詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

朝吹英和『時空のクオリア』

2009-03-24 09:27:31 | その他(音楽、小説etc)
朝吹英和『時空のクオリア』(ふらんす堂、2008年10月25日発行)

 私は俳句のことはまったくわからない。ことばだから、読むことは読む。しかし、きっと「俳句の常識」を逸脱して読んでいると思う。だから、これから書く感想も、きっと俳句を書いている人、読み慣れている人には的外れな印象を呼び起こすだろうと思う。

 本のなかほどに、田中裕明『夜の客人』の批評が書いてある。そこで取り上げられている句がとてもすばらしい。冒頭に取り上げてある、

いつまでも旅の時間や水草生ふ

 この一句で、もう田中の作品に夢中になってしまう。「いつまでも」が「水草生ふ」によって「いのち」のように動いていく。「旅の時間や」という「切れ」を破って、「水草」のなかにある「いのち」の時間が、季節を繰り返し繰り返し、永遠をひきよせる感じがする。「水草」のなかに、「生ふ」という動詞のなかに、凝縮し、同時にどこまでも解放されて、自由にひろがっていく感じがする。
 朝吹は、この句について、

 「旅の時間」(略)といった非日常の世界への思いと、現実とを行きつ戻りつする心象の揺れ。喚起力を秘めた季語との触れ合いによって増幅された心象の綾は、何時しか幻想的な世界へ投影される。

 と、書いている。
 あ、幻想か。
 私には思いつかないことばである。
 幻想ねえ……と私は、もう一度つぶやいて、ちょっと、違和感をおぼえる。俳句がわからない、というのは、こういう瞬間のことである。
 私にはむしろ、田中の句は「幻想」から遠い。「旅の時間」という、一種抽象的で、よくわからないものが、「水草」「生ふ」という動詞によって、ぐいと近づき、リアルなものになる。
 私には、この句は、田舎の田んぼのわきを歩いているときの実感につながる。田舎の田んぼのわきを歩くことは「旅」ではないのだけれど、そのとき、「水草」を見て、それが春に(たぶん)、また生えてきているのを見て、繰り返し繰り返し季節がめぐってきているのを実感し、その瞬間に、あ、こういうことを感じるのが「旅」なんだなあ、と思う。いつでもそこにあるのに、見落としている。しかし、それをふとそれに気がつく。それはどこかへ旅することと同じなんだなあ、と思う。
 --逆に言うと(逆に言うと、というのは変な言い方かもしれないけれど)、旅に出て、名所・旧跡を見ても、それは「旅」にはならないんだろうなあ、と思う。目新しいものではなく、いつも見ていたはずのもの、見ていたけれど気がつかなかったものに出会った時が、きっと旅なんだろうなあ、と思う。
 そのとき、「田舎の田んぼ道」と「知らない土地」が「肉体感覚」そのものとして「ひとつ」になる。「旅の時間」と「日常の時間」が「ひとつ」にとけあう。
 そんな感じ。
 それは、私にとっては、「幻想」ではない。

 朝吹の取り上げている句はどれもとてもおもしろい。けれど、朝吹の批評は、私の印象では、彼が取り上げている句について語っているというよりも、なんだか朝吹自身のことを語っているようにも思える。取り上げている俳句よりも、もっとほかのことが語りたくて、その出発点として俳句を読んでいるという感じがする。
 たとえば、田中の句に対しては「幻想」ということばをつかいたくて、田中の句を引用しているような印象が残る。「幻想」ということばを書き、それを追いつめながら、「幻想」そのもの、「幻想」の構造を書きたいのではないか、という印象が残る。



 朝吹は、俳句と音楽についてもたくさんの文章を書いている。音楽についても非常に詳しい人なのだろう。その文章を読みながら、あ、俳句とは、こんなふうに読むものなのかと、いろいろ教えられる。
 でも、そのせっかく教えてもらったことが、私にはどうにも、苦しい。情報量が多すぎて、俳句って、そんなに情報量が多いものなのかという疑問がわいてきてしまう。俳句よりも、本当は音楽について語りたいのかもしれないなあ、とも思ってしまう。
 よくわからないが、たとえばブルックナーでも、ベートーベンでもいいのだけれど、その交響曲から、一つ一つの音を消していって、最後にのこった音--その音と「私」の出会いのようなものが俳句だろうと私は感じている。いろんな音を、いろんなことばをつみかさねていくと、出会いたい音が、ひとつの音が、「和音」そのものになってしまって、それは俳句とは違うものじゃないかなあ、と私は感じてしまう。

 適当な表現かどうかわからないけれど、朝吹は俳句から出発して、巨大な散文の世界へ歩いていっている感じがする。何かと出会い、その瞬間、それまでの時間が一気に凝縮し、同時にぱっと解き放たれる快感(私が俳句に感じる快感)ではなく、それとは逆の、ことばを積み重ね、積み重ね、その運動の果てに、「いま」「ここ」ではないどこかへ到達する--散文の精神を生きている人だと思った。

 あるいは、俳句は俳句で別の世界を描き、「エッセイ」なので、散文精神を発揮しているのだろうか。それとも、朝吹のような読み方が、いま、俳句の読み方として求められているのだろうか。
 ちょっと、わからない。

時空のクオリア
朝吹 英和
ふらんす堂

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『田村隆一全詩集』を読む(34)

2009-03-24 00:00:00 | 田村隆一
 「物と夢について」にはいくつもの文体が出て来る。

ぼくの不幸は抽象の鳥から
はじまつた
その鳥には具象性がなかつた
色彩も音もなかつた

 冒頭の4行は、高踏的である。緊張感があり、詩ということばが連想させる何かがある。ことばの疾走感。リズム。そういうものがある。

雪のうえに足跡があつた
足跡を見て はじめてぼくは
小動物の 小鳥の 森のけものたちの
支配する世界を見た

 これは具体的である。森と雪と小さな動物たちの姿が具体的に見えて来る。

 さて諸君、ぼくは抽象から脱れるために、疑問符と直線に注目した。では、曲線とはなにか? 曲線のリズムとはなにか? 盲目的なリズムに魅せられて、ぼくの足どりもフォックス・トロットになれば幸いである。

 抽象的、あるいは比喩的な文章である。そして、抽象的であることを自覚し、その抽象性を「フォックス・トロット」--狐の足跡から見つめなおそうとしている。最初に引用した4行を、次に引用した行の世界で批評しようとしている。人間(抽象的な思考をしてしまうもの)を、小さな動物の視点で見つめなおし、批判しようとしている。
 そういう過程を通って、ことばは、次のように結晶する。

鳥の目は邪悪そのもの
彼は観察し批評しない
鳥の舌は邪悪そのもの
彼は嚥下し批評しない

 鳥(小さな動物、生き物)と人間が対比される。小鳥の目は「邪悪」と定義されているが、これは田村流の逆説である。肯定としての「邪悪」である。それは、人間の「抽象」「批評」というような精神の動きを拒絶するという意味である。抽象を否定し、破壊し、拒絶する力への称讃が、「邪悪」ということばで表現されている。
 それはたしかに抽象・批評にたよって生きている人間にとっては有害である。彼を否定して来るからである。
 ここから、田村は、もう一度考えはじめる。鳥が(小さな動物が)、「ぼく」を、つまり「人間」の精神の動きをそんなふうに拒絶するのはなんのためなのか。それには、いったいどういう意味があるのか。
 ここからは、論理の力でことばを動かしていく。

千の針 万の針によって、ぼくはぼくの不幸を告知されたが、それでは降服を 告知してくるものは、いったいなにか? そこで「物」がはじめて現れる。物が生まれて、人間が幸福になるという、見事な例証が、ここにある。物は、人間の手によって産み出され、その産み出されたものが「人間」を造るという、若干逆説的で、しかも美しい有機的な関係を体験するなら、人は人になるだろう。人と物の交りなくして、この世の文化は存在しないからである。

 人間と動物の違いは「物」をつくるかどうかである。そして「物」は「文化」そのものである。動物にも「文化」はあるが、それは特殊な領域であって(動物学から見た世界であって)、人間の「文化」とは違う。人間は、生きるため(生き延びるため)に「文化」をつくるのではなく、「遊ぶ」ために「文化」をつくる。きのう読んだ「毎朝 数千の天使を殺してから」の最後の方にでてきた「遊ぶ」。それが「文化」である。役に立たない--暮らしに役に立たないということよって、人間の「いのち」に役立つなにか。逆説を含んだ何かが「文化」である。
 そういう「論理」の文体をくぐり抜けて、田村は、ミロを、滝口修造を、引用し、つまり他人の視力とことばがつくりだした芸術で、それまでのいくつもの文体を洗い直して、最後に、それまでの文体とは違った次元へ飛翔する。

この世に他界あり、その詩的経験をするためには、
ある晴れた日、
ミロという石版のかがみにむかつて、
飛び込んでみようよ。
たぶん、
ミロの小鳥のように自殺には成功しないだろうが、
ぼくらが
転生
することだけは
たしか。

 「他界」「自殺」「転生」。
 この三つのことばは、私には、とてもなじみがあることばに響く。そのままのことばではなく、次のように言い換えると、それがぐいと身近に感じられる。
 「他界」は「矛盾」である。この世にはほんらい存在しないものである。この世ではないものが「他界」である。
 「自殺」とは「死」である。「破壊」である。
 「転生」とは「再生」「生成」である。
 矛盾→破壊→生成という運動が、ミロをくぐり抜けることで、「他界」「自殺」「転生」ということばに書き換えられているのである。あるいは、補強されているのである。
 あらゆる芸術・文化(遊びのためにつくりだした「物」)は、人間に、いま、ここにあるものではないものの存在を知らせる。ここにないものが、ここにあるというのは論理矛盾だが、そういう論理ではとらえられないものの力で、この世界をつくりあげている枠組み(構造)を破壊・解体する。それは、それまでの自己の死につながるが、その死を経験することで、「自由」を獲得する。自己から逸脱し(エクスタシーである)、「自由」のなかで生まれ変わる。再生・生成・誕生。

 1篇の詩のなかで、いくつもの文体をくぐり抜けながら、ことばでしかたどりつけないものに達する。--詩に到達する。
 いくつもの文体、複数の文体は、文体の乱れと呼ぶこともできるが、その底部を流れるものが乱れていないければ、乱れではない。乱調ではなく、変奏である。変奏を繰り返すことで、浮かび上がって来る「テーマ」というものもある。いくつものことばを生きながら、ほんとうのことばを探しているのである。




青いライオンと金色のウイスキー (1975年)
田村 隆一
筑摩書房

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田中武『雑草屋』

2009-03-23 11:41:45 | 詩集
田中武『雑草屋』(花神社、2009年03月15日発行)

 「優しい宇宙の物語」という作品がある。

野球の日本シリーズが終わると ぼくはまた一人のボクサーに戻った
ときどきは優れたゴルファーでもあった
けれど本当は凄いマラソンランナーなんだ

 書き出しの3行である。「ぼく」はだれなんだろう。次々に行がかわっていって、終盤。

さて 右左にステップを踏んで突進するラガーが今日のぼくだ
その指先に読み解くすべもなくて膨れあがった
微細な物語が潜んでいる

 この「物語」が武田のキーワード(思想)である。すべての存在はそこに存在しているだけではなく「物語」を持っている。武田はそう考えている。「物語」とは何か。それぞれの事情、それぞれの時間(過去)のことである。
 武田は、そういうものについて思いめぐらす。
 「踏切」は無人島の話しである。

 無人島に鉄道も列車もあるはずはないのだが、踏切だけはある。ぼくが踏切番なのだから。もっともイタドリの葉のうえで蝶々を食べているカマキリだってそうだし、この島のすべての生き物がそれぞれ独自に踏切番をしている。

 「すべて」「それぞれ」が「物語」を持っている--と考えるところに、武田の人間性がでている。「すべて」「それぞれ」を次のようにも言い換えている。

 ある時、ある場所でさっと右腕を水平に伸ばす。それでいい。ぼくはぼくの、かれらはかれらのスタイルで、という訳だ。ごうごうと、さらさらと、ときにはことことと、形容すればしたようにそれは目の前を通る。単純なものだ。

 「列車」は「風」の別の名前かもしれない。風には風の「物語」があるのだから、どんなふうに名乗っても、「ぼく」には干渉のしようがないことかもしれない。ただ、それを受け止めるしかない。ぼくにはぼくの、かれらにはかれらの「スタイル」がある。自分以外の「スタイル」を受け入れる力が田中にはあるのだ。
 他者を拒絶せず、他者を受け入れ、共存する力が、田中の思想である。
 田中のそうしたスタイルが、不思議なユーモアを持っているのは、「形容すればしたように」という「意識」が田中にはあるからだ。田中はただ他者を受け入れるのではない。他者を受け入れながら「形容」している。自分のスタイルで。
 他者の「物語」を認める。同時に、その「物語」を自分のことばで語る。形容する。
 その瞬間、そこには「ずれ」が生じる。「形容すればしたように」というのであれば、なおさらである。みんなが、それぞれ「他者」を自分の流儀で形容する、語る--あれっ、本当の物語はどこ? この困惑が笑いである。ユーモアである。

 別の作品で、言い直してみよう。「雑草屋」。

 雑草という草はないというけれど、ぼくならこう言う。雑草のほかに草はない、と。雑は命の基本なのだから。

 「ぼくならこう言う」の「ぼくなら」。そう、田中は、あくまで「ぼくなら」にこだわるのである。この、こだわりがおかしい。すべてのものがそれぞれの「物語」をもっていて、そして同時に他者に対しても「物語」をつくりだすことで受け入れているのなら、それは、いったいぜんたい、どういうこと?
 引用した部分につないで(1行空きのあとでの、つなぎだけれど)、「島でぼくはときどき雑草やというものになる」と書いている。雑草を売るというのである。
 で、最後。

 で、誰が買ったんだ、と聞くだろうが、教えない。商売上の秘密、と言うわけじゃない。このことについて語れる言葉がどうにも見つからないからだ。

 傑作である。たのしい、おかしい、というだけではなく、絶品という意味でも傑作である。
 「物語」はことばにしないことには「物語」にはならない。ことばにならない「物語」は「物語」ではない。
 すべての存在は「物語」をもっている。「ぼく」自身も「物語」をもっている。けれども、その「物語」には語れないことが含まれている。矛盾である。その矛盾が、武田の思想である。矛盾は、何度でも書いてきたけれど、その人の思想そのものである。思想の根っこである。
 一方に語れることがあり、他方に語れないことがある。そのことを自覚して、語れることだけを語る。語れないことは語れないと、正直に語る。「ことばがどうにも見つからない」と書く。
 この正直さが「物語」という「嘘」をほんとうに変える。どんな「嘘」でも本当のことをひとつ含むと、「真実」につながる「道」ができる。その「道」は完成しているわけではないが、と書いて、ふいに、あれっ、こういうことを田中はどこかに書いていたなあ、と思い出してしまう。
 あ、「優しい宇宙の物語」の最終連だ。

何も書かなくても 何も歌わなくてもいい
新聞の一ページを数億年かけて読み終えても
宇宙は未完のまま旅している いまもその途次

 ほんとうにたのしい詩集だ。「思想」がとても、あたたかい。とても正直。いいなあ。多くの人に、ぜひ、読んでもらいたい。
 「今月の推薦詩集」と、思わず書いてしまう。(こんなことを書くのは、はじめてなんだけれど。「来月の推薦詩集」があるかどうか、わからないけれど。)

 
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『田村隆一全詩集』を読む(33)

2009-03-23 00:01:36 | 田村隆一
 『誤解』(1978年)の巻頭は「毎朝 数千の天使を殺してから」という詩である。

「毎朝 数千の天使を殺してから」
という少年の詩を読んだ
詩の言葉は忘れてしまつたが
その題名だけはおぼえている さわやかな
題じやないか

 この書き出しはとても気持ちがいい。田村の感動がそのままリズムになっている。田村は、矛盾が好きである。破壊が好きである。「天使を殺す」ということばのなかにある常識とは逆のベクトルに田村が反応したのはよくわかる。田村でなくても、誰でも、そのことばに反応するだろう。
 異質なものの出会いが詩である--という定義に従えば、この1行は、独立して、完璧に詩である。他に余分なことばはいらない。田村が少年の書いたほかの「詩の言葉は忘れてしまつたが」と書いているが、これは逆説である。ほかのことばは必要ないからおぼえなかっただけなのだろう。
 田村の感動が強烈だったことは、

その題名だけはおぼえている さわやかな
題じやないか

 という2行に強烈にあらわれている。「さわやかな」ということばは「題」を修飾することばだが、その「題」には直接かからず、「おぼえている」という動詞により近づいた形で、「おぼえている」という行に含まれている。
 田村は「題」をおぼえているというよりも、「さわやかさ(な)」をはっきり記憶しているのである。田村は「題」と向き合っているのではない。「さわやかさ」(さわやかな印象)と向き合っている。さらに言えば「意味」と向き合っているのではない。感覚と向き合っているのである。「意味」--ことばで伝えられる情報ではなく、ことばを拒絶して輝く新鮮な力としての感覚と向き合っているのである。

 ことばは、詩は、「意味」を伝える(流通させる)道具ではない。ことばは、ことばになる前の感覚をあらわすための方法なのだ。「未分化」なものを「分化」して、切り取る運動なのである。
 先の引用につづく部分は、次の行である。

おれはコーヒーを飲み
人間の悲惨も
世界の破滅的要素も
月並みな見出しとうたい文句でしか伝えられない
数百万部発行の新聞を読む
おれが信用しているのは
株式欄だけだ
総資本のメカニズムと投機的思惑だけが支配する
空白の一頁

 「新聞」--その「流通言語」は、「人間の悲惨も/世界の破滅的要素も/月並みな見出しとうたい文句でしか伝えられない」。月並み--は、「さわやかな」と対極にある状態のものをさしている。そういう「流通言語」は信用できない。「意味」は信用できない、と田村は、別の表現で表明していることになる。

 このあと、田村は、想像のなかで少年と対話する。少年の詩の「題」の「さわやかさ」(さわやかな印象)と向き合い、ことばをさがす。少年のさわやかさと向き合える田村自身のことばを。
 最終連。少年に田村は、語らせている。田村自身の「意味」ではない、「意味」と対極にあることばを。

ぼくがいちばん性的に興奮する場面を知つていますか?
いつのまにか大きな橋が消えると
黒い馬が一頭あらわれる
だれも乗つていない
馬だけが光りの世界を横切つて
陰の世界の方へゆつくりと歩いて行く
力がつきて
黒い馬は倒れる 獣の
涙をながしながら腐敗もしないで
そのまま骨になつて
純白の骨になつて
土になる
すると
夜が明けるんです
ぼくは遊びに行かなくちや
数千の天使を殺し
数千の天使を殺してから

 「馬」は「意味」ではない。つまり象徴でも比喩でもない。「天使」のように、少年の肉眼に見えるもの、生きているなまなましい馬である。少年には、そこに書いてある通りのことが見える。見てしまう。「意味」ではなく、「意味」を拒絶した情景そのものが見えるのだ。
 その馬が死に、白骨になる、土になる。
 そのあと。

ぼくは遊びに行かなくちや

 仕事をしに行くのではない。なにか、世界のために役立つことをするために行くのではない。「遊びに行く」。
 「意味」が「未来」だとすると、「遊び」は「自由」である。少年が求めているのは、「自由」だけである。
 「毎朝 数千の天使を殺してから」。そのことばが「さわやか」なのは、それが「自由」を切り取っているからである。数千の天使を殺した後、世界がどうなるかという「未来」は考慮されていない。「天使」のように、何か、人間に対して「意味」を持っているものをただ拒絶する。そのとき、「自由」があらわれる。剥き出しになる。だれも「未来」を保証しない。そのことの「自由」。
 「性的興奮」のように、まったく無意味(「未来」にとって、という意味だが……)、ただ、いまが輝くだけ、「いま」という時間からさえも逸脱していく力。「自由」。

 「遊び」のなかに、人間の力がある。

 何度か、田村の矛盾は(対立は)、止揚→発展ではなく、破壊、解放というようなことを書いたが、それは「遊び」のなかにある「自由」に通じるものである。「意味」から遥かに遠く、解放された力--どんな「未来」(発展)をも目指さないエネルギー。それを田村は、ことばでつかみ取ろうとしている。



ぼくの性的経験 (徳間文庫)
田村 隆一
徳間書店

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林嗣夫「余白の道」、小松弘愛「落葉」

2009-03-22 13:50:15 | 詩(雑誌・同人誌)
林嗣夫「余白の道」、小松弘愛「落葉」(「兆」141 、2009年02月01日発行)

 林嗣夫「余白の道」は何が書いてあるのか、わからない。そして、そのわからないところが、とても魅力的だ。全行。

高橋和己の小説を読んでいて
あるページまできたとき
ふいに脇道にそれてしまった

そのページの右上から左下にむかって
一すじのかすかな道がつづいていたのだ
句点「。」や読点「、」がつくりだす小さな余白の
つらなりが
とぎれそうになったり
折れ曲がったりして

それはまるで
物語の森を通過するひそやかなけものみちだった
あるいは
文字の砂漠を行きなずみくねっていった
毒へびのあとだった

高橋和己の小説を読んでいて
ふいに高橋和己からはぐれてしまった
言葉の茂みを通過する一すじの細い道
そして思い出したのだ
そこをくぐりぬける虹色の羽をもつ鳥を
尾が長いためけっして後戻りすることのできない鳥のことを

 句読点が1ページのなかで偶然美しい模様を描いている。ことばを読んでいるはずなのに、そのことばが消え、句読点がつくりだす「空白」がひとつの模様として見える。そこから、林は、高橋のことばが語っている「意味」ではなく、ふっと脇道にそれる。想像力が、本来のことばの描き出しているもの以外を追いかける。しかし、それはほんとうにことばが描き出しているもの以外なのか。もしかすると、ことばが隠しているほんとうの「獲物」かもしれない。
 林はそれを美しい鳥にたとえて書いている。美しい鳥は比喩であり、象徴である。
 比喩や象徴は、ほんとうは、それが指し示す「意味」、いま、ここにはない「意味」を明確に伝えなければ比喩、象徴の働きをしているとはいえない--はずである。
 私は林が書いている美しい鳥の比喩の「意味」、象徴の「意味」がわからない。だから、この詩を何度読んでもわからないと書くのだが、わからないと書きながら、そのとりの美しい姿、その死、その断末魔--それをとても美しく感じ、その美しさ、それがわかりさえすれば、鳥が何の比喩、何の象徴かわからなくてもかまわない、と感じてしまう。
 比喩、象徴が、ここでは、「意味」を伝える、暗示するという働きを放棄して(?)、あるいは超越して(?)、鳥そのものとして存在している。高橋和己のことばの(活字の)つらなりが、ことばであることをやめて深い森になり、句読点は獣道になる。それが不思議に実感できる。高橋のどの小説、どのページなどということはどうでもよくて、林が見た森が、獣道が、美しい鳥が、想像力の、さらに先をかすめるように猛烈な鮮やかさで飛んで行く。その飛翔を見たくて、もっとはっきり見たくて、何度も何度も読み返してしまう。
 読み返しているうちに、林は「高橋和己からはぐれししまった」と書いているけれど、その鳥が高橋和己の精神に思えてくる。長い文体、けっして後戻りをすることのできない精神が描き出した文体、それを支える精神の輝きにも見えてくる。
 たいへんな傑作だと思う。感想を拒絶して、ただそこに存在する--そういう特出した作品だと思う。



 小松弘愛「落葉」は、情景を描きながら、しだいに「ことば」のなかへ入っていく。
全行。

ビルの
三階の窓から見下ろすと
コの字形の建物に囲まれた中庭に
風が吹き込んでいる

その風に乗せられて
樟(くす)の赤みを帯びた落葉が
次々に立ち上がり
くるっ くるくると回転している

わたしは
落葉の舞いをしばらく眺めた後
一茶の「猫の子」を中庭に呼び入れて
階段を降りる

くるっ くるくるくる
くるっ くるくるくる
「猫の子がちょいと押へる落葉かな」
くるっ

 私たちは肉眼で情景を見ている--と信じている。自分の肉眼でみている、と。しかし、その見たものを実際にことばにしてみるとわかることだが、私たちのこころは肉眼を忠実に受け止めているというよりも、肉眼で見たものを、既に知っていることばに結びつける。ちきんと結びついてくれることばをさがしている。
 この作品では、小松は一茶の句を思い出している。
 小松は、自分の肉眼で落ち葉を見ていたけれど、いつのまにか一茶の句の世界を見ている。一茶を、小松がみている世界に招き入れて、いっしょに世界を見ている。一茶の句には「くるっ くるくるくる」ということばはないけれど、その「くるっ……」さえも一茶の句に支えられている--どこか遠い場所で、不思議な力で支えられながら、たのしく遊んでいる、交流しているのを感じている。

 ことばはいつでも「私」だけではなく、遠い遠い時間を超えて、誰かのことばと交流する。誰かのことばに「いのち」をもらっている。
 小松が「土佐方言」を詩に書きつづけるのは、そういう「いのち」を受け止め、つないでいこうとするこころがあるからだろうと思う。

 そして、(この「そして」には、むちゃくちゃな飛躍があるとは思うけれど……)、林が書いていた高橋和己の、句読点の余白、その獣道と美しい鳥も、そういう「いのち」を形にしたものだと思う。林が受け止めた、高橋の「いのち」、高橋のことば、それを本の形にしている活字、紙、インク--その複合されたひとつのしごとのなかにある「いのち」を受け止めたときの衝撃--衝撃ゆえに見てしまう鮮やかな幻のように思える。





風―林嗣夫自選詩集
林 嗣夫
ミッドナイトプレス

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小松弘愛詩集 (日本現代詩文庫)
小松 弘愛
土曜美術社

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『田村隆一全詩集』を読む(32)

2009-03-22 00:00:38 | 田村隆一
 「破壊された人間のエピソード」も「ことば」を問題としている。

近代日本語はたしかに旅をしたが
その言葉によって造られた人間は
どんな地平線と水平線を見たというのだろう
ぼくらか連れ出された世界は
死者と死語と廃墟にみちていて

 「言葉=人間」と田村は缶が堰堤ル。「言葉によって造られた人間」という表現は、それを端的に語っている。ことばこそが人間である。ことばこそが、その人である。
 この詩を書いている田村は、インドで夜行列車にのっている。車掌がやってきて、ウイスキーをわけてくれ、と言う。そのあと、

ぼくは怖しい話を聞いた 夜汽車を狙う
集団強盗が出没していて乗客から
金や宝石を奪いとると
ピストルを面白がって撃つそうだ
ピストルを撃つ
弾丸が獲物の肉体を貫通する
肉体に穴があいて
赤い血が噴出する
獲物が悲鳴をあげる

それがおもしろくてしようがないのさ
人間が獲物に変身することだって痛快なんだ
あの夜汽車の車掌がウイスキーをもらいにきた意味がやっとわかってきたぞ

 この「車掌がウイスキーをもらいにきた意味」とは何だろう。つづく連に、「夜汽車の車掌が悪夢を見ないために」とあるから、たぶん車掌は列車強盗が襲って来る悪夢から逃れるためにウイスキーをほしがったというのが田村の考えていた「意味」かもしれない。
 けれども、私は違ったことを考えた。
 「人間が獲物に変身することだって痛快なんだ」。「変身」と「痛快」。それが「意味」だと思った。人間は何かになる。何かに変わる。そのことが「痛快」であり「おもしろい」。だとしたら、車掌が田村に「ウイスキーを少しいただけないでしょうか」というとき、車掌は何であり、田村は何であるのか。車掌は乗客にサービスする人間ではなく、田村はサービスを受ける人間ではなくなっている。「変身」している。その「変身」はささやかで、はっきりとは見えないかもしれないけれど、やはり「変身」である。ふたりは車掌-乗客ということばで造られた(そういうことばであらわすことのできる)人間ではなく、「車掌」「乗客」ということばをはぎ取られた人間である。ことばをはぎとられ、つまり、「水平」の回路をはぎ取られ、それぞれが垂直の方向に洗い直された人間である。それが「痛快」である。--その「痛快」を車掌は求めていた。そして、田村はそれに答えた。「乗客」としてではなく、洗い直された人間として。
 この瞬間が、旅なのである。この旅の瞬間、田村は「死者」と向き合っていない。「死語」をかわしていない。もちろん「廃墟」のなかにいるわけでもない。

 詩は、次のようにおわる。

電話のベルが鳴り
長い長いサナダ虫のような電話線で
人間は
人間の言葉で
喋っているが

おたがいに理解しあったためしがないじゃないか
誤解に誤解をかさねて
ぼくらは暗黒の世界から生れ
暗黒の世界へ帰って行くのさ
一条の光り
その光りの極小の世界で
歩きつづけている
ぼくらの
奇妙で
滑稽で
盲目の
旅の

エピソード

 田村は、インドの夜汽車でウイスキーを分けてくれと言う車掌に会った。そのとき、たしかに「旅」をした--そう田村は、言うのである。



キャッツ―ボス猫・グロウルタイガー絶体絶命
T.S. エリオット
ほるぷ出版

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ベント・ハーメル監督「ホルテンさんのはじめての冒険」

2009-03-21 18:22:45 | 映画
監督 ベント・ハーメル 出演 ボード・オーヴェ、モリー(犬)

 とても不思議な映画である。特急の運転士が定年を迎える。それまで規則正しく暮らしていたのに、その定年の朝、運転すべき列車に乗り遅れる。そして、仕事をなくしたあと、何人もの人に出会い、そのたびに、少しずつ生活がずれていく。
 --と書いたが、正確には、最後の仕事の1日前の晩、定年パーティーからずれはじめる。(パーティーでの、運転士仲間の「しゅっしゅっぽっぽっ、ぼー」が傑作である。そのあとの、身内にしか通じないクイズ合戦とかも--ということを書きたくて、この文を書いている。)
 あすも仕事があるのは承知なのに、パーティーの後の二次会。会場にたどりつけずに、同じアパートの別の部屋に紛れ込み、出会った子どもに眠るまで見ていて、なんて頼まれて、そのまま寝過ごしてしまう。この子どものとのやりとりが象徴的だが、この映画の主人公は自分から何かをするというより、他人に頼まれると(言われると)、それにずるずると引っぱられる感じで、生き方がずれていくのである。
 とても奇妙だけれど、それがとても自然に見える。
 ひとつには北欧(映画は、ノルウェー)の「個人主義」が、アメリカやフランス、イギリスとは違うからだろう。なんといえばいいのか、過度の「しつこさ」がない。「友情」の押し売りがない。レストランといえばいいのか、酒場といえばいいのか、主人公が出入りする飲食の場があるが、そこに来ている客はぽつんぽつんと離れている。座っている場所はいつも同じ。互いを知らないわけではないのだろうけれど、口をきいたりはしない。(アメリカ映画なら、全体、それぞれがファーストネームで呼び合う。イギリス映画、フランス映画では知らん顔はするかもしれないけれど、この映画のように、互いに距離をとっては座らない。)それぞれが自分のペースで暮らしている。まるで、列車のように、規則正しく……。高福祉、高負担という暮らしのなかで、すべてがつましくなっているという感じがとても強い。あらゆる暮らしに「むだ」がない。だからといって「貧乏」というのでもない。余分なことをしない--という姿勢が、人間関係にまでおよんでいるという印象である。
 主人公の冒険(?)は、夜のプールで泳いでいたら男女が二人ヌードで泳ぎはじめたとか、サウナで靴を間違えられ(?)ハイヒールをはいたりとか、目隠しドライブにつきあわされたりとか、主人をうしなった犬をひきとったりとか、まあ、どうでもいいようなことばかりである。
 そのどうでもいいことばかりを、つまり余分なことを、余分なことをしないスタイルの映像でみせていくところに、この映画の味がある。(映像の情報量は、非常に少ない。アメリカ映画なら、こういう映画でも非常に情報量が多い。たくさんのもの、ファッション、車、食べ物、町の風景……が大量にあふれる。)シンプルな映像なので、そのひとつひとつがいつまでも記憶に残る。主人公の住んでいるアパートの壁の青の冷たい感じとか、目隠し運転の男の家の冷蔵庫の中のずらりと並んだビンとか。ほとんど無表情、演技しない犬とか。(この犬は、カンヌで「パルム・ドック特別賞受賞)
 演技しないのは、犬だけではなく、誰もが過剰な演技をせず、むしろ演技をしないことで、人間そのものを、その人の感性・思想をにじませる。はじめて見る役者(見たことのある役者もいるかもしれないけれど、有名ではない)ばかりなのに、ひとりひとりがとてもなつかしい、不思議な親しみにあふれているのは、余分を排除しているからだろう。
 余分なものを排除すると、人間は美しくなるのだ。
 最後の最後に、主人公は、目隠し運転の男の持っていた「隕石」をポケットに、はじめてのスキージャンプに挑み、そのあと、「きてね」といった女の元へ行くのだが、定年後の恋であるから、燃えるような恋でもないのだが、そのたんたんとした感じがほんとうにおもしろい。そして、とても美しい。ほっとする美しさにあふれている。
 質素に、自分の好きなことだけをやって生きていく、やりたいことをやるのに遅すぎることはない--そんなことを感じる映画である。そして、人間はだれでも美しくなれるということを信じさせてくれる映画である。

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瀬尾育生「はじめて選考に参加して」、高貝弘也『子葉声韻』

2009-03-21 12:03:17 | 詩集
瀬尾育生「はじめて選考に参加して」、高貝弘也『子葉声韻』(「樹木」27、2009年03月13日発行)

 瀬尾育生「はじめて選考に参加して」は第39回高見順賞の選考経過について語ったものである。高貝弘也『子葉声韻』についてかたった部分。

 高貝詩集の受賞について、私は異議はない。文字・音・像の秘儀に参入する、資質に根ざしたまっすっぐで清潔な探求の達成点として、これはだれにも文句の付けようのない詩集である。だがあえていえばと、クリティカルな位置に立つものに対しては毀誉褒貶があるのがふつうなのに、人々がこれほどに、文句の付けようがない、という感じを持つのは、この詩集がどこかで、いわば工芸品のような受け止め方をされているからではないか、という印象が残った。

 この批評に、私は、ほっとした。不思議な安心感を覚えた。
 私は高貝の詩が好きである。何度も感想を書いた。今回の詩集も感想を書いた。けれど、私は今回の詩集には違和感を覚えた。それは、もう、高貝の詩集はおもしろい、と言わなくてよくなってしまった、という違和感である。それまでは、高貝の詩集はこんなにおもしろい、ことばの動きがこんなにおもしろい、と宣伝(?)したくてしようがなかったが、今回はそういう高ぶりを感じなかった。そして、それは高貝の作品のせいではなく、実は、私自身の変化だったと気がついた。
 瀬尾のことばによって、自分自身が変わってしまっていることに気がついた。

 私は、高貝のことばを、ことばの運動というよりも、完成された工芸品--完璧な伝統工芸品と見るようになってしまっている。
 それも、琳派の工芸品をみるというよりも、そういう場から距離をおいて、ひっそりと息づいている、いわば「わび・さび」のような、静かな工芸品である。豪華なもの、目を驚かすようなものから距離を置いているけれど、その距離の置きかたで、逆に目を洗い流すようなもの。どこかに置いてきてしまったことばの、静かな静かな息づかい。その静かさで、静かさにどれくらいの静かさの音があるかを聞かせる--というより、耳の感覚を洗い流し、目覚めさせるような息。息そのものの、ゆらぎ。
 このとき、息は、「生きる」の「生き」であり、生きる「領域」の「域」であり、その「域」をさししめすことのできる「粋」なるものの本質である。
 --そんなふうに見る視点が、私のなかに出来上がってしまっている。
 私のなかにできあがっている視点を叩き壊して、もう一度高貝を読んでみようという気持ちに、私はなれなかった。そして、そこにある高貝の詩集に、とても満足してしまった。ああ、いいものを読んだ。いいことばを見た。という印象が残ったのである。
 もちろん、そういう印象を残す詩集は非常にすばらしいのであるが、そのすばらしさに対して、私は、どこかで、ことばを放棄してしまっていた、ということに気がついた。

 高貝のことばに対して、私はどんなことばで向き合えるか--そのことを、瀬尾のことばは、唐突につきつけてきた。つきつけられていることに気がついた。



 どんなことばで向き合えるか。「子葉声韻」の一部が「樹木」に抜粋されている。

遠浅の子が まだここに、
         ぬれ濡(そぼ)っている
  未生以前の、父母のむくろをさがして

 たとえば、この1連。「遠浅」と「ぬれ濡っている」の響きあいに、私は、悲しみと安心を覚える。「遠浅」だから子どもは安心してそこにいることができる。そして、その子どもを安心して見ることができる私がいる。これが荒磯でぬれ濡っているのだったら、荒い波のしぶきを被っているのだったら、安心はできない。危ない、と叫んでしまう。悲しみへとこころは動いては行かない。ま
 た、「ぬれ濡っている」という音のなかにある貧しさ(?)、暗さのようなものが「まだここに」の「まだ」とも響きあうのを感じる。そしてそれが、死んでしまった父母のむくろをではなく、「未生以前の、父母のむくろ」という虚を悲しみを事実としてささえているのを感じる。
 「そぼる」という音のなかにある「ぼ」が「ふぼ」の「ぼ」と重なり、また私には「むくろ」の「む」とも「ろ」とも、いや「む」と「ろ」の響きにも重なる。さらに私の耳に聞こえた感じを言い直すと、「む・く・ろ」というときの音の「く」は私のなかでは「K+U」ではなく、「K」のみである。「むくろ」を私は「MU・K・RO」と発音する。あるときは、「K」は沈黙のなかへ消えてしまう。「む(沈黙)ろ」なのである。その音は「ぼ」ととてもよく響きあう。「ぼ」だけではなく「そ・ぼ・る」という音と通い合う。
 こうした音の操作を、高貝はとても意識していると感じる。音の響き、「むくろ」の「く」のように沈黙のなかに消えていく音を正確に聞き取り、再現する繊細な感覚--そういうものを日本語の動きそのもののなかからていねいにすくいだしているのを感じる。

 --だが、こんなふうにあらためて感想を書いてみて、やはり、高貝のことばを「工芸品」のように見ていることに気づいてしまう。どんなふうに読めば、高貝を「工芸品」から切り離し、「いま」「ここ」と結びつけることができるのか。
 そんなことを、瀬尾から大きな問題として提起されたようにも感じた。


子葉声韻
高貝 弘也
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アンユナイテッド・ネイションズ
瀬尾 育生
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『田村隆一全詩集』を読む(31)

2009-03-21 00:15:55 | 田村隆一
 「ジム・ビームの思い出--恐怖にかん照る詩的エスキス」のなかに、ことばと「他者」に関する表現が出て来る。田村の詩「恐怖の研究」を英語に翻訳する。サム君と「恐怖」の訳語をどうするかで話し合った。サム君はhorrorと訳し、田村はfearにこだわった。

辞典をめくってみたら
類語がたくさんでてくるではないか
dread fright alarm dismay terror panic……
力は他者に向かって水平に働く
その力が科学とその組織をつくり出し
平和も戦争も死語にしてしまった
水平に働く力は
人間の言語を死語にするのだ
美しい死語に
言語はたちまち抽象化されて
記号になる
この過程にもしfearがあるとすれなら
人間の五感ではとらえられないところに
言語は結晶化されて
透明になって行く そして記号が記号を産み
その増殖作用によって
ぼくは「ぼく」でなくなるのだ
その結果として
 horrorがあらわれる
 horrorの効果があらわれる
 horrorの効果を精密に計算する集団があらわれる

 「他者」と「水平」。
 私はこれまで、田村は「他人」に触れることで田村自身を洗い直す、と書いてきた。
 ここに書いてある「水平」は、「洗い直す」力とは逆である。洗い直す代わりに、田村を(人間を)傷つけない「回路」をつくる。「他人」を、そして「自分」を傷つけないで関係をつくるためにさまざまなことばが選ばれる。それは入り組んだ「回路」を水平にひろげていく。その水平に広がることばの回路のなかで、ことばはことばの力を失い--つまり、自分自身さえもかえる、そうすることで世界をかえるという力を失う。そういうことを「抽象化」と呼んでいる。

 では、「他人」が田村を洗い直す--と私が書いてきたことは、間違っていたのか。「他人」とは田村を洗い直さないのか。

 たぶん、こういう「定義」は、もっと精密にしなければいけないのかもしれない。「他人」「他者」ということばを田村がどんな文脈でつかってきたかを丁寧に分析しなければならないのかもしれない。私が、「他人が田村を洗い直す」と書いた時、私は「他人」という表現を私自身の「辞書」のなからひっぱりだしてきた。私が「他人」というときと、田村が「他者」という時は、その指し示すものが違うのである。

 先の引用につづく部分。

力が自己にむかって垂直に働くとき
ぼくは夢からさめる
あるいは
あたらしい夢
創造的なfearの世界に入って行くことになる

 「水平」と「垂直」。「他者」ということばと結びつけてみるとき、「水平」が「他者」であり、「垂直」は「他者ではない」--というわけではない。「他者」のなかには「垂直」の力として働きかけて来るものと、「水平」の力として働きかけて来るものがあるということである。「垂直」の力として働きかけて来るものが「他人」である。それは田村を洗い直すのだ。「洗い直す」とはそれまでの「水平」の回路が取り払われ、もし田村が「他人」と関係を構築するなら、あたらしい回路を自分の奥深くから(垂直に掘り下げた「いのち」の原点から)もういちど再出発しなければならない、ということを意味する。
 この瞬間のことを、田村は、とても興味深いことばであらわしている。

ぼくは夢からさめる
あるいは
あたらしい夢

 「あるいは」。「夢からさめる」と「あたらしい夢」へ入っていくこと--それは矛盾である。ところが、田村は、それを矛盾と考えていない。なぜか。どちらも、自分を洗い直し、自分ではなくなるという運動、ベクトル(→)だからである。
 いま、水平にひろがっている回路を叩き壊し、あたらしい回路を、人間の「未分化」のいのちからの回路をつくる(創造する)ことだけが「真実」なのである。それが、どっちの方向を向いていても、水平ではない、水平を叩き壊すという運動として同じなのである。そして、それは確立されものではないから、だから「あるいは」としか言いようがないのだ。

 ことばを「流通するための回路」、「水平の道」として「他者」と共有するのではなく、そういう言語を破壊し、まだどんな回路も持っていない「他人」と直接出会う。そういう出会いのために、いま流通している言語を破壊する(徹底的に批判する、批評する)行為としての詩。現代詩。
 この詩は、ある意味で、田村の「現代詩宣言」でもある。

 恐怖はfearかhorrorか。--その「決着」はここにはない。田村は、ここでは、ことばが「他者」とのあいだにどんなふうにして存在するか、田村自身が求めていることばがどんなものであるかをあらためて書いているだけである。そして、その考えのきっかけとなったのは、「サム君」という田村以外の人間であった。そういうきっかけとなに人間は「他人」である。しかしまた、その「他人」は田村の言語の冒険を否定する「他者」ともつながっている。
 「他者」はあるとき「水平」の力として働き、あるときは「垂直」の力をひきおこすきっかけともなる。ことばというものが、自分以外の人間の存在を前提としているからである。自分以外の人間を変えるためには(社会を変えるためには、社会に流通する言語を帰るためには)、自分が変わる以外にない、自分自身の言語を変える以外にない--この遠回りの、逆説の運動。逆説の運動としての現代詩。「他人なんかどうでもいい、自分の、いまつかっていることばをかえたいだけ」というしかない逆説としての運動。逆説としての現代詩。

 いつでも、矛盾でしか言い表すことのできないものがある。



田村隆一全詩集
田村 隆一
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海埜今日子「《わたしは水に忘れないで、》」、野村喜和夫「旅の驚異」

2009-03-20 08:38:44 | 詩(雑誌・同人誌)
海埜今日子「《わたしは水に忘れないで、》」、野村喜和夫「旅の驚異」(「hotel 」21、2009年03月01日発行)

 海埜今日子「《わたしは水に忘れないで、》」は、ミレイの「オフィーリア」を見た感想、印象を詩にしたものである。不思議な表記がある。

こゆびをふきとったせいしんになる。あのひとは、そうつたえ(られないいみをぬぐいながら、だんぺんとなったかつじのいくばくかはひろいあつめ、うしみつどきにいのりをこめて)、およぐこえはたてごとです。

 「そうつたえ」のあとかっこ記号がつづきことばが挿入されるのだが、それは「つたえられない」というひとつの文章にもなっている。たどってきた道が、そのかっこ記号のところで二股に分かれ、どちらへ行っても、道は道である、どこかへつづいていくという感じである。
 こうした文体は、その後も登場する。

へだたったほとばしりを、しげみのなかでそうさいしたのか(もしれない、よふけにうまれつつあるはなばなのことば、たちは、しんそこぺんさきをひたしていたのだと)、やなぎ、かなしんで

ゆびのうかんだがっきです、からんだうたをちんもくし(たのだと、うしみつどきはきびすをかえした、はなをつままれても、つまりかつじはみあたらないのだ)、きおくはいまをあるひながれ、

 そして、二股に分かれた道を、こっち別の道と信じて歩いていくと、またいつの間にかかっこが閉じられ、もとの道につながる。
 迷子になったのか、迷子にならずにすんだのか、わからないまま、見知らぬ街を歩いているような不思議な感じである。
 海埜にとって、何かを、たとえばミレイの「オフィーリア」を見るというような行為は、たぶんそういう感覚なのだろう。見知らぬ街を歩き、いくつもの枝分かれした道をたどり、その先々で新しいものを発見し、それが積み重なって「街」になる。言い換えると、「世界」に、あるいは「現実」になる。--海埜にとって、「世界」「現実」とは複数の道が交錯し、つながり、ひろがっているものなのだ。どの道が正しいということはない。どの道も同じである。どれだけ多くの道をたどることができるか、どれだけ多くの道を体験できるかが問題なのだ。
 道は複数に広がる。その道を「ひとつ」に統一しない。--その意志は、たとえば漢字を拒み、ひらがなをつかう表記にもあらわれている。ひらがなは、簡単な文字であるけれど、つまり誰でもが読める文字であるけれど(なんと読んでいいかわからない文字はないけれど)、読み違いも誘う。漢字なら間違わずに読めても、ひらがななら間違えるということがある。たとえば、

はなをつままれても

 私は、このことばを「花を摘まれても」「花を包まれても」とも読んだ。引用しながら、あれっ、何か書き写し間違えているような気がすると思い、じっくり読み返し、えっ、「鼻をつままれても」なのか?とびっくりした。
 読みながら、私は、海埜が書かなかった道まで歩いていって、迷子になり、もどり、また迷い、えっ、これでいいのか?と驚いたのである。
 私は海埜のことばを引用するにあたって、たぶん、いつくかの誤記(書き写し間違い)をしているだろう。引用しなかった部分も「誤読」しているに違いない。けれど、開き直っていうわけではないけれど、海埜のことば、海埜の詩は、そういう誤読を承知で提出されていると思う。
 誤読のなかに、別の場所へ通じる道があるのだ。
 そして、その「別の場所」というのは、実は「いま」「この」場所にほかならない。「いま」「ここ」というのは、実は、いくつもの「場」なのである。
 海埜のつかっているかっこ記号( )は、一方で何かを閉ざし、他方で何かを解放する魔法の扉なのである。その、魔法の扉こそ、海埜の「思想」(肉体)である。



 野村喜和夫「旅の驚異」は、海埜の作品を「とある熱帯アジアの国を旅した」ときに置き換えたものである。そこには共通の「思想」がある。あるひとつの「道」をたどり、何かに出会う。そのとき、その何かは「ひとつ」ではない。常に複数のものがかたくむすびついていて、私たちは、その複数のなかから何かを選びとってさらに先へ先へと進むのだが、それは「ひとつ」からずれることであり、同時に「ひとつ」そのものになることだ。あるいは、どれだけ多くの複数にであうことができるかによって、ほんとうの(?)「ひとつ」にたどりつけるか、たどりつけないかが問われている。
 野村は、はげしく複数を求めることで、「ひとつ」の世界をめざしている。いくつもの書き方を(文体を)次々につかうのも、そういう「思想」が彼の「肉体」だからである。


隣睦
海埜 今日子
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スペクタクル
野村 喜和夫
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『田村隆一全詩集』を読む(30)

2009-03-20 00:26:39 | 田村隆一
 『死語』には旅の詩がいくつかある。「暗闇の中の集団」も旅の詩である。インドを旅している。田村の旅の詩が魅力的なのは、そこに「他人」が登場してきて、田村を洗い直すからである。

正午
ぼくはジャムナ河とガンジス河の
合流点に出た
巨大な河床が砂漠のような地模様をつくりながら
古い城壁まで
はてしなくつづいている
痩せた犬と土でできている人間が
原色の布にくるまってうごめいている
人間がうごめいているのではない
土がうごめいているのである

 「人間」を「土でできている」といいきってしまう田村。そして、「人間がうごめいているのではない/土がうごめいているのである」と断言する強さ。
 人間をそんなふうに断定するのは非礼なことかもしれない。そうかもしれない。しかし、田村がもし田村自身をも土でできていると感じていたらどうだろうか。その断言は、深い共感をあらわしていることにならないだろうか。
 私は、共感を感じる。
 土となって生きている人間。土から生まれてきた人間。--そういうとき、土とは何か。土とは、いのちがまだいのちになるまえの「場」なのだ。そこにはエネルギーだけがあり、形はまだないのだ。

ジャナム河は暗緑色
ガンジス河は褐色
そして二つの大河が合流すると
河は聖なる腐敗色に変る
土は不定形となる

 私は、いつも、ここで震える。
 河を描写しているのか、いのちを描写しているのか。合流しているのはほんとうに河なのか。田村とインドが合流して、そのとき田村と宇宙が合流しているという気がする。もちろん田村という人間とインドという大地がそのまま合流できるわけがない。田村という人間と宇宙がそのままの形で合流できるわけがない。もし、田村が「人間」の「形」をしたままであるなら。しかし「人間」という「枠」を失ってしまっているとしたらどうだろう。「人間」でなくなっていたとしたらどうだろう。
 たとえば「土」に。いや、「泥」に。どろどろの、腐敗した色の「泥」。形をもたない「泥」。「不定形」の「泥」に。
 私の勝手な想像ではあるのだが、田村は、ジャナム河とガンジス河を見た瞬間から「人間」ではなくなったのだ。「泥」になったのだ。河床の「泥」に。「泥」に共感してしまったのだ。「泥」に対する共感が、田村から「人間」の「形」を洗い流した。二つの河が田村から「人間」の「形」を洗い流し、田村を「形」のない「泥」にしてしまった。
 「泥」になってしまった田村は、「泥」を見る。「土」ということばを田村はつかっているが、私は、それを「泥」と誤読する。

うごめいている土には
わずかに諸器官が残っていて
手も足も燃え尽きてしまってはいるが
嗅覚と触覚と聴覚と味覚は
地中のバクテリアによってかろうじて養われている

 「人間」以前、「いのち」以前--そういうものが、ここにはある。手足という「形」がなくなっても、嗅覚などの「感覚」は残っている。
 この感覚--いくつかの感覚の中に「視覚」がない。そのことが、また、私を震えさせる。「視覚」はたぶん、「人間」のなかでもっとも発達した感覚、最後に完成した感覚なのかもしれない。それに対して「嗅覚」「触覚」というのは、なまなましいままの、原始的な(?)感覚という感じがする。未分化の、定義のあいまいな感覚という気がする。それはたとえば、その感覚のためのことばを数え上げればわかると思う。「視覚」は「色」の数の多さだけでもずいぶん「分化」した感覚だということがわかる。「聴覚」も「音楽」をみるとよくわかるが、記述方法が確立されている。ところが「嗅覚」は? 「触覚」は? 「視覚」「聴覚」に比べると、驚くほど記述方法が確立されていない。つまり「未分化」、原始的(?)である--その原始的なものと「泥」(土)がむすびついて、そこに「いのち」の未分化なありようを浮かび上がらせる。「人間」は「バクテリア」の状態で、「泥」(土)のなかに生きている。
 インドという巨大な「他人」が田村を、そういう状態にまで洗い流したのである。

その紅い土には真紅の布が頭からおおいかぶさっていて
小さな顔の部分だけが
わずかに空気にさらされている
盲目の少女
その土は少女の形をしていて
唇のようなものがたえまなく開閉しながら
リズムのないリズム
意味のない意味
政治的危機の情報からも
宗教的陰極の感情の喚起からも
もっとも遠い通信を発信しつづけている

 「盲目の少女」--それは「視覚」以前の、視覚が未分化の人間の象徴である。いや、原型である。到達点である。その未分化の「いのち」そのものに対する共感が、ここにはある。
 文明のあらゆるものからもっとも遠く、未分化の「いのち」そのものが、「いのち」をむきだしにして、「いま」「ここ」に存在している。その存在と向き合うために、田村はことばの力を借りて、田村自身を「泥」(土)にしたのである。




新選田村隆一詩集 (1977年) (新選現代詩文庫)
田村 隆一
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金井雄二「走るのだ、ぼくの三船敏郎が」、細野豊「花・もうひとつの顔」

2009-03-19 11:39:24 | 詩(雑誌・同人誌)
金井雄二「走るのだ、ぼくの三船敏郎が」、細野豊「花・もうひとつの顔」(「独合点」97、2009年、02月02日発行)

 金井雄二「走るのだ、ぼくの三船敏郎が」は映画で見た三船敏郎をことばで描写している。ことばで、とわざわざ書いたのは、ことばで書かないと見えないものが書かれているという意味である。

走るのだ、三船敏郎が。剣を振り回しながら、雄叫びをあげながら。眉毛の一本一本に神経が入っていて、そのどれもがビンとしている。額にも神経はそろりそろりと生えそろっていて、そこには電流が走っている。光がどこからか流れて来るが、それは剣からとびだしているのではなく、眼の底から発射されているのだ。

 「雄叫びをあげながら」までは肉眼で見える描写である。「眉毛の」からは、肉眼では見えない。ことばが三船の肉体をみつめはじめるのである。ことばが三船の肉体をみつめる。そのとき、ことばは「肉眼」になる。
 そして、「肉眼」になったことばが、その「肉」の共通感覚で、さらに三船の肉体に広がっていく。
 走って走って走って、三船は、飯屋に飛び込み、そこで飯を書き込むのだが、そこからは「肉眼」になったことばは、さらに進化して、食欲になる。いや、食欲というような抽象的なものではなく、胃と、喉とになってしまう。あらゆる肉体の細部になってしまう。

まず咽喉が上と下に動く。と思うが同時に、口が開かれ、飯が投げ入れられる。次から次に、白米は口の中に放り込まれる。丼のめしがあからさまに少なくなっていく。額には滲み出るものが会って、だがそれを拭おうとはしない。咀嚼する口元が、動く唇が、ぎらぎらする眼が、動きつづけている。咽喉がクッと一回鳴って、また再び動きはじめた。

 もう、こうなってしまうと、ことばはことばではなくなってしまう。ことばは、三船敏郎になってしまう。

走るのだ、三船敏郎よ。誰かのもの、じゃなくって、ぼくの三船敏郎の。動き続け、走り続けた三船敏郎の。走るのだ、ぼくの三船敏郎が。

 金井は「ぼくの三船敏郎」と書いているけれど、少しかわっている。正確には「ぼくの三船敏郎の。」と書いている。この「の」は何? ここには省略されているものがある。「ぼくの三船敏郎の描写(ことば)」なのだ。ことばが動き続け、走り続け、「神経」になり、食欲になり、肉体の細部、咽喉や唇や手足になり、三船敏郎になってしまって、そのことばが走るのだ。ことばになってしまった結果として、それは金井の肉体そのものにもなって、そして走るのだ。
 この疾走感は、とても美しい。



 細野豊「花・もうひとつの顔」のことばは、金井のことばのように「肉体」そのものになってしまわない。少し、離れている。距離がある。その少しの距離をしっかりとみつめて動いている。

もしもぼくが蝶の舌を持っていたなら
もっと深く深く入って
あなたの愛を吸いつくしただろうに

ぼくの舌は短くて平たいから
花びらたちを丁寧に嘗め
もどかしく花心のあたりを這いまわるだけだ

もう少しというところで
遠ざかってしまう詩の女神よ それでも
ぼくの閉じた目の中に崇高なものが見えてくる

 金井のことばが「肉体」であったのに対し、細野のことばは「比喩」である。比喩とはここにないものを利用して、いま、ここを語ることである。いま、ここにない--その不在の真空の力を借りて、対象を自分の中に取り込む。そして、吐き出す。その呼吸が比喩である。
 そこには「肉眼」はない。あるのは、肺--胸、そしてこころである。精神である。「ぼくの閉じた目の中に崇高なものが見えてくる」が象徴的だけれど、目を閉じる時、精神の目が開かれる。肉眼を拒絶して開かれる目。そこに見えて来るものは、手で触れるもの、肉体で確かめることのできない抽象的な「崇高なもの」である。それは、どうしたって、「肉眼」から、「肉体」からは遠くなる。

このぼくの舌で 味わいつくしているようで
遥かな乳房のように いつも
遠くありつづけるものよ

 最終連にも3連目と同じ「遠い」ということばにつながる表現が出て来る。「遠い」、その距離の隔たり、「肉体」と「精神」のあいだの距離の遠さ--それが細野の世界であることがわかる。





にぎる。
金井 雄二
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花狩人 (現代詩の前線)
細野 豊
土曜美術社出版販売

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『田村隆一全詩集』を読む(29)

2009-03-19 00:34:21 | 詩集
 「食堂車にて」で、田村は不思議なことばに出会っている。

「クレイジー・ハウス!」
中年のウエイターが車窓を過ぎる建物に
指をさす
ぼくは二日酔で
大西洋のエビとヒラメをさかなに
金色のウイスキーを飲みつづけている
「クレイジー・ハウス?」
ぼくはおなじテーブルの作家夫妻の顔を見た
「きっと精神病院のことよ」
夫人が白い歯をみせて笑った

 「クレイジー・ハウス」に対応する日本語が「精神病院」であるかどうか、私はわからない。知らない。どんなに有名な病院だとしても、わざわざ車掌が指さして精神病院を紹介するとも思えない。
 田村が、夫人のそのことばに納得したかどうかもわからない。
 けれど、そのことばから、この詩ははじまっている。理解でなきかったことばから田村の詩ははじまっている。そのことが、私にはとてもおもしろく感じられる。
 詩はことばである。ことばそのものが詩なのである。
 「夜間飛行」のなかで、田村は「魔の山」の「純粋な」ということばと「マリア・マンチーニ」という葉巻の名前から出発して詩を、そのことばを動かしていた。知っていることばでも、知らないことばになる。「単純な」は誰でも知っていることばであるけれど、トーマス・マンが青年に対して「単純な」ということばをつかったとき、それは田村には、とても新鮮な、つまりしらないことばとして響いてきた。そして、その新鮮な響きがあったからこそ、ほんとうに知らない「マリア・マンチーニ」もそのことばと同じように強く記憶に残ったのだ。知らないことばだけが、記憶に残るのだ。
 「クレイジー・ハウス」。そのことばを田村は知らない。それがたとえ「精神病院」であるとしても、田村は、そのことばを知らない。知らないことばが、田村の知っていることばを動かすのである。なんとか、その知らないことばを、知っていることばとつなげようとして、ことばが自然に動きだすのである。
 引用した1連につながる詩は、そのことばは、単純に車窓の風景を、そこから見たものを描写しているだけのように思えるが、もし「クレイジー・ハウス」ということばに触れなかったら、そして「精神病院」ということばに触れなかったら、車窓の風景は違っていたに違いない。
 荒野も描写されなかっただろうし、3連目の青年も描写されなかっただろう。

やっと「グリーン・リバー」という小さな町にさしかかったら
その小さな町は死んでいるのだ ただひとり
上半身はだかの青年がツルハシをふるって
三階建ての廃屋を壊している
あの灰色の家を壊しおわるまで
いったい何年かかるというのだ?
犬もいない
死んでいる小さな町をすぎたら
塩の湖と
砂漠だ

 ここに書いてある風景は、ぜったいに「観光ガイド」には出てこない風景である。それは「流通」しない風景である。田村のことばは、そういう「流通」しないことばとなって、世界と出会っている。それはほとんど、その世界がはじめて出会うことばだろう。だから詩なのである。世界はいつでも存在する。ことばもいつでも存在する。しかし、世界とことばが出会うということはほんとうはとても少ない。出会って、はじめて、ふたつのものが存在するようになる。ことばが世界に存在形式を与えるのだ。

 田村のことばは、世界に存在形式を与えるために動きはじめるのだ。次の連。

その夜は
列車のなかの三軒の酒場を飲みあるいた
作家夫妻はコンパートメントに閉じこもってしまったから
ぼくひとりだけ
まるでさっきの上半身はだかの青年のように
金色のツルハシをふるいつづけながら
アメリカ語とスペイン語と
葉巻と香水が渦をまいている
薄暗い酒場を飲みあるいたのさ
死んでしまった小さな町
混濁している「グリーン・リバー」
ぼくは
ぼくの独房にたどりつくまで金色のツルハシをふるいつづけ

 世界に存在形式を与えこと--それは破壊と同じ作業だ。
 田村は、ツルハシだけで家を壊していた青年そのものになって、ことばをつかって世界を破壊する。アメリカ語、スペイン語、そして日本語。ことばが衝突して、そこで世界が、はじめて姿をあらわす世界が、ことばとともに生まれる。
 その具体的な世界を田村は書いてはいない。書けない。それは、ただひたすら破壊されることで、瞬間的に誕生するだけのものである。それを「流通」することばにのせてしまえば、それはもう詩ではなくなる。ことばではなくなる。
 田村は、ただ、ことばがどこで動いたかだけを書いている。
 先へ先へとすすみながら、ことばは、過去を掘り起こす。次々とあらたしい何かにであって、アメリカ語、スペイン語、そしてたぶん日本語も交えて世界と向き合いながら、その瞬間瞬間に、過ぎ去った町、「グリーン・リバー」とツルハシの青年があらわれる。
 詩とは、そんなふうに、時間的には未来に進むことと、過去を掘り起こすことが同時に行われるのだ。そうい矛盾した方向のなかで、未来でも過去でもない時間--もちろん永遠などといううさんくさい時間でもなく、ただただ「いま」としか呼べない瞬間をビッグバンのように破壊し、同時に誕生させるのだ。
 田村のことばの運動の佳境--そういうものを、この詩に私は感じる。




田村隆一詩集 (現代詩文庫 第 1期1)
田村 隆一
思潮社

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大西若人「なぜ体だけ写したか」

2009-03-18 19:17:27 | その他(音楽、小説etc)
大西若人「なぜ体だけ写したか」(「朝日新聞」2009年03月18日夕刊)

 大西若人は大変魅力的な文章を書く。私が大西若人を知ったのは、写真や絵の紹介記事(朝日新聞)だが、新聞の署名だけで名前を覚えたのは彼だけである。
 03月18日の夕刊には濱谷浩の「田植女」を紹介している。田植えする女性の、首から下を写した写真だ。顔は写っていない。そのことについて大西は書いている。

濱谷浩の作品は、時代を刻印する記録性を強く備えていた。
 だから、富山県の泥沼同然の田んぼに胸までつかって田植えする過酷さを記録するなら、女性の顔までとらえる方法もあっただろう。苦痛にゆがむ表情や疲れ果てた顔が撮れたかもかもしれない。
 そうしなかったのは、喜怒哀楽を見せる表情は雄弁であると同時に、そこでは意味が完結しかねないからだろうか。

 「喜怒哀楽を見せる表情は雄弁であると同時に、そこでは意味が完結しかねない」はとても鋭い指摘だ。有無をいわさず納得させられる。あ、どこかでこの文章を流用して(まねした)何か書く機会があればなあ、とさえ思う。言い換えれば、「書きたい」という気持ちを誘う文章である。
 大西の文章にもし問題があるとすれば、それはたぶんここにある。
 大西が紹介している作品を一瞬忘れてしまう。大西の文章に酔わされ、文学心(?)が頭をもたげてくる。
 作品に誘われてことばが動いたというより、ことばが作品を呼び寄せたような、不思議な印象が残る。

 そして、そこから疑問もうまれてくる。
 「苦痛にゆがむ表情や疲れ果てた顔が撮れたかもかもしれない」はほんとうだろうか。過酷な労働(田植え)はつらい。疲れる。それは誰もが想像できる。
大西の文章は、想像力をきちんと型にはめ込み、きれいに動かしてくれる。そして、その想像力の自然な動きが、「喜怒哀楽を見せる表情は雄弁であると同時に、そこでは意味が完結しかねない」という形而上学的文章に昇華する。その動きがあまりにも美しいので、事実を踏まえているのかどうか疑問になってくる。
女性の顔はほんとうに「苦痛」や「疲れ」た表情だったのか。
農作業には不思議な楽しみもある。ものを作る楽しみ、好きな連れ合いと一緒に田んぼにゆく楽しさ。疲れながらも、そこには喜びもあったかもしれない。そういう「想像力」を大西の文章は排除しているかもしれない。
 言い換えると、大西の美しい解説を読むと、その瞬間、鑑賞が完結してしまいかねない。そこに大西の書く文章の問題がある。
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北原千代「水の交わり」

2009-03-18 08:56:50 | 詩(雑誌・同人誌)
北原千代「水の交わり」(「PO」132 、2009年02月20日発行)

 驚きがことばになるまで--その回路、驚きが、いくつものことばを辿って、ことばをさがしながらさまよう。そのさまよいをどこまでていねいに描くことができるか。詩の出発は、たぶん、そういうところにある。ことばをさがす--知っていることばをつなぎながら、自分なりのことばの回路をつくるというところに。
 北原千代「水の交わり」はエレベーターを描写するのに「水」ということばをつかったところから、独自の回路をとる。

透明な水をたふたふゆらし
まあたらしい靴がのぼっていきます
水がエレベーターに乗っているなんて!
夕陽を筒いっぱいにつめこんだエレベーター

 「なんて!」と自分で驚いてしまっては、詩は逃げていくのだが、その逃げいてくものを北原はがんばって追いかけていく。そこがおもしろい。
 「水」ということばをつかったために、以後、世界が「水」を中心にして様子をかえていくのである。

空中庭園のまんなか
噴水が虹色に回っています
芝生に小鳥が来ています
イチジクの堅い実
枝に毛虫が来ています
イチジクの木の根っこ
交わる水と水
音さやかに

混ざると水は何色になりますか
うすい藍色とうすいバイオレットに分かれ
どちらもやっぱり水のまま

うすい藍色のアダムは靴をはき
心臓をだいじそうに抱えて立ち上がりました
驚いている芝生のうえで
うすいバイオレットは水たまりの姿勢で
うしろすがたの赤紫の夕陽に手をふっています
蒸発するまで

 たぶん心臓になんらかの問題をかかえる連れ合いとひさびさに外出してきたときのことを書いているのだと思う。シースルーエレベーターにのって空中庭園へ来た。そのときシースルーエレベーターは「水」を積んでいるように見えた。そのエレベーターに乗る時、ふたりは「水」になる。「水」にまじる。それでもやっぱり、それぞれの「色」をもっている。独立している。独立しているけれど、おなじ「水」として触れ合っている。ふたりはもちろん、世界のすべてと。芝生さえ、そのとき、「水」の一種である。「水」とつながっている。
 連れ合いアダムが藍色で、北原イヴはバイオレット。イヴはひとりで立って歩くアダムを「水たまり」のようにしずかに横たわった姿でみつめている。水平に--は、たぶん垂直のものはアダムの障害になりかねないからだろうけれど。
 とてもやさしい。
 
 もしかすると、私の誤読かもしれない。ふたりの外出は、私の夢想かもしれない。けれど、その夢想は私をやさしい気持ちにしてくれる。
 「水」を見るために、シースルーエレベーターを見に行きたい、という気持ちにしてくれる。

 詩は、ふたりが夜になって空中庭園から地上におりてくるところまで書いているが、その最後が、また非常に余韻がある。

ああ、雨のにおいです

 「水」が「雨」を呼び寄せたのだ。「雨」そのものではなく「におい」ということろに、深い「肉体」の余韻を感じる。



詩集 スピリトゥス (21世紀詩人叢書)
北原 千代
土曜美術社出版販売

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