季村敏夫「家庭生活」、阿部日奈子「八月十五日」(「詩の発見」17、2018年03月22日発行)
季村敏夫「家庭生活」の一連目。
これは、母が何かを植えるが、それが気に食わなくて父が引き抜き、踏み潰すということか。畑なら、父の嫌いな野菜、庭ならば食糧にならない花。そうではなくて、ただ母のすることが父には気に食わない、あるいは父は自分の気持ちがおさえられないのかもしれない。「植えつける(植える+つける)」と「引き抜く(引く+抜く)」が向き合い、さらに「踏み潰す(踏む+潰す)」が重なる。「引き抜く」だけではおさまりきれないものがある。
さらに「復員兵」の「復」を読み直してみる必要がある。「復」は「かえる」「もどる」という動詞を隠している。父は帰って来た。ある「時間」の空白があり、そののちに帰って来た。もどってきた。「時間」はうまくつながらない。
この「つながり」の困難さが、「植えつける」と「引き抜く」の対立のなかにある。そのあと父は「踏み潰している」。これは「学校文法」では、「植えたつけもの/引き抜いたもの」を「踏み潰す」のであるが、それはどこかで母の行為を踏み潰すだけではなく、父の行為をも踏み潰すことになる。「植えたつけもの」を踏み潰すだけなら、引き抜かずに踏み潰すこともできるからである。「引き抜いたもの」を踏み潰すのは、母の行為を徹底的に否定すると同時に、父の「引き抜く」という行為をも踏み潰す。引き抜いたまま、放置することもできるのだが、そうしていない。わざわざ踏み潰している。「植える+つける」「引く+抜く」「踏む+潰す」と動詞を重ねることで「わざわざ」ということを鮮明にしている。ひとつの動詞では抱え込めない何かがあるのだ。
「復」には「ふたたび」という意味もある。父は何かを繰り返している。何かを「引き抜き」「踏み潰す」を繰り返さざるを得ないのである。「植える+つける」「引く+抜く」「踏む+潰す」は単に違った動詞を二つ組み合わせるというよりも、組み合わせることで、動詞を繰り返しているのである。一回では、「植えつける」「引き抜く」「踏み潰す」はむずかしい。繰り返すことで、その動詞が「行為」として定着する。
「ふたたび」の「復」は形を変えながら動く。
「否定さる母/否定する父」という「構図」。「おまえらになにがわかる」とは、母や子が体験していない「時間」、父だけが体験させられた「時間」のことである。共有されていない「時間」のことである。
このことを浮き彫りにするのが「半分欠けた月」の「半分欠けた」である。こでもことばは重複する動きをしている。「半分」とは季村にとって(この詩にとって)、「欠ける」という動詞を名詞化したものである。「共有されなかった時間」が「欠けた」まま、いま噴出してきている。
母が植え、それを父が育てるとき、「欠ける」ではないものが生まれてくるはずだが、それができない。母が植えたものを、父はわざと「欠けさせる」。そうするとそれは「半分」になってしまう。母の行為が「半分」になる。
「復」の「もどる」に引き返す。「もどる」は「もどす」でもある。父は、何を「取り戻そうとしている」のか。「半分に欠けたもの」の、失われた「半分」を取り戻そうとしている。だが、どうやって? 父にも、実は、わからない。
わからなくても、そういうことは「ある」。
途中省略した部分に、こういうことばがある。
「子どもに」の「に」は「子どもに対して」ということだろうか。母に対するのとはちがって、「子どもに対して」だろうか。あるいは、「子どもには」と「は」を補って読むべきなのか。子ども(季村)、母と父の姿をみながら、「ことば」に「目覚めた」のか。
「目覚めることば」の「目覚める」は「ことば」を修飾(説明)しているが、「ことばは目覚める」ととらえることもできる。「ことば」が目覚めるとき、その「ことば」をつかう人間も「目覚める」。
いままで知らなかった世界へと踏み出すということ。
「踏み出す」ということば事態は季村は書いていないのだが、この「踏み出す」は一連目の「踏みつぶす」の「踏む」と重なる。踏み潰されたのは、母が植えたもの、父が引き抜いたものだけではなく、それを見ていた子ども(季村)の何かをも踏み潰した。踏み潰されて、そこから何かが「踏み出した」。
子どもの「肉体」のなかからは「ことば」が。
母の「肉体」のなかからは「涙」が。泣きじゃくるときあふれて来る「涙」が。
「復」の「復」は「重なる」でもある。
「欠けたまま」なにかが「重なる」。「重なる」ことで、何かが「共有」されるのか。「何か」は簡単には要約できない。だから、「ことば」を「重ねる」。
「復員兵」ということばは、父の状態をあらわす「名詞」だが、その「名詞」のなかに含まれる「動詞」、「復」がもっている「動き」が詩全体を支配している。「復員兵」ということばは書かれなければならないことばだったのだ。
*
「八月十五日」は「終戦記念日」。阿部日奈子は、これをどう書いているか。「同窓会の会報」にあの日の記憶を書く、という「構図」をもった作品だが、その途中に、こういう部分がある。戦死した兄から、小学生の頃に山川彌千恵の『薔薇は生きている』をもらった。
「留める」という動詞に、はっとした。
「書く」ということもまた「留める」ことである。留めることは「復習」することでもある。ふたたび、そこにもどり、それを確かめるためには「留める」ことが必要だ。
季村が書いている夫婦喧嘩(?)のようなものは、「留める」ことがむずかしい。「ことば」にすることはむずかしい。その「夫婦喧嘩」の奥で動いているものを正確に引き出し、留めることはたぶん、できない。「抽象化」することはできない。ただ、「具体」のまま、そこに「残す」、それが「留める」ということになる。
文学は非合理的(抽象化できない)ものであり、めんどうくさいものだが、そのめんどうくさいものにいつでも引き返すことが必要な時代だ。
*
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季村敏夫「家庭生活」の一連目。
母が植えつけるものを
復員兵の父は引きぬき
踏みつぶす
これは、母が何かを植えるが、それが気に食わなくて父が引き抜き、踏み潰すということか。畑なら、父の嫌いな野菜、庭ならば食糧にならない花。そうではなくて、ただ母のすることが父には気に食わない、あるいは父は自分の気持ちがおさえられないのかもしれない。「植えつける(植える+つける)」と「引き抜く(引く+抜く)」が向き合い、さらに「踏み潰す(踏む+潰す)」が重なる。「引き抜く」だけではおさまりきれないものがある。
さらに「復員兵」の「復」を読み直してみる必要がある。「復」は「かえる」「もどる」という動詞を隠している。父は帰って来た。ある「時間」の空白があり、そののちに帰って来た。もどってきた。「時間」はうまくつながらない。
この「つながり」の困難さが、「植えつける」と「引き抜く」の対立のなかにある。そのあと父は「踏み潰している」。これは「学校文法」では、「植えたつけもの/引き抜いたもの」を「踏み潰す」のであるが、それはどこかで母の行為を踏み潰すだけではなく、父の行為をも踏み潰すことになる。「植えたつけもの」を踏み潰すだけなら、引き抜かずに踏み潰すこともできるからである。「引き抜いたもの」を踏み潰すのは、母の行為を徹底的に否定すると同時に、父の「引き抜く」という行為をも踏み潰す。引き抜いたまま、放置することもできるのだが、そうしていない。わざわざ踏み潰している。「植える+つける」「引く+抜く」「踏む+潰す」と動詞を重ねることで「わざわざ」ということを鮮明にしている。ひとつの動詞では抱え込めない何かがあるのだ。
「復」には「ふたたび」という意味もある。父は何かを繰り返している。何かを「引き抜き」「踏み潰す」を繰り返さざるを得ないのである。「植える+つける」「引く+抜く」「踏む+潰す」は単に違った動詞を二つ組み合わせるというよりも、組み合わせることで、動詞を繰り返しているのである。一回では、「植えつける」「引き抜く」「踏み潰す」はむずかしい。繰り返すことで、その動詞が「行為」として定着する。
「ふたたび」の「復」は形を変えながら動く。
なんでこんな時間
泣きじゃくる母の横
朝帰りの父の汚れたシャツ
この構図は愛憎のはじまりだった
半分欠けた月のもと
目刺ぬか漬けおみおつけ
おまえらになにがわかる
泥酔する父とおし黙る母から
なにかをよみとらねばならなかった
「否定さる母/否定する父」という「構図」。「おまえらになにがわかる」とは、母や子が体験していない「時間」、父だけが体験させられた「時間」のことである。共有されていない「時間」のことである。
このことを浮き彫りにするのが「半分欠けた月」の「半分欠けた」である。こでもことばは重複する動きをしている。「半分」とは季村にとって(この詩にとって)、「欠ける」という動詞を名詞化したものである。「共有されなかった時間」が「欠けた」まま、いま噴出してきている。
母が植え、それを父が育てるとき、「欠ける」ではないものが生まれてくるはずだが、それができない。母が植えたものを、父はわざと「欠けさせる」。そうするとそれは「半分」になってしまう。母の行為が「半分」になる。
「復」の「もどる」に引き返す。「もどる」は「もどす」でもある。父は、何を「取り戻そうとしている」のか。「半分に欠けたもの」の、失われた「半分」を取り戻そうとしている。だが、どうやって? 父にも、実は、わからない。
わからなくても、そういうことは「ある」。
途中省略した部分に、こういうことばがある。
それでも子どもに
突き出るものがあった
目覚めることばは
尽きることはなかったようだ
「子どもに」の「に」は「子どもに対して」ということだろうか。母に対するのとはちがって、「子どもに対して」だろうか。あるいは、「子どもには」と「は」を補って読むべきなのか。子ども(季村)、母と父の姿をみながら、「ことば」に「目覚めた」のか。
「目覚めることば」の「目覚める」は「ことば」を修飾(説明)しているが、「ことばは目覚める」ととらえることもできる。「ことば」が目覚めるとき、その「ことば」をつかう人間も「目覚める」。
いままで知らなかった世界へと踏み出すということ。
「踏み出す」ということば事態は季村は書いていないのだが、この「踏み出す」は一連目の「踏みつぶす」の「踏む」と重なる。踏み潰されたのは、母が植えたもの、父が引き抜いたものだけではなく、それを見ていた子ども(季村)の何かをも踏み潰した。踏み潰されて、そこから何かが「踏み出した」。
子どもの「肉体」のなかからは「ことば」が。
母の「肉体」のなかからは「涙」が。泣きじゃくるときあふれて来る「涙」が。
「復」の「復」は「重なる」でもある。
「欠けたまま」なにかが「重なる」。「重なる」ことで、何かが「共有」されるのか。「何か」は簡単には要約できない。だから、「ことば」を「重ねる」。
「復員兵」ということばは、父の状態をあらわす「名詞」だが、その「名詞」のなかに含まれる「動詞」、「復」がもっている「動き」が詩全体を支配している。「復員兵」ということばは書かれなければならないことばだったのだ。
*
「八月十五日」は「終戦記念日」。阿部日奈子は、これをどう書いているか。「同窓会の会報」にあの日の記憶を書く、という「構図」をもった作品だが、その途中に、こういう部分がある。戦死した兄から、小学生の頃に山川彌千恵の『薔薇は生きている』をもらった。
たいした本ではなかったが、こうして原稿を書くとなると、時代の証言として手許に留めておけばよかったと思う。
「留める」という動詞に、はっとした。
「書く」ということもまた「留める」ことである。留めることは「復習」することでもある。ふたたび、そこにもどり、それを確かめるためには「留める」ことが必要だ。
季村が書いている夫婦喧嘩(?)のようなものは、「留める」ことがむずかしい。「ことば」にすることはむずかしい。その「夫婦喧嘩」の奥で動いているものを正確に引き出し、留めることはたぶん、できない。「抽象化」することはできない。ただ、「具体」のまま、そこに「残す」、それが「留める」ということになる。
文学は非合理的(抽象化できない)ものであり、めんどうくさいものだが、そのめんどうくさいものにいつでも引き返すことが必要な時代だ。
*
評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』を発行しました。190ページ。
谷川俊太郎の『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
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