今年も例年通り、地元の神社に初詣に行きました。
参道で並んでいる時、近くで親が子どもに「神様に何をお願いするのか決めておきなさいね」というのを聞きました。
そこでふと「私は神様に何をお願いするのだろうか」と考えました。
健康については、時々肩や膝が痛くなることはありますが、それは年相応の話。リッチではないが、経済的に先行きの不安を覚えるほどではない。
両親は数年前に他界し、目先介護の問題はない。子どもたちもそこそこやっているようだし、もし望みがあるなら自分たちで神様なり仏様にお願いすればよい……
つまり今の自分は神様に特別にお願いすることがないことに気がついたのです。
いや望みがない訳ではありません。たとえば水彩画が描けるようになりたいとか、簡単な中国語での会話ができるようになりたいなど「できたら良いな」と思うことはあります。しかしそのような希望は神様にお願いしても叶うものではないことを私は知っています。それは自分で努力するしかない話なのです。
そこで気がついたことは、神様には何かをお願いするのではなく、無事に平穏な日々を送ることができていることに対する感謝をささげるということでした。
ビジネスや商売をやっていた現役時代は「商売繁盛」が願い事でした。
その前の入学試験や資格試験など受験を控えていた時は「試験合格」が願い事でした。
しかしリタイアして数年が経ち、その環境に適応してくるとそれらの「現世利益」への関心は乏しくなります。
欲が減ったといえば欲が減ったのかもしれません。
孔子の「七十にして心の欲するところに従えども矩(のり)をこえず」(七十の年には、やりたいと思う心のままに行動しても、規則や礼儀などに外れることがなくなった)という境地に若干近づいたと言えないこともないと思います。
もっと平たくいうと「欲張ったことを願っても結局苦しむだけであり、今あるものに満足して生きるのが幸せ」ということなのでしょう。
さていつまで「神様に感謝をささげる」だけでいけるのでしょうか?
もし重い病に罹ることがあれば、きっと病気平癒をお願いするでしょう。
こう考えると「神様に特別お願いすることがない」現在は非常に幸せなのだと思いました。
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