詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

清水あすか「夜を守(も)る」

2013-12-17 11:09:39 | 詩(雑誌・同人誌)
清水あすか「夜を守(も)る」(「現代詩手帖」2013年12月号)

 清水あすか「夜を守(も)る」(初出「ユリイカ」07月号)は何が書いてあるのだろうか。私は前に読んだものにひきずられて読んでしまうので、先日読んだ長田弘「幸福の感覚」の「呼吸」とつながるものを感じてしまった。

真っ暗い夜というのは色が寄さってできる果ての黒で
どこかに息継ぎとして青色を残している。
夕方の名残りである。
身体にもあるあざである。
晩年へ
向かってほどけていくのは
ほどけていくと思いながらだろうか。
それが本来と振向き見ていられるだろうか。考えるとは
どこまで残る所作だろう。

 「息継ぎ」ということばに私は引きつけられた。そこに「肉体」を直接、感じた。きのう長田の詩で「呼吸(息)」ということばを動かしたために、それがまだ私の「肉体」にのこっている。
 呼吸とともに動いた「肉体」も残っているので「身体」の「(青)あざ」はそのまましっくりとなじんだ。青あざは蒙古斑のことだと思う。こどものときにあって、しだいに消えていく。
 それから「ほどく」ということばのつかい方も気に入った。それを「ほどく」という「動詞」といっしょにつかっている。消えるではなく、ほどく。ほどける。ほどく/ほどけるには「とく/とける」(解く/解ける/溶く/溶ける)が含まれているなあ。
 そんなことを考えていると、「考えるとは/どこまで残る所作だろう。」があらわれる。
 うーん。「所作」か。所作というのは「肉体」の動きのことだなあ、私にとっては。なんだか、清水のことばのなかに、私が考えている「肉体」が溶け込んでしまって、区別がつかなくなりそうだなあ。
 ことばのひとつひとつが「わかる」という感じで、そこにある。
 で、これも、そうすると東日本大震災の詩?
 そうかもしれない。

子どものころ踏んだ、毛糸の切れたのだのビニルひもだの鉄線の端だの
昔には誰かの身体としていた線であったり、ここから見える風景の
線であったりしたのだ。寄るには目で見えなくなるだけで。いつかは
わたしを食べさせて育てているこの夜にも、身体もほころびて
こぼれる時間がまざるようになるよ。もう
どうしてもいろんな色がはびこって
おまえへ見せる風景にわたしは、ずいぶんと形なくなっているかもしれないよ。

 「毛糸の切れたのだのビニルひもだの鉄線の端だの」--こういうことばが、点となく東日本大震災の被災地の状況に重なって見える。形あったものが「ほどかれた」線になっている。そこには「誰かの身体としていた線」や、かつてみた「風景」の線も含まれる……。
 と読むと。
 けれど、一点、不思議なことが起きる。
 最初は「色」を見ていた。「黒の果ての青」「青色」--それがほどける。色がほどけるとどうなる? 清水は「色」を一瞬忘れて「ほどける」という動詞から世界を見直している。「ほどける」のは、からまった糸。絡まった線。そこから毛糸だのひもだの鉄線、さらには身体の線、風景の線も出てくるのだが。
 この色から線への変化は、とても「奇妙」。つながりが「整然」としていない。「論理的」ではない。
 でも、私は、実は自然に読んでしまう。「肉体」はそのことに異議を挟まない。いま「整然としていない、論理的でない」と書いたのは「頭」の仕業で、「肉体」は違うことを感じている。「これでいい」と感じている。「あ、そうなんだ」と納得している。
 何が起きているかというか。
 「肉体」のなかでは「動詞」は混じりあう。花の色を見ているつもりだ、その匂いをかいでいる。その匂いが甘いとその色はいっそう輝く。そして美しい音楽でも聞いた気持ちになる。逆に死んだ虫のような匂いだと色まで汚く感じられる。音楽なんかはもちろん聞こえてこない。そういう「融合」がある。感覚が結び合わさる。「肉体」はひとつの感覚が動くとき、他の感覚も連動して動く。そして、それは「肉体」のなかでまじりあう。
 同じようにひとつの「動詞」が動くとき、そこにはいろいろな「対象」が自然と押し寄せてくる。「とく/とける」なら「問題」「氷」「色」があつまってくる。「ほどく」なら「ひも(糸/線)」が自然とあつまってくる。からまった糸を「とく(ほどく)」のと、氷が「とける」では変化の形が違うけれど、「硬い」ものが「硬く(堅く/固く)なくなる」という点では同じだ。だから、「ほどく(ほどける)」が対象を蒙古斑からひも類にかわっても、そんなに違和感がない。
 色の塊(動かないしっかりしたもの/かたいもの)が「やわらかくなった」、その結果他のものになじむように姿を消したということと、紐のかたまりがほどかれて細い糸になる、その糸がさらに捻じりあった感じをほどかれてどんどん細くなる、あるいは引き裂かれて細くなるということが、どこかで「重なる」。同じ運動に見えてくる。
 そういう「肉体」が「覚えていること」をとおして、ことばがつながっているから、何か自然に納得する。
 さらに、この作品に「身体」ということばが出てくることも関係しているかもしれない。「ほどく」から「ほころびる」(ほろびる)の変化を含めて、たしかなもの(しっかりしたもの)と思っていたものが、頼りないものになる。頼りないものになるのだけれど、そこにはそれがかつて何かであったことを知らせる「印」のようなものついている。
 そういうものを見ながら、

風景(山河)はこわれ、昔とは違ってしまった

 と「意識(認識)」が世界の構図を描くとき、清水はそれに対して異議をとなえているのだ。
 ほんとうに変化したのは周囲ではなく、自分の「身体」である、と。
 生きているときは「身体」がこわれていることに気がつかない。身体は折り合いをつけて動いているので、こわれているなどとはだれも思わない。身体傷つき、その反映として感覚も影響を受けているということは、なかなか気がつかない。「頭」が自然に状況を修正する。「頭/脳」はわがままな嘘つきで、自分に都合のいいふうにしか状況を判断しないのだ。

 いま、「身体」の方が傷ついているのだよ。いましなければならないのは、なによりも「身体」を守ることだよ、--と清水は言っているように聞こえる。「夜を守る」といっているが、「身体の夜」を守るということことを言っているのだと思う。

夜になるのは周りではない。身体の方なんだ。
その時ついとひとすじ見る青であるのは
わたしがいた十四の夕方だ。

 --私の感想は、支離滅裂であるけれど。私の「肉体」が、そう言えと主張している。私の「肉体」のなかで、何かが激しくふるえたのだ、清水のことばを読んだときに。そして、その「震え」を、私は「頭」をくぐらせた「流通言語」として書くことができないので、こういう文になってしまうのだが……。


詩を読む詩をつかむ
谷内 修三
思潮社
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西脇順三郎の一行(30)

2013-12-17 06:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(30)

 「粘土」

トネ河とツクバを左にみて

 ふつうなら「利根川と筑波(山)を左にみて」と書くだろう。その方が何を見たかイメージがはっきりするからである。しかし、西脇は「わざと」カタカナまじりで書く。まるで外国の風景のように。
 ではなく。
 私は、そのとき実は風景を思い描かない。「河」は河になって水を流そうとするが、水の流れになって動こうとするが、それは瞬時に「ツクバ」という音によって消えてしまう。風景が消える。
 そして、「音楽」がかわりに聞こえる。「トネ」「ツクバ」。カタカナで書くと奇妙な音だ。それがほんとうに日本語にあるかどうかわからない。つまり、わけのわからない「音」だけがそこにあって、その音を聞きながら「左」を見る。視覚は「方向」だけを見て、ものを見ない。風景を見ない。
 もちろん視覚には何かが飛び込んできて、それは網膜に像を結ぶけれど、それは「無意味」。「意味」があるとすれば、「左」だけ。
 「左」といっしょにあるのは「音」だけである。
 このあと詩は「話をしながら/歩いたのだ」というように「ことば(会話/対話)」の世界へ入っていくが、これは自然な成り行きである。
 西脇は「視覚」で歩くのではなく、「聴覚」で歩くのだ。歩くと(動くと)聴覚が覚醒するのである。
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ポール・グリーングラス監督「キャプテン・フィリップ」(★★★★+★)

2013-12-16 11:41:06 | 映画


監督 ポール・グリーングラス 出演 トム・ハンクス、キャサリン・キーナー、バーカッド・アブディ、バーカッド・アブディラマン

 私はトム・ハンクスのファンではない。「ビッグ」のトム・ハンクスは大好きだが、その後はあまり好きではない。最近の映画は嫌いと言った方がいい。だから、この映画もぜひとも見たいというものではなかった。監督がポール・グリーングラスなので見にいった。ポール・グリーングラスの「ユナイテッド93」は3・11を描いている。ペンタゴン近くに墜落させられた飛行機。結末はわかっているのに、最後まで、もしかしたら助かるんじゃないか、映画なんだから、きっと助かる、助かってほしいとはらはらどきどきした。今回の映画も結末はわかっている。トム・ハンクスは救出される。死なない。これを、はらはらどきどきさせるには役者の演技力が不可欠--ということでトム・ハンクスが主演をやっているのだろうけれど。
 最後の最後まで、私は、トム・ハンクスでなくてもいいのになあ。トム・ハンクスのように有名な俳優じゃない方が殺されるかもしれないなあ、アメリカ海軍もそんなに真剣じゃないかも……なんて思いながら見ていた。
 役者の演技というよりも、演出がうまい。救出する側の動き、海軍、シールズの動きが、ときどきほんの一瞬だけ差し挟まれる。その動きは実にたんたんとしている。戦闘(救出作戦)というよりも事務仕事。個人が何かをするというよりも、組織が組織として動いていく。組織全体がうまく動けば事件は解決する--ということを組織が知っている。そこでは誰一人として「個人」ではない。
 救出する側が「個人」ではないだけに、トム・ハンクス側の「個人性」が浮き彫りになる。それは単にトム・ハンクスが「ひとり」という意味ではない。トム・ハンクスが人質になる前からが、すでに「個人」なのだ。海賊に襲撃された貨物船は「個人」の集まりなのだ。船員は船長の命令により、機関室に隠れるのだが、ただ隠れるだけではなく、船長の指示を無視して海賊に襲いかかる。「個人」で何かしようと試みるのである。その結果が全体にどう影響するかという長期にわたる展望がないまま動く。やりながら次を考えてしまうのが個人なのである。「いま」の状況にしばられて「いま」だけを生きるのが個人なのである。トム・ハンクスが人質になった後、逃走する海賊を貨物船で追跡する。これもトム・ハンクスの思い(指示)とは違う。貨物船のなかには個人の集団というものがあっても、組織がない。もちろん副船長、機関士……という職能別の分類はあるが、「戦闘」のためのものではないから、うまく機能しない。個人として動いてしまうのだ。
 これに対して海軍の方はすごいなあ。まったく余分な動きはしない。どうしよう、という相談など一切ない。もうわかりきっているのである。こういうときにはどうするか。どうするのが最善か--ということは完全にたたき込まれている。そして、そのことは「要点」だけを映像にするという手法でいっそう磨きがかけられる。軍隊が動きはじめた。シールズが登場してきた。現場処理の指揮官が変更になった。--で、それが、これからどう展開する? ということは一切説明されない。そういう一般と違う組織のことはどんなにていねいに描いてみても、どっちにしろ市民にはわからないのである。その決定が実行に移されるために、どういう議論があったか。だれが作戦を練り、だれが反対したか、さらにだれが情報を集めたか、どんな方法で、ということは、描かれても市民にはわからない。「あ、そうなんだ」と思うしかない。
 そういう余分なものを捨てて、「個人」を描く部分はトム・ハンクスのいる状況だけにしてしまう。この対比によって、トム・ハンクスの演技は自然に際立つ。感情移入できる「個人」は、トム・ハンクスただひとりだからね。こういうのは、とっても得な役どころだなあ。だれがやってもうまく見える。映画だから何度でも撮り直せるしね。
 で、先に書いた「トム・ハンクスでなくてもいいじゃないか」という意見と矛盾するのだが、こういうとき、知っている顔の方が、まあ、つごうがいい。見なれた顔の方が、いま何を感じているかということが、ほんの少しの表情の変化でわかる。--いいかえると、表情の変化の「少し」をわかるためには、それが知った顔である必要がある。知らない顔だと、あれ、これは「変化」したのかな? それとも、もともとこういう顔? その区別がつかない。
 その「少し」の例で言うと。トム・ハンクスが人質になって小型船で逃走する。貨物船は犯人のあとを(トム・ハンクスのあとを)追跡している。見守っている。トム・ハンクスの方としては、あとは政府の(軍隊の)方が解決策を考える。解決してくれる。部下の船員はこれで助かった--と思っているのに、貨物船はわざわざ危険なことをしている。「何をやってるんだ、ばかもの」--言いたいけれど、言えない。それを目つきだけで演技する。おっ、すごい。似たシーンは、船員が海賊を襲ったとわかったときにも見せるけれど。隠れていればいいのに、余分なことをして状況を複雑にしている、とわかり苦虫をかみつぶしたような顔になる。こういうシーンは、はじめてみる顔でもわかるかもしれないが、見なれ顔の方がよくわかる。観客のみんながトム・ハンクスの顔を知っているということを熟知して、トム・ハンクスはそういう演技をしている。すごいもんですねえ。
 でも、ここまでなら、まあふつう--トム・ハンクスにしてはふつう、かな。
 最後の最後、クライマックスの銃撃のあと。助かったとわかり、トム・ハンクスが泣きだす。--そのさらにあと。
 完全に救出され、海軍の母船に帰り、保護され、医者のメディカルチェックを受ける。医師の方はたんたんと(軍隊の組織そのもの)、トム・ハンクスを調べる。こめかみから血がでている。傷の深さは何センチ……、と報告しながらトム・ハンクスの表情を観察する。「この血は自分の血じゃない」ということをトム・ハンクスは言いたいのだけれど、ことばが出ない。不安や恐怖で声が出ないのではなく、死の恐怖から開放されて、その恐怖がどれくらい大きなものであるかが「わかって」、声が出ない。人質になっていたときは、「助かりたい」という思いがあったし、助かるために何をしなければならないか、必死に考えていた。緊張していた。緊張感がトム・ハンクスの意識を支えていた。その支えていた緊張感がなくなって、トム・ハンクスが内部から崩壊する--このときの演技が、とてもすばらしい。ああ、そうなんだ。人間は、こんなふうに生きているんだということがまざまざとわかる。その場でトム・ハンクスを見ているというよりも、もう、そのときは私はトム・ハンクスになってしまっている。ことばが見つからなくて「サンキュー」とだけやっと言う。医師は条件反射のように「ウェルカム」と答える。そんな応答のなかにも人間が生きていくための何かを感じた。



 ポール・グリーングラスは広い空間のなかに突然発生する密室というものに興味があるのかもしれない。「ユナイテッド93」は空を飛ぶ飛行機。今度は公海を行く貨物船、小型救命船が舞台。彼の描く「密室」は周りの広さによって「孤立」というところにまで結晶する。「孤」にまで結晶させ、そこで「人間」をみつめようとする力を感じた。
 もう一方の話題作「ゼロ・グラビティ」は宇宙のなかの孤立、密室ではない孤立、そのなかでの人間の姿を描いているようだが、どちらがより人間をとらえているだろうか。きゅうに、きょう・あすにでも見比べたいのだが時間がないなあ。それに私はサンドラ・ブロックが大嫌いなのだ。
                    (2013年12月15日、ソラリアシネマ9)
ユナイテッド93 [DVD]
クリエーター情報なし
ユニバーサル・ピクチャーズ・ジャパン
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西脇順三郎の一行(29)

2013-12-16 06:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(29)

 「夏(失われたりんぽくの実)」

恐ろしい生命のやわらかみがある

 この一行だけでは「意味」は正確には伝わらない。その「正確ではない」ところがおもしろい。西脇は文脈の「正確」を拒絶している。「意味」を拒絶している。
 そして、これは矛盾した言い方になるが、「正確な意味」を拒絶することで、「純粋な意味」を強調している。純粋の強調--それが詩なのである。
 恐ろしい生命の/やわらかみ
 恐ろしい/生命のやわらかみ
 どこで区切って整理すれば「意味」が正確になるのかわからない。わからないまま「恐ろしい生命のやわらかみ」というものが「ひとつ」になる。そこには「恐ろしい」「生命」「やわらかみ」という三つの「要素(?)」があるが、それはしっかり結びついて「恐ろしい生命のやわらかみ」という「ひとつ」になっている。
 「三つ」が「ひとつ」なのだから、そこには「純粋」というものではない何か変なものがあるのだが--それを「ひとつ」にしてしまうのが「強調」ということである。
 ここには意味ではなく、意味の「強調」が「ある」。「強調されたもの/詩」がある。「詩」は「強調」なのである。
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長田弘「幸福の感覚」

2013-12-15 11:19:14 | 詩(雑誌・同人誌)
長田弘「幸福の感覚」(「現代詩手帖」2013年12月号)

 長田弘「幸福の感覚」(初出『奇跡--ミラクル--』07月)を読み、不思議な違和感を覚えた。

口にして、あっと思う。
その、ほんの少しの、
微かな、ときめき。
あるいは、ひらめき。

 私は長田弘の読者とは言えない。長田弘の詩をそれほど読んでいるわけではない。「現代詩」そのものもそんなに読んでいるわけではないから、詩の読者ですらないのだけれど……。私の「肉体」が覚えているかぎりでは、長田は非常に繊細な感覚を、きわめて論理的に浮き彫りにする詩人である。論理の繊細さ、ことば運びのていねいなやさしさ、ことばの「運動」そのものが詩であるというような印象がある。
 この詩のなかのことばでいえば「微かな」をさらに微かに感じさせることば、微かにの周辺を繊細な論理で整え直すこと(整え直す運動)で、感性だけでは感じられなかった微かにを透明な強さで補強する感じ。

とっさに、心に落ちて、
木洩れ陽のようにゆらめく
何か。幼い妖精たちの、
羽根の音のような、
どこまでも透き通った明るさ。

 この部分の「幼い妖精たちの、/羽根の音のような、/どこまでも透き通った明るさ。」のような、見えないものを見えるようになるまで動かしていくことばの運動--そこに長田の特徴があると思っているのだが……。
 いつもと違うでしょ?
 読点「、」句点「。」が多い。ことばがスムーズにつながっていかない。少しずつ進んでは立ちどまる。次のことばを慎重に選んでいる。

木洩れ陽のようにゆらめく

 という一行にだけは句読点がないのだけれど、この句読点のない運動、事実をひとつひとつ積み重ねることで自然に大きい建物になるといった感じ、正確・整然とした散文の基本を踏まえて動くことばの運動がこれまでの長田の特徴だったと思う。むだな(?)句読点がないスムーズな運動といっても、そこにたどりつくまでには、いろいろな径路を経ている(何回も推敲している)のだろうけれど、その痕跡を残さず、完成した美しい形だけを提示するというのが長田の方法だったと思う。むだのない、ひきしまった、それこそ鍛え上げられたスムーズなことばの運動に乗せられて、自然に長田のたどりついた境地に達し、「これは長田が考えたこと(感じたこと)ではなく、ほんとうは私が考えたこと(感じたこと)なのではないか」と錯覚させるような文体が長田の特徴だったと思う。
 ところが、この詩では、ひっきりなしに句読点が出てくる。読点「、」がやたらに多い。で、私のようなずぼらな読者は、何が書いてあったか思い出そうとすると、

 この詩には読点「、」が書いてあった

 と口走ってしまう。
 でも、読点だけの詩なんかないから、何が書いてあったのかと確かめるために「引用」もしたのだが、やっぱり句点ばかりが「肉体」に入ってくる。ほかのことばは読点のまわりにあつまって、読点を浮き彫りにする。読点を鍛えようとしているように感じられる。読点というのは一種の「呼吸」だから、長田はここでは呼吸を整えようとしている、息を整えようとしているのかもしれないと思う。
 で、ここから私は考えはじめる。(「誤読」を加速させる。)

 ことばではなく、呼吸を、息を整える。
 長田らしい「木洩れ陽のようにゆらめく」「幼い妖精たちの、/羽根の音のような、/どこまでも透き通った明るさ」というような透明感のあることばを周囲にあつめ、呼吸を整えたあと、ことばは、少し変化する。

食事のテーブルには、
ほかの、どこにもない、
ある特別な一瞬が載っている。
そこにあるもの、目に見えるもの、
それだけではなくて、そこにないもの、
目には見えないものが、
食卓の上には載っている。

 「そこにないもの」「目に見えないもの」を、そのまま「ある(テーブルの上に載っている)」という、「論理」でしかあらわせないことがらを性急に書いている。そこに「ない」、そこに見え「ない」のなら、それは「ない」であって、「ある」ではないのだが、その「ない」が「ある」と強引に書いている。
 これまでの長田も同じように「ない」ものを「ある」と書いていたと思うけれど、それは「ない」へ向けてことばを動かし、そのことばの運動のなかに「ある」を「感じさせる(錯覚させる)」というものであって、こんなふうに直接的に、そしてこんなふうに早い段階(?)では、こんなことを書かなかったと思う。
 突然「ない」が「ある」と言われても、これだけではそれが「ある」とは実感できない。ここにあるのは、そういうことを性急に語ろうとする「意志」があるだけ、とういことになるかもしれない。
 「ない」のは何か。どんな「ない」が食卓の上に「ある」のか。長田は言い直している。

心の、どこかしら、
深いところにずっとのこっている、
じぶんの、人生という時間の、
匂いや、色や、かたち、
あるとき、あの場所の、
あざやかな記憶。--

 ああ、それは「食卓の上に載っている(食卓の上にある)」のではなく、「心の」「深いところに残っている」、心の深いところに「ある」のだ。
 長田は「食卓」を描いているのではない。「心」を描いている。「もの」にこころを語らせるのではなく、直接こころに語らせようとしている。あるいは深いところに何かを残し丁こころを、こころに語らせようとしている。語る主語も語られる対象も「こころ」。
 こころは「見えない」ものである。だから、それを見えるようにするために「木洩れ陽」とか「羽根の音」とか、目に見えるもので周辺を整える。まわりが整うと、そのなかにはまわりのもの(こと)をつなぎとめる力があると感じるようになる。まわりを統一する力がそこに働いているように感じられるものである。
 この詩では、そういう「見えるもの(聞こえるもの)」だけでは足りなくて「そこにはないもの」「目に見えないもの」も、「ことば」としてかき集められている。で、その中心に何が見えるかというと……。
 やっぱり、私には何も見えなくて、--書いてあることの「意味」は「頭」では理解できるが、私の「肉眼(肉体)」には見えなくて、--そのかわりに「もの」と「その中心」のあいだに、読点「、」がたくさんあるのが私の肉眼には見え、「呼吸(息継ぎ)」の音(息遣い)が私の耳に聞こえる。「呼吸」が聞こえる。「呼吸」の音(気配、というよりも剥き出しの、なまなましい荒い音そのもの、息を整えようと必死になっている音)をとおして、このことばの中心にはひとりの人間が生きているのだと感じる。
 この瞬間--あ、東日本大震災は、こんなふうに長田の肉体そのものにまで影響してきたのか、と思った。強く思った。長田は必死になって呼吸を整えようとしている。息をしようとしている。

食事の時間は、なまめかしいのだ。
幸福って、何だろう?
たとえば、小口切りした
青葱の、香りある、きりりとした
食感が、後にのこすのが、
幸福の感覚だと、わたしは思う。
人の一日をささえているのは、
何も、大層なものではない。
もっと、ずっと、細やかなもの。
祖母はよく言ったものだだった。
なもむげにすでね。
(何ごとも無下にしない)

 「呼吸」を整えながら、長田らしい「青葱の、香りある、きりりとした/食感」というようなことばも取り戻すのだが、この「呼吸」が最後になって、

なもむげにすでね。

 突然、祖母の「ことば」を呼び起こす。「心の、どこかしら、/深いところにずっとのこっている」ことばと手を結ぶ。「呼吸」は祖母とつながり、祖母の「呼吸」を「呼吸する」。
 「呼吸」と「呼吸」が重なるのではなく、それは呼吸「する」という動詞のなかで完全に「ひとつ」になる。とけあう。合体する。生まれ変わる。この瞬間、わたしは、この詩が大好きになった。
 自分を捨てて、他者(祖母)になってしまう。祖母として生き返る。人間はこんなことができるのだ。
 詩人なら他人のことばではなく自分のことばで語る、だれも語らなかった新しいことばをつくりだすべきだというひともいるかもしれない。それはたしかに重要な仕事だが、ほかにもしなければならない仕事はある。

 東日本大震災のころ「絆」ということばがしきりに口にされたが、絆とは、長田がここに書いているように「呼吸」を重ね、いっしょに「呼吸する」ということ、同じ「動詞になる」ということなのだ。自分を生きるのではなく、他人を生きる。他人を生きることが自分を生かすことになる。
 祖母と同じ「呼吸をする」というところにたどりつくために、長田は読点の多い詩を書いたのだと「わかった」。私の「肉体」は感じた。東日本大震災をあらわすような直接的なことばは書かれていないが、東日本大震災を深く「呼吸している」詩だと感じた。

奇跡 -ミラクル-
長田 弘
みすず書房
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西脇順三郎の一行(28)

2013-12-15 06:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(28)

 だんだん一行だけを取り上げるのがむずかしくなってきた。西脇の詩には行わたりというか、一行で完結しないものが多く、その不自然な(?)ことばの動きに詩があるからだ。その日本語の文法を脱臼させるような動き、それ自体が非常に魅力的だからである。

 「山●の実」(さんざし--文字が表記できないので、●にした)

心を分解すればする程心は寂光

 この一行は、次の行へ「の無に向いてしまうのだ。」と動いていく。一行では完結していないのである。
 この一行は、それでも「心を分解する」と「心は寂光」が対峙することで、これはこのままでも完結しているとも感じさせる。西脇のことばには文法を超えた緊迫感がある。文法に頼らなくても、ことばがことばとして独立して存在する力がある。
 そういうことを感じさせてくれる。
 これは

の無に向いてしまうのだ。

 でも同じことがいえる。この一行だけでは「意味」を正確につかみ取ることはできない。冒頭の「の」が文法としてとても不自然だからである。
 しかし、その不自然を越えて、「無」が一行のなかではっきり存在感を持っている。「無」が見えてしまう。読んでいる私が「無」の方を向いて、「無」を見ている。見てしまう。
 「寂光の無」ではなく、何もない「無」、何にも属さない絶対的な「無」。

 詩とは、何かに属するのではなく、何にも属さない「もの/こと」なのである。
 そういうものを、西脇はこの詩のなかで「これほど人間から遠いものはない。」と書いている。人間から断絶した「もの/こと」と向き合うために、西脇は文法という接着剤を破壊するのである。

 きょうは自分に課した「おきて」を破って、3行を引用してしまった。

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千人のオフィーリア(121-140)

2013-12-15 00:55:38 | 連詩「千人のオフィーリア」
                                       121 谷内修三
私は男装のオフィーリア、
恋人は女装のハムレット、

私のことばは嘘つきオフィーリア、
恋人のハムレットはほんとうしか語れない、

月は輝いている半分で人をだまし、
月は暗い半分で言えないことばを撒き散らす、

私の男装はオフィーリアのため、
ハムレットの女装は恋人のため、

                                         122 市堀玉宗
白鳥を女体と思ふ鼓動かな

                                         123 金子忠政
空に十字を切る白鳥
それが、それこそがオフィーリアで
あれ、かし!
と、
生臭い手で
斧をつかみ
おもむろにゆっくりと立ち上がった

                                        124 山下晴代
結局街へ行っても炭は売れず、木こりはこわごわ家に戻った
というのも、何日もものを食べていない実子二人と養子一人
計三人の子どもが待っていて、その顔を見るのが恐ろしかった
何も食べるものがないまま夜寝ていると、なにか音がする
みると、子どもたちが斧を研いでいるのだった──
父ちゃん、いっそのことおいらたちを殺してくれ
そうして子ども三人は丸太を枕に横になるのだった
──それは、
ある囚人が、柳田国男に語った、おのれの「犯罪」だった
柳田は、「人生五十年」という本の「はじめの言葉」
にそうしたエピソードを記したのだった
おそらく、生を寿ぐために

                                         125 橋本正秀
白鳥の明夜の星にあれかしと
胸ときめかせたどる残り香

                                       126 小田千代子
宵に待ち宵に送ったかの人の吾への笑顔星になれかし

                                        127 市堀玉宗
帰り花この世に甲斐のあるやうに 生きてしことの償ひに似て

                                         128 橋本正秀
狂ひ狂ひてかの世忘れそ

                                       129 二宮 敦
フィヨルドの水底に眠りしオフィーリア
彼女の間近の目覚めは
ほんの1億年ほど前
その前も1億年前
その時は男として目覚めた
ミレーの描きし姿と異なり
ベガではなくアルタイルとして
アダムもイブも
伊邪那岐も伊邪那美も
ハムレットもシェイクスピアも
すべてはみなオフィーリア
回帰も狂気も忘我もみな
両性の子宮より孕まれしもの

                                        130 市堀玉宗
光り身籠るうらさびしさに毛糸編む女はいつも闇を喰らへる

                                         131 山下晴代
オフィーリア-、リアー、アアー、アアー
オフィーリアー、リリー、リルー、ルルー
オフィーリアー、アルー、ルアー、アリー
オフェリアー、フェリー、リフェー、エリー
オフェリアー、オオー、フェフェー、アオー
シャバダ、シャバダ、シャバダ、娑婆だ。
サバダ、サバダ、サバダ、鯖だ。

                                        132 谷内修三
寝返りを打ったあとにできる新しい皺は、
怒りのあとの冷たい汗、
悲しみの新しい手のひら、
疲労の寂しい地図、

                                        133 田島安江
夢をみた朝の目覚めは、
立ち止まっては振り返る路地奥の、
ふと立ち寄ったカフェにたたずむ
遠い記憶のカタチ。
傷跡から滴る血の匂いのような、
苦い珈琲の味。

                                         134 橋本正秀
午睡
する
女・こどもの群れ
お好みの
夢賊に
魂を売り払って
重い身体だけが
汗まみれの代金を握りしめて、
シートに横たわらせている。
珈琲色に泡立った
口角の艶かしいうごめきに
血糊の刃が
また
迫る

ティー・ルーム

昼下がり

                                       135 二宮 敦
真夜中の底に降り立つ
天使の
殺戮がはじまる
新鮮なる血液を求めて
無差別に
はじめられる
歯はこぼれない
刃もこぼれない
完全なる狂気と凶器で
コンプリート
真夜中はワインレッドに染まりゆく

                                       136 山下晴代
もーーーっと勝手に殺したり
もーーーっと殺戮を楽しんだり
忘れそうな罪悪感を
そっと抱いているより
堕ちてしまえば

今以上それ以上苦しめられるのに
あなたはその燃えたぎる憤怒のままで
あの煮えたぎる溢れかえるワインレッドの
血の池で待つ渡し守カロン

もーーーっと何度も生き返ったり
ずーーーっと熱風に吹かれたり
意味深な言葉に
導かれて地獄を行くより
ワインをあけたら

今以上それ以上苦しめられるのに
あなたはただ気を失うよりてだてはなくて
あの消えそうに光っているワインレッドのドレス
千人のベアトリーチェに惑わされてるのさ

今以上それ以上苦しめられるまで
地獄の濁った川を行くのさ
ほらあの門に書かれたワインレッドの文字
「われを過ぎんとするものは一切の望を捨てよ」

(註:括弧内引用、平川祐弘訳『神曲』(河出書房新社刊)より)

                                      137 橋本正秀
女装したかのような
侍女の顔と
男装したかのような
侍従の貌を
オフィーリアは呆けて眺めている
右手には赤葡萄酒の瓶を握りしめ
左手には血を湛えたグラスを持って

男と女の
女男と男女の
娑婆娑婆ダー、娑婆娑婆ダー
脳裏に響く娑婆娑婆ダーを
西の山から血の池越えて
引き摺り彷徨う

夕星を見上げる
オフィーリアのシルエットは
赤黒い
一瞬の輝きの中で
狂気も
殺戮も
ため息すらも
呑み込んでしまった

                                   138 Jin Nishikawa
経血の溢れし海に錆めひた鹽甕映ゆる凍て月もあれ

                                      139 谷内修三
そして私のパスワードはだれの誕生日だったか、
そしてきみの名前はだれのパスワードだったか、

秘密を握り締めた拳は壷の口を抜け出ることはできない、
手のひらを開けば宝石は再び壷の底へとこぼれ散らばる、

そして忘れてしまった愛は憎しみの別名ではなかったか、
そして憎しみの別名は愛の透明な鏡文字ではなかったか、

140 瀬谷 蛉
美を醜に醜を美にして戯にけり



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岡野絵里子「夜の小さな眠り」

2013-12-14 09:53:37 | 詩(雑誌・同人誌)
岡野絵里子「夜の小さな眠り」(「現代詩手帖」2013年12月号)

 岡野絵里子「夜の小さな眠り」(初出「朝日新聞」06月25日)は、見えないものを見えるようにする。見えないものが、ことばによって見える。その変化の瞬間が詩だということを教えてくれる。

降りて来た夜が
最初に触れるのは
銀色の電波塔と鳥たちの小さな瞼
梢の中の雛が一羽ずつ目を閉じ
枝が日の名残をふるい落とす
夜は透き通った腕を広げ
打ち上がる街の声を包む

 「雛が一羽ずつ目を閉じ」るのを岡野は見ているわけではない。でも、そのことばに触れると、私には雛が一羽ずつ目を閉じるのが見える。肉眼ではなく、肉眼よりももっと強い視力で。肉眼ではなく「肉体」全体で何かを見る。「わかる」。
 「枝が日の名残をふるい落とす」のは見えるわけではない。「日の名残」というような抽象的なものは雛の瞼のようには「見えない」。でも、そこに書いてあることは「わかる」。
 「夜が透き通った腕を広げ」るのも「見えない」。でも、「わかる」。
 このときの「わかる」は感じる--というより、錯覚なんだけれど。錯覚とわかっていて、それを否定する気持ちになれない。それでいい、と思う。そういうものが「ある」(見える)といいなあと思う。欲する。欲望する。--それが「わかる」ということなのかもしれない。
 で、「わかる」を積み重ねながら、あ、岡野は透き通るような視力を持っている詩人なのだ、その視力よよって世界は透明に、美しく整えられていくのだ、ということが「わかる」。そういう世界の整え方をする岡野が好きだなあ、と感じている私がいることが「わかる」

 そういう透明な視力、世界を透明に整える視力の魅力。--それは、しかし、「抒情詩」の「定型」かもしれないね。
 だから、それ以上のことを書き加えておこう。
 私がいちばん感動したのは雛や枝の描写ではなく、実は、2行目の「最初に触れるのは」の「最初」である。「最初」を見る視力である。「最初」を「わかる」ということ。その瞬間を「最初」として把握する「肉体」。それに揺さぶられる。
 「最初」と書きながら、岡野のことばは銀色、電波塔、鳥、瞼、雛、目を閉じる、枝、日の名残をふるい落とす--という具合に動いていく。ほんとうの「最初」はでは「銀色」? あ、そんなことはないね。そこに書かれているもの「全部」が「最初」。
 それらは「個別」なのだけれど、「個別」ではない。何か、「ひとつ」のものである。むりやりことばにすれば「夜(の入り口)」。--あ、これはいい説明の仕方ではない。何といえばいいのだろうか、「集合」することによって共有される何かである。集まってくることで、そこに何かが浮かびあがる。「全体」として、あるいはそういうものが「つながる」ということで始まる「夜」を感じさせる。「夜」ではなく「始まる」を感じるのかもしれない。
 それを「集合させる」(結晶させる/つなげる)ことばが「最初」なのだ。

降りて来た夜が
触れるのは
銀色の電波塔と鳥たちの小さな瞼
梢の中の雛が一羽ずつ目を閉じ
枝が日の名残をふるい落とす
夜は透き通った腕を広げ
打ち上がる街の声を包む

 「最初」を省略してみると、「最初」がないと「全体」の結晶する力が消えて、「全部」が「全体」ではなく「ばらばら」に散らばっていくことがわかる。少なくとも、私には「ばらばら」に見えてしまう。「最初」があるから、その「最初」へ向けて「全部」が集まってくる。複数が集まれば集まるほど透明になってくる。
 この「最初」があるから「最後」もある。

夜が最後に触れるのは
銀色の電波塔

それから朝が降りて来る

 朝が「最初」に触れるものについては岡野は書いていない。書かないことで、夜の「最初」と「最後」がきれいな「枠」のなかにおさまる。





陽の仕事
岡野 絵里子
思潮社
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西脇順三郎の一行(27)

2013-12-14 06:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(27)

 「冬の日」

この村でラムプをつけて勉強するのだ。

 「ラムプ」が「ランプ」であったら好きになったかどうかわからない。「ラムプ」には音にならない不思議な音がある。耳に聞こえる音の奥、脳のなかに響く音がある。記憶の音。そういう音が昔はあったのだという肉体の記憶が脳に残っている--というのは、もちろん嘘、というか方便なのだが……。
 西脇の音(音楽)は「肉体」そのもので聞くというよりも、何か、この「ラムプ」につうじる不思議な響きがある。脳に響いてくる。脳なのだけれど、脳だけではなく、脳が覚えている「肉体の記憶」。かつては、そういう肉体があった、「ラムプ」は唇が動き、音が美しく口のなかにこもる、その振動が口蓋をくすぐる……。
 いまでも「ン」よりも「ム」の方が「プ」につながりやすいのだけれど。どうして「ン」と書くようになったのか……といってみても始まらないが。
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平田好輝「美しい川」

2013-12-13 10:44:16 | 詩(雑誌・同人誌)
平田好輝「美しい川」(「現代詩手帖」2013年12月号)

 平田好輝「美しい川」(初出「第四次 青い花」74、03月)を読む。詩を好きになるのはあることばが好きだからである。その詩のなかで、あることばが、今まで見たことのないことばとして見えてくる--その瞬間に夢中になる。

水晶が溶けて流れているとしか思えない
そんな水の中に
両手をさし入れて
石をめくる

石の蔭から
小さな魚がこぼれ出る
せいいっぱいにヒラヒラと全身を動かして
溶けた水晶に溶けて行く

幼いわたしは
魚の溶けた水を
蹴散らして歩く

そんなに乱暴に歩いては
魚なんか取れやしない
三つ年上の従姉は
スカートをたくし上げて
白い股を全部見せながら
幼いわたしに文句を言った

 最終連の、「白い股を全部見せながら」の「全部」がいい。簡単なことばだけれど、ちょっと言えない。
 「全部」といっても、それは「全部」ではない。
 いや、これにはかなり補足説明をしないといけないのだが。
 つまり、大人が「白い股を全部」というときは、そこに股以外のものがつながっている。股を全部見るということは、性器も見ることである。--そういうことは、幼いこどもでも、実はわかっている。
 でも、幼い平田が見たのはもちろん性器を隠した「全部」である。見せることができる股の「全部」である。そこに隠れされたものがあるとわかっていて「全部」と言っているのである。
 こどもだから「わからない」のではなく、こどもだから「わかる」のである。その「わかる」は知識ではなく本能、直感である。
 それが本能/直感に触れてきたからこそ、そこで平田は、あれだけ追いつづけてきた「水晶の溶けたような/溶けた水晶のような」水を忘れてしまう。透明を忘れて「白い」に夢中になる。「白い」が隠している「本能」を見てしまう。
 「白い透明」は水のように、そのなかにあるものを見せはしない。「白い輝き」は隠しているものがあるということを見せる。

 --と、言っても。
 幼い平田(何歳だろうか)は、ほんとうに幼いときにそれを、そのことば通りに見たのだろうか。
 たぶん、見てはいない。
 それはあの日の川の水を「水晶が溶けたような/溶けた水晶のような」流れと見ていないのと同じである。幼いときは、そういう「比喩」は出てこない。幼い平田が実際に「水晶」を見たことなど、ないだろう。
 大人になって、いま、振り返って「水晶が溶けたような/溶けた水晶のような」水と、ことばを整えているのである。「水晶が溶けて」「溶けた水晶」とことばを入れ換えても「同じ」であると「わかる」のは、ことばを整えるということが「わかる」ようになってからである。幼いこどもは、そんなふうにことばを動かしたりはしない。「水晶が溶けた」と「溶けた水晶」は違ったものに見えてしまう。同じに見えるのは、ことばの動きが「無意識」にわかるようになってからである。
 だから、いまここで書かれている「全部」も、あのときに見た「全部」とは完全に同じではないのである。あのときに見た「全部」を整えて、あえて「全部」と言っているのである。あのとき無垢な本能/直感で「全部」と感じた「白い股」を、いまは、本能を知り尽くした上で「全部」と言うことで、逆に性器を隠す。隠すことで、エロチックになっているのである。

 この「全部」を通って、ことばが往復するとき、無意識的に動いてしまう何か、それがおもしろい。

みごとな海棠―平田好輝詩集
平田 好輝
エイト社
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西脇順三郎の一行(26)

2013-12-13 06:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(26)

 「無常」

バルコニーの手すりによりかかる

 書き出しの一行。「よりかかる」という動詞が「無常」と向き合う。「無常」というのは、正面切って向き合うというよりも、ぼんやりと、どうしていいかわからずに、何かによりかかって向き合ってしまうものかもしれない。
 「主語」は「私」なのか、それともほかのだれかなのか。
 2行目は「この悲しい歴史」。この2行目が「主語」かもしれない。そうに違いないと私は思う。その「悲しい歴史」が何を指しているかわからないが、わからないからこそ、そう思う。
 「よりかかる」という動詞のなかで、ひとと歴史が重なり、同じ姿勢をとる。それが「無常」ということだとも思う。
西脇順三郎コレクション〈第2巻〉詩集2
西脇 順三郎
慶應義塾大学出版会
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小池昌代『産屋』

2013-12-12 10:55:38 | その他(音楽、小説etc)
小池昌代『産屋』(清流出版、2013年11月28日発行)

 小池昌代『産屋』はエッセイ集。エッセイへの感想というのは書きにくいなあ、と感じる。エッセイが「感想」みたいなもので、感想に感想を積み重ねてしまっては、ことばがだんだん希薄になってしまう。
 でも、あえて書いてみる。
 巻頭の「恋」という文章は清潔で、少し色っぽくて、小池の特徴がとてもよくでていると思う。「紅葉に目を奪われる心は、「恋」のようだな、と私は思う。」と始まるのだが、その短い文章の後半の3行。

 そのとき、色づいた葉っぱの「色」が、葉っぱの「形」から分離して、抽象的な命のエキスとなり、私の身体に、私の命に、ダイレクトに染み込んできた感じがした。

 色が形から分離して、と書いたあと、そのことばのなかにひそむ「理性」の動き(色が形から離れるの見るのは「感性」だけれど、それを「分離(する)」と把握し直すのは「理性」である)が、「抽象的」ということばをはじき出す。
 感覚におぼれる、感覚に酔ってしまうということが小池にはない。感覚の変化(感覚でとらえた世界の変化)を「理性」として表現して見せる。だから、さっぱりしている。清潔である。
 「官能」を描いても、「官能」が直接ことばになるわけではない。ちょっと意地悪な指摘になるかもしれないが、たとえば「菜の花と麦」という文章。花屋の主人(男性)の指に目を引かれる。

指には、無数の筋がついていて、そこに汚れが入り込み、容易に落ちそうもないほど、黒ずんでいる。美しい花とその手の組み合わせには、どきっとするような官能性がある。

 見た通り、感じた通りに書いているのだと思うけれど「官能性」を「官能性」ということばにしてしまっては、ずるい。小池の「個性」が「汚れた手と美しい花」の組み合わせという「小池の外にあるもの」にすりかわってしまう。それを見たとき、小池の「肉体の内部」で動いたものが、「もの」によって抽象化されてしまう。汚れた手、美しい花は「具体的」なようであって、具体的ではない。「汚れ」にはいろいろな色と形がある。それを「汚れ」とひとことで言ってしまうのは抽象である。「美しい花」にも色と形とにおいと感触(たとえばやわらかい)がある。それを「美しい」といってしまっては抽象である。その抽象が「官能性」という抽象的なことばを引っ張りだしてしまう。
 抽象というのは、むずかしいようで、とってもわかりやすい。具体的なものを省略して、「概念」を「流通」しやすくしたものが「抽象」だからである。ああ、「官能性」か。「官能」なら知っている--と人に思わせてしまう。
 でも、官能というものは、ある具体的な出会いのなかで、その場かぎりのものである。二度と同じ官能はない。だから決して抽象できない。それは、とってもめんどうでややこしい。そういうものに本気でつきあうのは、まあ、セックスをしていたときだって面倒くさくなる。ほどほどのことろでエクスタシーにしてしまう。そして、「官能」と呼んでみたりする、と私は思う。
 「官能」というのは、「官能」ということばをつかわなかったときの方が、はっきりと伝わってくる。およそ「官能」とは無縁のものを、官能と思わずに、じっくりとことばで追うと、そこに自然に浮き上がってくる。思わず自分の外へ出てしまうこと(エクスタシー)といっしょにあるもの、切り離せないものが官能である。
 「からっぽの部屋」にそれを強く感じた。昔生活していたアパートのことを書いている。持ち物がほとんどなく「からっぽ」と呼んでいいような部屋のことである。

 とうにそこを出た今になって、がらんとしたあの部屋が、時折、記憶のなかに現れる。「わたしの空間」にはついにならなかった、ひどくよそよそしいあの部屋が、わたしがいなくなって初めてようやく、わたし以外の何者でもないような生々しさで、記憶のなかに浮かびあがってくる。部屋の方がわたしを思い出しているのか。

 私は、知らず知らずに、「あの部屋」を「別れた男」と読み替えてしまう。

 別れたあの男は「わたしの男」にはついにならなかった、ひどくよそよそしいあの男の肉体が、わたしの肉体に触れなくなって初めてようやく、わたしの知っているのはあの男の肉体以外の何者でもないような生々しさで、記憶のなかに浮かびあがってくる。男の肉体の方がわたしを思い出しているのか。

 あの男に触られた私のからだのことを思い出すのか、私のからだに触ったあの男のからだのことを思い出すのか--わからなくなる。その「わからなさ」だけが「わかる」というところに「官能」がうごめいている。官能はおくれて肉体に復讐してくるのである。
 で、小池はここでは「男」を描いていないのだが、この部分がこのエッセイ集のなかでは私はいちばん官能的でおもしろいと感じた。



 エッセイ集のタイトルになっている「産屋」は河瀬直美の映画に対する感想である。私はその映画を見ていないので、とんちんかんな感想になると思うのだが……。
 女性がこどもを産む。そのとき、一般的に生まれるのは「こども」であると信じられている。けれど、私は、どうも母親の方が生まれるのだと思う。産むのではなく、生まれる。生まれ変わる--と言った方がいいかもしれない。こどもを産んだあとと産む前では「人間」が違ってしまう。
 男にはなかなかこういう「体験」はなくて、たぶん、人を殺すということくらいが、「人間」を生まれ変わらせるのだと思うが、女は「殺す」かわりに「産む」。そして「生まれ変わる」。もしかすると、「産む」という体験で自分自身を「殺す」のかもしれない。そういう変化を、傍から見ていて感じる。
 だから、というのは、とんでもない飛躍なのだが。
 たとえば谷川俊太郎は詩のなかで、こどもにもなれば若い娘にもなるし、中年の女性にもなるのに、女が「おばさん」になるように「おじさん」にはなれない。谷川だけではなく、だれも「おじさん」を詩に書けない。「おばさん」を書く詩人はたくさんいるのに。(小池は、いまのところは「おばさん詩」を書かないけれど)。
 これは余分なことなのだけれど、最近、そういうことを考えているので書き加えた。
産屋―小池昌代散文集
小池 昌代
清流出版
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西脇順三郎の一行(25)

2013-12-12 06:06:00 | 西脇の一行

 「秋 Ⅱ」

タイフーンの吹いている朝

 台風ではなくタイフーン。「たいふう」と声に出すときよりも「ふ」の音が長い。のばされことで「ふ」の音が強調される。だから「吹いている」の「ふ」の音がはっきり聞こえる。「ふいている」だけだと、私は母音「う」をそれほど明確には発音しない。「ふいている」が「音楽」として響くのは「タイフーン」だからこそだと思う。
 「秋 Ⅱ」は、ほかのすべての行も「音楽」として美しいと思う。「西脇の一行」というタイトルで書きはじめて、あ、くやしい、と思う。もっと書きたいのに書けない。

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小池昌代「言葉」

2013-12-11 09:51:42 | 詩(雑誌・同人誌)
小池昌代「言葉」(「現代詩手帖」2013年12月号)

 小池昌代「言葉」(初出『おめでとう』)は、どこから語りはじめればいいのだろうか。

目を伏せて
見るものといえば地面ばかりだった冬
裸木の立つ縁道を行き来しては
駅前の小さな店で
限りなく薄いこの世のとんかつを食べた
ある夕方
見ず知らずの女に
すれちがいざま 声をかけられる
おめがとう
--そのひとは
  小柄で年老いていて
  ほつれのある粗末な黒いオーバーを着ていた
聞き間違いなんかじゃないオリゴ糖の仲間なんかじゃない
おめがとう
今日 わたしは
台所の排水口にかぶせるゴミ袋をめぐって
決して譲らない人 と激しい口喧嘩をした
今日 わたしは
まだ憎み足りない何人もの人のことを考えて
許せない自分に 小さくため息をついた

 ふと「聞こえた」ことば「おめがとう」ということばに触発されて思い浮かんだ日常を思い浮かんだままことばにしている。「おめがとう」と「わたし(小池)」が思い浮かべることがらの間にどんな関係があるのか、小池にもわからないだろう。
 で、この詩、ではどこが魅力的なのか。どこに小池の「肉体(思想)」がひそんでいるのか。どのことばを中心にして小池に出会っていると言えるのか。

見るものといえば地面ばかりだった冬

 この静かな一行だろうか。あるいは

限りなく薄いこの世のとんかつを食べた

 この寂しい一行だろうか。
 そうしたことばのなかにある、きちんとしたことばの整え方だろうか。--どのことばもきちんと整えられている。むりがない。そういう「熟練」のなかに、小池を見ることはできるのだけれど、でも、そういう「見え方」というのは、うーん、説明するのがむずかしい。あ、詩なのだから別に説明しなくてもいいのかもしれないけれど。「このあたりが、ほらとっても、静か。そしてくっきりしている。これが小池のことば」と言えばそれでもいいのだけれど。
 ちょっと違うことを書きたい。--いや、同じことになるかもしれないのだけれど。
 小池はいったい何を整えようとしているのか。ことばを整えることは、そのひとの「暮らし(肉体)」を整えることだと思う。暮らしが(肉体)がことばに反映するのではなく、ことばが暮らし(肉体)に反映する。
 その動きを、私は、この詩のなかに感じたのである。

聞き間違いなんかじゃないオリゴ糖の仲間なんかじゃない

 この一行に。
 「オリゴ糖の仲間なんかじゃない」というおもしろいことばに引っぱられて見えにくくなっているが、その直前の「聞き間違いなんかじゃない」ということばに、私は、ふっと、ほんの一瞬だけれど「つまずいた」のである。
 ふいに聞こえた「おめがとう」。それはいったい何? ここをきっかけに小池のことばは動いているのだけれど。それはいったい何?という疑問の前に、その疑問にぴったりくっついている「聞き間違いなんかじゃない」。
 うーん。
 そのことばがあると、それはそのまま、それで自然なのだけれど。
 私は、私なら、そんな具合にことばは動かない。(あ、小学生の感想文みたいなことばの動き方だね。「私なら……」というのは。)
 私の場合、では、どうかというと。「聞き間違いなんかじゃない」ということばを挟まずに「オリゴ糖の仲間なんかじゃない」へ直接動いていってしまう。自分の感覚をたしかめたりしない。「一呼吸」おかない。
 小池は、いま起きたことはほんとうに起きていることなのか。起きたことなのか。それは小池自身の勘違い「間違い」、感覚が間違ったものをつかみ取ってきてしまったのではないか、と一瞬反省している。
 この一瞬の「間合い」が、たぶん、小池のことばを整えている。
 別な言い方をすると、「間違いじゃない」ということばを思いつくところに挿入してみると、小池のことばと世界の関係がより鮮明になる。小池の見ている世界と私の見ている世界の違いが見えてくる。小池が世界とどんなふうに「和解」しているかがわかる。--「わかる」というのは、「肉体」に迫ってくるという意味であって、それが「正解」という意味ではないのだけれど。
 ちょっとやってみる。

目を伏せて
見るものといえば地面ばかりだった冬
(間違いなく、地面ばかり見た)
裸木の立つ縁道を行き来しては
(間違いなく、木々は裸--葉っぱを落としていた)
駅前の小さな店で
(間違いなく、それは小さな店。大きな店ではない)
限りなく薄いこの世のとんかつを食べた
(間違いなく、薄い。この世のように……)

 何か小池にとっては、あることがらが「薄い」のである。だから、それを「濃く」するために「間違いじゃない」と念を押して、そのうえで、その先へ進むのである。
 「もの/こと」をしっかり確認して、そのうえで、それに対して自分の思いを動かす。
 小池のことばは、どこかに「冷静」なものを含んでいる。そのために静かに響く。美しく響く。(私のことばは、がさがさとうるさい--その違いが「わかる」でしょ?)その静かさは、そこにある「もの/こと」を「間違いじゃない」と確認しているからである。確認した上で、小池のことばは、その先へと動くのである。
 このこと、「確認したこと」は、それが「正しい」か「間違い」かを問題にしない。「確認する」という一呼吸をおいて、それからことばを動かす--このことばの動かし方が小池を整えるのだ。
 台所の排水口にかぶせるごみネットをめぐる口げんか。そのことを思うときも「決して譲らない人」という批評(?)が入り込む。それは「間違いなく、あの人は決して譲らない人だ」と言っているのである。「決して」は「間違いじゃない(間違いなく)」の別の言い方である。--そして、まあ、そんなふうに「確認」すると、それはそのまま小池自身にも跳ね返ってきて、小池こそが「決して譲らない人」と思われていることになるかもしれない。
 一呼吸おく、確認する--それは、静かに小池自身にも跳ね返ってきて、小池を整える。次の部分に、それがよくあらわれている。

まだ憎み足りない何人もの人のことを考えて
許せない自分に 小さくため息をついた

 「許せない自分」というものを見いだしてしまう。それは「間違いじゃない」。だから「ため息をついた」。「間違いじゃない」という確認作業のために、小池は暴走しない。ことばが、「暮らし(肉体)」を突き破って、とんでもないところへ行ってしまうということがない。とんでもないところへは行かないで、しっかりと「暮らし(肉体)」を整える。
 その整え方(整えている--という姿勢)が「わかる」ので、読んでいて、あ、落ち着いているなあ、人間はこんなふうに落ち着かないといけないんだなあ、と感じる。
 こういう「変化」は小さなものである。その小ささに小池は気づいている。だから、次のように詩は閉じられる。

おめがとう
もはや振り返っても
裸木の林は裸木ばかり
もう どこにも人の姿はないが
時折 太陽の陽が きら と差し込んでは
冬を生き抜いた木々の
物言わぬ幹を あたためている
それを事件と誰もよばない
気づかないくらいのかすかな変容が
わたしのなかで 始まっている

 「気づかないくらいのかすかな変容」を小池自身が感じている。その変容は「間違いじゃない」、錯覚ではない。だから、それをことばにする。
 それが詩。
 詩とは、自分の「肉体」のなかで始まるかすかな、けれど「間違いじゃない」変化なのだ。小池のことばは、そういう場を広げるようにして動いている。


おめでとう
小池 昌代
新潮社
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西脇順三郎の一行(24)

2013-12-11 06:06:06 | 西脇の一行

 「アン・ヴァロニカ」

恋心に唇をとがらしていた。

 唇をとがらすのは不満のときが多いようである。でも、この詩では不満からとがらしているのではないかもしれない。理由はわからない。わからないから、詩なのだろう。わからなさを、「とがらす」ということばが運んできていることがおもしろい。
 音もとてもおもしろい。「か(が)行」の音が多いのだが、「とがらしている」ではなく「とがらしていた」と「た」で終わるのもいいなあ。それまでの音の構成が「お」を多く含んでいてやや閉鎖的なのに、最後の「た」の母音は「あ」。ぱっと開放されて、明るくなる。「とがらして」の「が」の濁音も「あ」の響きに豊かさを与える。
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