『死語』は1976年の詩集である。そのなかの「夜間飛行」という詩。私は、この書き出しがとても好きだ。
はげしい歯痛に耐えるために
高等数学に熱中する初老の男のエピソードが
「魔の山」という小説のなかにあったっけ
そして主人公の「単純な」青年の葉巻は
マリア・マンチーニ
どうして葉巻の名前なんか
ぼくはおぼえているのだ 三十三年まえに読んだドイツの翻訳小説なのに
この「どうして」を田村は解きあかしていない。解きあかす必要がないと知っているからだ。そういう「どうして」は誰もが経験することである。そしてまた、それは説明できないものだからである。強いて言えば、それは「知らないもの」だからである。「知らないもの」に名付けられた名前だからである。見たことも、すったこともない葉巻の名前--そこには「知らない」ということがとても強く影響している。
そこにはただ「ことば」があるだけなのだ。わかるのは「ことば」(名前)だけである。存在を知らないから、それをそのまま覚え、それが目の前にあらわれるまで松しかない「ことば」だからである。私たちは、そういうものを、覚えるしかないのである。
ことばが存在をひっぱりだしてくる。世界のなかから、その前に。
それは4行目の「単純な」も同じである。この「単純な」は「マリア・マンチーニ」よりも、もっと(?)「ことば」である。「ことば」としかいいようのないものである。「マリア・マンチーニ」は固有名詞だから、その名前がないと何かはわからない。一方「単純な」は主人公の青年の「人間性」をあらわしているが、「単純な」人間性をそなえているのは主人公の青年だけではなく、世の中にはたくさんいるだろう。「マリア・マンチーニ」ということばを手がかりにすれば、世界からその葉巻を探し出してくることができるけれど、「単純な」というひとことで主人公の青年を世界から探し出してくることはできない。けれども、田村は、その「単純な」を覚えている。「マリア・マンチーニ」と同じように。そして、そのことは、その青年をあらわす「単純な」ということば、「単純な」であらわされる青年の人間性を田村が知らなかった--青年をとおして「単純な」ということを知ったということを意味する。
「単純な」が青年の人間性をひっぱりだしてくる。いろいろな人間性のなかから、その性質を。それを知った、それを覚えている--と田村は、ここでは書いているのだ。「どうして葉巻の名前なんか」という行があるために、そのことは視界から消えてしまいそうだが、葉巻の名前を覚えていることよりも「単純な」ということばを覚えていることの方がほんとうははるかに不思議である。
ことば、他人のことば。それが田村を洗い直すのである。「魔の山」の青年を、他の青年から区別するのは「単純な」ということばである。どこにでもある、誰もがつかう、けれどトーマス・マンによってしっかり洗い直され、書き記された「単純な」が田村をさらに洗い直すのだ。「単純な」は「魔の山」の青年のような人間にのみつかうべきことばなのだ、と。
人間は、結局「ことば」を生きているのである。
「噴水へ」には不思議な行がある。
西風にさからって
太陽が沈む地平線にむかって一直線に
飛ぶ
あの小鳥は「鳥」のなかで飛んでいるのだ
深夜に吠える犬
ぼくらの耳にきこえない危機の兆候
ぼくらの目に見えない恐怖の叫びにむかって
凍りつくような声で吠えている
あの犬だって「犬」のなかで吠えているのだ
それなら
ぼくは「人間」のなかで生きているのか
ぼくの肉体は「動物」だが
心は「動物」よりも鈍感なのさ
4行目。「鳥」と括弧でくくられたことば。それは「鳥ということば」「鳥という概念」と言い換えることができる。「鳥」ということばで呼ばれ、目の前にあらわれるもの、そのことばを実は人間は「認識」している。
「犬」も同じである。「人間」も「動物」も同じである。
こういう状態は、しかし、正しいことではない。というか、そういう状態は、詩ではない。そういう世界は、詩からもっとも遠い世界である。「鳥」ということばを洗い直し、そのことばを洗い直すことで田村自身をも洗い直す--そのとき動くことば、そのときのベクトル、→、こそが詩なのである。
詩は、このあと、鮎川信夫の「名刺」という作品を引用し、そのあと、次の展開がある。
この詩をはじめて読んだのは
ぼくが十六歳のときだ
世界はまだ
絶望的に明るくてぼくは「ぼく」のなかで生きていた
ぼくの肉体は動物よりももっと動物的だったし
心は「動物」に属していた
ぼくの目は「言葉」を媒介しなくても
太陽が沈む地平線がくっきりと見えた
「言葉」を媒介しなくても--ことばを媒介しないところ、ことばを媒介しなくても目で(肉体で)世界をくっきりとつかみ取る瞬間--そこに詩があるのだ。
「単純な」ということばは「魔の山」の青年を特徴づけることばだが、「単純な」ということばを媒介しなくてもそれはくっきりと存在した。そしてそれをあとから便宜上「単純な」と名付けた(呼んだ)だけなのである。
ことばを媒介とせずにつかんだもの--それをことばで書くしかないという矛盾。詩は、いつでもその矛盾のなかにある。詩のことばが難解であるのは、それがもともと、そういう矛盾と向き合っているからである。
「他人」のことばを田村が引用するのは、「他人」のことばは田村が無自覚につかっていることばを洗い流すからである。「他人」のことばにであったとき、たとえば「魔の山」の青年をあらわす「単純な」ということばに出会った時、田村は彼自身のなかにある「単純な」ということばを奪われる。田村の「単純な」は無効である、青年を目の前に出現させるには無効であるとつげられる。トーマス・マンのつかっている「単純な」をつかわないことには青年を把握できないと知らされるのである。だからこそ、トーマス・マンのつかった「単純な」をそのまま括弧のなかにいれてつかうのである。
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