詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

廿楽順治『化車』(3)

2011-05-25 11:38:47 | 詩集
廿楽順治『化車』(3)(思潮社、2011年04月25日発行)

 廿楽順治の詩はいかがわしい、と、きのうの感想で書いた。「いかがわしい」よりも「うさんくさい」というべきなのかもしれない。私は、ふたつのことばをうまくつかいわけられない。
 「いかがわしい」「うさんくさい」の「辞書の定義」は脇に置いておいて。
 私の印象を中心に言ってしまうと、廿楽は知っていることを全部言い切らない。廿楽が知っていることの中には「流通言語」で語ることができることがら、あるいは「流通言語」で語られてしまっていることがらが含まれている。つまり「事実」がある。その「事実」を廿楽は「流通言語」では語らない。「わざと」(わざと、カギ括弧をつかったのは、西脇が言っているように「わざと」がしだからである)、「流通言語」から遠いことばで語る。「流通言語」から遠く、「肉体」に近いことばで語る。「頭」では理解できないが、「肉体」で、というか、「肌」で、というか……。そのことばが語られた瞬間、その「場」が抱え込んでいる「体温」(ひとの接触具合)だけが感じることができることばで語る。「空気」で語る--あるいは、「空気」を語るといえばいいのかもしれない。
 「空気」はその「場」でははっきりしているが、「場」を離れると説明が難しいね。その説明の難しさを廿楽は「肉体」を全面に出すことで乗り切ってしまう。「肉体」が抱え込んでいる変なもので語りきってゆく。

 あ、また抽象的に書きつないでしまった。
 廿楽の作品にもどる。「化車」という「作品群」がある。よくわからないが、何やら「過去」を描いている。「流通」している「歴史のことば」ではなく、そのときの「暮らしのことば」、ある瞬間にふつうの暮らしをしている人が言ったことばでとらえなおしている。「ある瞬間」を「肉体」でとらえなおしている。そのとき、「空気」がにおってくる。
 「劣化鉄道」の【大森がみえてきた】という作品。「大森(大森海岸)」のことは私は知らないが、まあ、変なにぎわい、あるいは変な騒動のあった場ということが廿楽のことばを読むと伝わってくる。

わたしはもう人としてかたむいているか
それを
酔ってはかるものがない
(すわらないくびどものかなしみ)
帝国の一員になって
ぐんかんせんちょうはわい
はわいちょうせんぐんかん
とこうふんしている
すがめでようやくここまできたものだ

 「わたしはもう人としてかたむいているか」というのは酔っぱらっただれかが、因縁をつけるみたいにからみながら言ったことばだろう。「人としてかたむく」というときの「人」「かたむく」の、このことばづかい。何をいいたいかわかる。わかるけれど、説明が難しい。こういう肉体がなっとくしている「空気」のことばを廿楽はぱっとつかみとってくる。そうすると、そこに一気に「いかがわしい」「うさんくさい」ものが匂いのように広がる。つまり、防ぎようもなく、濃密にただよう。
 書き出しのこの数行から、私は「軍艦の船長」に昇格した男が、祝宴で羽目を外して騒いでいる姿を思い描く。(あるいは、昇格できなかった男が、ほんとうは「私が艦長になるべきだった」とさわいでいるのかもしれない。)「酔って」「ぐんかんせんちょうはわい」ということば、さらに「……はわい」といったあとの「はわい」という尻取りの感じから、酒の場の匂いがしてくる。騒がしさと退屈さが匂ってくる。そし、その一瞬の退屈さ、批判のようなものを敏感に感じ取り、男は反省して見せたりもする。「わたしはもう人としてかたむいているか」と。「すがめでようやくここまできたものだ」と。
 こういうことばは、小説のなかでは、とても効果的である。小説の文体というのはなんでも受け入れる。「歴史」は歴史として「流通言語」でしっかり抑えておいて、そのとき、「大森」のあるところでは艦長に昇格したばかりの男が、羽目を外してこんなことを言ったという具合に書くことができる。廿楽は、その小説の「地」というか、背景を省略して、その「場」だけを飛躍の多いことばで再現する。だから、わかりにくい。
 そして、わかりにくいから、より強く「肉体」が刺激される。「頭」でわかることなど何ひとつ書かれていない。「頭」で知っていること--それがあるならあるでかまわないが、それから遠いところでことばを動かす。そうすると、そこには生身の人間の「肉体」(肉体の「かなしみ」と、廿楽のつかっていることばを借りようか)が広がってくる。「頭」でわかることばを拒絶することで、ただ「肉体」の「空気」をつかみとることを迫られる。
 ちょっとのっぴきならなくなる。のみこまれてしまう。
 これは、私にとって「いかがわしいもの」「うさんくさいもの」に出会ったときの感じにとても似ている。どう防いでいいのかわからない。いちばんいいのは近付かないことなのだが、それが「おもしろい」ときはどうする?
 危険を承知で「いかがわしいもの」「うさんくさいもの」のなかに入って行って、私自身が「いかがわしいもの」「うさんくさいもの」になればいんんだろうけれど。
 「いや、私はやっぱり純情派ですから」と、それこそ「いかがわしい」ことばで笑って、そっと身をかわし、そのくせ、純情派の特権の「盗み見」をすることになるのだけれど。(笑い--と、ごまかして書いておこう。)

 で、また詩にもどる。【さあ、劣化のことについて話そう】

のびつづけることについてきみはどうおもう
鉄になってから きかれてしまった
町までとどいていないのに 線路がおわって
私たちは同じ方向にならんで寝ていた
こうしていると 野戦病院みたいだね
ぞろぞろ しろいかたまりが腹の上を通る
のびつづけて つよいてんもまるもない
(なかせる節回しじゃないか)
鉄になったって何ひとついいことはなかった
このふるくなった平野についてきみはどうおもう

 私は「わたし」と「きみ」が「同じ方向にならんで寝て」いる姿を想像する。まあ、将来のことなんかを語り合っているのかもしれない。その姿が、「わたし」には途中でおわってしまった線路、完成しなかった鉄道のように思える。そして、そのことを、ふいに聞かれるのである。
 「鉄になってから」というのはとても唐突で、そのくせ、説得力がある。人間が「鉄」になどなりはしないのだが、何か「目的」を決めて、その方向に向かってまっすぐに生きること--鉄道の線路みたいに少しずつ目的地までのびつづけること、それだけを生きることと決めてしまった人間--そういうものを想像してしまう。
 聞かれてしまって、あるいは聞かれることによって、「鉄路」はより明確に意識される。それに途中でおわってしまった線路が重なる。
 うーん。
 廿楽のことばは、「事実」(流通言語)を回避することで、「いかがわしく」「うさんくさい」ものになりながら、同時に、静かな「かなしみ」(共感?)を感じさせる。「さびしさ」を感じさせる。それは「流通言語」の世界が切り捨てた「かなしみ」「さびしさ」であるとも思う。
 廿楽のことばはいかがわしい。うさんくさい。けれども、それに引きつけられ、読んでしまい、そしてこんなふうにあーでもない、こーでもないということを書いてしまうのは、そのことばのなかに不思議な「かなしみ」と「さびしさ」があるからだ。
 「のびつづけて つよいてんもまるもない」というような、あ、こっそりつかってしまいたい(盗作したい)と思わせることばも、ふいに出てくる。そういうことばには、私の肉体は打ちのめされてしまうなあ。わけもなく、悔しいなあ、と声が漏れてしまうのである。




たかくおよぐや
廿楽 順治
思潮社


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和合亮一「詩の礫2011.3.1-4.9 」(21)

2011-05-24 23:59:59 | 詩の礫
和合亮一「詩の礫2011.3.1-4.9 」(21)(「現代詩手帖」2011年05月号)

 「比喩は死んだ」と和合は書いている。けれども、やはり「比喩」は動いている。というか、生きている。ことばは「比喩」になろうとする。「いま/ここ」にないものを書きたがる。「いま/ここ」にないものを書いたときこそ、「いま/ここ」が見えてくるのだ。「比喩」は「いま/ここ」を照らす光なのだ。といっても、それはほんとうは「照らす」ではなく、「いま/ここ」を導く「灯台」のようなものである。「比喩」へ向かって進むとき、その進むという運動なのかで、「いま/ここ」が動きはじめるのである。
 あ、抽象的に書きはじめてしまった。--これは、よくない兆候である。きょうは、和合のことばについていくのが少しつらい。和合のことばというにより、私の体調が悪いのである。

 「比喩が死んでしまった」と和合は書いていた。その「比喩」ということばが、再び出てくるところがある。

祖父よ。戦地のシベリアの大地はどんな味だったのか。こちらでも戦後が始まったぞ、祖父よ。真冬の比喩のシベリアよ。彼の地は今、どんな風が吹いているか。丘に一本の木が見える。
                                 (52ページ)

 真冬の「比喩」のシベリア。それが「比喩」であるのは、祖父のシベリアが「いま/ここ」ではないからだ。和合が、その「いま/ここ」ではない父祖のシベリアを「いま/ここ」で書くのはなぜか。これは私の想像だが、祖父は「真冬のシベリア」を生き抜いたからだ。そのことが、和合にとって「希望」なのである。過酷な時間を祖父は生き抜いた。同じように、大震災の過酷な時間を生き抜きたい。和合は、そう考えている。だから、過酷な時間を生き抜いた祖父の方へと自分自身を引っ張っていくのだ。「比喩」を前方に投げだして、それを頼りに、自分を駆り立てるのだ。(ハイデガーなら「比喩」のこのつかいかたを「投企」というかもしれないなあ。)
 この「比喩」のシベリアに、和合はさらに「比喩」を書き加える。「一本の凍った木」。過酷な孤独を生きる木。それは祖父の、投企としての「比喩」である。実際に、祖父がその木のことを語ったかどうかわからない。和合がつくりあげたもの--と私は思っているのだが。その方が投企としての「比喩」が強くなる。
 そして、このひとかたまりのことばのなかにはもうひとつ「比喩」がある。「比喩」と意識されない「比喩」がある。

戦後

 「こちらでも戦後が始まったぞ」というとき、和合は「昭和20年」のことを書いているのではない。「いま/ここ」のことを書いている。大震災が起きた。そして、「戦後」が始まったのだ。「戦後」こそが、もうひとつの「戦争」でもある。
 「戦後」の「後」は、「事後」の「後」である。「後」になって、すべてはやってくる。「生きる」ということが選ばれ、「生きる」のである。

はるか 遠い 森の 奥の 一本の木 心の中の あなた はるかな あなた
                                 (52ページ)

 これは、「比喩」である。
 生きるとき、どうしても「比喩」が必要なのだ。「いま/ここ」にはない何かが必要なのだ。
 このいわば「美しい比喩」とはまた別のことばの動きもある。

緊急地震速報。震源地は宮城県沖。緊急地震速報。震源地は茨城県沖。緊急地震速報。芯見地は岩手県沖。緊急地震速報。震源地は冷蔵庫3段目。緊急地震速報。震源地は革靴の右足。緊急地震速報。震源地は玉ねぎの箱。緊急地震速報。震源地は広辞苑。緊急地震速報。震源地は、春。
                                 (52ページ)

 前半は「現実」である。そこには「比喩」はない。ただ「事実」がある。けれど、「震源地は冷蔵庫3段目」からは「事実」とは違ったことが書かれている。ことばでしかありえないことが書かれている。そこで書かれている「震源地」は「震源地」ではない。つまり「比喩」である。でも、この「比喩」はいったい「いま/ここ」をどこへ向かって投企するために書かれているのか。
 わからない。
 わからないから、そこに詩がある。
 きっと、和合も何が書きたいのかはっきりとは言えないだろう。「意味」がないからである。「意味」がないけれど、そう書きたい。「意味」がないから、そう書きたいのだ。一方に「震源地は宮城県沖」という「事実」と「意味」がある。その「事実」と「意味」から、和合地震を切り離し、「いま/ここ」から切り離し、どこかへ投企するためには、ことばの「自由」が必要なのだ。ことばの「無意味」が必要なのだ。そういう「無意味」を借りないことには自己投企することもできないほど、「大震災」の「余震」の「事実」と「意味」は重たいのだ。

 自分をある方向へ投げだす。投企する。そのために、ことばはある。
 その働きには「比喩」以外の動きもある。

長い余震の後で、私たちは、子どもたちの手を握るだろう。怖かったかい、可哀想に…。もう大丈夫だよ。さらなる余震の後で、また手を握ろう。もう大丈夫だよ…。だから、ね…。私たちの、大人の手を、離さないで。ぎゅって強く握ってごらん。また…。震えている、地も、きみも。
                                 (52ページ)

夜が寒くて、冷たくて、乞わないなら…、誰でもいいから手を握ろう、握り返してくれるよ。もう大丈夫だよ。だから私たちの手を、離さないで。ぎゅっ…て、強く握ってごらん。
                                 (54ページ)

 これは「呼び掛け」という形をとった投企である。他者に対して(子どもたちに対して)、こうしたらという投企のあり方を語ると同時に、そこへ向けて和合自身をも投げだしている。投企しているのである。

 ことばでできること、そのすべてを和合はしようとしている。なぜか。

緊急地震速報。馬が追う、言葉が追う、余震が追う。緊急地震速報。馬が来る、言葉が来る、余震が来る。何に、何に追われている。緊急地震速報。命、命に追われている。…優しく、優しく…。呟く、祖母の声。命、命が追ってくる。
                                 (53ページ)

 「命」が「いま/ここ」にあるからだ。「命」を「いま/ここ」から、未来へとつないでいかなければならないからだ。ことばを語ること、ことばを語ることで、自分自身をことばが語りうるものの方へ、「比喩」となりうるものの方へ、和合は引っ張っていこうとしている。
 まず、ことばを先へ投げだす。ことばを投企する。そして、次に、そのことばへ向かって、「比喩(いま/ここにはなけれど、可能性としてありうるもの)」へ向かって、和合自身を投企するために。





にほんごの話
谷川俊太郎,和合亮一
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廿楽順治『化車』(2)

2011-05-24 09:54:33 | 詩集
廿楽順治『化車』(2)(思潮社、2011年04月25日発行)

 詩集のなかに、廿楽順治のことばと、うだがわしんぶん(宇田川新聞)の絵のコラボレーションがある。(こういう言い方でいいのかな? 私はカタカナ語がよくわからないので適当につかっている。ことばと絵の出会いがある--といいたいのだけれど、それだときっといろんなことに詳しい人には伝わらないかもしれないと思い、ちょっとわけのわからないことばをつかってみました。)
 廿楽順治のことばと宇田川新聞の絵(版画に見える)は、私の印象ではちょっと似ている。「不自由」である。この「不自由」は、きっと詳しく説明しないとわからないし、詳しく書けば書いたでなんのことかわからなくなると思うが……。
 簡単に省略してしまうと、そのことばのつかい方、その絵の書き方「正確」というのとはずれていない?ということである。「ほんとうの意味」(リアルな絵)にはなりきれていないという印象が残る--その「不自由」さ。
 でも、その「不自由」の基本には「肉体」がどっしり居すわっている。
 うだがわの場合は絵だけれど、ほら、ひとの手の癖というのは、妙に根強くて、ある線を描こうとしてもどうしても、定規をつかったような「正確」なものにならないことがある。もちろん「正確」に描くことができるひともいるのだけれど。まっすぐな線だとしても、その線の左側と右側を比べてみると、右の方に筆圧(?)がかかっているとか……。「版画」の場合だと、それに拍車がかかる。(一般的に、だけれど。)直接線を描くわけではなく、いったん何かを彫る。そのとき、素材の抵抗感が肉体に響いてきて、紙に描くのとは違ってくる。「不自由」がもうひとつ増えることになる。けれど、その「不自由」が妙におもしろい。「不自由」から「肉体」が浮かび上がるようで、「正確」なものよりも楽しいのだ。いろんな「誤読」の要素があって、そこに引きつけられる。
 33ページに、何やら孔雀めいた絵がある。それは、しかし女の人が足をそろえて上へ上げているようにも見える。お尻とももと、それから、すけべな私は固く閉ざした性器なんかもそこに見てしまう。羽の模様はなんだろう。葱坊主? 亀頭をアレンジしたものにも見えないことはないなあ。--こういういろんなことものに「見える」状態を指して、私は「不自由」というのだが……。そして、私がこういう絵が好きなのは、その「不自由」なのかに、今書いたような、すけべな「誤読」を許してくれるものがあるからだ。絵が「不自由」だから、私はその絵の「不自由さ」を、私の「自由な」想像力で補って、いろんなことを考えるのである。(単にすけべである--というだけのことを、私は、ごまかして書いているのだが。こんなふうに、ごまかして「嘘」を書くのが私の趣味である。)
 そして、この「不自由」と「自由」の出会いのなかで、私はかってに、うだがわはすけべであると判断し、うれしくなる。うだがわの「肉体」、あるいは「本能」「欲望」というものを感じてしまう。共感してしまう。好きになってしまう。
 似たようなことが廿楽のことばに対しても起きるのである。
 「青年期はほこりっぽい、/一九八八年としての福州路。」という作品。32ページからはじまっている。本文は尻揃えの形で書かれているのだが、そういう形で引用するのは難しいので、頭揃えの形で引用する。(廿楽さん、ごめんなさい。)

会いたくなった
夕方
魯迅がむこうからやってきて
(筆が止まらないぞ)
どういうわけか怒っている
やい
こどもをすくえ
黄浦江公園ではこどものこじきにすそをひかれた
日本より
指がいっぽん多いんですよ
どうつたえていいのかわからない
棒もいっぽん多い
あんた
それじゃあ目本だよ

 何が書いてあるか。「意味」は何か。考えない。考えないのだけれど、かってに感じてしまうことがある。
 公園でこどものこじきがしがみついてくる。その力。まるで、指が日本のこどもより「いっぽん」多い感じ--まあ、そんなことはないのだが、そう感じる、そんなことを思ってしまうということかな? 一本指が多い、棒が多ければ「日本」は「目本」になる。
 これって、なんとういか「ため口」の一種だよねえ。相手と「私」を、どこかある次元(?)へ対等にずらして、そこで成立することば。--「ため口」の定義(?)がこれでいいかどうかわからないけれど……。
 変なずらしと、不思議な対等感から発せられることば。「意味」は、きっとそこに語られていることよりも「対等」という感覚にある。
 指が一本多い、棒が一本多い--そうすると「日本」は「目本」になるというのは、とっても奇妙な論理で、あれこれ書いていると面倒くさいけれど、何か納得するものがある。「漢字」を見た記憶。目の記憶。肉体の記憶と、それを「意味(意識)」に取り込み、理解するときの「いかがわしさ」。

 あ、そうなんだ。廿楽の詩のおもしろさというのは、「いかがわしさ」への共感なのだ。頭できちんと整理された知識(認識)ではなく、肉体でつきあうときの馴れ合いというのか、許せる範囲のずれを残した揺らぎ。それが我慢できる(?)のは、そんな具合の「ものごと」の把握が肉体に無理がかからないからだねえ。
 (うだがわの絵にも、何か「いかがわしさ」が漂っているよね。「肉体」をくすぐり、ちょっと力を抜けさせるような、力をぬいたときにふっと感じる愉悦のようなものが。)


 このいかがわしさ--それを「不自由」と呼ぶのは、まあ、変かもしれないけれど。でも「不自由」につながる。
 私の書いていることは、どうも説明がめんどうくさいことばかりなのだけれど。
 「いかがわしさ」が「不自由」というのは、つまり。「いかがわしい」けれど、まあ、いいんじゃない。大丈夫だよ。ということを、人に説得するのはとても難しいということ。この「難しさ」が「不自由」。
 どんな「主張」(正義)でもいいのだけれど、きちんと「明文化」されていれば、つまり「頭」で整理できていれば、それで相手を説得することは簡単である。この「明文化」もほんとうは「いかがわしい」ものかもしれないけれど、教科書や何かに書いてあることや政治家の公式発言、裁判の記録は「いかがわしい」とは言われないよね。そこには一応「理路整然とした論理」があると想定されているからね。それが理解できないとしたら、それは読んだ人(ことばに触れた人)が「頭」が悪い--ということになる。簡単に切って棄てることが出来る。「不自由」はない。

 けれど「いかがわしさ」への共感は、説明できない。どんなにことばを費やしても「わかるだろう?」でわかってもらうしかない。「頭」でわかるようにはいいきることが出来ない。私が頭が悪いからだけれど。で、感じるのは、あ、難しい。ややこしい。自分のことばが「いかがわしいさ」への共感を説明するとき、とても「不自由」になる、ということなのだ。

 あ、何を書いているか、わからなくなる。だんだん、廿楽から遠ざかる。でも、遠ざかることでしか近づけないねえ。

 「それじゃ目本だよ」の変さは、まあ、わりと「変」であることがわかりやすい。そのことばが「いかがわしい」ということはわかりやすいかもしれない。
 しかし、そういうことばではなく、たとえば書き出し、

会いたくなった
夕方
魯迅がむこうからやってきて
(筆が止まらないぞ)

 も、「いかがわしい」。魯迅がやってきたって、事実? いや、どうでもいいのだけれど。追い掛けるように(筆が止まらないぞ)が、とってもいかがわしい。これは嘘です、勢いで魯迅がやってきたと書いただけです、と弁解しているような--弁解という「ほんとう」ですべて許してね、というような変な感じ。
 それから、

どういうわけか怒っている
やい
こどもをすくえ

 という転換の仕方。いや、ことばを押し進める仕方。
 「どういうわけか」なんてさあ、とってもいいかげんでしょ? 「どういうわけか」ではなく、あれこれの理由でときちんと書かないと説明にならないよね。「頭」では理解できないよねえ。でも、肉体は「どういうわけか」というようなことをいっぱい知っていて、これで納得してしまう。「どういうわけか」わからないことだらけ。それでも、ひととひとは、つきあっていけるから。
 「やい/こどもをすくえ」の「やい」という突然の変化も「どういうわけか」わからないことを、納得させるねえ。どういうわけかわからないけれど、「やい」に怒っていることを感じてしまう。
 「いかがわしさ」なんて、わかることではなく「感じる」ことなのだ。

 廿楽は、この「感じる・いかがわしさ」をきちんとことばのリズムに再現できる。そういうリズムでことばを動かしていける。
 あ、これ、(きょう私が書いていること)、廿楽をほめているんだけれど。
 うまく書けないね。
 で、きょうは、ここまで。あしたまたつづきを書くかもしれない。書かないかもしれない。



すみだがわ
廿楽 順治
思潮社



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和合亮一「詩の礫2011.3.1-4.9 」(20)

2011-05-23 23:59:59 | 詩の礫
和合亮一「詩の礫2011.3.1-4.9 」(20)(「現代詩手帖」2011年05月号)

眠る子のほっぺたをこっそりなぞってみた

美しく堅牢な街の瓦礫の下敷きになってたくさんの頬が消えてしまった

こんなことってあるのか比喩が死んでしまった
                                 (50ページ)

 「06」の書き出し。 3月20日の「詩の礫」の書き出しである。
 「比喩が死ぬ」とはどういうことか。「比喩」が現実に追い越されてしまうということだ。「比喩」は「いま/ここ」にないもの(ことば)を借りて「いま/ここ」をより強く描き出す行為のことである。ことばの運動である。
 子どもが瓦礫の下敷きになり死んでいる--ということばは、たとえば小説には出てくる。詩にも書くかもしれない。そのとき「ことば」は現実ではない。「いま/ここ」ではなく、あくまで「物語」のなかの描写にすぎない。あるいは、あることがらを印象づけるために生み出された「比喩」にすぎない。
 そういう、いわば「文学」のなかで動いていたことばが、文学からとびだしてしまった。はみ出してしまった。いや、逆なのか。大震災の現実が「文学」のなかのことばを「破壊」してしまった。「文学」ではなくなってしまった。
 「こんなこってあるのか」という衝撃は、「文学(詩)」を書いている和合だからこそ、より強い。子どもが瓦礫の下で死んで行く。ひとりではなく、大勢が死んで行く。かわいらしい頬、やわらかい頬が奪われていく--ということがことばの運動ではなく「現実」になってしまう。そういうことがあっていいのか。

 ことばは、どこへ動いて行けばいいのか。

しーっ、余震だ。何億もの馬が怒りながら、地の下を駆け抜けていく。

しーっ、余震だ。何億もの馬が泣きながら、地の下を駆け抜けていく。

ほら、ひづめの音が聞こえるだろう、いいななきが聞こえるだろう。何を追っている、何億もの馬。しーっ、余震だ。
                               (50-51ページ)

 「比喩は死んだ」と和合は書いた。しかし、ここに書いている「馬」は「比喩」である。そうすると「比喩」は死んでいないことになる。矛盾している--のか。そうではない。「比喩が死んだ」と和合が書くとき、「それまでつかってきた比喩が死んだ」ということである。「既成の比喩」が無効になった。瓦礫の下で死んで行くこども--そのことばは現実の子どもの姿、そしてそれが多くの子どもであるという事実の前では、何かを語りながらも、ほんとうは語りきれていない。事実さえも語りきれていない--語りきれていないという気持ちを和合の中に残してしまう。
 ことば--いままでつかってきたことば、いままでつかってきた「比喩」は和合の「肉体」には適合しなくなったのである。
 そのことを和合は、次のように書いている。

偏頭痛。朦朧。昨晩から喉が痛む。おしゃべりなぼくは疲労が溜まれば、喉に来る。しかしこの部屋の現在。言葉は次から次から、僕を通り過ぎる。何を追うのか。何よりも、言葉に置き去りにされるのが、ひどく恐ろしい。
                                 (51ページ)

 それまでつかっていたことばが無効になった。和合の「肉体」ではなくなった。だから、それが「偏頭痛」という形で「肉体」に影響している。
 ここに書かれている「肉体」では、「喉が痛む」に、私はとても興味をひかれた。
 和合は部屋にひとりである。「おしゃべり」をしているわけではない。けれど、「喉が痛む」。この感覚は、私にはとてもよくわかる。特に、つぎの「言葉は次から次から、僕を通り過ぎる」を読むと、喉の痛みがよくわかる。通り過ぎることば--それが通り過ぎるというのは、ことばにはならなずに、ことば以前のままで行き過ぎるからである。「言葉に置き去りにされる」のが恐ろしいとは、ことばがことばにならずに、和合を置き去りにしてさらに先へ進んでしまうということだろう。このとき、「喉」は、そのことばにならないことばを発しているのだ。声帯は動いているのだ。
 私は活字を読むとき音読はしない。黙読しかしない。けれど、喉がつかれる。書くときも同じである。書くとき声を出すわけではない。けれどとても喉がつかれる。無意識のうちに喉をつかっている。舌や口蓋や唇や鼻腔もつかっている。
 たぶん和合もそういう人間なのだと思う。
 ことばがすらすらと動くとき、喉は、あまりつかれない。つっかえつっかえ、なんと言っていいかわからないことばをあれこれさがしているとき、ことばにならない「声」だけが「喉」に押し寄せてくる。このために、疲れる。
 「詩の礫」を書いている和合には、この現象は痛烈である。
 「比喩は死んでしまった」。既成のことばの運動は死んでしまった。頼りになることばはない。どのことばにすがって書けば、「いま/ここ」が書けるのか。まったくわからない。わからないけれど、書かなければならないという思いがある。その思いを空回りさせて、ことばが和合を置き去りにする。和合はことばを追い掛けられずに、ことばにならない「声」を、激しい息(呼吸)を喉にぶつける。声帯があれる。その痛みこそ「偏頭痛」の原因かもしれない。
 和合は繰り返している。

馬が追う、言葉が追う、余震が追う。馬が来る、言葉が来る、余震が来る。馬に取り残される、言葉に取り残される、余震に取り残される。僕は幼くなるしかない。うわあああん。おかあさーん、おかあさーん。
                                 (51ページ)

 馬、言葉、余震--それは追っているのか。来るのか。和合を取り残していくのか。その全部である。ひとつの運動があるのではなく、それは全ての運動である。あらゆる運動である。それを「ひとこと」では書き表せない。起きていることは「大震災」というひとつのことなのに、そのひとつのことのなかにいくつもの運動があり、どのことばをあてはめてみても、それはうまく合致しない。
 比喩は死んだ--既成のことばは死んだ。和合には、どういうことばをつかっていいかわからない。ただ「声」だけが、「息」だけが、肉体の奥からこみあげてきて「喉」を突き破る。「おかあさーん、おかあさーん」。それはことばであるが、なによりも「声」である。幼い子どもが「おかあさーん」と叫ぶのは「おかあさん」を呼んでいるのではない。「私はここにいる」と叫んでいるのだ。

 私は「いる」。和合は、「いる」。その明瞭なことが、しかし、ことばにはならない。「声」にもならない。喉の奥を揺さぶっている。だから喉が痛む。そして、偏頭痛に広がっていく。--この「声」(ことば)と「肉体」の関係に、私は「肉体」で反応してしまう。共感する。路傍で倒れてうずくまっているひとを見たとき、あ、このひとは苦しんでいる。あ、この人は腹が痛いのだ、とわかるように、和合の「喉の痛み」がとてもよくわかる。私の「肉体」の痛みではないのだけれど、私の肉体の痛みとして感じる。
 そして、この痛みから、先の引用に戻ると……。

ほら、ひづめの音が聞こえるだろう、いいななきが聞こえるだろう。何を追っている、何億もの馬。しーっ、余震だ。

 この「しーっ、余震だ」が、地の下の、不気味な動きに耳を澄まして身構えるだけではなく、自分のなかにある「ことば」を聞こうとしている「しーっ」に感じられる。
 「はっきりと覚悟する。私の中には震災がある」(48ページ)なら、「私の中に余震がある」とも言えるだろう。それは、「いま/ここ」で起きている「事象」に向き合う「ことば」がある。ことばにならない「声」がある、ということでもある。ことばにならない「声」だからこそ、和合は、「しーっ」と自分の「肉体」地震に対しても呼び掛けているのだ。耳をすませ、と言っているのだ。
 和合は、そして「馬」を聞いたのだ。それは「南相馬市」という地名に「馬」があるからかどうか、よくわからないが、それが和合にとっての新しい「比喩」のはじまり、新しいことばのはじまりであることだけは確かである。

 ことば。ことば。ことば。
 和合は、ことばを取り戻すことで、大震災に勝つことを誓っている。

余震。余震。余震。俺はもう終わりかもしれねえが、ここまで馬鹿にされてたまるか。最後の最後に「地震」を目茶苦茶にしてやっぞ。
                                 (51ページ)

 あ、ここに「馬」とは別の動物が出てきた。それはすでに和合の詩のなかで出てきたものであるが……。「鹿」。

これほど「福島」の地名が、脅威に響くとは。鹿の鳴き声。
                                 (42ページ)

 何度か出てきた「鹿」の鳴き声。大震災の街に鹿がいるとは私は思わなかった。それが何の「比喩」なのか、どこから来ているのかわからなかったが、もしかすると「馬鹿にするな」という怒りから来ているのかもしれない。「馬」は愛する「南相馬市」。「鹿」はふるさとをを破壊した地震に対する怒り(馬鹿野郎という叫び)と、肉体の奥でつながっているのかもしれない。
「鹿」は怒りのために悲しくて鳴いているだ。孤立した怒りの、絶対的な悲しみの象徴なのだ。



入道雲入道雲入道雲
和合 亮一
思潮社



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「現代詩講座」第4回

2011-05-23 17:04:35 | 現代詩講座
「現代詩講座」第4回。(第3回は和合亮一の「詩の礫」を鑑賞したのだが、その日から旅行に出たので、内容をアップする時間がなかった。で、省略)
「ない」ということばを含んだ詩を書く――がテーマ。受講生の作品と語り合ったことを紹介します。

「何でもない日」   小野真代

何でもない日の昼下がり
ぐんぐん伸びる飛行機雲に
つられて家を抜け出した

何でもない道を歩いてく
シマ野良猫を尾行して
知らない街にたどりつく

何でもないよな街角に
誰かが待っているのかも
二人分の花を買う

何でもない日の空は晴れ
シマ野良猫はあくびする
のんびり雲が流れてく
いつかどこかで聞いた歌
いつかどこかで見た風景
何でもない日が続くのは
小さな奇跡の積み重ね

何でもない日の帰り道
茜の空を見上げたら
金星人に手を振って

何にもなくても困らない
何でもない日は続いてく

 小野の作品が特徴的なのは「ない」がテーマ(「ない」ということばを必ずつかうという決まり)にもかかわらず「ない」ではなく「ある」が書かれていることである。「何でもない日」は平凡な、特徴のない日、特別な用事のない日、ということだろう。ぼんやりとすごしてしまう一日だ。こういう一日は「無為の一日」として描かれ、そこに「虚無」が象徴的に描かれたりする。「ない(無)」ということばからは、どうしてもそうなりがちである。「ない(無)」ということばの「意味」に引っ張られてしまうのであう。
 小野の詩は、そういう「ない」の「意味」にひきずられず、のびやかにことばが動いていうる。
 そのことから、「ない、とは、実はあることだ、という哲学が書かれている」と指摘する声が参加者からあった。無と充実は紙一重、隣接している、つながっているという指摘である。
 参加者の中には「空」という作品を書いた人がいた。「空」は「そら」であり、「くう」である。「くう(空)」あるいは「む(無)」な何もない、ではなく、エネルギーの充実した状態(場)を指すと思う。運動を拘束する形式がない、まだ何も生まれていないが、そこからはあらゆるものが生まれうる――それが東洋哲学でいう「空/無」だと思うが、その「空/無」につながる充実が、この作品にはある。

何でもない日の昼下がり
ぐんぐん伸びる飛行機雲に
つられて家を抜け出した

 のびやかなことばのリズム、明るいことばの響きが、拘束するものがない「自由」につながっている。「何でもない日(道/街角)」の繰り返しに乗って、ことばが加速してゆく。想像力が広がってゆくのも、いい感じだ。「ぐんぐん伸びる飛行機雲」がそののびやかさを象徴的に表している。「つられて」という「無目的」が「自由」のよろこびになる。「無目的(無拘束)」だから、ことばは「金星人」にまで動いてゆく。とても楽しい。
 参加者に、「印象に残ったことば(私は書けない/思いつかないことば)はどれ?」と質問したところ、2人がこの「金星人」を挙げた。
 他に、「二人分の花を買う」の「二人分」に驚いたという人が3人いた。1本の花でも2人で見れば「二人分」になるが、読んでいて「二人分」が「二人で見る」を超えていると気がついたからである。「何でもない日」のよろこびを、ふと出会ったひとにわかちあうための「二人分」。(小野自身「誰かに出会ったら、花を渡せる」という意味で「二人分」にした、と説明した。――実際、「誰かが待っているのかも」と、小野はふとこころをよぎった「夢」を書き留めている。)
 「何でもない日が続くのは/小さな奇跡の積み重ね」に共感を示す参加者もいた。東北大震災があり、「何でもない日」そのものが大切であり、それがつづく幸せを感じると改めて知った、ということである。
 再終連の「何にもなくても困らない」の「何もなくても」は「物質(物資)」ではなく、ぼんやりとした、一種の「無意識(無の意識)」につながることばだと思う。
 また、2連目の「猫」と「知らない街」の関係も好評だった。「犬」だときっと「知らない街」へは行けない。知っている街へ帰りついてしまう。無意識のうちに私たちが共有している感覚がことばのすみずみまで行き届いている。猫と知らない街以外にも、「ぐんぐん伸びる」と「つられて」、「あくび」と「のんびり」のように、ことばがどこかで互いのことばを呼吸しあっている。響きあっている。それがこの詩の魅力だ。



「現代詩講座」は受講生を募集しています。
事前に連絡していただければ単独(1回ずつ)の受講も可能です。ただし、単独受講の場合は受講料がかわります。下記の「文化センター」に問い合わせてください。

【受講日】第2第4月曜日(月2回)
         13:00~14:30
【受講料】3か月前納 <消費税込>    
     受講料 11,300円(1か月あたり3,780円)
     維持費   630円(1か月あたり 210円)
※新規ご入会の方は初回入会金3,150円が必要です。
 (読売新聞購読者には優待制度があります)
【会 場】読売福岡ビル9階会議室
     福岡市中央区赤坂1丁目(地下鉄赤坂駅2番出口徒歩3分)

お申し込み・お問い合わせ
読売新聞とFBS福岡放送の文化事業よみうりFBS文化センター
TEL:092-715-4338(福岡) 093-511-6555(北九州)
FAX:092-715-6079(福岡) 093-541-6556(北九州)
  E-mail●yomiuri-fbs@tempo.ocn.ne.jp
  HomePage●http://yomiuri-cg.jp

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廿楽順治『化車』

2011-05-23 10:01:45 | 詩集
廿楽順治『化車』(思潮社、2011年04月25日発行)

 廿楽順治『化車』のなかに書かれていることばは、ちょっと変である。何が書いてあるのか、はっきりとはわからない。けれど、なんとなく感じることがある。
 たとえば「具伝」。「具伝」って、何?
 私は知らないことばは知らないままにしておく主義。辞書はひかない。ほんとうに大切なことばなら、いつかわかるときがやってくる。つまり、それが実際につかわれている「場」に出くわし、意味がわかるはず--と、のんきにかまえている。
 で、わからないまま、作品を読むと。

ぐでんぐでん
きみはわたしをからかってるんですか
戦争になりますよ
のどがかれてどうにもならない
血の雨よこちょう

 「具伝」はわからないが「ぐでんぐでん」ならわかる。酔っぱらっている。そして、酔っぱらいというものはけんかをするものである。「きみはわたしをからかってるんですか/戦争になりますよ」というのは、その酔っぱらいのけんかのことばだねえ。
 「血の雨よこちょう」というのも、実際に血の雨が降るわけではないが、しょっちゅうけんかがあり「血の雨降らすぞ」なんてことばが飛び交っているんだろうなあ。

ぬすまれてやってきた
ろうどうのたましいにも衣をかけてやろう
ずっと
きみのしらないことろを浮いてきた
のぎさんは
だいたいなっとらんよ
どうしてちょうちんがそんなにしゃべるのか
それからおれは素足になった
ぐでんぐでん
勝ったのになんだたったこれだけか
われわれは何人だったか
かぞえられるものならかぞえてみよ
後世で
べらべらかたる詩人たちは信用できない
ぐでんぐでんと
いみをすててつたえてみよ
(鬼のぱんつは)
いいぱんつ
きみにはわたしのお経がわかるまい
だって ひとのなまえしか書いてない

 これが、詩の、残り。
 ここにもわかるところとわからないところがある。
 で、そのわかるところ。たとえば「のぎさんは/だいたいなっとらんよ」というのは酔っぱらいの言いぐさだとわかるのだが、不思議なことに、そこには「のぎさん」というまったく知らない人がいる。まったく知らない人がいるのに、わかってしまう。
 なぜ?
 ここに、たぶん廿楽のことばのおもしろさがある。
 わかるのは結局「意味(内容)」ではなく、口調。ことばのリズム。ことばが「肉体」になっている部分がわかるのである。廿楽は「意味」ではなく、ことばのリズムと、リズムのなかにある人間の「肉体」の感覚を書いているのだ。
 「どうしてちょうちんがそんなにしゃべるのか」なんて、まったく無意味なことばだ。口をついてでてきたことばだ。「ちょうちん」が誰のことを指しているのか私にははっきりとはわからない。「のぎさん」であるかもしれないし、ないかもしれない。(きっと違うけれど、まあ、どっちでもいい。)ただ、だれかを、「ちょうちん」と呼んで否定したい--そういう口調がわかる。それだけでいい。
 あとの酔っぱらいのことばも同じだ。
 酔っぱらいだから、ことばはしゃべっていても「意味」はしゃべっていない。そこに「意味」がある。「意味」などどうでもいいのだ。ただことばを「肉体」からだしてしまうこと、それも「肉体」をつかってだしてしまうことが大切なのだ。
 そのことばの、口語のリズムが大切なのだ。

 廿楽の詩に対する私の「解釈」は間違っている。私はいつでも「誤読」している。それで私は満足なのだ。「誤読」できることが、うれしい。
 「頭盆」。

足がまるだしなのに気づかない
頭上に
のせてきたものが
かわいて
にいさん、こりゃもう元にもどらないよ
すぐそこの沼まできたのに
おかし
もたべずにかえらなければならない
どんな時代も
さらのようなものがたりなくなって
頭上
がひらたくなるほかはない
そういうことに欠乏をかんじるやつが
言いなりになって
なんぼんも
かわいた足をまるだしにするのだ

 「頭盆」なんて、やっぱりわからない。わからないけれど、詩を呼んでいると、河童を思い出してしまう。禿げ頭を思い出してしまう。頭のてっぺんが禿げて盆のようになっている男を想像してしまう。床屋で「にいさん、こりゃもう元にもどらないよ」と禿について宣告されている男を思ってしまう。
 ことばの、口語のリズムから、そのことばが発せられた「場」を思い出してしまう。想像してしまう。
 ことばは「意味」をもっている。「内容」をもっている。でも、それだけではないのだ。ことばは「場」をもっている。その、ことばがもっている「場」を、廿楽は口語のリズムと一緒にひっぱりあげる。目の前にひっぱりだす。そのとき、「場」とともに、「肉体」が見えてこない? そこにいる「人間」の、だらしないといっていいのかどうかわからないけれど、まあ、人間の精神では律することのできない、はみだした「肉体」のようなものがない? 私は、それを感じてしまう。はやりのことばでいえば、メタボの「肉体」。余分なもの。理想の肉体からはみだしたもの--その余分なものの、変な感じ、あいまいで、どうしようもない、ゆるんだ「安心」のようなものを感じ、そうか、こんなふうに力をぬけばいいのか、とも思うのだ。
 「意味」なんて、力をぬいて、どっかそのへんにほうりだしてしまえばいい。
 「意味」なんてなくたって、「肉体」は存在し、「肉体」があれば、そこに「場」はあるのだ。「世界」はあるのだ。
 「意味」が攻撃してくるとぱーっと逃げ去って、「意味」があきらめてかえっていくと、また元にもどる「場」の力、その力としての世界。そういうものを感じる。
 口語の、ずるい(?)しぶとさを感じる。

いい年して
世界に毛がはえているのにはびっくりした
でたらめだよ
いったいだれがわたしの
皿をなめたのか
まるだしの足がどうして気づかれない
盆をわられて
おやじは死んだ
その晩からもう三年になるんだねえ

 ずるい、しぶとい、なにか。うーん。それは、妙になつかしくもあるなあ。




たかくおよぐや
廿楽 順治
思潮社



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和合亮一「詩の礫2011.3.1-4.9 」(19)

2011-05-22 23:59:59 | 詩の礫
和合亮一「詩の礫2011.3.1-4.9 」(19)(「現代詩手帖」2011年05月号)

 私は眼の手術をして、以後、長い間パソコンに向かっていることがむずかしいので、とぎれとぎれにしか書くことができないのだが、きのう書いたこと--存在しなくても「書くことができる」何かがあるということ、和合のことばの運動は深いつながりがあると、私は感じている。
 きのう読んだ部分のつづき。

余震か。否。

余震か。否。しかし、常に、余震が私に宿るようになってしまった。揺れは恐ろしい。この恐怖が、常に私に何かを書かせる。詩の礫が夥しく湧いてくる。キーを叩き、メモをする。レコーダーに吹き込む。叫びながら部屋を歩き、床の紙片をこの男は、蹴散らしている。宇宙の中に一人。鹿の鳴き声。

はっきりと覚悟する。私の中には余震がある。
                                 (48ページ)

 いま、和合が書いている「余震」は現実の余震ではない。余震は、ない。ないけれど、そのないはずの余震を和合は書くことができる。
 では、そのないはずの余震を書くとき、和合は、嘘を書いているのか。
 そうではない。
 余震は、現実には存在はしない。けれど、「(和合)の中には余震がある。」それは「余震が私(和合)に宿るようになってしまった」からである。
 和合の「中」--この「中」は、きのう読んだことばに置き換えるなら、「内側」である。(私たちの暮らしの内側に、果肉がある。)その内側にあるものを、和合は「宿る」とも言い換えている。「肉体」そのものとして和合は感じ取っている。
 現実には(和合の「外側」には)余震はない。けれど、和合の「内側・中」にそれは「肉」として「宿っている」。
 和合の外側(現実)にはないけれど、和合は和合の「内側」にあるものを書いている。それは、余震について語ったことばであるが、また、「鹿の鳴き声」も、同じように和合の「内側」にあるものなのだ。 

 そして、その和合の「内側」にあるものこそ、もしかすると「絶対」かもしれない。

 「内側」にある余震、肉体に宿っている肉体としての余震というものを書いたあと、和合は、また不思議なことばを書いている。

宇宙の中に一人。

 これは、部屋の中で紙を蹴散らしている男が「宇宙の中に一人」しかない、ということをあらわしているわけではない。そういう男がほんとうに「一人」かどうかなど、誰にもわからない。けれど「宇宙に一人」と和合は書く。
 このとき和合が感じているのは「孤独」というものとは少し違うと思う。「一人」と書きながら、和合が感じているのは「一人」と「宇宙」が「一体」になっている感覚だ。「宇宙」と「和合」が区別がつかなくなっているという感覚だ。
 その「一体感」に「鹿の鳴き声」がさらに重なる。
 「宇宙」「鹿の鳴き声」が「和合(ひとりの肉体)」のなかで、緊密に結びつく。それを結びつける説得力のあることば(説明できることば)は、きっとどこにもないのだが、そのどこにもないことばだけがつかみとれる「真実」を和合はここでは書いているのだ。
存在しなくても「書く」ことができる。その、ことばの、不思議な力で、存在しないものを、存在させているのだ。

 このことばの不思議な力に突き動かされているからこそ、逆に、次のようにも書く。

余震か。否。私はある日、避難所の暗がりで、手帳に何かを書き殴っていた。私の文字は私の心など少しもとらえない。しかし書くしか無い。この徒労感は初めから勝負が決定している。書いているが、何も書けていないからだ。避難所の暗がりで、私は阿呆な修羅であった。
                                 (48ページ)

 「私の文字は私の心など少しもとらえない。」とは、和合がほんとうに書きたいのは和合の「肉体の内側にある余震」「肉体の内側に宿っている宇宙」「肉体の内側の鹿の鳴き声」だからである。それは、いま、こうやって、かりそめに「余震」「宇宙」「鹿の鳴き声」ということばにしているが、ほんとうは違うことば--もっと違うことばで書かなければならないものだと和合は感じているのだ。 

余震か。否。私はある日、避難所の正午。米と鶏肉とコンソメスープを貰った。むしゃぶり食べた。舌鼓を打ちながら、書き殴った。帳面を開く「このまま何かが大きく動き続けて、大きく変わらないとしたらどうなるか」。時の昂然だけが私には思い出せるが、言葉が何を捕らえようとしたのか、定かでは無い。
                                 (48ページ)

 「時の昂然」だけがある。ことばは動いているけれど、その動いたことばが何を捕らえるか--それは「定かでは無い」。ことばと、もの、ものの運動、あるいは精神の運動は、合致しているかどうか、わからないのだ。
 確かなことは、ことばが動いて、何かを書きたいと思っていること、それだけだ。何かを書きたいと思っている、というのは、ことばになろうとして、まだことばにはならないことばがあるということだ。
 「鹿の鳴き声」と、ことばにしてみた。それは確かにことばではある。けれどそれだけでは、和合の「肉体の内側に宿っている余震」とともにある和合の思っていること、感じていることと強固な結びつきはない。「鹿の鳴き声」は和合の「肉体の内側」では確かなものだが、ことばにしたとたん、つまり外に出た途端「絶対」ではなくなる。それ、何?と問われたら、それを説明することばが見つからない何かでしかない。

 和合は、「矛盾」そのものを書いている。ことばを書きながら、その書いたものを「言葉が何を捕らえようとしたのか、定かではない」と平気で書いている。この「平気」と「矛盾」のなかに、「思想」がある。ここからしか、「思想」は生まれてこない。





現代詩手帖 2011年 05月号 [雑誌]
クリエーター情報なし
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手塚敦史『トンボ消息』

2011-05-22 15:08:13 | 詩集
手塚敦史『トンボ消息』(ふらんす堂、2011年04月23日)

 手塚敦史『トンボ消息』には複数の詩が書かれている。複数というのは、単に作品の数のことではなく、複数の種類のことである。--と、書いても、私の感じていることをあらわしたことにならない。
 少し私の個人的な体験を書く。
 私は網膜剥離で手術をした。失明は免れたが視力は甚だしく劣化した。ほとんど見えない。ほとんど見えないのだが眼鏡で矯正すると、視力は1.5 までは回復する。しかし、これからが問題である。右目と左目の視力に差がありすぎる。矯正するときのレンズの度数が違いすぎる。それで、たとえば左右とも1.0 まで見えるようにして眼鏡をつくると、世界が突然散らばったようになってしまう。遠近感が狂って像が一つにならない。左目の像と右目の像が、てんでに存在し、世界が複数になる。
 慣れてくると大丈夫らしいが、非常に疲れるらしい。私はテスト段階で諦めてしまった。ものが散らばる感じが、眩暈につながり、吐き気がしてくる。
 このときの感じに、手塚の詩は似ている。(吐き気がしてくるというのではないが、)世界が散らばってしまう感じがする。世界を繋ぎ止めているものが解体し、「もの」がそれぞれ独自にそこに存在している感じがする。
 これは一篇の詩のなかでも起きる。
 「物」というタイトル(と、思う)の作品。

もしも水をためる中の
物に いずれの世の事を
うずめたら
かかる際限が
波紋になる

 「水をためる中の/物に」とは何だろう。「水」と「ためる」と「物」がばらばらにことばとなっている。瓶とか壺とかを私は想像するが、瓶や壺を「水をためる物」とはいっても、「水をためる中の物」とはいわない。「中の」がことばをばらばらにしてしまっている。
 そして、その「中の」は、「うずめたら」と不思議な具合に結びついている。
 「水をためる物」、たとえば瓶の「中」に、水の代わりに「世の事を/うずめたら」と私は手塚の書いていることばを無視して読んでしまう。
 私の視力では、手塚の見ている世界をそのまま「遠近感」のある世界として把握できないから、ついついそうしてしまう。
 だが、そう読むと読んだで、不思議な反動がかえってくる。
 私の読み方が「むりやり」であるという意識が、「像」を結んだはずの世界をもう一度ばらばらに散らしてしまうのである。「水」「ためる」「中」「物」「世の事」「うずめる」が、独立したまま、けっしてひとつにはなるまいと踏ん張っている感じが強く響いて切る。
 これは、私のように視力の弱い人間にはつらい。くらくらする。眩暈がする。
 そして、あ、この眩暈はたしかに「波紋」の揺らぎかもしれないなあとも思うのである。

身を硬くした黒馬がはげしく
鼻で息をする。
運び出す土木は 道のほとりに
積まれ、
作業場で二人が顔を見合わせたら
なにかが沈殿していくばかり。

 これは先の詩のつづきだが、黒い馬が木材を運んでいるイメージがまず浮かぶが、ここには「材木」ではなく「土木」ということばがつかわれている。「運び出す土木」。そして、それは「積まれ」る。
 何が書かれている?
 ひとつひとつのことばはわかるが、そして、そこには何らかの脈絡を感じるが、「流通言語」に置き換えようとすると、置き換わらない。ひとつひとつのことばがばらばらに散らばってしまう。遠近感がなくなってしまう。
 「作業場」の「二人」が誰と誰なのか、それもわからない。
 けれど、この遠近感の散らばりを読んでしまうと、なぜか「なにかが沈殿していく」という感覚は納得できるのだ。
 ことばの遠近感がほどかれ、ばらばらになり、ことばを繋ぎ止めていたものが、「なにか」となってことばの底に沈んでいく--ような気がするのである。
 まあ、これは、私のいつもの「誤読」であるのだが……。

もしも水をためる中の
物に かつての世の事を
うつせたら
 一滴、二滴、
ひろがった中の
物は 水上(みなかみ)に照り返って揺らぎ、

水面にうつる
 陽の光を わたしの指さきが
かきまわしても
 一人のもつ値(あたい)により
あやうげに護られつづける 物質よ!

かかる際限の波紋となれ

 かかる際限の
波紋となれ

 何が書いてあるのか--それは、わからない。ただ私は、ことばがばらばらに散らばり、遠近感のない「波紋」となって揺れているのを感じる。
 そういう「感じ」を手塚は、彼のまわりに存在する「物」のひとつひとつに感じている、ということかもしれない。
 そして、その「物」はそれぞれの「ことば」になる。
 「物」が「ことば」になる、というのは変な言い方だが(変だと、私は承知して書いているのだが)、手塚は「物」(存在)ではなく、ことばで世界を考えている、感じているという印象がある。--私には、そう感じられる。
 手塚にとって、世界に存在するのは「ことば」である。「物」が名付けられ、その「名付け」が「ことば」である。名付けるとき「物」は「ことば」に「なる」。そして、いったん「ことば」になってしまうと、その「ことば」から「物」が引き剥がされ、「物」同士の連絡(遠近感)が崩れ、「ことば」が「物」とは関係なく不思議な遠近感を作り上げていく。
 そう感じられる。
 たとえば、「Sonnet 3」(たぶん、これがタイトル)。

指に来(きた)す感覚はあけがた見失ったカワセミの緑青(ろくしょう)を
なぞり、地上に雨をもたらした。パレットに溶いた感触は、
取りも直さず伝言となり、最愛のものに雨をもたらした。
…「わたしは狂ってなどいない、…「ただ溢れでている …「ぬくもりだ

 「指に来す感覚はあけがた見失ったカワセミの緑青を/なぞり、地上に雨をもたらした。」ということばがひとつの文章だと仮定して(仮定の根拠は、句点「。」がそこにあるからだ)、指の感覚がカワセミの緑青に、目のかわり触れるということはあっても、その感覚が「雨をもたらす」ということは「現実」にはありえない。「雨」は気象であり、人間の感覚とは無関係である。そこには「遠近感」というか、「脈絡」はない。ないのだけれど、「ことば」はそこに「脈絡」をつくりあげることができる。「遠近感」をつくりあげることができる。自分の肉体の中の感覚と雨を結びつけることができる。
 こういうことは、手塚のことばを離れて考えても、ありうる。ひじが痛むと雨が降る--というのは湿度や気温の変化がひじに響いてくるということなのだが、そのことを逆にひじの痛みが雨を降らせると言いなおすとき、そこには「肉体」が世界を統一する、世界に脈絡をつくる、遠近感をつくるものとして見えてくるということがある。

 この、ことばにならない「肉体感覚」のようなものが、ことばをどこかで統一している。どこかに、強い肉体があり、それがことばに独自の遠近感を与えている。
 ことばは、完全に遠近感を失って散らばっているのだが、散らばりながらも、どこかにそれをつないでいる「肉体」がある。感覚がある。
 違和感と共感が、ばらばらのまま押し寄せてくる。くっきり見えることが、逆に遠近感を壊し、世界をばらばらにする--左右の度の大きく違った眼鏡で世界を見たときのような、不思議な眩暈を私は感じる。私の視力ではとらえることのできない「遠近感」を手塚が生きているという生々しさが、強く押し寄せてくる。





トンボ消息
手塚 敦史
ふらんす堂


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和合亮一「詩の礫2011.3.1-4.9 」(18)

2011-05-21 23:59:59 | 詩の礫
和合亮一「詩の礫2011.3.1-4.9 」(18)(「現代詩手帖」2011年05月号)

 「05」は3月20日の書き込みである。「言葉を。もっと、言葉を。」ときのう書いていた和合は、不思議なことばを書いている。

果実の果皮を奪えば、そこには果肉がある。否。それはあなたの思い過ごしである。果皮と果肉には絶対的な関係など無い。なぞ無い。
                                 (47ページ)

 果肉と果皮ということばで和合が何を書こうとしているのか、これだけではわからない。果肉、果皮が何かの「比喩」であるだろうということはわかるが、何の比喩なのかわからない。「実体」がわからない。「対象」がわからない。けれど、「果肉」も「果皮」もわかる。そして、果皮を奪う(剥く)と、そこに果肉があるというのは、絶対的な関係ではない、と和合が考えていることがわかる。
 この「絶対的な関係」ということばが、また、わからない。

 わからないことば--というものは、たぶん書いている人間にもわからない。そういうことばは、何度も書き直されながら、わかることばへと変わっていく。和合は、その「わかることば」へ変わる前の、何かをまず書いている。何かをわかりたくて書いているのだ。
 何を和合は「わかりたい」のか。何を知りたいのか。何を納得したいのか。

私たちの暮らしの内側に、果肉がある。否。それはあなたの思い過ごしである。「暮らし」とは簡単に廃墟に変わる。廃墟に変わる。鹿の鳴き声。
                                 (47ページ)

 「果肉」とは「果皮」の内側にあるものである。「暮らしの内側」には「暮らしの果肉」がある。「果肉」とは「内容(意味)」のことかもしれない。暮らしがあり、その外形的な暮らし--たとえば家族がいる。夫と妻の関係があり、父と子、母と子の関係がある。よりそって生きる関係がある。愛し合って生きる関係がある。一緒に食べて、笑って、喜んで、泣いて……という日々の時間があり、それを「暮らしの内側」「暮らしの果肉」と呼びたいのかもしれない。「果肉」とは「暮らしの内容」の比喩であるかもしれない。暮らしというものがあれば、その内側に暮らしの内容(意味)がある、ということを和合は「果皮」と「果肉」という比喩で語りたいのかもしれない。
 そのとき「果肉」は、なんとかわかるとして、「果皮」って何? 「暮らし」の「外側」って何? 
 実は、よくわからない。わからないが、私は、それは「暮らし」という「ことば」かなあ、と思う。
 「暮らし」ということばがあれば、その「内側」に「暮らしの内容(意味)」「暮らしの実体」がある--そういう関係は「絶対」ではない。
 ことばの「重点」は「果肉」「果皮」、あるいは「関係」ではなく、「絶対」にある。「絶対」というものが「ない」。そして、この「絶対」ということばの対極にあるのが「簡単」ということばだろう。「簡単に廃墟に変わる」の「簡単」。和合は、「暮らし」と「廃墟」を見比べて、「暮らし」(暮らしという「果皮」としてのことば)のなかにある「暮らしの内容(果肉)」は「絶対」ではなく、つまり「暮らし」ということばがあれば、そこに「暮らしという内容」があるという関係は「絶対」ではなく、「暮らしの内容」はある日突然「廃墟」へと「簡単」に変わってしまう。--その「絶対」と「簡単」の関係をこそみつめているのである。

 しかし--このことばの試行錯誤の運動を見ていると、わかるのは「絶対」というものに対する不信感だけである。「絶対というものはない」という確信だけである。
 しかし--「簡単」が「絶対」の対極にあると和合が考えているということはわかるが、「簡単」が、実は、わからない。
 「簡単」って何?
 和合にもわからないと思う。
 「暮らし」が「暮らしでなくなる」ということが「簡単」にあっていいはずがない。けれど「簡単」にそういうことが起きた。大震災によって「暮らし」が「暮らしの内容」が壊れてしまうということが「簡単」に起きてしまった。
 「簡単」って何?
 「絶対的なものが無い」ということは、強く実感できる。けれど、「簡単」は、実感しきれない。「簡単」って呼んでいいのか--それすら、実は、わからない。
 だから、和合は、このあとも「絶対」ということばは繰り返しつかうが「簡単」については触れない。
 「簡単」ということばで和合がみつめたもの、「簡単」ということばと一緒につかっている「廃墟」--その組み合わせのなかに、和合の「傷」の深さがある。
 「簡単」をどう告発していくか、「簡単」をどう克服していくか--きっと、そのことへむけて和合のことばの運動は展開するのだと思う。「簡単」と呼んではいけないものが、ほんとうはあるのだ。「絶対」はない。「絶対」よりも「簡単」の方が猛威をふるっている。パワーがある。この関係を、どうにかしたい--そのことを、しかし、和合はまだ「絶対は無い」という表現でしかつかみきれていない。ふいにあらわれた「簡単」を見逃して(?)、置き去りにしている。
 そのかわり。
 そのかわり、というのも変だけれど、ここに突然、変なことばがあらわれ、「絶対」と「簡単」の関係を「象徴」する。

鹿の鳴き声。

 これは、ほんとうに聞こえたのか。そうではないだろう。奈良か安芸の宮島なら聞こえないこともないかもしれないが、福島(原発の近く)で鹿が鳴いている? そうではないだろう。「絶対」と「簡単」の関係をつなぐことができない「空白」に、それはふいに出現してきた「まぼろし」である。和合だけがつかみとった「まぼろし」である。ことばにならない「ことば」。「比喩」以前のもの。「象徴」以前のものだ。
 このことばは、だから、わけがわからない。
 そして、わけがわからないからこそ、美しい。印象に残る。大震災は、「鹿の鳴き声」のようなものである。(なんだか、わからないね。)大震災のあとの廃墟は「鹿の鳴き声」のようなものである。(やっぱり、なんだかわからない。)大震災で「絶対」というものはないと知ったが、その「絶対のなさ」の確かさ(?)は「鹿の鳴き声」のようなものである。(これも、わからない。)「暮らし」あるいは「暮らしの内容」というものは巨大な自然の力によって「簡単」に破壊されてしまうが、そのときの「簡単」というのは「鹿の鳴き声」のようなものである。(ますます、わからない。)
 あ、でも……。
 いま、私が書いた「ますます,わからない」ということ--そのことが「鹿の鳴き声」に一番近いと思う。まったくわからないけれど、そのまったくわからないものが「存在」するということが、この世界のありようなのだ。
 福島の「廃墟」と呼んだ街に鹿が鳴いているかどうか私は知らないが、鳴いていたっていいのだ。その声が聞こえたっていいのだ。人間の「思い」とは無関係にそういうものがあっていい。「簡単」にあっていい。そして、その「簡単」にあることこそが、もしかしたら「絶対」かもしれない。

 「意味」にならないこと--それがあることを「鹿の鳴き声」は、私に教えてくれる。

絶対など無い。果実の皮を剥いても、いくら剥いても、何も無い、何も無いのだ。

何も無いのか、鹿の鳴き声。

 果皮と果肉のあいだ、その関係は絶対ではない。絶対ではないということは何もないというのに等しいかもしれないが、その一方で、果実とは無関係なところに「鹿の鳴き声」は存在する。それは存在するかどうかわからないが、「ことば」にして書くことができる。存在しなくても「書くことができる」何かがある。




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和合 亮一
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ロバート・ロッセン監督「ハスラー」(★★)

2011-05-21 17:22:56 | 午前十時の映画祭
監督 ロバート・ロッセン 出演 ポール・ニューマン、ジャッキー・グリーソン、パイパー・ローリー、ジョージ・C・スコット

 古いなあ。とても古い。1961年だからしょうがないのか、とても教訓くさい。スクリーンで見るのは初めてだが、これがポール・ニューマンの代表作?
 この映画がつまらないのは、肝心のビリヤードが(どうも戦い方に2種類あるようなのだが)、丁寧に描かれていない。当時はCGもないから玉の動きを映像化するのは難しいのかもしれないが、ビリヤードのスリルが伝わってこない。
 かわりにポール・ニューマンやだれそれの「人生観」が描かれるんだけれど。
 うーん。
 作家志望の女性、年をとっているだけでなく、足に小児まひの後遺症をかかえているというのはなあ。ハンディキャップと苦悩の組み合わせが安易な感じがするなあ。
 で、この女性の「作家志望」が象徴的なのだが、結局「文学くさい」のである。
 そうか。この時代の「映画」は映像文化というより「文学」だったんだなあ。あれやこれやの人間のやりとり――これが全部「せりふ」で処理されてしまう。
「負け犬」の定義もそうだし、「愛」もそうだねえ。
――アイ・ラブ・ユーと言ってほしいのか。
――言えば、ことばに縛られることになる。
まあ、そうなんだけれど。
おもしろくないようなあ。
「映画」を見るより、脚本を読めば、それですむ。パイパー・ローリーは、まあ、見ごたえがあるけれどね。
映画とは関係ないのかもしれないが、ポール・ニューマンの歯並びが気になったなあ。本物? このころから、入れ歯? さし歯? あ、私は、意地悪な観客かなあ。

(「午前10時の映画祭」青シリーズ16本目、天神東宝4、05月21日)


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和合亮一「詩の礫2011.3.1-4.9 」(17)

2011-05-20 23:59:59 | 詩の礫
和合亮一「詩の礫2011.3.1-4.9 」(17)(「現代詩手帖」2011年05月号)

 きのうの「日記」に書けなかったことがある。

2時46分に止まってしまった私の時計に、時間を与えようと思う。明けない夜は無い。
                                 (44ページ)

 「時間を与える」とは、どういうことか。和合は「3月18日」には具体的には書いていない。けれど、時間を動かしたいのだということはわかる。時間を動かして、夜を朝に運び出すのだ。
 「動かす」こと、「動く」こと。「動き」とともに「時間」がある。
 
 動く、動かす--動かすことができるものに何があるか。和合に何が動かせるか。ことばを動かすことができる。そして、実際、和合はことばを動かしている。そうすると、 3月19日に不思議なことが起きる。

一昨日から始まった私のこの言葉の行動を、「詩の礫」と名付けた途端に、家に水が出ました。私の精神と、私の家に、血が通ったようでありました。「詩の礫」と通水。駄目な私を少しだけ開いてくれた。目の前の世界のわだかまりを貫いてくれた。
                                 (45ページ)

 これは「偶然」のかもしれない。けれど、それが偶然であっても、私たちはそれを必然にできる。ことばを動かすと、世界が動く。つまり、時間が新しく時を刻みはじめるのだ。世界が新しい動きをはじめるためには、ことばが動かなければならないのだ。
 ことばが動けば、世界が動く。ことばが何かを必要とすれば、その何かは動いていやってくる。ことばは必要なものを呼び寄せるのである。ことばとは、もともとそういうものだろう。何かを呼ぶ、その呼ぶために声があり、ことばがある。

 和合は、水を手に入れたあと、その水がつかうにはなかなか不便な水だったために、タクシーに乗って風呂に行く。

タクシーを呼んだ。来てくれた。運転手さんに全部話す。「いやあ。人間は垢では死にませんよ。元気出して。」

涙が止まらねえや、畜生。そこで立って待ってろ、涙。ぶん殴ってやる。逃げんじゃねえぞ、決着つけろ。涙。
                                 (46ページ)

 この部分に、とても感激した。特に「運転手さんに全部話す。」が正直で、気持ちがいい。和合は、ツイッターでことばを書きつづけた。それは誰かに「話す」ということの一部なのだが、人と会って話すということとは少し違う。いま、運転手さんに、和合は話しかけている。「全部」話している。話したいことがあるのだ。聞いてもらいたいことがあるのだ。聞いてもらうというのは、受け止めてもらうということである。
 受け止めてもらわなくても、ことばは動かすことができる。けれど、受け止めてもらった方が、もっと動きやすくなる。そして、ことばが受け止めてもらえたという実感の、その瞬間、ことばを追い越して涙が溢れてくる。涙は、ことばにならないことばである。こらえてもこらえても、泣くまいとしても溢れてくるものが涙である。
 これは、ことばを書く人間としては、悔しいねえ。
 ことばを涙が追い越していく、というのは悔しいねえ。そして、うれしいねえ。その涙に追いかければ、ことばはきっと動けるからだ。ことばが動いていく先があるということを教えてくれるのが涙でもあるのだ。
 和合は、ことばに追いつきたいのだ。「いやあ。人間は垢では死にませんよ。元気出して。」という運転手さんのことばを聞いた瞬間、何か言おうとして、それを言わない先に溢れてしまったことばにならないもの、涙--それに追いつきたいのだ。言わなければならないことがまだまだあるのだ。「全部話した」けれど、まだまだ溢れてくるのだ。話さなければならないことが。

花を咲かせるには、未来が必要だ。子どもたちは、私たちの夢。昨日の帰りのタクシーでは、遅い夕暮れの山を見た。守らなくてはいけないもの。語りましょう、交わし合おうよ。何を。言葉を。今が、最も言葉が必要なとき。一人になってはいけない。
                                 (47ページ)

 ことばは、ひとりで動かすものではない。交わすことで動かすものなのだ。和合はタクシーの運転手とことばを交わし、交わすことでことばの力を実感した。

あなたとにって、懐かしい街がありますか。わたしには懐かしい街があります。その街は、無くなってしまったのだけれど。言葉を。もっと、言葉を。
                                 (47ページ)

 懐かしい街はなくなってしまった。けれど、その街を語ることばがある。ことばのなかで、街がなつかしく甦ってくる。同じように、ことばを語るとき、そこでは何かが甦るのである。それはなつかしい思い出だけではない。まだ知らないもの--希望も、そのことばから甦るのである。希望とは、未来の「時間」に属するものである。止まってしまった時計に時間を与える、時間を動かすために、ことばが必要なのだ。

もうじき朝が来る。それはどんな表情をしている? 春。鳥のさえずり。清流のやわらかさ。光る山際。頬をなでる風の肌触り。揺れる花のつぼみ。はるかな草原を行く野馬。朝食の支度をする母の足音。雲の切れ間。あなたにも、私にも。あなただけの、私だけの。同じ朝が来る。明けない夜は無い。
                                 (47ページ)

 「あなたにも、私にも。あなただけの、私だけの。同じ朝が来る。」この矛盾が美しい。あなただけの、私だけの「同じ朝」というものはない。あなただけの朝と、私だけの朝は同じではない。同じではないからこそ、あなただけの、私だけのという表現が成り立つのだけれど、その違いがあってもなお「同じ朝」と呼べる瞬間があるのだ。時間が動く。時が動くという、その「動き」が「同じ」なのだ。
 それは「明けない夜は無い」というときの「時間」の動きと「同じ」である。そして、それはことばとともに動くのだ。ことばとともに生き返るのだ。




パパの子育て奮闘記―大地のほっぺたに顔をくっつけて
和合 亮一
サンガ



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ジャウム・コレット=セラ監督「アンノウン」(★★★+★)

2011-05-20 22:28:11 | 映画
監督 ジャウム・コレット=セラ 脚本 オリヴァー・ブッチャー、ステファン・コーンウェル 出演 リーアム・ニーソン、ダイアン・クルーガー、エイダン・クイン、ブルーノ・ガンツ

 あっ。
 私は、こういうストーリーが主体の映画、特にトリックを「売り」にしている映画は嫌いなのだけれど。
 あっ。
 やられましたねえ。
 優秀な科学者が事故に巻き込まれ記憶喪失になる。おぼろげながら記憶を取り戻してみると、自分がもうひとりいる。妻も自分は知らないという。どうなっている?
 --よくあるストーリーと思っていたら。
 なんと、記憶喪失になったのは科学者ではなかった。暗殺集団の、ヒットマン(狙撃者)だった。自分がヒットマンであることを思い出せず、科学者であると思い込む。そこから始まるトラブル。
 これは「脚本」の勝利ですねえ。設定の勝利ですねえ。
 暗殺集団にとって、「目的」を忘れてしまった男は邪魔者以外の何者でもない。だから執拗に男を殺そうと襲い掛かってくる。かつての仲間に狙われつづける男。しかも、笑ってしまうのは、この暗殺集団の、いわば企画者である男がヒットマンであるという「自己」を忘れてしまったとき、善良な男になる--科学者になってしまうというのが、ねえ、すばらしくおかしい。
 これを「シンドラーのリスト」のリーアム・ニーソンがやるから、だまされちゃいますねえ。
 まあ、ストーリーはそんな具合で。
 映画としておもしろいのは、記憶を失ったリーアム・ニーソンが「代役」の暗殺者と出くわすシーン。「代役」の科学者ももちろん科学者ではなくニセモノなのだけれど、そのいわばニセモノ同士が、狙われている対象の本物の科学者の前で、私が本物と言い合うシーン。あ、私の説明、わかりにくい? わからなくていいんです。ネタバレの部分ですから。暗殺者であることを忘れてしまった男と暗殺者が、暗殺者になるために記憶したストーリーを科学者の前で披露する。それがねえ。傑作。音楽でいうと「斉唱」になる。二人が同じスピード、同じ抑揚で同じことばを繰り出す。
 本物の科学者はびっくりしますねえ。これいったい何?
 あ、私もびっくり。見ている観客はみんなびっくりすると思う。これ、何? どうしてここまでことばがそっくりそのまま? リーアム・ニーソンになりすましている男は、どうしてリーアム・ニーソンの記憶をそのままそっくり知っている?
 実は「記憶」ではなく、仕組まれたストーリーの「細部」だからですねえ。いつでも、その細部を言えるように訓練してきたからですねえ。
 で、そういうことは後からわかることなんだけれど、あとからわかることには、リーアム・ニーソンの肉体の動き--これもある。科学者らしからぬ行動力がある。行動力といっても「善良」な市民の記憶しかないので、逃げるだけなんだけれど、ふつうはそんなうまい具合に逃げられません。一般市民は。科学者は。
 でも、ほら。観客って(私だけ?)、やっぱり逃げている主人公が無事逃げられると安心するでしょ? そういう「心理」を巧みに応用して、はらはら、どきどきをつないで行く。
 あざといくらいによく練られた映画だなあ。
 ブルーノ・ガンツがベルリンの天使ではなく、かといって悪魔でもない、でも悪魔のような匂いをただよわせて映画の嘘を支えているのもいいなあ。
                                (中州大洋4)


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倉橋健一「化身」、橋本和子「季節」

2011-05-20 09:34:35 | 詩(雑誌・同人誌)
倉橋健一「化身」、橋本和子「季節」(「イリプスⅡnd」07、2011年05月25日発行)

 倉橋健一「化身」は、一か所非常に気になるところがあった。

よくあることだが、冬場、とくに空気の乾いた明け方には、私はきまって一頭の草食動物に化身する。グルゴール・ザムザの経験した、ある朝目をさますと、自分が寝床の中で一匹の巨大な毒虫になっているのを発見したのと同じ経験だ。ただ私のばあいは、毒虫ならヌ中央アジア産のアルガリヒツジになっている。飼い慣らされて家畜になり、モーゼの十戒によって燔祭りの生贄になることを運命づけられた若いヒツジだ。そのまま私は寝床のなかで背中を丸め四肢を曲げて、ひたすら屠られる瞬間を待っている。食欲旺盛な神の胃袋を満たすための。そのあとはどうなるのか。いつのまにか夢とよばれる荒野をさまよっている。そのまま夢に助けられて私はいまこして体験を素(もと)にみじかい詩を書いているのだが、といってアルガリヒツジの孤独な吐息を忘れているわけではない。私は半身はヒツジ。屠られる寸前を生きている。

 「そのあとはどうなるのか。」ここがいいなあ。ここが美しいなあ。美しい--ということばでいいのかどうかわからないが、そこで私は立ち止まったのである。ほう、とことばをみとれてしまった。
 そうだねえ、生贄のヒツジは神に食べられたあと、どうなるのだろう。--そんなことは、考えたことはなかった。生贄のヒツジの行く末は、まあ、人間は考えない。生贄を捧げることによって、自分たちの暮らしがかわること(よくなること)を考えるけれど、食べられたヒツジのことは考えないなあ。
 そういう「考えないこと」を人間は考えることができる。そして、そのことをことばにすることができる。ことばにすることができるから考えることができるか、それとも考えることができるからことばにするのことができるのか--と、わけのわからないことを、私は即座に考えてしまったが……。
 あ、いや、これは正確ではないなあ。
 私が考えたのではなく、高橋のことばに「感染」して、そういう世界に誘い込まれたのである。

そのあとはどうなるのか。いつのまにか夢とよばれる荒野をさまよっている。

 変でしょ?
 「明け方には、私はきまって一頭の草食動物に化身する。」というのは、「現実」というよりは「夢」のなかのできごとだね。ほら、「私は寝床のなかで背中を丸め四肢を曲げて、ひたすら屠られる瞬間を待っている。」と「寝床」が出てくるでしょ?
 夢のなかで「そのあとはどうなるのか」と考えて、「夢とよばれる荒野」に目覚める。あれっ、何がどうなっている? いつのまに入れ代わっている?
 よくわからないのだけれど、そのよくわからない「入れ代わり」のターニングポイント(?)に「そのあとはどうなるのか」という「考え」が働いているところがおもしろいのだ。
 倉橋の文体は、何かを「感じる」ときに動くのではなく「考える」ときにうごきはじめるのだ--ということを、この「そのあとはどうなるのか」ということばが証明している。
 アルガリヒツジに化身すること、生贄になり神に食べられること、ヒツジが孤独な吐息を吐いていること--そういうことは、すべて「思考」というか、「考え」ではなく、むしろ「考え」(理性)から離れた「まぼろし」のようなものである。「理性」の外にあるものである。それが、しかし、くっきりと見えるのは「そのあとはどうなるのか」というしっかりとした(?)考え、理性の動きが働いたときなのである。
 理性、あるいは「論理」の存在が、倉橋の「幻想」を映し出す「鏡」になっているのだ。その「鏡」の一瞬の、透徹した輝き、美しい光に、私は、ほーっと息をもらしてしまったのである。 



 橋本和子「季節」に書かれているのは何だろう。なんとなく、入院している「母」、しかもいろいろなチューブで生命を維持している状態の母のことを思い出しているように読むことができるのだが……。
 2連目が、ともかくおもしろい。

こんな季節の変わり目は  どちらにしても地面が厚焼き玉子に似
ていて  食べるのが楽しみなのをきみにばれないよう  心を配
るから  中心がない
のかわくわくするのかぞわぞわするのかわんわんするのか
そういうのがくるくる回りながら
かけてく
あわてるでもなく  のんびりでもなく
そういえば
壊れたあたしを吊るす  というかくくる でもなくぐるぐるまき
にして箱に
放り込む  その箱持ってタクシーで  深夜についたら
くだというくだにまとわれて

 「地面」が「厚焼き玉子」という「比喩」のなかに入ってしまうのが、とても変。それを「食べる」というのがどういうことかわからないが、なぜか、厚焼き玉子になった地面・地面になった厚焼き玉子--その何かわからないものを食べてみたい気持ちになるのだ。この変な気持ちは「地面/厚焼き玉子」という「比喩」、「比喩」なのかのかけ離れた存在の一体化が、とても衝撃的で、私には消化しきれないところから生まれてくる。
 わけがわからなくて、そのわけのわからない「存在感」に圧倒されてしまうのだ。
 こういう「存在感」が確立されてしまうと、もう、ことばは自由だねえ。

のかわくわくするのかぞわぞわするのかわんわんするのか

 この区切りのなさがいいなあ。
 「地面/厚焼き玉子」を区別できないように(そんなふうに、まったくかけ離れたものさえ「比喩」になってしまうと区別がつかなくなるように)、何か区別のつかないことが起きて、くっついたまま動いていくのだ。
 あ、そうだなあ、と思う。
 私はもう両親が死んで、二人ともいないのだけれど、その両親が死ぬときの、その瞬間というのは、何か「現実的」ではない。何かが「くっついている」。自分が考えたいこと、感じたいこととは別の何かが勝手にやってくる。そして、考えなければならないこと、感じなければならないことを、攪拌してしまう。何か、急に忙しくなる。
 そういう感じが橋本のことばのなかに存在していて、おもしろい。あ、こういうことは「おもしろい」と呼んではいけないことなのかもしれないけれど、その不思議な「区別のつかないもの」に引っ張られてしまう。

 で。
 
 というのは、私の、何の根拠もない「飛躍」(誤読)なのだが、この橋本の不思議なことばは、もしかすると倉橋の書いた「あとはどうなるのか」という妙に冷徹な論理の力とどこかで通い合っている感じがするのだ。
 同じ「イリプスⅡnd」07に掲載されていることが、そういう印象を引き起こすのかもしれないが--そうだとすれば、おもしろいなあ。「同人誌」を出すおもしろさは、そういうことろにあるかもしれない。ほんとうは別々のものなのに、ひとつの雑誌に掲載された瞬間、何かが通い合う。通い合うように、ことばが自律して動いて行ってしまう。作者の手を離れ、ことば自体の力で互いを呼びあうように動いてしまう。

 そういうことが、ある、と思う。





詩が円熟するとき―詩的60年代環流
倉橋 健一
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和合亮一「詩の礫2011.3.1-4.9 」(16)

2011-05-19 23:59:59 | 詩の礫
和合亮一「詩の礫2011.3.1-4.9 」(16)(「現代詩手帖」2011年05月号)

 きのう、高村光太郎の詩を思い出し、和合のことばはツイッター初日の書き込みとは違ったぐあいに動いた。ことばが「美しく」なった。「なつかしく」なった。怒りや不安以外のことばが動きはじめた。いや、それまでも「やさしさ」とか「感謝」のことばはあったのだが、高村光太郎の詩を思い出す以前は、まずことばと「事象(もの)」を結びあわせることの方が優先されていた。高村光太郎の詩を思い出したあとは、ことばは「思い」を整える具合に動いている。思ったことをただ書くのではなく、こんなふうに思いたい--そういう方向に動いている。「思い」を育てている。ことばは、何かを育てるという仕事をするのだ。「肉体」のなかに隠れている何かが動きだすように励ます仕事をするのだ。(もちろん、それ以前のことばも怒りとか不安を明確にするという大事な仕事をしているのだけれど……。)そういう仕事をしたあとで、和合の意識は、より明確になる。

私は震災の福島を、言葉で埋め尽くしてやる。コンドハ負ケネエゾ。
                                 (43ページ)

 これは、

気に入らなかったのかい? けっ、俺あ、どこまでもてめえをめちゃくちゃにしてやるぞ。
                                 (39ページ)

だいぶ、長い横揺れだ。賭けるか、あんたが勝つか、俺が勝つか。けっ、今回はそろそろ駄目だが、次回はてめえをめちゃくちゃにしてやっぞ。
                                 (40ページ)

 を、言いなおしたもの。書き直したものである。 3月16日は「大震災(余震)」そのものを「めちゃくちゃにしてやる」、ことばで大震災に勝って見せると書いていた。このこと、和合はその「勝つ」ということを「めちゃくちゃにしてやる」という、ことばにはなりきれない「感情」そのものとして書いていた。
 いまは震災に勝つとはどういうことかを知っている。それは震災をことばで埋めつくすことだ。怒りや不安だけではなく、ある一瞬一瞬の「希望」も含めて、あらゆることをことばで埋めつくす。卒業式ができなかったこどもへの「思い」、こどもたちへの励まし、こどもたちへの願いを含めて、あらゆることをことばにする。そのとき、人間は「事象」に真の「意味」を与え、「事象」をしっかりと消化できたことになる--和合はそう考えているのだと思う。

あなたはどこに居ますか。私は暗い部屋に一人で言葉の前に座っています。あなたの言葉になりたい。
                                 (43ページ)

私は一人、暗い部屋の中で言葉の前に座っている。あなたはどこに居ますか。言葉の前に座っていますか。
                                 (44ページ)

 「あなた」もことばを出してください。「声」を出してください、と和合は呼び掛けている。ことばは、でも、簡単には出てこない。大震災のように、まったく知らないことが起きたときは、ことばが動かない。それは和合自身が体験したことだ。だから、もし、あなたのことばがまだ動かないなら、私のことばのそばに寄り添ってください。和合が高村光太郎の詩に寄り添うことでことばを思い出したように、そうすることであなたもことばを思い出すかもしれない。そのときの「あなたの言葉」を支える力になりたい--「あなたの言葉になりたい」には、そういう思いが込められていると思う。

言葉の後ろ背を見ていますか。言葉に追い掛けられていますか。言葉の横に恋人と一緒にいるみたいに寄り添っていますか。それとも言葉に頭の上から怒鳴られていますか。

僕はあなたです。あなたは僕です。

僕はあなたの心の中で言葉の前に座りたいのです。あなたに僕の心の中で言葉の前に座って欲しいのです。生きると覚悟した者、無念に死に行く者。たくさんの言葉が、心の中のがれきに紛れている。
                                 (44ページ)

 ことばは、震災のあとの街のがれきのように、こころのなかで砕けて散らばっている。下敷きになっている。そのひとつひとつを拾い集め、汚れを取り払って、元の姿に、元の姿以上に強いものにしたい。そういうことばとともに生きたい。そうすることが震災に勝つことだ、と和合ははっきり自覚している。
 高村光太郎の詩は、こういう「きっかけ」になっている。
 「文学は何の役に立つか」とはいつの時代でも問われることだが、文学はことばを甦らせるのに役立つ。それはなくてはならないものである。衝撃的なことが起きたとき、ひとはことばを失う。どう言っていいかわからない。そのどう言っていいかわからない無力感--それを奥深いところで支え、もういちどことばを甦らせる。その「きっかけ」として「文学」は必要なのだ。
 ことばは、自分一人でつくりあげるものではない。いつでも、他人と触れ合って、ことばが動く。そのことばの運動の「軌跡」(証拠)として「文学」がある。まず、ひとは、そういうものに頼る。すがる。助けを求める。--これは、とても自然なことである。
 阪神大震災を体験した季村敏夫の『日々の、すみか』では、そういうことばとして魯迅の何かが引用されていた。うろ覚えで申し訳ないが、「人が死んだあとでも魂はあるのか。家族は死んだあとでまた会えるのか」というようなことを誰かに聞かれ、答えにつまったというようなことが書かれている作品である。その「問い」のことばは、阪神大震災を体験したひとの、ことばにならないことばそのもののように思える。そのことばを思い出すことで、季村の詩は動いていくのだが、同じように、このことばとともに動きだす東日本大震災の被災者がいると思う。「文学」(私たちに先だって存在することば)は、私たちの、ことばにならないことば、「肉体」のなかでうごめいている「声」を形にしてくれる。誘い水になってくれる。
 ことばは、そうやって、何かに頼って動きながら、頼ること、頼りあうこと、寄り添うことで、ひとの整える。肉体を整える。暮らしを整える。つまり「思想」になる。

僕はあなたは、この世に、なぜ生きる。僕はあなたは、この世に、なぜ生まれた。僕はあなたは、この世に、何を信じる。

海のきらめきを、風の吐息を、草いきれと、星の輝きを、石ころの歴史を、土の親しさを、雲の切れ間を、そのような故郷を、故郷を信じる。
                               (44-45ページ)

 和合が「故郷」と呼んでいるもののなかに、私は「文学」をも含めたい。和合が「故郷」を描写したことば、それは「文学」(詩)そのものである。

 「文学」について書いたので、少し書き漏らしたことを補足しておく。「文学」は「海のきらめき、風の吐息……」というようなわかりやすく親しみやすいものだけでもない。時には異様なものも含んでいる。
 和合は、そういうもの、不思議な「イメージ」も書いている。「常套句」にはなりえない不思議なことばも書いている。17日のツイッターに戻るのだが、「しー、余震だ。」と書いたあとに、和合独自のことばが動いている。

横に揺れる幅が相変わらずに大きい。何かに乗っているような心地になる。馬の背中が大地だとすれば、私たちは騎手。悲しい騎手。
                                 (40ページ)
 
 自身を馬の背中と感じている。ここには「南相馬市」という地名に「馬」があることが関係しているかもしれない。「馬」の産地であるということが関係しているかもしれない。地名のなかにひそんでいることばがイメージを飛躍させるのである。
 この馬は、形をかえてあらわれる。

福島競馬場は、激しい馬の競り合いと、それに賭ける人々で余念が無い場所である。しかし噂では、この競技場の地下に非常時の巨大な貯水庫があるのだ、とか。私たちは馬の先行争いに一喜一憂する。きみはひづめの祝福を喜べ。眠れないなら想像せよ。地の底深くに、水は、昏昏と眠っている。
                                 (43ページ)

 地震-地下の揺れ、馬-競馬場の地下、水不足-巨大な貯水庫。ことばがことばを呼びあって、イメージをつくる。(イメージではなく、ほんとうに巨大な貯水庫があるのかもしれないが--それは、いまは確認されていないから、イメージである。)
 こういうことばの運動は、いま起きていること、わけのわからないことに、強い印象を与える。わからないことがらを、ある「結晶状態」にする。

馬のいななきは何も変わるまい。夜ノ森の桜は何も変わるまい。海鳴りはがれきを悲しくぬらしながらも、時を削らない。
                                 (44ページ)

 イメージは、自然(天体)と同じように、非情なものである。非情な、というのは、人間の立場に立って、人が困っているなら助けようというようなことをしない、という意味である。完全に独立して、自由である。そこに自然や天体やイメージの美しさがある。(こういうことばは、それそこ震災の被災者には「非情」に響いてしまうかもしれないけれど……。)
 そして、それが非情で美しいからこそ、ひとを、そのことばを美しく鍛え上げもする。ひとのことばをやさしさへと導く。何か、そういう力がある。
 「馬のいななき」を書いたあと、和合は、次のように書いている。

お願いです。南相馬市を救ってください。浜通りの美しさを戻してください。空気の清々しさを。私たちの心の中には、大海原の涙しかない。
                                 (44ページ)



現代詩手帖 2011年 05月号 [雑誌]
クリエーター情報なし
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中尾太一「詩篇A/lone」

2011-05-19 11:56:39 | 詩(雑誌・同人誌)
中尾太一「詩篇A/lone」(「イリプスⅡnd」07、2011年05月25日発行)

中尾太一「詩篇A/lone」は複数の詩篇から構成されている。その内の1篇「1 名無しのゴンベエからの手紙」。中尾の作品の中では、とてもわかりやすいと感じた。あ、これは「誤読」しやすい、「誤読」が楽しい--という意味であるのだけれど。

「話されないものの総雨量が温存されてある時代に生まれた
それ(総雨量)は決まっていた/年の暮れに降る雪は別にして
それ(総雨量)はその時代に覚えたものと釣り合う程度に
変化はしたが/まあだいたい決まっていた
それ(総雨量)は隠れた/隠れたそれ(総雨量)に対応するxは
話されることが多くなるにつれて異界のほうへ器を大きくする
空白というやつだ/空白というのは時間に対応するxだが
ここでの空白がもっぱら未来を志向していることは隠せない

 何が書いてあるのかというと--それは、まあ、わからない。わかるのは「話されないもの」、ふつうは、ことばとか「こと」を指していると思うが、それが「総雨量」と呼ばれていることである。話されるべきこと、その「総量」がすべて話されずにある。この「総量」を中尾は「総量」とと呼ばずに「総雨量」と言っている。
 なぜ、「総雨量」ということばをつかったのか。これが、わからない。この作品がわからないことの第一の原因は、ここにある。
 そして、そのわからないことを、そのままにしておいて、その次のことばを追っていくと「それ(総雨量)は決まっていた」ということばがやってくる。これは具体的にはよくわからないが(総雨量の量自体はわからないが)、まあ、決まっていたというのだから決まっていたんだろうなあ、と「論理」はわかる。「/年の暮れに降る雪は別にして」というのは、気象関係では「雨」に「雪」を含めるのだろうけれど、ここでは含めないということなんだろうなあ、と「論理」はわかる。
 で、面倒なので途中を省略するけれど、私が「わかる」と書くとき、わかっているのは中尾が書いていることばが「論理」をもって動いているということである。その「論理」の主語は「話されないもの/話されないもの(話されずに隠されたもの)」ということになるのかもしれない。そして、その「話されないもの」の計量単位として「総雨量」ということばがつかわれている、ということである。
 これは、簡単に言ってしまえば、あることを語る文脈が、既存の文脈以外ものに侵略されている状態である。「話されないもの」という「主語」が「総雨量」という単位をつかって、「数学(数学を偽装した)」文脈によって侵略されているということである。xという変数(?)をつかって、「話されないもの」と「時代」の関係が数学的に整理されるということである。
 中尾は、「話されないもの」の「事実(内容?)」というよりも、「話されないもの」と「時代」の関係について書こうとしている--ということがわかる。
 で、実際に、それが数学的に整理されるとどうなるかというと……。純粋数学じゃないから、わかったような、わからないような感じになる。

たとえばある人間の/最期/の語りにおける/F/がある人間の語りの中で
現在・未来がそうであるものとして恐怖されている
ということを/どう/自分の経験として話すか/が/今日の
空白の中で/考えなければいけないが
少なくとも/自分の経験として話す/こと/は
脅迫の目的を/すべて/に対して持つ/だろう
無限に近い/話される/こと/への配慮のそれ(総雨量)が
異界の土地に染み込むとき
自分たちの/x/は/無限/そのものであるような時空に関与する
X' である/その係数を/記憶の細部に掛ける

 ここで特徴的なのは(私は「意味」を考えずに、特徴を見るだけである)、ふつうの文体(?)が数学の文体(?)によって破壊され(微分され?)、とぎれとぎれになっているということである。おびただしい/(スラッシュ)がことばを区切っている。
 その/が意味するものは何?
 中尾はわかっている。わかっていないかもしれないが、その/こそが書きたいものだと、書かれていることを読むとわかる。/はことばにならない何かである。ことばにならないものが、それこそ「書かれないもの」の「総雨量」が振り込む激しい雨の降る角度で/になっている感じで、一続きの文脈を破壊している--そのことがわかる。

 で、このことから、私は考えるのだ。
 あ、中尾は、いままである文脈(文体)を、たとえば数学文脈、それは相関関係を語る文脈で語りなおしていきたいのだ、その語り直しをすること(その文体をつかうこと)が、中尾にとって「思想」なのだ。
 既存の文体を破壊し、別なものにする--そのときにふいにあらわれる、たとえば/(スラッシュ)としての文体が、中尾の書きたい「思想」なのだ。
 そのことばがたどりつく「結論」(意味・内容)は、まあ、どうでもいいのだ、というとあまりに大雑把すぎるが、そのときそのとき、適当に、こういうことかなあ、と思えばいいのだと思う。「結論」には「思想」などない。「肉体」となって動く「文体」だけが思想」なのである--と中尾の、何が書いてあるかわからないことばを読みながら、考えた。



数式に物語を代入しながら何も言わなくなったFに、掲げる詩集
中尾 太一
思潮社



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