朝吹英和『時空のクオリア』(ふらんす堂、2008年10月25日発行)
私は俳句のことはまったくわからない。ことばだから、読むことは読む。しかし、きっと「俳句の常識」を逸脱して読んでいると思う。だから、これから書く感想も、きっと俳句を書いている人、読み慣れている人には的外れな印象を呼び起こすだろうと思う。
本のなかほどに、田中裕明『夜の客人』の批評が書いてある。そこで取り上げられている句がとてもすばらしい。冒頭に取り上げてある、
この一句で、もう田中の作品に夢中になってしまう。「いつまでも」が「水草生ふ」によって「いのち」のように動いていく。「旅の時間や」という「切れ」を破って、「水草」のなかにある「いのち」の時間が、季節を繰り返し繰り返し、永遠をひきよせる感じがする。「水草」のなかに、「生ふ」という動詞のなかに、凝縮し、同時にどこまでも解放されて、自由にひろがっていく感じがする。
朝吹は、この句について、
と、書いている。
あ、幻想か。
私には思いつかないことばである。
幻想ねえ……と私は、もう一度つぶやいて、ちょっと、違和感をおぼえる。俳句がわからない、というのは、こういう瞬間のことである。
私にはむしろ、田中の句は「幻想」から遠い。「旅の時間」という、一種抽象的で、よくわからないものが、「水草」「生ふ」という動詞によって、ぐいと近づき、リアルなものになる。
私には、この句は、田舎の田んぼのわきを歩いているときの実感につながる。田舎の田んぼのわきを歩くことは「旅」ではないのだけれど、そのとき、「水草」を見て、それが春に(たぶん)、また生えてきているのを見て、繰り返し繰り返し季節がめぐってきているのを実感し、その瞬間に、あ、こういうことを感じるのが「旅」なんだなあ、と思う。いつでもそこにあるのに、見落としている。しかし、それをふとそれに気がつく。それはどこかへ旅することと同じなんだなあ、と思う。
--逆に言うと(逆に言うと、というのは変な言い方かもしれないけれど)、旅に出て、名所・旧跡を見ても、それは「旅」にはならないんだろうなあ、と思う。目新しいものではなく、いつも見ていたはずのもの、見ていたけれど気がつかなかったものに出会った時が、きっと旅なんだろうなあ、と思う。
そのとき、「田舎の田んぼ道」と「知らない土地」が「肉体感覚」そのものとして「ひとつ」になる。「旅の時間」と「日常の時間」が「ひとつ」にとけあう。
そんな感じ。
それは、私にとっては、「幻想」ではない。
朝吹の取り上げている句はどれもとてもおもしろい。けれど、朝吹の批評は、私の印象では、彼が取り上げている句について語っているというよりも、なんだか朝吹自身のことを語っているようにも思える。取り上げている俳句よりも、もっとほかのことが語りたくて、その出発点として俳句を読んでいるという感じがする。
たとえば、田中の句に対しては「幻想」ということばをつかいたくて、田中の句を引用しているような印象が残る。「幻想」ということばを書き、それを追いつめながら、「幻想」そのもの、「幻想」の構造を書きたいのではないか、という印象が残る。
*
朝吹は、俳句と音楽についてもたくさんの文章を書いている。音楽についても非常に詳しい人なのだろう。その文章を読みながら、あ、俳句とは、こんなふうに読むものなのかと、いろいろ教えられる。
でも、そのせっかく教えてもらったことが、私にはどうにも、苦しい。情報量が多すぎて、俳句って、そんなに情報量が多いものなのかという疑問がわいてきてしまう。俳句よりも、本当は音楽について語りたいのかもしれないなあ、とも思ってしまう。
よくわからないが、たとえばブルックナーでも、ベートーベンでもいいのだけれど、その交響曲から、一つ一つの音を消していって、最後にのこった音--その音と「私」の出会いのようなものが俳句だろうと私は感じている。いろんな音を、いろんなことばをつみかさねていくと、出会いたい音が、ひとつの音が、「和音」そのものになってしまって、それは俳句とは違うものじゃないかなあ、と私は感じてしまう。
適当な表現かどうかわからないけれど、朝吹は俳句から出発して、巨大な散文の世界へ歩いていっている感じがする。何かと出会い、その瞬間、それまでの時間が一気に凝縮し、同時にぱっと解き放たれる快感(私が俳句に感じる快感)ではなく、それとは逆の、ことばを積み重ね、積み重ね、その運動の果てに、「いま」「ここ」ではないどこかへ到達する--散文の精神を生きている人だと思った。
あるいは、俳句は俳句で別の世界を描き、「エッセイ」なので、散文精神を発揮しているのだろうか。それとも、朝吹のような読み方が、いま、俳句の読み方として求められているのだろうか。
ちょっと、わからない。
私は俳句のことはまったくわからない。ことばだから、読むことは読む。しかし、きっと「俳句の常識」を逸脱して読んでいると思う。だから、これから書く感想も、きっと俳句を書いている人、読み慣れている人には的外れな印象を呼び起こすだろうと思う。
本のなかほどに、田中裕明『夜の客人』の批評が書いてある。そこで取り上げられている句がとてもすばらしい。冒頭に取り上げてある、
いつまでも旅の時間や水草生ふ
この一句で、もう田中の作品に夢中になってしまう。「いつまでも」が「水草生ふ」によって「いのち」のように動いていく。「旅の時間や」という「切れ」を破って、「水草」のなかにある「いのち」の時間が、季節を繰り返し繰り返し、永遠をひきよせる感じがする。「水草」のなかに、「生ふ」という動詞のなかに、凝縮し、同時にどこまでも解放されて、自由にひろがっていく感じがする。
朝吹は、この句について、
「旅の時間」(略)といった非日常の世界への思いと、現実とを行きつ戻りつする心象の揺れ。喚起力を秘めた季語との触れ合いによって増幅された心象の綾は、何時しか幻想的な世界へ投影される。
と、書いている。
あ、幻想か。
私には思いつかないことばである。
幻想ねえ……と私は、もう一度つぶやいて、ちょっと、違和感をおぼえる。俳句がわからない、というのは、こういう瞬間のことである。
私にはむしろ、田中の句は「幻想」から遠い。「旅の時間」という、一種抽象的で、よくわからないものが、「水草」「生ふ」という動詞によって、ぐいと近づき、リアルなものになる。
私には、この句は、田舎の田んぼのわきを歩いているときの実感につながる。田舎の田んぼのわきを歩くことは「旅」ではないのだけれど、そのとき、「水草」を見て、それが春に(たぶん)、また生えてきているのを見て、繰り返し繰り返し季節がめぐってきているのを実感し、その瞬間に、あ、こういうことを感じるのが「旅」なんだなあ、と思う。いつでもそこにあるのに、見落としている。しかし、それをふとそれに気がつく。それはどこかへ旅することと同じなんだなあ、と思う。
--逆に言うと(逆に言うと、というのは変な言い方かもしれないけれど)、旅に出て、名所・旧跡を見ても、それは「旅」にはならないんだろうなあ、と思う。目新しいものではなく、いつも見ていたはずのもの、見ていたけれど気がつかなかったものに出会った時が、きっと旅なんだろうなあ、と思う。
そのとき、「田舎の田んぼ道」と「知らない土地」が「肉体感覚」そのものとして「ひとつ」になる。「旅の時間」と「日常の時間」が「ひとつ」にとけあう。
そんな感じ。
それは、私にとっては、「幻想」ではない。
朝吹の取り上げている句はどれもとてもおもしろい。けれど、朝吹の批評は、私の印象では、彼が取り上げている句について語っているというよりも、なんだか朝吹自身のことを語っているようにも思える。取り上げている俳句よりも、もっとほかのことが語りたくて、その出発点として俳句を読んでいるという感じがする。
たとえば、田中の句に対しては「幻想」ということばをつかいたくて、田中の句を引用しているような印象が残る。「幻想」ということばを書き、それを追いつめながら、「幻想」そのもの、「幻想」の構造を書きたいのではないか、という印象が残る。
*
朝吹は、俳句と音楽についてもたくさんの文章を書いている。音楽についても非常に詳しい人なのだろう。その文章を読みながら、あ、俳句とは、こんなふうに読むものなのかと、いろいろ教えられる。
でも、そのせっかく教えてもらったことが、私にはどうにも、苦しい。情報量が多すぎて、俳句って、そんなに情報量が多いものなのかという疑問がわいてきてしまう。俳句よりも、本当は音楽について語りたいのかもしれないなあ、とも思ってしまう。
よくわからないが、たとえばブルックナーでも、ベートーベンでもいいのだけれど、その交響曲から、一つ一つの音を消していって、最後にのこった音--その音と「私」の出会いのようなものが俳句だろうと私は感じている。いろんな音を、いろんなことばをつみかさねていくと、出会いたい音が、ひとつの音が、「和音」そのものになってしまって、それは俳句とは違うものじゃないかなあ、と私は感じてしまう。
適当な表現かどうかわからないけれど、朝吹は俳句から出発して、巨大な散文の世界へ歩いていっている感じがする。何かと出会い、その瞬間、それまでの時間が一気に凝縮し、同時にぱっと解き放たれる快感(私が俳句に感じる快感)ではなく、それとは逆の、ことばを積み重ね、積み重ね、その運動の果てに、「いま」「ここ」ではないどこかへ到達する--散文の精神を生きている人だと思った。
あるいは、俳句は俳句で別の世界を描き、「エッセイ」なので、散文精神を発揮しているのだろうか。それとも、朝吹のような読み方が、いま、俳句の読み方として求められているのだろうか。
ちょっと、わからない。
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