今週初め親しい友人からお母さんが亡くなったという連絡を頂いた。ご母堂の享年は98歳だと伺っていた。何か気の利いた一言をお悔やみの言葉に添えようか?と考えてみたが、私の考えを押し付けても共感を得られないかもしれないと思って「ご母堂様のご冥福をお祈りします」という短いメールを送るにとどめた。
お悔やみの言葉は紋切り型で良いだろうと思う。
アメリカで働いていたとき、部下の親の訃報に接することがあった。そういうときの挨拶はきまり文句がある。一つはI am so sorry.(お気の毒様です)とかYou have my sympathy(お悔みもうしあげます)だ。もう少し長いお悔やみの言葉としてはYou have my depest condolence for the loss of such a wonderful person(素晴らしい方のお亡くなりに心よりお悔やみ申し上げます)という言葉も一般的だ。長くては英語に不慣れな人にはすこし難しいかもしれないが、お悔やみの言葉は朗々と申し上げるものではない。たどたどしくそして最後はうやむやでもかえって気持ちは通じるというものだ。
さて本題に戻ると私の母も99歳でこの世を去ったが、この年まで生きると見送る側の未練はかなり薄くなる。「長い間よく頑張ったね。もうゆっくりお休みください」というのが正直な気持ちだった。ただこれは私の個人的な感情で、世の中には自分の親にはとにかく長く生きて欲しいと思う人も多いと思う。従って安易に自分の気持ちを押し付けるようなお悔やみの言葉は避けた方が無難だろう。
ただし一般的に考えると、天寿を全うする人が増えたことと宗教心の薄らぎは比例していると思う。公衆衛生や医療が未発達な時代では、天寿を全うする人が少なかった。だから死んでいく人やその家族には「なぜ自分は天寿を全うすることなく死ななければならないのか?そして来世はどうなるのか?」という説明が死の恐怖を緩和するために必要だった。
その説明を担ったのが宗教だった。
しかし医療の発達などで人の寿命は伸びて、天寿つまり生命体としての寿命の限界に近づきつつある。こうなると死んでいく人やその家族に無理なく死を受け入れることができるようになりつつあると私は考えている。
だから終末期や死後に本人や残された家族の死の恐怖を緩和するための宗教の役割は著しく低下した。
では天寿を全うして死にゆく人はみな従容として死を受け容れているのだろうか?
詳しい調査をしたわけではないが、自分の限られた経験をもとに話をすれば、充実した人生を送った人は、静かに自分の最後を受け容れることが多いと思う。つまり天寿を全うしたと、本人と家族が納得するには、物理的な寿命の長さに加え、人生の充実度つまり質の高さが必要だと思う。
量と質の面で満足できる人生を送った人には、エールを送りたいのだが、
まだそのような言葉は広く普及していないようなので、他人に使う場合は要注意かもしれない。
さて天寿を全うする人が増えたことで、宗教心が薄らいだと書いたが、より正確には、葬式宗教に対する宗教心が薄らいだというべきだった。
つまり人生の質を高めるような宗教あるいは哲学、つまり有意義な人生とは何か?ということを教える先人の叡智を教え学ぶ仕組みは、今こそ必要なのだろうと私は考えている。