金融そして時々山

山好き金融マン(OB)のブログ
最近アマゾンKindleから「インフレ時代の人生設計術」という本を出版しました。

デジタル一眼レフ、米国でも好調

2006年12月06日 | 写真

昨今紅葉の名所等を歩くと、高級デジタル一眼レフを持った写真愛好家の方が多くなっている。特徴的なことは女性の写真愛好家が増えていること。中高年の女性だけでなく若い女性の方で一眼レフを持っている人が増えているのが特徴だと思う。デジタル一眼レフは今までになかったカメラファンを作り出しているのかもしれない。とすればデジタル一眼レフブームは息が長いと思うので株式投資の観点からはキャノンなどはまだまだ上値を追うと思う。

デジタル一眼レフブームは日本だけでなく米国でも起きているということがウオール・ストリート・ジャーナル紙に出ていた。カメラ関係の英単語を整理するチャンスでもあるのでちょっとポイントをまとめてみた。

  • アマチュア写真家がハイエンドのデジタルカメラを争って買っているので写真業界の予期せぬブームが起きている。今や半数以上のアメリカの家庭はフイルムカメラからポケットタイプのデジタルカメラに乗り換えているが、多くの人は更にデジタル一眼レフを買おうとしている。

アマチュア写真家をShutterbugということが分かった。また愛好家のことをBuffと言い、Camera buffでカメラ愛好家である。英語はこの様に同義語を使うので複雑だが慣れるとこれもまた楽しくなってくる。一眼レフはSingle lens reflex、SLRと省略する。Pixelはピクセル、画素のこと。

  • インフォトレンドという調査会社によるとデジタル一眼レフの北米での販売は今年5割増の18億ドルに達する見込みだ。これは全デジタルカメラの5分の1を一眼レフが占めることを意味する。インフォトレンドは一眼レフカメラのこの様な成長は誰も予測しなかったと言う。
  • 一眼レフが成長している背景には消費者が撮影時にシャッターの遅れ(ラグ)があるコンパクトカメラに不満を感じていることがある。またベビーブーマー達の一部の者にとってデジタル一眼レフは1970年代、80年代に楽しんだフイルム一眼レフ時代のカメラ趣味に回帰する手段になっている。
  • 6年前にプロの写真家がデジタル一眼レフへ移行し始めた時、業界のマーケッティング担当者は消費者は500ドル以上の商品には興味をしめさないと予測した。従ってイーストマン・コダックは2005年にプロ向けデジタル一眼レフの販売を停止したのである。
  • デジタル一眼レフブームでカメラメーカーの利益も改善ている。キャノンはカメラ部門の税引前利益が38%増加した。ニコンは過去最高の半期利益はデジタル一眼レフの販売がキーになったと言っている。デジタル一眼レフの平均販売価格は942ドルでこれはカメラメーカーと販売会社に大きな利益をもたらしている。

以下記事には何故デジタル一眼レフの方がコンパクトカメラよりきれいな映像が撮れるかといった説明をかなり詳しく書いているが、これは省略しよう。つまり知っている人は知っている話で知らない人にはほとんど興味がない話だろうから。

ポイントはデジタル一眼レフが米国で新しいカメラファンを作り出す可能性が高いということだ。記事によると伝統的には米国でカメラを趣味にしている人は3%だが、業界の専門家はデジタル一眼レフが写真愛好者の数を増やすことについて楽観的ななっているという。つまりデジタル一眼レフはフイルム一眼レフと違い、試し撮りが簡単なので写真撮影術を学ぶ上で革命的で新しいファンを増やす可能性が高いというのだ。

米国の消費者がデジタル一眼レフ愛好家になることは誠に歓迎するべきことである。まずデジタル一眼レフが量産されることでカメラ本体や交換レンズ、アクセサリーのコストが下がることである。これはカメラ愛好者として歓迎するべきことである。

次に投資家の眼から見ると、キャノンのように日本を代表する企業の業績が堅調で株価見通しが明るいことは喜ばしい。

ちょっと余談になるが気になるのは私が愛用しているオリンパスの一眼レフのことだ。オリンパスの一眼レフは海外では高い評価を受けているのだが、日本では商品ラインアップ力不足等から不当に評価が低い様だ。しかしズイコーレンズ等他社に負けない技術力を持っているのだから早く、ハイアマチュア向けにE-1の後継機種を発売して欲しいものである。今がチャンスなのだから。頑張れ、オリンパス。

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藤沢周平の「一茶」を読む

2006年12月06日 | うんちく・小ネタ

怪我をして暫らく運動が出来ないので、本を読むことが多くなった。勢い日頃余り読みたいと思っていなかった本にまで手を出すことになる。その類の本の中に藤沢周平の「一茶」があった。私はかなりの周平ファンなのだがどうも「一茶」には長い間食指が動かなかった。つまり一茶という人を私は好きでなかったのである。そして藤沢周平の「一茶」を読み終えた後もやはり一茶には余り好感を持つことが出来ないのである。

その理由は何か?それは遺産の均等分割に拘り義弟の仙六と長い争いを続ける執念深さや仙六のわずかな心の隙に乗ずるあざとさが好きになれないのだ。

生涯に作った句が2万句というのも評価の分かれるところだろう。文庫本「一茶」の解説の中で藤田昌司氏(当時 時事通信社・文化部長)は「一茶は生涯に約二万句を詠んだといわれる。・・・凡句、駄作が大半という説があるが・・・一茶の場合、一句一句が秀作か凡作かは、余り問題ではない。重要なのは二万句を越える句を詠んだということである」と言い、「どんなものでも、句にならざるはなし、という俳句人生だったのだ」と結論付ける。

では藤田氏は生涯一千句しか作らなかった芭蕉をどう評価するのだろうか?

藤沢周平は「木からしや地びたに暮るる辻うたい」「霜がれや鍋の墨かく小傾城」の二句を最も好きな句としてあげる。「霜がれ・・・」の句は芭蕉の「ひとつ家に遊女もねたり萩と月」と比べれば人生の底辺に生きる人間へのよりそい方がわかるであろうという。

それはそうかもしれない。しかし私は一茶が本当の友情や師弟愛に恵まれることのない人で恩人夏目成美(せいび)の死に際しても追悼の句一つ残していないことに人間としての歪みを見るのである。

芭蕉が死に目に間に合わなくてその墓前で詠んだ句「塚も動け わがなく声は秋の風」という一句を見るが良い。そこには宿命の前にいかんともしがたい人間の悲しみに対する深い哀惜があり、慟哭する芭蕉の涙が我々の心を洗う。

俳句について甚だ浅学な私が云々するのはどうかと思うが、好き嫌いを論じることが許されるなら私は一茶のように地べたに近い句は余り好きにはなれない。その点芭蕉には武士という出自の違いもあるだろうが、高みを目指すきりりとしたところと哲学があり私を魅了する。というのが今の時点の感想だ。しかし人は変わる。年老いてもし中風に悩む様になれば一茶に惹かれる日があるかもしれない。できればそれは避けたいものだが。

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