詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

季村敏夫「家庭生活」、阿部日奈子「八月十五日」

2018-04-19 10:30:04 | 詩(雑誌・同人誌)
季村敏夫「家庭生活」、阿部日奈子「八月十五日」(「詩の発見」17、2018年03月22日発行)

 季村敏夫「家庭生活」の一連目。

母が植えつけるものを
復員兵の父は引きぬき
踏みつぶす

 これは、母が何かを植えるが、それが気に食わなくて父が引き抜き、踏み潰すということか。畑なら、父の嫌いな野菜、庭ならば食糧にならない花。そうではなくて、ただ母のすることが父には気に食わない、あるいは父は自分の気持ちがおさえられないのかもしれない。「植えつける(植える+つける)」と「引き抜く(引く+抜く)」が向き合い、さらに「踏み潰す(踏む+潰す)」が重なる。「引き抜く」だけではおさまりきれないものがある。
 さらに「復員兵」の「復」を読み直してみる必要がある。「復」は「かえる」「もどる」という動詞を隠している。父は帰って来た。ある「時間」の空白があり、そののちに帰って来た。もどってきた。「時間」はうまくつながらない。
 この「つながり」の困難さが、「植えつける」と「引き抜く」の対立のなかにある。そのあと父は「踏み潰している」。これは「学校文法」では、「植えたつけもの/引き抜いたもの」を「踏み潰す」のであるが、それはどこかで母の行為を踏み潰すだけではなく、父の行為をも踏み潰すことになる。「植えたつけもの」を踏み潰すだけなら、引き抜かずに踏み潰すこともできるからである。「引き抜いたもの」を踏み潰すのは、母の行為を徹底的に否定すると同時に、父の「引き抜く」という行為をも踏み潰す。引き抜いたまま、放置することもできるのだが、そうしていない。わざわざ踏み潰している。「植える+つける」「引く+抜く」「踏む+潰す」と動詞を重ねることで「わざわざ」ということを鮮明にしている。ひとつの動詞では抱え込めない何かがあるのだ。
 「復」には「ふたたび」という意味もある。父は何かを繰り返している。何かを「引き抜き」「踏み潰す」を繰り返さざるを得ないのである。「植える+つける」「引く+抜く」「踏む+潰す」は単に違った動詞を二つ組み合わせるというよりも、組み合わせることで、動詞を繰り返しているのである。一回では、「植えつける」「引き抜く」「踏み潰す」はむずかしい。繰り返すことで、その動詞が「行為」として定着する。
 「ふたたび」の「復」は形を変えながら動く。

なんでこんな時間
泣きじゃくる母の横
朝帰りの父の汚れたシャツ
この構図は愛憎のはじまりだった

半分欠けた月のもと
目刺ぬか漬けおみおつけ
おまえらになにがわかる
泥酔する父とおし黙る母から
なにかをよみとらねばならなかった

 「否定さる母/否定する父」という「構図」。「おまえらになにがわかる」とは、母や子が体験していない「時間」、父だけが体験させられた「時間」のことである。共有されていない「時間」のことである。
 このことを浮き彫りにするのが「半分欠けた月」の「半分欠けた」である。こでもことばは重複する動きをしている。「半分」とは季村にとって(この詩にとって)、「欠ける」という動詞を名詞化したものである。「共有されなかった時間」が「欠けた」まま、いま噴出してきている。
 母が植え、それを父が育てるとき、「欠ける」ではないものが生まれてくるはずだが、それができない。母が植えたものを、父はわざと「欠けさせる」。そうするとそれは「半分」になってしまう。母の行為が「半分」になる。
 「復」の「もどる」に引き返す。「もどる」は「もどす」でもある。父は、何を「取り戻そうとしている」のか。「半分に欠けたもの」の、失われた「半分」を取り戻そうとしている。だが、どうやって? 父にも、実は、わからない。
 わからなくても、そういうことは「ある」。

 途中省略した部分に、こういうことばがある。

それでも子どもに
突き出るものがあった
目覚めることばは
尽きることはなかったようだ

 「子どもに」の「に」は「子どもに対して」ということだろうか。母に対するのとはちがって、「子どもに対して」だろうか。あるいは、「子どもには」と「は」を補って読むべきなのか。子ども(季村)、母と父の姿をみながら、「ことば」に「目覚めた」のか。
 「目覚めることば」の「目覚める」は「ことば」を修飾(説明)しているが、「ことばは目覚める」ととらえることもできる。「ことば」が目覚めるとき、その「ことば」をつかう人間も「目覚める」。
 いままで知らなかった世界へと踏み出すということ。
 「踏み出す」ということば事態は季村は書いていないのだが、この「踏み出す」は一連目の「踏みつぶす」の「踏む」と重なる。踏み潰されたのは、母が植えたもの、父が引き抜いたものだけではなく、それを見ていた子ども(季村)の何かをも踏み潰した。踏み潰されて、そこから何かが「踏み出した」。
 子どもの「肉体」のなかからは「ことば」が。
 母の「肉体」のなかからは「涙」が。泣きじゃくるときあふれて来る「涙」が。

 「復」の「復」は「重なる」でもある。
 「欠けたまま」なにかが「重なる」。「重なる」ことで、何かが「共有」されるのか。「何か」は簡単には要約できない。だから、「ことば」を「重ねる」。
 「復員兵」ということばは、父の状態をあらわす「名詞」だが、その「名詞」のなかに含まれる「動詞」、「復」がもっている「動き」が詩全体を支配している。「復員兵」ということばは書かれなければならないことばだったのだ。



 「八月十五日」は「終戦記念日」。阿部日奈子は、これをどう書いているか。「同窓会の会報」にあの日の記憶を書く、という「構図」をもった作品だが、その途中に、こういう部分がある。戦死した兄から、小学生の頃に山川彌千恵の『薔薇は生きている』をもらった。

たいした本ではなかったが、こうして原稿を書くとなると、時代の証言として手許に留めておけばよかったと思う。

 「留める」という動詞に、はっとした。
 「書く」ということもまた「留める」ことである。留めることは「復習」することでもある。ふたたび、そこにもどり、それを確かめるためには「留める」ことが必要だ。
 季村が書いている夫婦喧嘩(?)のようなものは、「留める」ことがむずかしい。「ことば」にすることはむずかしい。その「夫婦喧嘩」の奥で動いているものを正確に引き出し、留めることはたぶん、できない。「抽象化」することはできない。ただ、「具体」のまま、そこに「残す」、それが「留める」ということになる。

 文学は非合理的(抽象化できない)ものであり、めんどうくさいものだが、そのめんどうくさいものにいつでも引き返すことが必要な時代だ。





*

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林嗣夫「柿」、石川逸子「花桃咲く村で」

2018-04-18 09:58:20 | 詩(雑誌・同人誌)
林嗣夫「柿」、石川逸子「花桃咲く村で」(「兆」177、2018年02月05日発行)

 林嗣夫「柿」を読む。

庭のかたすみに
熟した渋柿が落ち
つぶれた緋色の果肉をさらしていた
激しいできごとの後の
しずけさで

 「激しいできごと」が何を表わしているのか、明確には書かれていない。けれども、それを挟む「さらしていた」が、何かを感じさせる。「激しい」できごとは、何かを「さらしてしまう」。「さらす」の反対のことばは「隠す」だろう。何かが暴れ回り、隠しきれなくなる。隠していたものが「さらされる」。「さらす」という動詞が、そういう「運動」を表わしている。
 そして、それは「さらされてしまう」と「しずか」になる。「激しさ」を持ったままではいられない。
 「対比」のなかで、「さらす」がいっそう強くなる。
 この詩は、こう転調する。

つぶれた柿へ一歩近づいた時
黒い美しい蝶が
ひらひらひらと飛び立った
柿のそばに身をひそめていたのだ

 「ひそめる」は「隠れる」。「さらす」の反対である。それが、「あらわれた」。
 緋色と黒の対比。燃えるような緋色の背後から黒が抜け出す。それはまるで緋色が隠していた黒のようだ。黒があるから緋色の赤は強くなる。美しいのは、黒のなかにまだ緋色が残っているからだろう。色というよりも、「激しい」戦い(できごと)が「ひそんでいた」のである。
 「柿のそばに身をひそめていたのだ」という一行は詩というよりも「散文」(説明)だが、「ひそむ」という動詞を書かなければならない理由がある。一連目の「さらす」という動詞と向き合わせせることで、「激しいできごと」を語りなおしたかったのである。
 「激しいできごと」は、次の連でこう言いなおされる。

そのような月日が流れてきたのか
柿はこの蝶に会うために
初夏の若葉

そして実をつけ
重さを養い
渋を甘みに変え
ついに落下して
思いの傷口そのものになったのである

 「激しいできごと」は「月日が流れる」の「流れる」という動詞のなかで克明に語りなおされる。「月日(時間)」は「流れる」。「時間」は柿の変化となってあらわれる。「柿」は変化しながら、「隠していたもの」を「さらす」。
 「激しさ」は、若葉が「芽吹く」、花が「開く」、実を「つける」、重さを「養う」、甘みに「変える」という「動詞」の変化そのものとして書かれている。「若葉」「花」には「芽吹く」「開く」という動詞は書かれていないが、隠れている。無意識に動いている。それを補うと、書かれていることが「名詞」の変化だけではなく、「動詞」そのものであることがわかる。「動詞」が変化するから「激しい」できごとなのだ。
 「さらされた」ものは「傷口」と名づけられているが、その「傷」は「外部」からやってきたものではなく、柿の内部から生み出されたものである。内部の「激しい」動きが、必然的に、そういうことろに達してしまう。
 それが「必然」だから、「さらす」は「うみだす」と言いなおすこともできるだろう。「うまれる」と言いなおした方がいいのかもしれない。「うみだす」「うまれる」ということばではなく、林がつかっているのは「傷口になる」の「なる」だが、その「なる」の変化は「柿」の内部からはじまっているので、「うむ」「うまれる」と言いなおせると思う。
 最終連。

蝶も
この日を待って訪ねて来た

 ここには二つの動詞がある。「待つ」と「訪ねて来る」(訪ねる、来ると、さら二つにわけることもできるが)。
 「動き」があるのは「訪ねて来る」の方だが、私は「待つ」の方にこころを動かされた。
 「隠している」ものが「さらされる」。「隠していたもの」が「うみだされる」。そこには「月日(時間)」が横たわっている。「激しく動いている」と言ってもいいのだが。そこに「時間」があるからこそ、「待つ」という動詞が必然的につかわれる。

 一篇の詩のなかで、「動詞」が緊密に連絡し合うとき、ことばは強くなる。



 石川逸子「花桃咲く村で」は、どんなふうに「動詞」は呼応するか。

花桃咲く村で
Kさんの話を聞いた

満蒙拓団に たった十四歳でくわわった
Kさん

花桃咲く村に
再び帰れなかった 同じ団の七十三人

小さな子供たち
年寄り 女性たちばかり

暗夜のトウモロコシ畑で 七十三人は
どのように はかなくなったか

語る Kさん
哀しい話を 鳥たちが聴いていた

花桃の花も
聴いていた

 「話す/語る」と「聞く/聴く」。「話す/語る」を「聞く/聴く」とき、「ことば」は「話し手」と「聞き手」によって共有されるが、その「共有」がさらに「鳥/花桃の花」に広がっていく。ここに美しさと悲しさがある。「鳥/花桃の花」は「聴いたことば」を「語る」ということはしない。そこに非情があり、それが悲しく、美しい。

 


*

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白鳥信也「とぜん」

2018-04-17 10:29:33 | 詩(雑誌・同人誌)
白鳥信也「とぜん」(「モーアシビ」34、2018年01月15日発行)

 「しらない」「わからない」について考えていたら、ふいに、こんな詩があったことを思い出した。
 白鳥信也「とぜん」。

父親より三つ年上の伯父さんは
鍛冶屋で
暗がりで火を使って鉄を溶かし
鍬や鎌をこしらえる
小学校の帰りに立ち寄ると
伯父さんは囲炉裏の脇に座って炭火をみつめている
どうしたのときいたら
とぜんとしている
という
ぬしはずいらぼっぽりどこいってけつかる
という
伯父さんのいっていることはほとんどわからない

家に帰って母親に
とぜんとしている
とはどういうことかと聞いても
母親は知らないという
東京で育った母親は疎開して以来東北暮らしだが
当地の言葉をうまく使えない
父親に聞いたら
とぜんはとぜんだという

 ここに「わからない」と「知らない」が出てくる。
 白鳥は「わからない」と書き、母親は「知らない」と答えている。
 ひとは、どういうときに「知らない」というのか。その「状況」にいないときに「知らない」という。「状況」にいれば、「状況」がわかる。
 この詩でいえば、「伯父さんは囲炉裏の脇に座って炭火をみつめている」。それだけではなく、それを見たら思わず「どうしたの」と聞きたくなる。つまり、「他人」から見たら何をしているか「わからない」。けれど、そこにそうしている。ただ、そこにいて、時間をつかっている。
 こういうとき「とぜんとしている」と言う。
 それだけのことであり、それを「言い直し」しても、どうしようもない。
 母親は、その「状況」を見ていない。だから「知らない」としか言えない。
 「伯父さんが、囲炉裏の脇に座って炭火をみつめて、とぜんとしていた」と白鳥が言ったのなら、母親は「そう、囲炉裏の脇に座って炭火をみつめて、とぜんとしていたの」と返事をするだろう。そのあとで、「とぜんってなに?」と聞けば、「何にもせずに、ただ囲炉裏の脇に座って炭火をみつめているようなこと」と言うだろう。
 「つかう」と自然に「意味」が肉体に入ってくる。つかわないと、「意味」は肉体に入ってこない。母親は「意味」が「わからない」から、「当地の言葉をうまく使えない」のではなく、ことばを「つかわない」から意味が「わからない」。
 ことばは「意味」ではなく、つかうときの「肉体」の「気持ち」だ。

父親に聞いたら
とぜんはとぜんだという

 これが、端的にそのことを語っている。父親は「ことば」を「つかっている」。それは「肉体」になっている。突然、そこに「意味」だけを問われても、答えようがない。

 で、突然、脱線するのだが。
 NHKのラジオ講座で、大西泰斗の「ラジオ英会話」がはじまった。その放送をたまたま聞いていたら、とてもおもしろいことを言っていた。

My dad runs this restaurant.

 この「run 」を、どうつかみ取るか。
 まず、ネイティブの男性に「run を説明して」とたずねた。男性は「先生、困ります。run なんて、だれもが知っている。足を速く動かして、動きつづけること」とかなんとか言っていた。
 ここがポイント。
 この例文の場合も、run は「動き続ける」とつかみとればいい。自分が動き続けるのではなく、レストランを動き続けるようにする、動かし続ける。
 これを、「わかりやすく(?)」言いなおすと、「経営する」になる。でも、「経営する」という具合に意味を限定してとらえるのではなく、そのことばをつかっているひとの「気持ち」をつかみ取ることが、英語を「つかう(つかえるようになる)」コツというのである。

 これは、日本語も同じだろう。
 「状況」と「気持ち」。それがいっしょになって動いているのが「ことば」。「状況」と「気持ち」が「わかる」なら、「意味」はそのうちにやってくる。「意味」は「言い直し」。「意味」は「論理の経済学」でできている。あいまいさをなくし、合理的に、速く、簡便にを最優先する。そういう「つかい方」を「知っている」ことを、「頭がいい」と言うのだと思うけれど。

 また脱線したが、ことばにとって重要なのは「意味」を「知る」ことではなく、ことばが動いている「状況(気持ち)」が「わかる」こと。共感できること。それは、そのことばをつかうこと。それは「言う」「書く」「聞く」だけではなく、「肉体」を重ねること。

次の日伯父さんのところに立ち寄って
なにもせずにぼおっと座っていたら
ぬしもとぜんか
かばねやみでもしたか
という

 「肉体」と「ことば」が重なると、そこに「ことばにならない気持ち」が動き始める。いままで知らなかった「気持ち」が生まれる。それが「わかる」。「なにもせずにぼおっと座ってい」ること、そのときの「気持ち」が「とぜん」。徒然。つれづれなるままに、である。
 「知ったこと」は「忘れる」かもしれないが、「わかったこと」は忘れない。
 だから、白鳥は、こうやって詩を書いている。
 それは「意味」ではなく、「気持ち」だ。

そのころは声だけ
ことばの響きがとびかっていた

 この二行は美しい。
 「ことば」は「意味」に汚されずに、「声」と「響き」のなかで、ゆったりと遊んでいる。つまり、「論理の合理主義/論理の経済学(資本主義?)」に組み込まれることもなく、ただ「肉体」といっしょにある。
 こういう「時間」を「おぼえている(わかっている)」のは、とても大切なことだ思う。

*

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斎藤恵子「うさぎ島」、宗田とも子「遠い水」、若尾儀武「答」

2018-04-16 10:30:06 | 詩(雑誌・同人誌)
斎藤恵子「うさぎ島」、宗田とも子「遠い水」、若尾儀武「答」(「タンブルウィード」3、2018年03月15日発行)

 同人誌、あるいは月刊誌で詩を読むのは、むずかしい。複数のひとが書いていて、「ことば」が入り乱れる。共通ではないものが共通なものとして見えてきたり、共通なのに違うものに分かれていったりする。これは、私の「個人的」な印象だけれど。

 斎藤恵子「うさぎ島」。

なにをはこんでいるかしらない
いっしんに
ちいさな手をはなさないで
せかいに撒かれるものを
たいせつにして

 「しらない」けれど「いっしん」である。「いっしん」は「一心」で、それは「たいせつ」と言いなおされる。「たいせつ」は「はなさない」という動詞へ還っていく。
 なぜ「しらない」かといえば「ちいさな」ひとだからである。
 そういうことを引き継いで、

みしることのないひとたちの
あえいだ息が
海ぞこにかさなり

 と、ことばが動く。「しらない」は「みしることのない」とかわる。同時に、そこに「あえいだ」が加わる。息。「ちいさな手」のひとたちもまた「息」をしただろう。「いっしん」に、手から「はなさずに」、「たいせつ」に運ぶとき、いつもとは違う「息」をしていただろう。
 「しらない」が「息」を通して重なり、それが「海ぞこ」に「かさなる」。
 ことばにならなかった「歴史」がふいに、そこにあらわれてくる。



 宗田とも子「遠い水」には、こんなことばがある。

高速横浜環状南線の橋脚下部工事が終わるのは来春だ
フェンスの囲いが畑と水田をはめ残したパズルの模様にする
それでも実る稲と里芋の葉が揺れている
コウボネの黄色の花と露草のあぜ道は数百年の土を重ねてきた
赤マンマに覆われた角地はもうすぐ廃田になる

 「数百年の土を重ねてきた」。この「重ねる」の「主語」は何なのか。わからない。「あぜ道」をつくったひとと言えるかもしれないが、特定してもはじまらない。「ひと」を無視して、そこに「あぜ道」は「ある」。それは「あぜ道」であることをやめてしまっても、「土」そのものとして「ある」。そこには「重なる」が「ある」。
 具体的なことは何も「しらない」。けれど、「しらない」を超えて、「ある」があることが「わかる」。
 「ちいさな手」は、その手の持ち主である子ども(たぶん)は、「なにをはこんでいるか」だけではなく、あらゆることを「知らない」。けれど、何かが「わかる」。だから「いっしんに」動いている。「たいせつ」を生きている。



 若尾儀武「答」では、ことばは、こんなふうに動いている。

そやさかい どう返事したら答えになるのんか
考えに考え抜いて
テンノウヘイカがそういわはるのやったら残ります
と答えました
そうしたら センセ
ハル君はあんまり学校に来んけれど ええ心構えしとる
みんなもハル君を見習わないかんな
と 言わはって
わたしは
何で急にハルがハル君になったんか
わけ 分からんと
教室の隅でうつむいていました

 「わけ 分からん」と書いているが、わからないのは「わけ」であって、「急にハルがハル君になった」ということは「わかる」。この「わかる」が強烈だからこそ、「わからない」がある。
 この「わからない」ものを「わかる」のはいつか。それは「わかる」というよりも「知る」である。

 「知る」には「肉体」で繰り返しなおすことのできない、何か「残酷」なものがある。
 宗田の書いている「あぜ道」の「数百年」も「知る」ものだが、それは人間は「数百年は生きられない」という「事実」をつきつけるという意味では「残酷」だが、そんな「知る」を無視して土は「ある」と「わかる」ので、不思議と優しい気持ちになる。
 三人は「知る」「知らない」「わかる」「わからない」をどうつかうかを相談して決めているわけではないのだが、「ことば」の奥を似たものかつらぬいている。






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マーク・ウェブ監督「さよなら、僕のマンハッタン」(★★★★+★)

2018-04-16 09:56:14 | 映画
監督 マーク・ウェブ 出演 カラム・ターナー、ジェフ・ブリッジス、ケイト・ベッキンセール、ピアース・ブロスナン

 映画はナレーションからはじまる。ジェフ・ブリッジスの声である。やがてカラム・ターナーがあらわれる。そして、しゃべる。この瞬間、私は眩暈のようなものをおぼえる。「声」が似ている。私は音痴だ。耳が悪い。だから混乱するのかもしれないが、妙に似ている。いまのはジェフ・ブリッジスのナレーション? カラム・ターナーのこころの声?
 ニューヨークに住んでいるネイティブなら混乱しないかもしれないが、私の耳は混乱してしまう。
 で、この「混乱」が最後になって、「混乱」していてよかったのだ、と納得する。二人の声が似ているのには、それなりの理由があったのだ。
 という「オチ」は、まあ、どうでもよくて。
 映画はまるで「小説」。映画なのに「会話」や「アクション」よりも風景描写が多い。街の表情がストーリーを語っていく。「名所」が出てくるわけではない。セントラルパークは出てくるが、ランドマークとなるような建物は出てこない。「街角」が出てくるだけである。その「街角」が、人が生きていることを語る。
 マンハッタンは巨大な街なので、一人で住むと、まさに「ひとり」であることが強烈に身に迫ってくるだろうけれど、それはそのひとだけが感じることではない。みんなが感じていることなのだ。そのせつなさが、あらゆる街角にあふれている。
 あ、行きたいなあ。あの街角を歩いてみたいなあ、と思う。そこでは、何をことばにしても「詩」になる、と錯覚させてくれる。いや、きっと詩になるに違いない。巨大な街のなかで「ひとり」が触れることができるものは、小さな「個別」そのものだから。「個別」をことばにするしかないから。
 で、「ことば」と書いて。
 また最初にもどる。「ことば」と「声」。あるいは「語る」こと。
 この映画は、伏線として、初老の作家がマンハッタンでひとり住まいをしている少年(といっても、すでに青年である。現代は、「少年時代」が長いのだ)が、少年から大人になるまでを小説にするということになっているが、それを見終わると、初老の作家こそが「少年」そのものに見えてくる。作家は「おとな」になるために、「少年」を書くしかなかったのだとわかる。ジェフ・ブリッジスとカラム・ターナーが静かに交錯し、静かに入れ代わる。こういうことが自然に起きるのもニューヨークならではなのだと思う。
 ニューヨークには「未来」の美しさがある。すでに古い街だが、必ず新しいことが起きる街だと感じさせてくれる映画だ。「過去」を発見し、生きなおすこと、それも「未来」なのだ。それが繰り返されているのがニューヨーク。
 黒星1個の追加は、カラム・ターナー、ジェフ・ブリッジスの「声のキャスティング」に。
(2018年04月15日、KBCシネマ1)


 *

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工藤正廣「すべての祝福の始まり」、吉田文憲「二つの声」

2018-04-15 09:51:18 | 詩(雑誌・同人誌)
工藤正廣「すべての祝福の始まり」、吉田文憲「二つの声」(「午前」13、2018年04月15日発行)

 工藤正廣「すべての祝福の始まり」には「リルケとパステルナーク 田口義弘を偲びつつ」という副題がついている。リルケとパステルナーク(少年)の「出会い」が書かれているのだが、それは田中義弘と工藤の出会いなのかもしれない。
 パステルナーク(少年)は父と旅行している。その列車にリルケが乗ってくる。その三連目。

遥かな野辺とプラットホーム
二人の話すドイツ語
少年はすでにドイツ語は完璧なほどに分かる
しかしこのひとのドイツ語は なぜだろう
いままで聞いたこともないふしぎなひびきだ

 なるほど、そうかもしれない、と思う。ことばは、「意味」ではなく、それ自体の「ひびき」である。
 この五行のなかでは「なぜだろう」ということばが、「ひびき」として美しい。
 「このひとのドイツ語は/いままで聞いたこともないふしぎなひびきだ」という形でも「意味」は同じだ、というのは極論だが、「意味」は通じる。その「主語」と「述語」のあいだに、「なぜだろう」という少年の「疑問」が割り込んでいる。「意味/論理」を邪魔するように割り込んでいるのだが、同時に「意味/論理」を後押しするように動いているとも読むことができる。
 邪魔しているのか、推し進めているのか。
 これは、むりに「結論」を出さなくていいことだ。
 何かが動いている。その「衝動」を感じればいいのだと思う。「論理/意味」とは違う「衝動」、あるいは「本能/欲望」のようなもの。それが「純粋」であるとき、それは「美しい」。そして、その「声(ことば)」を聴くとき、そこに今まで知らなかった「ひびき」がある。
 これはなんだろう、ではなく、パステルーク少年は「なぜだろう」と感じている。「なぜ、そんなひびきになるのか」。「なんだろう」は「意味」。でも「なぜだろう」は「意味」ではなく、それを「支えている」ものへの関心だ。
 「意味」は「わかる」。「わからない」のは「なぜ」。そして、その「なぜ」はリルケその人へと向かう。「ことば」の「意味」は「わかる」。「わからない」のは、「そのひと」である。
 「このひと」は誰だろう。どういうひとだろう。
 だから、詩は、「ひと」へと関心が移っていく。

少年は見惚れて耳を澄ませる
このひとは肉体ある人々のあいだで
まるで夏の本質の影絵(シルエット)のようだ おとぎ話のようだ

 「このひと」にも「肉体」はあるのだが、ほかの人々が「肉体」そのものとして見えているとは、何かが違う。
 「耳を澄ませる」ということばがある。「ひびき」をしっかり聞きとるために「耳」に神経(精神)を集中させる。「耳(肉体)」に少年の意識は集中するのだけれど、集中してしまうと、「耳」は「耳」ではなくなる。「耳」が意識されない、「耳」を忘れてしまう。「耳」というのものが「消える」。この「消えてなくなる」という変化を「澄ませる/澄む」というが(不純物が沈殿して、濁った水が澄む、という具合に)、その「澄む」という変化が「そのひと」とつながる。少年の「澄んだ精神」が「そのひとのことばの澄んだひびき」と重なる。「和音」が生まれ、「音楽」が動き出す。
 これを工藤は「本質」と名づけている。
 「本質」は、しかし、「実質(実体)」ではなく、同時に「影絵(シルエット)」と言いなおされている。「実体」が何かの影響を受けて浮かび上がらせる「影」(まぼろし)。
 ここには「耳を澄ませ」、「ことばを聞く」ときの、少年とリルケの「交渉」に通じるものがある。「シルエット」は「光」と「実体」が出会ったときに生まれる。どちらが「光」であり、どちらが「実体」か。こういうことは、「特定」してもはじまらない。「出会い」がなければ「光」も「実体」も、単なる「存在」だからである。「出会い」、互いが相手を認めるときに「ひびき(音楽)」がはじまる。
 こういう「幸福」は、たしかに「おとぎ話」のなかにしかないかもしれない。けれど、パステルナークは、それを「体験」したのだ。「体験」したことを、工藤は知っている。同じことを工藤は田口と出会うことで体験したのだろう。
 私はリルケもパステルナークも、工藤も田口も知らないが、そんなことを思った。



 吉田文憲「二つの声」は、工藤とはまったく別の「出会い」を書いている。

 彼は、と書き、私は、と書いた。ある、ない、ある、ない、の瞬間の交代劇。
だから、こう書いてもいいはずだ。どこかでたえず二つの声が聞こえたはずだ、
と。川にたらした左腕がすきとおる--だれの息が、ここにやってきたのか。
ひとしきり屋根の上に滴の散る音がした。--はぐれてしまった「姉」。

 「出会い」というよりも「別れ」である。「ひとつ」ではなくつ「ふたつ」を意識したとき、それは「別れ」になる。ただし、吉田は「別れ」とは書かない。「交替」と書く。「ふたつ」は「ひとつ」にはならずに、「交替」が繰り返される。「擦れ違い」、入れ代わる。運動が繰り返される。吉田もまた、「特定」を避けている。
 工藤は「ふたつ」なのに「ひとつ」を意識したから、「出会い」になったのだ。「ふたつ」が出会って、「ひとつ」の和音(ひびき)として生まれ変わる。
 吉田は「和音(二つの音)」から「一つの音」へと別れていく。
 この詩の中にも「すきとおる」と「透明/澄む」に通じることばがあるが、それは「二つ」を分離する「あいだ」そのものとして動いている。「すきとおる」時間を利用して、「交替」するということだろう。


 





*

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神原芳之「石蕗の花」「泰山木」

2018-04-14 09:26:28 | 詩(雑誌・同人誌)
神原芳之「石蕗の花」「泰山木」(「午前」13、2018年04月15日発行)

 神原芳之「石蕗の花」は、さっと書かれたことばが、強い印象を残す。

人生の十一月に入り 石蕗の花を意識した
金木犀の香りが消え 紅葉の華麗な彩りが
静かに褪せ 小春日和に君臨した柿の実も
鳥に突つかれて姿を崩してしまったあとに
少し濁りの入った黄色い花びらが輪を開く
香りも彩りもほかの花と競う気は見えない
庭が素面になったのを見て長い首を伸ばす

 「人生の十一月」は「意味」がありすぎる。それが「意識」ということばを誘っている。これはこれでわかるけれど、押しつけ、という感じもする。「華麗」や「君臨」ということばも私は好きではない。
 しかし、そのあとの石蕗の具体的な描写は美しい。
 「少し濁りの入った」ということばは深くて強い。「濁る」と「入る」。「入る」は書き出しの「十一月に入り」にもあって、その「動詞」の重なりが、「人生の十一月」と「濁り」を重ねる。「少し濁りが入った」と神原は自分の人生を「比喩」にしている。そして、そこから石蕗に生きる祈りを重ねていく。
 「競う気は見えない」は、神原自信が「競う」という気持ちを放棄しているから、石蕗がそう見えるということ。
 「素面」になったのは「庭」だが、そこに咲く石蕗もまた「素面」の美しさである。「少し濁りが入って」いるが、それを隠さない。むしろ、そのまま見せる。庭と石蕗は重なり合っている。その重なりの中から、「首を伸ばす」。自己主張する。「伸ばす」という動詞が、少しだけ「競う気」を刺戟する。「競う」という明確な「気持ち」はないけれど、「生きる」ということは何かを突き破って進むこと。
 他人と競うのではなく、自分自身と競う、自分の乗り越える、と読めばいいのかもしれない。まだ「十一月」、まだ「一か月」も残っている。

 「泰山木」も開花を描いている。

ミシシッピーの平坦な沃野にただよう
艶やかな南部の大気が香ってくる
毛皮のような花びらで蕊を包みながら
硬い守りの盾のあいだから 眼下で
満開を謳歌する紫陽花たちの賑わいに
物憂いまなざしをそっと投げかける

 「投げる」という動詞に深みがある。「投げる」は「放る」、つまり「放す」でもある。何かを手放し、捨てるのだ。
 「投げかける」の「かける」には、自己を何かに「たくす」(任せる、預ける)の意味もある。捨てながら、それを他者に託す。そういう「複雑性」がここにはある。
 何を捨て、何を託すのか。
 神原は最終行で言いなおしているが、私はあえてその一行を省いて引用した。言いなおさなくても、十分に言い尽くしている。
 言わない方が、言い尽くすということもある。





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自民党憲法改正案(4)

2018-04-14 00:00:00 | 自民党憲法改正草案を読む
自民党憲法改正案(4)
             自民党憲法改正草案を読む/番外208(情報の読み方)

 自民党の「緊急事態対応」は、非常にわかりにくい。
 ふたつの部分からなっている。「国会に関する4章の末尾に追加」と「内閣の事務を定める73条の次に追加」である。
 現行憲法と「追加条項」をつづけて読んでみる。

(現行憲法)
第64条 国会は、罷免の訴追を受けた裁判官を裁判するため、両議院の議員で組織する弾劾裁判所を設ける。
2 弾劾に関する事項は、法律でこれを定める。
(追加部分)
 64条の2
 大地震その他の異常かつ大規模な災害により、衆議院議員の総選挙又(また)は参議院議員の通常選挙の適正な実施が困難であると認めるときは、国会は、法律で定めるところにより、各議院の出席議員の三分の二以上の多数で、その任期の特例を定めることができる。

 これは、何度読んでも「つながり」が悪い。
 64条は「弾劾裁判」に関する条項だ。趣旨は、日本は「三権分立」制度を採用しているが、だからといって「裁判官」の「独断」を許しているわけではない。国会でコントロールできるようにしている。そのことを定めているのが64条である。
 このあとに、「大規模災害」のときには選挙を省略し、衆院、参院両議院の任期を延長できるというのは、どうもおかしい。
 「司法」をコントロールするという条項の後に、国会議員の任期延長を置くのはなぜなのか。その前に書かれている「大地震その他の異常かつ大規模な災害」のなかに「司法」を含んでいるためではないのか。つまり、「司法」が政府(安倍)にとって不都合な判断を下す。これを「異常な大災害」であるとみなし、不都合な判断を下した裁判官を国会で弾劾してしまう、ということが狙われているのでではないのか。
 たとえば、「一票の格差は違憲である」という判断は、安倍が狙ってる「参院選の合区解消」とは真っ向対立する。一票の格差を残したままの選挙は「違憲」であると判断され、その結果、1県に1議席はかならず確保できた自民党の議席がなくなるというのは、自民党にとっては「異常な災害(人災、司法による災害)」である。
 「大地震その他」の「その他」を見落としてはいけない。
 この項目は、「合区解消」(参院選の選挙区は都道府県単位)という項目と連動して読み直さなければいけない。
 もし「任期」に関しての「改正」というのなら、現行憲法の45条、46条の後の方が「論理的」に読むことができる。
 現行憲法は、こうなっている。

第45条 衆議院議員の任期は、4年とする。但し、衆議院解散の場合には、その期間満了前に終了する。
第46条 参議院議員の任期は、6年とし、3年ごとに、議員の半数を改選する。

 「任期延長」だけが問題なら、「任期」について書いてある条項のあとにつけるべきである。それを避けて、「弾劾裁判」のあとにつづけているのは、「大災害」として想定されているものが、「大地震」などの「自然災害」ではないからだ。
 政府(安倍)の判断に異議を唱えるものは、すべて「災害」と認定し、それを弾圧する。「独裁」がここでも隠されている。
 これを「補強」するのが、

各議院の出席議員の三分の二以上の多数で、その任期の特例を定めることができる。

 という部分である。「任期」は「特例」として、どこまでも延長できる。
 安倍に異議を唱えるもの、独裁反対を叫ぶ人間がいなくなるまで、安倍の言いなりの自民党議員が国会を支配する。

 73条の方は、どうか。

(現行憲法)
第73条 内閣は、他の一般行政事務の外、左の事務を行ふ。
一 法律を誠実に執行し、国務を総理すること。
二 外交関係を処理すること。
三 条約を締結すること。但し、事前に、時宜によっては事後に、国会の承認を経ることを必要とする。
四 法律の定める基準に従ひ、官吏に関する事務を掌理すること。
五 予算を作成して国会に提出すること。
六 この憲法及び法律の規定を実施するために、政令を制定すること。但し、政令には、特にその法律の委任がある場合を除いては、罰則を設けることができない。
七 大赦、特赦、減刑、刑の執行の免除及び復権を決定すること。

(追加部分)
73条の2
 1項 大地震その他の異常かつ大規模な災害により、国会による法律の制定を待ついとまがないと認める特別の事情があるときは、内閣は、法律で定めるところにより、国民の生命、身体及び財産を保護するため、政令を制定することができる。
 2項 内閣は、前項の政令を制定したときは、法律で定めるところにより、速やかに国会の承認を求めなければならない。

 ここでも「問題」は「法律」なのだ。
 政府は裁判所が「違憲」と判断しないかぎり、法律にもとづき行政を執行できる。しかし、「違憲」は判断されたときは、その執行ができない。
 参院選の「一票格差」は「違憲」と判断された。だからなんとかして憲法を変えないと「合区」は解消できない。「合区」は国会で法律を制定し実施したものだが、もし「合区解消案」が承認されなくても、「73条の2 その1項」によって強引に「合区」を解消できる。「都道府県ごとに1人の議員が選ばれないのは異常な事態である」と判断すれば、政令を制定できる。「政令」では選挙はできないと言うかもしれないが、それをやってしまうのが安倍である。「合区された都道府県民の生命、身体及び財産を保護するため」と言ってのけるだろう。
 多くの人が指摘しているように「大地震その他の異常かつ大規模な災害」の「その他」が具体的に明示されていないのも非常に問題である。
 安倍退陣を要求し、国会前で大規模なデモが行われたとする。これも「定義」しだいでは「異常かつ大規模な災害」と言うことができる。デモ隊が車道にあふれ、車が通行できない。これは「異常事態(災害)」であると言えるし、「安倍が批判される」ということ事態が「異常な大規模災害」と言うこともできる。安倍にとって「打撃」だからである。あらゆることが「恣意的」に判断され、取り締まられる。
 「2項」は内閣による「政令」の乱発、恣意的な発令に歯止めをかけているように見えるが、そのときの「国会」は自民党によって支配されているから、単なる「追認」にすぎない。
 現行憲法では「政令には、特にその法律の委任がある場合を除いては、罰則を設けることができない」という文言があるが、追加されたその文言がない。同じ「政令」であっても、平常時の「政令」と緊急事態時の「政令」は違うから、「罰則は可能」という「読み方(解釈)」もできる。すでに安倍が、憲法を独断で「解釈」するということが起きている。新しい「政令」にはきっと「罰則」がついていて、国民の自由はなくなる。「独裁」が加速する。

 憲法は権力の暴力を許さないためのものである。
 「改憲案」は権力の暴力についてどんな歯止めをかけているか、という点から読まないといけない。「独裁」を封じるために、どういう文言をつかっているか、そこから読み直さないといけない。
 安倍が主導している「改憲案」には権力に対して制限を加える項目はどこにもない。
 「内閣は、前項の政令を制定したときは、法律で定めるところにより、速やかに国会の承認を求めなければならない」は歯止めに見えるが、歯止めとしては働かない。このときの国会は、勝手に任期を延長した国会であり、そこには安倍の独裁に支配された議員しかいないからだ。
 どんなふうに「独裁」を支えるための罠が隠されているか、それを探しながら読まないといけない。




#安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位 
 


*

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憲法9条改正、これでいいのか 詩人が解明ー言葉の奥の危ない思想ー (これでいいのかシリーズ)
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愛媛県文書(その3)

2018-04-13 11:08:36 | 自民党憲法改正草案を読む
愛媛県文書(その3)
             自民党憲法改正草案を読む/番外207(情報の読み方)

 2018年04月13日の読売新聞(西部版・14版)の2面。

加計問題/面会文書 農水省にも/愛媛県から渡されたか

 という見出しの記事がある。農水省は獣医師の国家試験を所管している。だから愛媛県側が、関係省庁である農水省に渡したとみられる、と書いてある。
 では、愛媛県側は、農水省に「どの部分」を読ませたかったのか。これが問題だ。
 柳瀬文書の最初にある「首相案件」はもちろんだが、他の部分も大事だ。

(1)獣医師会には、直接対決を避けるよう、既存の獣医大学との差別化を図った特徴を出すことや卒後の見通しなどを明らかにするとともに、(後略)


 大学のカリキュラム、卒業後の進路に大学側が配慮する。獣医師が増えて、すでに開業している獣医師の活動の圧迫にならないようにする、ということを大学に「確約」させる。そういう「動き」を文科省とのあいだにやっている。
 その報告である。
 これについては、愛媛県側は、たぶん働きかけができない。大学のカリキュラムは文科省、獣医師試験は農水省の管轄。愛媛県は口をはさむことができない。
 でも、こう進んでるんですよ、と加計学園(あるいは文科省)にかわって、農水省に報告している。

(2)加計学園から、先日安倍総理と同学園理事長が会食した際に、下村文科大臣が加計学園は課題への回答もなくけしからんといっているとの発言があり、その対策について意見を求めたところ、今後、策定する国家戦略特区への取組状況を整理して、文科省に説明するのがよいとの助言があった。

 これは、加計学園側の学部開設に関する「意識」の低さが、文科省と愛媛県側で共有することになる。加計学園の対応は不備だらけだが、文科省が問題点を指摘して改善を進めている。だから、農水省も、加計学園に問題があることを踏まえて対処してほしい、ということ。問題があるけれど、「首相案件」であることを認識してほしいというのである。

 なぜ、こんな「文書」を農水省に渡すのか。
 もちろん「安倍案件」であることを認識してもらうこともあるが、これは愛媛県側から言うようなことではない。安倍が農水省に言うことである。いわなくてもだれかが農水省に伝えている。だから、「安倍案件(首相案件)」は、一種の「だめ押し(念押し)」にすぎない。
 ほんとうは(2)の部分が問題だからだ。
 もし、加計学園の学部新設要請書類に問題があり、新設が認められないことがあっても、それは農水省の責任ではない、愛媛県の責任ではない、ということを「共有」したかったのだ。失敗したときの「保険」だ。

 今度は、逆に考えてみよう。
 この文書を農水省側が「保管」していたのは、どうしてだろう。
 農水省が「保管」しているのは、問題が起きたとき「首相案件だから」と言い逃れるため。首相案件なら、そうするしかなかった、と言い逃れるため。これは「保険」なのだ。獣医師会が苦情を言ってきても首相案件だったから、と責任逃れができる。
 だれだって納得できない仕事を押しつけられたとき、その結果問題が起きそうだと思ったら、「証拠」を残しておく。
 愛媛県は加計学園のヘマ(学部開設に必要な準備ができない)を恐れ、それに通じる「文言」のある「文書」を残した。農水省は、愛媛県文書にある「首相案件」と文言、文科省が加計学園を指導していることを伺わせる文言があるから、「文書」を「保管」した。「責任逃れ」につかえると思っている。

 ここから、さらに「推測」ができること。
 同じ文書はきっと文科省にもある。
 すでに前川が「総理の意向」云々というような文書(簡単なメモ)の存在を明らかにしている。そのメモは、今回の愛媛県文書とつながっている。
 前川が問題提起をしたあと、文科省は急いで文書を廃棄したかもしれないが、だれかが愛媛県の文書を残している可能性はある。
 加計学園獣医学部が「国家戦略特区」にふさわしくない大学であると判断されたとき、どうして学部新設を認可したのかが問題になる。そのとき、文科省はどう説明できるか。「首相案件」だったから、と言い逃れができる。

 「首相案件(総理の意向)」というのは、上から下への「伝達」を強制すると同時に、下のものが「責任逃れ」をするときの「防護壁」にもある。「私は命じられてやっただけ」という「開き直り」の武器にもなる。「開き直り」を「保身」と言うのだけれど。
 安倍はすべてを「トカゲのしっぽ切り」ですませようとしているが「トカゲのしっぽ」は「しっぽ」で生き残り策を探る。




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詩人が読み解く自民党憲法案の大事なポイント 日本国憲法/自民党憲法改正案 全文掲載
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三上寛「ぼうしをかぶる犬」

2018-04-13 09:47:09 | 詩(雑誌・同人誌)
三上寛「ぼうしをかぶる犬」(「gui」113、2018年04月01日発行)

 「gui」113は藤富保男追悼号。
 三上寛「ぼうしをかぶる犬」がとても楽しい。おかしい。おもしろい。「追悼詩」を、楽しいとかおもしろいと言ってはいけないのかもしれないが。でもユーモアを大切にしていた藤富に対してなら、おかしい、という感想が漏れる「追悼詩」がふさわしいと言えるかも。

 藤富先生は帽子をかぶっている。
「人間だけ帽子をかぶるのは、どうしてだろ
う。犬は帽子をがぶりませんよね」と私に同
意を求めてくるのだが、答えようがないので
黙って下を向いてしまった。
 その「下を向く」が、藤富先生には私の快
諾の意思表示に写ったのだろうか。
 うれしそうに笑った。

 これは、ほんとうにあったことなんだろうなあ。
 で、このほんとうにあったことから、ことばはどんなふうに動いていくか。自由に動けるか。

 メガネと帽子とパイプ。
 これが先生の三種の神器であり、犬はパイ
プもメガネも用いず、まして帽子などかぶら
ない。
 昨今の公園では、この三つのうちのどれか
をショーしている犬も見る。
 詩に対する冒涜というほどの行為だと私は
ニランでいる。
 仮に、帽子とネガねとパイプをくわえてい
る犬が出現したかといったって、犬は藤富保
男にはなれないのだった。

 「詩に対する冒涜」か。この「冒涜」のつかい方がおかしい。いや、気持ちは「わかる」。
 わかるから、おかしい。
 と書いて、そうか「おかしい」というのは、何かが「わかる」ということなのだと気づく。
 最初に引用した部分の「犬は帽子をかぶりませんよね」と藤富が同意を求めてくる。「わかる」。あ、ほんとうだ、犬は帽子をかぶらない。でも、それって「わかる」というのが正しい(?)こと? 言い換えると、そういうことって「かわる」必要があること? たぶん、ない。無駄。どうでもいいこと。
 ここに、たぶん詩がある。
 ことばは、どうでもいいことへ向かっても動く。どうでもいいことへ向かって動くことで、ことばが窮屈になるのをほぐしている。この「ほぐす」感じがユーモアということになるかな。「どうでもいい」ということが「わかる」ので、笑うのだ。
 藤富の詩は、そういうところがある。

 歩いている犬を見るたびに、私は藤富先生
を思い出す。
 まさかと思っていたが、本当だった。

 これは最後の連だが、いいなあ。「まさかと思っていたが、本当だった。」ねえ、もっとほかのものを見て藤富を思い出してもいいのに、犬を見ると思い出してしまう。「犬は帽子をかぶりませんよね」ということばを思い出してしまう。「どうでもいい」から、そこに「ほんとう」がある。このときの「ほんとう」というのは、「作為がない」という意味。「正直」と言い換えることもできる。
 で、ふいに、会ったことはないけれど、藤富は「正直」を生きた人だったのだと、「ひとがら」を思ってしまう。藤富の「正直」に出会った気持ちになる。
 これって、いい追悼詩だなあ。





*


「詩はどこにあるか」3月の詩の批評を一冊にまとめました。186ページ

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目次

森口みや「コタローへ」2  池井昌樹『未知』4
石毛拓郎「藁のひかり」15  近藤久也「暮れに、はみ出る」、和田まさ子「主語をなくす」19
劉燕子「チベットの秘密」、松尾真由美「音と音との楔の機微」23
細田傳造『アジュモニの家』26  坂口簾『鈴と桔梗』30
今井義行『Meeting of The Soul (たましい、し、あわせ)』33 松岡政則「ありがとう」36
岩佐なを「のぞみ」、たかとう匡子「部屋の内外」39
今井義行への質問47  ことばを読む53
水木ユヤ「わたし」、山本純子「いいことがあったとき」56 菊池祐子『おんなうた』61
谷合吉重「火花」、原口哲也「鏡」63

谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(下)68


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嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
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読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
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(3)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料250円)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
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三上寛怨歌(フォーク)に生きる
三上 寛
彩流社
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「ことばと沈黙、沈黙と音楽」発売中。

2018-04-13 00:08:29 | その他(音楽、小説etc)
谷川俊太郎詩集『聴くと聞こえる』への感想を一冊にまとめました。

オンデマンド出版。
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劉霞『毒薬』

2018-04-12 09:00:28 | 詩集
劉霞『毒薬』(書肆侃侃房、2018年03月02日発行)

 劉霞『毒薬』の感想を書くのは、非常にむずかしい。そこに書かれている「具体」は客観的な具体ではなく、劉霞がつかみとった具体だからである。
 言い換えると、そこには「ことば」があるだけだからだ。「具体」を「ことば」という抽象のなかだけで動かしている。
 何かを恐れている。それを劉暁波との関係、政治との関係に結びつけて言うことができるかもしれないが、私は中国の現実を知らないので、そういうことはしない。
 「空いている椅子」を読んでみる。

あちらにもこちらにも空いている椅子
こんなにたくさんの空いている椅子が
世界のあちこちにあるけれど
特に私はヴァン・ゴッホの空いている椅子に魅せられる

 「ヴァン・ゴッホの空いている椅子」は「具体」であると同時に「抽象」である。ゴッホが描いた絵の中にある。そこにはゴッホの思想が色と形になっている。ゴッホの思想は色と形でしか表現されないが、それが思想の「具体的な形」である。
 このゴッホの「思想」と劉霞はやはり「思想(ことば)」で向き合う。ゴッホの椅子が「思想」を語る具体的なものとして取り扱われている。ゴッホの「思想」も、それを語る劉霞の「思想」は具体的なのだけれど、この具体性は、「頭」ではわかった気持ちになるが、ちょっとくらい読んだだけでは咀嚼しきれない。劉霞のことばを相当読み続けている人間以外には、その「思想の肉体」がつかめないからだ。
 こんなことを言えばゴッホについても同じかもしれないが、ゴッホについていえば、私は中学生くらいのときからなじんでいる。「ほんもの」を見る機会はずっとあとになってだが、中学生の頃から「本」で見ている。だから「知っている」と錯覚できるが、劉霞はそういう錯覚すらない。
 これが、こまる。
 しかも、「ことば」は翻訳されていて、それを読むことができるから、余計に向き合い方がむずかしくなる。
 でも、こんなことはいくら書いてもどうしようもない。
 「わかる」ことを書いていくしかない。
 劉霞がゴッホからつかみ取った「思想」は「空いている」という動詞で書き留められている。椅子は人が「座る」ことで「椅子」になる。人が座るまでは椅子の形をしているが、椅子の働きをしていない。「動詞」になっていない。そういう椅子は世界にはたくさんある。それなのに、劉霞はゴッホの椅子こそが「空いている」と感じる。そこに惹きつけられる。
 なぜ、ゴッホの椅子を「空いている」と感じたか。あるいは、そこには何が「座る」べきだと考えたのか。
 詩は、こうつづいていく。

ひっそりと坐ってみる
両足を少しゆらゆらさせてみると
椅子からにじみ出る息遣いに
凍えるほどかじかんでしまい
身動きもできなくなってしまう

 ゴッホの椅子に、劉霞は「想像力」で座る。「ことば」で座る。そのときの「座り方」は少し変わっている。足を床に着けない。つまり、「全身」を椅子に預ける。椅子だけに頼る。椅子と一体になる。そうすると、全身をあずけられた椅子が「息」を洩らす。「息」なのに、それは冷たい。なぜだろうか。ゴッホの椅子は「冷たい」何かを座らせていたのだ。そのために冷たくなっている。そして、それを感じると劉霞も冷たくなって、「身動きできなくなる」。椅子との一体感が強くなる。劉霞自身が椅子になる感じだ。
 ゴッホの椅子に座っていた人間は、「身動きできない」人間だったのだ。足があるけれど、動けない。そういう状況にあったのだ。そのひとは、「冷たさ」と直面していた。「冷たさ」は「孤独」かもしれない。「絶望」かもしれない。そのために「身動きできなくなって」いた。
 ゴッホの椅子に座って、劉霞はゴッホの椅子なり、同時に椅子に座っていた人間になる。
 だれが、座っていたのか。
 三連目で、「だれが」が書かれる。

ヴァン・ゴッホが大きく絵筆を振る
出て行け 出て行け 出て行け
今夜は葬式などしないぞ

 「死」が座っていた。「だれ」ではなく、死がすわっていた。死んだ人が座っていた。それは、でもだれなのか。ゴッホのなかの「もう一人のゴッホ」か。ゴッホは生きているから、「もう一人のゴッホ」は「死んだ」としても「描かれる」ことはない。「死」はこの場合、具体ではなく、「理念」だからである。もし、椅子に座っている人が大事な人だった場合は、どうか。死んでもその人はゴッホの「思い」のなかで生きている。その「生」を強く感じる。このときも死は「理念」として存在することになる。
 ゴッホは「理念」を描いている。「思想」を描いている。劉霞は、ことばで、その「理念(思想)」に触れ、「冷たい」と感じる。同時に、その「思想(理念)」を描こうとするゴッホの「熱さ」も感じる。絵を描ききることが「葬式」なのである。だから「現実」の葬式ではなく、「理念(思想)」として葬式をする。
 矛盾のなかで、激しくのたうっている。ことばで説明しようと、同義反復になる。違う意味のことが、同じことばの中にあらわれてきてしまう。その同じことばを何とか、違うことば、新しいことば、既成のことばではなく、劉霞だけがつかみとったことばとして生み出そうとしている。この劉霞のことばの模索は、そのままゴッホの色と形を求めて苦闘する姿そのものにもなる。
 ゴッホの椅子をみるとき、劉霞は椅子そのものであり、またその椅子に座る人であり、同時にその椅子を描くゴッホでもある。

ヴァン・ゴッホが私のひとみをじっと見つめ
私のまぶたを閉じさせる
本焼きを待つ陶器のように
ひまわりの烈火の中に坐って待つ

 このことばを「現実」と交差させるためには、劉霞をもっともっと読まないといけない。そういうことを感じる。
 それ以上のことは、いまは書けない。何かが書けるとしたら、もっともっと劉霞を読んでからだ。



*


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谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(下)68


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(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料450円)
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(3)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料250円)
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詩集 毒薬
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愛媛県文書(その2)

2018-04-12 07:15:52 | 自民党憲法改正草案を読む
愛媛県文書(その2)
             自民党憲法改正草案を読む/番外206(情報の読み方)

 2018年04月11日の朝日新聞(西部版・14版)の加計学園獣医学部に関する愛媛県作成文書の「全文」を引用しながら、きのうは、その「類似性」について指摘した。誰かが「シナリオ(設計図)」を書いているのではないのか。その「設計図」に従って、藤原地方創世推進室次長と柳瀬首相秘書官が愛媛県側を「指導」している。そうとしか思えない。
 一方、二人の「指導」には微妙に違う部分がある。これはこれで、非常におもしろい。なぜ、違うんだろう。

藤原文書「獣医師会等と真っ向勝負にならないよう、既存の獣医学部と異なる特徴、例えば、公務員獣医師や産業獣医師の養成などのカリキュラムの工夫や、養殖魚病対応に加え、ペット獣医師を増やさないような卒後の見通しなどもしっかり書き込んでほしい」
柳瀬文書「獣医師会には、直接対決を避けるよう、既存の獣医大学との差別化を図った特徴を出すことや卒後の見通しなどを明らかにするとともに、(後略)」

 「獣医師会対策」として「真っ向勝負」「直接対決」を避ける。そのために「既存の獣医学部と異なる特徴」「既存の獣医大学との差別化を図った特徴」を出す。さらに「卒後の見通し」を明らかにする。
 二人が言っていることは「概略(ポイント)」が同じ。
 もし、私が愛媛県側のメモ作成者だったら、わざわざ「概略」を書き分けない。「真っ向勝負」と言ったのか「直接対決」と言ったのか。「異なる特徴」と言ったのか「差別化」と言ったのか。時間が経てば、きっと区別がつかなくなる。混同するし、どちらかに合わせてしまう。「脳」というのは、非常にずぼらだから、こんな些細なことは区別せずに「同じ」と判断し、処理してしまう。
 ところが、担当者は書き分けている。ここに大事なポイントがある。
(1)担当者は、面会するとき、それを録音していた。メモは録音を再生しながら作成した。
(2)担当者は、一人で面会のメモを作成したのではない。そのとき同席した人に「こう記憶しているが、この表現で間違いがないか」と確認している。
 どちらかである。
 今後にかかわる重要な文書である。「そんなことは言っていない」と藤原、柳瀬から言われると困るから、「証拠」として残したのである。単なるメモではない。
 これは、森友学園の「昭恵」と同じ。「特殊事情」(特記事項)なのだ。
 なぜ、そうしたのか、と担当者が追及されたとき「これこれの発言があったから」(これこれの名前があったから)と、特殊事情を説明するための「保険」なのである。
 だれだって、重要な話はメモを取る。時には「録音」を証拠として残す。
 いまは出てきていないが、きっと「録音」はある。

 加計学園の獣医学部新設については、安倍がとんでもない答弁をしている。
 読売新聞(2018年04月12日朝刊、西部版・14版、1面)によると、

 首相は、獣医学部新設を認めた行政手続きについて、「プロセスに関わった(国家戦略特区諮問会議の)民間委員からは『一点の曇りもない』との明確な発言があった。私から(不当な)指示を受けたという方は一人もいない」と正当性を強調した。

 「一点の曇りもない」とは、どういうことか。
 民間委員は、愛媛県側のこのメモの存在を知っていたか。その内容を知っていたか。情報を安倍が隠していたから、その情報について民間委員は判断できなかった。
 不都合な情報を公開せず、都合のいい情報だけを提示して議論を進める。これは安倍のもっとも「得意」とする沈黙作戦の手法である。反論させる材料を封印する。
 また、民間委員は安倍から指示を受けていなくても、民間委員が審議した資料(文書)が安倍の指示に従ってつくられているということはないのか。これが問題なのだ。

 それにしても。
 加計学園獣医学部は新設が認可されまで、何度も注文を出されている。カリキュラムなどを何度も修正し、やっと「認可」にこぎ着けている。
 これは愛媛県側の文書(柳瀬文書)の、

加計学園から、先日安倍総理と同学園理事長が会食した際に、下村文科大臣が加計学園は課題への回答もなくけしからんといっているとの発言があり、その対策について意見を求めたところ、今後、策定する国家戦略特区への取組状況を整理して、文科省に説明するのがよいとの助言があった。

 を連想させる。
 加計学園は認可に必要な「書類」をきちんと準備することができない学園なのである。何度も指摘されて、やっと「書類」を整えている。
 これは平成27年4月当時から、かわらない。
 この「体質」を愛媛県側は熟知していたのではないのか。県がいくら頑張ってみても、加計学園側に「手抜き(不備)」があれば、「国家戦略特区」の指定はむずかしい。もし指定されなかったとき、どうするか。県側ではなく、加計学園に問題があるからだという「証拠」になるから、こういう文書を残したのだ。
 「保身」の文書である。役人は「保身」が第一。「私の責任ではない」というために、「正確な文書」を残すものである。
 こんなに丁寧な指導を受けながら、なぜ加計学園獣医学部は認可までに何度も審議が必要だったのか。加計学園が「提出書類」の作成で手抜きをしたからだ。なぜ手抜きをしたかといえば、「安倍案件」だから絶対に認可されるという確信があり、ずぼらになったのだ。少しでも不安があれば事前に担当の役所に出向いて「事前審査」のようなものを受ける。レクチャーを受けて、書類を提出するはずだ。
 大学(会社)の受験だって、書類が完全かどうか、何度もチェックもすれば、「これでいいですか?」と問い合わせたりする。ずさんなのは、「安倍が何とかしてくれる」と信じきっているからである。「安倍決定案件」だったからである。



#安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位 
 


*

「天皇の悲鳴」(1500円、送料込み)はオンデマンド出版です。
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松井久子監督「不思議なクニの憲法」上映会。
2018年5月20日(日曜日)13時。
福岡市立中央市民センター
「不思議なクニの憲法2018」を見る会
入場料1000円(当日券なし)
問い合わせは
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詩人が読み解く自民党憲法案の大事なポイント 日本国憲法/自民党憲法改正案 全文掲載
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ジャウム・コレット=セラ監督「トレイン・ミッション」(★★★)

2018-04-11 19:21:13 | 映画
ジャウム・コレット=セラ監督「トレイン・ミッション」(★★★)

監督 ジャウム・コレット=セラ 出演 リーアム・ニーソン

 走る列車だけが舞台、というのはいろいろある。この映画の成功は、その列車を「通勤列車」にしたこと。いわゆる「ハイテク」とは無縁。「人間」が動かしている。それでも最後は「暴走」するんだけれどね。
 で、それに加えて、主演がリーアム・ニーソン。「アクションスター」かもしれないけれど、もうお年寄り。スピーディーなアクションはできない。狭い列車のなかに限られているから、まあ、許せる。
 さらに、リーアム・ニーソンが「大柄」なのがいい。トム・クルーズみたいに体が小さいと、いくら狭いとはいっても速く動かないとアクションが持たない。体が大きい場合、まわりが狭いと「視覚的」に速く見える。これが、なかなかいい。
 映画ならではの「小細工」(小道具)がきいているのもいいなあ。
 トイレに隠された25万ドル。通風向の「風」の変化から、そこが隠し場所だと気がつく。風が出ていることを知らせる「吹き流し」がほんとうにつかわれているかどうかわからないけれど、まあ、いい。
 チェックずみ乗車券を座席の背もたれにさしておく。乗車券にパンチされた穴を見ながら人探しをするというのも、うーん、アップが可能な映画ならでは、だね。
 基本的には、配電盤を壊して冷房を止め、乗客を一つの号車にあつめたり、床下に隠れたり(隠したり)、連結を手動で外したりと、どこかで見たことがあるぞ、というシーンばかりなのだけれど、それもなんとなく「人間臭い」感じがしていい。
 クライマックスの「犯人探し」。目撃者は実は目撃していなくて、「音」を聞いただけ。でもその「音(ことば)」が手がかりになって急展開するところは、映画というより「芝居」なんだけれど、ここはここで「芝居」の鉄則を踏まえている。
 「プリンは誰だ」という質問に、乗客が次々に「私だ」と名乗りを上げる。これもまあ、「定型」なんだけれど、ここから乗客がリーアム・ニーソンの「味方」になり、観客を「味方」にしてしまう。なんというか、単にリーアム・ニーソンの「活躍」を見ているだけではなく、「事件」そのものに映画をみている観客もまきこまれていく。(芝居だと、こういう効果はとってもきいてくる。)
 「新しい」映画ではないけれど、映画としてとても落ち着いている。久々に「落ち着いた」映画を見た、という感じになる。
 リーアム・ニーソンの、ゆったりした声もなかなかいいなあ、と思った。
(2018年04月11日、ユナイテッドシネマキャナルシティ、スクリーン11)


 *

「映画館に行こう」にご参加下さい。
映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
https://www.facebook.com/groups/1512173462358822/

アンノウン [Blu-ray]
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設計図を書いたのは誰?

2018-04-11 18:27:40 | 自民党憲法改正草案を読む
設計図を書いたのは誰?
             自民党憲法改正草案を読む/番外205(情報の読み方)

 2018年04月11日の朝日新聞(西部版・14版)に加計学園獣医学部に関する愛媛県作成文書の「全文」が掲載されている。「首相案件」と発言したとされる柳瀬は愛媛県の関係者に会ったという「記憶はない」と言っているのだが、公開された文書を読むと「会った、会っていない」以上におもしろいことが書かれている。
 文書によると、愛媛県側は2人に会っている。
 藤原地方創世推進室次長と柳瀬首相秘書官。
 藤原とは平成27年04月13日の11時30分に、場所は内閣府で会っている。
 柳瀬には平成27年04月13日の15時00分に、総理府官邸で。
(疑問1)
 柳瀬は会っていないと言っているが、藤原はどうなのか。藤原は、どう言っているのかわからないが、藤原が「会っている」と記憶しているなら、柳瀬の「記憶間違い」が明確になるだろう。
 一方に会ったことは正確で、もう一方は間違いということは、考えにくい。愛媛県の文書は04月13日に作成されている。日にちはそんなにたっていない。間違えるはずがない。
 内容で特におもしろいと思ったのは
藤原文書「要請の内容は総理官邸から聞いており」
柳瀬文書「本件は、首相案件となっており」
 と素人目には「共通点」としか見えない表現があること。
(疑問2)
 「要請の内容は総理官邸から聞いており」と「首相案件となっており」は、どう違うのか。どういうときに「総理府官邸から聞いており」というのか。「首相案件」とは具体的にはどういうときにつかうのか。どちらも、私には「総理府=総理が認識している(問題にしている)」としか理解できない。
 さらに次の部分の類似性も非常に興味深い。
藤原文書「獣医師会等と真っ向勝負にならないよう、既存の獣医学部と異なる特徴、例えば、公務員獣医師や産業獣医師の養成などのカリキュラムの工夫や、養殖魚病対応に加え、ペット獣医師を増やさないような卒後の見通しなどもしっかり書き込んでほしい」
柳瀬文書「獣医師会には、直接対決を避けるよう、既存の獣医大学との差別化を図った特徴を出すことや卒後の見通しなどを明らかにするとともに、(後略)」
 「獣医師会対策」として「真っ向勝負」「直接対決」を避ける。そのために「既存の獣医学部と異なる特徴」「既存の獣医大学との差別化を図った特徴」を出す。さらに「卒後の見通し」を明らかにする。
 これって、同じことではない?
(疑問3)
 愛媛県側に語った内容が「酷似」しているということは、藤原と柳瀬が打ち合わせをしたのか。一人だけが語ったのでは、「伝達漏れ」があるかもしれないと考えて事前に相談したのか。
 あるいは、誰が対応しても、こういう具合に答えることが、すでに「定型化」しているのか。
 それとも、「要請内容」を把握している「総理府=首相」が、問題をスムーズに処理するために、「回答文書」をあらかじめ用意し、それを藤原と柳瀬に伝えたのか。
 私の考えでは、誰かが「回答文書」をあらかじめ作成し、それを伝達するために愛媛県側と会ったとしか思えない。

 で、この「疑問点3」から、「首相案件」であることが鮮明になると思う。「獣医師会」をどう納得させるかは、獣医学部新設の大きな「問題点」だった。そのことを改めて念押ししている。「問題点」をはっきり「共有」している。
 「設計図」を書いているひとが、いるのだ。
 柳瀬がほんとうに「記憶していない」のだとしたら、その「誰か」の指示に従って、「誰か」の書いた「文書(内容)」を伝達しただけだからということも考えられる。自分で考えたことなら、これだけ具体的に「文書化」されていれば、絶対に思い出す。「記憶にない」ではなく、「私はこういうことばづかいをしない」と言える。


#安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位 
 


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憲法9条改正、これでいいのか 詩人が解明ー言葉の奥の危ない思想ー (これでいいのかシリーズ)
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