」と続くのである。私は良いせりふだと思っているのだが、映画化の時黒土監督はどうしてこのせりふを入れなかったのだろうか?

最終場面原作では黒松林の耳を聾するばかりの蝉しぐれが文四郎(=助左衛門)をつつむ。文四郎はやがてその林を出て日差しの強い野に向かって馬を駆るところで終わる。一方映画では文四郎が川舟の中に寝転がるところで終わっている。これは敵方の包囲網を抜ける時、文四郎とふくが川舟を使ったので川舟が映画では重要な大道具になっているからであろう。ただし蝉しぐれの題名からは少し外れた演出というべきかもしれない。

ふくと会った後、原作では文四郎はある種のambivalent(矛盾した)した感情を抱く。「あのひとの・・・白い胸など見なければよかったと思った。その記憶がうすらぐまでくるしむかも知れないという気がしたが、・・・一方では深く満たされてもいた。会って、今日の記憶が残ることになったのを、しあわせと思わねばなるまい」

このambivalentな感情を抱くというところに藤沢周平の深い人間洞察力があると思う。映画はこの部分淡白に終了しているが、それでも僕は目頭が少し熱くなった。原作とは少し違っているがそれはそれで良い映画だったというべきだろう。

コメント
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