今日(6月19日)の読売新聞朝刊に芭蕉の門人、杜国の俳句「うれしさは葉がくれ梅の一つ哉」が短い解説とともに紹介されていた。梅の収穫期に降る雨なので梅雨(つゆ)という。梅はこの時期の季語である。
さて杜国、本名坪井 庄兵衛は名古屋で壺屋という米屋を営んでいたが、貞享2年(1685年)に米の空売りの罪~本来は死罪だが減刑された~で追放された。ここでふと疑問に思ったことは「日本の米相場は世界で最も早い時期にできた先物市場だった」ということだ。先物市場であるからには今手元にない米の売買が行なわれる訳だから米の空売りが行なわれる訳だ。杜国の時代には死罪を持って禁止されていた空売りが何時から認められたのか?
たまたま近くの図書館で借りていた山本一力の「辰巳八景」という短編集に「永代寺晩鐘」という小説があったが、この小説の中に徳川吉宗の米価高値安定策の話が出てくる。それによると吉宗の治世が始まって4年目の享保4年以降は豊作が続き、米価がその前の元禄時代に較べると2,3割下落したということだ。米価が下がると主食が安くなるので、町人は大喝采なのだが、米を換金して現金を得ている武家社会特に将軍家は深刻な財政危機に見舞われる。
そこで吉宗は米価をほどよい高値で安定させる施策を行なった。その一環として大阪に米会所の新設を認可したのである。これは享保15年(1730年)のことだ。遅くともこの時までには米の空売りが公認されていたはずだ。
もし杜国が4,50年後に生まれていたら空売りの罪で所払いにならずに済んだだろう。杜国は30歳そこそこで他界したが、不幸な境遇に陥らなければもう少し長生きしたかもしれない。しかしそうすると次の二つの句は生まれなかったはずだ。
麦生えて能(よき)隠れ家や 畑村(はたけむら) 芭蕉
昼の空 蚤かむ犬の寝かえりて 杜国
この句は愛弟子の不幸を悲しんで、隠棲の地に杜国を訪ねた芭蕉と杜国が詠んだ句である。もっとも私には杜国のこの句の良さは余りわからないが。
「取引」というものは、時代によっては罪になったり、奨励されたりすることがあるものだ。杜国の句はそのような浮世の変遷を超えた何かを見つめている様な気がしないでもない。