詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

帷子耀「私刑」

2019-01-05 11:18:17 | 2018年代表詩選を読む
帷子耀「私刑」(「現代詩手帖」2018年12月号)

 帷子耀の作品をはじめてみたのは大学受験が終わったあとだった。
受験の帰りに、坂出の池井昌樹の家へ立ち寄った。そこで「詩学」と「現代詩手帖」を知った。池井は「詩学」の投稿欄の常連だった。投稿欄を卒業していたかもしれない。ちょうど選者が山本太郎や宗左近らから、谷川俊太郎らにかわったころだった。私は「詩学」を見せられた。池井は「トマト」が出てくる詩を書いていた。谷川が「これはいったいなんだ」というような感想を言っていて、池井が怒っていた、ということを覚えている。谷川なんか嫌いだ、と言っていた。いまは大好きな詩人のひとりらしいが。
 で、そのあとの大学に入るまでの短い春休み。氷見の書店で一冊だけある「現代詩手帖」を見た。帷子耀は「私刑」(初出「妃」20号、9月)と同じように、逆三角形の形になる詩を書いていたような気がする。違う作品だったかもしれない。逆三角形の形になる詩を読んだのは、もっとあとかもしれない。けれど、その形がとてもおもしろいと思ったので、印象に残っている。
 そのあと、富岡多恵子が形ができすぎているというような批評をしていたこともなんとなく記憶に残っている。
 でも、詩を読んだ記憶はあまりない。難しすぎてわからなかったということかもしれない。気がつくと、帷子耀はどこにも詩を書かなくなっていた。
 その詩人が、突然復活してきた。
 その「私刑」。


咲く
ごとく
蜂起する
不敵な真実
毛深い憎悪を
拳にそよがせて

 「私刑」、暴力によってできた傷が鮮烈に開く。「咲く」という動詞が「花」を思い起こさせる。開花するときの力は「蜂起する」という動詞へと引き継がれてゆく。「不敵」ということばがそれを引き継ぎ、さらに「憎悪」というものを浮かび上がらせる。「憎悪」は名詞ではなく「憎悪する」という動詞として響いてくる。そのせいで「不敵」のなかから「敵」という漢字が独立して動き「敵対する/敵になる/敵として戦う」というような動詞にかわる。「憎悪」「戦い」は「拳」に引き継がれ、「そよぐ」ということばを引き寄せる。「そよぐ」は「戦ぐ」と書くと思う。
 このイメージの連鎖は、衝撃的である。頭が、あるいは目がといった方が正確だろうか、くらくらする。度の強い眼鏡をかけてみる風景のように、ゆがんだまま、脳の中にこびりつく。
 私の読み方は「誤読」かもしれないが。
 ここまでは、なんとなく「比喩」の動きを感じ取ることができる。ことばにならないものを、ことばの力を借りてことばにしようとしているという「暴力」を感じる。
 高校生のときに感じたのは、たぶん、そこまでだ。
 いまも、そこまでだが。

 私の同世代には、秋亜綺羅がいて、池井、本庄ひろしと三人が、いわば三羽がらす。帷子耀は大活躍していて、三羽がらすではなく、「鶴」というか、エリートだった。ことばの暴力という点では、秋亜綺羅の方がなじみやすかった。論理でことばが動いていたからだ。(池井は、どちらかというと古くさく、本庄は高踏派という感じだった。)私に理解できる暴力を帷子耀のことばははるかに突き抜けていた。
 
 あ、脱線した。 

 帷子耀の暴力は、高校生の私にはとてもついていけなかった。
 詩の引用をつづける。

暗文ばかりの夏は
暗くふくらみかけた
手錠のように鳴りつぎ
完黙を 羽交締めにする
みずみずしい風の咽喉笛に
そおら 茫々と銃声を吸わせ
はじめたぞはじめた受洗を逃れ
けれど心血でない何かで洗われた

 こうつづいていくと、何が何かさっぱりわからなくなる。「暗文」ということばを私は知らない。(高校生のときは、もちろん知らない。)次の「暗い」ということと連続しているのだろう。そして、それは「私刑」の「暗い」感じにつながっていると思うが。
 「手錠」や「完黙(完全黙秘?)」は犯罪を匂わせる。「羽交締め」は拷問(私刑)を連想させる。暴力が渦巻いている。「咽喉」という肉体のかんじと「笛」の結合は悲鳴を暗示させる。
 でも、これは単なるイメージであり、「誤読」にさえなっていないね。
 それなのに。
 「そおら」ということば、その掛け声のようなものに、なまなましい「肉体」を感じ、あ、ここはいいなあ、と思う。こういうことばの動かし方をまねしたいなあと、今でも思う。きっと高校生のときは、もっと強烈に印象に残ったと思う。
 いや、どういう詩を読んだか、すっかり忘れているけれど。

 こんなことは、どれだけ書いてもしようがないか。
 もうひとつ思い出すことは、たした帷子耀は山口哲夫と同時に現代詩手帖賞を取ったと思う。そのとき山口哲夫は「帷子耀の露払いとして」というよう受賞のことばを書いていた。
 誰もがみんな、帷子耀に驚いていたということだけは確かだ。
 そういうことを脈絡もなく、ただ思い出す。
 特に脈絡にしたいというわけではない。つまり、その時代の「テキスト」をもう一度見渡したい、時代をテキストとして読み直したい(誤読したい)という気持ちになるわけではないが、なつかしい。

少し吐きました
血ばかりです
そう書けば
向日葵の
ごとく
開け


 この最後は、最初と同じように「比喩」になっていく。こういう部分は帷子耀の「本領」ではないかもしれないが、あの時代を象徴しているなあ、とも思う。抒情が過激と同一視されていた。
 そういうことも思い出す。
 青春をしてみたい、という気持ちになる。

 ただ、「現代詩手帖」一月号の寄稿をなどを読むと、帷子耀は、とてもとても気配りをする人というか、「配慮」がありすぎて、それが気になってしようがない。もう誰にたいしても聞き配りをしなくてもいい年齢だと思う。いまこそ、もっと暴力的になればいいのに、と思う。他人の詩なんか全部否定して、自分の志田家が美しい、正しいと宣言してしまえばいいのに。詩人全部と喧嘩すればいいのに。
 気配りのことばを読むと、五十年前の暴力は、もしかすると、その時代に「迎合した暴力」だったのかもしれない、とちょっとがっかりする。
 とても頭のいい人なんだと思う。
 いまごろになって「頭のいい人」という批評は帷子耀にとって不本意だと思うけれど。私もそういうことばを帷子耀に書こうとは思っていなかったが、つい、そういうことばが出てしまう。
 また書いてしまうが、「文学」なんて、「芸術」なんて、全部ぶっ壊してしまえばいいのに。高校時代、私が帷子耀に感じたのは、そういうことだったと思う。第一印象から、私は逃げられないので、そう思う。不可能なかっこよさをもう一度見せてほしい。







*

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池澤夏樹のカヴァフィス(17) 

2019-01-05 11:02:31 | 池澤夏樹「カヴァフィス全詩」
                         2019年01月05日(土曜日)

17 トロイ人

 注釈というよりも一般論になると思うのだが、池澤はこんなことを書いている。

戦いというものは実際に干戈を交える直前までははったりで相手の自身をうばう作業である。剣の勝負が決したとたんにはったりは嘘になる。

 これはいいなあ。安倍晋三に聞かせてやりたい。そのときは「剣の勝負が決したとたん」ではなく「剣の勝負が始まったとたん」と言いなおしたいが。
 戦争ははったりであり、国民ははったりの犠牲者である。
 それは勝った側でも同じだろう。

敗北を回避することは決してできない。城壁の
上にいる時から悲嘆の声はすでに聞こえていた。
心は過去の日々の記憶にすすり泣いている。
プリアモスとヘカベは我々を思ってさめざめと泣いている。

 「敗北」を「勝利」ではなく「死(戦死)」と置き換えてみるとわかる。必ずだれかが死ぬ。そして、その死を悲しむひとは必ずいる。その声が聞こえないのは為政者だけである。
 トロイの王と王妃を引き合いに出すまでもない。



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高校改革という罠

2019-01-04 13:18:34 | 自民党憲法改正草案を読む
高校改革という罠
             自民党憲法改正草案を読む/番外248(情報の読み方)

 2019年01月04日の読売新聞朝刊(西部版・14版)。1面の見出し。

高校普通科を抜本改革/真学科や専門コース/21年度目標

 前文には「政府・自民党は高校普通科の抜本改革に乗り出す。画一的なカリキュラムを柔軟に見直し、専門性の高い学科とすることが柱だ」と書いてある。これでは何のことかわからないだろう。
 具体的にはどういうことか。

「高校は『大学への通過点』の位置付けが強まっている」(文科省幹部)のが現状で、政府・自民党は進学者の7割超を占める普通科を見直し、高校の魅力を高める必要があると判断した。
 普通科は、卒業に必要な74単位のうち国語や数学、理科などの普通教科10科目と総合的な学習で38単位を取れば、専門教科を学べる。しかし、実際には残り36単位も大学入試に絡む教科に偏っている。

 これは、高校生側からの要望を反映したものか、というところからみつめないといけない。
 高校の魅力とは何か。大学進学率が高まっているとき、その魅力はよりよい大学への進学率と比例するはずである。「よりよい大学への通過点」を高校生は求めている。
 これを「見直す」というのは、つまり大学受験用のための学科を減らすということにならないか。
 その結果、どうなる? 大学入学者が減るに違いない。大学に合格できなくなる。そうなると大学も減るだろう。学生が入学して来なくなるのだから。
 これって、だれの要望? 高校生が、大学なんか行きたくない。早く働きたいと言ったのか。
 そうではないだろう。
 人手が足りない。早く若者を労働者にしろ、という要求が経済界から出てきた。それに対応したものに違いない。
 政府の「教育無償化」は基準を満たさない大学には適用されないという方針が先に出されたが、これも大学潰しである。大学で遊んでいる(?)ひまがあったら、さっさと働かせろ、ということだろう。
 労働力の確保に、政府と企業が躍起になっているのだ。
 少子化が政府と企業の責任にあることをほうりだして、人手を集めることだけをかんが始めている。収益を確保することだけを考えている。

 思い出すのは、私が高校受験のころである。もう50年以上も前である。当時、富山県では「三七体制」ということばが問題になっていた。富山県の普通科、実業科の割合は三対七である。これは、当時の大学進学率が三割というのを反映している。大学進学率は三割なのだから、残りはすぐに労働力になる実業科で充分というのである。(宮崎県も、当時おなじ比率だった。)このことは、北日本新聞がキャンペーンをやって、新聞協会賞も獲得したと思う。合い言葉(?)は「十五の春を泣かすな」というようなものだったと思う。
 しかし、高校の実業科を出ても、望む就職先があるわけではない。私は、そのことを身をもって体験している。就職先がなかった。それで急遽進路を変更して大学へ進学することにしたのだ。家業をつぐ以外の同級生も、ほとんどが学んだ学科とは関係ない企業に小食している。実業高校で学んでいる高校生には申し訳ないが、高校で学んだことがそのまま職業に結びつくということはほとんどない。ただ早く職場にほうりだされるだけである。
 これが目的なのだ。
 政府(企業の言いなりの安倍政権)は入管法を改正し、外国人労働者を確保しようとしているが、破綻するのは目に見えている。低賃金でこきつかうだけこきつかって五年たてば母国へ追い返すという方針が知れ渡れば、外国人は日本にやってこなくなる。日本国内で若い労働者を確保するしかなくなる。その準備なのである。
 大学を卒業し、企業をリードしていくような人材は、もともと限られている。そうなれない人間は、単純労働者にしてしまえ、という作戦である。
 まず外国人労働者を日本で働かせ、賃金水準を引き下げ、賃金が下がったところへ高卒の若者をつぎ込む。企業の経費は下がり、同時に労働力を確保できる。
 これが狙いである。

 日本の高校生の学力をアップさせ、それを引き継いで大学のレベルアップもはかり、国際競争力を高めるというのなら、もっと違う方法を考えるべきである。教員を増やし、教育を充実させることの方が先だろう。
 だいたい「学問(教育)」というのは批判力を育てることが目的のはずである。
 上の命令を聞いてしたがう人間を育てるだけなら、教育ではなく「調教」である。

 安倍の改憲論について疑問を書くとき、私は何度も教育のことを問題にしてきた。安倍の狙いは、教育を通じて、人間を洗脳することである。独裁を強めることである。
 「新しい三七体制」が始まろうとしている、と見るべきである。
 半世紀前の北日本新聞のキャンペーンをぜひ、読み直してもらいたい。「産学官共同体」の暴力が再び始まろうとしていることに、目を向けるべきだ。






#安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位 
 


*

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池澤夏樹のカヴァフィス(16)

2019-01-04 09:55:18 | 池澤夏樹「カヴァフィス全詩」
16 欲望

壮麗な廟に安置された美しい肉体--
満たされることなく過ぎた欲望は
そのようなもの。一夜の快楽も許されず
輝く朝を一度も知らぬ間に。

 池澤の書いている注釈がわからない。

 この詩はたった一つの比喩からなりたっている。すなわち満たされずに過ぎた欲望は美しい死体。ここに言う欲望とは恋の望みの肉体的側面。比喩が一目瞭然でないだけに、その真の意味の方へと想像力をうながす。

 「そのようなもの」と明確に書いているから、「比喩」は一目瞭然である。
 わかりにくいのは「美しい」の定義だ。ほんとうに「美しい」のか。
 「美しい」ものは「輝く」ものである。「輝き」を「知らぬ」とは、「輝き」を自分のものとしてもったことがないということだろう。輝くものに出会ったとき、ひとはその輝きそのものになる。輝くものが美しいのではなく、輝きを見つけた人が美しいのだ。
 そういう瞬間を知らないなら、それは「美しい」とは言い切れない。
 むしろ「むなしい」肉体ではないのか。反語なのだ。つまり、否定を含めた比喩なのだ。
 だからこそ、「むなしい」の反対のことば「満たされる」が次の行に出てくる。一夜の快楽、それさえも味わうことなく(満たされることなく)死んでしまうのは、「むなしい」。「美しい」というのは、カヴァフィスではなく、他人の評価にすぎない。それを批判している。

 他人に評価されなくても、一夜の快楽の中で燃え上がればいい。
 「美しい死体/むなしい死体」を見て、カヴァフィスは、そう思っているのではないのか。もし、恋の快楽に身を任せていたら、恋人の記憶の中で、その肉体は生き続け、輝いているだろう。
 そう思い、「美しい」死体を悲しんでいる。

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和辻哲郎『自叙伝の試み』

2019-01-03 17:00:27 | その他(音楽、小説etc)
和辻哲郎『自叙伝の試み』(和辻哲郎全集第18巻)(岩波書店、1990年10月08日、第3刷発行)

 私は和辻哲郎の文章が好きだ。なぜ好きなんだろう、といろいろ考えていたが、「一校生活の思い出」の文章にであったとき、理由がわかった気がした。
 和辻はドイツ語の授業、試験の採点について書いている。和辻は55点だった。和辻自身は一か所しか間違いに気づいていなかった。その点数に驚いた。

Ergänzungという言葉が補遺とか補足とか訳されているのを忘れていて、完全にすること、全体的なものに仕上げることというような語義の上から、自分勝手な訳をつけたのであった。それ以外にはどこをどう間違えたか自分ではわからないので、いろいろ友人たちに聞いてみると、岩元先生は自分のつけた訳語と違った訳語をつかえば、一箇所ごとに五点ずつ引くのだそうだという話であった。

 「語義の上から、自分勝手な訳をつけた」という部分に、私は共感した。「勝手な訳」と書いているが、これは和辻流の訳、和辻が理解していることばでの訳ということだろう。つまり、和辻は、それが何語であれ、自分流に理解するということをこころがけているということを意味すると思う。
 流通している訳語(教えられた訳語)をつかえば、「訳文」の意味はとおりやすい。しかし、それは自分の理解した通りかどうかわからない。岩元先生は「補遺」「補足」と言ったのかもしれないが、和辻は「補遺」「補足」とは聞かなかった。和辻は「完全にすること」「全体的なものに仕上げること」と聞いた。そして、その「聞いた」ことを答えに反映させた。
 私はこの「先生が言ったこと」ではなく、「和辻が聞いたこと」を語る(解答する)という姿勢が好きなのだ。

 和辻の文章は、和辻の知っていることを積み上げていく形で動く。この自叙伝では、村の地理や家系のことから書き始められている。私は和辻の生まれ育った場所については何も知らない。家系にもまったく関心がない。だから、最初の部分は何が書いてあるのか、さっぱりわからない。かなり退屈だ。和辻がそういうことを一生懸命書いているということしかわからない。
 他の部分も、わからないことが書いてあるのだけれど。
 読み終わると、そのわからないもの、知らないものが、「美しい形」になって目の前にあらわれてくる。
 この感じは、私が昔見た、田んぼづくりの風景に似ている。五十年ほど前のことである。家の前に段違いの田んぼが二枚あった。段違いである。これを近所の人が、ひとりで一枚に造り直している。耕運機で高いところの田んぼを掘り返して崩していく。平らになるまで何度も何度も掘り返す。だんだん平らにしていく。たいへんな苦労だ。うーん、こんなめんどうなことをよくやるなあ。そのうち田んぼができて、水を張って、苗を植える。そのときはまだなんとも思っていなかったが、秋になって稲が実る。その黄金の色が美しい。ああ、こんな美しい田んぼになったのか、と驚く。
 あの驚きとそっくりなのだ。
 和辻の文章というのは、和辻の知っていることだけを積み重ねていく。もちろん他の人の書いたものも知識として吸収し、踏まえているが、借りている感じがない。自分のものにして、その自分のものにしたものだけをつかっていく。他人の説を利用して自分の説を補強するのとは違った味がある。
 これがとてもいい。

 こんなことを書くと和辻から叱られるかもしれないが(もう死んでいないから直接叱られるということはないのだが)、その書き方は「普遍的な正しさ(真理)」を求めているという感じがしない。和辻の「肉体」のなかで生まれてくる一回限りの正しさ真剣に探しているという感じがする。
 この一回限りの正しさというのが、私の求めているものだから、そう感じるのかもしれない。

 私はいつも、そう思って書いている。私の書いたことが、他の人に共有される「正しさ」を含んでいるかどうかは、私にはどうでもいい。私にとって大切なのは、考えること、ことばを動かすことである。それが「真理」かどうか、気にしない。「誤読」と批判されても、それでいい。
 思ったことを少しずつ書いていく。すると、何かが、我慢しきれなくなったように、ぱっと動いて、あふれてくる。それは、書き始めたとき考えていたこととはたいてい違っている。でも、その瞬間が、とても楽しい。そして、そのあふれてきたものを書いてしまうと、ことばが動かなくなる。そこでおしまいにする。
 つづきは、ある日突然、まったく違うところで動き始めるかもしれない。このままおわるかもしれない。それでいいと思っている。

 上野で初めて見た染井吉野と山桜の比較のことや、いろいろこころを動かされる文章が多いのだが、次の部分を最後に引いておく。和辻の村では、蚕を飼い、生糸をつくり、機を織り、和服をつくっていた。自分たちが着るためである。

母たちは、好きな色に染めて、機にかけて、手織りで織ったのである。織物としての感じは非常におもしろいものであったように思う。今ああいうものを作れば、たぶん非常に高価につくであろう。しかし母たちの時代の人にとっては、自分たちの労力を勘定にいれないので、呉服屋で買うよりもずっと安かったわけである。

 「自分たちの労力を勘定にいれない」ということばが「肉体」に響く。胸が熱くなり、涙がこぼれる。






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池澤夏樹のカヴァフィス(15)

2019-01-03 09:37:32 | 池澤夏樹「カヴァフィス全詩」
15 声

そしてその声と共に一瞬、我々の
人生の最初の詩の声がよみがえる--
すぐに消える夜の遠い音楽のように。

 この最終連について、池澤は書く。

失われた人々の声は言葉としての意味が揮発してしまい、ただ音楽性だけがかすかに残っている。

 「声」はんと「言葉」はたしかに似ている。共通項をもっている。しかし、「失われた人々の声は言葉としての意味が揮発してしまい」というのは、どうだろうか。カヴァフィスは「意味」という認識で「声」ということばをつかっているのか。
 「我々の/人生の最初の詩の声」というとき、そこには確かに死者の声が含まれるのだが、同時に「私の(カヴァフィスの)」声も含まれるのではないのか。
 「最初の詩の声」は「ことば」以前のものではないだろうか。

 ある人が何を言ったか思い出せない。しかし、声は思い出せる。声を聞けば、それが誰であるかわかる、ということはないだろうか。
 ひとはことばの「意味」を聞き取ると同時に、「声」そのものを聞き取る。そして「声」の方が記憶として強く残る。
 この不思議さ。
 
 私は、こんなことも思う。
 昔、詩を書いた。その「ことば(意味)」は思い出せないが、書いた瞬間をおぼえている。「声」をおぼえているが「意味」をおぼえているわけではないので、そのときの「ことば」は再現できない。
 そういうことはないだろうか。

人生の最初の詩の声がよみがえる--

 こう書くとき、この「詩」はだれかの書いた詩ではなく、つまり「失われた人々」の詩ではなく、カヴァフィスの詩だと思う。「意味」てではなく、「意味」になる前の「声」だと思う。カヴァフィス自身の詩なのに「我々の」と書くのは、「未生の意味」は誰のものでもなく、詩人すべての声だからだろう。









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粕谷栄市「上弦」

2019-01-02 18:05:34 | 詩(雑誌・同人誌)
粕谷栄市「上弦」(「現代詩手帖」2019年01月号)

 粕谷栄市「上弦」は、ある意味では何も書いていない。

 純金の櫛は、純金のしずかな怒りを持つ。純金のしず
かな怒りと純金の櫛の歯の繊細な輝きを持つ。
 純金の櫛は、純金のしずかな悲しみを持つ。純金のし
ずかな悲しみと純金の櫛の歯の繊細な輝きを持つ。
 純金の櫛は、そして、純金のそのほかの何も持たない。
純金の櫛であることの、その怒りと悲しみゆえに、ただ、
純金の櫛のかたちの虚無であるばかりだ。
 それゆえに、いよいよ遠い西の天で、純金の櫛は、既
に、純金の櫛であることも忘れた虚無であるばかりだ。

 「怒り」は「悲しみ」と言い換えられる。そして、言い換えられることによって「怒り」でも「悲しみ」でもなくなる。「虚無」になる。
 でも、そうなのだろうか。
 「怒り」と「悲しみ」が言い換えられる、言い換えられることで「おなじもの」になる。その結果、「怒り」と「悲しみ」が消え「虚無」になるのだと仮定して、「持つ」と「持たない」はどうなるのだろうか。
 「純金のそのほかの何も持たない」は「純金の櫛であることも忘れた虚無」と言いなおされたとき、それ以前の「持つ」の「主語」は何になるのか。「純金の櫛」でいいのか。あるいは「怒り」「悲しみ」が「主語」であり、「純金の櫛」を「持つ」のかもしれない。どちらが「主語」であり、どちらが「述語」なのかわからない。
 わからなくていいのだと思う。
 と書いてしまうといい加減だが。

 詩の最後は、こう書かれる。

 いかなる怒りと悲しみも持たない、ただ、純金の上弦
の月であるばかりだ。

 ここへたどりつくために、そう言うしかなかったのである。
 この詩の中では「ただ」ということばが何度もつかわれる。引用した部分だけでも二度つかわれている。「ただ」はなくても「意味」はおなじ。「ただ」は強調である。そして、強調のことばなのだが、何かを強調しているわけではない。もし強調しているのものがあるとすれば、ことばは強調するためにあるということだろう。

 強調も、もしかすると、「虚無」かもしれない。
 それでも強調せずにはいられないのだ。
 きのう読んだ谷川俊太郎の「イル」の「のである」もおなじだ。強調へ向かって動くことばがある。ここではない、どこかへ向かっていく、ということが詩なのだろう。







*

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池澤夏樹のカヴァフィス(14)

2019-01-02 09:11:30 | 池澤夏樹「カヴァフィス全詩」
14 蛮族を待ちながら

なぜ道と広場にはまったく人影がなくなり
人々はそれぞれの家の中をうろついて考えこんでいるのか?

 なぜなら夜になったのに蛮族は来なかったから。
 何人かの者が国境から戻ってきて、
 蛮族など一人もいないと伝えたから。


さて、蛮族が来ないとなると我々はどうすればいいのか。
彼らとて一種の解決には違いなかったのに。

 「蛮族」とは何だろうか。具体的には書かれていない。「蛮族」の「蛮」は「野蛮」の「蛮」である。野生である。文明は野蛮を破壊するが、野蛮が文明を破壊することもある。新しいいのちを吹き込む、活性化すると言い換えてもいいかもしれない。
 池澤は、こんなふうに書いている。

彼等は蛮族の支配を恐れ、懐柔を画策する一方で、身をあずけてしまいたい、すべてをまかせてしまいたいと望んでもいる。

 これは「恋」の気分に似ている。
 だから、私はこれもまた「恋」の詩なのだと思う。「11 窓」には「外の光はまた別の圧制者かもしれない」という一行があった。「圧制者(蛮族)」はいつでも「光」なのである。いまの「闇」を切り開いてくれる。
 池澤は、こうも書いている。

没落した豪商の子だったカヴァフィスにはこのような実力をともなわぬ意識、力の喪失と文化という美しいぬけがらに対する強い関心があった。

 「倦怠」はいつでも文学のテーマである。「倦怠」を破っていくのは、いつでも「野蛮/野生」である。










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池澤夏樹のカヴァフィス(13)

2019-01-01 09:42:49 | 池澤夏樹「カヴァフィス全詩」
13 約束違反

 ヘロドトスの『歴史』の第一巻、リュディアの王クロエソスと同じく予言が人をあざむく。この話の場合にはアポローンその人が自分を予言を完全にくつがえしてしまう。

 と池澤は詩の概略を書いている。
 私がおもしろいと思ったのは、予言が人をあざむくということよりも、あざむかれたときの人間の態度である。(この詩では人間ではなく、女神なのだけれど。)カヴァフィスは生き生きと描写している。

テティスは紫の衣裳を引き裂き、
首飾りや指環を身から引きむしり
地面に向かって投げつけた。

 各行に動詞がひとつ、くっきりと描かれる。「投げつける」とき「地面に向かって」と具体的なのがいいなあ。自分の息子が死んだことを嘆いているというよりも、怒っている。おさまることのない怒りは、予言をしたアポローンへ向けられる。

嘆くうちに昔日の記憶がよみがえり、彼女は
自分の息子が若いさかりで死んだその時、
賢きアポローンは何をしていたのか、婚礼の卓で
忘れがたい言葉を口にした詩人は、
かの予言者はいったいどこにいたのか、とたずねた。

 嘆きから怒りへの「転調」というのか、「拡張」というのかわからないが、この変化がとてもいい。「怒り」が瞬間的なものではなく、「記憶」をひっぱりだし、予言者の責任を問うという形で「論理的」に展開するところが、強くて、恐ろしい。
 「嘆き」はほっておけば、やがて鎮まるかもしれない。しかし、「論理的」に展開される「怒り」は鎮まらない。長引くぞ。「怒り」は「恨み」へと形を変えるぞ。
 というようなことを感じさせる。
 詩は、「恨み」へと転調していかないけれど、それは詩だから。
 もし、ここに書かれている「予言/あざむく」が人間に起きたら、絶対に「恨み」に変わる。
 これが「恋」ならば、恋人を紹介してくれた人が恋人といい仲になり、自分が棄てられてしまったというような感じかもしれない。驚き、悲しみ、嘆き、怒り、恨む。「約束」というのはいい加減なものだけれど、「裏切り」に対する反応は普遍のものだ。だから何度でも書き直される。





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池井昌樹「竪琴」、谷川俊太郎「イル」

2019-01-01 09:27:16 | 詩(雑誌・同人誌)
池井昌樹「竪琴」、谷川俊太郎「イル」(「現代詩手帖」2019年01月号)

 池井昌樹「竪琴」。一連目と二連目が好きだ。

せかいはふしぎにみちている
なにしろうたがあるからね
なにしろそらがあるからね
そらのしたにはうみがあり
うみのほとりにひとがすみ
ながらくくらしてきたからね

せかいはふしぎにみちている
なにしろうたがあるからね
うたいつづけてきたそらが
うたいつづけてきたうみが
うたいつづけてきたひとが
ながらくともにあるからね

 一連目と二連目は違うのだけれど、どこが違うのか説明することはむずかしい。池井は違うことを言っているのだが、私にはおなじに聞こえる。同じように聞こえるように、違うことを言うことができるのが池井なのかもしれない。
 変な言い方かな?
 こう言いなおしてみよう。
 一連目、池井は「空がある、空の下には海がある、海のほとりには人が住んでいる」と言っている。でも、私は何を聞いたと答えるべきか。「空がある、空の下には海がある、海のほとりには人が住んでいる」はあくまで池井が言ったことであり、私が聞いたことではない。
 私が聞いたのは、「うたがある」と「うたつつづけてきた」ということ、つまり二連目で池井が言ったことを、一連目を読みながら「聞いている」。
 だから二連目を読むと、あ、これは一連目で聞いたことだ、と感じる。つまり、「繰り返し」に聞こえる。
 こういうことが詩なのだと思う。
 
 でも、私は、そのあとの展開が好きではない。

せかいはふしぎにみちている
ふしぎにみちたそのどこか
うたうたわせてきたものが
そらでなく
うみでなく
ひとでなく
いまもまだ

みえない竪琴を
つまびくゆびが

 「竪琴」には「リラ」とルビがふられている。この三、四連目が、いやな感じがする。いまも「竪琴」や「リラ」ということばが生きているのかと驚く。こういう言い方をすると「そら」や「うみ」も、もう詩に書かれることばではない、という人がいるかもしれない。でも、「日常のことば」として生きている。「竪琴(リラ)」とは違う。
 「結論」などなくていい、と思う。「結論」がない方が、「ふしぎ」に満ちていて、美しいと思う。

 新しい年なので、批判から始めてみることにした。



 谷川俊太郎「イル」は、池井と同じようなことを書いている。池井が谷川と同じようなことを書いている、のかもしれない。

今日
私がイル
のである
昨日も私はイタ
姿かたちは違っていたが
八十七年前もイタらしい
のである
犬でも
猫でもない
私が
今も昔もイル
のである

 私は何を聞いたか。言い換えると何を読んだか。何を「誤読」したか。
 「のである」の繰り返しを読んだ。聞いた。「のである」が私の肉体のなかで鳴り響いている。「のである」はなくても「意味」はおなじになるかもしれない。「のである」には「意味」はない。いや、「意味」はあるのだが、それを説明することはむずかしい。
 あるいは、こう言うべきかもしれない。
 「のである」という繰り返しこそが「意味」である、と。
 では、どういう意味?
 「確認」である。谷川は「イル」を確認している。
 「せかいはふしぎにみちている」と池井は繰り返していた。繰り返していえば「意味」が変わるかといえば、変わらない。変わらないことを「確認」するために繰り返している。繰り返すとき少しずつ違うものがあらわれてくる (ずれていく) のだから、おなじではなく、変わらないのではなく、変わっているのだと言うこともできるが、繰り返されているからそれは違っていてもどこかで同じものにつながっていると言える。
 でも、そのつながっているもの、つないでいるものを「みえない竪琴を/つまびくゆび」と池井が断定してしまっては、つまらない。
 脱線した。谷川の詩に戻る。

イルから
あなた
なのよと
女が言った
イルから
うざい
と男が言った
それがどうしたと
私は思った
空が青い
今も昔も青いが
マンネリない

 「それがどうした」。
 ああ、そうなんだと思う。
 詩は新しい何かの発見かもしれないが、それは「それがどうした」と言いたくなるような、どうでもいいことにすぎない。
 というと、言いすぎになるが。
 だぶん、詩は「それがどうした」と開き直ることなんだと思う。
 「のである」も「開き直り」だ。繰り返すのは、開き直っているのだ。開き直れるのが詩人なのだ。

 池井の詩に戻る。
 一、二連目だけでは、たぶん、「それがどうした」と批判する人がいると思う。何も書いていない。「結論」が書いてない。つまり「要約」できない。「ストーリー」にならないという人がいるかもしれない。
 だから「みえない竪琴」というようなものをひっぱりだしてしまった。読者には見えないけれど池井には「みえる」ものをひっぱりだしてきた。
 この「みえない竪琴」に対しても「それがどうした」という批判はできるのだけれど、ふつうはしいなだろうなあ。「結論」だから。

 でもねえ。
 「意味」は、それぞれが生きている。他人の出す「結論」なんて、別の人には「それがどうした」でしかないのだから、どうでもいいのだ。
 「結論」ではない部分にも、ひとは「それがどうした」と言うが、それは疑問なのだ。「それがどうした? 私にはわからない」と立ち止まらせるのが詩なのだと思う。
 谷川の二連目の「それがどうした」は谷川から女と男への反論。
 一連目を読んで「それがどうした?」と思うのは、読者の疑問。
 疑問は同時に答えを抱え込む。
 読者に代わって「女」と「男」が答えているのが二連目。
 これには、私も「それがどうした」と谷川と同じように思ってしまう。「そんなことじゃないんじゃないかな? そんな簡単には言えないんじゃないかな」と。
 それで一連目に引き返し、自分自身で「それがどうした?」と言ってみる。いや、これは正確ではない。「それがどうした?」と思いながら、私は二連目へと読み進んだのだから。「それがどうした?」と思ったとき「ことば」にならない何かが動いていた。
 池井の詩の、一、二連目を読んだときも「それでどうした?」と思っていた。あるいは「なんだ、これは」とか「また、これか」とか。「これ」が何か、その瞬間はことばにできないんだけれどね。でも、その瞬間、ことばになりたがるものが私の肉体の中で動く。
 それでいいんじゃない?と私は思う。その瞬間が詩というものだろうなあ、と思っている。

 こんな調子で、今年もことばを動かしていく。







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(4)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
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