梅雨の一休みで暑くなってきた。暑い夏が来ると小泉首相の靖国神社参拝問題でマスコミが賑わってくる。その前に少し落ち着いて靖国神社問題を自分なりに考えてみたいという気持ちになった。まずは政教分離ということについてである。
政教分離という概念は終戦後現在の憲法が制定される時に立法化されたものである。戦前に「政教分離」という主張が全くなかったとは言わないが、少なくとも現在の憲法制定に具体的な影響は与えていない。信仰の自由と政教分離を定めた憲法20条は、軍国主義とその精神的支柱となる国家神道の復活を恐れた進駐軍が草案したものである。
政教分離について憲法20条第1項後段で「いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。 」第3項で「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。」と規定する。
ところが進駐軍によりアメリカから輸入された政教分離だが英語ではSeparation of Church and State であり Separation of Religion and Stateではないということは良く言われていることだ。このことを持ってアメリカでは政教分離とは「キリスト教の特定の宗派・教会と国家の分離」 を意味するが、「キリスト教と国家の分離」を意味するものではないと言う人がいる。私はこの意見をかなり的を得ているとは思うが、全面的に正しいと断言するには少し判断材料が不足している。というのはChurchで宗教を代表させているという意見もあるからだ。またアメリカの政教分離は1791年の合衆国憲法修正第1条で「連邦議会は国教の樹立を規定し、もしくは信教の自由な行動を禁止する法律を制定することはできない」と規定されたことによるが、その具体的な適用については多くの判例がある。ただアメリカの政教分離が国教制度がもたらした不寛容さに対する抵抗の結果得られたものだという歴史的背景は認識しておく必要がある。
なお連邦最高裁の判決の内、政府と宗教の係わり合いについて述べた重要な判決がある。それは1971年のLemon V. Kurtzman判決で要点は以下のとおりだ。
- 政府の活動は世俗的(非宗教的)目的を持つものでなくてはいけない。the government action must have a secular purpose。
- 政府の主な目的が宗教を禁止したり、助長するものであってはならない。 its primary purpose must not be to inhibit or to advance religion
- 政府と宗教の過度の係わり合いがあってはならない。
ところで憲法にしろその下位規定である法律にしろ、その国で暮らす国民の利益や利便性のために存在するもののはずだ。憲法や法律に現実の生活が縛られて窮屈な思いをしているというのでは本末転倒も甚だしい。また本来法というものは、それに先行する歴史的事実や概念の積み重ねが成文化されるものであり、国民の生活や意識とかけ離れて存在するものではない。確かに日本の軍国主義を根絶するためには、歴史のある時期憲法20条の厳密解釈が必要だったかもしれないが、時代とともに弾力的に対応するべきものだろう。
この様に考える時、一国の首相が国のために殉難した戦士の霊に哀悼の意を表することは、宗教的活動というよりは極めて当たり前の国民的行為というべきであろう。
従って首相の靖国神社参拝問題を解決するのであれば、判例でも特別立法でも良いが「首相が戦争で殉難した戦士を慰霊する行為は宗教的活動ではない」と言い切ってしまえば良いのである。それ自体政教分離の卸元である米国の判例からみてなんらおかしいことではないだろう。
だが日本において政教分離を論じる時、踏まえておかないといけない問題は「靖国神社の本質は何だったのか?」という問題である。この問題を外れて観念的な政教分離を論じても意味はない。これについては別のブログで論じる。