15世紀前半、明の宦官だった鄭和は2万人の兵員を率いて7回にわたりインド洋(あるいはさらにその先)まで航海したという。しかし、その記録はほとんど失われてしまった。番組は彼の航海の秘密を探るもの。
大航海を可能にした技術の1番目は、乾ドックによる大型船の建造。
巨大なカラ堀で船を組み立て、完成するとそこに水を引き入れて進水させる。現代に通じる優れた造船術があったのですね。これで約1世紀後のコロンブスよりも数倍大きい木造帆船を造ることが可能になった。
2番めの技術はアラブ人から学んだ天測術。
簡単な測量器具のようでした。板切れに一定の長さの紐がついている。この紐の端を口にくわえるのではないでしょうか。紐をいっぱいに伸ばすとほぼ腕が伸びるようでした。この先で板を立て、水平線と北極星の角度を測ることが出来るようになっていたようです。こうして緯度を知ることができた。
3番めは食糧の確保。
長い航海を可能にした栄養補給の秘訣はモヤシと豆腐だといっていました。つまり大豆を大量に積み込み、一部は水に浸して芽生えさせることでビタミンCの補給源とし、別の一部は豆腐に加工してタンパク質を確保したと思われます。
ほかにもあるようですが、印象に残ったのはこれくらい。
番組の最後で強調していたのは、鄭和は各地に遠征しても朝貢貿易を行なうだけで、征服者とはならなかったこと。これは後にインド洋にやってきたバスコ・ダ・ガマなど西洋の大航海時代の英雄たちとは大違い。
違いの理由のひとつは宗教にありそうです。鄭和は中国におけるイスラム教徒。部下には道教や仏教を信じる者が多く、宗教の違いを超えて船員たちの融和を図る必要があった。ポルトガルをはじめとする西洋の征服者たちはキリスト教の布教という目的も帯びており、異教徒たちを屈服させようとしていたと思われます。現地人を蛮人扱いすることも多かったでしょう。
このあたり、西洋人による大航海時代の性格について考え直さざるを得ない部分でした。
鄭和が開いたインド洋への道は、遠征費が膨大で国家財政を逼迫するということで、2度と試みられることのないよう、資料のほとんどが役人の手で焼かれてしまったそうです。何ともったいない。
役人が圧倒的に力を持つ中国の伝統が、こういう場面では悪い方向に出たと思いました。その点、西洋の教会やアカデミズムは記録を保管する役割を果たしてきた。ここでは西洋のやり方のほうが良かったようです。
鄭和の功績をその後の中国が引継ぎ、インド洋からさらに大西洋へと貿易圏を広げていれば、後の西洋諸国による植民地建設はなかったかもしれません。そんなことを思う時、鄭和の航海には大きな可能性が秘められていたのに……と残念な気持ちが湧いてなりませんでした。