「こんなに変わった歴史教科書」(新潮文庫 山本博文氏他著)は、簡単に読めて「歴史上の事実は時々に変わっていく」ということを改めて概観する点では面白い本だ。
著者によると「歴史学会で新説が提出され、それが大方の了解を得て通説になるには30年位かかる」ということだ。従って昭和47年(1972年)に出された教科書と平成18年(2006年)に出された教科書を較べると色々な点で違いが出ている。
例えば1575年に織田・徳川連合軍が武田の騎馬軍団を3千挺の鉄砲で破ったとされる長篠の戦いについて昭和の教科書は「織田・徳川の連合軍の鉄砲隊は、武田の騎馬隊をねらいうって、大勝利を得た」と織田・徳川連合軍の「火力運用」を高く評価している。
ところが平成の教科書は「鉄砲を有効に使った戦法により、甲斐の武田氏を長篠の戦いで破り」とトーンダウンしている。「こんなに変わった歴史教科書」によると。近年の研究成果により「鉄砲三千挺、三段撃ち」「武田騎馬隊」のいずれも存在しなかったとの説が有力になったことが原因とある。
長篠の戦いにおける「三千挺、三段撃ち」を定説化したのは、江戸時代初期に小瀬甫庵が書いた「甫庵信長記」である。「甫庵信長記」は資料的価値が高いといわれている太田牛一の「信長公記」を脚色したものだ。一般読者を想定して織田・徳川連合軍の勝利と武田軍の敗北を「鉄砲の集中的運用による騎馬兵団の壊走」という単純図式化したものといえるだろう。
「こんなに変わった歴史教科書」は、統制のとれた騎馬隊が敵陣に突撃する「武田騎馬隊」のような騎馬隊は存在しなかったと述べている。騎馬隊の戦闘部隊に占める割合は1割程度(武田軍が特に多かったという訳ではない)だから、長篠の戦いに参加した騎馬武者は1千名そこそこだったろう。また当時の日本の馬は体高が130cm程度。ポニーの部類に入る小さな馬で人が騎乗したままの戦闘は困難だった、とある。
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とこんな具合に「新しい学説」は「古い学説」を切り捨てていく。正確に言うと「古い学説」は学説ではなく、一般大衆に分かりやすい説明を行なった俗説というべきかもしれないが。
長篠の戦いでは武田軍1万2千人がほぼ壊滅し、織田・徳川連合軍も6千名の死者を出したという説がある。もっとも直接の戦闘による死者は1千名程度で武田軍の背走時に死者が増えたという説もあり、正確なところは私には分からない。ただ東軍西軍合わせて20万人が参加したといわれる関が原の合戦の死者が6-8千人という説があるから長篠の戦いで2万人の死者が出たというのは多過ぎるようだ。
というようなことで次から次と疑問がわいてくるのが、歴史上の事実という奴だ。歴史上の事実には後世の人が、出来事を分かりやすく説明したり、その時々の歴史観を正当化するために「事実」とされるものが往々にして含まれる。でも30年もすると書き換えられる可能性があるというから、程ほどの理解でも良いか?