詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

粕谷栄市『遠い 川』(16)

2010-12-09 23:59:59 | 詩集
粕谷栄市『遠い 川』(16)(思潮社、2010年10月30日発行)

 「へちま」という詩も「考える」とは何かということについて考えさせられる。

 しずかな夏の日のことだ。そこが、どこか分からない
うす暗がりに、青いおおきなへちまが、一本、ぶら下が
っていて、その下に、ひとりの男が坐っていた。
 それだけのことだ。うす暗がりに、青いおおきなへち
まが、一本、ぶら下がっていて、その下に、ひとりの男
が、しょんぼり、坐っていたのだ。
 いつまでも、それは変わらなかった。その日、その男
は、何もかも行き詰まっていた。何もかも行き詰まって、
自ら、首を吊って、死んでしまうことを考えていた。
 そうしていて、唐突に、それが見えることに、気がつ
いたのだ。うす暗がりに、青いへちまが、一本、ぶら下
がっていて、ひとりの男が、しょんぼり、坐っている。

 「それが見えること」の「それ」とは、そのことばの前と、後に出てくることがらである。「うす暗がりに、青いへちまが、一本、ぶら下がっていて、ひとりの男が、しょんぼり、坐っている。」--その様子、その全体の姿、世界が見える。
 死んでしまうことを「考えていた」ときに、それが見える。
 これは、とても奇妙なことである。その「見える」ものは「幻」ではない。いま、そこにそうしている男そのものである。
 「考える」と「自分(私)」が見えるのである。これは「考え」と「自分(私)」が「同じもの」であると、語っている。それは「考え」が「私」になったのか。あるいは「私」が「考え」になったのか。--わからないが、「考え」と「私」が「一体」になっているということ、区別がつかなくなっているということは、わかる。いや、「見える」のだから、そこに区別はあるのだが、区別は無意味になっている、ということがわかる、というべきなのかもしれない。
 でも、いつ、どこで、そういうことが起きるのか。「いつ」は「しずかな夏の日」。「どこ」か--「どこか分からないうす暗がり」。「どこ」がわからないのは、「考え」と「私」が「一体」になり、「考え」の「場」も「私」の「場」も消えてしまっているからだ。「どこ」がなくなっているのだ。「どこ」すらが「一体」になっているのだ。「場」が広がりながら同時に消滅している。

 ばかばかしいことだ。何もかも行き詰まるということ
は、そういうことなのだろう。つまり、その日、自分に
見えるのは、それだけになったのだ。

 場でありながら、場の消滅--そこには、場がない。「行き詰まる」のは、必然である。「ここ」も「どこ」がないのだから、どこにも行きようがない。
 ただ「いつ」=「しずかな夏の日」という「時間」だけがある。しかし、この「時間」もほんものの「時間」かどうかわからない。

 たぶん、何もかも厭になって、一日中、ふとんをかぶ
って、死ぬことを考えている男に、よくあることだ。

 「しずかな夏の日」は「しずかな夏の日」ではない。「その日」とは別の日である。「同じ日」かもしれないが、同じ日であっても、違う。「しずかな夏の日」の方は、一日の限定された時間である。「うす暗がり」ということばから、たとえば「夕方」という時間が考えられるが、それがいわば「一瞬」であるのにに対して、「考え」の方は「一日中」という「長い時間」が想定されている。
 ここでは「一瞬」と「一日中」が「一体」になっている。「考え」と「私」のように、「どこ」と「ここ」のように、「一体」になっている。

 で、「いま」はいつ? 「ここ」(どこ)はどこ? 「分からない」。
 「分からない」けれど、わかる。「いま」でありながら「いま」ではない。「ここ」(どこ)でありながら「ここ」「どこ」ではない。時間も場も「一体」になっている--それは「永遠」である。

 はるかな永遠のうす暗がりに、青いおおきなへちまが、
一本、ぶら下がっていて、その下に、自分そっくりの男
が、しょんぼり、坐っている。

 「はるかな永遠」は「いま」「ここ」、「私」の「考え」のなかにある。それは、「自分が生まれる前からあって、死んでからも、ずっと、そのまま、ある」のだ。
 この「考え」は、「ばかばかしい」ものかもしれない。
 でも……。

 ばかばかしいことだ。その男にも、やがて、それは、
よく分かったから、彼は、誰にも、そのことを言わなか
った。自分が、自ら、首を吊って死ぬことを止めてから
も、一生、口にすることもなかった
 ただ、その後、生きていて、ひどくつらいことがある
とき、ときどき、それを思いだした。

 あ、ここでも「思う」のだ。最後は「考える」のではなく、「思う」のなかで「和解」する。
 「永遠」は「考える」ものではなく、「思う」ものなのかもしれない。
 「思う」とき、どんなに「ばかばかしいこと(考え)」でも、それは人を「いま」「ここ」から、「永遠」へと人を案内してくれるのだ。「考え」は「考え」のままではだめなのだ。「思う」にまで、しっかりと抱きしめられなければならないものなのだ。


粕谷栄市詩集 (1976年) (現代詩文庫〈67〉)
粕谷 栄市
思潮社

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粕谷栄市『遠い 川』(15)

2010-12-08 23:59:59 | 詩集
粕谷栄市『遠い 川』(15)(思潮社、2010年10月30日発行)

 「死んだ女房」は、それまでの粕谷の詩とは同じように、ゆっくりはじまる。繰り返し、同じことが語られる。

 その日、どういうわけか、何度も、同じ女に会った。
淋しそうな顔立ちのきれいな痩せた女で、小笊をかかえ
て、ぼんやり、佇んでいる。
 自分のように、車を曳いて、干魚を売る商いをしてい
ると、いろいろなことがある。女は、掘割の柳の陰にい
たり、横町の煙草屋の角にいたりした。おれが稲荷の社
で弁当を食っているときも、遠くで、おれを見ていた。
 車を曳いてゆくと、いなくなっている。結局、それだ
けのことだった。その日、家で、銭を数えながら、その
女のことを思い出したが、全く、心当たりはなかった。
 誰だったろう。死んだ女房の知り合いだったか。それ
にしても、その後、その女を見ることはなかったのだ。

 ここまでは、ごくふつうの展開である。だが、次に思いがけないことが起きる。

 次に、久しぶりに、その女を見たのは、おれが、病気
で寝ているときだった。夕暮れ、女は、おれの家にいて、
台所で、蕪を洗っていた。

 この展開は、「怪談」や「怪奇小説」なら、ありきたりかもしれない。そして、この作品の前に「幽霊」を読まなかったら、この部分はなんとなく読み過ごしたかもしれない。「痩せた女」のことを知らないと書いているが、まあ、これは「死んだ女房」の幽霊のようなものだな、と思ったかもしれない。
 まあ、「幽霊」を読んだあとでも、この部分まで読んだときは、この女は「幽霊」だな、と印象を持ってしまうのだけれど……。
 この変化(展開)の直前の「誰だったろう。死んだ女房の知り合いだったか。」がとても気になるのである。このことばを書いたために「女」がやってきたのではないか--そう気がついたのである。
 「誰だったろう。死んだ女房の知り合いだったか。」--これは何だろう。他の部分と、どう違うのか。このことばは、「おれ」が見たこと、したことの「描写」ではない。これは、おれの「考え」である。男は「考えている」。女とは誰なのか。「心当たりはなかった」ので、「心」で何かを思うのではなく、「頭」で考えたのだ。考えることが、男と女の関係をかえてしまったのだ。

 おれは、布団から頭を上げて、それを見た。たしかに、
あの女だと分かったが、今度は、女は、居間で、足袋を
縫っていて、おれに気づかなかった。そのうちに、あた
りが暗くなって、何もかも見えなくなった。

 これは、何だろうか。男が見たものだろうか。男がみたことの「描写」だろうか。書き出しの一段落と同じ「文体」でできているのだろうか。女が「おれに気づかなかった。」とはどういうことだろう。蕪を洗っているときは、女は、おれに気づいていたのだろうか。だいたい、女が男に気づいているか気づいていないか、男が判断できることだろうか。何か、とても変である。

 おれは死病だと言われて、寝たきりだったのだ。高熱
が出て、何度も気が遠くなったから、それは、そのとき
だけの幻だったかもしれない。

 あ、これは、男が見たものの(見たことのの)描写ではないのだ。ここに書かれているのは、すべて「考え」なのだ。「誰だったろう。」以後は、男の「考え」である。
 病気で寝たきりになったら、ある日見かけた女がやってきて「世話」をしてくれる。そんなことを「考えた」。「心」で思ったのではなく、「頭」で考えた。その女は、足袋を繕いながら、男には気づかない--というふうに、男は、女の「生き方」を考えた。
 そして、そんなふうに「考えた」こと、「頭」で考えたことを何というか。
 「幻」である。
 「幻だったかも知れない」と粕谷は書いているが。「頭」で考えたことは「幻」である。そして、その「幻」は考えるだけではなく、それに対して「かも知れない」と疑うとき、「幻」ではなく、たしかなものになる。
 考え、その考えを疑うとき、考えるということが、思想になる。思想になったあと、ことばはもう一度大きく変化する。

 人間は一回しか生きられない。この世の巡り合わせは、
さまざまだ。本当は、おれは、どこかで、あの痩せた女
と一生を共にしていたのかも知れない。ほんの一度だけ、
その暮らしの有りようを垣間見たのかもしれない。

 「本当は、おれは、どこかで、あの痩せた女と一生を共にしていたのかも知れない。」は、「かも知れない」が象徴的だが、これも「考え」(思想)そのものである。一生は一度だから、誰と巡り合い、誰と暮らすかは、「ひとつ」しかない。「ひとつ」しかないということは、しかし、その「ひとつ」以外のこともあることを教えてくれる。--ということを、ひとは、考えることができるのだ。
 不可能を考える。考えることができる。その不思議さ。なぜ、人間は不可能なことを考えることができるのだろう。

 考えは、考えたことを疑うとき、明確な思想になる。そして、思想になってしまうと、それはもう「頭」の枠を叩きこわしてあふれ、もう一度「思い」のなかで「和解」する。ことばは「かも知れない」を振り切って、一種の「おろかしい」思いの断定になる。「おろかしい」と書いてしまったが、何といえばいいのか……笑い話のような感じの、すべてを許してしまう何かにかわっていく。

 息を引き取る前に、何かが、おれにそれを知らせたの
だ。いずれにせよ、死んだ女房に話したら、気の強い女
のことだ。すぐ、ぶちのめされるようなはなしだ。
 この世を去るめのときまで、そんな頬を張り倒される
ような、ばかな夢を見たりして、結局、おれは、死んだ
女房のところへゆくのだ。

 「おれは、死んだ女房のところへゆくのだ。」この確信。このあたたかさ。「死ぬ」というのは哀しいことなのかもしれないけれど、こういう死なら、これはいいものだなあ、と感じさせる。
 死を、こんなにあたかかい感じにしてしまえることば--粕谷は、なんだか、とてもすごい「思想」にたどりついている。





鄙唄
粕谷 栄市
書肆山田

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誰も書かなかった西脇順三郎(158 )

2010-12-08 11:44:27 | 誰も書かなかった西脇順三郎
 『豊饒の女神』の巻頭の「どこかで」。

どこかでキツツキの音がする
灰色の淋しい光が斜めにさす
コンクリートのせまい街を行く
アンジェリコの天使のような粋な
野薔薇のように青ざめた若い女が
すれちがった--ゆくりなく
ベーラムがかすかにただよう
この果てしないうら悲しさ
「おどりのけいこに行つて来たのよ」

 「淋しい」と「うら悲しさ」と、どう違うのだろう。はっきりとはわからない。けれど、もし、「この果てしない淋しさ」だったら、この詩の印象は違ってくるだろうと思う。「うら悲しさ」、とくに「悲しさ」の「か行」のことばが、次の「おどりのけいこ」の「けいこ」ととてもいい感じで響きあう。「この果てしない淋しさ」だと「おどりのけいこ」とはうまく響き合わない。遠く離れてしまって、音楽が生まれてこない。
 この「か行」はどこからきているか。

すれちがった--ゆくりなく

 この1行の、とくに「ゆくりなく」の「く」からきている。「ゆくりなく」の「ゆくり」は「ゆかり」。「ゆかり」がない。「縁」がない。そこから「思いがけない」という意味が生まれているのだと思うが、「ゆくり」と「ゆかり」には音のすれ違いがある。「く」という音を意識しながら、どこかで「か」の音を聞いている。そのすれ違いの中に「か行」の意識が強くなる。
 「か」すかにただよう。(音楽なのに、かすかに、かおる、そのかおりのようなものもある。)「こ」のはてしないうら「か」なしさ。おどりの「け」い「こ」にいって「き」たのよ。
 「この果てしないうら悲しさ」はまた、このはて「し」ないうらかな「し」「さ」であり、その「さ行」の動きは、「さ」びしいを呼び覚ます。
 「この果てしないうら悲しさ」という1行には「かなしさ」と「さびしさ」が出会っているのだ。
 けれど、そういう「意味」を突き放して、

「おどりのけいこに行つて来たのよ」

 という1行でおわる。
 「おどりのけいこに行って来」て、それがどうした? どうもしない。一瞬の「すれ違い」のおもしろさがあるだけである。それは、「無意味」かもしれないが、その「無意味」が詩なのである。




詩集 (定本 西脇順三郎全集)
西脇 順三郎
筑摩書房

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松川穂波「足りない夢」、渡辺めぐみ「小笛記」ほか

2010-12-07 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
松川穂波「足りない夢」、渡辺めぐみ「小笛記」ほか(「イリプスⅡ」06、2010年11月15日発行)

 松川穂波「足りない夢」は散文詩ということになるのだと思う。そして「夢」を描いているという点でも粕谷栄市の詩と通い合うものがある--はずであるが、通い合うものよりも、違いの方がくっきりと見えてくる。

なぜわたしを忌むのか ほんとうにわたしは いっぽん足りない鳥なのか
六月の早い朝 空は濁り沼のように水を張り そのとりわけ深い淵を渡る
とき ついわたしは大声をえげたくなる 漆黒の喉にしつぞんの力をこめ
嘴を震わせ わたしの静かな暮らしを唄ってみる かあ!かあ!かあ!す
ると 下町一帯に広がるくすんだ家々の とりわけ貧しげな二階の窓あた
りから 谺する声が零れるのだ ああ!ああ! その声のはるか先には
たいてい汚れたカーテンがぼんやりと揺れていて その声のはるか先には
わたしの喉より黒い沼が瘴気をあげている わたしは誰かの夢を破ったの
かもしれない それはどこかいっぽん足りない夢であるはずだが ゴルフ
ボールの代わりにその夢のかけらをひょいと咥えたら もう鳴くこともで
きず わたしはどの枝にも帰りかねている

 粕谷のことばと何が違うのか。粕谷のことばは「考え」をあらわしていたが、松川のことばは「考え」を持っていない。「考え」をもっていないという言い方はちょっと失礼な言い方で申し訳ないが、ことばが「考え」になっていない。「考え」に到達せずに、「考え」に至る前に別のものに動いていってしまう。
 たとえば、「かあ!かあ!」と鳴くカラス。そして、それに答えて「ああ!ああ!」と声をもらす人間。きちんと書いているにもかかわらず、書き終わっていないという印象が残る。
 なぜだろう。
 反復がないからだ。
 松川の詩に対する感想と粕谷の詩に対する感想がごちゃまぜになって申し訳ないと思うけれど……。粕谷の詩には、うんざりするほどの繰り返しがあった。ほとんど繰り返ししかないと言っていいくらい、同じことばが繰り返されている。
 そのことを思い出すとわかるのだが、「考え」とは「繰り返し」によって「考え」になるのだ。「散文」は前に書いたことを踏まえて次へ進むものだが、その前に書いたことを踏まえるということのなかには「繰り返し」があるのだ。
 松川は繰り返さない。
 「大声をあげたくなる」と、「かあ!かあ!」と素直に声に出してしまう。そして、その「かあ!かあ!」がどういう「意味」をもっているのか点検しない。点検する代わりに、まったく違うことをしてしまう。自分に目を向けずに、自分の外へと目を動かしてしまう。「下町一帯に広がるくすんだ家々の とりわけ貧しげな二階の窓あたりから」というような、声を上げたくなったこととは無関係なものを拾い集めてしまう。その瞬間、「わたし」がいなくなる。
 その結果。
「ああ!ああ!」と声をもらす人間に出会うのだが……。
 この「出会い」が直接的ではない。先に書いてしまったが、「かあ!かあ!」と「ああ!ああ!」の間に、「下町一帯に広がるくすんだ家々の とりわけ貧しげな二階の窓あたりから」という緩衝物が入る。
 そのために、「わたし」は、前にもまして「わたし」を「繰り返すこと」ができなくなる。「ああ!ああ!」という人間になって「わたし」を繰り返そうにも、「わたし」は「町の描写」という緩衝物によって切断されてしまっている。
 「考え」というものは、間に「緩衝物」を入れると成り立たなくなる。
 ただ、先へ先へと進む「物語」になってしまう。ストーリーになってしまう。もし、そこで何かを考えようとすると、ストーリーを「考え」にしてしまうしかない。
 だから「わたしの喉より黒い沼が瘴気をあげている」というような「仕掛け」が必要になってくる。「黒い沼」の「瘴気」など、「わたし」とは何の関係もない。「ああ!ああ!」と声をもらした人間とも何の関係もない。
 「わたし」→「ああ!ああ!と声をもらす人間」→「黒い沼の瘴気」
 図式化するとわかるが、矢印が「もの」をつないでいるのだが、この矢印は「接続」であると同時に、「分離」でもある。「わたし」が「黒い沼の瘴気」まで行ってしまうと、「「ああ!ああ!と声をもらす人間」は欠落してしまう。それは、「わたし」と「ああ!ああ!と声をもらす人間」が接続した瞬間、「わたし」→「ああ!ああ!と声をもらす人間」の矢印の部分に存在した「下町一帯に広がるくすんだ家々の とりわけ貧しげな二階の窓あたりから」が欠落するのと同じである。
 松川のことばは先へは進むが、その運動の過程で、「考え」を捨ててしまうのだ。「考え」というのは、もちろん運動もするけれど、「いま」「ここ」に踏みとどまって、反復することでしか明確にならないものなのかもしれない。
 --粕谷の詩を読み、その影響を残したまま、他のひとの作品を読むと、そんなふうに思える。
 なんだか松川の詩については何も書かず、粕谷の詩について考えていることを書くのに松川の作品を利用したような文章になって、あ、申し訳ないなあ、と思うが、しかし、まあ、これが、私がいま考えていることがらである。



 渡辺めぐみ「小笛記」。

明かりの足らないところに
明かりを足しにゆく仕事をしていました
その仕事のせいで
火傷を致しますので
素足では生きられませんでした

 行分けの形で書かれている。いわゆるふつうの詩である。けれど、ことばの運動に目を向けると、この詩が異質であることがわかる。1行目を踏まえて2行目がある。そして、1、2行目を踏まえて3行目の「その」がある。行分けをしているけれど、このことばの運動は「散文」である。前に書いたことを裏切らない。
 いまの行につづく次の部分を読むと、この詩のことばの「精神」が「散文」であることは、より明確になる。

養い親はとても優しく
ときにこわいこともありましたが
その裏切りの精妙な味にも
溺れながら甘えておりました
白百合のマイハートでいなさい
いつもそんなことを言っておりましたっけ
この養い親はわたくしの正体を
見抜いていたのかもしれませんが
お互いに後ろ暗いところがあれば
見て見ぬふりをしようじゃないか
と言ってくれているようでした

 「明かり差し」という仕事。素足では生きられないという仕事の厳しさ。そのあとで、「養い親」が突然登場する。それまでの行が無視されて、飛躍する。けれど、すぐに養い親と「わたし」の関係が語られ、その内容が、なんとなく「明かり差しの仕事」「厳しい」「素足手は火傷」というような世界と重ね合わせになる。「養い親」と「わたし」の関係のなかで、「仕事」と「わたし」が形をかえ、反復しているのだ。
 「明かり差し」という仕事がほんとうにあるかどうか私は知らないが、渡辺は、それをさまざまな形で反復しながら「ほんもの」に仕立てていく。もし「明かり差し(という仕事)」が「考え」であるとすれば、「考え」は「反復」のなかで少しずつ「実体」を獲得していくのである。
 「考え」というものは「実体」をもたない。「夢」もまた「実体」をもたない。「嘘」だって「実体」をもたない。けれど、それは「反復」されて「実体」になってゆく。その「反復」はふつうは「散文」のなかでおこなわれるから、この渡辺の詩は「散文精神」によって動いている作品であるといえるだろう。
 こんな紹介の仕方ではなく、もっと違う形で紹介すべきだったなあ、と、いま反省している。「散文精神」が生きた、とてもおもしろい詩なのである。
 補足をかねて、最後の方。

さてある日突然に
成人したわたくしは
小笛と名乗ることになりました

 「突然」がおかしいといえばいいのか、いかにも「物語(散文)」みたいでご都合主義だが、きちんと「突然」の前に書いたことを、いまの引用の後で「反復」している。
 私はいままで渡辺の詩を「散文精神」が生きていると思って読んだことはなかったが、読み落としていたのかもしれない。粕谷、松川とつづけ、そのあとに渡辺の作品を読むことで、彼女のことばの良質な部分がくっきりみえてきたと思った。



 彦坂美喜子「現在」。

虫を人差し指で潰したら跡形もなく
黒い残骸になってしまった
泣いている鳴いている泣いている鳴いている
泣いて泣いて泣いて泣いて泣いて泣いて泣いてない

無表情の虫を見ていた

 「泣いて泣いて泣いて泣いて泣いて泣いて」が「泣いてない」にかわったと思ったら、行をわたって「ない/て」。あらら、泣いちゃった。
 これは詩にしか書けないね。「散文」では、こういうむちゃくちゃ(?)はできない。絶対に前に書いたことを踏まえないと「散文」にならない。逆にいうと、「散文」を破壊すると「詩」になる可能性があるということだ。



萩原裕幸「わたしがわたしに帰りゆくとき」。

私のかたちをゆるく避けながら湯はゆふぐれに淡くふくらむ
死ぬまでの時間のつねに縮まつてゆくこと蕪の煮えてゆくこと

 ともに下七七がおもしろかった。音がしっかりしているという印象がある。そしてこの音の動きに、私はなぜか「散文精神」を感じる。

落丁がところどころにあるやうにかつなめらかに冬めいてゆく
辞書にないことばの雑ざる冬晴のあなたのこゑのなめらかな海
この世ではないところまで伸びてゐる気がして巷の列の後尾にて
風邪ですかええまあなどと曖昧にパジャマ姿で過ぎてゆく午後
わたしからわたしを剥がすやうにして煙草を買ひに出る冬の朝
ゆびでぱちんと弾いてみたい形よきおでこが冬の電車に揺れて

 旧かなづかいが美しい。旧かなは「散文精神」そのものである、と私は思う。その精神が萩原の口語(?)を支えている。奥深いところからことば全体を鍛え、音楽にしていると感じた。


ウルム心
松川 穂波
思潮社

内在地
渡辺 めぐみ
思潮社

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谷川俊太郎「心よ」

2010-12-07 18:56:42 | 詩(雑誌・同人誌)
谷川俊太郎「心よ」(「朝日新聞」2010年12月06日夕刊)

谷川俊太郎「心よ」は「意味」で書かれているが、その「意味」が「意味」を超える。だから「意味」を忘れて、ほーっと息を漏らしてしまう。

心よ
一瞬もじっとしていない心よ
どうすればおまえを
言葉でつかまえられるのか
滴り流れ淀(よど)み渦巻く水の比喩(ひゆ)も
照り曇り閃(ひらめ)き翳(かげ)る光の比喩も
おまえを標本のように留めてしまう

 移り変わる心。ことばでつかまえる。「心」が「心」ということばではなく、別のことば「比喩」として書かれる。そうすると、「心」はことば(比喩)のなかに閉じ込められ、留められる。そうのとき、「心」は動いていない。その「心」は最初の定義「一瞬もじっとしていない心よ」に矛盾してしまう。動いていない「心」は「心」ではない。
 「どうすればおまえを/言葉でつかまえられるのか」という疑問だけが残る。動くものをつかまえ、そのまま動くものとして存在させる。
 そんなことを考えながら読みつづけると・・・。

音楽ですらまどろこしい変幻自在
心は私の私有ではない
私が心の宇宙に生きているのだ
光速で地獄極楽を行き来して
おまえは私を支配する
残酷で恵み深い
心よ

 「心は私の私有ではない」。ここに書かれているには「意味」だが、「意味」を超越している。ことばを論理として追い掛け、その意味するところは理解できる。だが、それは「疑問」を呼び覚ます「意味」(答え)であって、ふつう私たちが感じている「意味」ではない。こういうことを指して、私は「意味」を超越している、という。
 言い直すと・・・。
 「心は私の私有ではない」。では、だれのもの? 即座にその疑問が浮かぶ。「心」を恋人の「心」と読みかえるなら、「心は私の私有ではない」は「正しい意味」だが、ここに書かれている「心」はあくまで自分の「心」である。「私の心」なのに、「私有ではない」とはどういうことだろう。

私が心の宇宙に生きているのだ

 これは「心は私の私有ではない」を借りて言い直せば「私は心の私有物である」という「意味」になると思うが、その「私有」が「宇宙」という「比喩」のなかで、また「意味」を超越してしまう。「私有」という「意味」を、私は「宇宙」から感じられない。「宇宙」はむしろ「私有」の対極にあるもの、ぜったい「所有」できないもの、「私」をはるかに超越した存在だからである。
 この瞬間。
 私は「心」を忘れてしまう。「意味」を追うことを忘れてしまう。そして、これが一番不思議なことなのだが、この詩を書いているのが谷川俊太郎であるということ、いま読んでいるものが谷川俊太郎の書いたことばであるということを忘れてしまう。
 私自身が、突然、宇宙に放り出されたようが気がするのだ。
 「心の宇宙」ではなく、あくまで「宇宙」そのもののなかに、ぽーんと放り出されたように感じるのだ。
 あ、この感じ――これが、「心」というもの?

光速で地獄極楽を行き来して
おまえは私を支配する
残酷で恵み深い
心よ

 「光速」ということばは「宇宙」(光年)と関連しているかもしれない。
 でも、この部分も複雑だなあ。「意味」にしばられていると、わけがわからなくなる。「心の宇宙を生きている」とは「心の中を生きている」ということになると思うが、そのなかで生きている私は動かず、あくまで動くのは「心」である。
 うーん。
 「宇宙」が「光速で地獄極楽を行き来して/おまえ(心)は私を支配する」。
 「心」の大きさが消えてしまう。大きさを何で測っていいいのかわからない。そんな大きさのわからないものが、けれど、はっきり、いま、ここにある。

残酷で恵み深い
谷川俊太郎よ
ことばよ
詩よ




二十億光年の孤独 (集英社文庫 た 18-9)
谷川 俊太郎
集英社
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誰も書かなかった西脇順三郎(157 )

2010-12-07 11:45:17 | 誰も書かなかった西脇順三郎
誰も書かなかった西脇順三郎(157 )

 「失われたとき」のつづき。

ねむりは永遠にさまようサフサフ
永遠にふれてまたさまよう
くいながよぶ

しきかなくわ
すすきのほにほれる
のはらのとけてすねをひつかいたつけ
クルヘのモテルになつたつけ
すきなやつくしをつんたわ
しほひかりにも……
あす あす ちやちやふ
あす

セササランセサランセサラン

永遠はただよう

 「葦」のあとの行をどう読むのだろう。「鴫が鳴くわ/芒の穂にほれる/野薔薇の棘でスネをひっかいたっけ」と読んでいいのだろうか。音にしていいのだろうか。
 濁音混じりの「音」にしてしまうと「さまよう」「ただよう」という感じがしなくなる。「意味」から「意味」を剥奪して、「意味」にならないようにことばを動かしている。
 このとき。
 私は、ふと、思うのである。表記から濁音を省く--それでも、そのことばの思い描いているものが垣間見える。それはなぜだろう。
 ことばには音がある。そして、ことばはその音のなかにリズムももっている。音そのものがかわっても、リズムがそのままのとき、そのリズムからもことばがよみがえる。
 さまよう、ただよう、とは、そういうリズムそのものに身をまかせることなのかもしれない。

 この引用部分に先立って、次の行がある。

潮の氾濫の永遠の中に
ただよう月の光りの中に
シギの鳴く音も
葦の中に吹く風も
みな自分の呼吸の音になる
はてしなくただようこのねむりは
はてしなくただよう盃のめぐりの
アイアイのさざ波の貝殻のきらめきの
沖の石のさざれ石の涙のさざえの
せせらぎのあしの葉の思いの睡蓮の
ささやきのぬれ苔のアユのささやきの
ぬれごとのぬめりのヴェニスのラスキン
の潮のいそぎんちゃくのあわびの

 「呼吸の音」。ことばは、結局、呼吸の音ということかもしれない。「はてしなく……」からつづく「の」の連結によることばの動き。そこにあるのは、「意味」ではもちろんないのだが、もしかすると「音楽」さえ拒絶した「音楽」かもしれない。「音楽」以前の「呼吸の音」なのかもしれない。
 「呼吸」に声がまじるとことばになる。ことばから「意味」があらわれる。
 逆に、ことばから「意味」をとると、声になる。声から濁音をとると--呼吸になる。「永遠」は「呼吸」のなかにある。その「呼吸」を確立するのが西脇の夢かもしれない。




カンタベリ物語〈上〉 (ちくま文庫)
ジェフレイ チョーサー
筑摩書房


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松岡政則「フォルモサ(美麗島)」

2010-12-06 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
松岡政則「フォルモサ(美麗島)」(「イリプスⅡ」06、2010年11月15日発行)

 私は目が悪い。ということを「誤読」の理由にしてはいけないのかもしれないが、もともと目が悪い上に、網膜剥離で手術をしてさらに視力が落ちて、誤読が激しくなった。つまり、読みたいように読むようになってしまった。
 松岡政則「フォルモサ(美麗島)」。その書き出し。

土のなかで、
眼が、見開いている。
どの眼も、
かなしみの芯のようなひかりを放っている。
あめつちを畏れた者らの、
いのちを愛しんできた者らの、
あまたの眼だ。
土の眼だ。
つばさよりも、
根をこそ選んだ者らの、
そのくさぐさを聞く。

 「根を選んだ者らの、」を私は最初「眼を選んだ者らの、」と読んでしまった。「根」と「眼」はヘンが違うがツクリは同じだ。何度も「眼」が出てきたので、「根」を、それまでの習慣で「眼」と読んでしまったのである。
 この「眼」と、

眼は言う。
奪う者らの、
膏血をしぼりとるような強欲も、
その野蛮のかぎりももう遠い昔のことだ。
だが、どうだろう。
あの蔑みのうらい笑いだけは、
つい昨日のことのようにまなうらにあると。

 この部分の「まなうら」を結びつけて、思ったことを書こうとしていた。「美麗島」のひとびと。そこで暮らし、そこで生きているひとびと。彼らの眼。その島を離れずに生きてきたひとびと。日本に侵略され、強奪された過去。その悲惨を「もう昔のことだ」と思うことはできる(許すことはできる?)が、日本人のうすい笑い、島のひとびとを蔑むような笑いだけは忘れることができず、眼に焼きついている。その「肉眼」について書くつもりだった。
 ところが、その感想を書こうと思って、ふと書き出しを読み返すと「眼」ではなく、「根」であると気がついた。
 で、私は、急遽、書きたいと思っていたことを変更して、思いつくままにこうやって書いている。そして、実は、これから書こうとするのは、「眼」ではなく「根」であると気がついた瞬間からはじまった「誤読」についてなのである。
 私は「誤読」についてしか書けない、自分が「誤読」したことについてしか書けないのかもしれない。
 何を、どう「誤読」したかと言うと……。
 「眼」ではなく「根」だと気がついて瞬間、それまで読んできた「眼」がすべて「根」に見えてしまったのである。「根」は「眼」なのだ。
 最初の「そのくさぐさを聞く。」につづく行は次のようになっている。

五月の仔山羊、
小高い丘のガジュマルの巨木。
(どの聚落にも大切な木というものがあった。
眼になってじき、
ポルトガルの水夫が「フォルモサ!」と叫ぶのを聞いた。
じきにオランダが入り込み、
北部はスペインが入り込み、
やがては鄭成功が住みついた。

 「フォルモサ」はフランス語の「フォーミダブル(すばらしい)」を連想させる。実際の意味はわからないが、ガシュマルの巨木を「美しい」とポルトガルの水夫が叫んだ--というような意味合いで私は受け止めた。
 「眼になってじき、」というのは、その島のひとたちの「眼」を見て、その「眼」に強く突き動かされて、松岡自身の肉体の中に島のひとびとの「眼」そのものが「肉眼」として入ってきたとき、島のひとびとの「歴史」が見え、見えた瞬間、最初の侵略者、ポルトガルの水夫の叫びが「肉体」に、耳にとどいたということだろうと思った。この「眼になってじき、」に松岡の松岡らしい「肉体の思想」を私は感じるのだが、こういうことはいつも松岡の詩について書くときに書いているので、「誤読」にもどって書き直すと……。
 この「眼になってじき、」の「眼」も、私には「根」と読めてしまうのである。
 美麗島のひとびとは、侵略してくる外国人を「眼」で見た。そして、そのときから島の人々は「根」になって生きることを選んだのである。(こう書いてしまうと、ちょっと語弊があるかもしれないけれど、あえて、そう書いておく。私の「誤読」を説明するために。)
 「根になる」とはどういうことか。「根」は土のなかに隠れている。土のなかにあって、その存在は見えないのが「根」である。土のなかにあって、外からは見えないのだけれど、どんな巨木であろうと、小さな草花であろうと、「根」がその存在を支えている。切られても、倒されても、「根」は土のなかで生きている。無抵抗というとまた語弊があるのだけれど、外国の支配は支配として、その支配がとどかない部分で生きつづけるいのち--それが「根」である。そして、そういうしぶといいのちとしての「根、その生き方の中で形作られる「眼」、ものの見方、というものがある。
 松岡は、いま、そういうものに出会っているのだと思う。
 土のなかで生きつづけた根、その根が、眼となって見つづけた「歴史」。それが、いま島のひとびとの「眼」となっている。その「眼」は松岡をみつめる。そのとき、どうしたって「眼」は松岡だけではなく、「歴史」をも見てしまう。それは「歴史」をくぐった「眼」で松岡をみつめるということでもある。
 それは、松岡をたじろがせる。

くちべたな眼よ。
ちかしい喉の者らよ。
そんなふうにみないでくれ。
通りすがりのただの歩き筋くずれだ。
偏在を夢想する、
あいさつになりたいだけの旅師だ。

 だが、一方で、その「眼」が「眼」であるだけではなく、「根」であると知るとき--つまり、そこでしっかりと根を張って生きていると知るとき、しかも、常に「歴史」を告発する眼となって見返してくるとき、そこには一種の「やすらぎ」のようなものがやってくる。
 死なずに生き抜いてきたものと、いま生きている松岡が、その「生きる」という一瞬のうちに、ふと、出会う。それは、もしかすると、私たちが地上でかわす目線ではなく、暗く、深く、さみしい土のなかでふと触れ合ってしまう「根」のような接触かもしれない。

土の眼よ。
勁艸の者らよ。
それでもいま恩寵のようにくるものがある。
あれはみずうみのひかり、クマタカのかげ。
すれた動詞、土語のふるまい、栗。栗。くり。
魂とはまなうらのことだろうか。
いいやいってみただけだ。
ほら、どこかで犬が吼えているよ。
丈を炙っているにおいがするよ。
このさみしいは、うれしい。

 「まなうら」とは「根っこの眼」のことである--と私は「誤読」する。そのとき松岡の感じている「さみしいは、うれしい」が私のものになる。

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ちかしい喉
松岡 政則
思潮社
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奥田春美「足の裏考」

2010-12-06 11:00:27 | 詩(雑誌・同人誌)
奥田春美「足の裏考」(「現代詩手帖」2010年12月号)

 「現代詩手帖」12月号は「年鑑」。読んだことのない詩が「収穫」としてたくさん掲載されている。奥田春美「足の裏考」もその一篇。足の裏にタコがでてき、その痛みのために医者に行ったらしい。そのことから書き出されているのだが、読んでいるうちに興奮してきた。
 医者で、足の裏(足の指?)を動かしてみせるようにいわれる。その動きがシャクトリムシのようだ、と感じるのだが……。

医者はシャクトリムシを知らなかったので説明した
蛾の幼虫エダシャクトリムシの俗称です
円筒形のからだ全体を屈伸させることによって前進します
その様子が指で尺をとるところに似ているのです

 ええっ、知らなかったなあ。いや、シャクトリムシは見たことがあるし、実際に動くのを見たことがある。前進するのを見たことがある。私は田舎育ちなので、家の中にはいろんな虫が入ってくる。でも、蛾の幼虫とは知らなかった。「エダシャクトリムシ」というのが本名(?)なんて、知らなかったなあ。
 そうか、「指で尺をとる」ということが、昔は実際にあったんだなあ。たしかに、そういうことをしたことがあったなあ--とかすかに思い出すが、それが、こんなふうにことばになる--ことばになることができるとは知らなかったなあ。

桑の小枝からシャクトリムシをひきはがし地面におくと
全速力で移動します

 えええっ? そうなの? 春田はそういうことをしてみたことがあるんだ。いいなあ。やってみたいなあ。シャクトリムシの全速力って、どんな感じかなあ。擬態音で表現すると、ぴこぴこぴこ? しゃくしゃくしゃく? 動きはなんとなく目のなかに見えるけれど、全体が見えない。実感がない。あ、悔しいねえ。シャクトリムシの全速力を見たことがあるひとがいるなんて、嫉妬してしまうなあ。

地面が彼らの本来の場でないという情報を
胴体の肌触りから得るのか、視覚細胞をもつのか
知りたいと思って何十年すぎてしまった

 うーん。
 うーん、すごい。
 人間は何でも考えることができる。そして、ことばにすることができる。シャクトリムシは、悪戯された困ったなあ、どうしよう、どうしようと必死なんだろうけれど、その必死を見ながら、人間は、そんな、知らなくていいこと--だって、シャクトリムシがどんな情報を手に入れて、どう判断し、どう行動しているかなんて、何か役に立つ?--そんなことを、考え、ふと考えるだけではなく、ことばにしてしまう。ことばにしてしまうだけではなく、ことばにして、何十年も持ち歩く。
 うーん、感動してしまう。
 奥田春美に会いたくなった。会いに行きたくなった。
 私は奥田春美というひとをまったく知らない。詩の「初出」は「神奈川大学評論」64号とある。神奈川大学の先生?(何十年とあるから、学生ではないのだろうと思う。)
 ほんとうに、ほんとうに、ほんとうにおもしろい。
 ことばは、どんな「領域」へでも入り込み、入り込んだ瞬間から、そこにそのことばの発話者独自の「世界」をつくりあげてしまう。
 いま私は、奥田の詩を読み、こうやってパソコンに向かいことばを書いているのだが、そういう世界とはまったく別に、シャクトリムシが全速力で走る(?)世界があり、その全速力で走るのはなぜかと考える世界、その秘密を知りたいと思う世界があり、また、おかしいことに、知りたいと思いながらそれを知らないまま何十年生きてきて、それを思い出すという世界がある。いくつもいくつも世界があり、それは衝突もせず、一緒に存在している。いっしょに存在しているということも意識せずに、いま、ここに、そして、えつて、あそこで、それから、これからさきのいつか、どこかでも、それがある。
 そういうことを、ことばは、なんというのだろう、まったく無視して、ただシャクトリムシと全速力と、秘密だけを描き、ふいに、目の前にあらわれてくる。
 あ、この驚き。驚愕。仰天。笑いの爆発。もう、これは笑ってしまうしかない。笑いながら、あ、これは私の無知を笑っているんだなあと思いながらも、とっても気持ちがいい。

 こういうのが、きっと、詩なんだ。
 ことばに驚き--そのひとが真剣に、正直に言ったことばに、あ、そんなことばがあるの? そんな使い方していいの?と、びっくりして、噴き出して、そのあと、これは一体何なんだ。ことばって、いったいどこまで語ることができるか、と考えさせられる。
 それがきっと詩なんだと思う。

 詩はつづく。

わたしの脚はうすくて平べったい
足裏の筋肉がほとんどないらしい
歩くとき指は浮いており
問題とタコとカカトでわたしという重みを支えて
双頭に長い距離を移動してきたわけで
タコの核では激痛が爆発寸前らしい
わたしからもっとも遠い足裏にわたしの時間が露頭する

 うーむ。
 奥田はとても冷静な科学者タイプなのだ。科学者そのものなのかもしれないが。現象をことばでひとつひとつ定義して、そのことばで世界をきちんと立体化する。立体化するだけではなく、そこに時間も持ち込み、立体的な歴史を描き出す。そういう世界が、常に、奥田と共にある。
 で、どこに?
 「わたしからもっとも遠い足裏」がおもしろい。
 「足裏」って「わたし」じゃないの? もちろん「わたし」だ。その「わたし」に「遠い」「近い」がある? 奥田の場合はある。「世界」を考えている「わたし」、つまり「頭」が奥田にとってはいちばん「わたしに近い」ということになるのだ。「ことば」を動かし、そのことばで世界を組み立て直し、自分の世界を見つめなおす作業をする「頭」が「わたしの一番の核」ということになるのだろう。たしかに、そう考えると「足裏」が「もっとも遠い」ね。
 その「もっとも遠いわたし」も「わたし」なので、「わたし」はいま、激痛を回避するため--足裏に筋肉をつけ、からだの重みを筋肉にも負担させようとして、足裏を動かす練習をしている。
 そして、

シャクトリムシ運動をしているうちに
床の細かい傷を見つけ、ご飯粒を見つけ
あんぱんの上にのっていた芥子粒を見つける
足裏は大きくはっきりしたものには寛容である
微小なものやテクスチュアには敏感でナーバスである
ゴマ粒ほどのものでも靴下のなかに入ると
それが何かわからないけれど耐えられない

 「わたしからもっとも遠い足裏にわたしの時間が露頭する」と奥田が書いたとき、その「時間」は「過去」だったはずである。しかし、いま、ここに書かれている「時間」は「いま」であり、その「いま」は「いつでも」である。(いつでも、というのは「永遠」でもある、普遍であり、真理でもある。)
 そうして、こうやって書いてしまったときから「足裏」は「わたしからもっとも遠い」ものではなく、「わたし」の中心である。「わたし」に「遠い」「近い」はなくなる。「遠い」「近い」と「頭」で考えていたときだけの便宜上のものである。
 いま、「わたし」はすべて「足裏」から世界を見つめなおしている。

その夜TVドラマで四本の足がもつれあっていた
足裏はめったなことで他の足裏と直面しない
触れあわない、したがって交わらない
カメラが足もとにまわりこむ
四つの足裏はこちらを向いていっせいに演技する

そのあとの番組はワールドニュースだった
たくさんの褐色の足裏があった
コンクリートの瓦礫の上をのろのろ動いてゆく
幼児の足、女の足、片方だけの足
指の間を蝿が出たり入ったりする足裏があり
それが画面にむかって投げ出したわたしの足裏に
さしせまってくる、問いただしてくる
その場に引きずりだされそうになる

 詩はこわいなあ。ことばはこわいなあ、と思う。
 思っていること、考えていること、感じたことをことばにしてしまうと、そのことばが世界を作りかえてしまう。「遠い」どこかの国、「わたし」がいまテレビを見ている「場」からはるかに遠いところ、足裏よりももっともっと「わたし」から遠いところが、すぐそこにきている。きているだけではなく、「わたし」をそこへ引きずり込もうとしている。
 いや、これは「世界」の側の変化ではない。世界の遠近感が変わったのではない。奥田が変わったのだ。奥田がもっていた世界の遠近感が変わってしまったのである。「頭」が「中心」ではなく、「足裏」が「わたしの中心」という遠近感が、世界を違った風に見させるのである。
 ことばにすることで、ことばを書くことで、奥田がかわった。詩は、ことばは、それを書いた人間を、書きはじめる前の人間のままにはしておいてくれないのである。




かめれおんの時間
奥田 春美
思潮社


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ナボコフ『賜物』(28)

2010-12-06 10:03:05 | ナボコフ・賜物
 ナボコフの文体は感覚的なように見えて、実は非常に論理的なのかもしれない。詩的に見えて、非常に散文的なのかもしれない。

 客間は俗っぽい家具の並んだとても小さな部屋で、証明の具合が悪いせいで隅には影が居すわり、手の届かない棚には埃をかぶったタナグラ風の花瓶が載っている。
                                 (54ページ)

 これが「詩」ならば、たぶん、

 客間は俗っぽい家具の並んだとても小さな部屋で、隅には影が居すわり、棚には埃をかぶったタナグラ風の花瓶が載っている。

 という具合になるかもしれない。「証明が悪いせいで」「手の届かない」ということばは省略されるかもしれない。「手の届かない」は「手の届かないせいで」と言い換えることもできる。つまり、ナボコフの描写はいちいち「理由」を積み重ねて「もの」を浮き彫りにする。「理由」は「もの」の「過去」である。
 小さな部屋の家具は、証明が悪いという日常的な「過去」の積み重ねによって、影が隅っこで動かなくなっている。「手が届かない」という「過去」、つまり磨き込まれない(掃除されない)という「過去」によって埃がいっぱいになっている。
 私たちは「もの」ではなく、「もの」とともにある「過去」をナボコフのことばから知るのだ。
 「過去」を踏まえて「いま」がある。この時間の積み重ね方、常に「過去」を踏まえながら進む文体が「散文」的である。「散文」とは前に書いたことを踏まえながら先へ進む文体のことである。「詩」は「過去」にとらわれない。かってに飛躍する。「時間」をこわして飛躍することばが「詩」である。
 ナボコフの文体は、常に、あることがらを踏まえ、きちんと「時間」を描く。言い換えると、何かがかわるとき、そこには必ず「時間」の変化、過去→いまという因果関係が含まれる。
 引用文のつづき。

最後の客がようやくやって来て、アレクサンドラ・ヤコーヴレヴナが(略)お茶を注ぎ始めると、部屋の狭さもなにやらしみじみとした田舎風の居心地のよさに似たものに変貌した。
                                 (54ページ)

 小さくて家具が狭苦しく並んだ部屋、薄暗く、埃もある部屋が、「お茶を注ぐ」という「時間」を経過し、「田舎風の居心地のよさに似たものに変貌した。」
 ここには、絶対、「お茶を注ぐ」という「過去」が必要だ。これがないと「変貌」は起きない。
 この部分は、最初に引用した部分にならっていえば、「お茶を注いだために」、部屋がいごこちのいいものに変わったのだ。
 実際に「……のために」ということばが毎回つかわれるわけではない。原文を読んでいないので、はっきりとは断言できないが、しかし、ナボコフの描写には「……のために」が隠されている。「……のために」という考え方、ことばの動かし方は、ナボコフの「肉体」そのものになっているために、ナボコフはそれを省略してしまうのだ。ナボコフにはわかりきったことなので、そのことばを省略してしまうのだ。

 「……のために」は、ナボコフの「散文」のキーワードである。




ナボコフのドン・キホーテ講義
ウラジーミル ナボコフ
晶文社


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粕谷栄市『遠い 川』(14)

2010-12-05 23:59:59 | 詩集
粕谷栄市『遠い 川』(14)(思潮社、2010年10月30日発行)

 この詩集には何度も何度も「死」が出てくる。ぜんぜん、変わらない。どこまでいっても同じことが書いてある。こんなに同じことが書いてあると、読んでいて飽きてもいいはずなのに(失礼!)、なぜか、飽きない。書くべき感想は、もう、何もない--という気がするのだが、書いてしまう。
 「幽霊」。

 いまさら、何をいうこともないが、幽霊になることは、
淋しいものだ。幽霊になってみると分かるが、淋しくて、
淋しくて、いたたまれないものだ。
 まして、貧しく心ぼそい一生を送った男が、幽霊にな
ると、淋しくて、淋しくて、もう、どうしてよいか、分
からない。

 書き出しは、多くの作品に共通しているように、繰り返してである。話(?)はなかなか進まない。そして、最後はというと、

 わずかに、願うことといえば、やはり、どこかの貧し
く心細い一生を送っている男に、そんな自分の古い提灯
の夢を見てもらうことだ。
 つまり、一昔前のありきたりの絵草紙にあるように、
傾いて立つ墓石と風に揺れている芒の寒い夕空に、ぽつ
んと、浮かんでいる小さな古い提灯の夢だ。

 「夢」が出てくる。他人の「夢」のなかで生きている「自分」へと落ち着く。「夢」のなかで、安住する。「夢」が人を救う。「夢」のなかで「自分」と「他者」が一体になる。そういう世界である。
 それぞれが微妙に違うといえば違うけれど、同じといえば同じ感じである。それなのに、それぞれがおもしろい。
 なぜだろう。
 それは、ここに書かれていること、この詩集に書かれいてることばが「考え」だからである。

 人間は、深い闇から、生まれてくるときも一人で、死
んでそこへ、帰るときも一人だということは、分かって
いたが、それからのことは、考えることもなかった。

 粕谷は「思った」ことを書いているのではない。粕谷のこの詩集を貫くことばは、「思った」ことを書くことばではない。ここには「考え」が書かれているのだ。
 「思う」と「考える」は、どう違うか。
 いろいろな「定義」があると思うけれど、「思う」はばらばらである。散らばっていく。一貫性がない。その場その場で、ふっと、動いてしまう感覚、感情、--そういうものが「思う」の運動である。
 「考える」はその場その場ではない。散らばってはいかない。「一つ」考える。その「一つ」考えたことを踏まえて、次を考える。「考える」というのは、「散文」の運動なのだ。

散文だったらね、「何ひとつ書く事はない」って書いて、その後を書きつないだら嘘になっちゃうんですよ。だけど詩の場合には、「何ひとつ書く事はない」と書いてその後を書いても、成り立つっていうことがあるんだという発見ですね。

 というのは、谷川俊太郎が『ぼくはこうやって詩を書いてきた』(ナナロク社)の中で語っていたことばだが、なにごとかを「一つ」書いて、その書いたことを踏まえながら書きつなぐ、書きつなぎながら進んでいくというのが「散文」である。考えるというのは、その「散文」の作業である。「一つ」「一つ」を積み重ねて、その積み重ねの過程から「嘘」を締め出す--というのが「散文」である。
 粕谷は、この詩集では、嘘をひとつひとつ締め出しながら、「考える」のである。死とは何か。夢とは何か。生きるとは、生き残っているとはどういうことなのか。生と死の接点、その境界線はどこにあるのか。その境界線にふれたとき、ひとはどんなことができるのか。
 粕谷は思っているのではない。考えているのだ。
 そのことばは、少しずつしか進んでゆかない。

 いまさら、何をいうこともないが、幽霊になることは、
淋しいものだ。幽霊になってみると分かるが、淋しくて、
淋しくて、いたたまれないものだ。
 まして、貧しく心ぼそい一生を送った男が、幽霊にな
ると、淋しくて、淋しくて、もう、どうしてよいか、分
からない。

 この書き出しは、「淋しい」と繰り返しているだけのように見えるが、実際に、繰り返すことで、少しだけ動いている。「淋しくて、いたたまれない」から、「淋しくて、もう、どうしてよいか、分からない。」へと、ことば動いている。
 淋しいことがかわったわけではないが、「いたたまれない」から「どうしてよい、分からない」ということころまで、ことばはたしかに動いているだ。
 最後の「ぽつんと、浮かんでいる小さな古い提灯の夢だ。」も、それは「考え」なのである。考えた結果として、提灯と夢があるのだ。

 「考え」というのは、難しいことばでいえば「思想」である。「思想」というものは、どんな思想書でもそうだが、何度も何度も同じことを書いてある。いや、まったく同じではなく、少しずつ少しずつ何かが変わっているのだが、それが何であるかを見きわめようとすると、よくわからない。分厚い本なのに、最初から最後まで何も変わらない--まるで変わらないことが「思想」とでもいうようである。
 粕谷の今回の詩集は(それ以前もそうなのだろうけれど)、そういう「思想」(考え)がびっしりと詰まっている本なのである。
 私は、さっき「少しずつ少しずつ変わっている」と書いたが、その「少しずつ」はあす読み返すと「少し」ではなく、とてつもなく「大きく」に見えたりする。「少し」七日に、「深い」なにごとかが見えたりする。それが「思想」というものなのだと私は感じている。

 粕谷の詩を読んで、私の書いている感想は、毎日違っているのか、それともまったく同じことを書いているのか--あ、これも、よくわからないねえ。粕谷のことばをより理解できるようになっているか、それともますます間違えて、とんでもないことを書いているだけなのか--こんなことは、私が書くのをやめた後も、結局わからないだろうなあ。
 きょうは「幽霊」という詩に向き合って、私のことばは、こんなふうに動いた。こんなところで、急に谷川俊太郎か「鳥羽」について語ったことばがよみがえってきた--という「こと」があるだけだ。
 こんなことは、どれだけ書いても何にもならないのかもしれないが、粕谷の「考え」の強靱さに触れると、なぜか、激しく揺さぶられて、私は書かずにはいられなくなるのだ。ことばが動かされてしまうのだ。

 粕谷が書いていることば、その内容は、私には結局わからないかもしれない。それはわからないけれど、粕谷が書いていることはとても真剣なことであり、そのことばには向き合わなければ、粕谷のことは何もわからないということだけはわかる。



転落
粕谷 栄市
思潮社

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誰も書かなかった西脇順三郎(156 )

2010-12-05 11:22:19 | 誰も書かなかった西脇順三郎
誰も書かなかった西脇順三郎(156 )

 「口語」も、「自然」と同じように西脇の思考を攪拌する。そうして自由にする。そういう働きをしていると思う。

たそがれの人間はささやくだけだ
しかし人間は完全になくなることはない
ただ形をかえるだけだ
現在をなくすことは
人間の言葉をなくすことだ
どこかで人間がまたつくられている
--おつかさんはとんだことだつたね
--ながくわずらつていたんですよ
かくされたものは美しい
葡萄と蓮の実の最後のばんさんを祝福する

 「頭脳」で考えていた窮屈なことがらが、口語によって「肉体的」になる。
 人間が存在をなくすこと--死。これに対する反対概念は「生」である。「誕生」である。人間が死んでも、どこかでまた人間がつくられる--これは、誕生するという具合に読むことができる。あ、しかし、このものの見方、考え方は、私の感覚ではあまりにも「頭脳的」である。
 西脇は、ほんとうに、そんなことを言っているのか。
 私には違ったふうに感じられる。

--おつかさんはとんだことだつたね
--ながくわずらつていたんですよ

 ここには赤ちゃんの「誕生」は書かれていない。逆に、母の(たぶん、老いた母の)死が語られている。そして、その語りの中にこそ、「人間がまたつくられている」というふうに私は読むのである。
 語ることのなかで、母がよみがえる。「ながくわずらつていた」という時間がよみがえる。
 だけではない。
 そういう母の姿をひとり抱え込んでいた話者の時間がよみがえる。いのちのありかたが浮かび上がる。
 それに対して「かくされたものは美しい」というのである。このとき「かくされたもの」とは病気の母をかかえ、苦労しているその暮らしを「かくす」話者の生き方である。
 こういう態度に「美」をみるというのは、あまりに東洋的かもしれない。けれど、西脇には、そういう東洋的なものがあるのだと思う。そして、その東洋的なものが、西脇を不思議にすばやく動かしているように感じられる。



詩集 (定本 西脇順三郎全集)
西脇 順三郎
筑摩書房
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マルセル・カルネ監督「天井桟敷の人々」(★★★★★+★★★★★)

2010-12-05 10:30:20 | 午前十時の映画祭

監督 マルセル・カルネ 脚本 ジャック・プレヴェール 出演 アルレッティ、ジャン= ルイ・バロー、ピエール・ブラッスール、ピエール・ルノワール、マリア・カザレス、マルセル・エラン

 この映画の充実は冒頭の「犯罪大通り」とラストのシーンに象徴されている。スクリーンからあふれる群衆。手前で重量挙げ(?)の大道芸、遠くでカンカン踊りの呼び込み――が1カットに納まる。あ、いったい何人動員して撮影したんだろう。リハーサルはどうしたんだろう。手間がかかるよなあ。でも、その手間を惜しまず、丁寧に丁寧に作ったのがこの映画だ。
 そして手間暇をかけるといえば、やっぱり、恋愛。人生でいちばん手間がかかることを、ほんとうに丁寧に描いている。恋愛と同棲(セックス)と結婚は別、そして恋愛(愛)こそが人間の名誉がかかった大切なもの――というフランス人の「哲学」が、まあ、丁寧で丁寧で丁寧で、これは若者にはわかりませんねえ。
私は30年ほど前に見た時は、変な三角関係(二重の三角関係)くらいの見方しかできなかったが、いやあ、違いますねえ。
特に、男のうじゃうじゃとした「嫉妬」がすごい。女の方は「嫉妬」しない。セックスの結婚も超越して、ただ純粋に「愛」を生きている。信じている。きっぱりと、生きている。愛のプロだねえ。「愛に正しいも、間違いもない。ただ愛の人生があるだけだ」は「ウエストサイド物語」のなかのセリフだが、その女の「愛の人生」のなかで、男がうじゃうじゃしている、ああだ、こうだ、と悩み、決闘も、暗殺(?)もしてしまう。去った女を、必死に追いかける。
その出会いから別れまで、ほんとうに丁寧だなあ。
如実にあらわれるのが、セリフだ。ことばがどんどん磨かれてゆく。「愛している人同士にはパリは狭い」というのは、最初は「ほんとうに愛しているなら、必ずあえるはず。約束しないと会えないのは愛がないから」という拒絶の意味だったのが、「会いたい、会える」という祈りにかわる。最後は、その「狭い」パリ、狭い狭い犯罪大通りの人ごみの「狭さ」が愛し合っている2 人を引き裂いてしまう。「ガランス」と叫ぶ声をかき消してしまう。(「望郷」のラストみたいだなあ。)
そのほかのセリフも、愛が真剣になるばなるほど、とぎすまされ、無駄のないことばになっていく。どこをとっても「名セリフ」ばかりである。しかし、それが「ことば」として浮いてしまわないのは、役者の力だなあ。
その役者の力にあわせるように・・・。
「愛」の人生の一方、役者人生、芸人人生がオーバーラップするのも、おもしろいなあ。「芸人」を描いた映画ともいえる。「嫉妬」に苦しみ、その果てに「オセロ」を演じることができると確信するところなんか、すごいなあ。「女(恋愛)は芸のこやし」を地でやっている。「生活」が「芸」を育てていく。「生活」を「芸」のなかに次々にとりこんでゆく。「オセロ」のように人間理解だけではなく、嫌いな人間を芝居のなかでからかったり、アドリブで芝居をかえたり・・・たくましいねえ。
けっして見あきることのない映画、傑作中の傑作のこの映画が、しかし、第二次大戦中、ドイツの占領下でつくらたというのは奇跡だ。さすが恋愛の国フランス、映画の国フランスだね。



書きそびれたが、アルレッティは不思議な女優だ。私は、アルレッティを美人だと思ったことはないが、どんな視線も飲み込んでしまう(ひきつけるを通り越している)肉体をもっている。最初、見世物小屋の「ヌード」で登場するが、そのエセヌード、女体の秘密でさえ、なんというか怒ることを忘れさせる何かがある。だまされているのに怒りださない「紳士たち」の気持ちがなんとなく納得できる。人間ではなく「おんな」がそこにいる。それは「男」とは違っている。「おんな」としか言えない「いきもの」がまっすぐに存在している。その、「まっすぐ」の力がすごい。

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佐々木安美『新しい浮子 古い浮子』

2010-12-04 23:59:59 | 詩集
佐々木安美『新しい浮子 古い浮子』(栗売社、2010年10月30日発行)

 佐々木安美『新しい浮子 古い浮子』の詩集のタイトルとなっているのは二つの詩である。二つだけれど一つとして読むことができる。だからあわせてタイトルになっているのだと思う。二つだけれど一つ、というのは、佐々木の「思想(肉体)」の基本である。
 「新しい浮子」「古い浮子」については、同人誌に発表されたとき感想を書いたはずなので、きょうは違う作品を引用しよう。「山毛欅(ぶな)の考え」。

あるかないかもわからない わたしらの考えの中に
みしらぬ山毛欅の大木が入ってきて いっせいに若葉を鳴らす
すこし前に かすかな風の前触れがあったはずだが 気づかなかった
それでよけいに 若葉を鳴らす山毛欅の音が鮮やかだ
山毛欅の大木は あるかないかもわからない
わたしらの考えというものを見つけだして
わたしらの中に もうひとつ別の考えがあることを
告げようとしているのか
ひとつの考えの中にもうひとつ別の考えを並べておくこと
そうすることで わたしらは世界を立体的に把握できる
そう告げようとしているのか

 最初に、私は「新しい浮子」と「古い浮子」は「二つだけれど一つ」と書いたが、その「二つ」と「一つ」の関係は、この作品のなかでは、

ひとつの考えの中にもうひとつ別の考えを並べておく

ということばで書かれている。ここに佐々木の「肉体」(思想)がある。「二つ」をただ並列させるのではない。「並べて」ということばを読むと、どうしても並列を思い浮かべるが、佐々木の「肉体」のポイントは「ひとつの考えの中に」の「中に」である。「内部」に置くのだ。そして、その置きかたが「並べて」置くのだ。
 ひとつの考えの中にもう一つを並べて置く--というのは、現実的には(?)できない。並べて置くには、二つはそれぞれ離れていなければならない。だから、佐々木の書いていることは「間違っている」(論理的ではない)。不可能なことを書いている。
 そして、この「間違い」「不可能」のなかにこそ、佐々木の書きたいことがある。佐々木の思想がある。「間違っている」のは、佐々木の考えがほんとうに間違っているのではなく、いま、つかわれていることばでは書けないことを書こうとしているから、それが「間違い」という形になってしまうだけのことなのである。
 「間違い」や「矛盾」のなかにこそ「思想」がある、と私はいつも考えている。「間違い」や「矛盾」のなかには、まだだれも書かなかったことが書かれている。そういうことばは、いま、私たちがつかっていることばでは判断できないものなのだ。私たちのつかっていることばを基準に強引に判断すれば「間違い」としかいいようのないものであるということだけだ。
 佐々木は、この「間違い」をとおして何を言いたいのか。何を言うために、あえて(わざと)「間違い」を犯したのか。

ひとつの考えの中にもうひとつ別の考えを並べておくこと
そうすることで わたしらは世界を立体的に把握できる

 「立体的」が佐々木の書きたいことである。
 この「立体的」ということばは、なかなか難しい。そこにこめられている佐々木の思いを正確につかみ取るのは難しい。
 私たちはだれでも「ひとつ」の視点で世界をみる。そのときの世界は「立体的」ではないのか。そんなことはない、とひとは言うだろう。ひとつの視点で見ても世界は「立体的」である。机や椅子は立体的に見えるし、そういう「もの」だけではなく、たとえばいま話題のウィキリークスも、アメリカ政府と内部告発者の関係を、平面的な綱引き(?)というだけではなく、なにやら複雑な、平面というよりは、立体に、立体というよりはさらに次元の多い世界のように感じさせる。
 「立体」とは何なのだろう。「立体的」とはどういうことなのだろう。

ひとつの考えの中にもうひとつ別の考えを(並べて)おく

 ひとまず、「並べて」をかっこに入れて、除外して考えてみる。そうすると、「ひとつの考え」が外側の存在、中におかれた「もうひとつ別の考え」が内側の存在になる。考えに内部と外部が生まれる。この内部・外部という関係が「立体」なのである。
 では、かっこに入れた「並べて」は何だろう。「並べる」とき、それが「もの」であるときは、たいていは「ひとつの平面」に並べる。机の上にならべる、とか。「中」(内部)には並べられない。中には「置く」ことしかできない。けれど、佐々木は「並べて・おく」と言う。
 「並べておく」というのは、実は、別の「意味」をもっている。「もの」を並べておくとき、ひとは、その「二つ」を同等のものとして、そこに「並べておく」。それがたとえ 100万円のダイヤと 500円のガラス玉だとしても、それを「並べておく」とき、そのどちらを客が買おうが、その選択を売り手としては区別しないということである。 100万円のものを買ってもお客様、 500円のものを買ってもお客様。(もちろん、値段にそれだけの差があれば、店員の対応の仕方は違ってくるだろうが、そういう「心理」は別のものとして考えてください--比喩なのだから。)
 内部・外部を同等に扱う--というのは、あるときは内部であったものが、あるときは外部である、という入れ替えを許すということである。区別しないということである。
 というよりも、内部・外部を積極的に往復するということである。
 外部があり、内部があるから「立体的」なのではなく、内部と外部を往復するからこそ「立体的」なのである。「的」にこめられた意味合いは、往復にある。

 詩、そのものにもどって、読み返してみる。

あるかないかもわからない わたしらの考えの中に
みしらぬ山毛欅の大木が入ってきて いっせいに若葉を鳴らす

 この書き出しの2行では、「わたしらの考え」が「外部」であり、その中に入ってきた「山毛欅の大木」は「内部」である。その山毛欅は、「内部」で何をするか。

山毛欅の大木は あるかないかもわからない
わたしらの考えというものを見つけだして
わたしらの中に もうひとつ別の考えがあることを
告げようとしているのか

 山毛欅は、「わたしらの考えの中に」、さらに「もうひとつ別の考えがあること」を見つけ出す。このとき、「内部」のなかに、さらに「内部」が生まれる。最初の「わたしらの考え」は「外部」であり、山毛欅が見つけ出した「もうひとつの別の考え」がさらなる「内部」になる。そして、そのとき、山毛欅はどこにあるのか。最初の「外部」としての「わたしらの考え」の中にあるのか、それとも「内部」の考えを見つけ出したのだから、発見された「内部としてのわたしらの考え」の中にあるのか。「外部」だけでも、「内部」だけでもない。それは、「外部」と「内部」を往復して、「内部」があることを報告しなければ、その考えが存在していることがわからない。
 そうして実際に往復がはじまると、「外部」「内部」の区別はどうなるだろう。
 「内部」と思っていたものがだんだん重要になり、「外部」を圧倒してはみ出して、いままで「外部」だったものを飲み込んで「内部」にしてしまう--そういうこともあるだろう。「考え」というようなものは、不定型なのだから、そういうことがだれにでも起きる。
 それは「考え」の「内部・外部」だけの問題ではない。「考え」というのは「名詞」だけれど、「考え」という「名詞」は便宜的なもので、「考え」には「考える」という動詞しかない。
 「わたし」が何かを考える。
 そうすると、その何かが「わたし」の内部に入ってきて、それまで「わたし」が気がつかなかったもの、「わたしの中のもうひとつのわたし」を見つけ出す。でも、その「発見されたわたし」というのは「わたし」が発見したものではなく、「わたし」の内部に入ってきた「もの」が発見したのだから、そのとき「わたし」は「わたし」ではなく、「わたしの中に入ってきたもの」になっている。
 「わたし」(内部--入ってこられた方は、内部である)が「わたしの中に入ってきたもの」(外部から入ってくるのである)が、そのとき、入れ代わる。「考え」だけではなく、「わたし」という存在(肉体)そのものが入れ代わってしまう。
 「考える」というのは、「わたし」が「わたし」ではなくなることなのだ。

山毛欅の大木はわたしらの考えの中で 小さな光の短冊をいっせいに鳴らす
わたしらは山毛欅の考えの中で 大気をいっぱいに吸い込んで
細い枝の先まで光をあびている

 佐々木の書いている「わたしら」は「わたしら」ではなく「山毛欅」になっている。世界が「考え」(考えるという運動の中で)、逆転する。「わたしら」は「わたしら」と「山毛欅」を往復して、世界を新しくみつめなおすのだ。そういう「往復運動」と、世界の把握の仕方を、佐々木は「立体的」と呼ぶ。
 「立体的」とは「内部・外部」の区別をなくし、そこを「往復すること」なのだ。「外部」「内部」という「二つ」は往復運動によって「一つ」になる。「二つ」を「一つ」にしてしまう運動を「立体的運動」と呼ぶことができる。そのような「立体」としての「肉体」が佐々木である。




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ナボコフ『賜物』(27)

2010-12-04 10:34:34 | ナボコフ・賜物
ナボコフ『賜物』(27)

 ナボコフのことばには乱暴と繊細が同居している。

 にわか雨が止んだ。恐ろしく単純に、なんの仕掛けも芝居気もなく街灯が一斉に点った。(略)街灯の湿っぽい光に照らされて、自動車が一台、エンジンをかけたまま停まっている。車体の水滴は一つ残らず震えていた。
                               (50-51ページ)

 これ以上短くはいえないというくらい短く「にわか雨が止んだ。」と言い切ってしまう。「恐ろしく単純に、なんの仕掛けも芝居気もなく」というのも「乱暴」な表現である。そこにはどんな繊細な感覚も入ってくることはできない。繊細さを拒絶した、剛直なことばの運動である。それが車の上に残る水滴の描写になると一転して繊細になる。
 「車体の水滴は一つ残らず震えていた。」の「一つ残らず」が、ナボコフの視覚の強さを、繊細さを浮き彫りにする。そして、その振動(震え)によって、水滴が落ちる、ということを書かないことが、とても魅力的だ。ボンネットはまっ平らではない。エンジンによって震え、水滴が震えているなら、その車体からこぼれ落ちる水滴があってもいいはずだが、ナボコフは、それは書かない。
 時間が止まる--のではなく、たぶん、あらゆる時間がその「震え」のなかになだれ込むのだ。
 車と、その車の上の水滴の描写なのに、なぜか、車の「過去」(来歴)が見えるような、不思議な気がする。その車は、だれを乗せてきたのか、なぜそこに止まっているのか--そういうことを、思わず想像してしまう。



ナボコフのドン・キホーテ講義
ウラジーミル ナボコフ
晶文社
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粕谷栄市『遠い 川』(13)

2010-12-03 23:59:59 | 詩集
粕谷栄市『遠い 川』(13)(思潮社、2010年10月30日発行)

 「夢」とは何か。「境界」とは何か。「越境」とは何か。同じことを私は書いているのかもしれない。同じように見えてまったく違うことを書いているのかもしれない。まったく違っているからといって、そこに何か通い合うものがないかというと、そんなことはなく、どこかでつながっているかもしれない。--と、私はまたとりとめもなく書いてしまうのだが……。
 「青芒抄」。

 その日、とても淋しかったので、おれは、にぎりめし
を食った。何が淋しいといって、永く、一緒に暮らした
女がいなくなってしまうことほど、淋しいことはない。

 この書き出しの「永く」は「長く」ではない。「永さ」時間の問題ではなく、充実の問題である。「永い」という意識が「淋しい」を立ちあらわさせる。
 これは、すでに見慣れた光景である。--というと語弊があるかもしれないが、粕谷がこの詩集で書いているのは、「永さ」の意識と、その「永さ」を否定するような「いま」との対峙である。「永さ」と「いま」を越境して動くものを粕谷は書きつづけている。
 この詩も同じものだといえるかもしれないが、後半、いつもとは違うものがあらわれる。淋しい淋しいと繰り返し、にぎり飯を食って、女を思い出していることにかわりはないのだが……。

 おれは、よろよろと立ち上がって、外へでて、この淋
しい家の井戸に入って、死んでもよかったかもしれない。
 だが、その日、おれにできたのは、にぎりめしを食っ
て、ぼんやりしていることだけだった。蜩の声も、いつ
か、聞こえなくなって、青芒に細かい雨が降り始めた。
 真に、淋しいことには、終わりがないはずだが、その
夕べ、井戸のあたりで、思いがけない水の音がしたよう
だったが、本当は、何だったのだろう。
 たぶん、一切は、どこかの未練な男の、でたらめな夢
の一生のでたらめな明け暮れのできごとだったのだ。
 その家の縁側には、にぎりめしのかわりに、赤い櫛が、
一枚、残されていたが、そのまま、宵闇に消えていった
らしいのである。

 井戸のあたりの水の音--というのは、男の幻が投身した音かもしれない。井戸に身を投げて死んでしまう男の幻の音かもしれない。
 と、感じている間は、これまでの詩と非常に通じ合う。
 けれど、違った幻が、ふいにあらわれる。
 井戸に身を投げたのは女なのだ。そして、その女はなぜ身を投げたかというと、女が死んでしまうと(女がいなくなる、というのは死ぬということだと思うのだが)、男がにぎりめしを食いながら淋しい淋しいと繰り返しているばかりで何もしない。そんなことを思うと、とても淋しい。そして、その淋しさに耐えられずに、女は身を投げたのだ。
 そんなことをすれば、男の淋しさが現実になるだけで、何の救いにもならない。男のことを思うなら、身を投げずに男と少しでも長く生きればいいのに--というのは、論理的かもしれないが、ひとは、論理的には行動できないものなのだ。
 いや、そうではなく--つまり、女は井戸に身を投げて死んだのではなく、それは男が想像したことなのだ。女が死んでしまったら、男が淋しい淋しいといいながらにぎりめしを食っているにちがいないと女は想像し、その想像に耐えられずに身を投げたのだと、男が想像したのだ。
 書いていると、男の想像と女の想像がいりまじり、これではいったいどの想像が男の想像で、どこからが女の想像なのか、きっとこの文章を読んでいるひとにはわからなくなるなあ--と思いながら、私は書いているのだが……。
 この区別のなさ、瞬時の、主体の入れ代わり、男と女の、相互の越境。越境し合うことで「ひとつ」になる男と女。そういうことを、私は感じるのだ。

 「夢」は「日常を超えてやってくる、特別な時間」とは「砂丘」のなかの「定義」だが、「越境」というのは一方的にやってくるのではない。夢が日常を超えてやってくる時間であるとき、その夢をみるひとは日常を超えて「永遠」へ行ってしまうのだ。そして、それは逆もまた同じようなことが起きるのだ。日常を超えてどこかへ(永遠へ?)行ってしまうとき、永遠の方から「夢」がやってくるのだ。
 「青芒抄」の男が井戸に身を投げるという一瞬の姿を想像するとき--つまり、淋しいといいながらにぎりめしを食うという日常から一瞬離脱するとき、その瞬間へ向けて、永遠から夢がやってくる。身を投げたのは男ではない。女が身を投げた。女は、そうやって死んだのだ、男のことを思いながら死んだのだ、という「夢」がやってくる。
 そのとき、男と女は「淋しさ」のなかで固く結ばれるのだ。「淋しさ」がそのとき、「永遠」になるのだ。

真に、淋しいことには、終わりがないはずだが、

 このことばを粕谷はどれくらい意識して書いているかわからない。おそらく意識などしていない。無意識に書いていると思うのだが、無意識だからこそ、そこに「淋しさ」と「永遠」が「夢」として結びついている。
 「淋しいことには、終わりがない」のではなく、「淋しさ」は「永遠」なのだ。
 『遠い 川』という詩集は、全体が「淋しさ」に満ちているが、それは「永遠」という時間に満ちているということなのだ。

 書く順序が逆になったかもしれないが……。
 この詩では「ぼんやり(している)」ということばが印象に残った。「だが、その日、おれにできたのは、にぎりめしを食って、ぼんやりしていることだけだった。」
 「ぼんやり」とは「放心」。こころの垣根をとりはらって、こころをどこまでもどこまでも解放する。解放するという意識もなく、ほどけていくにまかせている。
 そういうときに「夢」はやってくる。「おれ」が日常の暮らしを忘れて、どこかへ彷徨い歩くとき、反対側から「夢」が彷徨い歩いてきて、「おれ」をつつんでしまう。
 「ぼんやり」することが、「夢」を結晶させるのだ。

 もうひとつ。
 最後に出てくる「赤い櫛」の「赤」。これは鮮烈だ。「青芒」の「青」、そして書かれていないが「にぎりめし」の「白」--その三つの色が、とても印象に残る。

 さらに、もうひとこと。

 その家の縁側には、にぎりめしのかわりに、赤い櫛が、
一枚、残されていたが、そのまま、宵闇に消えていった
らしいのである。

 この3行を読んだとき、あ、「おれ」が食ったのは「にぎりめし」ではなく「赤い櫛」なのではないのか、という「幻」が私をかすめたのである。
 女の形見の赤い櫛。男はそれを愛撫しながら女との「永い」暮らしを思い返している。そのうちに、いとおしくて、愛撫だけではおわらず、なめたりする。なめているうちに、かみついて、食べてしまう。食べることで「女」を「おれ」の「肉体」の内部に取り込んでしまう。
 そして。
 男はやっぱり井戸に身を投げるのである。男は自分の身を投げながら、女の身も投げる。女は、赤い櫛。それは、いま、男の「肉体」のなかにあるのだから、男のからだと「ひとつ」なのだから、男が身を投げることは女が身を投げることと同じなのだ。いや、それ以上だ。ふたりは一緒に身を投げるのだ。
 そのとき「永く」のキーワードが「一緒」であることがわかる。「永く、一緒に暮らした」と粕谷は書いているが、「一緒」でなければ、「永く」という感じは生まれない。
 この「永く」と「一緒」の関係から、「一緒」がなくなると、つまり、「ふたり」ではなく「ひとり」になると「淋しい」が生まれてくる。「永く」はなんといえばいいのだろうか、横に広がる充実だとすると、この「淋しい」は横の広がりを欠いた垂直の屹立である。その屹立した「淋しさ」を同じく屹立した「淋しさ」と結びつくことを夢見る。(井戸に身を投げるという垂直の運動が暗示的だ。)そして、それが結びついたとき「永遠」があらわれる。
 

続・粕谷栄市詩集 (現代詩文庫)
粕谷 栄市
思潮社


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