荒木時彦「limited 」(「びーぐる」21、2013年10月20日発行)
荒木時彦「limited 」は断章から構成されている。その断章には数字が振られているが、数字は連続していない。その「(4」のがおもしろい。
ことばが重複しながら動いていく。「陽の光が照りつける」「陽の光が照りつけて」というのは、そのままそっくりの「文章」の繰り返しである。「動詞」の繰り返しといってもいい。
で、この「動詞」の繰り返しがおもしろいのは、繰り返しが「省略されたことば」を思い出させることである。
という文章は、ほんとうは、
だったのだ、と思い出させる。
荒木はそう書いていないから、そんなことはない、と否定するかもしれないけれど。
反復というのは、基本的に同じことを繰り返して前に進むとき反復というのだが、その反復のなかに「いま」が逆戻りして帰っていくような感じがする。
だから、
を読んだあとでは、1行目は、
という具合になる。
反復され、ことばが前へ前へと動けば動くほど、それまでわからなかった「過去」が見えてきて、世界が「立体的」になる。時間が単純に過去から未来へ流れるのではなく、未来へ進めば進むほど過去も深くなる。そして、その「深さ」というのは、遠くなるのではなく、逆に近づいてくる。「遠く」にあったはずなのに、すぐそばに来ている。
この遠くにあるはずのものが近くにある感覚(近づいてくる感覚)を「粘着力」と呼ぶことができるかもしれない。
このあとも「熱」、「水」が繰り返し出てくる。荒木のことばを借りて言えば「循環」している。そして、その循環によって、世界が「粘着力」のあるものになってくる。停滞してくる。
2行目に出てきた「帯びる」と「停滞」が「親和力」をもってくる。「停滞」はもしかしたら停「帯」と書くのでは--と思ってしまうくらいである。
で「帯びる」と「停滞」は違うの文字をつかうのに、「停帯」かもしれないと考えしてしまう、瞬間的に感じてしまうというのは「誤読」なのだけれど、こういう「誤読」を誘うのが詩なんだろうなあ。
「感覚の意見」として強引に書いてしまうが、「誤読」するという行為そのものが詩なのだ。ある人が何をいったか--それを正確に理解するのは「散文」の仕事のなかでは重要だが、詩の場合はそれほど重要でもない。
これは逆に考えることもできる。
と荒木は書いているが、庭に水、それが蒸発して熱気をもって、それが自分の部屋に入ってくるからといって、それだけで「私もその世界からはじき出されているわけではない」というのは、論理的?
それは「思い込み」というか、水と熱と蒸気の関係に、むりやり自分を当てはめただけのことであって、水と熱と蒸気(太陽の光の作用)は、荒木のことなんか考慮に入れていない。つまり、「私」が荒木であるか、谷内であるか、あるいは安倍首相であるかに関係なく同じ現象になるだろう。
そういう「物理」の世界に「私も」と人間を組み入れることは「誤読」だろう。
でも、そういう「誤読」をしたいのだ。
そして、そういう「誤読」を「誤読」と感じさせないようにするために、「粘着力」のある「文体」がここでは動いているのである。
きのう読んだ近藤洋太「果無 故真鍋呉夫先生に」とはまったく逆方向かもしれない「散文」の運動がここにある。「散文」の作り方がまったく違う。
荒木時彦「limited 」は断章から構成されている。その断章には数字が振られているが、数字は連続していない。その「(4」のがおもしろい。
アパートメントのざらざらとした白い壁に、陽の光が照りつける。
庭にもまた、陽の光が照りつけて、地面が熱を帯びる。夜になると、
辺りの熱が、私の住んでいる三階まで昇ってきて開けた窓から侵入
してくる。熱が湿気を帯びているように感じて階下を見ると、誰か
が庭の木々に水を撒いている。庭という小さな世界にも熱と水が循
環しており、私もその世界からはじき出されているわけではないと
感じる。
ことばが重複しながら動いていく。「陽の光が照りつける」「陽の光が照りつけて」というのは、そのままそっくりの「文章」の繰り返しである。「動詞」の繰り返しといってもいい。
で、この「動詞」の繰り返しがおもしろいのは、繰り返しが「省略されたことば」を思い出させることである。
アパートメントのざらざらとした白い壁に、陽の光が照りつける。
庭にもまた、陽の光が照りつけて、地面が熱を帯びる。
という文章は、ほんとうは、
アパートメントのざらざらとした白い壁に、陽の光が照りつけ(、壁が熱を帯び)る。
庭にもまた、陽の光が照りつけて、地面が熱を帯びる。
だったのだ、と思い出させる。
荒木はそう書いていないから、そんなことはない、と否定するかもしれないけれど。
反復というのは、基本的に同じことを繰り返して前に進むとき反復というのだが、その反復のなかに「いま」が逆戻りして帰っていくような感じがする。
だから、
辺りの熱が、私の住んでいる三階まで昇ってきて開けた窓から侵入
してくる。
を読んだあとでは、1行目は、
アパートメントのざらざらとした(三階の)白い壁に、陽の光が照りつけ、(三階の白い壁が熱を帯び)る。
という具合になる。
反復され、ことばが前へ前へと動けば動くほど、それまでわからなかった「過去」が見えてきて、世界が「立体的」になる。時間が単純に過去から未来へ流れるのではなく、未来へ進めば進むほど過去も深くなる。そして、その「深さ」というのは、遠くなるのではなく、逆に近づいてくる。「遠く」にあったはずなのに、すぐそばに来ている。
この遠くにあるはずのものが近くにある感覚(近づいてくる感覚)を「粘着力」と呼ぶことができるかもしれない。
このあとも「熱」、「水」が繰り返し出てくる。荒木のことばを借りて言えば「循環」している。そして、その循環によって、世界が「粘着力」のあるものになってくる。停滞してくる。
2行目に出てきた「帯びる」と「停滞」が「親和力」をもってくる。「停滞」はもしかしたら停「帯」と書くのでは--と思ってしまうくらいである。
で「帯びる」と「停滞」は違うの文字をつかうのに、「停帯」かもしれないと考えしてしまう、瞬間的に感じてしまうというのは「誤読」なのだけれど、こういう「誤読」を誘うのが詩なんだろうなあ。
「感覚の意見」として強引に書いてしまうが、「誤読」するという行為そのものが詩なのだ。ある人が何をいったか--それを正確に理解するのは「散文」の仕事のなかでは重要だが、詩の場合はそれほど重要でもない。
これは逆に考えることもできる。
庭という小さな世界にも熱と水が循
環しており、私もその世界からはじき出されているわけではないと
感じる。
と荒木は書いているが、庭に水、それが蒸発して熱気をもって、それが自分の部屋に入ってくるからといって、それだけで「私もその世界からはじき出されているわけではない」というのは、論理的?
それは「思い込み」というか、水と熱と蒸気の関係に、むりやり自分を当てはめただけのことであって、水と熱と蒸気(太陽の光の作用)は、荒木のことなんか考慮に入れていない。つまり、「私」が荒木であるか、谷内であるか、あるいは安倍首相であるかに関係なく同じ現象になるだろう。
そういう「物理」の世界に「私も」と人間を組み入れることは「誤読」だろう。
でも、そういう「誤読」をしたいのだ。
そして、そういう「誤読」を「誤読」と感じさせないようにするために、「粘着力」のある「文体」がここでは動いているのである。
きのう読んだ近藤洋太「果無 故真鍋呉夫先生に」とはまったく逆方向かもしれない「散文」の運動がここにある。「散文」の作り方がまったく違う。
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