廿楽順治『化車』(3)(思潮社、2011年04月25日発行)
廿楽順治の詩はいかがわしい、と、きのうの感想で書いた。「いかがわしい」よりも「うさんくさい」というべきなのかもしれない。私は、ふたつのことばをうまくつかいわけられない。
「いかがわしい」「うさんくさい」の「辞書の定義」は脇に置いておいて。
私の印象を中心に言ってしまうと、廿楽は知っていることを全部言い切らない。廿楽が知っていることの中には「流通言語」で語ることができることがら、あるいは「流通言語」で語られてしまっていることがらが含まれている。つまり「事実」がある。その「事実」を廿楽は「流通言語」では語らない。「わざと」(わざと、カギ括弧をつかったのは、西脇が言っているように「わざと」がしだからである)、「流通言語」から遠いことばで語る。「流通言語」から遠く、「肉体」に近いことばで語る。「頭」では理解できないが、「肉体」で、というか、「肌」で、というか……。そのことばが語られた瞬間、その「場」が抱え込んでいる「体温」(ひとの接触具合)だけが感じることができることばで語る。「空気」で語る--あるいは、「空気」を語るといえばいいのかもしれない。
「空気」はその「場」でははっきりしているが、「場」を離れると説明が難しいね。その説明の難しさを廿楽は「肉体」を全面に出すことで乗り切ってしまう。「肉体」が抱え込んでいる変なもので語りきってゆく。
あ、また抽象的に書きつないでしまった。
廿楽の作品にもどる。「化車」という「作品群」がある。よくわからないが、何やら「過去」を描いている。「流通」している「歴史のことば」ではなく、そのときの「暮らしのことば」、ある瞬間にふつうの暮らしをしている人が言ったことばでとらえなおしている。「ある瞬間」を「肉体」でとらえなおしている。そのとき、「空気」がにおってくる。
「劣化鉄道」の【大森がみえてきた】という作品。「大森(大森海岸)」のことは私は知らないが、まあ、変なにぎわい、あるいは変な騒動のあった場ということが廿楽のことばを読むと伝わってくる。
「わたしはもう人としてかたむいているか」というのは酔っぱらっただれかが、因縁をつけるみたいにからみながら言ったことばだろう。「人としてかたむく」というときの「人」「かたむく」の、このことばづかい。何をいいたいかわかる。わかるけれど、説明が難しい。こういう肉体がなっとくしている「空気」のことばを廿楽はぱっとつかみとってくる。そうすると、そこに一気に「いかがわしい」「うさんくさい」ものが匂いのように広がる。つまり、防ぎようもなく、濃密にただよう。
書き出しのこの数行から、私は「軍艦の船長」に昇格した男が、祝宴で羽目を外して騒いでいる姿を思い描く。(あるいは、昇格できなかった男が、ほんとうは「私が艦長になるべきだった」とさわいでいるのかもしれない。)「酔って」「ぐんかんせんちょうはわい」ということば、さらに「……はわい」といったあとの「はわい」という尻取りの感じから、酒の場の匂いがしてくる。騒がしさと退屈さが匂ってくる。そし、その一瞬の退屈さ、批判のようなものを敏感に感じ取り、男は反省して見せたりもする。「わたしはもう人としてかたむいているか」と。「すがめでようやくここまできたものだ」と。
こういうことばは、小説のなかでは、とても効果的である。小説の文体というのはなんでも受け入れる。「歴史」は歴史として「流通言語」でしっかり抑えておいて、そのとき、「大森」のあるところでは艦長に昇格したばかりの男が、羽目を外してこんなことを言ったという具合に書くことができる。廿楽は、その小説の「地」というか、背景を省略して、その「場」だけを飛躍の多いことばで再現する。だから、わかりにくい。
そして、わかりにくいから、より強く「肉体」が刺激される。「頭」でわかることなど何ひとつ書かれていない。「頭」で知っていること--それがあるならあるでかまわないが、それから遠いところでことばを動かす。そうすると、そこには生身の人間の「肉体」(肉体の「かなしみ」と、廿楽のつかっていることばを借りようか)が広がってくる。「頭」でわかることばを拒絶することで、ただ「肉体」の「空気」をつかみとることを迫られる。
ちょっとのっぴきならなくなる。のみこまれてしまう。
これは、私にとって「いかがわしいもの」「うさんくさいもの」に出会ったときの感じにとても似ている。どう防いでいいのかわからない。いちばんいいのは近付かないことなのだが、それが「おもしろい」ときはどうする?
危険を承知で「いかがわしいもの」「うさんくさいもの」のなかに入って行って、私自身が「いかがわしいもの」「うさんくさいもの」になればいんんだろうけれど。
「いや、私はやっぱり純情派ですから」と、それこそ「いかがわしい」ことばで笑って、そっと身をかわし、そのくせ、純情派の特権の「盗み見」をすることになるのだけれど。(笑い--と、ごまかして書いておこう。)
で、また詩にもどる。【さあ、劣化のことについて話そう】
私は「わたし」と「きみ」が「同じ方向にならんで寝て」いる姿を想像する。まあ、将来のことなんかを語り合っているのかもしれない。その姿が、「わたし」には途中でおわってしまった線路、完成しなかった鉄道のように思える。そして、そのことを、ふいに聞かれるのである。
「鉄になってから」というのはとても唐突で、そのくせ、説得力がある。人間が「鉄」になどなりはしないのだが、何か「目的」を決めて、その方向に向かってまっすぐに生きること--鉄道の線路みたいに少しずつ目的地までのびつづけること、それだけを生きることと決めてしまった人間--そういうものを想像してしまう。
聞かれてしまって、あるいは聞かれることによって、「鉄路」はより明確に意識される。それに途中でおわってしまった線路が重なる。
うーん。
廿楽のことばは、「事実」(流通言語)を回避することで、「いかがわしく」「うさんくさい」ものになりながら、同時に、静かな「かなしみ」(共感?)を感じさせる。「さびしさ」を感じさせる。それは「流通言語」の世界が切り捨てた「かなしみ」「さびしさ」であるとも思う。
廿楽のことばはいかがわしい。うさんくさい。けれども、それに引きつけられ、読んでしまい、そしてこんなふうにあーでもない、こーでもないということを書いてしまうのは、そのことばのなかに不思議な「かなしみ」と「さびしさ」があるからだ。
「のびつづけて つよいてんもまるもない」というような、あ、こっそりつかってしまいたい(盗作したい)と思わせることばも、ふいに出てくる。そういうことばには、私の肉体は打ちのめされてしまうなあ。わけもなく、悔しいなあ、と声が漏れてしまうのである。
廿楽順治の詩はいかがわしい、と、きのうの感想で書いた。「いかがわしい」よりも「うさんくさい」というべきなのかもしれない。私は、ふたつのことばをうまくつかいわけられない。
「いかがわしい」「うさんくさい」の「辞書の定義」は脇に置いておいて。
私の印象を中心に言ってしまうと、廿楽は知っていることを全部言い切らない。廿楽が知っていることの中には「流通言語」で語ることができることがら、あるいは「流通言語」で語られてしまっていることがらが含まれている。つまり「事実」がある。その「事実」を廿楽は「流通言語」では語らない。「わざと」(わざと、カギ括弧をつかったのは、西脇が言っているように「わざと」がしだからである)、「流通言語」から遠いことばで語る。「流通言語」から遠く、「肉体」に近いことばで語る。「頭」では理解できないが、「肉体」で、というか、「肌」で、というか……。そのことばが語られた瞬間、その「場」が抱え込んでいる「体温」(ひとの接触具合)だけが感じることができることばで語る。「空気」で語る--あるいは、「空気」を語るといえばいいのかもしれない。
「空気」はその「場」でははっきりしているが、「場」を離れると説明が難しいね。その説明の難しさを廿楽は「肉体」を全面に出すことで乗り切ってしまう。「肉体」が抱え込んでいる変なもので語りきってゆく。
あ、また抽象的に書きつないでしまった。
廿楽の作品にもどる。「化車」という「作品群」がある。よくわからないが、何やら「過去」を描いている。「流通」している「歴史のことば」ではなく、そのときの「暮らしのことば」、ある瞬間にふつうの暮らしをしている人が言ったことばでとらえなおしている。「ある瞬間」を「肉体」でとらえなおしている。そのとき、「空気」がにおってくる。
「劣化鉄道」の【大森がみえてきた】という作品。「大森(大森海岸)」のことは私は知らないが、まあ、変なにぎわい、あるいは変な騒動のあった場ということが廿楽のことばを読むと伝わってくる。
わたしはもう人としてかたむいているか
それを
酔ってはかるものがない
(すわらないくびどものかなしみ)
帝国の一員になって
ぐんかんせんちょうはわい
はわいちょうせんぐんかん
とこうふんしている
すがめでようやくここまできたものだ
「わたしはもう人としてかたむいているか」というのは酔っぱらっただれかが、因縁をつけるみたいにからみながら言ったことばだろう。「人としてかたむく」というときの「人」「かたむく」の、このことばづかい。何をいいたいかわかる。わかるけれど、説明が難しい。こういう肉体がなっとくしている「空気」のことばを廿楽はぱっとつかみとってくる。そうすると、そこに一気に「いかがわしい」「うさんくさい」ものが匂いのように広がる。つまり、防ぎようもなく、濃密にただよう。
書き出しのこの数行から、私は「軍艦の船長」に昇格した男が、祝宴で羽目を外して騒いでいる姿を思い描く。(あるいは、昇格できなかった男が、ほんとうは「私が艦長になるべきだった」とさわいでいるのかもしれない。)「酔って」「ぐんかんせんちょうはわい」ということば、さらに「……はわい」といったあとの「はわい」という尻取りの感じから、酒の場の匂いがしてくる。騒がしさと退屈さが匂ってくる。そし、その一瞬の退屈さ、批判のようなものを敏感に感じ取り、男は反省して見せたりもする。「わたしはもう人としてかたむいているか」と。「すがめでようやくここまできたものだ」と。
こういうことばは、小説のなかでは、とても効果的である。小説の文体というのはなんでも受け入れる。「歴史」は歴史として「流通言語」でしっかり抑えておいて、そのとき、「大森」のあるところでは艦長に昇格したばかりの男が、羽目を外してこんなことを言ったという具合に書くことができる。廿楽は、その小説の「地」というか、背景を省略して、その「場」だけを飛躍の多いことばで再現する。だから、わかりにくい。
そして、わかりにくいから、より強く「肉体」が刺激される。「頭」でわかることなど何ひとつ書かれていない。「頭」で知っていること--それがあるならあるでかまわないが、それから遠いところでことばを動かす。そうすると、そこには生身の人間の「肉体」(肉体の「かなしみ」と、廿楽のつかっていることばを借りようか)が広がってくる。「頭」でわかることばを拒絶することで、ただ「肉体」の「空気」をつかみとることを迫られる。
ちょっとのっぴきならなくなる。のみこまれてしまう。
これは、私にとって「いかがわしいもの」「うさんくさいもの」に出会ったときの感じにとても似ている。どう防いでいいのかわからない。いちばんいいのは近付かないことなのだが、それが「おもしろい」ときはどうする?
危険を承知で「いかがわしいもの」「うさんくさいもの」のなかに入って行って、私自身が「いかがわしいもの」「うさんくさいもの」になればいんんだろうけれど。
「いや、私はやっぱり純情派ですから」と、それこそ「いかがわしい」ことばで笑って、そっと身をかわし、そのくせ、純情派の特権の「盗み見」をすることになるのだけれど。(笑い--と、ごまかして書いておこう。)
で、また詩にもどる。【さあ、劣化のことについて話そう】
のびつづけることについてきみはどうおもう
鉄になってから きかれてしまった
町までとどいていないのに 線路がおわって
私たちは同じ方向にならんで寝ていた
こうしていると 野戦病院みたいだね
ぞろぞろ しろいかたまりが腹の上を通る
のびつづけて つよいてんもまるもない
(なかせる節回しじゃないか)
鉄になったって何ひとついいことはなかった
このふるくなった平野についてきみはどうおもう
私は「わたし」と「きみ」が「同じ方向にならんで寝て」いる姿を想像する。まあ、将来のことなんかを語り合っているのかもしれない。その姿が、「わたし」には途中でおわってしまった線路、完成しなかった鉄道のように思える。そして、そのことを、ふいに聞かれるのである。
「鉄になってから」というのはとても唐突で、そのくせ、説得力がある。人間が「鉄」になどなりはしないのだが、何か「目的」を決めて、その方向に向かってまっすぐに生きること--鉄道の線路みたいに少しずつ目的地までのびつづけること、それだけを生きることと決めてしまった人間--そういうものを想像してしまう。
聞かれてしまって、あるいは聞かれることによって、「鉄路」はより明確に意識される。それに途中でおわってしまった線路が重なる。
うーん。
廿楽のことばは、「事実」(流通言語)を回避することで、「いかがわしく」「うさんくさい」ものになりながら、同時に、静かな「かなしみ」(共感?)を感じさせる。「さびしさ」を感じさせる。それは「流通言語」の世界が切り捨てた「かなしみ」「さびしさ」であるとも思う。
廿楽のことばはいかがわしい。うさんくさい。けれども、それに引きつけられ、読んでしまい、そしてこんなふうにあーでもない、こーでもないということを書いてしまうのは、そのことばのなかに不思議な「かなしみ」と「さびしさ」があるからだ。
「のびつづけて つよいてんもまるもない」というような、あ、こっそりつかってしまいたい(盗作したい)と思わせることばも、ふいに出てくる。そういうことばには、私の肉体は打ちのめされてしまうなあ。わけもなく、悔しいなあ、と声が漏れてしまうのである。
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