詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

和辻哲郎「桂離宮」

2019-01-14 23:00:46 | その他(音楽、小説etc)
和辻哲郎「桂離宮」(和辻哲郎全集 第二巻)(岩波書店、1989年06月09日第三刷発行)

 私は桂離宮を実際には見たことがない。和辻哲郎の書いている「印象」が正しいものかどうか判断するものを持っていない。
 私は、次のような部分に親近感を覚える。桂離宮の場所について触れた導入部。

西から京都盆地へ入ってくる場合に、山崎を超えたあたりで急に景色の調子が変わってくるという経験には、もっといろいろな契機が含まれていると思う。その中では、京都盆地の山々が示している緑の色調などが、最も有力に働いているかも知れない。(208ページ)

 和辻は山の緑が土地によって違うことを知っている。この感覚は、私にはとてもうれしい。映画「腑抜けども、悲しみの愛を見せろ」(吉田大八監督)を見たときのことである。山の緑が映し出される。その緑が、とてもなつかしく見えた。見たことがある、と感じた。石川県が舞台だった。私のふるさとに近い。その緑だったのだ。
 和辻は緑の理由を京都盆地の湿気の具合と結びつけて説明している。この説明が、「肉体」にすっとしみ込んでくる。
 緑について書いたあとで、こう書いている。

京都盆地の西南の隅に立って東側の山並みをながめるということは、京都盆地の最も優れた美しさを賞賛すると言うことにもなるのである。(209ページ)

 うつくしい緑の変化を見ている気持ちになる。
 和辻は自分の「感覚」を正直に書く。それから、その「感覚」が受け止めたものを、知っているものをとおして分析し、語り直す。このことばの動きが、私はとても好きだ。
 そして、その分析にふつうに日本語を話していればつかうことばがつかわれ、それが哲学に変わって瞬間がある。

自然のむだを適当に切り捨てれば、自然は美しく輝き出してくる。そういう否定の仕事は、自然から出るのではなく、精神の働きによってのみ可能である。芸術的形成としての庭園は、素材としての自然にこの精神の否定的な働きの加わったものにほかならない。(259ページ)

 「精神」も「否定」も、誰もが知っていることばである。けれど「精神の否定的な働き」とつないで、自然と向き合わせる。そして、そこから「自然は美しく輝き出してくる」と言う。この、ことばの奥へグイッと入っていて、根底から突き動かすような運動が魅力的だ。
 和辻に対して言うことではないかもしれないが、「自分のことば」で哲学している。これが、とても魅力的だ。はやりの外国の誰かの「用語」をつかっているわけではない。
 いちばん感動的なのは、次の部分。

これらの形がシンメトリーになることは非常に注意深く避けているようである。しかしそのためにここに使われている直線はかえって生きた感じを持つようになっている。(321ページ)

 「生きた感じ」にどきりとする。
 和辻の文体の魅力は「生きた感じ(生きている感じ)」にある。「緑」について触れた部分では、和辻の肉眼がそのまま生きている。「精神の否定的な働き」では知性(頭)が生きて動いている。しかも、その頭は奇妙な言い方になるが「肉眼」ならぬ「肉頭」という感じ。「肉体」そのものの感じがする。
 和辻を読むと「生きている人間」を感じる。








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池澤夏樹のカヴァフィス(26)

2019-01-14 10:56:33 | 池澤夏樹「カヴァフィス全詩」
26 ことの決着

 ことがうまくいかない、という場合に対してなぜカヴァフィスはこれほどの関心を示したのか。(略、父の失敗を)聡明な子供はそれをじっと見ていて、長じてからの地味で平穏な生活の中でそれについて思索を重ねたのかもしれない。

 これは注というよりも池澤の感想だろう。
 私が興味を持ったのは、次の部分の対比だ。

いや違う、まちがいだ、危険など路上にない。
つまりは誤報だったのだ、
(あるいは聞きおとしか、勘違いか)。
その時、思いもかけなかった別な災厄が
いきなり、猛然と、目の前に降って湧く。
なんの用意もなく--その暇はもうない--我々は足をすくわれる。

 最後の行の「その暇はもうない」がとても印象的だ。
 その直前は、「いや違う、まちがいだ、」と考えている。「あるいは」ということばを使いながら「聞きおとしか、勘違いか」と言いなおしている。そういう「時間」はある。最後の部分は、いろいろ思う「時間(暇)」はない。「時間」を「暇」と言いなおしていることになるのだが、これは逆に、先の言い直しが「暇」だから、そういうことができたということを意味する。
 一方で、「暇はない」と言いながら、「暇はない」という時間はあったのか。というのは意地悪な揚げ足取りで、この奇妙な矛盾のなかに、詩がある。「その暇はもうない」という回り道をすることで「なんの用意もなく」が強調される。「その暇はもうない」がなくても「意味」は通じるが、「なんの用意もなく」ということばは見落とされてしまうかもしれない。「足をすくわれる」という肉体的事実(比喩だが……)だけが記録され、「心理」が軽視される。カヴァフィスの書きたいのは、心理、こころの動きなのだ。心理こそが「真理」ということだろう。

 心理とか、真理とかは、その瞬間にもあるが、時間が経ってからゆっくり「客観化」すると、よりはっきりわかる。カヴァフィスが「過去(歴史)」を題材にするのは、こころの動きを「事実」(客観化したもの)として見つめなおしたいからなのか。
 この詩も「危険」「災厄」を「恋」と読み替えるとおもしろいと思う。あの街(路地)へ行けば恋人が見つかる。そういう噂だったが、見つからなかった。あきらめたとき、突然「運命」があらわれる。恋に落ちてしまう。こころをつかまれてしまう。そのときのこころの動きと思って、読んでみたい。





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パブロ・ソラルス監督「家へ帰ろう」(★★★★)

2019-01-13 20:55:54 | 映画
パブロ・ソラルス監督「家へ帰ろう」(★★★★)

監督 パブロ・ソラルス 出演 ミゲル・アンヘル・ソラ

 ナチスのユダヤ人虐殺を生き延び、アルゼンチンで暮らしていた老人がポーランドに帰るロードムービー。
 終盤に、非常に素晴らしいシーンがある。
 主人公が命の恩人を訪ねて、かつて住んでいた家へ向かう。その裏通りというか、路地の風景のとらえ方がすばらしい。同じ路地のシーンは、前半にも出てくる。そのときは、主人公は命からがらドイツ兵から逃れてきたときのもの。ふらつく足で家にたどりつく。最後のシーンは車椅子に乗って、若い女性にともなわれて路地に入り込むのだが、見た瞬間に、なつかしくなる。あ、この道を覚えている、という感じが蘇る。それは私の知っている「ふるさと」ではない。でも、ふるさとの道や家並みを思い出すときのように、記憶がざわつく。時代が過ぎているから、もうかつてと同じではない。路地の舗装も、家々の様子も(たとえばドアや窓も)違っている。違っているけれど、その違いの奥から知っているものが蘇ってくる。その感じが生々しい。
 この生々しさが、地下室へ通じる階段へつながり、窓越しに級友との対面になるのだが、これはもう「予定調和」のようなもので、見ていて感情がざわつくという感じではないのだが。
 どうしてなのかなあ。
 その直前の、表通りのシーンでも、私は奇妙な感じに襲われた。すっかり新しくなっている表通りは、主人公の知っている通りではない。スクリーンに映し出されるのも初めてである。だから私も、その街を知らない。その知らない街がスクリーンに映し出された瞬間、私は自分の肉体がふわーっと浮くような感じがした。それまでの風景描写とは違う。一種の「違和感」が肉体そのものをつつむ。
 それまで主人公が、自分の足で歩いていたのに、ここでは車椅子に乗っているということが影響しているのだと思う。はっきりとはわからないが、カメラの位置がいままでよりも低くなっているのかもしれない。そのため風景をなんとなく見上げる感じになる。視線が上を向く。足元を見ない。足元が視野に入ってこない。視線に誘われて、肉体が浮く、という感じになる。
 この感じをひきずって、路地に入っていく。まるで、足が地につかないまま、記憶、あるいは夢のなかへ引きずり込まれる感じだ。
 で。
 映画を思い返すと、この「不安定な足」の感覚というのは、最初から意図されていたものだとわかる。
 主人公は右足が悪い。いのちを護るためには切断も考えないといけないくらいである。その主人公はアルゼンチンからスペイン(マドリッド)へ、マドリッドからパリへ、さらに列車でポーランドへ向かうのだが、ドイツの土地は踏みたくない。でも、列車乗り換えのときはプラットホームに降りなければならない、足でドイツに触れなければならない、という「難題」が控えている。そういうエピソードを含んで、足という、肉体を刺戟し続けている。それが無意識に私の肉体にしみ込んで、最後の街のシーンがとても生々しく感じられるのだ。
 さらに言えば。
 主人公が最初に巻き込まれるトラブルが、二階の窓が開いているという見上げるシーンで象徴され、最後のクライマックスの入り口が地下室に通じる階段を見下ろすシーンというのも、なかなかおもしろい。途中、マドリッドにいる娘、はじめてみる孫娘とのシーンに階段がつかわれているのもおもしろい。主人公の足の感じを、常に観客に意識させる。ロードムービーなのに、足が悪い老人が主人公であり、そのことが映像の揺れに奇妙な「実感」を与え続けている。
(2019年01月13日、KBCシネマ2)
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池澤夏樹のカヴァフィス(25) 

2019-01-13 09:54:06 | 池澤夏樹「カヴァフィス全詩」
25 三月十五日

 池澤は書く。

 現題は「三月のイデス」で、イデスは一か月のまんなか。三月の場合には十五日をさす。
 主題は無論カエサルの暗殺である。(略)ある予言者は「三月のイデスに用心せよ」と言ったが、その日カエサルは警告を無視して元老院におもむいた。(略)暗殺計画を知ったアルテミドーロスなる哲学教師がその詳細を書いた手紙を登院する途中のカエサルに手渡したが、彼はそれを読まずに、手にしたまま元老院に行って殺された。

 このことを踏まえて、カヴァフィスは書いている。

仕事もすべて後まわしにせよ。ほかの者も
挨拶も会釈もみな無視するがいい、
(彼らにはまたあとで会える)。元老院さえ
待たせるに支障はない。ただちに読むがいい、
アルテミドーロスの重大な知らせを。

 池澤の注を読み、印象に残るのは何だろうか。暗殺計画を教えてくれる者があったのにカエサルは無視した。そのために死んだ、という「事実」を書いているという印象が強くなる。
 その通りなんだろうけれど。
 私がいちばんおもしろいと思ったのは、でも、そういう「事実(歴史)」と舞台裏ではない。もう一歩、踏み込んだところ。

(彼らにはまたあとで会える)

 これは誰のことばだろうか。アルテミドーロス? それとも、「事実」を知ったカヴァフィスのことば? カヴァフィスだろうなあ。だとしたら、この括弧に入ったことばは何を意味しているのだろうか。なぜ、わざわざ括弧に入れて書いたのかなあ。
 たぶん、カヴァフィスは自分自身に言い聞かせているのだ。誰かに会いたくても、もし、忠告する人がいるならその忠告に従い、会うのは後回しにしろ。忠告は「いま」しか存在しない。「彼らにはまた会える」。
 でも、カエサルはどう思ったか。「彼らにはまた会える」かもしれない。けれど「いま会いたい」。
 ここにも「禁じられた恋」が隠されている、と読んでみたい。




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池澤夏樹のカヴァフィス(24)

2019-01-12 09:15:13 | 池澤夏樹「カヴァフィス全詩」
24 サトラップ領

 サトラップは古代ペルシャの行政官名で、相当な権限をもって地方のサトラップ領を支配するなかば自治的な職。

 池澤の注を読んでも、私には何もわからない。池澤が書いていることを、こうやってコピーすることはできるが、コピーでは「読んだ」ことにはならない。「聞いた」ことにはならない。池澤のことばからは、私は何も聞き取ることができない。

のぞみもしなかったそんなものを、
おまえは絶望から受け入れた。

 この二行は、「絶望」が原因で、サトラップ領を受け入れたことが「結果」のように書かれているが、どういうときでも「原因」と「結果」は結びついているだけで、そこには時間的な前後というものはない。つまり、サトラップ領を受け入れたから(原因)、絶望するしかなくなったのだ(結果)。
 だから詩はつづく。

だがおまえの魂は別なものを求めて泣いている。
別なもの、市会と賢者たちの讃辞を、
アゴラと劇場における得がたく、また
計りしれぬ価値をもつ評判を。

 「絶望」は「魂は別なものを求めて泣いている」と言いなおされている。「別なもの」は「得がたい」「計りしれぬ」とも言いなおされる。ことばを変えて言いなおさないことには気がおさまらない、たとえ言いなおしても気はおさまらない。だからこそ「泣く」のだが、くやしいことに、その「泣く」の主語は「肉体」ではなく「魂」である。つまり、ほんとうに「泣く」ということができない。つまり訴えることができない。これこそ絶望だ。




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池澤夏樹のカヴァフィス(23)

2019-01-11 10:34:41 | 池澤夏樹「カヴァフィス全詩」
23 町

おまえは言った、「別の土地へ行こう、別の海へ行こう。
これよりも良い町がきっとみつかるだろう。

 一連目を受けて二連目のことばは、こう動く。

新しい土地などおまえにはみつからない。別の海などみつからない。
この町はおまえについてまわるだろう。おまえは同じ道を、
ただうろつくばかり。そしてこの界隈で年老いて
同じこれらの家々の中で色褪せるばかり。

 「この町」は「同じ道」「この界隈」「同じこれらの家々」と言いなおされる。「同じ道」は「この同じ道」であり、「この界隈」は「この同じ界隈」、「同じこれらの家々」は「この同じ家」である。
 詩はことばの順序を入れ換え、「同じ」を省略したり付け加えたりすることでリズムに変化を与えているが「意味」は同じだ。
 カヴァフィスは自註で「都市は、幻想の都市は彼の後をつけ、追いこし、同じ道と同じ街区を用意して待ちぶせる。詩人にとってこの詩は普遍的な事実ではなく、一つの特例にすぎない。」と書いている。
 これに対し、池澤は、こう追加する。

自註にもかかわらずテーマはやはり普遍的である。

 池澤は、カヴァフィスが「特例」と呼んだものを「普遍的」と言いなおすのだが、このことにどんな意味があるのだろうか。
 あらゆることが「個別」であり、同時に「普遍」である。「個別」なものを読者が自分自身の「個別」として引き受ければ、それは「普遍」に変わる。「普遍」と言われるものでも読者が「個別」として引き受けなければ「個別」のままである。
 これをこの詩に当てはめて言えば、どの町、どの海へ行こうと、それを自分自身の町、自分自身の海として受け入れれば、それは「いつもの町、いつもの海」、「普遍」の町になってしまう。
 カヴァフィスの「生き方(思想/肉体)」が「いつもの町」を生み出すのだ。「いつもの町」があるのではなく、「いつもの肉体」があるのだ。人間は自分の「肉体」から逃れられない。そして受け入れてしまうカヴァフィスがいる。
 「おまえ」は、そうやって「私」になる。「この同じ私」に。




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池澤夏樹のカヴァフィス(22)

2019-01-10 10:14:15 | 池澤夏樹「カヴァフィス全詩」
22 あの男

エデッサ出身の一人の男--ここアンティオキアではよそもの--

 その「よそもの」が最終連で、こう変わる。

けれども、この困憊の内から急にある考えが
浮びあがる--素晴しい「あの男だ」という声、
かつてルキアノスが夢の中で聞いたその声が。

 池澤の注。

ルキアノスの「夢」という詩に由来する。彼が若い頃、夢の中で文芸の女神から「(略)人々はおまえを見て隣のものをうながし、おまえを指さして『あの男だ』と言うだろう」と言われて文筆で立つ決意をした。カヴァフィスの作品の中の無名詩人はこの逸話に励まされる。

 つまり、カヴァフィス自身を、その無名詩人に仮託しているというわけである。
 その通りだと思うが。
 私は、「よそもの」から「あの男」への、ことばの変化に詩を感じる。よそものは「あの」という特定の指示詞を持たない。「あの男」ということばが動くとき、そこには明確な意識がある。「知っている」を意味する。
 それだけではない。
 「すでに知っている」ではなく、「あの」と指示することで「知る」にしてしまうのだ。知らなくても「知っている」ものにする。
 それは逆に言えば「知られる」ことを「知っている」でもある。
 詩では、こういう「矛盾」のようなものが起きる。それが、とてもおもしろい。
 そして、この作品では「あの男」は「詩人」ということになっているが、それだけではないかもしれない。「よそもの」なのに「あの男」と呼ばれる。この主人公には「あの」ということばで指し示される「独特」のニュアンスがある。「あの男」と呼ばれた男は「あの男だ」という声を聞いた。それは「視線の声/まなざしの声」だったかもしれない。「あの男」と呼ばれたとき、主人公は「その男」を見たのだ。








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藤井貞和『非戦へ 物語平和論』、「無季」

2019-01-10 09:51:38 | 詩(雑誌・同人誌)
藤井貞和『非戦へ 物語平和論』(水平線、2018年11月09日発行)

 藤井貞和『非戦へ 物語平和論』の41ページに、こう書いてある。「戦争の要素」について書いたものである。

 私は虐殺と陵辱と掠奪とを三要素として認定する。おもしろいと言うとたいへん語弊があるけれども、〈虐・辱・掠〉と略してみると、これらは字としてどうも私には筆記しようとしてうまく書けない(書き順が分からなくて、ひっくり返して書いたり、リャク奪を書こうとして字が浮かばず、略字の「略奪」と書いたりする)。発音しようとしても、〈ギャク・ジョク・リャク〉と、どうしても一度では言えないむずかし音声が並ぶ。それにはきっと理由があるはずで、戦争がそのむずかしさの深層にこそ潜む、ということではなかろうか(ギャグだと思ってくれてよい)。

 藤井は「ギャグ」だと思ってよいと書いているが、私はそうは思わない。
 戦争の「三要素」が藤井の定義どおりかどうかはわからないが、ここには「ギャグ」ではなく「ほんとう」が書かれていると思う。
 〈ギャク・ジョク・リャク〉が言えない。〈虐・辱・掠〉が書けない。これは、その音、その文字が藤井の「肉体」とは相いれないということだ。つまり、藤井の「肉体」は、そのことゆえに「戦争」には加担しないということを意味する。「肉体」は「戦争」にゆけない。ゆこうとすると「肉体」が抵抗する。
 言えない音がある、書けない文字がある、というのは大切なことである。「肉体」が無意識の内に、何かを判断する。その無意識は、意識できないくらいに「肉体」にしみついている。私は、そういうものを信じる。

 逆のこともあると思う。つまり、好みの「音」がある。好みの「漢字(文字)」がある。それを自然につかってしまう。ほかにもことばがあるはずなのに、「音」や「字面」で選んでしまうということがある。
 そういう「音」「漢字/文字」を読むとき、私は「意味」を重視しない。
 こう書くと申し訳ないが、作者の書こうとしている「意味」は、私は大切だとは思わない。「意味」は自分にとっての「意味」だけで手一杯。作者が何を言いたいかなんて、気にしない。私には「聞いた声/読んだ文字」が大切だ。
 「現代詩手帖」12月号のアンソロジーには、藤井の「無季」(初出、「望星」10月号)という作品が載っている。

子規と虚子のあいだ、
ふたつのはしらに挟まれ、
無季はかなしいね。

季節が生まれる、
ぼくらの句集の若草に、
掛けぶとんを掛ける。
お寝み、春は終わるよ。
すや すや あかちゃん。
月の光も はつかねずみも眠る。
夏草の 跳ねぶとん、
よぞらのベッドのうえで、
跳ねる子ジカの一句。
それでも眠る 枯れ草の敷きぶとん、秋。
野のかぎあなあけて、
まだまだ足りない眠りです、お寝み。

 「ぼくらの句集の若草に、」からあとがとても楽しい。「若草」「夏草」「枯れ草」が出てくるから「無季」ということにはならないのかもしれないけれど、「音」が明快だから、そういう「意味/論理」はどうでもいい感じで読んでしまう。
 何を書いてあるのか、「意味」なんて、考えない。
 とは言いながら。

掛けぶとんを掛ける。
お寝み、春は終わるよ。

 そうか、一日が終わったら寝るように、春が終わったら「若草」も寝るのか、なんて思ったりする。「若草」は次の行で「あかちゃん」と言い換えられているのかもしれないなあ。ちゃんとした(?)比喩なのか、単なる思いつきなのか、まあ、どうでもいい。「すや すや あかちゃん」も音が美しい。「すや すや あかちゃん」というのは「常套句」というか、誰もが口にすることば(音)だけれど、というか、何度も聞いてきたことがある音(ことば)だから、そのまま丸ごと私の「肉体」のなかへ入ってきて、勝手に眠っている赤ちゃんになってしまう。私の思い出している赤ちゃんは、藤井が書いている赤ちゃんとは無関係なのだけれど、そういうことを忘れてしまう。
 そういう藤井の書いていることを無視して、私の「肉体」は、私の知っているものを勝手に抱きしめる。藤井が「そのあかちゃんじゃない」と否定しても気にしない。藤井の言いたい「意味」なんか気にしない。私は私の「聞きたい」ことを聞く。私は私の「意味」を生きる。
 私は、そういうことが好きなのだ。というか、そういうことしかできない。

 と、書いて、ここから飛躍する。
 「非戦へ」という藤井の願い。その願いを実現するために、私たちは何をすべきか。
 私たちは、もっと自分が「聞いた」ことを大切にすべきなのだと思う。私たちが「聞いた」ことは、たとえば安倍が「言っている」こととは違う。安倍は「ていねいに説明する」(説明した)と言っているが、私にはぜんぜんそんなふうには「聞こえない」。安倍の言っていることは全部嘘に「聞こえる」。
 私が「聞いた」ことを、安倍は「間違っている」と言うだろう。
 だとしたら、どうなのだ。
 誰にだって「言いたいこと/正しい意味」はあるだろう。ひとは「正しいと思っている意味」しか言えない。
 でも、その「意味」は私の信じている「意味」とは違う。私の肉体は私の「意味」を生きているのであって、安倍の「意味」を生きているわけではない。だから「嘘つき」と思う。安倍の言っていることは嘘に「聞こえる」。
 安倍の言っていることは「ひとつ」かもしれない。でも、それをどう「聞く」か。「聞こえ方」は、聞いた人それぞれによって、違う。百人が聞けば、聞こえ方は百通りあるはずだ。「違って聞こえる」ということを、ひとりひとりが声にする。
 それが大切なのだ。
 ひとりひとりが、全部、違うことを言う。
 ひとりひとりが、全部、違うことを言うとき、戦争は起こり得ない。起こせない。戦争は「一致団結」しないと、戦えない。「それはいや、あれは嫌い」とみんなが言えば、どんな独裁者も「軍隊」を指揮できない。

 だから、とまた飛躍する。
 私は人が何というかは気にしない。私は「こう聞いた/こう読んだ」と、ことばにしつづける。作者が言いたい「意味」なんて、知ったことじゃない。







*

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暁方ミセイ「早春譜」、最果タヒ「通行人の森」

2019-01-09 09:54:33 | 詩(雑誌・同人誌)
暁方ミセイ「早春譜」、最果タヒ「通行人の森」(「現代詩手帖」2019年01月号)

 暁方ミセイ「早春譜」のことばは「音」が聞こえる。その音は宮沢賢治の音に似ている。何度も何度も同じことを書いて、ちょっと申し訳ない気がするが。でも、この宮沢賢治の音が聞こえるというのは、悪いことではない。誰だって、誰かの音を聞いて、そこからことばを覚える。もちろん最初から「自分の音」を響かせる詩人もいるかもしれないが、めったにいないと思う。
 音ではないが、色についてなら、セザンヌはたしか、こういうことを言っている。塗り残しの部分について聞かれたときだ。「ルーブルで色が見つかったら、それを塗る」。ひとはたぶん、すでに存在するものしか理解できない。
 で、暁方ミセイ「早春譜」。

ここは本当は無色の見えもしない聞こえもしない世界で
そのなかにぽっつり目を閉じ耳を塞ぎ
立っているだけで
(瞼の裏を見て自分の血液の音を聞いて)
誰ひとり見知らぬところなのだけど
みんな限られたわたしの範囲を
泳ぎまわって
結局最後は春の証拠を探す

 「見えもしない」「聞こえもしない」を「目を閉じ」「耳を塞ぎ」と言いなおす。それで終わらずに、「瞼の裏を見て」「自分の血液の音を聞いて」と世界を内側から逆転する。このダイナミックな運動の後、

みんな限られたわたしの範囲を

 この一行の「限られた」という音の強さ。ここに私は宮沢賢治を聞く。相対立するもの、矛盾したものが矛盾したまま、ごつごつと流動していくイメージも宮沢賢治だが、それが「限られた」というような非常に強い音になって、遠いところ(深いところ?)から響いてきて、世界を統一する。
 ここがいいなあ。
 このあと、強い響きから、音がさらに飛躍していく。連が変わって、書き出しが二字下げになっている。(引用は、頭を下げずに引用する。)

春にして
凍て椿とぼた雪は靴底で混ざり
誰かの古いこころ
この空気のなかにとざされているんだな
細かく反射して光るのに
溶けないんだな
こればかりは
夢がきみどりいろの浅瀬で
潜ってしまうからしかたないんだな

 「凍て椿とぼた雪は靴底で混ざり」が特徴的だが、「濁音」が美しい。豊かだ。濁音は汚い、清音が美しいと言う人が多いけれど、私は濁音はつややかで豊かだと感じる。豊かさに美を感じる。声帯の振動が肉体全体に広がり、共鳴する楽しさがある。清音にはこの声帯と肉体の喜びがない。
 「細かく反射して光るのに」の行には濁音がない。それで、この行が浮いて感じられる。力強さがない。それが残念だ。
 「こればかりは」という、どうでもいいようなというと変だけれど、イメージをともなわない行にも濁音があって、とても強い感じがする。「夢がきみどりいろの浅瀬で」というのは、私には絶対に思いつかない音楽だけれど(もしかしたら「汚い」音だけれど)、ぐいっと引きつけられる。「聞こえる」感じがとても強い。
 で、ここまで来ると宮沢賢治を忘れてしまう。宮沢賢治って、こういう音楽だっけ? 違うなあ。どうして宮沢賢治を思い出すのだろう、という具合に印象が変わってしまう。あ、私個人の印象のことであって、他の読者はどう感じるかわからないが。
 三連目、

そうだ
シャツの間からさわやかな針葉樹林の香りがする
熱され燃え落ちる雪の針の香りがする

 「針葉樹林」か、いい音だなあ。音楽だな、と私はうっとりしてしまう。「針葉樹林」や「雪の針」は宮沢賢治のイメージかもしれないが、音楽は完全に暁方のものになっている。



 最果タヒ「通行人の森」。

なんどだって死んでいるのに気づかないで、破裂していく感情が
また、ぼくを引き裂いて、この街にきれいな木漏れ日をひろげる、
優しく抱きしめると汗があふれて、それでも離れられなくて熱中
症になる二人、だからお別れしたくなる、そのとき、すずしい風
が二人の肌の隙間にながれて、かれらは泣きそうになった、あん
なにも、これだけは確かなものと信じようと語り合ったのに、今
では手放そうとしています、

 最果のことばにも濁音はある。けれど暁方の詩とは逆に、私は清音ばかり聞き取ってしまう。特に、「きれいな」「泣きそうになった」が耳に深く響いてきた。泣くことのきれいさを知っている詩人なのだろう。「引き裂いて」「離れられなくて」の呼応も清音で構成され、「隙間」を透明な感じで誘い出す。
 うーん、きれいだ。







*

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池澤夏樹のカヴァフィス(21)

2019-01-09 09:38:49 | 池澤夏樹「カヴァフィス全詩」
21 足音

黒檀で造られ、珊瑚の鷹で
飾られた寝台で、ネロはぐっすりと
眠っている--何も知らず、静かに、幸福に。
その強健な肉体は若さの極み、
勢力に満ちあふれている。

 この一連目のことばの勢いと二連目のことば弱さの対比がおもしろい。

なぜなら彼らの耳におそろしい物音が、
階段を登ってくるすさまじい音が、
階段をふるわす鉄の足音が聞こえてくるから。
そのためあわれな神々は気も遠くなりかけ、
祭壇の奥へと必死で身を隠し、
たがいに押しあいへしあいしている。

 「なぜなら」「そのため」という「論理」のことばが全体を支配している。「神々」ということばが出てくるが、ここに描かれているのは神が命じた運命ではなく、人間が「納得」しようとした「倫理」が描かれている。「倫理」はことばの運動によってつくりだされる「社会の行動様式」のことである。
 詩の最終行、

あれは復讐神たちの足音だ。

 「復讐神」について池澤は、

エリニュエス。肉親を殺した罪(略)を追及する、ギリシャ神話の中で最も正義派の、執拗な、恐しい女神たち。(略)彼女たちがネロのもとへ来たのはネロが母アグリッピナを殺したからである。

 と書いている。神話は神がいるから生まれたのではなく、人間がつくりだしたひとつの「行動規範」、つまり「倫理」だろう。「肉親を殺した罪を追及する」というのは、人間の意識だろうなあ、と思う。
 詩の力点は後半にあるのだと思うが、私がいいなあと感じるのは、ネロを描写した前半だ。人間をもてあそぶ神の欲望がむき出しになっている。「倫理」がない。



カヴァフィス全詩
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三角みづ紀「一端を担うものたち」

2019-01-08 10:51:27 | 詩(雑誌・同人誌)
三角みづ紀「一端を担うものたち」(「現代詩手帖」2019年01月号)

 三角みづ紀「一端を担うものたち」を読んだ。私は苦手である。

おおきな木製の食卓に集う
やがて婚姻を約束した
誰かと誰かが祝福されている

そのおおきな食卓が
かつて巨大な一本の樹であったことを
感知した赤子が泣きはじめる

 宇宙感覚というのか、時間感覚というのか、どう呼んでいいのかわからないのだが。三角はたしかに「いま」を超えて何かをつかみとっている。大きな食卓と大きな一本の木を結びつけ、そこに「いま」ではない「永遠」をつかみとる。
 でも、それを自分が「感知」したこととしてではなく、「赤子」に託してしまう。「赤子」は「無垢」の象徴なのかもしれないが、「赤子」を登場させることで、「大きな樹」が生まれてから大きな樹になるまでの「時間」を暗示させてしまう。「枠/論理」が出来上がってしまう。「世界」が論理によって広がる。「真理」になる。
 そういう「世界観(思想)」を三角が生きている。それがおのずと出ている、といえばそうなんだけれど。
 なんとなく「安定している」と感じる。「思想」が。
 そこが、私にとっては「苦手」。このまま三角について行っていいのかどうか、ためらう。その先にある感動の予感。それを受け入れてしまったら、私は存在するのか、という疑問が頭をかすめる。

年輪をかぞえて。
いつまでも立ち続けた樹
草原に たったひとりで

その草原をつくりあげた無垢な地球は
いまもなお青く輝いている

化粧をほどこさない地球にて
やがて婚姻を約束した誰かと誰かが
化粧をほどこして祝福されている

宇宙はそれを
おしだまったまま眺めている

 「草原に たったひとりで」と擬人化される木。なぜ、草原なのかなあ。草原の方が「目立つ」からだね。
 これは先に引用した「赤子」もおなじ。その場に「赤子」はひとりしかいない。特別な存在。
 ここから「地球もひとつ」ということが暗示され、「宇宙」との対比で「孤独」というものが美しい形で浮かび上がるのだけれど。

 「苦手」なのは、そういう「美しさ」が私とは無縁のものだからかもしれない。

 一方、こういうことも思う。

宇宙はそれを
おしだまったまま眺めている

 というとき、その「眺めている」という動詞は誰のものなのだろうか。主語は「宇宙」だが、宇宙が「眺める」ということはありうるのか。宇宙が「眺めている」と、三角が「眺めている」のか。
 三角は「宇宙」になっているのか。
 こういうことは厳密に考えず、ここに「宇宙感覚」がある、「宇宙との一体感」があると感じ、読者の方も「宇宙」になってしまえばいいのかもしれないけれどね。
 たぶん「赤子」になって、「草原に立つ大きな樹」になった、「地球」になって、それから「宇宙」になる、という運動と一体化してしまえば、この詩はとても親密なものになるのだと思うけれど。

 なんとなく、これでは仏教の言う「法」を説かれているみたいだな、と感じる。
 それが「苦手」なのかも。
 「法=空」(法即是空/空即是法」を持ち出されては、あらゆる感想は書く意味がなくなる。
 もっと人間臭いというか、「欲望」が動く詩を読みたい。



(補記)

化粧をほどこさない地球にて
やがて婚姻を約束した誰かと誰かが
化粧をほどこして祝福されている

 の部分の「化粧をほどこす」を「批判」と読めば、違った世界が広がるかもしれないけれど。
 「地球にて」の「にて」に、私は、つまずいている。九州のひとはときどきこういう言い回しをするけれど、私には「外国語」に聞こえてしまう。私はもう五十年も九州で生活しているが、どうしてもなれることができない。
 私は何か、ここにある「固有のもの」を見落としているのかもしれない。その「音」が聞き取れないのかもしれない、とも思う。







*

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とりとめなく庭が
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池澤夏樹のカヴァフィス(20)

2019-01-08 09:40:43 | 池澤夏樹「カヴァフィス全詩」
20 単調

単調な一日の後に
寸分も変らぬ単調な日が続く。また

 と始まり、

月が過ぎ、別の月をもたらす。
やってくる歳月を見通すことはたやすい、
昨日の退屈が再び来るだけのこと。
そして明日はついに明日であることをやめる。

 最後の一行が強烈である。「明日であることをやめる」とは、どういうことか。「明日」は何になるのか。「昨日」になるのだ。そのとき「昨日の退屈」はほんとうに「退屈」だろうか。あるいは、ほんとうに「昨日」なのか。
 この詩には「昨日」「明日」ということばは書かれているが「今日」ということばは直接的には書かれていない。しかし「単調な一日」ということばであらわされている。
 そう考えると、「そして明日はついに明日であることをやめる。」は「そして明日はついに今日になる。」だろう。
 ずーっと「今日」なのだ。「今日」しかないのだ。時間は過ぎ去る。時間はやってくる。でも、それは「今日」でありつづける。

 この詩にはカヴァフィスの「自註」があるのだが、それについて池澤はこう書いている。

彼の自註というのは晩年になってから若いに友人語ったことの筆記であり、執筆のときからは三十年を経ている。

 なぜ、こういう注を池澤は付けたのか。わからないが、カヴァフィスにとっては、「三十年」という時間は意味がないと私は思っている。彼には「今日」しかない。詩にそう書いてあるのだから。「三十年」という時間を固定してしまうと、なんとも味気ない。
 私はむしろ、「明日」になったらつけたいと思い続けた「自註」ではないかと思う。明日は永遠にやって来ない、きょうがあるだけなのだ、と。
 どういう「自註」であったかは、あえて引用しないが。


カヴァフィス全詩
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野崎有以「Atlantic Crossing 」

2019-01-07 19:05:46 | 詩(雑誌・同人誌)
野崎有以「Atlantic Crossing 」(「現代詩手帖」2019年01月号)

 最近、私が耳が悪くなったのかもしれない。一回読んだだけでは、音がまったく聞き取れない。そういうことばが増えてきた。
 野崎有以「Atlantic Crossing 」。

旧国鉄Y手線U谷駅前S濃路 眠らない食堂で夜を懸命に越した日
「スタインウェイのピアノ…」そう言って泣いている傷だらけの女の子がいた
スタインウェイが何のことかわからなかったがどうやらピアノのメーカーらしかった

 と始まり、「女の子」の身の上話がつづく。最初は「スタインウェイのピアノ」という音だけが聞き取れた。そのあと「スタインウェイが何のことかわからなかったがどうやらピアノのメーカーらしかった」が聞き取れた。これは、私が「スタインウェイのピアノ」ということばのつながり、「ピアノならスタインウェイがいい」というようなことばを聞いたことがあるからだ。私は、どうも、聞いたことがあることばしか聞き取れないようなのだ。ひとりの声ではなく、何人かの声を通して聞いたもの、つまり何人ものひとが言ったことばなら聞き取れるが、そうではないものは聞き取れない。聞き取って、その音を自分でも言えるようになるには時間がかかる。
 この書き出しでは、「旧国鉄Y手線U谷駅前S濃路」がまず聞き取れない。これは単なる記号で音がないと判断するしかない。がまんするしかない。「眠らない食堂で夜を懸命に越した日」は外国語に聞こえる。聞きかじったことがある外国語みたいで、繰り返していると、なんとなく「音」になってくる。そのあと、状況が少しだけわかりかけるが、「音」と一致しない。「そう言って泣いている傷だらけの女の子がいた」は五回目くらいで「女の子」という音がわかり、「泣いている」が聞こえてきた。でも「傷だらけの」が邪魔して、全体がつかみきれない。
 どうしてなんだろう。
 しばらく考えた。そして、詩と思って読むから音が聞こえないのだ、とわかった。言い換えると、私が詩だと思っている音の動きとはまったく別の動きをしているのだ、野崎のことばは。「旧国鉄Y手線U谷駅前S濃路」を私は「記号」と呼んだが、すべてが「記号」なのだ。つまり、あらかじめ何らかの「意味」をもっていて、それを別な形であらわしている。音がことばになって、ことばが意味を生み出していくというよりも、まず「意味」がある。それを「記号(ことば)」に置き換えている。だから、野崎の詩を読むときは、音を聞くよりも先に、ことばが何を指しているのかを理解していないといけない。たぶん、野崎はすべてのことばの「意味」を理解した上で動かしている。
 これに、わたしはつまずく。
 詩だけではないが、私は、何か先に存在するものがあって、それには名前があって、それを声にするとことばになる、という具合には感じないのだ。音、ことばが先にあって、それを組み合わせてことばにすると、その瞬間、世界が生まれてくるという感じが強い。音(声)にする前は世界は存在しない。
 何度か聞いた音(声)は、私の周りに「世界」として定着しているというか、いつでもすぐにぱっとあらわれてくるものとしてある。だから「スタインウェイのピアノ」はすぐにわかった。スタインウェイのピアノが見えたわけではなく、そういうことばを言った複数の人の「肉体」が見え、それが世界となって私を受け入れてくれている感じがした。
 でも、野崎の書いているほかのことばは、なかなか「音」として聞こえてこない。
 我慢ができないのが、次の部分。

このステラの裏っかえしのセーターはポールがピアノで歌うレット・イット・ビーそのもののように思えるんだ。静かに受け入れられた気がする。

 これに英語のルビが打ってある。

And when the broken hearted people living the world agree There will be an answer Let it be
 
 私はどの音を聞けばいいのだろうか。これは「ノイズ」なのか、それとも「和音」なのか。「意味」だけしかないのではないか。それも私は「意味」を知っているということだけを告げるための、「意味のための意味」。「意味」だけしかないのに、それを「記号」にすることで、「意味」を隠している。まるで「意味隠し(意味探し)」が「文学/詩」であると言っているかのようだ。

 それに比べると、というのは変な話だが。
 先日感想を書いた帷子耀「私刑」は、全部「音」でできていた。繰り返し繰り返し押し寄せる音の洪水。音が「音楽」になって鳴り響く。「音」に酔ってしまう。何が書いてあるか(意味)なんて、どうでもいい。鳴り響く音が「音楽」として気持ちよければそれでいいじゃないか、と思ってしまう。
 気配りの帷子耀は、野崎の詩をどう読むか。ちょっと聞いてみたくなる。








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池澤夏樹のカヴァフィス(19)

2019-01-07 10:23:18 | 池澤夏樹「カヴァフィス全詩」
19 ディオニュソス群像

 工匠ダモン(池澤の注によれば架空の人物)がディオニュソス群像をつくっている。前半はその群像の描写。後半は、一転して人間臭いことばが動く。

彼の思いはいく度となく報酬のことにおよぶ、
シュラクサの王より三タラント、たいした額だ
彼の持つほかの資産と合わせれば
向後は贅をつくして暮らせる筈。
そして政界にも乗り出せよう--この喜び!--
議会にも入れようし、アゴラにも立てようもの。

 内容(意味)は人間臭いが、ことばのリズムは論理的すぎるかもしれない。仕事をしながら金のことを考えるのだから、もっと飛躍というかスピード感があってもいいような気がする。
 いちばん気になるのが「彼の持つ」ということば。ふいに「客観的」なものがまじる。「論理的」すぎる。ダモン自身の思いならば、ここは「自分の持っている」ということになるだろう。自分というものは、ふつうは自分を意識しない。つまり、省略されたままことばは動く。「自分の」も省略して、「持っているほかの資産」となるのが「思い」というものだろうと私は想像する。「筈」と自分自身で納得しているのだから、きっと「自分」ということばは動かない。
 「たいした額だ」という口語のスピード(いきいきした感じ)が「彼の持つ」という妙に客観的なことばで、つまずいてしまう。
 詩を読んでいるというよりも、散文(論理)を読んでいるような気持ちになる。



カヴァフィス全詩
クリエーター情報なし
書肆山田


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池澤夏樹のカヴァフィス(18)

2019-01-06 09:44:04 | 池澤夏樹「カヴァフィス全詩」
18 デーメートリオス王

 この詩には、プルタルコスのデーメートリオス伝が前置きとして掲げられている。「王ではなく役者のやうに、あの芝居じみた衣裳を灰色の上衣に着換へてひそかに逃げ去つた」(河野與一訳)。それは、いわばカヴァフィスのつけた「自注」である。だから池澤の注釈はいらないと思うが、池澤はわざわざプルタルコスのピュルロス伝も引いている(デーメートリオスについての言及がある)。カヴァフィスはピュルロス伝には従わず、デーメートリオス伝にある「役者のやうに」「芝居じみた衣裳」にインスピレーションを得ていると。この注釈が、何を言おうとしているのか、私にはさっぱりわからない。
 そのカヴァフィスの詩の部分は、こう訳されている。

黄金の衣裳をすて、
紫色の半長靴もその場に
ほうり出して、目立たない衣服に速やかに
着こんで、そのまま行ってしまった。
そのさまはまるで俳優が
公演を終えた後、舞台衣裳を
脱いで帰ってゆくようだった。

 「速やかに」ということばがあるのだが、急いでいる感じがしない。
 衣装を「すてる」、反長靴を「ほうり出す」という動詞と、「着込む」という動詞のスピード感が違うからだと思う。原文を知らないのだからいい加減な批評になってしまうが、「着こむ」がもったりしている。「着る+こむ」では、「念入り」な感じがしてしまう。
 で、池澤の引いているピュルロス伝を読むと「密かにマケドニア兵の被る縁の広いフェルトの帽子を被り、粗末な外套を著て逃げた」とある。デーメートリオス伝に比べると、何を着たか丁寧に時間をかけて書いてある。この丁寧さに引っ張られたんだろうなあ、と思う。
 言い換えると。
 池澤は、カヴァフィスがつけた「自注」には従わず、池澤が見つけてきた資料をもとにカヴァフィスの詩を訳したということになる。
 もしピュルロス伝にあたらず、デーメートリオス伝だけを手がかりにことばを動かせば、違った訳になったのでは、と思ってしまう。
 「まるで……ようだった」という念入りな直喩表現も、「急いでいない」感じに輪をかけている。
 池澤の訳は、たぶん「念が入りすぎている」。正確なのだろうが、正確さが詩を壊している部分があるのではないか。



カヴァフィス全詩
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