詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

『田村隆一全詩集』を読む(28)

2009-03-18 00:00:00 | 田村隆一

 『死語』は1976年の詩集である。そのなかの「夜間飛行」という詩。私は、この書き出しがとても好きだ。

はげしい歯痛に耐えるために
高等数学に熱中する初老の男のエピソードが
「魔の山」という小説のなかにあったっけ
そして主人公の「単純な」青年の葉巻は
マリア・マンチーニ

どうして葉巻の名前なんか
ぼくはおぼえているのだ 三十三年まえに読んだドイツの翻訳小説なのに

 この「どうして」を田村は解きあかしていない。解きあかす必要がないと知っているからだ。そういう「どうして」は誰もが経験することである。そしてまた、それは説明できないものだからである。強いて言えば、それは「知らないもの」だからである。「知らないもの」に名付けられた名前だからである。見たことも、すったこともない葉巻の名前--そこには「知らない」ということがとても強く影響している。
 そこにはただ「ことば」があるだけなのだ。わかるのは「ことば」(名前)だけである。存在を知らないから、それをそのまま覚え、それが目の前にあらわれるまで松しかない「ことば」だからである。私たちは、そういうものを、覚えるしかないのである。
 ことばが存在をひっぱりだしてくる。世界のなかから、その前に。
 それは4行目の「単純な」も同じである。この「単純な」は「マリア・マンチーニ」よりも、もっと(?)「ことば」である。「ことば」としかいいようのないものである。「マリア・マンチーニ」は固有名詞だから、その名前がないと何かはわからない。一方「単純な」は主人公の青年の「人間性」をあらわしているが、「単純な」人間性をそなえているのは主人公の青年だけではなく、世の中にはたくさんいるだろう。「マリア・マンチーニ」ということばを手がかりにすれば、世界からその葉巻を探し出してくることができるけれど、「単純な」というひとことで主人公の青年を世界から探し出してくることはできない。けれども、田村は、その「単純な」を覚えている。「マリア・マンチーニ」と同じように。そして、そのことは、その青年をあらわす「単純な」ということば、「単純な」であらわされる青年の人間性を田村が知らなかった--青年をとおして「単純な」ということを知ったということを意味する。
 「単純な」が青年の人間性をひっぱりだしてくる。いろいろな人間性のなかから、その性質を。それを知った、それを覚えている--と田村は、ここでは書いているのだ。「どうして葉巻の名前なんか」という行があるために、そのことは視界から消えてしまいそうだが、葉巻の名前を覚えていることよりも「単純な」ということばを覚えていることの方がほんとうははるかに不思議である。

 ことば、他人のことば。それが田村を洗い直すのである。「魔の山」の青年を、他の青年から区別するのは「単純な」ということばである。どこにでもある、誰もがつかう、けれどトーマス・マンによってしっかり洗い直され、書き記された「単純な」が田村をさらに洗い直すのだ。「単純な」は「魔の山」の青年のような人間にのみつかうべきことばなのだ、と。

 人間は、結局「ことば」を生きているのである。

 「噴水へ」には不思議な行がある。

西風にさからって
太陽が沈む地平線にむかって一直線に
飛ぶ
あの小鳥は「鳥」のなかで飛んでいるのだ
深夜に吠える犬
ぼくらの耳にきこえない危機の兆候
ぼくらの目に見えない恐怖の叫びにむかって
凍りつくような声で吠えている
あの犬だって「犬」のなかで吠えているのだ
それなら
ぼくは「人間」のなかで生きているのか
ぼくの肉体は「動物」だが
心は「動物」よりも鈍感なのさ

 4行目。「鳥」と括弧でくくられたことば。それは「鳥ということば」「鳥という概念」と言い換えることができる。「鳥」ということばで呼ばれ、目の前にあらわれるもの、そのことばを実は人間は「認識」している。
 「犬」も同じである。「人間」も「動物」も同じである。
 こういう状態は、しかし、正しいことではない。というか、そういう状態は、詩ではない。そういう世界は、詩からもっとも遠い世界である。「鳥」ということばを洗い直し、そのことばを洗い直すことで田村自身をも洗い直す--そのとき動くことば、そのときのベクトル、→、こそが詩なのである。

 詩は、このあと、鮎川信夫の「名刺」という作品を引用し、そのあと、次の展開がある。 

この詩をはじめて読んだのは
ぼくが十六歳のときだ
世界はまだ
絶望的に明るくてぼくは「ぼく」のなかで生きていた
ぼくの肉体は動物よりももっと動物的だったし
心は「動物」に属していた
ぼくの目は「言葉」を媒介しなくても
太陽が沈む地平線がくっきりと見えた

 「言葉」を媒介しなくても--ことばを媒介しないところ、ことばを媒介しなくても目で(肉体で)世界をくっきりとつかみ取る瞬間--そこに詩があるのだ。
 「単純な」ということばは「魔の山」の青年を特徴づけることばだが、「単純な」ということばを媒介しなくてもそれはくっきりと存在した。そしてそれをあとから便宜上「単純な」と名付けた(呼んだ)だけなのである。

 ことばを媒介とせずにつかんだもの--それをことばで書くしかないという矛盾。詩は、いつでもその矛盾のなかにある。詩のことばが難解であるのは、それがもともと、そういう矛盾と向き合っているからである。

 「他人」のことばを田村が引用するのは、「他人」のことばは田村が無自覚につかっていることばを洗い流すからである。「他人」のことばにであったとき、たとえば「魔の山」の青年をあらわす「単純な」ということばに出会った時、田村は彼自身のなかにある「単純な」ということばを奪われる。田村の「単純な」は無効である、青年を目の前に出現させるには無効であるとつげられる。トーマス・マンのつかっている「単純な」をつかわないことには青年を把握できないと知らされるのである。だからこそ、トーマス・マンのつかった「単純な」をそのまま括弧のなかにいれてつかうのである。





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田村 隆一
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ロドリゴ・ガルシア監督「パッセンジャーズ」(★)

2009-03-17 20:17:34 | 映画
監督 ロドリゴ・ガルシア 出演 アン・ハサウェイ、パトリック・ウィルソン、デヴィッド・モース

 飛行機墜落事故。なぜか、生存者が5人。その5人をセラピストを若い女性がつとめる。そして、明らかになる事実……。
 あ、だめです。
 見はじめてすぐに「明らかになる事実」がわかってしまう。これがわからないとしたら、よほど映画を見ていいな人。
 まず色彩。これが「アザーズ」(アレハンドロ・アメナーバル監督、ニコール・キッドマン主演)そっくり。しめった、水分の多い色。その空気のゆらぎ。そして、主役のアン・ハサウェイを見つめる関係者の目付き。これも「アザーズ」そっくり。
 「アザーズ」を見ていなくても、「シックス・センス」(M ・ナイト・シャマラン監督、ブルース・ウィリス主演)を見た人なら、途中で絶対にストーリーのどんでん返しがくっきりと見えて来る。
 どんな作品にも、それに先だつ作品があるのだから、そっくりだからといって、それがいけないというわけではないだろうけれど、この映画がひどいのは、その「そっくり」をごまかすために奇妙なことをしていること。
 アン・ハサウェイとパトリック・ウィルソンが途中で恋をする。精神科医と患者が恋をする。しかも、治療を通じて。これは実際にはあってはいけないこと。倫理違反。そんな現実には許されない倫理違反を挟んで、映画の「間」をもたせようとしているのだが、そのために逆に「間延び」してしまう。あまりのばかばかしい逸脱に、私は一瞬、あれ、これって「アザーズ」じゃないのか? 違うストーリーなのか? と思ってしまった。けれど、やっぱり「アザーズ」だった。げんなりしてしまう。



 ところで、この映画には、犬が登場する。そして、重要な役割もする。ところが、この犬が、とてもハリウッドの犬とは思えないほど演技力(?)がない。へたくそです。犬が演じるにしてはむずかしすぎる役ということもあるのだけれど。
 これは逆の言い方をすると、この映画のような重要な役を犬に演じさせてはいけない。それにふさわしい犬がいないなら(そういう映像が撮れなかったのなら)、その段階で犬のシーンはカットすべきもの。脚本も悪ければ、編集もおそまつ、ということ。
 私は犬が大好きなので、こんな役を演じさせられ、しかもきっとみんなからへたくそと非難されているのだと思うと、ただただその犬がかわいそうで、とても悔しい。




アザーズ [DVD]

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森川雅美「(何も語らない)」、新延拳「遠い祈り」

2009-03-17 09:55:41 | 詩(雑誌・同人誌)
森川雅美「(何も語らない)」、新延拳「遠い祈り」(「現代詩図鑑」2009年冬号、2009年02月20日発行)

 森川雅美には1行がかなり長い詩がある。私は、そのときの森川のことばのリズムが嫌いである。「肉体」を欠いている。「頭」でことばを動かしている。ところが、1行が短いと、とてもいい。「頭」がことばのなかに入り込む余地がないのだろう。

何も語らない
地図の表層の地軸はずれる
傲慢な笑顔たちと
急激な出帆
走れ走れ走れ
煙の片腕に落ちる
青空を払い落とすこと
誰もが水を噛む
壁の傷は崩れる前に割れる
残酷な折り返し点と
少量の紅葉
走れ走れ走れ

 前半を引用したのだが、たとえば、そのなかの次の2行

煙の片腕に落ちる
青空を払い落とすこと

 これは1行ずつ独立したものとして読むことができる。また、また先行する「煙の片腕に落ちる」を次の行の「青空」を修飾することばとしても読むことができる。それは読者にまかされている。森川はそれをどちらかにしようと「頭」でことばを押さえ込んでいない。そのためにリズムが自由になる。解放される。そして逸脱していく。
 そして。
 あ、ちょっとどこへ動いているのかわからない--乗りすぎてしまった、と思ったら、思い出したように「走れ走れ走れ」ということばに戻って来る。戻って来て、というか、戻って来たからこそ、まるで出発点のときの元気さでさらにことばが加速する。ことばが「肉体」となって走っていく。
 これはいいなあ。
 どこへ、という意識がない。「頭」がない。ただ走れるから走る。そういう「肉体」がいい。
 後半は、引用しないが、たとえば一方に「目測はいつでも少し誤る」という抒情があり、他方に「葉を揺らす風は壊れる」という非情がある。また一方に「脳内分泌物」という細いリズムがあり、他方に「掌をはらむ」というひくくて太いリズムがある。どちらかにことばが収斂していくのではなく、逆に、加速することで、無意識に逸脱していく。
 でも、最後の最後は、

走れ走れ走れ
鳥の羽ばたきに叩かれる
脳内に光を見出すこと

 という、なんだ、やっぱり「頭」がでてきてしまうのか、という「オチ」までついていて、笑ってしまえるところが、とてもいい。



 新延拳「遠い祈り」と比較すると、森川の詩が、そのことばが「肉体」であることがわかりやすくなるかもしれない。否定的(?)参照のための例として紹介してしまうことになるので、新延には少し申し訳ない気もするのだが……。
 作品の1連目。

列車から通りすぎる時見るこの町の建物はみな裏側
路地が夕日に染まる頃
レース越しに嬰児が眠っているのが見えた
母親は頬杖をつき煙のようによりそって

 1行目の「裏側」ということばの、はっとするような新しさ。けれども、そのことばが2行目の「路地が夕日に染まる頃」に乗っ取られてしまうと、もう、そこから先は「頭」の世界である。「レース」「嬰児」「母親」。ことばが動いて行ける場はもう決定してしまっている。

遠い日にけった石ころが
いま足元に落ちてきた

 郷愁--という「頭」がつくりあげた感性の記憶。新延は、彼自身の感性であり、彼自身の記憶だというだろう。確かにそうなのだろうけれど、それが新延の感性であり、記憶だとわかるのは新延だけである。古今集からはじまり、いくつもの時代をへて、磨き上げてきたことばの選択方式。「頭」のなかに積み重なっている「文学」。そこから少しも逸脱していっていない。
 「頭」から逸脱する必要はない--新延はいうかもしれないけれど。



山越
森川 雅美
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『田村隆一全詩集』を読む(27)

2009-03-17 00:56:17 | 田村隆一
 「新年の手紙」は(その一)と(その二)の2篇がある。「材木座光明寺の除夜の鐘をきいてから」という行を中心に同じようなことばが動いているところもある。似ているけれど、微妙に違う。

 (その一)

材木座光明寺の除夜の鐘をきいてから
海岸に出てみたまえ すばらしい干潮!
沖にむかってどこまでも歩いていくのだ そして
ひたすら少数の者たちのために手紙を書くがいい

(その二)

大晦日の夜は材木座光明寺の除夜の鐘を聞いてから
暗い海岸に出てみるつもりです きっとすばらしい干潮!
どこまでも沖にむかってどこまでも歩いて行け!
もしかしたら
「ある肯定の炎」がぼくの瞳の光点に
見えるかもしれない
では

 あるいは、これは微妙に似ているが、決定的に違うというべきなのか。(その一)は「海岸に出てみたまえ」と相手に行動を勧めている(その二)は「海岸に出てみるつもりです」と自分の行動を語っている。ある意味では、それは「逆向き」のベクトルということができるかもしれない。対立、矛盾がここにある、といえるかもしれない。
 --しかし、やはり似ていると思う。立場がまったく逆なのに、同じに感じてしまう。なぜか。そこに書かれている行動が「海岸に出る」という動きのなかで重なるからだ。運動が重なると、それは「同じ」ものになるのだ。だれが、という「主語」が消える。
 たぶん、「新年の手紙」なかでいちばん大切なのは、「運動」が重なるとき「主語」が消えるということなのだ。

 この作品のなかで、田村はW・H・オーデンの詩の断片を送ってくれる「君」のことから書きはじめ、「こんどはぼくが出します」と書きはじめている。

元気ですか
毎年いつも君から「新年の手紙」をもらうので
こんどはぼくが出します
君の「新年の手紙」はW・H・オーデンの長詩の断片を
ガリ版刷にしたもので
いつも愉しい オーデンといえば
「一九三九年九月一日」という詩がぼくは大好きで
エピローグはこうですね--

 「君」がオーデンの詩を引用して「新年の手紙」を書いてきた。こんどは田村が同じことを「君」に向けてやる。そうすると、オーデンの詩を引用するという行為のなかで、「君」と「ぼく」の区別かなくなる。「主語」が消える。その結果、どうなるか。オーデンが代わりに生成して来る。生まれて来る。それはオーデンそのものなのだが、なぜか、「君」と「ぼく」とのあいだに、あたらしくオーデンが生まれて来るという感じがする。引用ではなく、二人のあいだでオーデンが、まるで新しい詩を書いているかのように、そのことばが姿をあらわす。
 田村は、そのオーデンの詩を引用しながら、オーデンがその詩を書いたときと、いま、田村がいきている時代の日本とのあいだで、やはりオーデンの国(オーデンの時代)と田村の国(田村の時代)の区別がなくなり、ただ、オーデンのことば、その精神だけが動いているのを感じるのだ。

 対話というのは、こういうことかもしれない。

 他人と出会う。他人のことばを繰り返す。そのとき、「他人」と「ぼく」の区別がなくなり、ことばだけが純粋に動く。その純粋なことばが「ぼく」を洗い流す。「いま」の「ぼく」を。「過去」の「ぼく」を。そこには、時代と場所を越えた、精神そのものがある。

 田村の、この「新年の手紙」を読むと、私はいつでも震えてしまう。
 オーデンの詩を引用し、そのなかにある「正しきものら」「メッセージ」ということば、「ある肯定の炎」ということばのの前で、田村のすべてのことばが消しさられ、消しさられたその「位置」から、新しく生まれようとうごめいているのを感じる。
 
 何が生まれているか、わからない。そこには、ほんとうに「主語」がない。ことばを発する人間という「主語」だけではなく、そこから誕生する「精神」にもまだ名前はつけられていない。つまり「主語」になっていない何か……。
 「対話」、「他人」との会話のなかでは、その話されているものも「主語」がない。それは、どこへでも動いていくということ、動く方向が決められていないということかもしれない。ただ、動くのだ。ただ、ベクトルに、矢印に、→になってしまうのだ。

 田村は、詩を「では」というあいさつで切り上げている。
 「では」どうしたというのだ--と問いかけてもむだである。私たちはいつでも動けるだけ動いたら「では」と動きを断ち切って、「いま」「ここ」ではないどこかへ行く(去っていく)しかないのである。
 「動いた」という記憶だけを抱いて。



田村隆一全詩集
田村 隆一
思潮社

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秋山基夫「黄色い砂」

2009-03-16 11:04:43 | 詩(雑誌・同人誌)
秋山基夫「黄色い砂」(「ペーパー」4、2008年11月01日発行)

 秋山基夫「黄色い砂」はプロローグに石川啄木の「東京」を掲げている。
 1連目は、「蟹が波打ち際を這っていく」ではじまり、2連目は「蟹と見えるものは実は汽車だ」にかわる。3連目では「汽車は列島をしゅっしゅっぽっぽと休みなく走り回る」、4連目は「都会の駅舎の中をふるさとさんが洋傘をもち中折帽をかぶってうろうろする」とつづく。とても奇妙なことばの運動である。それにくわえて、「汽車」とか「駅舎」という古いことばが登場するので、これは一体何?という気持ちになる。
 そして、この詩(?)には「『黄色い砂』のための物語」というものがついている。「黄色い砂」という「詩」が、どういう「物語」をもっているか、を注釈したものである。そのなかに、啄木、朔太郎などが出て来る。「蟹」は「東海の小島の磯」の「蟹」であり、「汽車」は「フランスに行きたしと思へど」の「汽車」である。「ふるさと」は啄木の「いしもと追はるる」の「ふるさと」である。都会は漱石「坊ちゃん」の江戸であり、都会と対比的に描かれる「田舎」には田山花袋も出て来る。その他のことばの来歴(?)がていねいについている。
 さらに。この「物語」は「参考文献および若干のノート」というものをしたがえている。

 これいったい何?

 これを読むと、秋山が書きたかったものは、「詩」なのか「物語」なのか「ノート」なのか、判然としなくなる。どれも書きたかったのだろう。とだけ書いて、そのことに関しては判断を保留する。

 私がおもしろいと思ったのは、「物語」の部分である。特に、「ノート」の(注1)につながる部分である。駅のホームについての説明である。

塗料としては何を使ったか。ペンキ、ニスなどを想像するが、これらが使われはじめた年代は知らない。

 「ノート」の1の部分を見ると、文献のタイトルが並んでいるだけで、それう見るかぎりは「塗料」なんか、どこにも出てこない。
 変でしょ?
 詩に、長い長い注釈(物語)をつけ、さらにその「物語」に注までつけているのに、それは不完全なものである。これはいったい、なんのための注?
 いま引用した文章は、結局、いろいろ文献を踏まえながら、実は「知らない」ものを残したまま、ことばは動いているということを証明している。
 そのことを私は批判するつもりはない。むしろ逆である。どんなときでも、ことばは「知らない」ものを含んだまま動くのである。というよりも、「知らない」ものがあるからこそ、ことばはなにかを追いかけて動くことができる。未知の領域へ動くことができる。「知っている」ものだけだったら、未知の世界へは入っていけない。
 したがって、といっていいのかどうか、よくわからないが……。
 「ニス」は独立した生き物のように動いて、「汽車」のなかへ入り込み(ホームに少しは触れはするけれど、そこを離れて)、朔太郎の「夜汽車」を呼び寄せる。そして、

煤煙とニスと煙草と乗客や荷物のにおいのいりまじった濃くていくぶん刺激的な「汽車のにおい」の中から、人妻を連れた寄るの旅の感情の等価物として煙草とニスのにおいがときに抽出されている。

 と官能の世界に迷い込む。さらに「夜汽車」から「照明」に移り、ガラスに移り、そして、

高浜虚子が送ったガラス障子を正岡子規は非常に喜んだが、室内にいて外気を遮りつつ外が見える文明の利器の普及は便利であるにとどまらず、まさに透明な見えない作用を人々の思想の変革にまで及ぼした。内面の表現とはまさに外から中が見えるようにすることにほかならない。

 あれれ。いつのまにか、「歴史」になってしまっている。
 何を書いていたのだったっけ? 「ニス」は、そのときどうなるの?
 わからなくなりますね。わからないのだけれど、そのわからないくらいに、次々とことばがことばに刺激されながら動いていることだけは、とてもよくわかる。「知らない」を含んだまま動きはじめたので、どこかが緩んでいるのである。論理の「文法」が緩んでいるのである。そして、逸脱するのである。
 その瞬間がおもしろいのだ。
 あれ、こんなことがテーマだったっけ? 違うんじゃないの? そう思う瞬間の、なにかが、私に、この変な感じこそ「詩」であると告げる。詩はいつでも逸脱していくものである。逸脱する力が詩なのだ。
 詩のなかでは秋山の逸脱は小さい。しかし、散文のなかでは逸脱が大きい。
 まるで「物語」のなかで逸脱したくて、それ出発点として「黄色い砂」を書いたように思えて来るのである。なにごとかを説明するふりをして、なにかを補足するふりをして、逸脱を手に入れる。
 「物語」を読むと、私が感心した部分は、秋山がほんとうに狙って書いた部分なのか、自然にそうなってしまったのか、よくわからないが、狙って書いたものだとしたら、とてもすばらしい。とてもおもしろい。


二重予約の旅
秋山 基夫
思潮社

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『田村隆一全詩集』を読む(26)

2009-03-16 01:57:40 | 田村隆一
 「他人」の導入--というと変な言い方になるが、「他人」と出会うとは、過去-現在-未来とつながっている「私」の時間を洗い直すことなのだと思う。「他人」もまた過去-現在-未来という時間を生きている。「いま」という時間に2人が出会ったとき、そしてそこになんらかの会話をしたとき、ふいに「他人」の「過去」が「いま」に呼び出されて来る。それは田村の「いま」とはつながらない。「他人」の「過去」と田村の「いま」を結びつけ、「いま」をという時間を動かすためには、田村の「過去」そのものを「いま」へ呼び出さなければならない。生き直さなければならない。この生き直しが、時間を洗い直すことなのだ。
 他人が登場すると、田村のことばはとてもいきいきする。それは、そこでは、そういう生き直し、時間の洗い直しが行われているからだ。「詩は『完成』の放棄だ」(「水」)などという美しいけれど抽象的なことばは消え、具体的なものだけが書かれる。そのなかで「肉体」が動いていく。

 「手紙」という作品。

Y君から手紙がきた。
ケネディの切手が貼ってある。
アメリカ中西部の大学町。
初雪があったという。
中華料理店『バンブー・イン』は店を閉じた。
テネシー・ウィリアムズが学生のとき、
ビールばかり飲んでいた酒場もなくなって、
『ドナリー』だけは一九三四年以来健在だそうだ。
田村さんが住んでいたアパートのあたりまで散歩しました、とある。

ぼくが住んでいたアパート。
それはもうぼくの瞼のなかにしかない。
いくら雪のふる夜道を歩いていっても、
Y君にはたどりつけるはずがないのだ。

 前半は、Y君からの手紙を要約引用している。それだけである。しかし、そこには「出会い」がある。Y君が町の描写をするとき、その描写はY君にとって「いま」なのだが、田村にとっては「過去」である。この詩では、「田村の過去」が他人のことばによって「いま」にひっぱりだされる。それは田村の「過去」を洗い直す。「バンブー・イン」や「ドナリー」という固有名詞が「過去」と「いま」をつなぐ。そのとき、見えて来るのは「過去」そのものではなく、「いま」と「過去」とのあいだにある「時間」だ。他人に会うとは、出会うことではじめて見えて来る「時間」に会うことなのだ。
 この作品では、その「時間」はすこし感傷的に描かれている。「たどりつけない」ものとして書かれている。そんなふうに閉じられてはいるのだけれど、田村だけのなかで完結していた「時間」、抽象的なことばで書かれた濃密な「時間」に比較すると、ここでは、「時間」そのものが他者に対して開かれている。
 この作風の変化は、重要なことだと思う。

 「絵はがき」は、田村が誰かに「絵はがき」をみせながらアメリカ(ニューヨーク)について説明している形でことばが動いていく。その誰かはここでは明らかにされていないが、他者がくっきりと存在し、その他者にむかってことばが動くので、ことばがとてもわかりやすい。

こいつはタイムズ・スクエアです
老人がぼんやり坐っている
そう 人間があまりいませんね
図書館もガラ空きだったし エロ本屋にも客はいない

 図書館とエロ本屋の対比が人間をくっきり浮かび上がらせる。図書館にとってエロ本屋は「他人」のようなものである。そこに流れている時間はまったく別の時間である。そして、人間はその両方の時間を知っていて、それを結ぶ「あいだ」の「時間」を生きている。図書館だけの時間、エロ本屋だけの時間だけではなく、そのあいだを往復する時間を生きている。図書館の時間をエロ本屋の時間で洗い、エロ本屋の時間を図書館の時間で洗い直すように。
 そういう「時間の洗い直し」を田村は『新年の手紙』でやりはじめたのだと思う。
 それはもしかすると、『緑の思想』のころからはじまっているかもしれない。『緑の思想』のときは、その「他人」は人間ではなく、「自然」あるいは、「日本的な感性」だったかもしれない。伝統的な自然観--それも「他人の時間」として、田村自身が自分のなかに取り込んだものかもしれない。自分自身のことばを洗い直そうとして、そういう作品を書いたのかもしれない。





我が秘密の生涯 (河出文庫)

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岩佐なを「ポン太(芸者さんではなく)」

2009-03-15 12:35:01 | 詩(雑誌・同人誌)
岩佐なを「ポン太(芸者さんではなく)」(「歴程」557 、2009年02月28日発行)

 「歴程」577 では何人もの人が「中也」について書いている。岩佐なをも書いている。その「書き方」がちょっと変わっている。「ポン太(芸者さんではなく)」の前半。

町にもタヌキがいるようで
(これは全くひゆではなくて)
町のタヌキは夜にごはんをさがしてる
子ダヌキもいるのかな
その町のタヌキが一度は手にした
ボタンこそ中也が
月に向っても浪に向っても
抛れなかった一粒
そのくせ町で落としてしまった一ヶ
「拾うんじゃないよ」と
タヌキは誰かに言われたそうな
握った掌をやわらかく開けば
ボタンもあたためていた
ボタンもタヌキのしあわせも
ポタンと路に落ちてしまって
次にヒトの靴の爪先がそれを
蹴りコロコロリころがり
子ダヌキは拾いに行かなかったのかな

  2行目の「(これは全くひゆではなくて)」の「て」が、まず、おもしろい。「て」がないと、1行目はただ自分に言い聞かせているという感じがする。ところが「て」があると、とたんに目の前に「聴き手」があらわれてくる。「聴き手」ににたいして念押しをしている感じがくっきりと浮かび上がってくる。
 それが「おもしろさ」の要因だ。
 「聴き手」と「読み手」というものは実は違った存在である。
 文学というか、書きことばは「読み手」、「読者」を求めているが、そのときのことばは、1行ずつ「読者」を想定はしていない。ずーっととおして読んでくれるひとを想定していることが多い。全部読み通したときに、筆者の書きたいことが伝わればそれでいい、ということを前提としているものが多い。
 「聴き手」というのは、「読み手」と違って、いやになったらいつでも「聴き手」であることをやめる。「読み手」ももちろんやめることはできるが、「読み手」がいようがいまいが「書きことば」は最後まで完結することができる。ところが「聴き手」がいないとき、「話しことば」は「完結」できない。語り手は最後まで語ることはできるが、それが語ったという「証拠」はどこにもない。「書きことば」は文字として残るが、「話しことば」は空気のなかに消えて行ってしまう。(「話したとば」は録音して残せるから、「完結」できるという見方もあるかもしれないけれど、「話しことば」は録音を前提としていないから、それは「話しことば」であっても、別のものである。あえていえば「録音記録ことば」であって、「話す」「書く」とは別のものである。「印刷ことば」に対して「録音ことば」というようなものである。)

 「聴き手」を前提とした「話しことば」は、「聴き手」をひきつけ、そこにとどめておくためにいろいろ努力をしなくてはならない。2行目の「なくて」の「て」、目の前にいる「聴き手」に対して、しっかりと念押しをしているときの、その口調なのである。
 話しことばは、書きことばとちがって、あれ、いま、なんて言ったのかなと思っても確かめる方法がない。「もういっぺん言って」と聞き直すことはできるはできるけれど、語り手が質問を遮るように次のことばを言ってしまえば、その瞬間は、やはり聞きそびれたことばは聞きそびれたままである。
 語る方は語る方で、そういう「あいまい」な感じを利用して、ことばを動かすことができる。

握った掌をやわらかく開けば
ボタンもあたためていた
ボタンもタヌキのしあわせも
ポタンと路に落ちてしまって

 この4行には、話しことばの不思議さ(たのしさ)が凝縮している。「ボタンもあたためていた/ボタンもタヌキのしあわせも」というのは、論理的なことばの動きではない。「ボタンも」と冒頭に2回繰り返されるが、なぜ2回? 「あたためていた」は何を修飾することば? タヌキが掌に握って「あたためていたボタンも」「タヌキのしあわせも」なら、最初のボタンはいらない。また、改行の仕方も奇妙だと指摘できる。「あたためていたボタンも」「ボタンをあたためることができた--手に握ることができたタヌキのしあわせも」であるとしても、改行が奇妙である。
 ところが、この改行、「話しことば」では、改行という形にはならない。息継ぎや、アクセントの変化になってあらわれる。大事なことを言う場合、その音を高くすることで(あるいは逆にひくくするということもあるが)、聴き手の意識をそのことばに集中させる。そのために、息継ぎも「修飾語+名詞」をわざと分離させることもある。「音」として「分離」してしまった方が、そのことばそのものが強く意識に残るからである。
 話しことばは、文法をある程度無視できるのだ。書きことばは文法を無視すると何が書いてあるかわからないが、話しことばは文法が乱れても「音」そのもものの強弱、強調の仕方しだいで何が言いたいかわかるのである。
 岩佐はそういう「話しことば」の特徴をとても巧みに取り入れている。肉体化している。
 この4行では、実際に、何を言いたいのか、はっきり判断できないけれど、繰り返し読んでみたい、その音そのものをまるごと楽しみたいという気持ちにさせられる。「意味」を語るのではなく、「音」を語る。その「音」の重なりのなかにある、ことばにならないつながりを、「音」そのものとして声に出して遊ぶ。
 タヌキとボタンとポタンの関係のようなもの--そういうことばであいまいに語る「重複」のなかにあるもの、そういうものが岩佐にとっての「中也」である、と岩佐は言う。さらに、そして、そのタヌキの名前は「ポン太」であると。
 「音」そのものが遊びながら、「音」そのものをつたえる。音楽である。リズムそのものをつたえる。音楽である。
 後半にもそういう部分がある。

ポンポコポンポコ
箱の中からポン太さん
とても「自分たち史」を残した
かったポン太さんは
もちろん文字を知らな
かった声はシトには伝わらなかった

 「残した/かった」「知らな/かった」という改行、息継ぎと同時に、音そのものをかえる語り。その文法を破るときの不思議な快感。日常のことばの法則をはなれて、のびのびと楽しむ音楽。
 --そういうものを岩佐は中也から吸収したと、告白しているのだと思った。とてもいい「中也論」だと思って読んだ。語り方、ことばの動かしかたか「中也論」になっているのだと感動して読んだ。



 困ったことに--困らなくてもいいのかもしれないけれど、困ったことに、この岩佐の作品、「気持ち悪くない」。最近の岩佐の詩は、ことばの調子がとても自然で、「肉体」を感じさせる。だから「気持ち悪くない」。以前は、「肉体」は「肉体」でも少し違っていた。とても気持ち悪かった。どうしても好きになれないものがあった。この詩には、どうしても好きなにれないものがない。
 岩佐の作品は、絶品の領域に入り込んだのかな?
 それは、いいこと? 悪いこと?
 それもわからない。






岩佐なを詩集 (現代詩文庫)
岩佐 なを
思潮社

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『田村隆一全詩集』を読む(25)

2009-03-15 00:05:41 | 田村隆一
 『新年の手紙』(1973年)で田村は「他人」に出会っている。それまでも人間にであっていたかもしれないが、「他人」には出会っていなかった。
 「水銀が沈んだ日」は寒い日にニューヨークに住む詩人を訪ねたときの作品である。

ここにあるのは濃いコーヒーとドライ・マルチニ それにラッキー・ストライク
ぼくには詩人の英語が聞きとれなかったから

部屋の壁をながめていたのだ E・M・フォースターの肖像画と
オーストリアの山荘の水彩画 この詩人の眼に見える秘密なら
これだけで充分だ ヴィクトリア朝文化の遺児を自認する「個人」とオーストリアの森と
ニューヨークの裏街と

 「日本には一九三八年に行った それも羽田に一時間だけね
 まっすぐに戦争の中国へ行ったのだ
 イシャウッドといっしょにね」

寒暖計の水銀が沈んだ日
「戦いの時」のなかにぼくはいた
詩人の大きな手がぼくに別れの握手をした

 田村は詩人と会って、彼が日本に行った、一時間だけだったと話したことを大切なことがらとして書いている。それだけが唯一のことばであったかのように、引用している。そこに、詩人のことばに、どんな「意味」がある? どんな「意味」もない。だから、重要なのだ。
 「他人」とは全体に「ぼく」とは一体にならない存在である。いわば「矛盾」である。矛盾は、田村にとっては、止揚→統合(発展)とつながっていくものではない。むしろ、ふたつの存在、ここでいえば「詩人」と「ぼく」とのあいだに存在するものを叩き壊し、そこに存在するものを、存在以前のものにしてしまうものである。そこに存在するものが、存在以前のものになる時、「詩人」も「ぼく」も、「詩人以前」「ぼく以前」になる。未生のものになる。
 田村は詩人については多くのことを知っていた。しかし、たぶん彼が日本にきたことがあるとは知らなかった。もちろん、日本に来たといっても羽田を通過しただけだから、それは来た、行った、ということにはならないだろうから、だれも知らない「事実」だっただろう。
 その知らなかったものが、ふいに噴出して来る瞬間、詩人と田村のあいだにあった「空気」がかわったと思う。実際、かわったからこそ、田村はそれを一番の記憶として書き残しているのである。
 でも、どんなふうに変わった?
 それは書いていない。書けないのだ。そのときは「変わった」ということしか、わからないからである。

 「人間の家」という作品に、次の行がある。

おれがほしいのは動詞だけだ
未来形と過去形ばかりでできている社会にはうんざりしたよ
おれが欲しいのは現在形だ

 「過去」「未来」は田村にとっては「名詞」なのだ。固定したものなのだ。田村がほしいのは運動そのもの、何度か書いてきた私のことばで説明すれば、ベクトル、→、なのだ。
 詩人が田村に話したことは過去のことである。しかし、それは「過去形」ではないのである。「名詞」として固定化されている「歴史」ではないからだ。詩人の肉体が突然、時間をひっぱりだしてきたのである。「過去」ではなく、「いま」としてひっぱりだしてきたのである。--言い換えると、「いま」、田村はその事実を知った。「過去」はその瞬間「いま」になったのである。それが「現在形」である。「過去」さえも「いま」にしてしまう運動が「現在形」である。
 弁証法が、対立→止揚→統合(発展)という運動をするのに対し、田村のことばの運動は、矛盾→破壊→融合(あるいは溶解)である。
 詩人のことばは、田村が知っていた詩人についてのことがらを破壊する。少なくとも、「過去」を破壊し、まったく別の出来事を「いま」に運んで来る。それを受け止める時、田村の抱えていた「時間」そのものが揺らぐ。「いま」と「過去」がかきまぜられてしまう。他人と出会うと「時間」は動かざるを得なくなるのだ。「他人」とは、いつでも「ぼく」の知らない時間を生きてきた人間だからである。なんらかの真実の話をすれば、そこにはかならず知らないことがまじっていて、それが「時間」をかきまぜるのである。

 こんなとき、頼りになるのはなにか。「肉体」である。「肉体」はいつも「いま」しかない。「過去」は「頭」がつくりあげる運動領域である。「未来」も「頭」がつくりあげる運動領域であり、「肉体」とそこに存在することはできない。「頭」は「いま」「ここ」にいながら、同時に「過去」「未来」にも存在し得るけれど(その領域で運動できるけれど)、「肉体」は「過去」「未来」と「いま」との時間を同時に運動領域とすることはできない。
 ふいに出現してきた「いま」をどうやって受け止めるか。「肉体」で受け止めるしかない。

詩人の大きな手がぼくにお別れの握手をした

 「肉体」で「いま」に生まれてきた「過去」があることを受け止めたという印として握手をするのである。
 ここでは「手」がその仕事をしているが、別の場所、別の機会には、別の「肉体」が、たとえば、眼が、耳が、そういう働きをするはずである。


インド酔夢行 (講談社文芸文庫)
田村 隆一
講談社

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エリック・ロメール監督「我が至上の愛~アストレとセラドン~」(★★)

2009-03-14 09:19:31 | 映画
監督 エリック・ロメール 出演 フランスの緑、アンディー・ジレ、ステファニー・クレイヤンクール

 主演フランスの緑。フランスの自然--としかいいようのない不思議な不思議な映画。いま、どこにこんな美しい緑があるのだろうと感嘆してしまう。草木はやさしく人間をつつむ。光は緑のざわめきを祝福するかのように広がる。唯一、凶暴な自然として水(河)が登場するけれど、その水も結局人のいのちを奪わないのだから、ほんとうは凶暴とはいえない。
 あまりに緑が美しいので、主人公が絶望しているにもかかわらず、ぜんぜん絶望感がつたわってこない。祝福される結末へ向かって、ただ絶望という回路があるだけ、という感じである。こういう役には、役者の存在感はいらない。ただ美貌だけが求められる。エリック・ロメールは、そういうことがはっきりとわかっているのだろう。役者に「美」しか求めない。しかも自然と同じように、汚れのない美だけを求める。
 どこで見つけ出してきたのだろう。少女マンガの主役をオーディションしたのかといいたくなるような感じの2人が登場する。少年(青年?)は切れ長の目、すっきりした鼻、やわらかい唇、白い肌。少女(娘)は大きな瞳、やわらかい頬、あまい唇、そして美しい乳房に、真っ白なふともも。少女の乳房と、白い腿にはいくぶん存在感が要求されているが、たぶんそれは少年の恋(愛)というものが視覚から出発するからだろう。少年の欲望が見ることからはじまるからだろう。
 せりふまわし、そのことばも、役者の存在感によって汚れていない。まるで本を読んでいるような感じだ。つまり自分のなかの感情によって自然にことばがあふれてくるというより、本を読みながら、自分にあうことばを探しているような感じである。
 その結果、映画というよりも、完璧に具体化された想像力(空想)つきの「読書」をしているような、とても奇妙な印象に襲われる。
 たぶん、そうなんだろうなあ、と思う。
 エリック・ロメールは、映画で「読書」をしているのだろう。映画で、観客に「読書」を提供しているのだろう。それも、おとなの読書ではなく、少年・少女の、あるいはもっと幼い幼年期の読書を。子どもにも感情はあるし、欲望もあるけれど、それがどんなものかはっきりとはわからない。読書をとおして、他人の体験をおいかけるということをとおして、感情や欲望を発見する。つまり、自分を発見する。--そういうことを、エリック・ロメールはやっている。
 そして、その「読書」を映画のなかの登場人物にもやらせる。
 ふつう、人間は、自分のなかの感情をおさえきれずに行動する。この映画でも、登場人物は自分の感情に従って生きてはいるのだが(そういう設定なのだが)、見ていると、自分の感情にしたがって動いているというより、自分の感情を探すために動いているということがよくわかる。そのために、一種の「芝居」が演じられる。少年・少女がきちんと気持ちがつたえあうことができるように、おとなが手配して2人を接近させるという「芝居」が。おとなの企みによって(指導によって)、2人の恋はきめられた道をたどり、その道をたどることで、ほんとうの気持ちをに至り、つたえあい、幸福をつかむ。--「読書」とは、ある意味で、他人が用意してくれた道をたどり、その道が到達する世界へ、しらずしらずに到達することである。 



 とても、とても、とても奇妙である。--私の「映画」の範疇からは大きく逸脱する作品である。こんなものは映画ではない、と書こうとして書きはじめたのだが、意外とおもしろいかもしれない、と感想を書きながら思いはじめてしまった。
 「読書」ということ、あるいは、この映画のなかでもでてきた「芝居」(本のない時代の読書は、芝居を見ることだっただろうと思う)について語った映画である--という視点でこの映画を見つめなおせば、「傑作」という結論(?)に達するかもしれない。きょうは★2個の評価しかしなかったけれど、あるいは4個の映画なのかもしれない。(絶対に3個という映画ではない。)そして、その「読書」という観点から見つめなおせば、その文体、自然の美しさをていねいに描写する文体(映像)に対して、あらためて驚きが生まれてくるのを感じてしまう。こんなきれいな緑、その描きわけ、それに向き合う人間の肉体のおさえ方--その気配りに、感動してしまいそうな気がする。

 書いていて、いつかきっと、きょう書いた感想を自分で破棄して、この映画は傑作である--と書いてしまいそうで、少し、こわい。
 見ているときは、見ていたときは、ただひたすら退屈なだけの映画なのだから。なぜ、こんな絵空事がいま作られるのかさっぱりわからない、エリック・ロメールは美少年をスクリーンに定着させたいという欲望だけで、それにふさわしい自然とストーリーを選んだのかもしれないなあ。ビスコンティが生きていたら、この少年を主人公にして映画をつくるかなあ。見ているときは、ほんとうにそういう感想しか思いつかないくらい退屈な映画なのだから。
 不思議。とてもとてもとても不思議な映画である。



エリック・ロメール コレクション 緑の光線 [DVD]

紀伊國屋書店

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『田村隆一全詩集』を読む(24)

2009-03-14 00:08:27 | 田村隆一
 詩人がことばを書くのではない。ことばが詩人を、詩人の肉体を引きずって行く。「どこへ」。それはわからない。
 だが、そのことばに引きずられるままではいけない。田村は、ひとつの「枠」を設定している。禁忌を設定している。「「北」についてのノート」に記されている。それは確かに「ノート」と呼ぶべきものである。

世界を、さらにもう一度、凍結せしめねばならぬ。「北」の詩には、雪、氷、凍、寒、囚人、その他、「北」を連想せしめる如き言葉(修辞)は厳禁。

 田村は、ことばと「頭脳」の関係を熟知している。また、ことばの「罠」も熟知している。「頭脳」、あるいはことばは、すぐに結びつきたがる。連想というつながりへ動いて言ってしまう。「北」と「雪」、「北」と「氷」。これらは結びついたとき、「矛盾」という形をとらない。そういうものは詩ではない。
 詩は、矛盾でなければならない。
 「頭脳」(頭)は矛盾を嫌う。合理的ではないからだ。「頭脳」は人間の肉体のなかでもっともずぼら(?)な器官であって、ひたすら楽をしようとする。安易な径路をたどろうとする。数学も物理も、もっとも合理的な論理をもとめる。それを「答え」は判断する。合理的ではないもの、論理的ではないものを、誤謬とする。世界の運動をもっとも省力化しようとするのが数学・物理(科学)である。
 詩は、そうであってはならない。矛盾・誤謬でなければならない。合理的ではないと判断され、除外されたもののなかにある「いのち」を復活させるのが詩である。合理的なものを破壊し、矛盾にかえし、合理的という枠が殺していたもの(合理性によって葬られた死者)を甦らせるのが詩である。

 こういう詩のことを、田村は「自由」ということばでとらえている。

 「「北」についてのノート」には、まえがき(?)がついている。そこに「自由」ということばが出てくる。

絵画と音楽に国境はなし、というのは、真赤な嘘なり。ぼくが、北米の田舎町で経験した「自由」、および「自由」の回路となりうるもの、ただ一つ、それは言語なり。  北米、アイオワ州にて。一九六八年一月

 絵画、音楽(ことばを含まない演奏という意味だと思う)は国境を持たない。なぜなら、それは感性(肉体の感覚)へ直接訴えかけてくるからだ。眼と耳がそれを受け入れる。障害物はない。ところが、ことばは、いったん「頭」を通らないと感覚にまではならない。肉体へと働きかけない。感情を動かさない。--一般的には、そう考えられている。しかし、田村は、逆に考える。
 人間の感覚・感性は直接的に見えても、実際は、そうではない。感覚・感情にも「一定」の径路がある。人間の感情・感覚はひとりで形成されたものではなく、集団のなかで形成され、みがかれたものである。そのことを人は、ふつうは、意識しないけれど。
 たとえば冷たい水は絵画では寒色で表現される。暖色で表現される冷たい水はない。
 何を冷たいと感じ、何を温かいと感じるか--視覚の領域では、それはもうほとんど固定化されていて、そこには「自由」がない。ピンクで「冷たい水」を表現するのは、たぶん、許されていない。
 ことばも、もちろん、同じようにつみかさねられてきた感情・感覚・認識の径路をたどる。「北」と「雪」、「北」と「氷」は安直に結びつき、そこに径路があるということさえ、人は気がつかない。
 ところが、外国語がであうとき、その安直な結びつきは、安直ではおさまらない。外国語に熟達しても、あるいは熟達すればするほどというべきか、それぞれの国語が特有の径路をもっていることがわかる。ほんとうに共通のなにかを感じようとすれば、そこには微妙なずれがあることがわかるはずだ。
 このとき、ふつう、人は「外国語は不便だ」と感じる。ところが、その不便さのなかに、田村は可能性を見ているのだ。同じ径路をもたないということ--それは、別の径路の可能性をくっきりと浮かび上がらせる。自分がしらずに身につけてきた径路を破壊し、抑圧されているもの、合理的な径路が隠しているもの(わきに退けたもの)に直接触れることができる可能性がある。
 そういうことを田村は「自由」と言っている。

 その「自由」の定義は、「北」と「雪」、「北」と「氷」という結びつきは「厳禁」ということばから逆に証明することができる。「北」と「雪」、「北」と「氷」という結びつきは「自由」ではないのである。それは私たちが無意識のうちに獲得してきたことばの運動であり、感覚の連動なのである。
 2連目を読むと、そのことがさらにわかる。

氷河期--燃える言葉、エロティックなリズムで書くこと(小動物、森の動物が歩くリズムで)。深刻、悲愴、孤立、断絶、極北、極点、原点、の如き用語、フィーリング、使用すべからず。

 「フィーリング」。ことばのなかには、そのことばを話す国民が獲得した(確立した)フィーリングがある。(それはときとして、何か国語にも共通するものである。)そういうものは「自由」ではない。
 「自由」なことば--それは「氷河期」に対して「燃える言葉」。
 「氷河」と「燃える」は矛盾する。それは対立→止揚→発展、という運動ができない。氷河が燃えれば氷河ではなくなる。「頭脳」の「合理的な論理」に反する。
 けれど、その「頭脳」に反すること、合理的な径路に反することのなかに「自由」がある。詩がある。詩が、すくいださなければならない「いのち」がある。いや、すくいだすのではなく、田村の流儀にしたがっていえば、かえっていかなければならない「いのち」がある。

 だが、ことばが「自由」の回路であるとして、そのことばはどうやって手に入れることができるのか。
 「肉体」をとおしてである。
 詩の最後の方に書いている。

敗戦時におけるツキジデス像をこの眼で見ること。

 「この眼で」の「この」には原文では、傍点が打ってある。「この私の」つまり、肉眼でと田村は言いたいのだろう。「頭脳」ではなく、「肉眼」で手に入れるのだ。「頭脳」には蓄積されたことばの「回路」がある。その回路から遠い「肉体」で存在をつかみとること。田村は、そういうことを意志していると思う。
 「肉体」がつかみとったもので、「頭脳」をたたきこわす。破壊する。完成された回路を叩き壊すとき、そこに新しい原野が広がる。詩という原野が。



田村隆一エッセンス
田村 隆一
河出書房新社

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殿岡秀秋『日々の終わりに』

2009-03-13 11:38:57 | 詩集
殿岡秀秋『日々の終わりに』(書肆山田、2009年03月10日発行)

 殿岡秀秋は柔道をやるのだろうか。柔道のことを書いていると思える詩がある。「よみがえれ」「跳ぶ飛ぶ」と2篇あるが、最初に読んだ「よみがえれ」の方がよりおもしろい。全行。

畳の上に立って
相手と対峙する

力をぬけ
と自分に命じる

腕から力がぬけるのを
合図に
からだがゆるんでいく

硬く
分かれ分かれの島になっていた
筋肉が緩んで
浅い海でつながる

腹の奥まで緊張がとれると
凍っていた気持ちが溶けて
水蒸気のように
からだから気が昇っていくのが
相手にだけ感じとられる

相手の腕と自分の腕を交差し
柔らかく気と気を交流させる

人になる前の昔を
細胞は記憶している
動物的反射で行動したころの感覚で
からだが動く

ぼくは片足を軸に回転する
身を翻した瞬間
太古

 4連目がとても魅力的だ。私は柔道もしないし、運動そのものをしないが、運動をする人はみんなこんなふうに感じるのだろうか。自分の筋肉の部分部分が島になっていると……。そして、それが海でつながると。
 人間になる前の記憶--海からやってきた私たちの肉体。海からあがり、いすいろな生き物をへて、人間になった。人間になったあと、筋肉は筋肉で、それぞれ独立して「島」になる。それが緩んで、海でふたたびつながる。
 とても魅力的な肉体感だ。
 この感覚が味わえるなら、柔道をやってみたいものだ、と思った。

 「指の歴史」というのも楽しかった。

ぼくの左足の小指と薬指の間に紅い蕾
昨日と今日との間に開花した

肉に根を張り
血を養分にして
唇色の花を開く

乾燥した足の大地は
葉脈のようにひび割れているのに
そこだけ露が震えている

幼い日のアカギレは
今も薄い血を滲ませて
脳裏にふさがらないままだ

あるころは明日がくるのが遠く感じられ
傷が癒えることすら信じられなかった

花が開くには
ささやかでも
歴史があるはずだ

 「肉体」のなかに「時間」をしっかり感じ取る詩人なのだと思った。「紅い花」も、「島」と「海」も、とてもシンプルな比喩だが、そのシンプルな感じが肉体そのものをシンプルにしていくようで気持ちがいい。
 
 もっともっと、こういう作品を世みたいと思ったが、後半に行くにしたがって、ことばが肉体から離れていくようで、それが残念だった。


眼底都市―詩集 (1979年)
殿岡 秀秋
銀曜日

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『田村隆一全詩集』を読む(23)

2009-03-13 00:34:05 | 田村隆一
 「詩を書く人は」は、ある田村の自画像といえるだろう。あらゆる詩人の自画像であるといえるかもしれない。田村は詩人をピアニストにたとえて書いている。

詩を書く人は
ピアノを弾く人にすこし似ている
彼の頭脳がキイを選択するまえに
もう手が動いているのだ

手がかれを先導する
手は音につかまれて遁れられないのだ
それで手があんなにもがいているのさ

音が手をみちびき
手は音から遁れようとしながら
かれを引きずって行く どこへ

 「キイ」を、そして「音」を「ことば」と置き換えれば、それはそのまま「詩人」である。
 この作品でいちばん重要なのは、

彼の頭脳がキイを選択するまえに

 である。ことばは「頭脳」が選択するのではない。言い換えれば、「頭脳」で選択したことばは、詩ではない。「手が」とは、そして、「肉体が」ということでもある。「肉体」がかってに「詩人」を導いていく。「肉体」はことばに支配されて動いていく。このとき、「肉体」は「未分化」である。ピアニストの場合は「手」と簡単に分化されているけれど、(ほんとうはピアニストも手以外のにくたいそのものも引きずられているのかもしれないが)、「詩人」の場合、「未分化」の感覚--視覚、触覚、嗅覚、聴覚、味覚、五感が「未分化」のまま引っぱられていく。
 「未分化」の肉体は、ことばを追いかけながら、なんとか「分化」しようとする。そういうことを、「ことばから遁れようとしながら」と言い換えることができるだろう。実際、肉体はことばを追いかけることで「分化」する。手になり、眼になり、耳になる。そのとき、「未分化」から「分化」の過程では、たとえば「手で見」たり、「眼で聞い」たり、「耳で触っ」たりするのだ。手が眼になり(「眼の称讃」の最後の2行、「あなたの その動く手が 手そのものが/あなたの眼だ」参照)、眼が耳になり、耳が手になる。肉体の部分と感覚の部分が入り乱れ、融合する。
 こういう運動の行き先は、だれにもわからない。詩を書いている人にも、わからない。

かれを引きずって行く どこへ

 「どこへ」かは、だれにもわからない。わからないけれど、そのわからないものを、わからないまま追いかけることができるのが「詩人」ということになる。




自伝からはじまる70章―大切なことはすべて酒場から学んだ (詩の森文庫 (101))
田村 隆一
思潮社

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松尾真由美「水の火、儚く瞬時に底流するあでやかな光沢域から」

2009-03-12 11:06:16 | 詩(雑誌・同人誌)
 松尾真由美「水の火、儚く瞬時に底流するあでやかな光沢域から」(「ぷあぞん」13、2009年02月28日発行)

 松尾真由美「水の火、儚く瞬時に底流するあでやかな光沢域から」はエッセイと書かれているけれど、エッセイか詩か、よくわからない。いずれにしろ、ことば、である。私は、どんなことばでも、ことばの運動として読むだけなので、作者の「区分」はとりあえず、棚に上げておく。
 松尾のことばを読むには強靱な視力がいる。たとえば、5ページの、

保護もなく、保証もなく、もつれゆくものしかなく、邪恋の方角もしくは痛覚、体内と体外がよわよわしく交差して、山も谷も柔和におとろえ、空隙だけがあかあかと誘い込む。

 強靱な視力は3つの点で要求される。わかりやすい(?)順に書いていくと、
 ①「体内と体外がよわよわしく交差して」に見られるように、反対のものが「交差」している。まじりあっている。それを見分ける力が必要である。なにが「体外」であり、なにが「体内」なのか。同じようなものに、「もつれゆく」が暗示しているものがある。「もつれる」のはひとつの存在なのか、それともふたつの存在なのか、たとえば長い糸なら1本だけでももつれることができる。それを見極めなければならない。同時に、1本でももつれるとき、それはやはり1本と呼ぶのが正しいのか、それとも複数と見た方がいいのか、判断しなければならない。
 ②その交差は「よわよわしい」。タイトルにも「儚く」ということばがあるが、松尾の描いているものは常に「よわよわしい」や「はかない」「おとろえ」というような外観をまとっている。そして、この「よわよわしい」はほんとうに弱いのかどうかが難しい。「よわよわしい」という修飾語をもっていても、いまそこに存在している、残っているということは、そこには存在しないものに比較すると、実は「強い」からである、ともいえる。松尾の詩の、松尾のことばの、「よわよわしい」は、その程度の判断基準をもっていない。それは比較ではなく、存在と「交差」あるいは「もつれ」あっている意識である。その「意識」なしに、修飾されている「存在」そのものもない。「もの」ではなく、「よわよわしく」や「儚く」の方が存在しているとさえいえる。そういうことばをささえるために、「もの」(存在)は利用されている。見るべきものは、「交差」している存在ではなく、その「交差」のありようなのである。こういう「ありよう」を見極めるのには非常に視力がいる。
 ③「邪恋の方角もくしは痛覚」ということばが特徴的だが、ここでは何が「もしくは」で対比されているか一読しただけではわからない。「邪恋の方角」もしくは「痛覚」なのか。「邪恋の方角」もしくは「邪恋の痛覚」なのか。「方角」「痛覚」ということばが韻を踏んでいるので、それは意識の奥で「音楽」として溶け合う(交差する、もつれる)ので、なおのこと、区別がつかない。そのうえ、「方角」と「痛覚」は、はたして「もしくは」で対比されるような概念なのか。「左」もしくは「右」というのは極端にしろ、なにかしら同じ基準というか、ものさしで測れるものではない、「もしくは」ということばにはそぐわない。そのそぐわないものを、松尾は「もしくは」でつないでしまう。「交差」させる。「もつれ」させる。
 この判別のつかない世界を、松尾は、どうやって動かすか。
 ふつうは「交差」「もつれ」をほどいて行く。存在を、ものを、それぞれ単独にする。単独なら、その存在、ものが「わかりやすい」。--単純に考えると、あるいは日常にかてらして考えるとそうなると思う。
 しかし、松尾は、この関係を、さらに「交差」させ、「もつれ」させ、さらに繊細に、さらに複雑にする。交差し、もつれるものが、さらに交差を繰り返し、もつれ、1本の糸、あるいは複数の糸でいうならば、それが固く固くむすびついて1個の球になるようにしむける。固まった糸は(最小限に固まった球は)、外観は小さい、しかし内部は非常に複雑になっている。この矛盾というか、対比のなかに、その運動のなかに、松尾の思想がある。それをときほどく唯一の方法は、ただ、そのことばをていねいにていねいに追うことで、固められている内部へ入っていくことだけである。縒り固まっているから、そこには「光」はない。つまり「流通言語」をそのままあてはめて理解できることばはない。そこにはただ「闇」だけがある。視力的には。
 しかし、それがたとえば糸ならば、それをたどるとき、触覚(手、指)で「闇」を切り開き、構造を見ることができる。こういうとき、「視力」ではなく、別の感覚(たとえば触覚)が必要になる。
 松尾のことばが難しいのは、そこに、単純な感覚(あるいは単純な思考)ではなく、複数の感覚の融合を要求する力があるからだ。「見る」だけでは、見えない。触ること、聞くこと、においをかぐこと。さらには声に出すこと、なども必要かもしれない。肉体を動かして、ことばに反応する。向き合う。そのときにだけ、松尾のことばは開かれる。

 わかっていても、かなり厳しい。つよい視力--視力と、他の感覚が融合した、なづけられていない感覚、ふつうを超越した感覚が必要だ。




睡濫
松尾 真由美
思潮社

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『田村隆一全詩集』を読む(22)

2009-03-12 00:09:03 | 田村隆一
 田村隆一の詩は、いつも矛盾に満ちている。私が「矛盾」と呼んでいるものを、田村は「逆説」と呼んでいるように思う。
 「眼の称讃 敬愛をこめて滝口修造氏に」という作品。

生きている線だけを見てきた
息たえんとするもの
死に行くものの線だけを見てきた
あなたの眼が
物に憑かれたとき
物はあなたの眼をのぞきこむ
かぎりなき優しさをこめて

生きている線は
いつかは死ぬだろう 死ななければ
あなたの眼に見られた物の
復活はない
物によってのぞきこまれたあなたの眼の
蘇生はない

ぼくはいま
かぎりなきdelicateな
逆説のなかにある
あなたの眼はあなた個人のものではない
光りが走り
線と色彩がほとばしる
あなたの その動く手が 手そのものが
あなたの眼だ

 1連目。「あなたの眼が/物に憑かれたとき/物はあなたの眼をのぞきこむ」。ここに書かれている相互性。眼がものを見るとき(憑かれるとは、逃れることができないような状態で引きつけられるように「見る」ということ、「見る」の強調形であるだろう)、物の方でも眼を見つめかえしてくる。相対するものが「見る」というベクトルのなかで一致する。それは方向が違うけれど、同じ運動である。方向が違うことを取り上げれば「矛盾」である。しかし、田村はこれを「矛盾」とは考えない。むしろ、強い結びつきと考える。それは「相互性」ということかもしれない。互いが行き来するのだ。往復するのだ。裕往復の一つ一つの運動はその方向性をとらえれば、眼から物へ、物から眼へと対立・矛盾するが、繰り返すとき、それは矛盾を超越する。それが「相互性」ということである。
 2連目は、その「相互性」を、もう一度言い直したものである。生と死と復活(蘇生)は一方的な運動ではない。何度も往復する。そこには「相互性」がある。その相互性には「から」が共通のものとして、存在する。「から」が呼び起こす「運動」のベクトル。
 ある水平の状態に「もの」と「眼」があると仮定する。それぞれの「視線」(ベクトル、矢印「→」)は相互に行き来する。そして、それは相互に行き来しながら衝突するのではなく、行き来することで水平という方向を逸脱し、たとえていえば、垂直に離脱する。それは上昇かもしれないし、下降かもしれない。どちらであってもいいが、いまある方向とは別の次元の方向へベクトル(→)そのものとして動いていく。そうして、その方向は、私は便宜上「垂直」と書いたが、ほんとうは、全方向、つまり「球」(円)の方向として可能なのだ。球(円)の方向にベクトルの可能性があるから、それを「別次元」への逸脱ということができるのである。そこにあるのは、ほんとうは「方向」ではなく、可能性なのだ。

 全方向とは、矛盾である。全方向なら、そこには方向はないことになるからだ。

 書けば書くほど、そこに書かれていることを、「流通言語」で言い直そうとすればするほど、何も言えなくなる。何も言ったことにならなくなる。--それが田村の「矛盾」、止揚ではなく、発展ではなく、融合と私が呼ぶものであり、それを田村は「逆説」と言う。
 それは常に「逆」のものを含まないかぎり、言い直すことができないのである。

 「別次元」のことを、3連目で、とても興味深いことばで田村は書いている。

あなたの その動く手が 手そのものが
あなたの眼だ

 「手」はもちろん「眼」ではない。しかし、田村は「手」が「眼」であると書く。「手」と「眼」が描くという運動のなかで「融合」しているのである。そして、それは止揚→発展ではなく、逆の方向の動きなのだと私は思う。「手」が「眼」の機能(?)を獲得して動くのではなく、「手」と「眼」の区別がない状態、「手」と「眼」が肉体として分離する以前の状態にもどって、「手」以前、「眼」以前のエネルギーとして動くのである。
 「手」と「眼」の融合は、発展ではなく、いわば先祖返り、未分化への後退であり、そういう未分化のものだかが、新しいものを産み出す、そこから生まれてくるものだけが新しい「いのち」なのである。古いもの(?)、未分化のものが新しい--という「逆説」が、ここにある。




詩人のノート (講談社文芸文庫)
田村 隆一
講談社

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萌沢呂美『空のなかの野原』ほか

2009-03-11 09:22:16 | 詩集
 萌沢呂美『空のなかの野原』(あざみ書房、2009年02月11日発行)に、「植木鉢」という作品がある。その1連目が印象に残った。

空が
こぼれそうに咲いている
あふれ出て滝になる

 2行目の「こぼれそうに」が新鮮だ。季節が変わる。冬から春へ。空が新しくなる。そのときの、おさえきれないひろがりが「こぼれそうに」。「こぼれる」ということばに、こんな使い方があったのか、と驚く。
 さらに、「咲いている」から、「あふれ出る」「滝になる」という変化も楽しい。
 「空が/あふれ出て滝になる」だけでもおもしろいと思うが、間に「こぼれそうに咲いている」という別の動きがあるために、冬から春への空の変化の、「ひとつ」ではとらえられないよろこびのようなものが乱反射する。
 萌沢のことばの魅力は、この乱反射にある。
 ただし、そのことを萌沢が自覚しているかどうかは、よくわからない。引用した1連には、実は4行目がある。4行目によって、ことばは落ち着くが、その落ち着き方が私にはおもしろくなかった。だから、おもしろいと感じたところまでの引用にとどめた。



 友澤蓉子「冬のメッセージ」(「まどえふ」12、2009年03月01日発行)は、ことばを「遊ぶ」という自覚をもって書かれた作品である。

ふと
ふれる
ふれあう先端

冬の朝
ふたつの死と生が満ち欠ける

 行の冒頭に「ふ」という音を置いてことばを動かしていく。こういうとき、どうしても、そこに「現実」が入り込んで来る。この詩でいえば、4連目。

芙美の家族
2つのサボテンの耳もつ老犬に死訪れる

 「芙美」「老犬」「死」--「芙美」というのは新しく生まれたいのちの名前なのだろう。一方に新しい誕生があり、他方に親しんできたものの死がある。
 それをみつめながら、それでもことばを「遊び」のなかへ解放してゆこうとするこころがある。それが「遊び」であることを自覚しながら、それでもことばを動かしてゆこうとする。

ふくらみすぎたことばの
風船が割れる 老犬の死は

芙美の身代わりだよ などと
降り積もる


ふと信じる
ふと信じない

ふふふ

 この作品も、実は、このあと1行ある。省略して引用する。友澤はその1行を書くことによって作品を完成させた。それは作品を「とじる」ということに似ている。「とじる」と書いたひとは安心する。けれど、読むひとは、がっかりする。ちょうど、友人の家までたどりついたのに、玄関先でぴしゃりとドアをとじられたように。


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