詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

高橋睦郎『百枕』(18)

2010-08-18 12:00:00 | 高橋睦郎『百枕』
高橋睦郎『百枕』(18)(書肆山田りぶるどるしおる、2010年07月10日発行)

 「枕木--十二月」。

うちつづく幾枕木の霜の朝

 枕木の霜。これは美しいなあ。レールの冷たい白は均一な、すきまのない白。枕木の下のバラストは荒々しく、すきまも目立つ。けれど枕木の上の霜はきめの細かい輝き。ほんものの木をつかった枕木だね。まだ眠りのなかにある街、夢からつづいているような長い線路。

枕木の原木(もとき)の山も眠る頃

 「山眠る」だけならおもしろくない。「頃」がとてもおもしろい。意味的には「季節」ということになるのだが、「頃」には時間に巾をもたせて、漠然とさししめす感じもある。その「漠然」とした印象が、山が具体的に目の前にあるという印象をかき消す。「原木の山」は、どこかにある山、想像している山である。その想像の先にある山がきっと眠るころ--と想像している。真冬ではなく、冬に入る季節なのだ。街(駅のあるところ)はまだ冬には早い。けれど、きっと枕木の原木の山はもう冬に入っている(山眠る季節に入っている)ころだろう、と想像している。「頃」があるため、「山眠る」が現実ではなく、想像であること、推測であることが明確になり、それがこの句を逆に強いものにしている。想像とは、思いが遠くまでゆくことである。山の遠さが、「頃」によってはっきりしてくる。

枕木を数へ年逝く寝台車

 寝台車(列車)のがたんがたんはレールの継ぎ目の音であり、枕木の数とは関係ないのだが、この句を読むと、枕木の数をがたんがたんと数えながら寝台車が走っている(寝台車のなかで枕木の数を数えながら眠っている)という感じがする。その数を数えながら、今年が行き、新しい年がくる。そのとき、枕木は線路を支えているだけではなく、その「枕」は寝台車で寝ているひとの「枕」そのものと重なる。
 ことばは、間違いながら(間違えながら?)、入れ代わる。重なり合う。



 反句、

枕木に年つもりけり鉄道史

 「枕木」のかわりに「レール」でも「鉄道史」が変わるわけではない。けれども、やはり「枕木」がいい。二本のレールではなく、何万本もある枕木--そのそれぞれに、それぞれの「年」が、つまり「歴史」がある。
 この句に先立ち、高橋は若くして戦死した叔父、鉄道員だった叔父の思い出を書いているが、「枕木」は死んでいった多くの、無名の若者をも連想させる。無名のひとりひとりにも、それぞれの「年」、つまり「歴史」がある。そのことに思いをはせている高橋--その視線のやさしさがにじむ。



すらすら読める伊勢物語
高橋 睦郎
講談社

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松岡政則「口福台湾食堂紀行」

2010-08-18 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
松岡政則「口福台湾食堂紀行」(「現代詩手帖」2010年08月号)

 松岡政則「口福台湾食堂紀行」は、松岡が最近書きつづけている紀行詩の一篇である。「歩くとめし。/それだけでひとのかたちにかえっていく」と剛直に人間の本質から書きはじめている。(谷内注・「湾」は本文は正字)
 その後半。

路が岐かれている
えたいの知れない方をえらんでしまう
路地につもったねばつく時間
生活の残りがそこいらにぶちまかれ
まども洗濯物もはずかしい
ここには残酷であかるい生活の原質がある
知る、とは生まれてくるということだろうか
躰のなかまで触れにくる
ひかりのことをいうのだろう
「満腹食堂」には誰もいなかった
聲はつけっぱなしのテレビだった
カウンターに洗いものの粥碗や
大皿がかさねらたままになっている
それが、なんかまぶしかった
こんなのがいつか
ひかりになるのだろうと思った
日本語でもかまうことはない
「ごめんください!」

 「歩くとめし」は「生の原質」ということばで書き直されている。見つめなおされている。
 「生の原質」というとき、その「生」は「生きる」ということになると思うが、松岡はそれをすぐに「生まれる」ととらえ直している。「生きる」とは常に「生まれ」つづけることなのだ。「歩く」とは一歩一歩「生まれ」かわることである。
 道が分かれる。そのとき知っている道、なじみのある道ではなく、知らない道、知らないどころか「えたいの知れない」と感じてしまう方の道を選び、歩くというのは、自分自身のなかにある「えたいの知れない」何かを「生まれ」させるためである。
 「えたいの知れない」何かを「知る」。それが「生まれ」かわるということである。そのとき、松岡は「ひかり」に出合う。体のなかまで触れてくる「ひかり」。「ひかり」に触れるとは「ひかり」を「知る」ということであり、その「知る」というかたちで松岡は「生まれ」かわるのである。
 松岡が「満腹食堂」で出合うのは、清潔を超越した「生きる」力である。「歩くとめし」の「めし」を食い、「生きる」力である。「食う」ことが重要なのであって、その後片付けなどは、まあ、どうでもいい。その力に触れて、

それが、なんかまぶしかった

 そこに「ひかり」を感じている。「生まれ」かわるための力を感じている。

それが、なんかまぶしかった
こんなのがいつか

 「それが、」と読点「、」を挟んで、そこでひと呼吸おいて、「なんか」「こんなのが」という口語が剥き出しになったことばが動く。
 その前の「生の原質がある」とか「知る、とは生まれるということだろう」という、いわば、口語にはならないことば(書きことばそのもの)とは異質なことば。
 食堂の「生の原質」「ひかり」のなまなましさ。まっとうに見ることのできない「まぶし(さ)」に触れたあとでは、書きことば(文語)では太刀打ちできない。松岡自身が剥き出しの「いのち」になって向き合うしかない。
 その決意というとおおげさかもしれないが、「肉体」の勢い、体の奥からあふれてくるものが、読点「、」の直後の口語なのだ。

日本語でもかまうことはない

 と松岡は書くが、これは謙遜(と、こんなふうに「謙遜」ということばをつかっていいかどうかは、わからないのだが……)。「かまうことはない」ではなく、「日本語」でないと、向き合えないのだ。「日本語」を剥き出しにする。「なんかまぶしかった/こんなのがいつか」という口語そのままに、松岡自身の「肉声」で向き合うしかないのだ。
 他人ときちんと出会い、「生まれ」かわるためには、「肉体」でぶつからなければならない。同じように、「声」はつくられた「声」、あるいは学んだ「声」(具体的に言えば、中国語)ではなく「肉声」が必要なのだ。

 「肉声」ということばはふつうにつかうけれど、私が強調したいのは「肉・肉声」と書くしかないものである。単なる「肉声」ではなく、松岡の「肉体」をくぐり抜けた「肉声」。「肉体・声」。
 松岡の詩について、以前「肉・耳」というようなことばをつかって感想を書いたことがあると思うけれど(「肉・喉」だったかな?)、それに通じる「肉・肉声」である。「肉・肉声」ということばがないから、「肉声」とわかりやすく(逆にわかりにくく?)書くしかないのだけれど……。
 松岡のことばは、いつでも「肉体」をきちんとくぐり抜けている。そしてことばが「肉体」になっている。だから、読んでいて、楽しい。おもしろい。
 そういうことばに触れると、私自身のことばが叩き壊されていく。たとえば、簡単に「肉声」とつかっていたことばが、そのままの「肉声」ではなくなり、「肉・肉声」というような領域へ入り込んで、ことばから逸脱していく。
 こういう瞬間が、私にとって、詩を読む、という実感。


ちかしい喉
松岡 政則
思潮社

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高橋睦郎『百枕』(17)

2010-08-17 00:00:00 | 高橋睦郎『百枕』
高橋睦郎『百枕』(17)(書肆山田りぶるどるしおる、2010年07月10日発行)

 「枕絵--十一月」。「枕絵」ということばを、私はつかったことがない。読んだ記憶も、もちろん、ない。ないのだけれど、その文字を読んだ瞬間、とくに「絵」が「正字」で書かれていて複雑だったりすると(高橋は「正字」をつかっている)、「絵」のときよりももっと濃厚に、あるイメージが浮かんでくる。この「絵」は「春画」だ。この「直感」には「枕=セックス」という意識も反映しているのだけれど、不思議なことに、こういう「直感」というのは間違いを犯さない。絶対に的中する。これは、なぜだろう。
 --というようなことは、文学とは関係ないことだろうか。関係なさそうでいて、とても関係があるように、私には思える。
 発句。

枕絵に行き当りけり冬支度

 これが「秋支度」だったら、どうだろう。「枕絵」が春画だとしても、その春画がすっきりと「本能」のなかから立ち上がってはこない。冬--寒くなって、ひとの温もりが恋しいという感じのなかで「枕絵」があらわれると、「寒い、寒い」といいながらも、互いの衣服をはだけさせてセックスをしはじめる感じと重なり、「春画」が自然に感じられる。
 「枕絵」が「春画」であることは、季節には関係がないのだが、それでもどの季節、どのようなことばとともにつかわれるかによって、「本能」に働きかけてくる力の度合いが違う。
 「枕絵(春画)」と「冬支度」か。ぴったりだなあ。そう「本能」が感じるとき、その句はすばらしく輝いて見える。「行き当りけり」もいいなあ。それは探していたのではない。偶然、でてきたのだ。この偶然の感じが、なんともなつかしい。そして、そのなつかしさが「枕絵」を活気づかせる。「行き当りけり」だからこそ、「枕絵」が「春画」だとより明確にわかる。もしそれが「春画」ではなくても、「春画」だと「誤読」してしまう。私の「本能」は。
 この句には、そういう「本能」に働きかけてくることばが、とても自然に動いている。だから、とても好きだ。

 ことばには、「意味」がわからなくても、「直感」でわかることばがある。「本能」が反応してしまうことばがある。そして、その反応はたいてい「正しい」。それが「誤読」であっても、何かしら「正しい」ものを含んでいる。「本能」の運動の方向性(ベクトル)として……。
 そうして、そういう「直感」が「正しい」とわかったとき、文学はとても楽しい。あ、これこそ私が感じていたこと--と他人が書いたことばなのに、そう思ってしまう。作者は私を勘違いしてしまう。まるで自分が書いたことばだと思ってしまう。「誤読」してしまう。
 「直感」で読む「文学」のよろこびは、「本能」が「正しい」とわかるよろこびと同じである。してはいけないのだけれど、それをしてしまう。たとえば「春画」によろこびを感じるというのは「わいせつ」であって、そうしない方が倫理的(?)には正しいと言われるようなことがらなのだけれど、「本能」はよろこぶねえ。そして「春画」があるということは、そういう「本能」を肯定した仲間(?)がいるという証拠だねえ。こういう「本能」をかかえた人間はひとりではない--自分がひとりではないという安心のよろこび。そう「誤読」するよろこび。
 同じ罪を犯すよろこび。
 文学というのは、「いま」「ここ」から逸脱していくこと。罪を犯すこと。逸脱を肯定すること。そういうものを求める「本能」が「直感」として何かをつかみ取り、それがつかみとったものそのものだったときの、うれしさ。

 あ、これは高橋の「枕絵」連作とは、それこそ関係ないことなのだけれど、きょう私が感じたのは、そういうことだ。

枕絵の防虫香も今朝の冬

 この句も大好きだ。「枕絵」は視覚。「防虫香」は嗅覚。「今朝の冬」は触覚(寒い、と感じる肌の感覚)。「枕絵」が視覚にとどまらず、嗅覚や触覚と接触・融合して「肉体」そのものにひろがっていく。

枕絵を畳の上や神の留守

 「神の留守」は「神無月」だからそう書いたというかもしれないけれど、ねえ、ちょっと違うことも考えるよね。「いやらしい、そんなものを広げて」と怒る「家の神」の留守。こっそりとではなく、畳の上に堂々と広げている。どれがいいかなあ、と吟味している。おかしいね。俳諧だねえ。



枕絵を並べひさぐや返り花

 うーん。「ひさぐ」か。こんなふうしてつかうのか。
 これ以上書くと、怪しいことになりそうなので、きょうの感想はここまで。






高橋 睦郎,高岡 一弥,森田 拾史郎
ピエブックス

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高木敏次『傍らの男』(2)

2010-08-17 00:00:00 | 詩集
高木敏次『傍らの男』(2)(思潮社、2010年07月25日発行)

 高木敏次『傍らの男』は「私は」が省略された詩集である。省略してしまうのは、高木にとって「私は」は自明のことであり、「肉体」であるからだ。書く必要がないのだ。こういう「肉体」となってしまっていることばを私は「キーワード」と呼ぶ。あるいは「思想」とも呼ぶ。そして、このキーワードは、書く必要はないのだけれど、あるとき、どうしても「歪み」といっしょに噴出してきてしまう。その「私は」は、きのう読んだ「居場所」の「私は何かかなしそうだったが」の「私は」である。それは省略されている「私は」と同じものではなく、ほんとうは「私が」と書かれるべき「私は」であった。「私が」と書かれるべきなのに「私は」という形で、まちがって書かれてしまう--そのときに、省略してきた「私は」のあり方が、そこに垣間見えるのである。
 (私の書いていることはなんだか、ややこしい。面倒くさい。だからこそ「思想」なのだと、思ってもらいたい。)


 高木敏次『傍らの男』は「私は」が省略された詩集である--という視点から、詩集を読み直してみる。巻頭の「帰り道」。その冒頭。

私のことはもう考えないで
路上で野菜を売っている女を見る

 この1行目の冒頭に「私は」が省略されている。「(私は)私のことはもう考えないで/路上で野菜を売っている女を見る」。これは「私が」をさらに補って書いてみると、「(私は)私(がどういうような人間であるかというような)ことはもう考えないで/路上で野菜を売っている女を見る」になる。(がどういうような人間であるかというような)はつづまって「の」になっている。
 私は、いま「私(がどういうような人間であるかというような)こと」と適当に補ってみたが(書き直してみたが)、そのかっこのなかのことばは、まあ、正確ではなく、適当なものである。厳密なものではない。「厳密」に書くことは、不可能なことである。高木の「肉体」そのものとなっていることがらだから、「ことば」には不向きである。
 ことばとは「分節」作用だが、「肉体」は「分節」されないものだからである。そして、この「分節されない」という表現は、また、正確ではない。厳密に、あるいは科学的に、客観的に「分節されない」というだけのことであり(あるいは、厳密に「分節できない」ということであり)、実際には「分節」の可能性(?)のようなものを、「私は」感じているのだ。
 「分節されない」は「未生」と言い換えることもできるかもしれない。存在するが生まれていないのだ。そこから必ず生まれてくるものなのだ。

 この「帰り道」は、この詩集のなかでは「初期」のものだろうか。(最初に読むから「初期」と感じるだけなのか……)。ちょっと不思議である。「他人」が登場しているからである。2行目の「女」がそうであるし、その後も「他人」が出てくる。

大通りへは
と知っているような人に
たずねられた
市場は遠い
隣の部屋から物音がきこえるように
だれかが遠くにいそうだ
水をすくい上げるように手を動かす人
急いで家へ帰る人々

 ここに書かれている「人」は「私(が)」とは違った存在である。そういう「人」を定義するのに、とてもおもしろいことばがつかわれている。「だれかが遠くにいそうだ」の「遠く」である。
 「私(が)」は「私(は)」とぴったりくっついている。「分節」することができない状態にある--つまり、最接近(最密着)の状態にあるのに対し、だれかは「遠い」。けれども、この「遠い」はほんとうに「遠い」わけではない。離れているけれど、「近い」。矛盾したことばである。「隣の部屋から」の「隣」がそのことを語っている。「遠い」といっても「隣」なのだ。
 そして「隣」なのに「遠い」ということは、ひるがえってみると(あ、この日本語は正しいだろうか……)、「私(が)」と「私(は)」の密着(非分離・非分節)のなかにも「距離」、つまり「遠い」が入り込む余地があることを暗示しないだろうか。
 「遠い(遠く)」は、「私(が)」と「私(は)」を高木に再び呼び寄せる。「私のことはもう考えない(で)」と1行目に書いたにもかかわらず、「私(は)」考えてしまう。詩の最後の部分。

もしも
遠くから
私がやってきたら
すこしは
真似ることができるだろうか

 そう考えているのは、省略された「私(は)」である。「私(が)どのような人間であるかわからないが、その私(が)」「遠くから」「やってきたたら」……。「私(は)」「私(が)」を真似ることができるだろうか。
 これは、もし、未分化の、非分節の、未生の「私(が)」、「遠く」から(つまり、密着しているのにそこから分離する形で出現するという運動をとったときに)、「私(は)」、「私(が、そうであるもの)」になれるだろうか、という意味になるだろう。「私(は)」「私(が、そうであるもの)」になりたい、という本能的欲望の表現でもあるだろう。

 この詩集は、すごい。ほんとうに、すごい。高木のことばを追いかけるには、まず、私(谷内)自身を叩き壊さないといけないが、高木のことばを読むと、私自身を叩き壊す前に私が叩き壊されてしまって、そんな状態では高木のことばを追いかけることはできない。ページをめくるごとに書きたいことがあふれてくるのに、ことばが追い付かない。

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チャールズ・チャプリン監督「チャップリンの独裁者」(★★★)

2010-08-16 23:28:16 | 午前十時の映画祭

監督 チャールズ・チャプリン 出演 チャールズ・チャプリン

 私は、どうやらチャプリンの映画が苦手なようである。ことばが嫌いなのだ。
 私がおもしろいと感じるのは、この映画では、ヒトラーの演説を真似したドイツ語(?)の音。私はドイツ語を知らないが、なんとなくドイツ語風の響きに聞こえる。ドイツ語の癖を音楽のように再現している。それは、ことばではなく、音楽になっている。だから、おもしろい。ときどき、合いの手(?)のようにして翻訳が入る。それも、とてもおもしろい。もちろん、拍手をとめる手の動き、そのときの音と音の空白、それも音楽だ。
 もう一つ、ヒトラーがゴム風船の地球儀をつかってダンスするシーンも、非常におもしろい。風船のふわふわしたリズムと、それにあわせた肉体の動きがとても楽しい。映像から音楽があふれてくる。
 ところが、ヒトラーを演じていない部分のチャプリン--理髪師のチャプリンが、あまりおもしろくない。定型化している。ハンガリアン舞曲にあわせて髭を剃るシーンは、この映画で3番目に好きなシーンだが、ほかはおもしろくない。
 最後のチャプリンの演説は世界に向けたメッセージだけれど、そしてそのメッセージは非の打ち所のないもの、まったく正しいものだけれど、その完全に正しいということろが、つまらない。もちろんこんなことを言えるのはいまの時代だからであって、ヒトラーが台頭してきた時代に、チャプリンが真っ正面からメッセージを発したことはとても重要だとわかっているのだが、それでもおもしろくない、と私は言いたい。
 ゴム風船の地球儀をもてあそぶ映像で、ヒトラーを厳しく批判したチャプリンが、最後でことばに頼っているということがおもしろくないのである。ことばに頼らずに、映像と音楽でなんとかできなかったのか。そういう疑問が残るのである。最後のことば(メッセージ)のために、それ以前の映像と音の楽しみを踏み台にしてしまう、踏み台として利用してしまうというのは、ちょっとなあ……なんと言っていいのかわからないが、こまるなあと思ってしまうのである。
                         (「午前十時の映画祭」28本目)

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高橋睦郎『百枕』(16)

2010-08-16 12:00:00 | 高橋睦郎『百枕』
高橋睦郎『百枕』(16)(書肆山田りぶるどるしおる、2010年07月10日発行)

 「枕虫--十月」。「枕虫」。こんなことばがあるとは知らなかった。エッセイに、

「枕虫」という珍しい歌語は『大斎院前御集(だいさんゐんさきのぎょしゅう)』に突如現われる。

 と、ある。

大斎院の雅(みやび)を伝える挿話の一つが、ある秋の夜、就寝前に洩らした「まくらむしのなく」の一語で、さっそく女房の進が聞き止めて、歌を詠むことを勧め、自分たちも詠みたてまつった。

 という。そして、その歌というのは、

うきよをばたびのやどりとおもへばやくさまくらむしたえずなくならむ

 というのだが……。この歌、「枕虫」とつながるの? 「浮世をば旅の宿りと思へばや草枕虫のたえず鳴くならむ」。「草枕/虫のたえず鳴くならむ」じゃないの? 旅に出て、「草枕」で横になる。すると、その枕の下から(草むらから)虫の声がする。まるで枕のなかで虫が鳴いているよう……。私のいいかげんな理解力では、そんな具合になる。
 あくまで「草枕/虫」。
 ここから「(草)枕虫」にかわる瞬間、その契機が、私にはわからない。わからないのだけれど、こういう変化というのは、おもしろいと思う。 
 変化ではなく、きちんとした脈絡があるのだけれど、私にはわからないだけなのだと思うけれど、こういうわからないものに出合ったとき、私は強引に「誤読」するのである。えい、やっ、と掛け声をかけるでもなく、ぱっと「誤読」の方へ渡ってしまう。秋の夜、虫が鳴いている。枕元にまで聞こえる。それを「ああ、枕虫が鳴いている」と言ってしまう。そして、そこから逆に、まるで旅で草枕で寝ているよう。そういえば、この世は旅の宿のようなもの、いまのいのちは旅の途中……大斎院の歌は、そう読み直せばいいのだな、と勝手に考える。
 女房たちにかこまれて生活しているのだが、旅を想像する。それも、人生という旅だ。そのとき「草枕/虫」は(草)「枕虫」に変わるのだ。そして、その変化したもの、「言語として結晶したもの」だけを高橋は引き継ぐ。
 高橋はいつも「言語の結晶」を引き継いでいる。そして、その「言語結晶」をのぞくと、それはプリズムのように、光を分解し、きらめかせる。その輝きが、高橋は好きなのだと思う。



髭振りて枕に近き虫一つ

 この発句は、「枕虫」の冒頭におかれるには、ちょっと奇妙な感じがする。「枕虫」はあくまで「鳴く」が基本。聴覚でとらえた「まぼろし」。「髭振りて」というとき、そこには聴覚は働いていない。視覚が中心になっている。「枕に近き」の「近き」も聴覚でとらえた距離ではなく、視覚でとらえた距離だろう。

 私は次の2句が好き。

つれづれに虫籠つらね肘枕

 虫かごをならべ、あきることなく見ている。「肘枕」というだらしない(?)というか、力をぬいた体の感じが、虫に酔っている、虫が大好きという感じをくっきりと浮かび上がらせる。
 このとき、「私」は、虫を見ている? 聞いている? 見ているんだろうなあ、と思う。鳴くのを待って、あかず眺めているのかもしれない。

籠の虫慕ひて虫や枕上ミ

 籠の虫が鳴いている。それを慕って恋人の(?)虫がやってくる。それがいま、枕の上)にいる。虫籠と枕のあいだ、枕の上の方(枕もと)にいる。枕の方(枕もと)から虫籠の方へ近づいていく。それを見ている。(これも視覚の句。)いいなあ。それを見ているとき、「私」は、虫の動きとは逆の動きを夢見ているかもしれない。つまり、だれかが「私」の枕の方へ近づいてくることを、ぼんやり夢想しているかもしれない。



 反句

虫めづる大斎院の枕杖

 「枕杖」ってなんだろう。大斎院の「枕虫」ということばを根拠(支え=杖)にして、「枕虫」という一連の句をつくりました、くらいの「あいさつ」かな?



花行―高橋睦郎句集 (ふらんす堂文庫)
高橋 睦郎
ふらんす堂

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高木敏次『傍らの男』

2010-08-16 00:00:00 | 詩集
高木敏次『傍らの男』(思潮社、2010年07月25日発行)

 高岡修『幻語空間』が「教科書」逸脱しない詩だとすれば、高木敏次『傍らの男』は「教科書」を逸脱する詩である。詩集である。タイトルこそ『傍らの男』と「教科書」風になっているが、一篇一篇の詩を読んでいくと、「教科書」を完全に逸脱している。
 そして、その逸脱の仕方において、この詩集は今年いちばんの詩集である。今年読まなければならない、とびぬけた一冊である。

 どこが「教科書」を逸脱しているか。「居場所」という作品で読んでみる。その全行。

寝たふりをして
あきれば
起きたふりをすればいい
私が
目をこすりながらベッドを見おろしている
おはよう
呼びかけると
水を飲んで
にせものの話になって
私が新しいシャツに着替えるまで
動けない
互いの眼が見開いて
ほかに居場所はなかったという
もっていくのは
リンゴにミルク
と言ったので
冷蔵庫から出してやる
私は何かかなしそうだったが
命がけで立っているようでもあった
次の日
私は               
ことわりも言わず
出かけてしまった

 どこが「教科書」を逸脱しているか。4、5行目が「逸脱」している。「私が/目をこすりながらベッドを見おろしている」。とくに4行目が「逸脱」している。「教科書」なら、この「私が」は「男が」である。詩集のタイトルにあるように、それは「傍らの男」である。「私」ではなく、「他者」である。「私」のなかにひそむ「他者」。あるいは「本当の私」ともいう存在である。
 ひとはだれでも「私」自身のなかに、「私ではない存在」を感じている。それをはっきり見つめるために「男(あるいは、彼)」という「第三人称」をつかってあらわす。客観化しようとする。これが、これまでの「教科書」のスタイルである。
 高木は、これを「私が」と書く。「私」と区別しないのだ。「他者」としてあつかわないのだ。「私」のなかには「私ではない存在」などいない。「私」のなかにいるのは「私」でしかない。だから、「私が」と書く。
 これだけなら、しかし、高木の書いている「私」を「傍らの男」と置き換えて、「教科書」に還元できるかもしれない。(高岡修のしているのは、その「傍らの男」を「男」ではなく、別の存在、「比喩」に置き換え、「教科書」化するという詩法である。)ところが、高木は、無意識に(たぶん)、「教科書」に還元できない「私」を書いてしまう。
 そこが、とてもおもしろい。
 最後の方である。

私は何かかなしそうだったが

 「私が」とは書けないのだ。「私は」と書いてしまうのだ。格助詞が「が」から「は」にかわってしまう。ここに高木の新しさ、複雑さ、おもしろさがある。

 最初にもどる形で言いなおそう。「私が/目をこすりながらベッドを見おろしている」というのは「私」が見ている風景である。「私」は「私が/目をこすりながらベッドを見おろしている」のを見ているのである。4、5行目の前後には、「私は」と「見ている」が省略されているのである。
 10、11行目の「私が新しいシャツに着替えるまで/動けない」は「私が新しいシャツに着替えるまで/(私は)動けない」のである。あらゆる行に「私は」が実は隠れている。その「私は」は完全に高木と一体であり、高木の「思想(肉体)」そのものであるから、高木にとって書く必要のないものである。だから省略し、書かなければならない「傍らの男」としての「私」を「私が」という形で書いている。
 それが、「私は何かかなしそうだったが」で崩れてしまう。高木の「文法」が崩れてしまう。崩れてしまっても、書くしかない。この「誤謬」のなかに、高木の新しさ、私たちが読まなければならないすべてがある。
 「私は何かかなしそうだったが」はほんとうは「私が何かかなしそうだったが」と書かなければならない。(高木の文法を強引に押し通すなら。)ところが、書けない。「私」を「傍らの男」に置き換えても、「傍らの男が何かかなしそうだったが」とは書きにくい。自然に(無意識に)「傍らの男は何かかなしそうだったが」になってしまうだろう。
 格助詞が「が」から「は」になってしまう。
 なぜだろう。
 「かなしい」ということばが、格助詞を支配してしまうのだ。「私はかなしい」とは言えても「私がかなしい」とは言えない。「かなしい」、感情は「他人」にはなれないのだ。(これは、逆の言い方をすれば、たとえばだれかの悲しみを感じてしまえば、そのだれかはすでに「他人」ではなく、「私」とぴったりと一体化した存在である、ということになる。こういうことは、私たちはしばしば体験する。)
 「私のなかの他人」(私のなかの、ほんとうの私)というものは、感情を基本に見つめなおせば存在しない。何かを感じるとき「私は」という言い方しかできない。
 この「私は」にひきずられて、最後、

私は
ことわりも言わず
出かけてしまった

 という表現になる。この「私は」は「私が」でいいはずである。「私が」でなければならない。けれど、「私は何かかなしそうだったが」と書いたために、そのときの「私は」が、ことばを支配してしまうのである。
 この「誤謬」。
 
 けれど、それはほんとうに「誤謬」と言い切れるのか。「教科書文法」に固執すれば「誤謬」になる。(このときの「教科書」はすでに、高木によって書き換えられた「教科書」ではあるのだけれど……。)
 しかし、「誤謬」を通り越して、次のようにも考えることができる。
 出かけていったのは、「私が」というときの「私」ではなく、つまり「傍らの男」ではなく、その「私(傍らの男)」を見ていた「私」である。そして、それを「私が」(傍らの男が)見ている--そう考えることができる。
 省略されつづけた「私は」と、書き表されつづけた「私が」の、「私」そのものが入れ代わってしまったのだ、と考えることができる。
 なぜ簡単に入れ代わることができるか。それは「私のなかの私」は「他人」ではないからである。あくまで「私」だからである。
 
 「私」のなかに「他人」などいない。「私」のなかには「私」しかいない。それでも、その「私のなかの私」を「私」は、まるで「他人」のようにして「私が」と書き表すことができる。
 「他人」(傍らの男)と書かずに「私」と書きながら、私は、私の感じている違和感のようなものを書くことができる。

 この詩集をきちんと読むためには、私(谷内)自身の文法を一度叩き壊さなければならない。そういう手ごわい詩集である。興味深い詩集である。
 高木の詩集に関する感想は簡単には書けない--ではなく、永遠に書けないかもしれない。でも、書いてみたい。書かずにはいられない。書かなければいけない。そういう気持ちにさせられる。書かないことには、日本語が動いていかない。

 突然あらわれた詩人(私にとって突然ということで、すでに著名な詩人かもしれない)に、深く深く深く感謝したい。私は眼が非常に悪いのだが、文字が読めるあいだに、この詩集に出合えたことは、絶対に忘れない。

(アマゾン・コムでは検索できません。講読の際は、直接、思潮社に申し込んだ方が早いと思います。)

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高橋睦郎『百枕』(15)

2010-08-15 12:29:09 | 高橋睦郎『百枕』
高橋睦郎『百枕』(15)(書肆山田りぶるどるしおる、2010年07月10日発行)

 「枕詞--九月」。「枕」がだんだんほんものの「枕」から「意味」としての「枕」にかわってきた。「もの」から「ことば」にかわってきた。
 エッセイで高橋は、「枕詞」を

詞(ことば)の枕で土地の神霊と共寝(きょうしん)して、詩(ポエジー)の夢天に遊ぶ

と定義している。「共寝」を「ともね」ではなく「きょうしん」と読ませている。あ、寝てしまわないんだ、同じ振動(バイブレーション)で(共振することで)、高まっていくんだ、遊ぶんだ--と、おもしろく感じた。そうだねえ、「共寝」って「寝る」ことが目的じゃないんだから……。
 ことばはおもしろいもんだなあ、と思った。

 句は、いつものことだが最初の句がおもしろい。

あしひきの長ガ夜を寝(い)ねず胸ナ枕

 「胸枕」は腹這いになって、そのままでは鼻・口が塞がって息ができないので、胸の下に枕をおいている状態をいうのだろう。長い夜、寝つかれずに体のむきをあれこれ変えてみる、そうしてますます眠れなくなる--その長い時間が、「胸枕」という具体的なことばではっきりしてくる。
 「胸枕」という「枕」はないかもしれないが、いまなら、「抱き枕」がある。やはり寝つかれないときにつかうんだけれど、そういうものも句に登場するとおもしろいかな、とも思った。
 というのは。

たまくしげ箱枕にはりんの玉

 という句があって、その「りんの玉」を高橋は次のように説明している。

「りんの玉」は閨房具で鳩の卵大の二玉から成り、中実の一玉で中空の一玉を突けば、りんりんと美音を発する、という。

 あ、よくわからない。どうやってつかうの? 高橋はつかったことがあるの? 末尾の「という」という伝聞形式の表現が気になる。
 「共寝」が「寝る」ことを指さないように、「枕」はどうしても「閨房」とつながる。「枕詞」という「ことば(文学)」に視点を誘っておいて、その実、こっそりセックスをしのばせる。その感じが、すけべこころを刺激する。好奇心を刺激する。そして、好奇心が働くからこそ、ことばを読む気になるんだなあ、とも思った。
 


 反句は、折口信夫に捧げた一句。

歌つひに枕序詞落葉焚

 それに先立って、

歌の生命の中心はむしろ序詞や枕詞の虚にあって、それらに飾られている実のぶぶんにあるのではない、

 と高橋は書いている。
 この実より虚という、ことばにかける思い--それは「枕詞」だけではなく、あらゆる表現に共通するものかもしれない。ことばがことばと出合う--そのとき、「共寝」するものがある。
 「共寝」が詩なのだ。

百人一首
高橋 睦郎
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高岡修『幻語空間』

2010-08-15 00:00:00 | 詩集
高岡修『幻語空間』(思潮社、2010年07月25日発行)

 高岡修という詩人は私には謎のひとつである。ことばに抵抗感がない。ことばに触れて、いやだなあと思いながらもひかれてしまうという瞬間がない。このことばについていけば、きっと自分が自分でなくなる--そう思う瞬間がない。逆に、このことばを叩き壊してしまいたい。叩き壊すことで、私自身も壊れてしまうかもしれないが、どうなってもいいから叩き壊すのだ、叩き壊さなければならない--と、思うことがない。
 別な言い方をすると、ことばから「いま」を感じることがない。常に「過去」を感じる。しかもその「過去」は、いま、ここにあらわれてきたら、「いま」がメチャメチャになってしまうという「秘密」(隠し事)ではなく、きちんと整理され、教科書に記録されているという「過去」なのだ。
 あ、そうなのだ。いま、「教科書」ということばを書いて、ふいに気がついたが、高岡修の詩は「教科書」なのである。それが謎なのだ。なぜ、ことばが、こんなふうに「詩」の「教科書」になってしまうのか--それがわからない。
 高岡修という詩人を知ったのはいつのことだったか。30年前か。25年前か。柴田基典が鹿児島に高岡修という詩人がいると教えてくれた。何篇か紹介してくれた。それを読んだとき、わからないことが何一つ書かれていないということに驚いた。そのときの印象がまざまざとよみがえった。
 わからないことが何一つ書かれていない--というのは、「教科書」の目的からすると変かもしれない。「教科書」は知らないことをわかるようにするための「手引き」だからである。けれど、その「教科書」が読んでわからないものだったら「教科書」にならない。わかっていることだけを教えるのが学校であり、そのわかっていることだけを書いてあるのが「教科書」である。
 高岡修の詩は、ほんとうに「教科書」である。たとえば、「鮃」。

為すべきことはついにやってこない
彼は見る
手だけが
吊り皮にぶら下がっている
今日の
郷愁

 何もすることがない。何をしていいかわからない。そういうとき、ひとは何をすることができるか。石川啄木は「働けど働けど……」とことばをつないで、じっと「手を見る」と書いたが、そんなふうに「教科書」には、ひとは無為に時間をやりすごすとき、「手を見る」のだと書いてある。その「教科書」にしたがって、高岡の「彼」もまた手を見る。もちろん啄木ではないから、その手は掌ではない。「彼」の手は吊り革をつかんでいる。ただし、そこには積極的な意味はない。啄木のように「じっと」手を見るというような意識の凝縮はない。手は吊り革をつかんでいるのではなく、「ぶら下がっている」。為すべきことなどない、つかむという積極的な反応はそこには起きない。無為のまま、「ぶら下がっている」。それが、「今日」という日の、一日のしめくくり。「今日」という一日はまだ終わっていないが、そうやって「彼」は「今日」を閉じる。そして、それを「過去」として眺める。そのときの、こころの悲しみ。「郷愁」。
 「今日」と「郷愁」が韻を踏むことを含め、ここに書かれているのは「教科書」の詩の書き方どおりのことばである。
 絶対に「教科書」を逸脱しない。正確に、どこまでもどこまでも、まるで「教科書」の複製をつくりつづけるかのように、ことばは正確に動く。
 詩のつづき。

縊死体の記憶が
波のように打ち返している
きのうの


 吊り革に「ぶら下がる」手は、「彼」自身である。きのうもまた、同じように、なすこともなく一日の終わりに吊り革にぶら下がりながら帰宅したのだ。その「手」はまるで、吊り革で首をつっている「人間」である。
 吊り革-ぶら下がる(手)、首吊りの輪の形、吊るされた輪、そこにぶら下がる死んだ「人間」の象徴としての「手」。「縊死体」ということばは「教科書」のことばの運動を完全に正確に伝えている。
 「波のように」という「比喩」がここに登場するのは、この詩が「鮃」だからである。引用する際省略したが、1連目は「都市という名の/混濁した海/その底の泥のなかにも/一匹の鮃はいる」とはじまっている。「波」という比喩をここでもちだすことで、首を吊った死体と「鮃」、「海」は重なり合うのである。
 それと同じように、「今日」が「きのう」と重なり合うのである。「今日」は「きのう」と同じ、やはり「彼」にとっては無為の一日、そのなかでこころだけがたどりつけない過去とをもとめて「郷愁」を生きている。
 完璧過ぎる語法としての詩、「教科書」どおりの詩。

 高岡の個性は、完璧な「教科書」という個性である。--そうわかっても、私には、以前として高岡修は謎である。
 「教科書」とは違ったことをしたいとは思わないのだろうか。
 奇妙な言い方になるが、こどもは「してはいけません」と言われると、それをしないではいられない。「うんこ」「ちんぽ」「きんたま」というような汚いことばはつかってはいけません、と言われるからこそつかいたい。いじめてはいけません、といわれるからこそ、いじめたい。カエルとか小鳥とか、小さないのちを遊びのために殺してはいけません、と言われるからこそ石をぶつけて殺してみたくなる。そして、そういうことをしてしまったあとで、やっと何かに気がつく。気がつくためには暴走しなければならないのだ。
 詩は、乱暴なこどもではない--のかもしれない。
 けれど、私は、乱暴なこどもとしてのことばに出会いたい。どんなふうにして「教科書」から逸脱していけるのか、その結果、ことばはどんな自由を手に入れることができるか--そういうことを知りたくて詩を読んでいる。


幻語空間
高岡 修
思潮社

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高橋睦郎『百枕』(14)

2010-08-14 12:11:14 | 高橋睦郎『百枕』
高橋睦郎『百枕』(14)(書肆山田りぶるどるしおる、2010年07月10日発行)

 「歌枕--八月」。

今朝の秋ゆかしきものに歌枕

 暑い盛りは旅はつらい。ひんやりとした空気。秋の気配。そんな瞬間、たしかに旅に出たいと思う。旅に出なくても、旅に出ることを思う。「ゆかし」は文字通り「行く」から派生して、「行きたい」、行って、知りたい、見たい、聞きたい、なんだろうなあ。どことはいわず「歌枕」とおさえる。この、こころの動きがいいなあ。

歌枕訪ねん靴は白きをば

 「歌枕」を訪ねる--は、単にある土地へ行くのではなく、その土地とともにある「ことば」(文学)を訪ねるということなのか。「白」は、自分のこころを真っ白にしてということだろうけれど、この矛盾が楽しい。「歌枕」を知っているけれど、知らないこととして旅をする。知っていることを突き抜けて、知らないところへ行く。生きなおす。
 これは高橋の俳句そのものの姿勢かもしれない。
 反句で、次のようにい書いている。

この枕歌ひいださば秋の声

 「歌枕」が「枕」と「歌」にはなれ、はなれることで結びついている。これが高橋の「歌枕」へのいちばんの思いだろう。



歌枕始白河あきのかぜ

 この句も好きだ。
 ここにも「白」。「白」は「河」にかかっているのだが、「あきのかぜ」が白く感じられる。ことばは不思議だ。



百人一首
高橋 睦郎
ピエ・ブックス

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瀬尾育生「存在のつたなさへ書き送られたこと」

2010-08-14 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
瀬尾育生「存在のつたなさへ書き送られたこと」(「現代詩手帖」2010年08月号)

 瀬尾育生の詩は美しい音楽だ。何が書いてあるか、その意味・内容は気にならない--というより、音楽として美しいので、意味・内容について考えようという気にはならない。というようなことを書いてしまうと、音楽をしている人にも、瀬尾に対しても失礼なことなんだろうなあ。
 私は音楽をまったく知らない。ある交響曲のあらわしている意味・内容というものがあるのかもしれないが、そういうものを考えたことがない。ただ聞いて、あ、こっちの方がきょうの気分にあっている。きょうはこの曲は聴きたくないなあ。そんなことを思うだけである。
 詩に対しても、実は、私の感じ方はほとんと音楽と同じで、きょうはこういうことばはついていけないなあ、きょうはこっちの方を読みたい、という具合に思うだけなのだが、ただ、音楽に比べると、少しだけ「屁理屈」をいいたくなる。だれにも通用しないたわごとかもしれない。けれども、私は私の考えたことをいいたくなる。詩の場合は。
 で、瀬尾育生の詩。「存在のつたなさへ書き送られたこと」。

文字が消失して視野の片隅に暗い発光として残っている。そこから滲み広がる光の水の比喩(フネ)を新しい人が漕いでくる。掌の人に聴従したあとで、その語らなかったことのほうへ少しだけ迷ってゆけば、声紋がいちめんに額に降ってくる道に出られる。

 意味・内容を説明しろといわれたら私にはできない。できないのだけれど、ことばが動く瞬間瞬間の、音とリズムが、とても読みやすい。実際に声に出して読んでいるわけではないので、音読したとき読みやすいかどうかはわからないが、黙読したとき聞こえる音が美しい。黙読したとき、しらずに動いてしまう喉が、とても気持ちがいい。
 なぜだろう。
 ひとつには、ことばがいくつもの文脈をていねいに生きているからだ。高貝弘也とは別な文体だが、「古典」をきちんと踏まえている。
 「視野」「片隅」「暗い」「発光」。ここには「文脈」がある。ある意味では、それは「常套句」にもつながるのだけれど、ある程度こういうものを踏まえないと、ことばはリズムに乗れない。瀬尾には「文脈」の蓄積がある。
 そして、その一連の「文脈」の前後の、「消失して」と「残っている」の対比。漢字塾ごと、和語(?)の対比。もし、「残っている」ではなく「残存している」だったなら。「意味」は同じでも、リズムが違ってくる。「……して」はすでに「発光して」という形でつかわれており、「残存している」と重ねてしまうと、とたんに読みにくくなる。(私は音読はしないので、実際に声に出したときどうなるかはわからないが、黙読するかぎりでは、「発光して残存している」ではつまずいてしまう。「発光して残っている」以外に表現はありえない。)
 そうしてみると「消失して」とほんとうに対比しているのは「発光して」かもしれない。「発光して」は「存在する」をすでに含んでいる。存在せずに発光することはできないからである。
 そういうことを踏まえて、「残っている」ということばは「念押し」としてつかわれているのだ。
 こういうことばの操作も「文脈」である。日本語がつちかってきた「文脈」である。瀬尾は意識しているかどうかわからない。また、こういうことは意識して書けるかどうかわからないが、無意識に、つまり自然に書いてしまう力が瀬尾のもっている「文脈力」というものなのだ。
 次の1行は、もっとその力が鮮明にあらわれている。

そこから滲み広がる光の水の比喩(フネ)を新しい人が漕いでくる。

 「光の水」。こういうものは、存在しない。「光」か「水」しか存在しない。けれど、瀬尾はそれを強引に結びつけ、すぐに「比喩」ということばをつけくわえる。「光の水」は「実在」ではなく「比喩」である。「比喩」とはもともといまここにないものを借りて、いまここにあるものの「本質(?)」を浮かび上がらせる方法である。いまここにないことが「比喩」の基本である。だから「比喩」といわれれば、その瞬間に「光の水」は存在してしまう。
 瀬尾はそれにさらに「フネ」というルビをふる。「比喩」ということば自体が「比喩」になってしまう。いままで存在しなかったものが一気に噴出してくる。
 そうしておいて、
 「新しい人」。
 この「新しい」の強さ。それは「正しさ」と錯覚してしまう。いままで存在しなかった「比喩」の世界にあらわれるのは、「新しい」ひとでなければならない。
 こうしたことばの動きが「文脈」というものである。
 あとは、もう、瀬尾マジック。瀬尾の魔法の世界である。瀬尾のことばの自在な運動にしたがって揺さぶられながら旅するだけである。
 瀬尾マジックのなかでも、とくにびっくりするのは、そのあとに出てくる「聴従した」という動詞である。こんなことばがあるかどうかしらない。(辞書はひいていない。)ことばがあるかどうかしらないが、そして、ないとするなら、それは「文脈」(古典)を逸脱していることになるのだが、その逸脱したものがなぜか、すぐにわかってしまう。「聴き・従った」と理解できてしまう。もちろん私の「理解」が「誤解」であり、「錯覚」かもしれないが、そう受け止めてしまう。
 そういう「あいまい」な世界を、ゆっくりたどりなおすようにして「その人の語らなかったことのほうへ少しだけ迷ってゆけば」という「漢語(熟語)」とは無縁のうねるようなことばが動いていく。このリズムの変化にも、私はまいってしまう。酔ってしまう。
 追いかけるようにして、今度は「声紋」という「漢語」が登場する。

 瀬尾が書いていることに、「意味」はあるかもしれない。「内容」はきっとあるのだろう。けれど、私は、その「意味」「内容」ではなく、ことばが動いていくときのリズム、とくに漢語(熟語)と和語のリズムに酔ってしまう。それはもしかすると、漢字とひらがなとで書かれる日本語の形にあっているということかもしれない。
 日本語は漢字とひらがなで書かれる。そこには異質のものがまじりあい、衝突し合い、同時に融合している。
 その表記、書き方--それが、どこかで瀬尾の表現の基本になっている。ひとつの「文体」になっている。その文体を、そして、私はとても自然だと感じ、その自然な動きに誘われるということかもしれない。

 瀬尾に、私は、そういう感覚的な力を感じる。瀬尾のことばは、とても感覚的である。そしてその感覚は、日本語の「文脈」に深く通じている感覚であると感じる。それゆえに、読みやすい、と感じる。




詩的間伐―対話2002‐2009
稲川 方人,瀬尾 育生
思潮社

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高橋睦郎『百枕』(13)

2010-08-13 12:00:00 | 高橋睦郎『百枕』
高橋睦郎『百枕』(13)(書肆山田りぶるどるしおる、2010年07月10日発行)

 「枕文字--七月」。

上五をば枕といふぞ明易き

枕文字五(いつ)に悩みて明易き

 「上五」。枕詞の--というより、書きはじめのといった方がいいのかもしれない。書きはじめはどんな文学でも難しい。短歌・俳句のように短い詩はなおさらだ。真剣に悩み、考えあぐねているうちに夜も明ける。
 高橋も書き出し、あるいは冒頭の句が書けずに、夜を明かしてしまうということがあったのだろうか。
 と、考えていたら、同じようなことを高橋がエッセイで書いている。

枕が据わらなければ、よい夢は見られない道理で、そのために短夜を考え明かすということは、俊成にも、定家にも、芭蕉にも、蕉門の誰彼にもあったろう。

 あ、さすが高橋。私は高橋もそうなのだろうかと想像したが、高橋が想像するのは俊成、定家、芭蕉なのか。
 そんなところに高橋の、ことばの高みが、ふいにあらわれる。びっくりというのではなく、こういう古典を相手にことばを動かすのが高橋なんだなあ、とあらためて感動する。私は古典を気にせず、ただ高橋の書いたことばを「いま」「ここ」に引きつけて読むけれど、高橋のことばは古典のなかへ帰しながら(古典をくぐりながら)、読むべきものなんだろうなあ。
 でも、私には、そんな素養がない。
 だから、思いつくまま、即興感想をつづける。

うとましきものに酸き髪汗枕

 「酸き」(すい)。「うとましい」。たしかに、そういうことばはある。つかったことはある。でも、急には思いつかない。そういう静かで強いことばにであうと、日本語はいいもんだなあ、と思う。まねしたくなる。こういうことばを探して、俳句を書くのは面白いだろうなあ、と思う。
 ところで、この「髪」の、「汗」の匂い--それはだれのものだろう。いつのものだろう。自分のものではなく、きのうの夜のセックスの相手の残したものだろう。(あるいはふたりの交じり合ったものか。)そのときは「うとましい」ではなかったもの、親密なあかしだったものが「うとましい」に変わる。短夜なのに……。
 この嗅覚の変化と短夜が交錯するところに、厳しい人間観察の(自己観察の)目を感じる。

山宿は先づもてなしの籠枕

 「もてなし」。なるほど、もてなしというのは、たしかにそういうものだ。特別な何かを用意するのではなく、いまあるもので何ができるか、そのできることの最良のことをする。美しいことばだと思う。



 反句は、

百物語一話枕に髪梳いて

 「四谷怪談」を踏まえた句。
 夏、暑い(今年は特に猛烈だ)。それをしのぐための、一工夫。ここでも、高橋が触れるのは文学である。ことばである。
 そのことが、ちょっとおもしろい。





詩人の食卓―mensa poetae
高橋 睦郎
平凡社

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チャールズ・チャプリン監督「ライムライト」(★★★)

2010-08-13 01:41:53 | 午前十時の映画祭
監督 チャールズ・チャプリン 出演 チャールズ・チャプリン、クレア・ブルーム

 私はこの映画はあまり好きではない。ことばが多すぎる。また、長すぎる。
 いちばん好きなシーンは、ノミのサーカスのシーンである。実際のサーカスでやってうけるかどうかはわからないが、映画では楽しい。ノミを追うチャプリンの目の演技がはっきりわかるからだ。私だけの印象かもしれないけれど、私には、チャプリンの目は、ノミを見ていない。もともといないのだから見えるはずはないのだが、それでも見えていると思い演技をするのが、ふつうの俳優の演技だと思う。チャプリンは、そうではない。最初から目を見せるために演技をしている。ノミを見せるための演技ではなく、目を見せるためにノミの存在を利用している。他の動きもそうである。ノミがいるから、そんなふうに動くのではない。チャプリンが演じている動きそのものを見せるために、架空のノミがひっぱりだされている。そんなふうに見える。
 「役」を見せたいのではない。チャプリンという「肉体」を見せたいのだ。こういう姿勢は、私は嫌いではない。役者らしくていいなあ、芸人らしくていいなあ、と思う。「役」そのものは、「役」でしかない。
 ラストシーンも、わりと気に入っている。チャプリンが死ぬ。舞台の上では、クレア・ブルームが踊りつづけている。チャプリンが死ぬ(死んだ)ということを、クレア・ブルームは知っている。知っているけれど踊ることをやめない。その芸人魂、芸人根性のようなものが、なんだか気持ちがいい。チャプリンが芸人に伝えたいのは、そういうことだろうと思う。何があっても動いてしまう「肉体」、「肉体」を見せつづけるという姿勢。「肉体」を見せたい、というのが役者の(芸人の)欲望である。その欲望を貫くこと--それが美しい。観客が見ている「肉体」を演じつづけるのではなく、自分の「肉体」をさらしつづけるのだ。
 観客というのは単純である。クレア・ブルームが踊るのをやめ、死んでいくチャプリンに駆け寄るのを見れば、その瞬間に、クレア・ブルームの演じている「役」など忘れ、現実に起きている「物語」の方へ一気にのめりこむ。架空の芝居よりも現実の方がはるかに好奇心を刺激するからである。そのとき、観客は役者の「肉体」など見ない。そこで実際に起きている「こと」を見てしまう。役者の「肉体」は消えてしまうのだ。
 これでは役者の意味(存在価値)がなくなる。
 だから、クレア・ブルームは、死んでゆくチャプリンに駆け寄りなどはしないのである。そんなことをしないのが役者(芸人、パフォーマー)であることを学んだからだ。
 別な視点から言いなおそう。
 チャプリンがドラムの上に落ちて動けなくなる。そのままでは死ぬだけだとわかっていても、舞台に出て何か言う。それは芸人として観客に対して責任を持つという見方もあると思うが(そういう見方の方が多いと思うが)、私はそうではなく、芸人というのは死につつある(動けない)という「肉体」さえ、見せたいのだと思う。
 こういう「本能」のようなものが噴出する瞬間が、私は好きである。こういう「本能」が噴出する瞬間というのは「本物」という感じがする。この「本能」は私のもっている「本能」とは無縁である。私などは、痛いときは痛いと騒ぎまくる本能しかもっていない。だからこそ、私を超越する「本能」を生きているひとを見ると引きつけられる。好きになる。すごいものだと思う。
 考えてみれば、役者というのは変な存在である。それはチャプリンも実感していたのだと思う。だからこそ、映画のなかに、とても強いことばが出てくる。「血は嫌いだが、血は私の肉体のなかを流れている」。それが生きている、ということなのだ。
 あ、なんだか、映画の感想という感じがしないね。書きながら、そう思う。こういう感想しか書けないのは、この映画が心底好きではない、という証拠である。などと、もってまわった言い方になったが、実際、私はこの映画がなぜ「名作」といわれるのかさっぱりわからないのだ。「キッド」の方がはるかにおもしろいのに……。でも「キッド」は「午前十時の映画祭」のなかには入っていない。



 少し補足(?)すると……。
 この映画でのチャプリンの目はなんだかすごい。私は「人間」を感じない。「役者」を感じる。入っていけない。多くの人間がもっている「感情の交流」というか、やわらかみ、弱みをもっていない。完璧に「自立」している。
 「こころの一部」というより「肉体の一部」。
 チャプリンは「こころ」を見せるのではなく、「肉体」を見せる。それは「目」においても同じ。その強靱さが、私は怖いのである。

                         (「午前十時の映画祭」27本目)


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江代充「語調のために」

2010-08-13 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
江代充「語調のために」(「現代詩手帖」2010年08月号)

 江代充「語調のために」は4篇の詩から構成されている。4篇の構成によって何かを語ろうとしているのかもしれないが、私の関心はそこにはない。江代のことばには、独特のリズムがある。それだけが私の関心である。
 4篇の冒頭は「生」という作品。

山かげの石垣が雨に吹かれたように湿り
また灰色になり
そこに生え拡がる苔のような草の姉妹が
石に正しく取り付いてこちらにも濃く見渡せるのは
眠らないこの地を通して朝がくること
わずかな苦しみのわざを通し
ここでは街中よりも早く日の暮れることを
ともないをもとめて行く人に知らせるためだろうか

 この詩の「主語」はどれだろうか。何だろうか。「こちら(私の方?)」が形式主語であり、意味上の主語は「苔のような草(略)が/(略)見渡せるのは」だろうか。そして述語は「知らせるためだろうか」になるのだろうか。「草が見渡せるのは……知らせるためである」という構文のなかに、この詩はおさまるのだろうか。
 しかし、そんなふうに仮定すると、とても奇妙なことが起きる。
 「知らせる」対象は「ともない(同伴者?)をもとめていく人に」ということになるが、「何を」知らせるのかがよくわからない。「……」に相当する部分が、よくわからない。矛盾した2行になってしまう。「朝がくること(を)」「早く日が暮れることを」。どちらを知らせたいのか、朝についてなのか、日暮れについてなのか、読みながら悩んでしまう。
 この矛盾を解決(?)する方法、視点はひとつある。「どちらか」ではなく「両方」なのだ。「朝がくること(を)」知らせ、また「日が暮れることを」知らせる。
 「両方」ということばはここには書かれていないが、たぶん、江代のキーワードは「両方」なのである。「両方」を江代のつかっていることばで言いなおせば「また」になるのだが……。2行目の「また灰色になり」の「また」。
 併存。並列。これは、そんなふうにも言い換えることができる。

山かげの石垣が雨に吹かれたように湿り
また灰色になり

 石垣が「湿り」、また「灰色にな」る。「湿る」と「灰色になる」は、同列ではない。別な別な現象である。その別個な現象を「また」ということばで繋ぎ、併存させる。並列させる。そうすることで、「湿る」と「灰色になる」の「両方」を、あたかも同列にみせかける。
 別個のものが境界をなくし、流動する。
 天沢退二郎が江代の作品を高く評価しているのをどこかで読んだ記憶があるが、天沢にとって江代が天才に見えるとしたら、この別個のものが(ほんらい交じり合わないものが)、流動するという現象が、天沢の果てない夢、言語の夢だからである。
 「別個」のものが境界をなくし、流動するという現象は、3行目、

そこに生え拡がる苔のような草の姉妹が

 で、強烈にあらわれる。
 「苔のような草」なら、ふつうの表現である。でも「草の姉妹」とは? 「姉妹」とは人間をさす。草に姉妹などない。ぜったいにまじりあわないものが、ここでは平然といっしょになって動いている。流動している。
 先行する行との関係を見ると、江代が何を書きたいのか、さっぱりわからなくなる。
 「石垣」が「湿る」様子を書きたいのか、「灰色」になった様子を書きたいのか、そこに生えている「苔のような草」を書きたいのか、その草が「姉妹」であるということを書きたいのか。
 「両方」ではなく、「すべて」なのだ。「また」でつなぎつづける「すべて」を書きたいのだ。「両方」というのは「また」でつないだときの最少単位であり、そこを出発点にして、江代は「また」「また」「また」と世界を拡大していくのだ。「また」を省略しながら。
 この運動は、ある意味では「ひとり連歌」である。1行目を「また」ということばで新たに展開する。次の行も「また」でつなぐ。ただし、この「また」は省略する。省略しているが、1行目は「また」このように押し広げることができる。そして2行目は「また」次のようにも展開できる。3行目も「また」……。
 そのとき問題となるのは、常に直前の行だけである。(あるときは1行のなかでも同じようなことが起き、直前のことばだけが問題となる。)2行前のことばは捨てられれる。2行前のことばをすてさりながら、「また」ということばで、「直前の行」と「いまここにある行」の「両方」をしっかりと結びつける。
 2行前のことば(1行目のことば)を捨て去るためには、3行目のことばは、2行前のことば(1行目のことば)とは異質でなければならない。「苔のような草」では、石垣、湿りと着きすぎる。だから「姉妹」が必要だったのだ。
 「草の姉妹」はしかし、「草」ではありえない。もう「姉妹」である。「見渡せる」(見わたしている)のは草ではなく「姉妹」という「両方」である。「ひとり」と「ひと」である。
 ここまで「流動」してしまうと、あとは、もうただ「土石流」のように、何もかもが自己存在の輪郭をかかえたまま、世界をえぐるようにして流れる。見たことのない地肌がそこに出現する。
 書かれていない「また」を挟んで、先行する行と次の行が向き合っている。
 江代のことばは、何行もつづけて読むのではなく、常に2行単位で、とぎれとぎれに読むしかないのである。

 「また」は、「間/他」かもしれない。
 1行目と2行目の「間」。それをぴったりと埋めるのではなく「他」として存在させる。そこには、1行目がもっている世界とは違うもの、他のものが割り込み、「間」を「間」として存在させる。それは「魔/多」となって世界を被っていくかもしれない。
 あ、こんなふうに書いていくと、なんだか、そのまま天沢退二郎の詩について書いているような気持ちになってくる。



隅角 ものかくひと
江代 充
思潮社

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高橋睦郎『百枕』(12)

2010-08-12 12:12:12 | 高橋睦郎『百枕』
高橋睦郎『百枕』(12)(書肆山田りぶるどるしおる、2010年07月10日発行)

 「梅雨枕--六月」。

さみだれの徒然(つれづれ)枕天上見て

 天上を見ているのは、何をするともなく横になっている「わたし」かもしれない。たぶん、そう読むのが俳句なのだと思うけれど、「枕」そのものが天上を見ていると思ってもいいかもしれない。
 だれもつかわない枕--取り残されて、そのまま天上を見ている。それは、そのまま万年床の感じにつながる。

この宿の昔聞かせてよ黴まくら

 雨に降られて宿に泊まってみれば、枕が黴臭い。だれもつかっていないのだ。つかわれずにほうっておかれた枕。いったいここはどんな宿? 枕に問いかけている。
 前の句の「わたし」は天上を見ていたかもしれないが、この句によって、その「わたし」は消え去り、ほんとうに「枕」だけが天上を見ているにかわっていく。
 この句が前の句を変えたのか、それとも前の句に変わる要素があって、それがこの句を生み出したのか。どちらかわからないけれど、ことばのなかにある何かがことばの運動を変えていく、ということがあると思う。
 連歌は、その運動を複数の人間で楽しむものだと思う。高橋は、それをひとりでやっている--これは前にも書いたことだが、この展開を見ると、また、そう思う。
 この句は「宿」だが、「黴まくら」はそのままに、次の句では「場」が変わる。

此処はしも蛞蝓長屋梅雨枕

 なめくじの出そうな(あるいはなめくじがはいまわっている)長屋。うっとうしい梅雨の感じがなめくじによって強調される。

 この「なめくじ長屋」から、エッセイは志ん生の『なめくじ長屋』という自伝へと進んでいく。高橋は一時期落語に夢中になっていた時代があって、志ん生が好きだと書いている。高橋のことばは、万葉の「肉体」も落語の「肉体」(口語の「肉体」)も内部に抱え込んでいることになる。
 そして、口語の「肉体」と関係するかどうか、よくわからないけれど……。

 反句、

閉てきつて黴を飼ふとや枕人

 「閉てきつて」。「しめきって」ではなく「たてきって」。読んだ瞬間、あ、なつかしいことばだ、と感じた。戸の開け閉めをぞんざいにすると、私は両親に「ちゃんと戸をたてて」と叱られた。昔は「戸をたてる(閉てる)」といった。
 この「たてる」は何だろう。
 いいかげんな連想で、まちがっているかもしれないが、考えてみた。
 「たてる」は「立てる」。もともと戸は敷居と桟のあいだに立っているように見えるけれど、昔はそんな具合ではなかったかもしれない。開けるときは、ちょっと横にずらして置いておく。倒れて邪魔にならないように立てるにしても長い方を下にして(つまり、戸を横にして)壁際に置いておいたかもしれない。こどものとき、納屋や何かで、そんなふうに「戸」(戸のかわりの板)を扱ったことがある。戸はたしかに「立てる」ものなのだ。
 そしてその「立てる」は「立つ」であり、「断つ」に通じるかもしれない。戸を内部と外部のあいだに立てる、というのは、外部を「断つ」ということである。「ちゃんと戸をたてて」は、ちゃんと戸を立てて、外が内部にはいってこないように「断ち切って」ということなのかもしれない。
 もし、そうであるなら。
 そして、「閉てきつて」の句の人が志ん生であり、そこに描かれている「場」が「なめくじ長屋」であるなら。
 志ん生は「外部」を断ち切って「落語」のことばの世界にとじこもり、彼自身の「芸」を磨いたということになるかもしれない。ことばがいきいき動いていれば、それでいい。なめくじがはいまわっていようがいまいが、どうでもいい。だけではなく、そこでもしなめくじがはいまわっているなら、そのことさえも、ことばとして動かしていかなければならない。なめくじがはいまわる暮らしを、どんなふうに「笑い」につながることばにできるか--もしかしたら、その人は、そんなことも考えたかもしれない。
 ふと、ことばに熱中して、それ以外のものは何も気にしない人間が見えてきた。「閉めきつて」だったら、たぶん、こんなことは考えなかっただろうと思う。

 




百人一首―恋する宮廷 (中公新書)
高橋 睦郎
中央公論新社

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