金融そして時々山

山好き金融マン(OB)のブログ
最近アマゾンKindleから「インフレ時代の人生設計術」という本を出版しました。

晩秋の国分寺を歩く(2)

2006年12月03日 | まち歩き

「姿見の池」を出てから日立の中央研究所の横を通って国分寺駅南口に向かった。この中央研究所は春秋年2回各一日だけ一般公開をしているとホームページhttp://www.hqrd.hitachi.co.jp/crl/garden/main.htmに出ていた。来春都合が合えば寄ってみたいところだ。さて次の訪問予定先は駅前の殿ヶ谷戸(とのがやと)庭園だが、昼時なのでその向かい側のカフェ「ほんやら洞」で昼食にする。ワイフはスパゲティで私はチキンカレー。この店のオーナーはシンガーソングライターの中山ラビさんということだが、この道に疎い私は中山さんを知らないので特段の感銘もなく、裸電球がむき出しの店内でゆっくりランチを頂いた。私は規格化されたチェーン店よりもこのように古い感じの店の方が落ち着くので好きである。

さて殿ヶ谷戸庭園だが紅葉は今が盛りである。

Tonogayato2 殿ヶ谷戸庭園は満鉄副総裁の江口定條氏が別邸として設けたものを昭和4年に三菱財閥の岩崎彦弥太氏が買い取ったもので、昭和49年に東京都が買収するまで岩崎氏の別邸として利用されていたものだ。

因みに東京都は9つの都立庭園を持っているが、私の記憶が正しければその内の4つが岩崎家の手を経て都立公園になっている。すなわち台東区の「旧岩崎邸庭園」、文京区の「六義園」、江東区の「清澄庭園」そしてこの「殿ヶ谷戸庭園」である。前の3つは以前に行ったことがあるが、殿ヶ谷戸庭園は今日始めての訪問である。

1.8万㎡弱の公園はそれ程広くはないが、国分寺崖線のへりにあり公園内に結構高低差があり公園を広く見せている。

Tonogayato

庭園内では中高年の写真愛好家が盛んに紅葉の写真を撮っている。デジタル一眼レフを使っている人も結構多い。デジタル一眼レフは中高年の良い趣味になりつつあるのだろう。

殿ヶ谷戸庭園を後にして国分寺跡へお鷹道沿いに散歩する。途中大きな長屋門を持った古い屋敷が幾つかあるが表札は「本多」である。後ほどインターネットで調べたところ江戸時代に国分寺村の名主が本多家で天保年間には本多良助氏なる人物がいることが分った。ただ現時点ではこれ以上この本多家については分らなかった。いずれ調べてみたいところだ。

さて国分寺の前の楼門を写真に撮る。ここも撮影ポイントのようでアマチュアカメラマンが何人も撮影タイミングを計っていた。

Kokubunjimon

ここから少し西北に行き石段を登ると国分寺薬師堂がある。この御本尊の薬師如来は国の重要文化財だが今は御尊顔を拝することはできない。秋に年一回の御開帳があるということだ。やむなく蔀越しに少し長いお祈りを捧げる。「早く肋骨が元通りにつながり健康になります様に」・・・何とも現金なお願いである。国分寺からは西国分寺駅に行く方が近いのでそちらに向かう。元気であれば何程の散歩でもないのだが、肋骨が折れていたり太股の打撲痛が残っているので段々筋肉がこわばり疲れが出てくるのが分った。弱った体には中々チャレンジングが国分寺巡りの半日だった。

下の地図は私が歩いたルートであるが、西国分寺駅発でこちらに戻るプランもこの地域の散策では面白いものだろう。

Map

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晩秋の国分寺を歩く(1)

2006年12月03日 | まち歩き

今日(12月2日土曜日)は快晴でしかも風がなく温かい。先週立山で被った怪我もかなり治ったので、ワイフと紅葉見物がてら国分寺を歩くことにする。ワイフは「怪我で暫く山にもスキーにもゴルフにも行けないからその分お金が余るんじゃないの。美味しいものでも食べようよ」と言う。これに直接反論はしていないが、今回の滑落事故で失った山の装備は結構大きい。まず山スキーの板とビンディング・ストックを失った。これは合わせて10万円以上。他にズボンのアウターがズタズタになってしまった。これが3万円。また高度計付腕時計も飛んでしまった。これも3万円。これに治療代など加えると軽く20万円にはなるが、余り金目の話をするのもセコイので黙っている。ただし都心に出かけるよりは多摩地区で散歩をしている方が安上がりなので今日は国分寺界隈を歩くことにした。

まず西武新宿線の花小金井駅まで自転車で行きそれから西武線とJR線を乗り継ぎ中央線の西国分寺駅に行く。時間は大体10時半頃だ。西国分寺の近くには「姿見(すがたみ)の池」がある。写真は姿見の池で撮ったコサギだ。今日は標準レンズしか持って行っていないので鳥のきれいな写真を撮るのは無理だ。

Kosagi さて池の横の説明書きには「姿見の池」にはかって付近の湧水や恋ヶ窪用水が流れ込み清水を湛えていたとある。姿見の名の由来は鎌倉時代、恋ヶ窪が鎌倉街道の宿場町であった頃、遊女達が朝な夕なに自らの姿を映して見ていたという言い伝えによる。源平合戦の頃、遊女の夙妻(あさづま)太夫と坂東武者の畠山重忠(しげただ)が恋に落ちた。ところが太夫に熱を上げるもう一人の男がいて、その男は重忠が西国の戦で討ち死にしたと嘘をつき、太夫にあきらめさせようとしたが、深く悲しんだ太夫は姿見の池に身を投げてしまったという伝承がある。これが「恋ヶ窪」の地名の由来になっているという説もある。

ここで余談になるが、私は平安末期に最高位の遊女を太夫と呼んだかどうか疑問に感じている。太夫(たゆう)は本来「大夫(たいふ)」だっと考えられる。大夫とは朝廷で位階が四位、五位特に五位の称として定着してきた。これは中納言のことを唐風に黄門と呼ぶのと同様なものである。さて中世末期になると惣村(そうそん)の長老達は多額の上納金を朝廷に納めて五位の位をもらうことがあった。森鴎外の小説で有名な山椒太夫も五位の位を貰った地方の有力者だった訳だ。

さらに江戸時代になるとある集団の第一人者を「大夫」と称するようになる。例えば能の観世大夫である。これが遊女の世界にも浸透し最高位のものを太夫と称した様だ。

余談の方が長くなったが、何時夙妻太夫の伝説が出来たかは知らないが彼女が生前「太夫」と呼ばれることはなかっただろうというのが私の結論である。

雑談はさて置き姿見の池は昭和40年代に埋め立てられたが、平成10年に昔の池をいめーじして整備されたということだ。引き続き武蔵野の里山風景の回復と保全に努めてほしいものである。

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