詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

井坂洋子『嵐の前』(4)

2010-12-15 23:59:59 | 詩集
井坂洋子『嵐の前』(4)(思潮社、2010年10月25日発行)

 「テニスの日」という詩のなかに2か所、あ、井坂洋子だと感じる部分がある。直接的なのだ。

湯灌のため上体を起こしパジャマをぬがせる時、マリオネットのように
首をかしげ、ぎくしゃくと腕を交叉させた。(からっぽなんだ)と思っ
た。往診の若い先生が「お顔をつくります」と言い、口や鼻のなかに綿
を詰めた。近親の女たちが体を拭いている。私もそこに混じっていた。
だからよく見えなかったのか。死の小さな通り穴。どんなに小さな穴だ
ろう意識が通るのは。誰も道連れにしないための、声も洩れぬ、光も水
も瞬時にふさいでしまう穴。先生はそこにも綿を詰めたのだと思う。
「では最後にお着物を着せます」
血を溜めた者はいっせいに引き下がった。

 (からっぽなんだ)は、なかなか書けない。思っても、書こうとすると、何か躊躇してしまう。とくに相手が死者なら、そんなふうに意識は働きやすい。しかし、そんな抑制がたとえ働いて書かなかったとしても、そう思ったことは消えはしない。「マリオネット」という「比喩」だけではたどりつけないものがある。いや、「比喩」では隠されてしまうものがある、ということか。
 そうなのだ。「比喩」は隠してしまうのだ。だからこそ、そこから疑問も生まれてくる。死者の穴をふさぐ。死者が生きているものを道連れにするという「穴」をふさぐ。「ひと」と「ひと」をつなぐ「穴」。(なんだか、こんなふうにことばにすると、逸脱が激しくなりそうだが--余分なことを想像してしまいそうだが……。そういうことを井坂が書いている、というのが私の本位ではないのだが……。)そういう「穴」を、意識もまた通るだろうか。そんなふうに考えるとき、「穴」は「比喩」だね。そして、「比喩」が、いろいろ隠してしまう。たとえば私が丸かっこのなかにいれて書いたようなことなどをも。
 だから、井坂は「マリオネット」という「比喩」を「わざと」、(からっぽなんだ)とあばいてみせる。まあ、あばくという気持ちはないかもしれない。「正直」がそこにあるのかもしれない。こいういう気持ちの「正直」が、最後に思いがけないことばを引っ張りだす。

血を溜めた者はいっせいに引き下がった。

 「血を溜めた者」は「生きている人間」の「比喩」であるが、その述語の「引き下がった」は--あ、すごいなあ。(からっぽなんだ)と同じように、ことばスピードが速い。寄り道をしない。直接的である。「意味」的には、死体から「離れた」なのだが、「引き下がった」というとき、その「引き」に不思議な意思以上のものを私は感じてしまう。「下がる」(離れる)だけでは満足できず、「引き」と「下がる」を組み合わせて「引き下がる」と書いてしまう。「いっせいに」が、「下がる」だけでは満足できないこころをあらわしている。

 ところで、この詩は「テニスの日」という「死者」と向き合うにはあまり関係ないようなタイトルがついている。そして、死体の処理をすることばのあいだに、

フィールドニ 黄色イ
テニスノ球ガ飛ンデクル
霊力ガ及ブ範囲ヲ
フタツ擦リ合ワセタトコロニネットヲ張ッテ

 というような、いったい何の関係があるの?というようなことばが挟まっている。それは確かに「無関係」なのだ。しかし、その「無関係」は、「マリオネット」という「比喩」をつかいながら、(からっぽなんだ)とあばいてしまうことばの運動と、どこか通じるものがあるように思う。
 どんなときでも、その書かれたものが引き寄せるもの以外のものがあって、世界はなりなっている。「ひとつ」ではなく「ふたつ」(ふたつ以上)のもので、世界は成り立っている。その「ふたつ」はたとえば死者と生者。湯灌のとき、「ふたつ」は接点をもつ。実際に触れる。けれど、最後に着物を着せるとき、「引き下がる」。「離れる」。裸の死者よりも、着物を着た死者の方が「触りやすい」ものだと思うが--と書いてしまうと、また違ったことに逸脱していきそうだが……。
 逸脱させずに、井坂自身のことばに戻れば--「霊力ガ及ブ範囲ヲ/フタツ擦リ合ワセタトコロニネットヲ張ッテ」と「フタツ」ということばをつかっている。「ふたつ」は井坂にとって、とても重要なことなのだ。「死」という人間にとって決定的なことがらについて考えること(ことばを動かすこと)においても、「ふたつ」を明確にしなければならない。そのために、たとえば、ここでは「テニス」が選ばれているのだ。
 この「ふたつ」に対する意識こそが井坂の「文体」を鍛える力である。「ひとつ」にどっぷりと浸って(のみこまれて?)、そこから「わたし」を作り替えるということばの運動もあるけれど、井坂の場合は、「ひとつ」にどっぷり浸ってしまわない。そんなふうに「酔う」ということをしない。
 「ふたつ」が接触し「ひとつ」になろうとすると、それをぱっと「引き離す」。「ひとつ」になる世界から「引き下がる」のだ。
 そうすると、何が見えるか。「抒情」を超えるものが見える。

黄金ノ縁取リヲモツ夕ベノ雲
後光トイウ橋ニ
誰カイルト思ウノハ錯覚ダガ
スタンドノ客ノナカニ紛レ込ンデ
亡者ハ笑ッテイタ

 「抒情」は「錯覚」であり、「笑い(笑う--笑ッテイタ)」が「真実」である。




詩のレッスン―現代詩100人・21世紀への言葉の冒険
入沢 康夫,井坂 洋子,三木 卓,平出 隆
小学館

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誰も書かなかった西脇順三郎(160 )

2010-12-15 11:43:48 | 誰も書かなかった西脇順三郎
誰も書かなかった西脇順三郎(160 )

 『豊饒の女神』のつづき。
 私は「意味」ではなく、音に引きずられる癖がある。「女の野原」。

夢ははてしなくつづく
窓から首を出して考える男の
心のくらやみにはもう
すみれも涸れてパンジーも見えない
おぼえているのはてんてんまりない
ふくべとあんずとからす
げんごろうむしとふなだ

 引用部分の最後の2行を漢字混じりで書くと

瓢と杏と烏
ゲンゴロウ虫と鮒だ

 になるのだと思うが、私には「ふなだ」がどうしても「鮒だ」が結びつかない。「だ」が「である」という「断定」のことばとは思えない。
 「ふなだ」という虫(?)や植物があるとは思えないのだけれど、そういう私の知らないものがここに書かれていると思いたいのだ。西脇の詩にはたくさんの植物が出てくる。私は田舎育ちなので、そこに書かれている野の草花は見ていることが多い。そして見ていることは見ているけれど、どっちにしろ山の花、野の花と思って生きてきたので、名前はほとんど知らない。その名前は知らないけれど、どこかに咲いていたり、どこかで遊んでいる虫--それだと思いたいのだ。その知らない「名前」に触れたとき、あ、ことばはこんなところにもある、という驚きが生まれる。あ、こんな何でもない花にも「名前」をつけてきた人がいるんだという驚きが生まれ、なんだかなつかしい気持ちになる。その「気持ち」が優先して「ふなだ」という何かわけのわからないもの求めてしまうのだ。それは「ふなだ」が「鮒だ」とわかったあとでもそうなのだ。
 なぜ、こんなことが起きるか。ひとつには、先に書いたように、「名前」があるにもかかわらず、名前を知らずに見てきたはずのものがある、ということがある。その「もの」の名前の力と関係がある。「もの」に名前をつけるとき、そこには何かしらの「思い」がこめられている。その「思い」、長い時間をかけて引き継がれてきた「思い」が、そこに生きている。「意味」も「もの」もわからないのに、何かその「思い」だけが、そのことば、その音から噴出してくるように感じるのだ。
 音というのは不思議なものだと思う。声というのは不思議なものだと思う。それは「耳」で聴き取り、その「意味」を判断するのだけれど、私の場合、どうも「耳」だけでは「意味」を判断しないようなのである。自分のことなのに、ようなのである、というのも変だけれど、そのことばを自分で声にしたときに感じる肉体の喜び、喉や口蓋、舌、歯、鼻腔などの動きがどうも影響している。肉体に気持ちがいい音は、意味を超えて、好きになってしまう。その音を中心に書かれていることを判断してしまったりするのだ。

げんごろうむしとふなだ

 この1行は、「げんごろうむしとふな」だったら、私の場合、とてもつまらなく感じてしまう。「ふなだ」によって肉体が落ち着く。そしてそれは「鮒だ」ではだめなのだ。「鮒である」という「意味」になってしまってはだめなのだ。
 「やなだ」のまま、「やなだ」って何? そう思うこころ、肉体のなかに響く音を聞きながら、「ふなだ」という「もの」、私が見てきているはずなのに、その「名前」を知らないもの--それを音をたよりに探す。そのときの、不思議な感覚が、私は好きなのだ。その、知っているけれど知らないものを探すということと、詩が、とても強い関係にあると感じているのだ。

ふくべとあんずとからす

 この1行を例に、言いなおした方がわかりやすいかもしれない。
 「ふくべ」は「ひょうたん」だと思う。田舎にいたころ、どこかで、「ふくべ」という音を聞いた記憶がある。ひょうたんを植えていた家で聞いたのかもしれない。そんな役に立たないもの(食べられないからね)を植えているのは、物好きの爺さんである。そういうひとは、まあ、だらしなく着流していたりする。はだけた服から褌が見えていたりする。そこには「ふぐり」の感じが残っている。いや、あらわに見えている。私の肉体のなかで、「ふくべ」は「ふぐり」につながるのである。そして、それは「ふくべ」の丸い形や「ふぐり」の丸い形とも通い合う。「ふくべ」というのは誰が思いついたことばか知らないけれど、そこには「ふぐり」との共通点がある、と私は勝手に思うのである。そうやって、そこにひとつの「世界」ができる。
 そうすると、そのあとの「あんずとからす」がとても変な具合に変化する。「あんず」は「あんず」のままだが、「と、からす」と「とからす」という、どこにも存在しないものになる。そこには「とかす、とける」という音があって、それが、子どもごごろ(?)に、「ふぐり」とはか「セックス」とかを思い出させる。何も知らないくせに、田舎の子どもというのは、そういう連想だけはしっかりとしてしまうのだ。「ふくべと」の「べと」という音のつながりも、なぜか、とても好きだなあ。「べと」や「とからす」が影響して「ふなだ」もひとつの「音」の連続になるんだろうなあ。
 でも、なんだろうなあ、これは。こういうことって、ほかの人には起きないのだろうか。「音」にひっぱられて「意味」からかけはなれたところへ行ってしまうということは、ほかの人には起きないのだろうか。

 「げんごろうむしとふなだ」は「春」の印象が私にはあるのだが、西脇の詩はなぜか秋につながっていく。

秋はかすかに袖にふれる
友人が手紙と夏のおわりのばらを
送ってくれたこの朝
あの下手なつるの文字はみえないが
指先が女神のつゆにぬれる
香いは昔住んだ庭をおもわはる
この切られた女の野原

 この部分では、私は、

あの下手なつるの文字はみえないが
指先が女神のつゆにぬれる

 の2行が好きだ。「つる」「つゆ」「ぬれる」の音が楽しい。まあ、これを楽しいというのは、私がまたすけべな連想をするからなのだが。
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西脇順三郎詩集 (世界の詩 50)
西脇 順三郎
彌生書房
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木村草弥『愛の寓話』

2010-12-14 23:59:59 | 詩集
木村草弥『愛の寓話』(角川書店、2010年11月30日発行)

 木村草弥『愛の寓話』には、短歌(和歌)がいくつか載っている。私は不勉強で知らなかったのだが、木村は歌人だったのか。(詩集の文末の「著書」一覧を見ると、歌集がある。)

その場所をあなたの舌がかき混ぜた 快楽(けらく)の果てに濃い叢(くさむら)だ

ふたりは繋がつて獣のかたちになる 濃い叢にあふれだす蜜

 この二首は「口語的」な作品だが、

拓かれし州見台てふ仮り庵(いほ)に愛(め)ぐはし女男(めを)の熟睡(うまい)なるべし

 という旧かなづかいの文語調の作品もある。
 この「短歌」に触れて、木村のことばの秘密が少しわかったような気がした。木村のことばは非常に読みやすいが、それは日本語のリズムを短歌(和歌)の形で鍛えているからである。伝統の文学形式をとおして、音感だけではなく、イメージの飛躍のさせかたもきっと鍛練しているのだ。

 だから、「散文」も、ふつうの「散文」とは違う。
 もっとも、今回の本は「詩集」と書いてあるから「散文」と違って当たり前ではなるのだが。

 「ピカソ「泣く女」」の書き出し。

「キュビズム」というのは、立体を一旦分解し、さまざまの角度から再構築する描法だ。
この絵は一九三七年に製作されたという。
派手な赤と青の帽子をかぶり、髪をきれいに梳かしつけた大人の女性が、幼児のように、恥も外聞もなく、ひたすら泣いている。
モデルはドラ・マール。当時ピカソの愛人だった。
マン・レイによる彼女の写真が残っており、知的で個性の強い神経質そうな美人である。
ほっそりした繊細な指に長いトランペット型シガレットホルダーを挟んで煙草をくゆらす姿は、粋なパリジェンヌという雰囲気である。

 一行一行は「散文」である。けれど、一行と、次の一行が「散文」のつながりではない--というところに、何か秘密があるのかもしれない。「散文」というのは、基本的にあることがらを書いたら、そのことがらを踏まえながらことばが動いていくものだが、木村のこの作品には、そういうことばの運動がない。木村は「散文」の鉄則を踏まえずに書いている。
 具体的に言いなおすと。
 「「キュビズム」というのは、立体を一旦分解し、さまざまの角度から再構築する描法だ。」という書き出しを受けて、二行目は「この絵は一九三七年に製作されたという。」とつながるのだが、この二つの文章に「散文」の「要素」がない。「キュビズム」がさらに詳しく説明されるわけではない。まあ、「キュビズム」が1937年当時絵画のひとつの運動であったことはわかるが、それ以外のことはわからない。さらに、「派手な赤と青の帽子をかぶり、髪をきれいに梳かしつけた大人の女性が、幼児のように、恥も外聞もなく、ひたすら泣いている。」も、前の文章とは何の関係もない。派手な帽子の女がひたすら泣けば「キュビズム」になるわけではない。また、1937年に女が泣いたからといって「キュビズム」になるわけではない。さらに「モデルはドラ・マール。当時ピカソの愛人だった。」とつづくが、これも「キュビズム」とは関係がない。
 「「キュビズム」というのは……」と書きはじめながら、木村のことばは、その「キュビズム」に対する木村の考え方を表明するわけでもなければ、書くことによって「定義」が深まるわけでもない。ピカソの「泣く女」が見えてくるわけでもない。
 何なの? 「散文」ではないから、これはこれでいいのかもしれないが、やっぱり何なの?と思ってしまう。何を書きたい?
 「愛人」について書いた関係なのだろうか、その後、ピカソの女性関係が延々と書かれていく。これは、ピカソのスキャンダル(?)を報告する文章? いや、そうでもないなあ。
 もしかすると、「散文」の堅苦しい、前後関係の緊密なことばの運動ではなく、和歌のもっているリズムでことばを動かしたい、ことばをほぐしたいということなのかなあ。

 そんなことを考えていると、突然、

芸術家は怖い。
蜘蛛が餌食の体液を全て吸い尽すように、他人の喜怒哀楽、全ての感情を吸い取って自分の糧にしようとする。

というような、ピカソに対する感想が書かれる。そして、

紛れもないサディストであったピカソにとって、ドラを泣かせるのは簡単だったし、ドラもまた都合よく泣いてくれる女ではあった。彼女があられもなく泣き顔を曝すとき、ピカソの動かない目は羽をちぎられてもがく蝶をじっと観察するように眺めていたのだろう。
そんなシーンを思うと怖い。
(略)
蜘蛛が干からびた獲物の残骸を網からぽいと捨てるように、ピカソはドラを捨てた。
ピカソの残酷さが遺憾なく発揮された『泣く女』は傑作となり、ドラの名前も美術史に永遠に残ることになった。

 あ、これは、「泣く女」について書いた詩ではなく、その絵が書かれた背景を描いた「評伝」なのか。いや、そうじゃないなあ。「泣く女」を借りて、蜘蛛と餌食の命を懸けた「愉悦」を描いているのかもしれない。蜘蛛と蝶の「愉悦」を語ることばの響きを楽しんでいるのかもしれない。そのイメージを楽しんでいるのかもしれない。
 おもしろいなあ。
 すると、最後が、突然やってくる。その最後が、とてもとてもとてもとてもとても、何回「とても」を繰り返していいかわからないくらい、おもしろい。

厖大な作品量、数えきれない女性関係も含めて、ピカソという名前自体が一種のブランドなのだが、彼のフルネームを知るとまた驚く。
まるで「寿限無、寿限無、五劫の擦り切れ・・・・・・」のように長い--
「パブロ・ディエゴ・ホセ・フランシスコ・デ・パウル・ホアン・ネポムセノ・マリア・デ・ロス・レメディオス・クリスピーン・クリスピアーノ・デ・ラ・サンティシマ・トリニーダド・ルイス・イ・ピカソ」!

 この最後の、長い長い名前を木村は書きたかったのかもしれない。
 いや、そんなことはない、名前ではなく、ピカソについて書きたかったのだと木村は言うかもしれないが、私は「誤読」する。絶対に、この長い名前が書きたかったのだ。
 名前の最後の「ルイス・イ・ピカソ」というのは父の姓と母の姓である。出自を明確にするためなのか、スペイン人の名前は両方の姓を持つことになっている。名前のなかに人間関係がある。--この「人間関係」に収斂するように、女をめぐるスキャンダル(?)を書いたのだ。
 ピカソのなかに、そんなにたくさんの「名前」があるのだから、その「名前」のひとりひとりが、それぞれの女とつきあったっていいじゃないか。
 そして、私はカタカナ難読症なので、読むことができないのだけれど、この名前--そのリズム、きっと、それはカタカナを読めるひとにはおもしろいに違いない。そこに音楽があるに違いない。それはきっと、詩集の冒頭の作品の、

三香原(みかのはら) 布当(ふたぎ)の野辺を さを鹿は嬬(つま)呼び響(とよむ)。山みれば山裳(やまも)みがほし 里みれば里裳(さとも)住みよし。

 というようなものなのだ。「意味」はもちろんある。けれどひとは「意味」だけでことばを読むわけではない。むしろ、どんな「意味」があろうと、「音」がおもしろくないければ、それを読まない。「音」を読み違えながら、「意味」を超えていくのだ。
 「泣く女」について書いたことばのなかに、

彼女があられもなく泣き顔を曝すとき、ピカソの動かない目は羽をちぎられてもがく蝶をじっと観察するように眺めていたのだろう。

ということばがあったが、そのなかほどの「比喩」は「意味」であると同時に「音」であり、イメージである。いや、音とイメージだけであると言った方がいいかな。「羽をちぎられてもがく蝶」と書くとき、木村はピカソの目を一瞬忘れる。木村は忘れないかもしれないが、私は忘れる。蝶の苦悩と、苦悩の愉悦のようなものを感じ、なんだかうれしくなる。
 「散文」を装いながら、「意味」を逸脱していく「音」を木村は書いているのかもしれない。

茶の四季―木村草弥歌集
木村 草弥
角川書店


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山之内まつ子『比喩を死ぬ』

2010-12-14 22:32:56 | その他(音楽、小説etc)
山之内まつ子『比喩を死ぬ』(ジャプラン、2010年10月25日発行)

 山之内まつ子『比喩を死ぬ』は句集である。私は俳句のことはまったくわからないが、山之内の作品は「俳句」というより「一行詩」として読んだ方がいいのかもしれない。適当なことばがみつからないのだが、どうも「俳句」というには「ことば」が多すぎる。

身の丈のかわらぬ樹木に不倫する

 「に」がいらないと思う。「に」があることによって、想像力がしばられる。「切れ」と言っていいのかどうか門外漢の私にはわからないことなのだが、読者を遊ばせてくれる余裕がない。読者の想像力をひとつの方向にひっぱりすぎるように思える。
 たぶん、別な角度から見れば「濃密な句」という評価になるのだと思うが、私は、こういう濃密さは苦手である。

人ごみで地獄をひとつもらう癖

 「癖」がうるさい。中七の「地獄」が他のことばであれば「癖」でもいいのかもしれないが、「地獄」では強すぎて「癖」がわずらわしい。

街さびれ過去の木陰を喰らう犬

 「さびれ」「過去」「陰」では、ことばが整いすぎる。調和しすぎる。「矛盾」がない。矛盾とはいわなくても、あ、こんなことばの出会いがあるのか--という驚きがないと、「一期一会」という感じがしない。
 「犬」も、あまりにも「人間的」すぎる。もっと人間の「暮らし」から離れたもの、とかげとか、ひとの会話から消えてしまった昆虫なんかが出てくると驚きが生まれるかもしれない。「木陰」ではなく「日向」の方が「時間」を超えるかもしれない。

鶴を折る精神不安な椅子といて

 「精神不安」もうるさいが、「椅子がいて」の「いて」がなんともいえず窮屈である。「いる」といわなくても、ことばのなかには「ひと」(作者)が「いる」。その、わかりきったことばが、とてもつらい。
 「折る」と「いて(いる)」というふたつの動詞があるのも、短い詩型にあっては「詰め込み過ぎ」という印象が残る。
 また、山之内には予想外のことに思われるかもしれないが、この句のことばのとりあわせは、新鮮味に欠ける。「精神不安」は、たとえば大正の句なら新鮮かもしれないが、平成のいまから見ると、まるで第二次大戦前のような古くさい匂いがする。大正よりも第二次大戦前の方が時代が「新しい」から、私の書いていることは変な印象を与えるかもしれない。変な「比喩」という印象を与えるかもしれない。しかし、ものは考えようで、平成から見ると大正なんて誰からも聞いたことがないことばかりなので第二次大戦前よりも新鮮なのだ。--これは、ジャプランを経営している高岡修のことばの感覚に通じるものだが……。

 批判ばかり書いて申し訳ない気もするが、イメージというよりは「意味」指向が強すぎるのだと思う。「比喩を死ぬ」という句集のタイトルにも、「意味」がこめられすぎていて、「遊び」がない。

 最後になったが、気に入った句をあげておく。

柿の実の非の打ち所なく熟しけり

 「熟しけり」が「切れ字」の関係もあるのかもしれないが、豊かである。余裕・遊びがある。つまり、山之内がどんな「熟柿」とともにあるのかわからないが、山之内を除外して、読者がそれぞれ勝手に自分自身の「熟柿」と向き合えるところがいい。「けり」が、余分なことばを排除している。

花しょうぶ黒澤映画の雨しきり

 黒澤映画の雨は花菖蒲には過激過ぎるかもしれないが、そこがおもしろい。映画の雨は、自然の雨のこともあるが、ホースで降らせる人工の雨のときもある。そうすると、雨が太陽の加減できらきら光っていたりする。そのまぶしい雨と花菖蒲をふと思ったのである。

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誰も書かなかった西脇順三郎(159 )

2010-12-14 09:56:25 | 誰も書かなかった西脇順三郎
誰も書かなかった西脇順三郎(159 )

 『豊饒の女神』のつづき。
 「大和路」は、タイトルどおり大和路をたずねたときのことを書いているのだが、最後の方に「種明かし」があって、それがおかしい。

それからまたここへもどって
半治のやんごとなき踊りに終る
別れの宴に出なければならない
東大寺のおかみも忙しいから
出られないだろうが
この予言は恐らく当たるだろう
過去のことを未来で語ることは
旅人の悪いくせであるけれども--

 詩は「現在形」で書かれている。「ここにもどって」「宴に出なければならない」「東大寺のおかみも(略)/出られないだろう」と書いてあるが、実際は、「でることができなかった」のである。それを知っている。けれども、そういうことを「未来」の「推量」として書く。その書き方の、「わざと」のなかに、詩があるのだ。
 旅人(西脇)は、「わざと」知っていること(過去)を「未来」として書くのか。それは、詩が「過去」のなかにあるのもではなく、「いま」という「現在」にしか存在しないものだからである。「いま」あっても、次の瞬間、つまり過去になったとたん消えてしまう。また逆に、過去のものであっても「いま」思い出す瞬間に、その過去は過去ではなく、現在そのものになり、そこから時間は過去へむけてではなく、未来へと動いていく。だから、どんな未来も「いま」として書く。
 その書き方が詩なのである。内容ではなく、書き方が詩を決定する。



西脇順三郎詩集 (世界の詩 50)
西脇 順三郎
彌生書房

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井坂洋子『嵐の前』(3)

2010-12-13 23:59:59 | 詩集
井坂洋子『嵐の前』(3)(思潮社、2010年10月25日発行)

 粕谷栄市『遠い 川』と井坂の詩を交互に読むと、それぞれを別々に読んでいたときとは違ったところへと、私は迷い込んでいく。こんな感想を書くはずじゃなかったのになあ、と思いながら感想を書くことになってしまう。
 「へそ」。その書き出し。

病気に愛撫されて半日シーツの上で苦しむ
熱が肉を消費する
足が細くなりまるで 洗面所の
鏡の裏にでも出たように重力がない

 私は何度も何度も「足が細くなりまるで 洗面所の」を読み返してしまう。粕谷なら絶対にこうは書かない。「足が細くなり まるで洗面所の」、あるいは「足が細くなり まるで 洗面所の」になる。粕谷の詩には句読点がやたらと多いが、それはことばのひとつひとつの句読点で区切りながら、区切ることで、ことばとして確立させながら、「ことば=考え」の関係をしっかりとつくりながら動いていくからである。
 井坂のことばは違う。ことばの論理が論理的ではない。「まるで洗面所の鏡の裏にでも出たように重力がない」ではないのだ。「まるで」はあくまで「足が細くなり」という「肉体」に結びついている。そんな結びつき方は「学校教科書文法」にはあり得ないが(粕谷の書く句読点だらけの文章も「学校教科書文法」的には反則だろう)、井坂はどうしてもそう書いてしまう。
 井坂が「足が細くなり」までを書いたとき、何かそれにつけくわえたいという意識はあるが、それはまだことばになっていない何かであり、何を書いていいかわからない。けれども、書いてしまう。何かつけくわえたいという思いまで書いてしまったのが「足が細くなりまるで」なのだ。書いたあと、ひと呼吸おいて「比喩」を考える。「肉体」が感じていることを、ことばでさがしはじめる。「肉体」が先に動いて行って、そのあとへことばがついてくるのを待っている、と言った方がいいかもしれない。ことばをさがしはじめる--というより、ことばがやってくるのを待っているのが「足が細くなりまるで」のあとの一字空白なのだ。「洗面所の」のあと改行し「鏡の裏に」とつづくのも、ことばが追いつくのを待っているからなのだ。
 ことばを「肉体」が追いかけるのではなく、「肉体」にことばが追いつくのを待っている。あるいは「肉体」のなからかことばが生まれるのを待っている。
 この「待ち」の時間があるから、「鏡の裏にでも出たように重力がない」という濃密な「比喩」が説得力を持つ。書かれていることは、わかるようで、わからない。わからないようで、わかる。「頭(考え)」では、それは「わかる」というところまで突き進むのはとても難しい。いや、面倒だ。ところが「肉体」なら、この何だが「だるくて苦しい」感じを、ああ、そうだよなあ、と納得してしまう。
 特に、その比喩が「すらすら」と「学校教科書的」に書かれるのではなく、「ほら、あれだよ、あれ、どうしてわかんないのかなあ、あれ、そう、鏡の裏にでも出たように重力がない、という感じ」という雰囲気を「文体」のなかに抱え込んでいると、納得させられてしまうのである。会話で、相手が何かことばをさがしていて、それについてもどかしそうに苦しみ、やっとことばを見つけ出したとき、そのことばを納得するというより、、ことばを探し出す苦しみを納得してしまう感じに似ているかもしれない。
 きっと一字空白や不自然な(?)改行は、会話(口語)のときの、言いよどみ、ことばをさがしている「間」なのだ。「間」を押し広げ、その「間」の空白(真空)に、何かが誘い出される。そこに誘い出されたものは「鏡の裏にでも出たように重力がない」のような、わけのわからないものだけれど、そのことばがあらわれる前の「間」の方に強い実感があるので、そのわけのわからないことばを、ただ納得してしまうのだ。
 私たちは(私は、というべきか)、「鏡の裏にでも出たように重力がない」という書かれた1行よりも、その手前の、変な「呼吸」、「肉体」の存在感に納得してしまうのだ。一度、こういう「間」と、「飛躍」(わけのわからないことばへの接続)を納得してしまうと、あとはもうどんなことばが出てきても、それを自然に(?)聞き取って納得してしまう。

回線の眠りは深く 時計が二十五時を告げる
夜明けに向かって
姉のような女の人が氷上を滑っていた
少年用のスケート靴をはいていた
朝 目をあけたら彼女は水に紛れていってしまったらしい
南側の窓をあけ
飛行機が滑っていく空のどの一点にもへそのような中心がなかった

 これは「意味」的には、女の人がスケートをしている夢を見たが、朝になって、氷枕(?)の氷が解けて、熱が下がってしまうとその夢は氷のように消えてしまっていた。窓を開けたら飛行機が見えた--というくらいのことだろう。
 そういう「意味」を思い浮かべたとき、

南側の窓をあけ
飛行機が滑っていく空のどの一点にもへそのような中心がなかった

 この2行の「学校教科書文法」から逸脱したことばが気になる。「南側の窓をあけ」るのは「私」だろう。その「私」という主語を受けることばが次の行にない。あえて、それを「復元」してみるなら、

(私は)南側の窓をあけ
(私は)飛行機が滑っていく空(を見た)
(その空)のどの一点にもへそのような中心がなかった 

 となるだろう。
 ここには、「足が細くなりまるで 洗面所の/鏡の裏に……」とは正反対のことばの運動がある。
 ことばが「肉体」を追いこしている。「足が細くなりまるで 洗面所の/鏡の裏に……」と書いたとき、井坂は、ことばを待っていた。ここでは「待つ・間」もなく、ことばが追いこしていっている。
 「間」がない。
 そのわりに何があるか。

へそ

 「肉体」である。
 「空」は「肉体」なんかではない。けれど、ことばが「肉体」を追い越していって、その追いこしたことばを「肉体」が追いかけると、ことばにおいついた瞬間、そのことばは「肉体」になる。

 うーむ。

 けれど、井坂は非常に用心深い。追いこしていくことばを、ただただ追いかけるわけではない。追いかけ、追いつくだけではない。

時間にも中心がない「バクテリアが三十億年 四十億年かかってつ
くった空気をあなたは今すっています」
「あなたは、毎日感じたり考えたり楽しんだり悲しんだりするその
あなたの主人です」「他の人というのは結局意識の主人になれない」
「あなたはあなた一人で世界をつくっているのです」
ナゼ私トイウ中心がアルノカ ソレハ嘘デハナイノカ

 ことばの暴走を井坂は「嘘デハナイカ」と疑う。疑うことで、遠くまでいってしまた「肉体」を「いま」「ここ」に呼び戻す。

不思議の国のアリスのように地下の部屋が伸びていて
穴におちたら
そこはふしぎでもなんでもなく
東京の地下街
首の上にのぼる血の 金属的な音を耳のそこに聞きながら
膝を深く折り 貝のように体をまるめていた
太陽も取引にやってこない
精霊よ この日ダンボールですごすことをお助け下さい
うららかな表通りでは 女の人が赤ちゃんを見かけ
「体のなかからお湯がでてくるみたいな気持になるわね」
夥しい数のへそが行き交っていた

 「空」(宇宙?)とか「時間」とか--そんなものは関係ない。あるのは、へそからへそへとつながる「女の肉体(いのち)」である。
 病気・熱に苦しんで、快復したら、井坂はそんなふうに感じた。「肉体」の勝利宣言のようなものであるが、この「へそ」は、やっぱり「攻撃的」だなあ。男にもへそはあるが、それはいわば女につくってもらったもの。男はへそをつくれないからなあ。男は「肉体」では「中心」をつくれないし、「つながり」もつくれないんだぞ、と言われてしまった気分だなあ。
 「あ、ごめんなさい。女に勝とうなんてだいそれたことは思いません。だから仲よくしてね、いじめないでね、いっしょにいてね」と、気弱な少年にもどるしかないのかなあ。男は。




嵐の前
井坂 洋子
思潮社


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ルネ・クレマン監督「太陽がいっぱい」(★★★★)

2010-12-13 12:59:37 | 午前十時の映画祭
監督 ルネ・クレマン 出演 アラン・ドロン、マリー・ラフォレ、モーリス・ロネ

 アラン・ドロンは不思議な役者である。美形は美形である。だが、品がない。色でいうと「原色」である。どんな色でも黒を加えると色が落ち着き、品が出てくる。(好みの問題かもしれないが、私はそう感じる。。)アラン・ドロンには、その色をおさえる「黒」が欠けている。色が剥き出しである。その剥き出しの感じが、品がない、という印象を呼び覚ます。
 この映画では、その品のなさが「個性」として生かされているが、一か所、とても色気があるシーンがある。「持ち味」を上回って、努力というか、肉体を懸命に動かすシーンがあり、それが「原色」を抑え、色気になる。
 モーリス・ロネのサインを偽造する--偽造するために練習するシーンである。投影機を買い込み、小さなサイン壁いっぱいの大きさに拡大する。その拡大されたサインを全身をつかってなぞる。手先でサインの癖を盗むのではなく、全身で盗む。小さな紙にサインするときでも、肉体は微妙に全身をつかっている。その全身の感覚を、そっくりそのまま盗むのである。そのときの、他人になる感覚。アラン・ドロンの肉体それ自体を裏切りながら鍛えていく--そのシーンがとても迫力がある。
 私には気に入った映画の気に入ったシーンは真似してみたくなるという癖があるが、「太陽がいっぱい」では、この偽造の練習シーンである。
 このほかにも、この映画ではアラン・ドロンは「肉体」を酷使している。船からボートにほうりだされ、漂流して日焼けするシーン。その日焼けの皮膚が破れて、いわゆる皮がむけるシーン。その日焼けの肩の色、皮むけぼろぼろな感じ--これをメーキャップではなく、実際の肌でやっている。なんだか、すごい。
 その「肉体」を酷使した海のシーンでは、別の「肉体」の酷使の仕方もしている。モーリス・ロネを殺した跡、死体を布でつつむ。ロープで縛る。揺れる船の上での、その悪戦苦闘ぶりが、かなりの時間をかけて描かれる。--こういうシーンは映画ならではである。台詞は何もない。やっていることはわかりきっている。わかりきっていることだけれど、そういうことは普通ひとはみないし、やったこともない。だからほんとうのところ肉体がそのときどんなふうにして動くは知らない。その観客の、知っているようで知らないことを、アラン・ドロンが全身で再現する。サインの偽造の練習も、あ、そうか、とわかるけれど、そういうことは実際には誰も体験していない。その体験していないことを肉体でみせるが役者なのだ。
 あ、そうなのだ。おもしろいのは、すべて肉体なのだ。アラン・ドロンがモーリス・ロネの靴を履いてみたり、服を着てみたり、そしてそのまま鏡に姿を映して自分に口づけしてみたりも、ストーリーでもことばでもなく、ただ肉体なのだ。アラン・ドロンという特有の顔をもつ男の、特権的な肉体の動き。それが、この映画のおもしろさの核心である。
 肉体を酷使して酷使して、その最後--ああ、これで幸せになれると笑みを浮かべるクライマックスの、アラン・ドロンの顔。肉体が、そのとき、顔そのものになる。特権の花が華麗に、華麗過ぎるほど華麗に、満開になる。
 アラン・ドロンという役者は私は好きではないけれど、こういう特権的な顔を見るだけのために、この映画を見るのもいいかもしれない。犯罪映画を、まるで美男子の悲劇のように華麗に描いてしまうルネ・クレマンには、まあ、脱帽すべきなのだろう。


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ナボコフ『賜物』(29)

2010-12-13 09:27:13 | ナボコフ・賜物
ナボコフ『賜物』(29)

 それでも彼は座って煙草をふかし続け、爪先をぶらぶら揺らしていた。そして他の人たちが話をしている最中も、自分が話をしている最中も、いつどこででもそうしていたように、他人の内面の透明な動きを想像しようと努め、ちょうど肘掛け椅子に座るように話相手の中に慎重に腰をおろして、その人のひじが自分の肘掛けになるように、自分の魂が他人の魂の中に入り込むようにした。
                                 (59ページ)
 
 話し相手の話を真剣に聞く。そのとき、ナボコフの主人公は「論理」を追っていない。「魂」を追っている。「魂」と自分の「魂」を重ねあわせる。そしてその「魂」を「透明な動き」と呼んでいる。この「透明な」はとても重要なことばかもしれない。なぜなら、もしその動きがそれぞれに「青」とか「赤」とかの「色」を持っていたら、「自分の魂が他人の魂の中に入り込」んだその瞬間に、そこに色の衝突、あるいは色の混合がはじまる。「紫」という新しい色がでてきてしまう。そういう色の変化を追うのも楽しいが、ナボコフの主人公は「透明」にこだわる。色ではなく「動き」に関心があるからだ。
 そして、このとき「肉体」が大切に扱われている。「魂」に触れるには肉体も大切にしなければならないのだ。自分と他人の「魂」の「透明な」「動き」を一致させるとき、主人公は「肉体」の力を借りる。「その人のひじが自分の肘掛けになるように」とナボコフは具体的に書いている。まるで「魂」と「肉体」の細部、その動きそのもののなかにあるかのようだ。
 だからこそ、ナボコフは「肉体」の動きをていねいに書く。ひとつの動きに、別の動きを重ねる。(続ける。)そうすることで、「肉体」の内部の、つまり「魂」の動きがより明確になる。少なくともひとつの動きから別の動きへとつづき、そのつづきのなかに、ひとつのものを別のものとつなげるための「根源的な意識=魂」が浮かび上がる--そう考えているらしい。

それでも彼は座って煙草をふかし続け、爪先をぶらぶら揺らしていた。

 煙草をふかしつづけるか、爪先をぶらぶらゆらすか、簡潔な小説なら、動きをひとつにするだろう。けれどナボコフはふたつの動きを書く。ナボコフにとって、ふたつを書くことは、複雑になることではなく、単純になることなのだ。ある動きと別の動きの「間」にある「動き」--「透明な」動きになることなのだ。
 ことばは(動きを描写することばは)、重なることで、その重なりの「間」に、運動の主体である人間の「魂」を浮かび上がらせる。
 文章が複雑になればなるほど、ナボコフは「透明」な運動を書きたいと思っているのだ。書けたと思っているのだ。
 単純と複雑は、ナボコフにとっては、私たちがふつうつかうのとは逆な「意味」をもっている。

 その「単純」の過激性は、次の部分に強烈に出ている。先の引用につづく文章である。

するとどうだろう、突然、世界の照明ががらっと変わり、彼は一瞬、実際にアレクサンドル・ヤコーヴレヴィチや、リュボーフィ・マルコヴナや、ワシリーエフになるのだった。
                                 (59ページ)

 「自分」ではなく「他人」に「なる」。「私」と「他人」がいるのではなく、そして二人が対話しているのではなく、そこには「他人」という「ひとり」だけがいる。そこで話すことばは「対話」ではなく、「ひとり」の「独白」になる。
 これは「見かけ」は「ひとり」だから単純だが、実際は「単純」な世界ではなく、とても複雑である。丁寧に書こうとすると、どんどん矛盾に陥っていくしかない。
 たとえば……。
 このとき「見かけ」は「複数」の人間が「ひとり」に集約するのだから「単純」である。しかし、そのとき「肉体」の内部、つまり「魂」は複雑である。ある内容を語る「魂」と「ひとり」になったと認識する「魂」の「ふたつ」がないと、ある人間が「別な人間」に「なった」と書くことはできないからである。
 これは、矛盾である。



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世界の文学〈8〉ナボコフ (1977年)
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粕谷栄市『遠い 川』(17)

2010-12-12 23:59:59 | 詩集
粕谷栄市『遠い 川』(17)(思潮社、2010年10月30日発行)

 井坂洋子の詩を読むと、そこに「肉体」があるのを感じる。「肉体」が「思想」そのものであると感じる。「肉体」が何かを隠し、その隠している何かは井坂には自明のことであり、読者には説明しない。ことばにしない。そこに井坂の意地悪なような、不思議な強さがある。
 そういうことばにら触れたあとでは、粕谷のことばの特質がいっそう浮き彫りになる。粕谷のことばには「肉体」がない。それは粕谷のことばが「考え」だからである。
 「螢」。

 男ならば、誰もが思い当たることだろう。深夜、独り、
手漕ぎの舟に乗って、月明かりの沼地を行くのは、淋し
いものである。

 この「男」には「肉体」がない。簡単に言いなおすと、たとえば「肉体」を持っている井坂洋子なら、この書き出しを「男ならば」と書き出さない。(書き出せない。)いきなり「他人」ですらない「抽象」から出発することはない。
 「男ならば」の「男」は完全な「抽象」である。幾人もの男がいて、その男に共通するものを「抽出」してできあがった平均的な「男」というものとも違う。それは、あくまで粕谷が「男」を考えたときに浮かび上がる「男」である。「誰もが」と書いてあるが、それはほんとうに「誰もが」ではない。粕谷が「誰もが」と考えたときに存在する「誰もが」である。
 すべてが粕谷が「考えた」ときに、その「考え」として、そこに存在するのだ。「男」だけではない。「舟」も「月明かり」も「沼地」も、そして「淋しい」さえも、考えたときに存在するのである。
 「淋しい」は感情ではなく「考え」なのである。
 それは「男ならば、誰もが思い当たることだろう。」ということばが証明している。「思い当たる」のであって「感じる」のではない。「淋しい」は男にとって、直接的な「感情」ではない。あくまで、「思い(考え)」を動かしていくとき、その「思い」がつきあたるもの、いま、そこにはないものなのである。
 粕谷は、いま、そこにあるものを書いているのではない。ことばを動かしていくと、そのことばの先にあらわれてくるものを書いている。「淋しい」も、そういう意味では、粕谷がつくりだしたものである。粕谷の「考え」がつくりだした感情として、いま、そこに「淋しい」がある。

 そこには何もない。そこにあるものは、ことばがつくりだしたもことばであって、それ以外のものはない。

 遠く、烈しく明滅するものが見えて、それを目指すほ
かないのだが、近づくと、そこには何もなくて、丈の高
い草が、水のなかから立っているだけだ。

 この「明滅するもの」(螢)は、まるで、粕谷が書いている(書こうとしている)「考え」そのもののようである。ことばを動かしていく。それは何かを書こうとすることなのだが、「書いた」と思っても、「書かれたもの」は、何もない。
 書きつづけるしかない。

 幾たびも、それを繰り返して、結局は、何もかも、ど
うでもよくなる。独り、舟の中で、仰向けになっている
しかないのだ。
 自分が、いつの間にか、思いがけなく、自分の日常か
ら、果てしなく、遠いところに来ている。そのことが、
ふしぎに、おかしくて、哀しいのである。

 この部分は粕谷が書いているものが「感情」ではなく「考え」であることを鮮明に語っている。「淋しい」が「ふしぎに、おかしくて、哀しい」にかわっている。書くにしたがって、そこに書かれることがかわり、それにあわせて、その書かれたものが「自分の日常から、果てしなく、遠いところに」まで進んでしまう。そして、それが「ふしぎに、おかしくて、哀しい」。
 こんなことは「感情」では起きない。感情は突き進めば突き進むほど、どっぷりと「いま」に沈み込む。「日常」のすべてをのみこみ「淋しい」だけになってしまう。というか、突き進んだふりをしながら、けっして動かないのが「感情」だろう。
 きのう読んだ井坂の詩に

私は質問したことはないが

 という1行があった。井坂は、何かを「思い当たる」具合に、ことばを、そのことばの先へ動かしていくことはしないのである。そうして、動かさないとき、「肉体」のなかでことばが「疑問」として「ぎざぎざ」した感じでとどまる。その「ぎざぎざ」の違和感こそが、井坂にとって「感情」であり、それが「思想」である。
 粕谷は、そうではない。「淋しい」が「ふしぎに、おかしくて、哀しい」にかわるのが粕谷の「思想」である。「考え」のなかで、ことばは、そんなふうにかわるのである。

 しんとして、いよいよ、天は深い。男ならば、誰もが
思い当たることだろう。今さらのように、自分が、独り、
無明の夢のなかにいることを知るのだ。

 井坂は「肉体」のなかにいる。けれども、粕谷は「考え」がつくりあげた「夢」のなかにいる。そして、そのことは「実感」ではなく、つまり「感じる」ことではなく「知る」という精神の運動なのだ。

 これは、いいことなのか。もしかすると、とんでもなく「まずい」とこかもしれない。「考え」「知る」ということはたしかに「思想」だけれど、そんなところへのみことばが動いて行ってしまうのは、もしかすると、ほんとうに「淋しい」ことかもしれない。

 そんなときだ。二つの乳房を持つものの切ない喘ぎの
声を、幽かに、耳にするのは。深く、怖ろしいものを感
じて、私は、思わず、身震いするのである。

 これは「女」と「私」の関係を書いているという風に読むのが正しいのだろうけれど、私は、ここでも「誤読」して、次のように読むのだ。
 粕谷は、「考え」だけを書きつづけては「まずい」ということを詩人の本能で感じて、ここでは「声」「耳」という「肉体」を呼び戻し、ことばで、あえて「怖ろしい」を作り上げ、恐怖に「身震いする」という「肉体」を取り戻しているのだ、と。
 「考え」は「肉体」にもどらないと、「思想」にはならないからである。粕谷は、ここでは「考え」を「肉体」に戻そうとしているのである。

 きちんとしたことばにできないが、井坂は「思想」を「肉体」のなかにしっかりと封印して、「肉体」を動かす。「思想」は動かずに、「肉体」が動く。一方、粕谷の「思想」はことばの動きにしたがって「肉体」から飛び出していく。それを、粕谷はことばをつかってもう一度「肉体」に呼び戻す。
 そういうことをしていると思う。



粕谷栄市詩集 (1976年) (現代詩文庫〈67〉)
粕谷 栄市
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森田芳光監督「武士の家計簿」(★★★★★)

2010-12-12 23:30:40 | 映画
監督 森田芳光 出演 堺雅人、仲間由紀恵、中村雅俊、松坂慶子、草笛光子

 あ、これはおもしろいなあ、と思ったシーンがある。一家がごはんを食べるシーンである。「家族ゲーム」で一家が横並びで食事するシーンで度肝を抜いた森田芳光は今度は逆に家族全員が顔を見ることができるよう「コ」の字型に一家を配置している。これは、まあ、昔はふつうの家庭の食事風景であるけれど、いまは、この「コ」の字が、たぶん、ない。家族の人数が減ったということ以上に、「トップ」が不在なのだ。
 江戸時代の武士の家だから、家長がいる、というのは当然だけれど、この「コ」の字の開いた方ではなく、ふさいでいる側の位置をしめる家長というのはなかなかおもしろい視線である。両側のひとの視線とはまったく動きが違う。彼は基本的に、誰とも真っ正面から視線をあわせない。あわせる必要がないのだ。家長だから、彼が見ているように、家族は世界を見なければならない。それが武士の家族の「生き方」である。
 他の家族にもきちんとすわるべき位置がある。家長(中村雅俊)の右手に直角に折れたところに妻(松坂慶子)が、そのとなりに「おばば」(草笛光子)が、そしてそのふたりと向き合う形で、つまり中村雅俊の左隣の列に堺雅人(跡取り)、仲間由紀恵(その妻)という具合である。
 その家族は何かいうとき、家長の顔色を重視するのはもちろんだが、向き合った家族の表情も気にする。簡単に言うと、他人の視線を気にしながら自分の意見を修正し、それを家長に報告するといえばいいのだろうか。そんなふうにして他の家族がことばをかわすのに対し、先に書いたけれど、家長はそんなことは気にしないのである。中村雅俊は、江戸につとめていたころ、屋敷の門を赤く塗るときの工夫したと、何度も何度も自慢げに話すが、そのとき家族が「またか」と思っている顔などまったく見ていないのと対照的である。
 こういう視線だけでは、もちろん人間は生きていけない。直接、ひととひとが面と向かうことが必要である。「家長」も「家長」以外の人間のことばを聞かなければならない。それは、しかし、食事のときとは別なのだ。食事を離れて二人になったとき、たとえば中村雅俊と松坂慶子は面と向かって話し、堺雅人と仲間由紀恵も目と目をあわせて話し、堺雅人とその子どももはっきりと目と目をあわせ、喧嘩(?)もするのである。
 食事は、そういう「場」ではないのだ。「公式」の「場」なのだ。「家族」それぞれの位置を確認し、その「場」を統一するのは、家長の哲学なのだ。だから、食事のとき、草笛光子は中村雅俊には何も言わないが、堺雅人に対しては「和算術」の問題を出して、答えをもとめたりする。「非公式の団欒」である。それは家長の「哲学」にはかかわってこないから、なにごともなくやりすごされる。
 家長が跡をゆずるなり、死んだりした場合は、当然、その位置がかわる。中村雅俊の座っていたところに堺雅人が座る。座る位置の変化が、そのまま家族の変化なのである。それはその家の「哲学」の変化でもあるのだ。
 映画は、厖大な借金を清算するために、節約に節約を重ね(それでも武士としての生き方はしっかりと守る)一家の工夫を描いている。その工夫(節約)に子どもの「わがまま」がからんでくるところがなかなか泣かせるが、そういうあれこれがあって、清算がおわったときと、ちょうど中村雅俊夫婦、おばばが死んだときが「一致」する。つまり、完全に「家」がかわってしまったとき、「借金」はなくなる。新しい「哲学」による「一家」が誕生するという構図になっている。
 借金返済計画は家長・中村雅俊ではなく、堺雅人の指揮で遂行されるけれど、このときでも中村雅俊が生きている限りは中村雅俊が「家長」の位置にいる。「家長」は、その位置から息子の計画を認めるという形をとる。
 なんでもないようなシーンだが、この「コ」の字型の食事シーンをきちんと撮っている、ただ撮るだけではなく、そこに変化を描いているところが実に巧みだ。
 はやりの「時代劇」なのだが、多くの時代劇のように「実証」にこだわって「写実的」ではない。映像が明るい。軽い。これも、この映画の魅力である。いまの日本の財政が、ちょうどこの映画の「一家」のような状態なので、ほんとうは思いテーマなのだが、それをそう感じさせずに、なるほど、そうすればいいのか、昔のひとはしっかりしているなあ、くらいの印象にとどめているところが美しい。

 なんといえばいいのか、まあ、K首相にみせてやりたい映画である。

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杉本徹「アコーディオン・ソング」

2010-12-12 10:00:07 | 詩(雑誌・同人誌)
杉本徹「アコーディオン・ソング」(「現代詩手帖」2010年12月号)

 杉本徹「アコーディオン・ソング」は、少しずつことばが乱れていく。その乱れのなかに、「思想」がある。

午後のはてで雲が切れた--
そのようにあなたは影を飼い、冬の大気の鼓動を
言葉少なに、愛した、……ある日ここに置き去りの
灰白色の陶器の皿の、北には
モノクロームの廃星とクレヴァスが、映りこむはず
(……わたしは記憶の底に射す昼の色を、だから語らなかった)
踏みしだいた雑草の渇きと、吹きつのる風の予兆、を
うつむきがちに告げながら
傾斜地をたどった、……その数刻を
追うこと、たとえば
あす現像される鳥の姿を囲うのではなく、空でない、と--
それはつねに空ではなく時間の皮膚で
ある、ように
あなたの(わたしの)滞空時間とは漲る無音の
裂け目のようなもの、手をつけば、……かえれない
うしろの、薄陽の痕跡を振りかえるとき
ほどけてゆく風景の階段下には、二輪車、泥靴、ペニンシュラ
そしていっせいに流れる葉という名の、乾いた地図を忘れ去ると
まばゆい、暗い、この小道の遠ざかる心が
西の時間でざわめいた

 「乱れる」と私が書いたのは、たとえば6行目と、14行目の比較の問題である。6行目の「(……わたしは」は、それ以前の5行が「あなた」の描写であり、描写しているのは「わたし」ではなるけれど、形式上の主語は「あなた」であると語っている。ところが14行目では、その二重構造はぐいと接近している。

あなたの(わたしの)滞空時間とは

 ここでは「わたし」は「あなた」と区別がおこなわれていない。6行目の形式を踏まえているために「わたし」はかっこのなかに入っているのだが、それは形式にすぎない。意識のなかでは「わたし」の方が強いのかもしれない。

わたしの(あなたの)滞空時間は

 と書きたいのだが、6行目で「わたし」をかっこのなかに入れてしまったために、その入れ替えができないのである。--いいかえると、杉本はいったん採用した形式にしたがってことばを動かしつづけるということになる。ことばの自由な運動を「形式」で縛り上げる。そこから「乱れ」がはじまる。
 「乱れ」には「無軌道」があるのではなく、「形式」と「形式を破ろうとする何か」のせめぎ合いがあるのだ。そういう対立というか、ふたつの存在をみきわめながらことばを動かすというのが、杉本の「思想」であり、「ふたつ」の間で乱れる、というのが杉本の抒情なのである。
 そのことが一番端的に出ているのが「あなた」と「わたし」である。「あなた」がいて、「わたし」がいる。「あなた」が語り、「わたし」は語らなかった。しかし、語らなかったからといって、そのとき、「わたし」にことばが存在しなかったということではない。語らないときでも「わたし」のなかには「無音」のままことばが「漲っている」。それは、あるとき、自然にこぼれてしまう。
 そして、詩に、なる。

言葉少なに、愛した、……ある日ここに置き去りの

 という行が象徴的だが、杉本のこの詩には読点「、」が何回も出てくる。そして、この行の読点が特徴的なのは、ふつうは「言葉少なに愛した」と読点なしにいわれるようなことばなのにそこに読点があるということだ。
 これも実は「あなた」「わたし」のように、ふたつのことがらなのだ。
 「言葉少なに愛した」のではなく、「言葉少なに」という状態がいったん意識される。それから「愛した」という「動詞」が動く。「言葉少なに」と「愛した」の間には「断絶」がある。「接続」よりも「断絶」が意識されている。
 「接続」と「断絶」の関係は不思議なもので、「断絶」が意識されれば意識されるほど「接続」も切実に意識される。
 「あなた」と「わたし」の間には誰がみてもわかる「明確な断絶」がある。その「誰がみてもわかる断絶」は、ふたりには意識されないことがある。たとえば、愛し合っているときに。けれどその愛がゆらいだとき、そこに生まれる「断絶」は、他人からみれば「接続」しているとしか見えない「断絶」だったりする。また、その「断絶」を「わたし」が意識するとしたら、それは「接続」への渇望があるからである。
 「断絶」と「接続」は、簡単に、ある状態を「断絶」、あるいは「接続」と断定できない。
 その「断絶」と「接続」の意識が、杉本のことばを、不思議な形で衝突させ、そこに悲鳴のようなものをしのびこませる。この不思議さを、私は「乱れ」と呼んでいる。
 この「乱れ」が一番大きくなるのは、次の部分である。

あす現像される鳥の姿を囲うのではなく、空でない、と--
それはつねに空ではなく時間の皮膚で

 「空」を何と読むか。杉本にはわかっているだろうけれど(わかっているから、ルビをふったりはしないのだと思うが)、私にはわからない。「そら」とも読めるし「くう」とも読める。「から」とは読まないとは思うが……。
 悩みながらも、私は、最初は「そらではない」と読み、次は「くうではなく」と読む。鳥を囲うのは「そら」である。けれど「時間」と対比されるのは「空間」だからである。そうすると「そら」というひとつの文字が、あるときは「そら」と読まれ、すぐあとには「くう」と読まれるという変な現象が起きる。「接続」しながら「断絶」するということがおきる。「乱れ」がおきる。
 「乱れ」が生まれるのだけれど、その「乱れ」を修正するのではなく、「乱れ」のまま、「いま」「ここ」に存在させる。そしてそれを「持続」させる。
 「断絶」「接続」のほかに「持続」というものがあるのだ。そして、その「持続」の主語は「わたし」であり、そのとき「わたし」がひとつの「抒情」になる。詩になる。

まばゆい、暗い、この小道の遠ざかる心が
西の時間でざわめいた

 「まばゆい」と「暗い」は反対のものである。それが読点「、」によって「切断」されることで「連続」する。読点を、たとえば「反対のものであると意識することによって結びつける力」と定義すると、「まばゆい」と「暗い」はその「定義」のなかで「持続」される。その「定義」を「持続」させるのは「心」というものであり、「持続」であるかぎり、そこには「時間」がある。その「持続・時間」のなかでの、意識された「乱れ」(わざと書かれた乱れ)を、杉本は「ざわめき」と呼んでいる--この詩では。

       (「アコーディオン・ソング」の初出は「読売新聞」2009年12月19日)



ステーション・エデン
杉本 徹
思潮社

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井坂洋子『嵐の前』(2)

2010-12-11 23:59:59 | 詩集
井坂洋子『嵐の前』(2)(思潮社、2010年10月25日発行)

 「俯瞰図を書かない」という生き方(思想)は「ふた葉」においても明確である。

木の階段をのぼるとき
何人もの靴の先で削られた
へこみに誘われる

 これは視線(視覚)がとらえた世界だけれど、なぜか「触覚」を感じさせる。「へこみ」を「削られた」ものととらえる視線のなかに、「削る」人と、「削られる」木の接点があるからだろう。
 そう思いながら、この「削られた」ということばに、私はちょっと異様なものを感じる。攻撃性を感じる。だからこそ「俯瞰図を書かない」を、「決意」(きっぱりした意思)と思うのかもしれない。
 攻撃性というのは、言い換えると、私には「削られた」ということばが思いつかない、思いつかなかった、というだけのことなのかもしれないけれど。私は、「磨り減った」くらいのことばしか思いつかないが、井坂は「削られた」と書く。「削られた」は木の立場である。ひとを主体にして書けば「削った」である。削るひとがいて、削られる木がある。そういうとらえ方に、ちょっと、どきっとしたのである。「磨り減った」は「削る」「削られた」という関係ではない。互いが「磨り減る」。木も、靴も磨り減る。ところが井坂の詩では、靴は磨り減っているようではない。あくまで靴は木を「削り」、木は「削られる」である。
 「俯瞰図を書かない」という姿勢は、そこまで深く徹底しているということなのだ。靴の方が木より硬い。だから、靴は一方的に「削り」、木は「削られる」。そこまで見ている。見ながら、そのへこみを触っている。どれくらいへこんでいるか、それは目で見るだけではなく、きっと井坂は触っているのだ。手で触らなくても、足裏で。あるいは、目で触るときも、ただじっと見つめるのではなく、へこみのカーブをていねいにたどって動く視線で触るのだ。
 その、不思議な曲線、へこみに触った視線は、どうしたって「不自然」な、曲がったものへと誘われていく。

古い建物の
ガラス戸の向こう
卍のポーズで
ねじれたままの女のひとがいる

 そのねじれと、木の階段のへこみ。それが出会うとき、私はなぜか、そのへこみをつくったのは、その女ひとりではないのか、という錯覚にとらわれる。そして、へこみ、ではなく、そのねじれにふくらみを感じる。--その女は妊婦ではないのか、と一瞬、思うのである。ふつうの女ではなく、腹が膨らんだ妊婦、傍から見ても妊婦とわかる姿の女、本人自身よりも重い(?)肉体で、卍のポースをとっている。その女の重みのために、木の階段は「削られ」、へこんだのである。

数日前 園芸センターで見た
レモンの鉢植
は あんな細枝に
大ぶりの実ったレモンが
図体を感じさせたが
からだの重い ひとの
図体をきゅうくつそうにしているのは
なんだか可憐だ

 女は、しかし、妊娠しているけれど、手足は細いのだ。細い手足に、まるで別の存在のようにしてまるく膨らんだ腹。その腹のカーブはレモンの実を通り越して、私には「削られた」木の階段のへこみを埋める膨らみに感じられる。
 ほんとうは何の関係もない木のへこみと妊婦の腹の膨らみ。そのカーブが、へこみと膨らみ自体が反対のものであるにもかかわらず、なぜか、ぴったりと重なる。
 この不思議な重なり、矛盾。へこみと膨らみが重なる、は矛盾でしょ?
 いや、矛盾じゃないのかな? 南アメリカのブラジルの東側の膨らみと、アフリカの西海岸のへこみが、実は、大陸プレートがつながっていた証拠であるように……。
 どうして、そんなことを考えるのかわからないけれど、わからないままに、いつのまにかそう考えている。そして、そういうときの考えは(ことばの動きは)、ものを「俯瞰」せず、最初に触れたものにしっかりと密着するところからはじまっている。
 何かに密着するということは、その何かから影響を受けて、自分が自分でなくなるということなのだ。最初に密着したものは、それ単独では存在せず、やはり何かと接触している。そして、密着しつづける「私」は、知らずに最初の存在から別の存在へと移動し、そこでさらに新しい何かを感じ、また自分でなくなる。
 井坂は、そういう変化を拒まない。余裕たっぷりに受け止める。余裕たっぷりというのは、何も感じずに、というのとは違う。何かを感じ、「私」が揺れる。揺れるけれど、揺れたっていい。それが「私」なのだ、と揺れを、揺れとして、はっきり書くことができるということである。
 その「私」の「実感」のようなものは、次の部分にもっと濃密に出てくる。

ヨガ教室の ヨガするひとを通りすぎて
部屋に辿りつくまで
埋めた種に
ふた葉が生えてくる
私は質問したことはないが
疑問が歯のぎざぎざのように湧く
性愛に関した二、三のこと
滅びについても一点

 「私は質問したことはないが」。これは、まことに手ごわい1行である。なぜ質問しないか。する必要がないからである。それは、井坂が「肉体」として知っていることがらである。「頭」ではなく、「肉体」で知っているから、質問する必要がない。
 「質問」すれば、それに対して「答え」が必要になる。「答え」も、「肉体」のなかにあるのだが、それをことばにしようとすれば、ちょっと違ってきてしまう。「頭」と「肉体」がせめぎあって、「ぎざぎざ」した感じが「肉体」とも「頭」ともわからないところにうごめく。「性愛に関した二、三のこと/滅びについても一点」とだけ指摘(?)して、そこでとどめおく。
 意地悪だなあとも思うし、攻撃的だなあ、とも思う。「そんなこと、読者が勝手に肉体で消化すればいいのであって、私(井坂)にはことばにする必要はない。私にはわかりきっていることなのだから」と言っているように感じられるのだ。
 でも、そういう部分が、私は好きだなあ。
 「よし、わかった、誤読してやろうじゃないか」という気持ちになる。売られた喧嘩(?)なら買ってやる--というようなことは、たしか昔書いたような記憶があるので、今回は省略。(と、書きながら、すでに半分以上、書いてしまっているかもしれないが。) で、以下は、前にこの詩の感想を書いたときに書いたかどうかはっきりしないこと。今回、気がついたこと。

 この連で私がおもしろいと思ったのは「ヨガするひとを通りすぎて」である。「ひと」を通りすぎることはできない。「ひと」を見ながら、その教室の前を通りすぎてというのが「学校教科書」の「作文」だろうけれど、でも、そうじゃなくて、ほんとうに井坂は「通りすぎて」いるのだ、きっと。その「肉体」を。妊婦の「肉体」を。だから、そこから種の芽生えや性愛が必然としてつながってくる。
 一点、「疑問が歯のぎざぎざのように」は私に、あまりにもわからなさすぎる。「歯」ではなく、「葉」なら、芽生えた「葉」の形が「ぎざぎさ」かなあ、とも思えるのだが……。
 何だろう。
 わからないが、わからないことがあると、詩は、とても読みやすい。ことばが次にどんなふうに飛躍しても、あ、これはきっと私のわからなかった何かを跳躍台にしてジャンプしたんだな、と思えるからである。

初潮を迎えた十二の年から
月とは関わり深かった
かぐやのように
じきに天にのぼり
十二以前の細い躯になるのは楽しみだ
                     (谷内注・「躯」は原文と正字)

 「月」は帰り道に「月」が出ていたのか。それとも、妊婦の腹が大きくなり、出産後、へこんで小さくなる--その満ち欠けから連想したものなのか、たぶん、後者だろう。そして、その「月」から「かぐや姫」、そして「死」をへて少女にもどる--その輪廻へとことばは動く。
 あれっ、どうして、こんなことを考えるのかなあ。
 わからない。最初は木の階段のへこみだったのに……どこが、こんな輪廻を考えるときのきっかけなんだろう。
 わからない。
 わからないけれど、この不思議なことばの運動は、「俯瞰図」にしようとするから不思議というか、奇妙、変、なのだ。最初からただ読んでいるだけのときは、不思議でも何でもない。自然に動いていく。
 おおげさな仕掛けもなく、ただことばが肉体と共に動いて行って、それが「哲学」にまでたどりつく--そこにおもしろさがある。



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はじめの穴 終わりの口
井坂 洋子
幻戯書房
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豊原清明「俳文『草を抱く』(3)」

2010-12-11 20:15:09 | その他(音楽、小説etc)
豊原清明「俳文『草を抱く』(3)」(「白黒目」26、2010年11月発行)

 豊原清明「俳文『草を抱く』(3)」は俳句と文章を組み合わせたものである。

曇りから抜け出た鳥の夜寒かな

 夏日は晴れじゃないと、なんとなく物足りなくなるが、秋、冬、と、移行していく最中で、「九森も、ええなあ。」と思うのだ。今年の秋は暑く、憂鬱でなにをしても旨くいかなかった。春、夏、と、緊張していたのか、秋は、「だらん」として、ごろごろした。気が向けば、すぐ近くの「マルゴ」店に行っていた。一人外出はそれ位になった。何が悩み事かといえば、女性と、誰一人とて、付き合っていない、飢えと、教会のにこにこした場で、ひとりっきりになるという、疎外感である。そんな、秋が終わった。

 「曇りから」という書き方がとてもおもしろい。「曇天から」「雲間から」くらいしか、私は思い浮かばない。「曇天から」も「雲間から」も「空」を指すが、「曇りから」はどうだろう。もちろん「空」も指すだろうが、私には何か「空」未満の感じがする。地面と空の間にある光の弱い「空間」。その「空間」に閉じ込められていたのは、鳥か。鳥であると同時に豊原なのだろう。「抜け出た」もいいなあ。
 文章の「そんな、秋がおわった。」がさっぱりしている。

ゆっくりとした父母包みしは冬の虫

曇り絵図撮って雨月の日々遅刻

秋雨後の父の時計や磨き澄む

 どの句も、句の中に「時間」がある。俳句は「一期一会」のものだが、その「一期一会」のためには、作者の「時間」(過去)が必要なのだ。作者の「時間」が対象と出会い、その瞬間に、「時間」が組み替えられあらわれるということなのかもしれない。




夜の人工の木
豊原 清明
青土社
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井坂洋子『嵐の前』

2010-12-10 23:59:59 | 詩集
井坂洋子『嵐の前』(思潮社、2010年10月25日発行)

 書き出しの1行で、その詩全体がわかる(わかると錯覚する)作品がある。その1行で詩集全体がわかったと思う詩がある。
 井坂洋子『嵐の前』を私は読みはじめたばかりである。「溝」という作品の1行目を読み、その1行にのみこまれ、この詩はこの1行にすべてがあると感じ、瞬間的に詩集全体もこの1行が始まりなのだ、方向を決定づけているのだ、と感じた。まだ「溝」と「ふた葉」しか読んでいないが、感じたこと、考えたことを書いておく。
 「溝」。

俯瞰図を書けない蟻の足が透き通ってくる
かげろうが立つ道の 端に寄れば反対側が翳
り どちらに寄っても炎暑に灼かれる 前頭
葉の溝まで干涸びるようだ その溝に沿って
歩き続ける 生垣の向こうを横切るのは級友
 私に目もくれずに 自分の巣に散って行っ
た彼女らはそれぞれが私に似た影を引き 長
い耳をしている 頭上に傷痕のようなどす黒
い太陽を戴き 炎暑に灼かれながら生真面目
な姿勢を崩さない 死んでいったひとりの友
が半身を無間に転写されながら 振り子の水
脈を探しあてている それでこのうねり波う
つ道に 新しい水道管が縦横に走っている訳
がわかった
      (谷内注・「干涸びる」には「ひから」びる、のルビ、
           「無間」には「むけん」のルビがついている。)
 
 書き出しは「俯瞰図を書けない」とはじまっているが、これは「俯瞰図を書かない」という井坂の決意のようなもの、これからはじまる詩の決意のようなものがこめられている。世界を俯瞰しないのだ。あくまで、「蟻」になるのだ。蟻になって、目を対象に近づけていく。対象にこだわる。そこからはじまる旅と冒険がある。
 だから、猛暑に灼かれ、

前頭葉の溝まで干涸びるようだ その溝に沿って歩き続ける

 という行を読むと、一瞬、強烈な眩暈がやってくる。「溝」。それは、道路の「溝」? それとも、前頭葉の「溝」? 「その」という意地悪なことばが、眩暈を誘うのだ。
 井坂には「その」がわかりきっている。井坂が書いているのだから。「肉体」になっているのだから。
 (あるいは「肉体」になってしまっているので、井坂自身も、それがわかっていないかもしれない--これは、あとでもう一度別な形でふれることになる問題である。)
 けれど、私には、それがどちらを指しているのかわからない。わからないまま--つまり、「その」がどちらを指しているか俯瞰すること、対象から離れてそれを見下ろし、識別することができず、蟻になって、「溝」に迷い込む。
 俯瞰図を書けない(書かない)蟻は、いったん「前頭葉」のなかに入りこみ、その溝に触れたなら、もう「下界」(?)溝にはもどれない。蟻は、前頭葉の溝を歩いているのだ。その「前頭葉」の「溝」から見る世界は、では、誰の世界?
 「私(井坂)」の世界? 蟻の世界? 蟻が見た井坂の世界? 蟻ならこんなふうに見えるにちがいないと想像した井坂の世界?
 わからない。わからないまま二重になる。
 「端に寄れば反対側が翳り」ということばがあったが、そこには二つのものが「端」をつくっている。「蟻」と「私」。そして、それが互いに反対側をみつめている。その「ふたつ」の視線によって、世界が二重になる。「級友」は「家」ではなく「巣」へ帰るといとき、そこには「級友」と「蟻」の区別がなくなっている。したがって、頭上に「どす黒い太陽」を戴いているのは、「級友」なのか「蟻」なのかもわからない。「生真面目」なのは「蟻」なのか、「級友」なのか。死んでいったのは「蟻」なのか、「級友」なのか。
 こういう「無分別」の世界を通ることで、井坂のことばは、「現実」を離れ、無分別に「哲学・思想」の世界へ飛躍する。もちろん「哲学・思想」も「現実」ではあるのだが、「蟻」の足が透き通るとか、「級友」が「長い耳をしている」というような調子では語れない世界である。
 ふいに、

無間

 ということばが出てくる。「無間地獄」。間断がない。つながっている。
 それは、なぜか、「蟻」と「級友」(私)の間にも「断絶」がない--つながっているということを思い出させる。
 「無間地獄」とは苦痛が絶え間なくつづくということなのかなあ。それは、もしかすると罪を犯さなくても、たとえば「私」と「蟻」「級友」の区別がつかなくなり、「私」以外のものの存在を「私」の「ありよう」として「肉体」のなかに実感するとき感じる一種の苦悩につながるのかなあ。あ、「蟻」は苦しいだろうなあ、「級友」はくるしいだろうなあ、と実感するときに存在する「無間」としてあるのかなあ。

 俯瞰図を書かない--そうすると、どうしても対象に密着してしまう。そして、対象に触れ続けると、間断がなくなり、無間があらわれる。そのなかで、「私」は「私」ではなくなり、「私以外のもの」になる。そして、「私」が「私」であるときは、見ることのできなかったものが、突然見える。わかる。

それでこのうねり波うつ道に 新しい水道管が縦横に走っている訳がわかった

 この「それで」も非常にわかりにくい。「それ」が何を指しているか、わからない。これは井坂にもわからないかもしれない。わからないまま「それで」と、あたかも論理的な理由(根拠)でもあるかのようにして、ぐい、と不透明な部分をつきぬけてしまう。「肉体」で突き進んでしまう。
 「それ」「これ」「あれ」の区別がなくなっている。間断がなく、そこにも「無間」があるのだ。「無」があるのだ。存在の、形象の無があるのだ。まだ形になる前の、エネルギーそのものの「場」としての「無」と「無間」がこのとき重なり合う。
 その「無(無間)」を通って、その瞬間に、「新しい水道管」が存在・形象に変化する。それを井坂は発見するのだが、不思議だねえ、このとき井坂は「私」?「蟻」?「級友」?それとも「水道管」?あるいは「溝」?

 わからなくなる。いや、わからなくする。そうして、それぞれが好きなものになればそれでいいじゃないか、そうやってそれぞれが好きなものになって生きているのが世界だと井坂は考えているのかもしれない。感じているのかもしれない。
 まあ、そんなことは、どうでもよくて、そういう私が私以外のものになるために、井坂は「俯瞰図を書かない」、「間断」をつくらない、「間断」を拒否して「無間」へ入っていく、という方法をとるのだと思った。




嵐の前
井坂 洋子
思潮社

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吉増剛造「棘が人生の小川をぎっしりと流れている」

2010-12-10 11:12:08 | 詩(雑誌・同人誌)
吉増剛造「棘が人生の小川をぎっしりと流れている」(「現代詩手帖」2010年12月号)

 私は音痴である。どれくらい音痴かというと、人が歌っているのを聞いて、それを再現できない。どの高さの(どの位置の?)音を出しているのかわからないので、自分で再現できない。楽譜を見ながらなら、あ、これはこの音なのかと高さを確認できる。では楽譜が読めるのかとなると、これも無理。楽譜を見たって、それを自分では再現できない。人がそれを歌うのを聞いて、あ、これは声にするとこんなふうになるのか、とわかる程度である。ひとが歌うとき、そのメロディーを自分に歌いやすいように高さをかえることがあるが(キーをかえるというのかな?)、そういう歌を聴くと、もう楽譜がわからなくなる。完璧な音痴である。
 ことばではそんなことは起きない。まあ、ときどきは勘違いするけれど、ひとの話したことは一応そのまま反復できる。書き取ることができる。書かれたものを読み、それを声に出して読むことはできる。(カタカナは除く。)声に出さなくても、自然に「肉体」が動いている。喉が動いているし、耳も動いている。黙読の場合でも、私は、ときどきひどく喉がつかれるときがある。(書いているときも、ときどきつかれる。)
 そして、私の場合、ことばを読むとき、そこに「音」が聞こえないと、何が書いてあるさっぱりわからない。私は「音痴」のくせに、ことばだけは「音」なしではおもしろいともなんとも感じないのである。
 なぜこんなことをくだくだと書いているかというと……。

 私は吉増剛造の詩がまったくわからないのである。読めないのである。「棘が人生の小川をぎっしりと流れている」の書き出し。

棘(とげ)が人生の小川をぎっしりと流れている

 これは読むことができる。「音」が聞こえる。ところが、その冒頭の1行につづいて、詩は突然活字の大きさを変えて、次のようにつづく。(私の表記は、同じ活字の大きさになってしまうが、本文は小さい活字である。--「現代詩手帖」で確かめてください。)

07.3. 29島尾ミホさんの急逝に逢い、こころは行触れ-----そこまで
 行って触ってきたように、
        (谷内注・「行触れ」には「いきぶ(れ)」のルビ、
             「触って」には「さわ(って)」のルビ)

 どう読めばいいのだろう。転写して見ると読むことはできるが、本の形のままでは、私には見当がつかない。文字が小さいから、「音」も小さいのか。文字がびっしり詰まっているから、そのリズムは1行目より速いのか。
 他のひとは、どんな感じで「音」を受け止めているのだろうか。
 注として、私はルビのことを書いたが、ルビの問題もよくわからない。
 2連目の2行目。

小川は、まだお元気だったころにミホさんが古里(ふるさと)加計呂麻
 の、……少し、神さびたような山蔭で、
       (谷内注・「神さびた」には「かん(さびた)」のルビ)

 「古里」の読み方は括弧内にいれて説明し、「神さびた」はルビ。このとき「音」はどうなるのだろうか。読むリズムは?
 「楽譜」のリズム、音の強弱は、まあ、作者の指定もあるだろうけれど、それは演奏家(歌い手)の好みでかえてもいいものだろう。ことばを「読む」ときも、そのリズム、音の強弱などは読者のかってだろうけれど、吉増の詩のように、活字の大きさや、読み方の表記の仕方、さらには活字の汲み方、いくつもの表記記号のつかいわけ、さらには外国語までまじってくると、これはほんとうに、まったくわからない。お手上げである。
 私は朗読というものをほとんど聞いたことがない。吉増の朗読はもちろん聞いたことがない。吉増の声すら知らない。吉増の朗読を聞けば、この詩の読み方はわかるかもしれないが、聞いてもすぐにはその「読み方」を自分のものとして再現できるかなあ。わからない。
 それに、私は、文学というのは、作者の指定した読み方ではなく、読者がかってに読んでいいものと思っているから、読み方を作者に指定されたくはない。
 だったら、吉増がどんな表記の仕方をしていようが、勝手に読めば--ということになるかもしれないが、それはちょっと違う。
 たとえば、きのう読んだ粕谷栄市の作品。それを私はかってに「誤読」しているが、粕谷の作品にはどんな指定もない。句読点や改行はあるが、活字の大きさに変化はない。同じものとして書かれているものを、私はかってに、ここがおもしろいと選び出して感想を書いている。吉増の詩の場合は、そういう「かって」ができない。表記が、ことばに一定の「枠」を与えている。その「枠」に邪魔されて、ことばが「音」にならない。そうすると、ことばは「肉体」に入ってこない。



吉増剛造詩集 (ハルキ文庫)
吉増 剛造
角川春樹事務所

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コメント (2)
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