昨日GWに山の会で行った月山・立石寺旅行の精算案内が送られてきた。立石寺(山寺)を懐かしく思い、「おくの細道」を読み返してみた。
芭蕉は難所の山刀伐峠を越えて、尾花沢に到着し、スポンサーの鈴木清風(本名道祐。紅花問屋で豪商)宅でしばし休養した。それから立石寺に向かうのだが、芭蕉は「かれ(清風)は富めるものなれど、志いやしからず」と書く。お世話になった清風を褒めて当然だが、この言葉の裏には「一般的には富めるものは志がいやしい」と芭蕉が考えていたことがわかる。
ではなぜ芭蕉は「一般的には富めるものは志がいやしい」と考えていたか?
以下は私の推論に過ぎないが私はこう考えている。それは「富めるもの」になる過程で多くの人は財産に対する執着を起こす。その富に対する執着心が人間の感性を蝕み、心の丈を低くするからだと私は考えている。
司馬遼太郎の「草原の記」の中にモンゴル帝国二代目のハーン、オゴタイの話がでてくる。オゴタイは寡欲な人であった。寡欲はどの民族にとっても、美徳であると書きオゴタイの言葉を紹介する。
オゴタイは財宝を蓄えるのが好きな貴族に次のように諭す。「あなたはなぜ財産をたくわえているのです。人間はよく生き、よく死なねばならぬ。それだけが肝要で、他は何の価値もない。あなたは、財産が人間を死からまもってくれるとおおもいになっているのか」
オゴタイは死後に語り継がれる評判こそ大切だといったのである。
紅花問屋として成功して富んだ清風だが、俳諧に親しみ、芭蕉を厚くもてなしたことで後世に名を遺した。よく生きたというべきだろう。
なお清風に関しては「紅花大尽」として吉原で希代の豪遊をしたとか遊女を伊達の殿様と張り合ったという伝説がある。ただしここでは深入りせず、旅の俳諧者を快くもてなした豪商という一般的な解釈に従っておいた。
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