金融そして時々山

山好き金融マン(OB)のブログ
最近アマゾンKindleから「インフレ時代の人生設計術」という本を出版しました。

夏の句と写真

2007年09月02日 | 俳句

秋の虫の鳴き声を聞きながら、写真を整理し先人の夏の名句と重ね合わせるのも面白い。自分で句が詠めると良いのだが中々そうはいかない。

象潟や雨に西施がねぶの花 芭蕉

Kisakata

芭蕉の頃までは松島と並び称された象潟の多島海は隆起し、今は一面の水田の中に点々とする丘にその面影を偲ぶのみである。

五月雨を集めて早し最上川 芭蕉

Mogamijyouryu_1

通り過ぎたの台風の雨を集めて最上川の流れが早そうに見えた。江戸時代にはこの川によって山形の米や紅花が酒田に集まり、江戸・大阪に回漕された。一方上方や江戸の文化は最上川にそって内陸部に伝えられた。芭蕉は山形・庄内でいくつかの名句を残すが、この地方に芭蕉のスポンサーとなった何人かのパトロンがいたことと深い関係があるだろう。

雲の峰幾つ崩れて月の山 芭蕉

Kumonomine

芭蕉の俳句の中で好きな句の一つだ。近代的なリズム感が良い。芭蕉は絶え間なく姿を変えていく雲の姿に何を見たのだろうか?

蝉鳴くや松の梢に千曲川 寺田虎彦

Chikumagawa

千曲川の流れは優しく、川を吹き抜ける風は遠い信濃の香りを伝える。唐松や川柳の林の中で蝉が名残の夏を鳴く。

朝顔や濁り初めたる市の空 杉田 久女

写真は八月に山形県の温海(あつみ)温泉の朝市近くで撮ったものだ。句はかまどからあがる煙で朝顔が濁る様を詠んだものらしい。朝顔は夏の季語ではなく秋(立秋)の頃の季語らしい。それにしても今年の夏は暑かった。この朝顔を見た頃は毎日クーラーをかけて寝ていたので、朝顔が秋の季語という実感は乏しい。

Asagao

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こぶし他春の名句と写真

2007年05月01日 | 俳句

四月も末となると東京のコブシの花は終わっているが、信州に行くとまだまだ花を目にする。

あをみたるなかにこぶしの花ざかり 良寛

Kobusi

良寛和尚に合わせて越後のコブシの写真を飾りたいところだが、今年は越後を旅する機会がないので少し前に撮った神代植物園のコブシに替わりをつとめてもらおう。

鶯の身をさかさまに初音かな 榎本其角

鶯の写真はないが、メジロの写真はあった。

Mejiro1_3

良寛の広角レンズ的な俳句も良いが其角の望遠レンズで一瞬の動きを切り取った俳句もすばらしい。江戸の俳人達はカメラを持たない名写真家であった。

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身にしみる雛の句

2007年03月01日 | 俳句

長い間雛人形を飾ることがなくなったので、意識することも少なくなったがふと気が付くと間もなく雛祭りである。我が家には娘が二人いるが、ワイフが持ってきた雛人形を飾る程のスペースがないのでお雛様を出さない年が続いている。(子供が小さい時は狭い社宅でもお雛様を飾っていたのだが・・・・)昔「雛人形を節句が終わって長く出しておくと婚期が遅れる」という話を聞いたが、初めから出さないとどうなるのだろうか?やはり婚期が遅れるのだろうか・・・・・などと少し縁起を担ぎたくなるこのごろだ。

さて雛の句というと艶やかな句もあるのだろうが、年を経てくると去来の次の句が身にしみる様になる。

振舞(ふるまひ)や 下座(しもざ)に なをる去年(こぞ)の雛(ひな)

振舞は宴会である。宴会でロートルは若いものに席を譲る。で盛りを過ぎたものが控えにまわる哀感がある。

この句は向井 去来と野沢 凡兆が編集した芭蕉一門の句集・猿蓑(さるみの)に収録されている。猿蓑が編纂されたのが元禄4年(1691年)で、去来40歳の時だ。去来抄によると「感じるところがあってこの句を作った」ということだが、40歳で油が乗っている時の去来にも老いの哀惜を感じるようなことがあったのであろうか?

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1000句の重み

2006年07月26日 | 俳句

この前テレビ東京の「何でも鑑定団」を観ていると、芭蕉の「奥の細道」の一節を表装したものが「お宝」として出ていた。それは鑑定の結果ニセモノということになったのだけれど、司会者の島田伸介が「芭蕉は生涯1千句しか俳句を作っていない」と話をしていたのが気になった。たかが娯楽番組であり、教養のない伸介辺りが言うことに目くじらを立てることもないのだが、芭蕉好きの一人として少しコメントをしておこう。

実際現在確認されているところで芭蕉が作ったとされる俳句の数は980句強であるので、伸介が言った数字は正しい。芭蕉が30年句作をしたとすれば、年間30句そこそこでいかにも少ない感じを与える。しかし一つの問題点は芭蕉を俳句の作者と位置づけるところである。芭蕉の俳句は俳句として単独で存在するのではなく、「奥の細道」などの紀行文の中に存在する。芭蕉は西行や李白といった和漢の大詩人の詩文を自由に引用しながら「奥の細道」を書いている。いや引用するというよりは西行達先達の眼を複眼的に持ちながら目の前の景色を観ているというべきだろう。「奥の細道」は芭蕉による東北・北陸の大旅行記であるとともに、詩文の道の先達の抒情を追憶する心の紀行文でもある。この「奥の細道」は散文学として日本文学の一つの頂点に立つものである。つまり芭蕉を単なる俳諧の作者とすると正しい芭蕉の姿を見ることは出来ないのである。

又芭蕉は生涯をかけて己の作品を推敲した。従って現存する作品はほぼ佳句と言って良いのではないだろうか?もっとも芭蕉の句といえども駄作があるという意見もある。正岡子規は「芭蕉の佳句は十に二、三。蕪村の駄句は十に二、三」と評しているが、これは写生主義の子規の視点で芭蕉を評価した極めて偏った見方である。

これについて萩原朔太郎は「芭蕉私見」の中で「その(芭蕉の)リリシズムを理解しない限りにおいて、百千の句は悉く皆凡句であり、それを理解する限りにおいて、彼のすべての句は皆佳(よ)いのである」と言う。

では芭蕉のリリシズムの中核は何なのか?朔太郎は「芭蕉私見」の中で「芭蕉の心が傷んだものは、大宇宙の中に生存して孤独に弱々しく震えながら、葦のように生活している人間の果敢なさと悲しさだった。・・・・この悲しみこそ無限の時空の中に生きて、有限の果敢ない生活をするところの、孤独な寂しい人間の悲しみである」と言う。

なるほどこの様な芭蕉作品を貫くリリシズムをベースにして見ると芭蕉の句が一層鮮やかに見えるではないか。

  • 夏草やつわものどもが夢の跡
  • むざんやな甲のしたのきりぎりす

この二句は非業の最期を遂げた義経と義仲を追憶したものだ。ここには夢半ばにして倒れた英雄の悲しみの中に詩美を求めて追憶する求道者芭蕉の姿が見える。

  • 塚も動け我が泣く声は秋の風

この句は芭蕉が金沢に旅した時まだ会ったこともなかった句友一笑が半年前に死んだことを知りその墓前で詠んだ句で私が好きなものだ。ここには万人の悲しみを心に抱きながら無限の旅を続ける芭蕉の姿がある。ただ芭蕉の句の中でもっとも激しいもので評価の分かれる句ではある。

芭蕉は単なる句作者ではなく、人生と宇宙の凝視者であり、哲学者なのだ。句数の過多で図るべき様な人ではないのである。

この様に考える時芭蕉の一千句はまことに重たいものではないだろうか?

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