詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

荒木時彦「limited 」

2013-12-24 10:13:36 | 詩(雑誌・同人誌)
荒木時彦「limited 」(「びーぐる」21、2013年10月20日発行)

 荒木時彦「limited 」は断章から構成されている。その断章には数字が振られているが、数字は連続していない。その「(4」のがおもしろい。

アパートメントのざらざらとした白い壁に、陽の光が照りつける。
庭にもまた、陽の光が照りつけて、地面が熱を帯びる。夜になると、
辺りの熱が、私の住んでいる三階まで昇ってきて開けた窓から侵入
してくる。熱が湿気を帯びているように感じて階下を見ると、誰か
が庭の木々に水を撒いている。庭という小さな世界にも熱と水が循
環しており、私もその世界からはじき出されているわけではないと
感じる。

 ことばが重複しながら動いていく。「陽の光が照りつける」「陽の光が照りつけて」というのは、そのままそっくりの「文章」の繰り返しである。「動詞」の繰り返しといってもいい。
 で、この「動詞」の繰り返しがおもしろいのは、繰り返しが「省略されたことば」を思い出させることである。

アパートメントのざらざらとした白い壁に、陽の光が照りつける。
庭にもまた、陽の光が照りつけて、地面が熱を帯びる。

 という文章は、ほんとうは、

アパートメントのざらざらとした白い壁に、陽の光が照りつけ(、壁が熱を帯び)る。
庭にもまた、陽の光が照りつけて、地面が熱を帯びる。

 だったのだ、と思い出させる。
 荒木はそう書いていないから、そんなことはない、と否定するかもしれないけれど。
 反復というのは、基本的に同じことを繰り返して前に進むとき反復というのだが、その反復のなかに「いま」が逆戻りして帰っていくような感じがする。
 だから、

辺りの熱が、私の住んでいる三階まで昇ってきて開けた窓から侵入
してくる。

を読んだあとでは、1行目は、

アパートメントのざらざらとした(三階の)白い壁に、陽の光が照りつけ、(三階の白い壁が熱を帯び)る。

 という具合になる。
 反復され、ことばが前へ前へと動けば動くほど、それまでわからなかった「過去」が見えてきて、世界が「立体的」になる。時間が単純に過去から未来へ流れるのではなく、未来へ進めば進むほど過去も深くなる。そして、その「深さ」というのは、遠くなるのではなく、逆に近づいてくる。「遠く」にあったはずなのに、すぐそばに来ている。
 この遠くにあるはずのものが近くにある感覚(近づいてくる感覚)を「粘着力」と呼ぶことができるかもしれない。

 このあとも「熱」、「水」が繰り返し出てくる。荒木のことばを借りて言えば「循環」している。そして、その循環によって、世界が「粘着力」のあるものになってくる。停滞してくる。
 2行目に出てきた「帯びる」と「停滞」が「親和力」をもってくる。「停滞」はもしかしたら停「帯」と書くのでは--と思ってしまうくらいである。
 で「帯びる」と「停滞」は違うの文字をつかうのに、「停帯」かもしれないと考えしてしまう、瞬間的に感じてしまうというのは「誤読」なのだけれど、こういう「誤読」を誘うのが詩なんだろうなあ。
 
 「感覚の意見」として強引に書いてしまうが、「誤読」するという行為そのものが詩なのだ。ある人が何をいったか--それを正確に理解するのは「散文」の仕事のなかでは重要だが、詩の場合はそれほど重要でもない。
 これは逆に考えることもできる。

              庭という小さな世界にも熱と水が循
環しており、私もその世界からはじき出されているわけではないと
感じる。


 と荒木は書いているが、庭に水、それが蒸発して熱気をもって、それが自分の部屋に入ってくるからといって、それだけで「私もその世界からはじき出されているわけではない」というのは、論理的?
 それは「思い込み」というか、水と熱と蒸気の関係に、むりやり自分を当てはめただけのことであって、水と熱と蒸気(太陽の光の作用)は、荒木のことなんか考慮に入れていない。つまり、「私」が荒木であるか、谷内であるか、あるいは安倍首相であるかに関係なく同じ現象になるだろう。
 そういう「物理」の世界に「私も」と人間を組み入れることは「誤読」だろう。
 でも、そういう「誤読」をしたいのだ。
 そして、そういう「誤読」を「誤読」と感じさせないようにするために、「粘着力」のある「文体」がここでは動いているのである。
 きのう読んだ近藤洋太「果無 故真鍋呉夫先生に」とはまったく逆方向かもしれない「散文」の運動がここにある。「散文」の作り方がまったく違う。





sketches 2
荒木時彦
書肆山田
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

西脇順三郎の一行(37)

2013-12-24 06:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(37)

 「第三の神話」

化学はもう物理学として説明する方がよい         (49ページ)

 この場合の「物理学」とは電子、原子の世界である。化学も素粒子の運動に還元してみつめる方がいい。--意味の強い一行だ。
 この一行が好きなのは、「現象」を「運動」として把握する西脇の姿が見えるからである。そしてその運動は「意志を持たない運動」である。自律した運動である。

 ことばにも、そういう運動があるのではないだろうか。--というのは飛躍した空想だが、

詩はもう物理学として説明する方がいい

 と西脇は言っているのではないのか。そう感じるのである。(これは私の「感覚の意見」であって、何の根拠ももっていないのだが……。)「意味」ではなく、ことばとことばが引きつけあったりぶつかったりして自在に動いていくのが詩。自在といっても、ことばのなかにある素粒子によって運動は決められているのだけれど。
 私はわけのわからないことを書くのが好きなので、まあ、こんなふうに書いておく。ついでに、ことばの「素粒子」とは何かというと、「音」(音楽)であると私は思う。で、そのことを強引に発展させて、私は

詩はもうことばの物理学(ことば動詞の和音)として説明する方がよい

 と勝手に読み替えるのである。
 そして、それを実際にできないものだろうか、と考えるのである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

アルフォンソ・キュアロン監督「ゼロ・グラビティ」(★★)

2013-12-24 01:46:32 | 映画
アルフォンソ・キュアロン監督「ゼロ・グラビティ」(★★)


監督 アルフォンソ・キュアロン 出演 サンドラ・ブロック、ジョージ・クルーニー、エド・ハリス

 3D映画。ただし、私は目が悪いので疲れる映像はみたくない。2D版をみた。それでも撮影の都合でそうなるのだろうが、わざとらしい遠近感(奇妙な縁取りのようなずれ)があって、かなり疲れる。
 誰もみたことがない映像--というのは映画の魅力だけれど。
 うーん、この映画の映像はほんとうに誰も見たことがない映像なのか。そうではなくて、ただ単にまだ一度も起きていない映像ではないのか。宇宙で衛星が衝突し(?)、その破片が飛び散り、船外活動をしている飛行士が困難な状況に陥る。そのときの衛星の破片が飛び散る様子、地球を周回する映像、さらにそのために命綱を切られてどこまでもまわりながら飛んで行く人間というのは、私は見たことがない。しかし、それはもともと見ようにも、まだ起きていないことなので見ることができないだけである。
 映画の見たことがない映像というのは、それとは違うのではないか。たとえばサンドラ・ブロックのスクリーンいっぱいに映し出される目。それは、私は現実には見たことがない。それは見ることができない。私がどんなに目をちかづけて行っても、サンドラ・ブロックの目は2-3センチより大きくならない。けれど映画では、それをスクリーンからはみだす大きさで見ることができる。現実には見ることのできないものをスクリーンで、限界を越えて見てしまうのが映画である。まだ起きていないことをスクリーンで見たって、新しい映像を見た、という気持ちにはなれない。
 こんなことをくだくだと書いているのは……。実は、私には衛星の破片が飛び交うシーンも、サンドラ・ブロックが宇宙空間をぐるぐる回転して飛んで行くシーンもおもしろくなかったからである。そんなものは、どっちにしろCGで作り上げた疑似体験映像にすぎない。どこまでCGがそれを映像にできるか、というのは映像作家にはおもしろい課題だろうけれど、見ている方では「こんなものか」と思うだけである。
 そんな映像よりも、私には、サンドラ・ブロックが涙を流したときの映像がおもしろかった。無重力なので、涙は頬をつたって下に落ちるのではなく、丸い水滴になって方々へ飛び散る。いくつもいくつも方々へ飛び散る。昔、「宇宙螢」と呼ばれた現象である。昔は宇宙飛行士が尿をするとき、コンドームのようものをペニスにかぶせ、それから用を足すのだが、自分のサイズを過大申告したために隙間ができて、そこから尿が飛び散り、その水滴が光を反射してきらきら輝く。それを「宇宙螢」というらしいのだが、そこには宇宙飛行の「見栄っ張り」のうようなものが原因としてひそんでいて、何だか、それが私の「肉体」をくすぐる。そういう「くすぐり」の感覚が私の肉体のなかには残っていて、尿ではないのだが、「あ、宇宙蛍だ」と思い出す。涙が水滴になって四方へ勝手に飛び散るシーンは私は見てきたわけではないが、「見たもの」として思い出し、納得する。
 こういう感じが、映画の「見たことのない映像」の体験というものである。見たことはない。けれど、見たと肉体が錯覚している何かを、影像でまざまざと見てしまう。
 スクリーンいっぱいに拡大されたサンドラ・ブロックの目--そういうものも、私は見たことはないが、誰かの目を覗き込み、それしか見えなかったということを肉体は覚えていて、そのためにスクリーンいっぱいの目を、その瞳の変化を、あ、これが目なんだと実感する。
 どこかに「肉体」が存在しないと、あるいはどこかで「肉体」としっかりつながっていないと、どんな影像も「新しい影像」にはなりきれない。私には、そう感じられる。
 これは別な言い方をすると、どんな新しい体験でも、それを私が実際に体験できないものであるなら、そんなものはちっともおもしろくないということでもある。宇宙空間をさまようなんて、恐怖かどうか、ぜんぜんわからない。それは「新しい」体験ではありえない。
 もうひとつ、おもしろいと思った影像で補足してみよう。
 涙の宇宙蛍と同時に、あ、ここは傑作だなあ、映画になっているなあと感じたのは、サンドラ・ブロックが中国の宇宙船に乗り込んでから。操縦しようとするとパネルの文字が中国語。アルファベットではない。読めない。スイッチを間違える危険性がある。思わず笑いだしてしまったが、こういう笑いは、知らない文字に出会って困惑したことが私にもあるからだ。これいったい、何? だれもが困惑することに、宇宙飛行士も困惑している。困っている。これが、影像で表現されているから、リアルに感じられる。まるで、自分がそこにいる気持ちになれる。
 で、この状況をサンドラ・ブロックはどう乗り切るか。ここもおもしろい。ソユーズに乗った体験(シュミレーションだけれど)を思い出し、ソユーズではこのボタンはあれ、という具合に「肉体」が覚えている位置関係をたよりにボタンを押す。文字で判断するのではなく、肉体が覚えているボタンの位置--それをたよりにする。こういうことは、だれもが日常で体験する。知らないことでも、たぶんこれがスタートのスイッチ、という具合に判断する。「肉体」は「頭」以上にかしこいのである。
 こういうシーンがもっともっとあれば、この映画は真に迫ってくる。肉体を真剣に描けば映画はおもしろくなる。そういうことをせず、ただ観客をびっくりさせることに終始している前半は、うーん、つまらない。手間隙かけて影像をつくったのだろうけれど、そんなものはすぐに忘れてしまう。人間が、観客の覚えている「肉体」を引っ張りながら動いてこそ、新しい影像体験と言えるのだ。
 影像がテクノロジーによって堕落してしまった映画だね、これは。
               (2013年12月22日ユナイテッドシネマ キャナル3)


トゥモロー・ワールド プレミアム・エディション [DVD]
クリエーター情報なし
ポニーキャニオン
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

近藤洋太「果無 故真鍋呉夫先生に」

2013-12-23 11:28:50 | 詩(雑誌・同人誌)
近藤洋太「果無 故真鍋呉夫先生に」(「現代詩手帖」2013年12月号)

 近藤洋太「果無 故真鍋呉夫先生に」(初出『果無』10月)は真鍋呉夫を思い出す詩である。詩のなかに引用されている「さびしさの果無山(はてなしやま)に花咲いて」という句についての思い出でもある。
 その思い出につてい語る前の「序」の部分(書き出しの部分)。

昨年夏 倉田昌紀さんと玉置山(たまきやま)の大杉をみたあと
参道を下りて駐車場にある茶店に入った
つめたいサイダーを飲みながら
目の前のさまざまに異なる緑の樹々に見惚れていた
樹々の下には十津川が蛇行をくりかえしながら流れている
見えないけれども流れているのだ
樹々の向こう 向こうの山襞に
先ほどまでかすんで見えなかった家が小さく見える
--あそこにも人が住んでおられるんですかねえ。
倉田さんに話しかけると 彼も知らなかったらしく
奥に向かって茶店の人に声をかけた
--あれは果無集落。

 散文的なことばの動きである。「さまざまに異なる緑の樹々」というのは詩のことばとしては何だかもの足りない。だから散文的と感じるのかもしれない。いや、「樹々の下には十津川が蛇行をくりかえしながら流れている/見えないけれども流れているのだ」の「見えないけれども流れているのだ」という念の押し方、念を押した上でことばを動かしていく方法が散文的なのかな。
 いや、それよりも2行目だな。

参道を下りて駐車場にある茶店に入った

 「駐車場にある茶店」という存在自体が散文的である。このときの「散文的」というのは「詩的ではない」ということだが、その「詩的ではない」原因、詩を否定しているのは「駐車場にある」ということばだ。「参道を下りて茶店に入る」なら、「散文的」な印象は消える。「味気ない」感じは消える。
 だが。
 ほんとうにそうかな?
 私は思わず傍線を引いてしまった2行目を見ながら、そうではなく、この味気ない感じ、散文的な、あまりに散文的なこの1行こそが、この作品を詩にしているのだと、私の肉体の深いところで感じている。そのことを書きたくて、わざと「散文」ということばを持ち出して、近藤のことばの運動を追ってみたのだ。

 詩を書く--そう意識するとき(意識するなら)、多くの詩人は、たぶん2行目の「駐車場にある」ということばは書かない。あまりにも「実務的」で、おもしろみがない。省略しても状況はかわらない。わざわざ、味気ないことば(もの)を詩に持ち込まないだろうとくに個人をしのぶ詩にそういうことばをもちこまないだろう。
 けれど、近藤はそれを持ち込む。
 これは、どういうことか。
 「いま/ここ」にあるものを、そのまま受け入れるということだ。「いま/ここ」にあるものを省略しない。省略しないで、じっくりとみつめる。そして、それが見えたなら、それをことばにする。このことばの運動は「散文」のように見えるけれど、実は、散文ではなく「俳句」のことばの動きである。「散文」は事実を重視するようだが、それ以上に「合理性」を重視する。「資本主義的」である。「俳句」は「流通経済」に影響されずに、じっくりと対象をみつめる。
 ときには「見えないけれども流れているのだ」という具合に、「見えないもの」まで「現実」の背後にことばとして存在させ、「世界」に奥行きを与える。
 駐車場という茶店ににつかわしくない実務的なものが、茶店を抒情から引き剥がし裸にする。そのときの「違和」が、手触りとして目覚める。その瞬間、何か、ことばには整理できない「もの」に触れた感じがする。そういう、ことばにできない「もの」を排除して詩は書かれることが多いのだが、そういうものを近藤は逆に排除せずに取り込む。そうすると、その瞬間世界が少し動く。この小さな動きのなかに、詩がある。詩へ動くエネルギーがある。

 「ある」を「ある」のまま、手を加えずにつかみ取る。つかみとって、動く。そのとき「俳句」ができあがる。
 もしそうであるなら、「俳人」を「俳人」のままつかみとるには、やはり手を加えず、ありのままをしっかりことばを動かすことが肝要なのだ。近藤は、「さびしさの……」という真鍋の句に向き合っているだけではなく、真鍋の「ひとがら」に向き合い、それを受け継いでことばを動かす。何にも手を加えず、そこにあるものをつかみとるとき、近藤は真鍋に向き合うを通り越して、真鍋に「なる」。
 真鍋のことばの力が近藤を作り上げている、この詩を動かしていると私は感じたのだ。真鍋の句を私は知っているわけではないが、「さびしさの……」という句だけを手がかりにいうなら、「現実」を見つめながら、見ることをとおして対象の向こう側まで行って、その向こうにあるもの(現実というより、幻想)をつかみ取ってくるような運動--そういうことを、近藤は、ここでは実践しているように思う。
 ここにあるものをつかみきってしまわないかぎり、「向こう」へは行けないのだ。
 かなり唐突で、強引な言い方かもしれないが、「駐車場」ということばの印象は、そういうところへつながっていく。

今年六月五日 先生は亡くなり八日に落合斎場で荼毘に付されました
わたしは何人かの人と葬儀に立会い
帰りに近くの鰻屋で食事と少しのお酒を飲んでしばらく先生の思い出話をしました
山手通りまで出て地下鉄東西線に乗るみんなと別れ
通りの反対側に渡ってタクシーをつかまえようとしました

 この部分の「通りの反対側」ということばにも、じっくりした視線を感じる。世界が一瞬覚醒する。見すごしていた動きが瞬間的に「わかる」。私は近藤が実際に動いた「東西線」も何もわからないのだけれど、近藤の動きが「わかる」。そして、その瞬間に、知らないはずの街が見える。
 そういう具体的な街があって、人と人との動きがあって、真鍋の思い出も動いている。あ、ひとを思い出すというのはこういうことなんだなあ、と感じる。ひとの思い出なら何回も聞いたことがある。けれど、その思い出に「駐車場にある」茶店、「通りの反対側に渡って」タクシーをつかまえようとしましたというような、具体的な、散文的な事実を定着させて語る語り口に私は出会ったことがない。聞いてきたもしれないが、近藤の詩のように、思わず傍線を引いてしまうようなしっかりした「声」として聞いたことはなかった。
 はっと、私は驚いたのだった。真鍋を思い出すまでの、その近藤のことばの動きに。

果無
近藤 洋太
思潮社
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

西脇順三郎の一行(36)

2013-12-23 06:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(36)

 「第三の神話」(「第三の神話」は長い作品なので1行だけ選ぶのはつらい。現代詩文庫では48ページからはじまる。1ページに1行ずつ選んでいく。)


    あゝそれからまた                     (48ページ)

 この一行はイメージを持っていない。「絵」を持っていない。「第三の神話」は「秋分の日は晴れた/久しぶりに遠くの山がはつきり見える」で始まる。そして、見えたものを次々にことばにする。その見えたものは現実の風景とは限らない。漢詩のなかの風景、漢詩がことばで書いている風景も含まれる。ことばがつくりだす「イメージ」も含んでいる。
 ところが「あゝそれからまた」には、そういうものがない。
 --と、書いて、私は疑うのである。それはほんとうか。ほんとうに私には「絵」が見えないか。
 実は見える。はっきりと見える。
 何かを「見ている西脇」が見える。漢詩の「ことば」のなかの風景を見ながら、現実の風景を見ている、つまり風景を二重に重ね合わせている西脇が見える。
 ふたつの風景を重ねる、出会わせる、ということをしながら、それを「ことば」で動かしていく西脇が見える。あるいは、そういう「ことば」の動きが見える。
 現実の風景と漢詩の風景を何行か重ねると、「イメージ」が多くなりすぎる。動かなくなる。それを、何の意味もないことば「あゝそれからまた」という音で動かす。これは仕切りなおしのようなものだが、この意味の「ゆるんだ」音がなかなか楽しい。意味がゆるむから、意味を運ぶ「絵」が消えて、そこに西脇が現れる--という感じがする。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

峯澤典子「はじまり」

2013-12-22 10:02:44 | 詩集
峯澤典子「はじまり」(「現代詩手帖」2013年12月号)

 峯澤典子「はじまり」(初出『ひかりの途上』08月)は赤ん坊が生まれてから歩きはじめるまでを書いている。
 ことばが赤ん坊に集中するのではなく、人間--いや、「ひと」と赤ん坊にむけられている。あ、これも間違い。赤ん坊が見ているひと、赤ん坊にしか見えないひとを見ている。ひとを見ながら、そのひとと赤ん坊の間に「人間」というものが生まれてくる感じがする。赤ちゃんは生まれ、それからひとに出会い、そこで「人間」として生まれ変わる。
 それは、何とも不思議な感じ。誕生(出産)のように、劇的に、第三者にわかるようなできごとではない。だからこそ、ことばにして、それをしっかりと定着させる必要があるのだろう。

ときに火を焚き
ときに花を流し
空にいる肉親に声を送る
地球という かなしい水辺に
降り立つことを選んだ足は
はじめてつま先を地面におろすまでに
四季を見送り
生まれた月をふたたび迎えた

それだけの月日を必要としたのは
自分と入り替わりで
水辺を離れた人たちが
誕生から何十年ものあいだ
誰にもわからないように
彼ら自身でも気づかないように
手のひらにしまっておいた
草木や風や
星々の影絵に
もういちど あやされながら
暗闇に同化してゆく時刻を
できるだけ長く
寝転んで見あげていたかったからではないのか

 これは、もちろん赤ん坊の考えるようなことではない。赤ん坊を産むことで、峯澤は生まれ変わる。赤ん坊になる。生きたまま生まれ変わるので、その記憶はしっかりしている。「肉体」が覚えていることをそのまま抱え込んで、赤ん坊になる。そうすると、不思議なことに峯澤が生きてきた「時間」だけではなく、そうやって命をつないできたひとの「思い」がふっと峯澤の「肉体」をとおりすぎる。峯澤を産んで、地球という「水辺を離れた人たち」、その「肉体」が峯澤の「肉体」になる。「肉体」がとけあってひとつになる。「肉親」ということばが出てくるが、「肉親」をいのちそのものの超えたつながりを感じる。峯澤は安価坊といっしょに「人間」になったのだ。ひとがつないできた「いのち」、人と人の「間」になる。そして人と人の「間」をつなぐ。つまり「人間」になる。「生まれる」から「生きる」へとかわる瞬間がここにある。
 ひとは誰でも、「誕生から何十年ものあいだ」に、それぞれの草木や風や星と「肉体」をかよわせ、ひとつになる。それぞれの草木、風、星を「肉体」のなかにもつようになる。それは「誰にもわからない」し、「彼ら自身でも気づかない」ものである。つまり、ことばにしないまま、つかみとった「いのち」である。その「ことば以前」(未生のことば)を赤ん坊は「1年」(四季)をかけて、静かに呼吸する。それは本能かもしれない。本能として、峯澤は、大事に「手のひらにしま」うようにして、温かく見守っている。赤ん坊を産み、同時に生まれ変わって、母親になって、いのちを見守る視線を感じる。見守りながら、峯澤が、こうやって見守られてきたのだと納得していることが伝わってくる。「人間」であることを感得していることが伝わってくる。

明けの空との長い対話ののち
仰向けからうつぶせになり
立ちあがることをようやく思い出し
まだ何も踏みつけたことのない
陽の匂いの足うらで
からだを左右に揺らし
ときおり床に手をついては
また起きあがり
つま先からかかとにかけて
真新しい力を芽吹かせ
とん、とん、とん、とん、と
生きている間は二度と見られない
まばゆい杭を
地表の時間に打ちつけ
これからは
雲の間に流されないよう
ゆっくりと
しかし たしかに
赤ん坊は
歩きはじめる

 赤ん坊をしっかり見ている--だけでは、書けない。特に、

とん、とん、とん、とん、と
生きている間は二度と見られない
まばゆい杭を
地表の時間に打ちつけ

 これは赤ん坊にならないと書けない。しかも、その赤ん坊はただ生まれてきただけではなく、それまで地球に生きていた「いのち」を引き継いで生まれた赤ん坊だからこそ書けることばである。
 赤ん坊が足をとんとんと踏みならす、ということは客観的な「事実」として書くことはできるが、その赤ん坊が「まばゆい杭」を「地表の時間に」打ちこんでいたとは、赤ん坊でしか書けないことである。
 なんといっても、その「まばゆい杭」が書けない。
 別な言い方をすると。
 「まばゆい杭」というものは、峯澤が「まばゆい杭」と書くまでは誰にも見えないからである。見えなかったからである。地球を生きた「いのち」を引き継いで生まれてきた赤ん坊、その赤ん坊といっしょに生まれ変わった峯澤が、引き継いだ「いのちの結晶(いのちの象徴)」として、「生きる」というはじまりについて、「はじめて」ことばにしたものだからである。
 はじめてこの世に生まれてきた「ことば」なので、その「意味」はわからない。何を意味しているか、何を象徴しているか--というようなことは「定義」できない。説明できない。ただ「まばゆい杭」としか言えない。こういうことばが「意味(定義)」をもつようになるまでには、繰り返し繰り返し、同じような赤ん坊の姿が書かれなければならない。繰り返し書くことで、たぶん、少しずつ「未生のことば」の「未生」の広がりにたどりつけるのだと思う。
 あ、少し余分なことを書いてしまったかもしれない。
 この「まばゆい杭」は「頭」では書けない。それを見たものにしか書けない。はじめて書かれた「事実」である。だからそれは、「誰にもわからない」(峯澤にしかわからない)ものである、はずである。
 しかし、それなのに「わかる」。
 杭が見える。赤ん坊が足でとんとんと打ちこんでいるのが見える。目の前に赤ん坊すらいないのに。つまり、それは「見える」のではなく「わかる」のである。そういうことを、私は「わかる」と呼ぶのである。
 こういう錯覚(?)を引き起こすことばはすごい。
 これが詩だ。








ひかりの途上で
クリエーター情報なし
七月堂
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

西脇順三郎の一行(35)

2013-12-22 06:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(35)

 「より巧みなる者へ」

川のわきで曲つた庭がある

 西脇は「曲がる」ということばが好きである。西脇にとって「まっすぐ」には味がないのかもしれない。
 それにしても「曲つた庭」というものは、ない。「庭」は曲がらない。
 けれど、なぜだろう、「川のわきで曲つた庭がある」という1行を読むと、くっきりと情景が浮かぶ。私は「誤読」する。川が曲がっている。それが庭に接している。庭を囲むように川が曲がっている……。
 もっと言いなおすと。
 川に沿って、私の「肉体」は動く。「川のわきで曲つた」とということばといっしょに私は川のように曲がる。私はこのとき「川」なのである。川になって、曲がる。川には、何か人の動きを刺戟するものがあって、つまり川は渡るか、それに沿って歩くしかないものである。渡らないかぎりは、川に沿って歩く。だから、ときには「曲がる」。でも川に沿ってという行為そのものは曲がらない。つらぬかれる。
 そういう人間の「肉体」の動きがあって、その動きに連れて「庭」にであったとき、曲がるのは川ではなく庭なのだ。歩く(動く)人にとって道はどんな径路であろうと「まっすぐ」でしかない。
 「曲がる」ということばを西脇がつかうとき、西脇はほんとうは「曲がる」ということをしていない。そこに「曲がる」を貫く「まっすぐ」をみている。「曲がる」のなかにこそ、ふつうではとらえることのできない「まっすぐ」がある。「寂しい」と直結する「道」がある。

 私の書いていることは「矛盾」だが、そういう「矛盾」を誘う響きが西脇のことばにある。


詩を読む詩をつかむ
谷内 修三
思潮社
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大崎清夏「夜が静かで困ってしまう」

2013-12-21 09:07:10 | 詩(雑誌・同人誌)
大崎清夏「夜が静かで困ってしまう」(「現代詩手帖」2013年12月号)

 大崎清夏「夜が静かで困ってしまう」(初出『指差すことができない』09月)。ことばは不思議なもので、書いているとだんだん違ったものになってきてしまう。きのう読んだ天沢退二郎の場合は、「音」が不思議な具合に響きあって、ことばの動きを加速させていた。大崎の詩も、ある種類の「音楽」がことばを支配しているのだが、その「音楽」はどちらかというと「散文」に属する音楽のように私には思える。

夜がこんなに静かで
ずいぶん苦労してしまう
闇のなかで桜が咲いていることを思ってしまう
亡霊みたいにコブシが咲いていることも思ってしまう
昼間歩いた道に変態がいないか気になるし
七里ヶ浜はいつも通りのネックレスをきらめかせているか
人の頭くらいある隕石がだれにもしられずに太平洋に落ちたりしていないか
おととし泊まった山小屋の夫婦はちゃんと寝しずまっているか
春の浜辺で鳶にチョコチップクッキーをかっさらわれたこどのの夢がだいじょうぶか

 とりとももなく思い浮かんだことを書いてあるだけのようにみえるかもしれないけれど、いや、とりとめもなく書いているだけなのだろうけれど、その「とりとめのなさ」をある種類の「音楽」が動かしている。
 ここには「散文の脚韻」がある。2行目から、「してしまう」「咲いていることを思ってしまう」「咲いていることを思ってしまう」と「しまう」が3回つづく。この「音」に支えられて、その先に書かれた主題(主語?)が支えられている。主語がかわっても最後の「動詞」の音が、その、すりかわったものを統合してしまう。
 6行目から9行目では「きらめかせているか」「落ちたりしていないか」「寝しずまっているか」「だいじょうぶか」と「か」という疑問をあらわすことばが「脚韻」をつくっている。この「脚韻」は、もちろん英語の詩の場合の脚韻とは無関係で、日本語の「散文の脚韻」である。
 この詩が、もし「散文」の形式で書かれたら、たとえば学校では「同じ語尾がつづいて、何の工夫も見られない」という具合に否定的に何かを言われしてしまうかもしれない。学校というのは「型」にはまったことしか言わないし、「型」にはめることが仕事なのだから、それはそれでもいいのかもしれないが。
 でも、詩だと、その「散文の脚韻」がなんとなく落ち着く。思考のリズムになる。
 「思考のリズム」と私は書いてしまったが、これは、最初の「思ってしまう」、それから次の「……か」(疑問)が、ともに「思う/考える」ということと関係しているからかもしれない。脈絡のない(?)あれこれ、(まあ、大崎には脈絡があるのだろうけれど、それは私には見えない、論理的に把握できない)、それをただばらばらに散らかすと、ほんとうにとりとめもなくなるのだけれど、それを「散文の脚韻」で最後に重しをつけると、ばらばらのものがばらばらでなくなる。
 この「散文の脚韻」は、詩が進むに連れて、ちょっと複雑になる。

こういう夜には
いまでもどこかのとても若い四人の男女が真夜中の公園のベンチにすわってふた組みのイヤホンを分け合い何かいい音楽を聴いているといいのだけれどそんなことをもう誰もしないような世の中になっていないといいのだけれど
誰かの酩酊の度が過ぎてお店のガラス戸を突き破り
腕から血がでて女の子を青ざめさせるようなことになっていないといいのだけれど
変態の人もお腹だけはすかせてないといいし変態行為に及ばずに家に帰っていてくれるといいのだけれど

 「いいのだけれど」がかならずしも「文末」にはなくて、行の途中にも出てきて、さらに途中に「突き破り」という別の動詞も「脚韻」の場所に登場もするけれど、--基本的に「いいのだけれど」を「脚韻」にして、ことばが動く。
 そして、このときの一種の「乱れ」(「突き破り」の乱入)のようなものが、詩を華やかにする。豪華にする。自由にする。乱調が、美しい。その美しさのなかで「主語」が乱舞するふりをして、最初の部分に出てきた「変態」が再び登場し、乱舞に「枠」を与えるところが、なんともいえず不思議だ。乱舞なのに乱れていない。
 で、

すこし開けた窓からは湿り気を帯びた南風
体温みたいな気温のなかに腕を伸ばしいれてみる
誰かの肌にさわっているような感じがして
しちゃいけいないようなことをしているような感じがする
なにかたいへんなことを忘れているような気がする

 「いれてみる」「感じがして」のなかには、「て」の脚韻のシンコペーション(?)があって、そのあと「感じがして」「感じがする」「気がする」と「散文の脚韻」がしずかになっていく。「感じ」と「気」は「思う/考える」と同じように、どう違うかわからないくらいの微妙さですれちがう。
 そして最後。

なんだろう
なんなのか
わからない
虫もカエルも鳴いていないし発情期の猫の声もきこえてこない
こんな夜には
いつのまにか隣できちんと眠っている人がいるし
自分だけが全部みているような気になって
寂しさに舞いあがってしまう

 「散文の脚韻」を「いないし」「いない」「いるし」、「眠って」「気になって」「舞いあがって」と「文中」に隠すような感じで抑制しながら、最初の「しまう」に戻る。まるで楽曲の最後が「ド」か「ラ」で終わるような感じ。
 そして、その音楽に「寂しさ」という「和音」を重ねる。
 わあ、いいなあ。
 「寂しさ」とはこういうことなのか。--「寂しさ」を定義する(?)ことも忘れて、その「寂しさ」を突然感じてしまう。いままで読んできたことばのすべてが、突然結晶して(変態さえも水晶のように結晶して)、透明になる。
 「散文の脚韻」などという「うるさいことば」で何かを書いてきたことも忘れてしまう。「寂しさ」が突然、私の「肉体」の奥からあふれてくる。私は大崎ではないのに。あ、私の肉体は大崎になってしまったのだと感じる。
 大崎には迷惑かもしれないけれど、こういう瞬間、私は、いいなあ、と思うのである。





指差すことができない
大崎 清夏
アナグマ社 販売:密林社
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

西脇順三郎の一行(34)

2013-12-21 06:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(34)

 「しゅんらん」

という意味を徒然草の里言葉みたい

 西脇の詩は、ことばが「行わたり」をしているために1行だけ取り出すと「意味」がとれないときがある。この行もその例である。
 途中で出会ったおばあさんにイノシシについて尋ね、何事かのことばが返ってくる。そのあとの1行であり、それは「な方言で話をして我々をにらんで行つた。」とつづく。
 きょう取り上げた1行は、「音」のおもしろさからいうと、そんなに楽しくはないのだが……。また、私の過去としていることは、「という意味を徒然草の里言葉みたい/な方言で話をして我々をにらんで行つた。」とつづけないと書けないことなのだが……。
 西脇は、人のことばを聞くとき、「意味」と同時に「音」を聞いている。それは誰でもそうなのだろうけれど、「意味」に関心をもつと同時に、「音」そのものに関心を持っている。どういう「肉体」から出でくる「声」なのか。そのことに注目している。
 「徒然草の里言葉」というのは、西脇が直接肉体で聞いたことばではないだろうから、その「音(声)」は、外からは「耳」に聞こえてくると同時に、内からは「脳」から聞こえてくる「音(声)」である。
 西脇の「声(音)」は、いつも「耳(外)」から聞こえるものと、「脳(内)」から聞こえるものがぶつかり、互いを鍛える感じで動く。そういうことを語る一行だと思う。
 この詩の最後の2行の「と桜井さんはサンスクリットで言った。/この女はフランス語だと思った。」というのも、同じものである。
 で、この最後の2行でわかるように、西脇は、その「耳」と「脳」の声を聞きながら、「意味」ではなく、よりも「音」の方に傾いている。何を言ったかではなく、「サンスクリット語」が「フランス語」で言ったかを問題にしている。ほんとうは日本語で言っているのだから、「サンスクリット語」に聞こえたか、「フランス語」に聞こえたか--を問題にしている。西脇はいつでも「聞く」人なのだ。
 きょうの一行も、何を言ったかではなく「徒然草の里言葉」の、「音(声)」の響きをこそ明確にしたいために、1行として独立しているのだ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

天沢退二郎「橋を渡る騎士のブルース」

2013-12-20 11:45:51 | 詩(雑誌・同人誌)
天沢退二郎「橋を渡る騎士のブルース」(「現代詩手帖」2013年12月号)

 天沢退二郎「橋を渡る騎士のブルース」(初出『南天お鶴の狩暮らし』09月)は「耳」で読む詩である。

あたかも剣でできた橋を
渡った赤い騎士のように
夢の武士は箸でできた橋を
渡ろうとしていた

 「耳で読む」とは聞き返さないこと。目で読むときはそこに「文字」が残っているから読み返すことができる。音は発せられたときから消えていくものだから、それは聞き返せない。
 で、このとき、どうしたって「えっ、いま、なんて言った?」という疑問は残る。疑問は残るが、「音としてのことば」(声)は、それに対して答えない。というか、そういう疑問で「ことば」反復しようとすると、次のことばが覆いかぶさってくる。
 剣でできた橋を渡るとからだは真っ二つ。血まみれの赤。渡れるはずはないけれど、「夢の騎士」(現実ではない)なら、渡ることはできる。いや「夢の騎士」ではなく「夢の武士」だから橋なんか渡らず、貧乏な「箸」程度の橋……とイメージをごちゃまぜにして、ことばはさらに動いて、

あたかもさめてはならぬ夢が
暗闇の橋を渡るように
羽根のない鳥が
橋のない河を渡ったように

 おおい、「主語」は何なんだよおおお。
 「夢」ということばが出てくるが、あたかも夢のように、主語がずるっとずれていく。騎士が武士になる、橋が箸になる、それから武士が「夢」になり、羽根のない鳥のために橋は橋のない河になる--なんだか、とても奇妙。
 そして、その奇妙のなかを「渡る」という動詞だけはしっかりとつらぬいている。「渡る」といっしょにある「橋」ということばも形を変えながらつながっている。「橋」は「渡る」という動詞から派生したことばのように感じられる。天沢の詩のなかでは。「渡る」という動詞が、「もの/こと」を動かしていく。そこに「橋」がちらりちらりと見える。

あたかも首のない頭が橋もないのに
遠い肩の旅へと飛びわたるように
リズムのある言葉がメロディもないのに
歌の次の節へと渡れるかのように

 「橋」がしっかりしたものではなく、ちらりちらりと見えるものなので、そこを「渡る」ものは橋を無視して(?)、どんどん過激になる。
 さらにこの「渡る」という動詞は「橋」を媒介に「かける」という動詞にも変化する。「橋」を中心に「渡る」と「かける」が融合する。「渡る」ために「かける」。

あたかも罪のない棋士が
詰みのない将棋を
力づくで勝ちに持ち込もうと
無理筋を承知で盤面を押し渡ったように

あたかも妻のない男が罪のない女と
罪のある妻が妻のない男との間に
ありもしない橋をかけようとして
ついにすべてが失われたように

 ことばが雪崩れる。ことばのエッジが崩れて、ごちゃごちゃになる。
 目で文字を読んでいるかぎりは、騎士が棋士にかわり、罪が詰みにかわり、さらに罪と妻が交錯していることはわかるが、耳で読むと、これは、ごちゃごちゃとしか言いようがない。えっ、どっちだった? 意味はどうなる? と考えている暇はない。ただことば(音)に押し切られて、いま聞いたばかりの音が持っているイメージをつかみ取るしかない。前に聞いたことば、そのイメージは音といっしょに消えていく。
 逆に言えば、音は消えていくから、どんなイメージにも飛躍できる。どんなイメージにも橋渡しできる。橋をかけることができる。そして、その橋を渡ることができる。

 これはいいなあ。
 最初の天沢退二郎に戻ったみたい。--というのは、変な言い方かもしれないけれど、天沢の詩は音楽なのだ。初期のころの作品は、あるもの(イメージ)がその形のまま別の形に乗り移っていく感じがして(イメージがあふれ、その横溢によって世界をのっとる感じがして)、絵画的な印象もあるけれど、むしろ音楽だったのだろう。ことばのなかにある音が別なことばの音と深い所で呼びあって、形を内部からとかして融合したのだろう。「ごつごつ」であるものがやわらかくなってまじりあうのは、音楽が働いていたからなのだろう。
 最近、私は天沢の詩を読んでいない。読み返してもいないので、これは、一種の印象にすぎないのだが、そんな気持ちになった。「音楽」として詩を読み返したい気持ちになった。

あたかも言葉しかない詩人が
言葉さえもたない世界に
言葉で橋をかけようとして
ついにその言葉をも失ったかのように

夢のない詩人は
眠りの中で橋のない河へ
ハシボソガラスに身をやつして
箸のカイでお椀の舟を漕ぎだそうとしていた。

 詩人は「言葉をも失った」かもしれないが、天沢は「音楽」を手に別な世界へ渡って行く。新しい物語ではなく、昔からある「童話」の世界へ渡って行く。まだ「現実」が「意味」になる前の夢を動いている世界へ。音楽をたよりに。
 かわいらしくて(というと年齢に反する?)、無邪気で、楽しいなあ。
 最後の一行だけ句点「。」があって、お話は「おしまい、おしまい(めでたし、めでたし)」という感じもいいなあ。
南天お鶴の狩暮らし
天沢退二郎
書肆山田
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

西脇順三郎の一行(33)

2013-12-20 06:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(33)

「自伝」

それから三田へ来た

 「自伝」というタイトルを手がかりにすれば、この「三田」は慶応大学であろう。「自伝」では、思い出したことを田舎の具体的な風物や(といっても単語だけだが)、英語の「リーダーでは銅版画ばかり覚えている」(英語のことは覚えていない)というようなことなどをほうりだしたように書いている。読者に「感情」を説明しようとしていない。
 「それから三田へ来た」は単に時間の経過を示すだけである。それによって、西脇がどうかわったか、というようなことは書かず、ただ「前の時間」と「後の時間」を区切りだけのために書いている。そこに不思議なスピードがある。
 そして考えてみると、西脇のことば(単語)は、この「それから三田に来た」ということばのように、前のことばと後のことばを区別する(断絶させる)ためにこそ動いているように見える。
 ことばが、何かに縛られない。ことばがことばを断ち切って動いていく。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

斎藤庸一「遥かなローマへ」

2013-12-19 11:54:02 | 詩(雑誌・同人誌)
斎藤庸一「遥かなローマへ」(「現代詩手帖」2013年12月号)

 斎藤庸一「遥かなローマへ」(初出『シルクロード幻影』08月)はとても不思議な詩である。

シルクロードとは絹の道、アジアとヨーロッパを結ぶ道
東と西の起点は古代から東方の文化の中心であった西安
西方の文化の中心地であるローマ帝国の首都ローマ
はるか一万数千キロのシルクロードは交易の道である

 どこにも新しいこと(?)は書いてない。斎藤が発見したことは書かれていない。だれもが知っていること、いわば「知識」がそのまま書かれている。地名がずーっとつづき、二・三のことがらが語られるが、それはすでに語られたこと--斎藤が書物を読んで知っていることがら(そしてシルクロードに関心のあるひとならやはり読んで知っていることがら)である。
 これが詩? 何か違うんじゃない?
 
私がシルクロードにつよい関心を持ったきっかけは
井上靖の『シルクロード詩集』であり、続いて読んだ
『シルクロード行』上・下巻の紀行文であった
一九九五年(平成七年)、七十二歳の私は妻と二人で
九月に旅行会社の企画した「シルクロード旅行」に参加
西安-敦煌-トルファン-ウルムチ-北京を周遊
もちろん連絡はすべて航空機とバスのツアーであった

 歴史的事実(?)の羅列の次は、個人的なツアーの事実。地名が書かれるだけで、何を見たか、何に感動したかも書かれていない。こんな散文の連続が詩? 違うんじゃない?
 と思っていたら。

翌年インドへ行こうと申し込んだら七十歳以上の老齢は
伝染病や風土病にかかりやすいからと断られた
若いつもりでいた自分に思い至り急遽ロシア旅行へ
十月にトルコ旅行に出かけイスタンブールとエフェソス
翌年五月にイタリア旅行に出発したのが七十四歳だった
ミラノ-ブルガモ-ヴェネチア-フィレンツェ-シエナ
そしてようやく永年夢みたローマにたどり着いたのだ

 ここでも散文には違いないのだけれど、少し、それまでとは違った要素が入ってくる。個人的なことが入ってくる。「七十歳」でインド旅行への参加を断られた。--そうか、そういうことがあるのか、と思った。「七十歳」という現実が、斎藤の夢を邪魔する。何かが動かなくなる。
 でも、めげずに目的地を変えて、旅のつづきをローマへ向けて展開する。
 そうか、斎藤にとっては、そこで何を見たかということはあまり重要ではない。その土地を実際に踏んだかどうかが大切なのだ。シルクロードが実際に自分の「足の下」に存在すること、自分の肉体のなかに「シルクロード」が「ある」ことが大事なのだ。
 これはある意味で大旅行だ。昔のひとの歩き方そのものだ。シルクロードはもちろん「交易」を目的にしたのだろうけれど、それはなんといえばいいのか、物を交換し金儲けをするというよりも、歩いてひとつひとつの都市を生み出していくということだったのだ。歩いてたどり着く。そのたどり着いたところに都市があるのではなく、その都市は歩いてきた人間がつくりだすものなのだ。肉体のなかに都市が生まれる。--そこにはもちろん「風物/風俗」などはあるだろうけれど、それよりも「都市/地名」が重要なのである。「地名」さえあれば、「道」はつながるのである。「風物/風俗/人間」が「道」をつなぐのではなく「地名」と「足(肉体)」が「道」をつくるのだ。
 斎藤は「観光」をしているのではない。「道」をつくっている。
 ほう、と思わず声が漏れてしまった。

翌一九九八年五月にギリシャ、エーゲ海の旅に参加
その年の九月に前立腺ガンが判明、ガンセンター入院
手術が成功して無事退院、つくづく運のよさに感謝した
憧れのローマへ行かなければ私のシルクロードは終わらず
生涯杭を残してしまうところであったと呆然自失
ローマ帝国の中心地フォロ・ロマーニの石だたみの路を
散策したときの円柱のある風景を病院のベッドの上で
なんど夢みたことか思い出すたびに生きていてよかった

 マルコ・ポーロもきっとそうだったに違いないと思ってしまった。歩いて歩いて、たどりついて、そこに「土地」が「地名」として生まれ、それから「道(ロード)」ができる。それは、その土地へ行かないと「土地」は存在せず、「地名」もないのだ。
 都市(土地/地名)をつくりだす肉体。その肉体にとって、ほかの記憶(何かを見た、何かを聞いた、それは美しかった)ということは、いちばん伝えたいことではない。いちばん伝えたいのは、そこに都市(地名)があり、それと肉体がしっかりと結びついているということなのだ。
 斎藤にとっては都市(地名)と自分の肉体の結びつき、そこに「いた/ある」がしっかり結びついていることが、詩なのである。その結びつきを強固にするために、余分な「感想」は全部省略されているのだ。いや、土地と土地を結びつけるという移動の行為こそが斎藤の「感想」なのだ。




シルクロード幻想
斎藤 庸一
思潮社
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

西脇順三郎の一行(32)

2013-12-19 06:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(32)

「六月の朝」

キリコ キリコ クレー クレー

 キリコもクレーも画家。でも、このことばからは「絵画」は浮かびあがってこない。「絵画」を突き破って「音楽」が聞こえてくる。音を繰り返すと「音楽」になる。(そして、色を繰り返すと「絵画」になるのかもしれない。)
 この、画家を登場させながら「絵画」ではなく「音楽」とことばが動いていくところがおもしろい。
 「キリコ」は、その音を入れ換えて「きこり(木樵)」にもなってしまう。
 詩は庭の描写から始まり、「キリコ キリコ クレー クレー」という一行のあとに樵を登場させ、その樵との対話へと動いていく。その「会話」は具体的には書かれていないが、かわいた、さっぱりした音が聞こえてくる感じだ。自分の知っていることを自分の知っていることばで、それをそのままほうりだすような感じの西脇と職人との、現実を叩き割るような会話が聞こえる。
 具体的に語れば語るほど抽象(比喩)になってしまうような、ある意味では、キリコ、クレーの絵のような……。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

佐伯多美子『へびねこト餓鬼ト』

2013-12-18 08:45:25 | 詩集
佐伯多美子『へびねこト餓鬼ト』(銅林社、2013年12月01日発行)

 佐伯多美子『へびねこト餓鬼ト』を読みながら、繰り返し、繰り返すということについて考えた。繰り返されることばのまわりで、私のことばはつまずき、そして動きだす。
 たとえば「それは闇の、朝の。そして迫る夜。」

けっして血はながれない

とうめいな
みずが
ゆらゆらとゆれている
ときどきあさひをあびて きらきらひかる

まぼろしの
ひかり が ゆらゆら
ゆらゆらゆらゆらゆらゆらゆらゆらゆらゆらゆらゆらゆらゆらゆらゆらゆらゆらゆらゆら

 「ゆらゆら」の繰り返し。--私は目が悪いので、転写しながら、同じ文字の連続にめまいを覚え、目のなかに吐き気のようなものがたまってきて、実は、ここで休んでしまった。まだ気持ち悪さが残っている。これは佐伯のことばの問題ではなく、私の生理的な問題なのだが、私は私の生理的な条件にあわせてしかことばを動かせないので、なんだか考えていたことが少し違ってきてしまうのだが……。

 繰り返し--私なら省略してしまう。「ゆらゆら」と一回書いたら、もう書かない。「ゆらゆら」を10回(数えてみた)も繰り返さない。なぜ繰り返さないかというと、私はそれを「省略する」ということを知っているからである。一回書けば「ゆらゆら」の意味は通じると考えるからである。
 しかし佐伯は省略しない。いや、これは省略しないのではなく、「できない」のである。逆に言えば、それは「繰り返し」という形式をとっているが佐伯にとっては繰り返しではない。「ゆらゆらゆらゆらゆらゆらゆらゆらゆらゆらゆらゆらゆらゆらゆらゆらゆらゆらゆらゆ」は「ゆらゆら」を10回繰り返したものではなく、「ゆらゆらゆらゆらゆらゆらゆらゆらゆらゆらゆらゆらゆらゆらゆらゆらゆらゆらゆらゆ」で一言なのである。

 繰り返し(反復)というのは、一般に「時間」を刻む。同じことを繰り返すことで、その「同じ」と「同じ」のあいだを時が過ぎていく。時間の流れを直線上に表現すると、「同じ」があらわれることで、そこに時の経過を知ることができる。「同じ」という「一点の時」ともうひつとの「同じ一点の時」、「時」と「時」のあいだが「時間」である。くまり、繰り返すことによって「時」は進むのである。「時間」が経過するのである。
 ことろが佐伯の場合は、繰り返すことよって「時」は先へは進まない。停滞する。同じ時、同じ場にとどまりながら、しだいに凝固してくる。
 同じものをぐるぐるまわしていると、それはだんだん流動的になってくるのが一般に多いようだが、佐伯の場合は、ぐるぐる同じところをまわれば、それがだんだん重くなり、ますます動けなくなる。「くるくる」という、私には「同じことば」に見えるものによって、縛られて動けなくなる。固まってしまう。
 繰り返しながら、「まぼろし」は「まぼろし」でなくなってゆく。

まぼろし が
ゆらゆら

まぼろしの
生 を
現身 に いきる



すさまじき 罪
ほろびながら 罪 なお
(まぼろしの生あるいは まぼろしのいのち とは)
(--虚の命) 

 「まぼろし」は「ゆれる」ことを繰り返し、繰り返すことで「ゆれる」を一回に凝縮させ、固まらせる。「肉体(現身)」のなかで、それが渋滞すると「罪」になる。(意味と罪は、ここでは脚韻を踏む)。「罪」というもの(こと?)が結晶するとき「まぼろしの生」と「まぼろしのいのち」は、「あるいは」ということばをはさんで同格になる。
 ある2点の「時」(同じ時、繰り返された時)が、離れることによって別の「時」(時A、時B)になるのように、佐伯の「ゆらゆらゆれるまぼろし」は「まぼろしの生」「まぼろしのいのち」になるのだが、そこでは「まぼろし」が固く結びついて「あいだ」を消してしまう。「あいだ」を限りなく短くしてしまう。「生」と「いのち」は表記こそ違うけれど、「意味」は重なり合う。その「重なり合い」によってできた強固な「ひとつ(ゆるゆるの10回のようなもの)」を通って、「ひかり」は「虚の命」という像を発光させる。輝かせる。
 でもそれは、佐伯の行き先を照らす光ではない。逆に、佐伯の、ここまでやってきた「過去」(肉体の内部)を浮かびあがらせる光である。「過去」を照らす光である。
 どこへや進めない。何をしても、「いま/ここ」があるだけで、時は佐伯を開放してくれない。--でも、これは時間が佐伯を開放しないのではなく、佐伯が時間を「いま/ここ」に凝縮させて、動かないようにしているのだ。それは佐伯の「欲望」そのものでもあるのだ。つまり、「いま/ここ」から動かず、ブラックホールになって、すべてを吸い込む。吸収する。そうすることで反復、改良、進歩というような「流通言語」の「未来」に反撃するのである。
 「私はここにいる」「ここを動かない」という宣言でもある。

 この詩の後半に出てくる、次の行。

生きながら
とうめいの水が
ひくいところへひくいところへひくいところへ

ながれおちるながれおちるながれおちるながれおちるながれおちるながれおちるながれお
ながれおちながら
とうめいな水の じごく

 「ながれおちるながれおちるながれおちるながれおちるながれおちるながれおちるながれお」は「ながれおちる」の繰り返しのようであって繰り返しではない。繰り返しなら「お」で一行がおわるのではなく「おちる」までないといけない。ここには同じ「一行」でありながら、あることばはそこに入りきれるのに他のことばは入りきれないという「事実」だけが書かれている。
 この一行は佐伯の意志による「中断」ではない。一行の条件がまねいた中断である。だからこそ、また逆に、それは佐伯の意志によるとも言い換えうる。意志なのか/意志でないのか。選択できれば何も問題はない。選択できない。その瞬間その瞬間、それが「事実」であったというだけてある。

 矛盾。理不尽。
 たしかに、佐伯のことばに接近していくと、そこには矛盾(反復しても時は流れない、経過を印づけない)し、理不尽である。言いたいことがあるのに、繰り返しそれを言っているのに、それが最後までことばにならない。繰り返しても繰り返しても、それは「意味」にならず、他人から見れば「中断」にすぎない。
 それでも書くしかない--というところに佐伯がいる。そういう「こと」が佐伯である。


果て
佐伯 多美子
思潮社
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

西脇順三郎の一行(31)

2013-12-18 06:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(31)

 「道路」

このため息のうるしの木

 何のことかわからない。ただ「ため息」と「うるしの木」が結びついていることに不思議な気がする。うるしの木がそこにあるのだ、ということだけがわかる。西脇がうるしの木を見ているということだけがわかる。
 そして、そのうるしの木は、西脇にとってはとても重要なものである。「この」が、うるしの木を、ほかの木々から選別している。そこには何らかの思い入れ(?)がある。だから「ため息」も出るのだろう。
 「意味」(強調)があるとすれば、うるしの木でもなく、ため息でもなく、その直前の「この」ということばそのものかもしれない。
 だから(?)、その「この」の「の」と音をあわせて、ため息「の」、うるし「の」と「の」が重なるようにしてつづくのだ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする